2024年08月17日

幼稚園だより あとがき

幼稚園便り あとがき

 私事、日本聖公会法規により、2021年3月末をもって定年退職となり、園長の任も解かれました。

 1986年に聖公会神学院を卒業した私は、(当時の言い方で)伝道師として大宮聖愛教会と教務所に勤務しつつ、大宮聖愛幼稚園主事としての働きを任ぜられたのが幼稚園との関わりの始めでした。

 私は、聖職志願する前に教育関係機関で仕事をしていたことや教員免許を取得していたこともあり、1986年4月より日立聖アンデレ教会勤務と併せ二葉幼稚園園長に任ぜられました。

 以来、教役者として教会で聖務に与ると共に教会併設の幼稚園で園長として勤務して参りました。費やした時間やエネルギーは教会の教役者としての働きより園長としての働きの方がずっと大きかったと言えます。それは、同時に私にとって大きな恵みでした。

 勤務したそれぞれの幼稚園で、園長として每月の「園便り」の巻頭文を記すことも私にとって大きな仕事の一つでした。

 毎月、月末に翌月の原稿を係の先生に渡してその拙文が載った「園便り」が配布されるという流れがお決まりの事務的な仕事になりそうなときに、職員会で私の文章についてのコメントを述べてくれる先生や、毎朝のお迎えで玄関前に立つ私に「園便り」の感想を話してくださるお母さんに励まされながら、「園便り」への執筆を自分の大切な勤めの一つにすることができました。

 「園便り」の文章の背景にはそれぞれの時代や園の事情もあり、このような形で公にする意味は何なのかと自問自答することもありましたが、或る時代の或る幼稚園の保護者の方々に向けて当時の園長が発したメッセージの記録として受け取っていただけると幸いです。

 なお、ここに掲載した文章では、発行時の明らかな誤字誤変換や文章の不整合などについては、加除修正を致しております。

 「幼稚園だより」への掲載は、20213月号で完結です。お付き合いくださってありがとうございました。

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前を向いて(愛恩便り2021年3月)

前を向いて

わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。  (ローマの信徒への手紙 5:3-4)

  

 もう40~50年も前のことですが、私の恩師がよく「今の若い人たちは悩み方を知らないのよね。」、「どうせ悩むなら上手に悩みなさい。」と言っておられました。私もそのように言われる対象のひとりでした。

 私たちが生きていく時に、自分の思い通りにならないことや好ましいとは思えない状況に置かれることは沢山あります。いや、生きていくということは様々な課題に次々と出会い、それにどのように向き合うかということなのでしょう。順風満帆の人生は、たまたま良い風向きを授かっただけのことで、振り返ってみれば自分の力を少しも出さずに過ごしてしまったことを悔やむことになることもあり得るのです。

 子育てで大切なことは、安全安心の温室に子どもを置くことではなく、それぞれに置かれた環境の中で、一人ひとりがしっかり自分として生きていく力を育てるように支援することです。今、教育界で流行の言葉を用いれば、その力を「非認知的能力」と言います。

 かつて、ある研修会の小グループで話し合っているとき、若い先生が「クラスに落ち着かない子どもがいて、担任の私は力不足でなかなかクラスがまとまらなくて・・・。私は悩んで胃腸炎を起こして2日間寝込んでお休みしてしまいました。同僚にも重ねて迷惑をかけてしまい、申し訳なく思っています。」と、ご自身の悩みを話してくれたことがありました。

 私は、その若い先生に、少し冗談も交えて、次のように伝えました。

 「胃腸炎を起こすほどに悩むのは、あなたが一所懸命に自分の仕事に取り組んでいるからこそのこと。もしあなたの2日間の欠勤を本当に迷惑だという同僚がいたら、『私は胃腸炎を起こすほど真剣に保育しているのよ。あなたも自分の保育についてそれほど悩んだことあるの?』って言ってやりなさい。あなたが自分に不足していると感じているその力を付けたいのなら、具体的に何をどう勉強すれば良いのかを調べて勉強し、実際の場面ではどのようなアドヴァイスを得たいのかをはっきりさせて上司や同僚に尋ねて、目の前の課題を一つずつ越えていくことをお勧めします。そうする中で、あなたは保育者として力をつけていくでしょう。抱え込んで悩むのではなく、前向きに建設的に悩みましょう。」

 私は、このように生きることが、神さまが与えてくださった人生を自分として豊かに生きることにつながると考えます。その中で経験する試練や苦難は決して悪いことではありません。厳しい状況に置かれても、やがてその時を振り返ってみれば、「あの時のあの試練があったからこそ、今があります。」と感謝する時が必ず来ることを信じて歩んでいきましょう。

