命のパンイエス ヨハネによる福音書第6章37-51(B年特定14) 2024.08.11
主イエスがお生まれになった時代より約千三百年前のこと、イスラエルの民は四百年以上に渡ってエジプトの地で奴隷になっていました。イスラエルの民は労働の苦しみに呻きました。そしてその呻きは主なる神に届き、神はイスラエルの民をエジプトから救い出す決心をなさいました。神はその指導者としてモーセを選び、モーセがリーダーとなってイスラエルの民をエジプトから連れ出すことができました。イスラエルの民はエジプトの大軍に追い回されながらも奇跡的に紅海を渡りきり、振り返ってみればエジプト軍は海の中に飲み込まれていたのでした。
しかし、その後イスラエルの民が神が約束してくださったカナンの地に入っていくまでには、実に四十年の年月を費やすことになります。
当時ラクダで旅をした商売人のキャラバンはエジプトからカナンの地まで2~3週間かかったと考えられています。イスラエルの民が四十年間もシナイ半島を彷徨ったことは、イスラエルの民にとってどんなに長い放浪生活の経験になったことでしょう。その四十年の放浪が終わりこれからカナンの地に入ろうとする前に、モーセはイスラエルの民を集め、イスラエルの民にもう一度これまでのイスラエルの歩みを思い起こさせ、これからの生活の基盤を確認するように促したのでした。モーセはとりわけ、主なる神と交わした約束、つまり十戒を中心とした契約の再確認を民全体に促し、その契約を更新させたのです。カナンの地には土着の異教の神々を祀る先住民がいます。これからカナンの地に定住すると、イスラエルの民の生活形態も変化するでしょう。それでも、イスラエルの民がこれまで荒れ野での生活を導いて下さり契約を結んだ神を唯一としてそこから離れることがないように、イスラエルの民はもう一度十戒を中心とした契約を確認する必要があったのです。
申命記第8章2節にはこう記されています。
「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうか知ろうとされた。」
イスラエルの民が荒れ野の四十年を振り返ってみると、幾度も神の御心から離れてしまったことがありました。荒れ野の放浪生活が始まると、イスラエルの民は、モーセがシナイ山で神と契約を結んでいる間に、アロンに見える神を求めて、金の小牛の像を創り出してしまうような過ちを犯してしまいました。
荒れ野の生活を通してイスラエルの民に明らかになってくるのは、たとえ自分を外から束縛する事柄から解き放たれたとしても(エジプトでの奴隷状態から解放されたとしても)、それだけでは本当に自由を得て生きているとは言えないということでした。エジプトからの解放によって自由を得るだけでは、それが直ぐに真の命を生きることにつながるわけではないことを心に留めねばなりません。私たちも、本当の自由を生きるということがいかに難しいことであるかを折に触れて味わっているのではないでしょうか。
イスラエルの民は四十年に渡り荒れ野で放浪生活が続きます。定住の生活をして穀物や果物の収穫を上げることなどできません。そのようなイスラエルの民を導いて下さるのは神ご自身であり、天からマナを降らせ飢えを凌ぐことができるようにして下さいました。でもこうした生活が毎日続くと神がマナを与えてくださる恵みと神の思いを忘れ、不満を募らせるのです。
そのようにしてまでも主なる神が敢えてイスラエルの民を荒れ野で40年にも渡って放浪の生活をさせのは、彼らが自分の心の内に何があるのか理解し、神の御心を求めて生きる民になるように訓練なさるためでした。
このことを、申命記第8章3節で「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きることを知らせるためであった」と言っています。人は口から入る食べ物によって生理的に命を保つだけでは本当に生きていることにはならず、主なる神の言葉によって魂を養い育むことによってこの世に命を与えられた意味と価値が消えないものとされることを聖書は教えています。
「命」について考える時、私はよく思い出すことがあります。それは、私が神学生だったときに、同級生の高橋宏幸現主教がある先輩聖職に会うとその人が「よう、生きているかい?」と声をかけてくると言っていたことです。この「生きているかい」という言葉は、生物としての命があるという意味以上の深い意味が含まれています。ギリシャ語の「命」という言葉も、それと同じように、神によって生きることを意味づけられる「ζωη」という言葉と、生物としての生命を意味する「βιοs」(バイオテクノロジー、バイオリズム等の言葉に反映している)という言葉があります。
人の命(ビオス)が生理的に安全に保たれることの必要性は、神ご自身がイスラエルの民にマンナを降らせたことで示しておられます。イスラエルの民が荒れ野を放浪する間、神ご自身が彼らをエジプトから導き出した責任を取って、神はイスラエルの民が生きていくのに必要なマナを降らせて守りの徴としましたが、それは、単にイスラエルの民の生理的な命(ビオス)を保つことだけを目的としたのではなく、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る言葉によって生きるようになるため」、つまり民の命(ゾーエー)を養うことを目的にしておられたのです。
私たちも、神を知らず罪の奴隷であった時(つまり私たちが自分のゾーエーを知らず、意識できなかった時)に、神に召し出されて主イエスに出会いました。主なる神は一方的に私たちを選び召し出してくださいました。
そして、主なる神が旧約の民に荒れ野でマナを与えられたように、神は私たちに命のパンである主イエスを与えて下さったのです。主イエスは私たち信仰者にとって「命のパン」です。主イエスは、神の愛の徴であり、この世の荒れ野を生きる私たちの糧となり、私たちが主イエスと一つであることの徴となるのです。
主イエスはヨハネによる福音書第6章48節でこう言っておられます。
「私は命のパンである。Eγω eιµι ο aρtοs tηs ζωηs.(I am the bread of life.)」
出エジプトの民は旅の間ずっとマナを与えられましたが、不信仰の故に神を試み、放浪の生活の間に犯した罪の故に、エジプトを脱出した者はヨシュアの他誰も約束の地を踏むことは出来ませんでした。
でも、まことのパンである主イエスによって養われるものについて、主イエスは、第6章50節でこう言っておられます。
「これ(イエス)は、天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。」更に51節で「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」
初代のクリスチャンは、礼拝の中でこのみ言葉によってパンを裂いて分け合いました。私たちは、主イエスがかつてガリラヤの丘で語られたみ言葉を、復活した主イエスが今ここにいて自ら語ってくださる言葉として受け容れ、復活の主イエスが、今ここで、パンを裂いて分け与えてくださることを信じて、そのパンを受けるのです。そして、それぞれの働きのために派遣されていきます。
主イエスは、命のパンそのものです。
主イエスはユダヤの権力者たちにご自身の生命(ビオス)を奪われながらも、主なる神によって与えられる命(ゾーエー)が永遠であることを示し、主イエスによる罪の赦しを信じる私たちにも命(ゾーエー)を与えてくださることを約束してくださいました。
私たちは、その信仰によって生かされ、命を与えられています。主イエスのみ言葉と御糧に養われ、生きたパンである主イエスによって命を与えられ養われていることを感謝して生かされ導かれています。
主なる神の養いと導きを受けるためにも、毎主日の礼拝を共に大切にする者でありたいと思います。
posted by 聖ルカ住人 at 16:35|
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