 私は、あの研修会でご自身の悩みを語ってくださった若い保育者とその場面を思い出して、あの人は建設的に悩みながら頑張っているだろうかとふと思うことがあります。

 私たち教職員も保護者の方々も、子どもたちと共に、神さまから与えられた大切な自分の人生を建設的に前向きに歩んでいけますように。神さまの御守りと導きをお祈り致します。

posted by 聖ルカ住人 at 04:55| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月16日

育つ力に寄り添う(愛恩便り2021年2月)

育つ力に寄り添う

 わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。( ヨハネの手紙 一 4:12  ) 


 ある時、私が幼稚園の園長であることを知って、次のような相談を持ちかけてきた人がいました。

 「私の子(K君)がもうすぐ3歳になるのですが、今イヤイヤ期の真っ最中で、保育園ですぐに遊具の取り合いになり友だちを叩いてしまうことが増えています。その時の様子を家で聞いても泣き出してしまったりすることが増えてしまって。どうしたら良いですか?」とのことでした。

 私は、実際にK君にお会いしたことがないので、「一般論ですが、」と前置きをして、思いつくことを幾つかお話ししました。

 今の時期のK君は、自分の中に何をしたいのかという思いがしっかり育ってきているからこそ、思い通りにいかないと我を張りたくなっているのでしょう。結果について説諭するより、例えば「K君はその遊具を独りで使おうとしていたんだね。」と、K君の気持ちに寄り添う言葉をかけて、K君が自分の気持ちは理解されているという思いを持ちつつ少しずつ自分で自分を把握する力を付けていくことができるようにすることが一つ目で、これは即効薬ではないけれど一番大切なこと。二つ目に、K君はまだそのような場の対処方法を知らないのだから、K君に「待っててね」「貸してって言ってね」「使って良いか聞いてね」と、その場に相応しく具体的に対処する言葉を簡潔に教えてあげること(まだ3歳にならないK君にとってはまだ難しかったかも・・・)。そして三つ目に、K君が友だちを叩きそうな状況になった時には、先にこちらから「K君、こんな時にも、友だちを叩かないで偉いね。」と声をかけて他の解決方法へ誘導し、更にその結果が成功体験につながるよう見守ること、などを思いつくままにお話ししました。

 数週間後に再度お会いした時に、私はその方から「お陰様で、K君は落ち着いて過ごしています。」と報告を受けましたが、それは私の助言によるのではなく、K君自身の成長力によって次の段階へと進んでいったのでしょう。イヤイヤ期のK君の思いを押さえ付けることもK君の思いをすべて満たしてあげることも好ましいこととは言えません。

 子どもたちは、各家庭や幼稚園で、家族や教職員や友だちと、たくさん心を通わせることによって自分を育てていきます。私たち大人はその過程を喜んだり悩んだりしている中で子どもたちはいつの間にか自分の力で成長していくように思われます。

 私が貢献したのは、助言の中身より、K君の父親があれこれ私を相手に話をすることで、K君に向かう心のゆとりが少し生まれたことだったのかもしれません。

posted by 聖ルカ住人 at 16:37| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

充実した日々のために (愛恩便り2021年1月)

充実した日々のために

 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。(コリントの信徒への手紙一第12章31節) 


 新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

 今年度も残すところ、実質的には2ヶ月半ほどです。子どもたちはこの短い間にも、親しい仲間と遊びを深め、これまで触れ合うことの少なかった仲間と新たに出会い、対人関係の深さと幅を更に広げて成長していきます。

 今号では、子どもたちが充実した第3期を過ごすために、少々具体的なことを記そうと思います。必ずしもすべての人に当てはまる事ではありませんが、皆さんに承知していただくことで、更に充実した幼稚園生活を目指していけると思います。

 一つは、登園時刻のことです。本園は朝9時までに登園することになっていますが、午前9時を登園の目安時間としてではなく、園の登園完了時刻と考えていただきたいということです。園バス通園は別にして、可能であれば、子どもたちの到着時刻を少し早めにしていただけると有り難く思います。早めに登園することは、遊び時間を長く持てるだけではなく、その日の教材や遊具の占有の仕方にまで影響を与える場合があります。多くの場合、早めに登園した方が遊びの内容にも充実感を持てることは容易に想像できるでしょう。いつも既に登園している友だちに合流していた子どもが、登園を15分早めたら自分の選択と判断で遊びを展開するようになり、園生活での充実感も明らかに変わった事例もあります。各ご家庭の事情があることは承知しておりますが、できるだけ早めの登園を心がけてください。

 二つ目は、トイレットトレーニングのことです。第3期のこの時期の課題ではないという一面はありますが、お知り合いの小さな子どものいる方々のためにも心に留めていただけると幸いです。人の排尿や排便には体の感覚が伴いますが、大人にとって都合の良い紙オムツは子どもの排尿や排便の感覚とその意識を無頓着にして、その結果、子どもが自分で排泄の括約筋をコントロールできるようになる時期を遅らせます。子どもが遊びに集中している最中に粗相をした時、その始末のために遊びの展開が途切れることにもつながります。愛恩幼稚園では、低年齢クラス保護者の方々に紙オムツからパンツ着用への移行をお願いしましたが、それも上記のような理由からです。園生活を充実させていこうとする時、排尿排便の自立は大切な課題になります。子どもたちが自分でトイレに行けることは、園の管理上の都合ではなく、本人の活動の集中と生活の充実のためにも大切な課題なのです。寒い季節ではありますが、子どもたちの生活の充実のためにも、ぜひ取り組んでくださいますように。

 生活習慣の確立や十分な食事と睡眠の確保などは、それ自体は生活目的にならない一面もありますが、豊かで充実した生活の「枠」として大切な課題です。その「枠」があってこそ、子どもたちはその中でエネルギーを集中しまた開放していきます。

 充実した幼稚園生活を作り上げていくために、ご理解とご協力をお願いします。改めて、本年もどうぞよろしくお願い致します。

posted by 聖ルカ住人 at 16:32| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月11日

命のパンイエス  ヨハネによる福音書第6章37-51(B年特定14)

命のパンイエス  ヨハネによる福音書第6章3751(B年特定14)  2024.08.11

 主イエスがお生まれになった時代より約千三百年前のこと、イスラエルの民は四百年以上に渡ってエジプトの地で奴隷になっていました。イスラエルの民は労働の苦しみに呻きました。そしてその呻きは主なる神に届き、神はイスラエルの民をエジプトから救い出す決心をなさいました。神はその指導者としてモーセを選び、モーセがリーダーとなってイスラエルの民をエジプトから連れ出すことができました。イスラエルの民はエジプトの大軍に追い回されながらも奇跡的に紅海を渡りきり、振り返ってみればエジプト軍は海の中に飲み込まれていたのでした。

 しかし、その後イスラエルの民が神が約束してくださったカナンの地に入っていくまでには、実に四十年の年月を費やすことになります。

 当時ラクダで旅をした商売人のキャラバンはエジプトからカナンの地まで2~3週間かかったと考えられています。イスラエルの民が四十年間もシナイ半島を彷徨ったことは、イスラエルの民にとってどんなに長い放浪生活の経験になったことでしょう。その四十年の放浪が終わりこれからカナンの地に入ろうとする前に、モーセはイスラエルの民を集め、イスラエルの民にもう一度これまでのイスラエルの歩みを思い起こさせ、これからの生活の基盤を確認するように促したのでした。モーセはとりわけ、主なる神と交わした約束、つまり十戒を中心とした契約の再確認を民全体に促し、その契約を更新させたのです。カナンの地には土着の異教の神々を祀る先住民がいます。これからカナンの地に定住すると、イスラエルの民の生活形態も変化するでしょう。それでも、イスラエルの民がこれまで荒れ野での生活を導いて下さり契約を結んだ神を唯一としてそこから離れることがないように、イスラエルの民はもう一度十戒を中心とした契約を確認する必要があったのです。

 申命記第8章2節にはこう記されています。

 「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうか知ろうとされた。」

 イスラエルの民が荒れ野の四十年を振り返ってみると、幾度も神の御心から離れてしまったことがありました。荒れ野の放浪生活が始まると、イスラエルの民は、モーセがシナイ山で神と契約を結んでいる間に、アロンに見える神を求めて、金の小牛の像を創り出してしまうような過ちを犯してしまいました。

 荒れ野の生活を通してイスラエルの民に明らかになってくるのは、たとえ自分を外から束縛する事柄から解き放たれたとしても(エジプトでの奴隷状態から解放されたとしても)、それだけでは本当に自由を得て生きているとは言えないということでした。エジプトからの解放によって自由を得るだけでは、それが直ぐに真の命を生きることにつながるわけではないことを心に留めねばなりません。私たちも、本当の自由を生きるということがいかに難しいことであるかを折に触れて味わっているのではないでしょうか。

 イスラエルの民は四十年に渡り荒れ野で放浪生活が続きます。定住の生活をして穀物や果物の収穫を上げることなどできません。そのようなイスラエルの民を導いて下さるのは神ご自身であり、天からマナを降らせ飢えを凌ぐことができるようにして下さいました。でもこうした生活が毎日続くと神がマナを与えてくださる恵みと神の思いを忘れ、不満を募らせるのです。

 そのようにしてまでも主なる神が敢えてイスラエルの民を荒れ野で40年にも渡って放浪の生活をさせのは、彼らが自分の心の内に何があるのか理解し、神の御心を求めて生きる民になるように訓練なさるためでした。

 このことを、申命記第83節で「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きることを知らせるためであった」と言っています。人は口から入る食べ物によって生理的に命を保つだけでは本当に生きていることにはならず、主なる神の言葉によって魂を養い育むことによってこの世に命を与えられた意味と価値が消えないものとされることを聖書は教えています。

 「命」について考える時、私はよく思い出すことがあります。それは、私が神学生だったときに、同級生の高橋宏幸現主教がある先輩聖職に会うとその人が「よう、生きているかい?」と声をかけてくると言っていたことです。この「生きているかい」という言葉は、生物としての命があるという意味以上の深い意味が含まれています。ギリシャ語の「命」という言葉も、それと同じように、神によって生きることを意味づけられる「ζωη」という言葉と、生物としての生命を意味する「βιοs」(バイオテクノロジー、バイオリズム等の言葉に反映している)という言葉があります。

 人の命(ビオス)が生理的に安全に保たれることの必要性は、神ご自身がイスラエルの民にマンナを降らせたことで示しておられます。イスラエルの民が荒れ野を放浪する間、神ご自身が彼らをエジプトから導き出した責任を取って、神はイスラエルの民が生きていくのに必要なマナを降らせて守りの徴としましたが、それは、単にイスラエルの民の生理的な命(ビオス)を保つことだけを目的としたのではなく、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る言葉によって生きるようになるため」、つまり民の命(ゾーエー)を養うことを目的にしておられたのです。

 私たちも、神を知らず罪の奴隷であった時(つまり私たちが自分のゾーエーを知らず、意識できなかった時)に、神に召し出されて主イエスに出会いました。主なる神は一方的に私たちを選び召し出してくださいました。

そして、主なる神が旧約の民に荒れ野でマナを与えられたように、神は私たちに命のパンである主イエスを与えて下さったのです。主イエスは私たち信仰者にとって「命のパン」です。主イエスは、神の愛の徴であり、この世の荒れ野を生きる私たちの糧となり、私たちが主イエスと一つであることの徴となるのです。

 主イエスはヨハネによる福音書第648節でこう言っておられます。

 「私は命のパンである。Eγω eιµι ο aρtοs tηs ζωηs.(I am the bread of life.)」

 出エジプトの民は旅の間ずっとマナを与えられましたが、不信仰の故に神を試み、放浪の生活の間に犯した罪の故に、エジプトを脱出した者はヨシュアの他誰も約束の地を踏むことは出来ませんでした。

 でも、まことのパンである主イエスによって養われるものについて、主イエスは、第650節でこう言っておられます。

 「これ(イエス)は、天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。」更に51節で「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」

 初代のクリスチャンは、礼拝の中でこのみ言葉によってパンを裂いて分け合いました。私たちは、主イエスがかつてガリラヤの丘で語られたみ言葉を、復活した主イエスが今ここにいて自ら語ってくださる言葉として受け容れ、復活の主イエスが、今ここで、パンを裂いて分け与えてくださることを信じて、そのパンを受けるのです。そして、それぞれの働きのために派遣されていきます。

 主イエスは、命のパンそのものです。

 主イエスはユダヤの権力者たちにご自身の生命(ビオス)を奪われながらも、主なる神によって与えられる命(ゾーエー)が永遠であることを示し、主イエスによる罪の赦しを信じる私たちにも命(ゾーエー)を与えてくださることを約束してくださいました。

 私たちは、その信仰によって生かされ、命を与えられています。主イエスのみ言葉と御糧に養われ、生きたパンである主イエスによって命を与えられ養われていることを感謝して生かされ導かれています。

 主なる神の養いと導きを受けるためにも、毎主日の礼拝を共に大切にする者でありたいと思います。

posted by 聖ルカ住人 at 16:35| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする