2023年12月04日

心を動かす (愛恩便り2016年6月)

心を動かす

   「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録第3章6節)

 標題の「心を動かす」という言葉は、保育の現場でしきりに用いられています。でも、私の心にはこの言葉がなかなか馴染みませんでした。なぜなら、私には「人の心を、物を右から左へ移動するように動かすことなどできない」と思えるからです。そして、「まして他人の心を操作してはいけないし、もし、できたとしてもそうすることは相手に失礼なことであり、不遜なことだ」とも考えるからです。それにもかかわらず、保育の中で、「心を動かす」などという言葉が盛んに用いられるのは、私たち人間の経験の原点に、この「心が動く」ということが欠かせないことだからなのではないでしょうか。

 古代ギリシャには、ソクラテス、プラトンをはじめとして、後世に大きな影響を与えた哲学者たちがたくさんいますが、彼らには「驚きは、知ることの始まり」だったのです。これを違う言葉で言えば、それは自分から意図的に心を操作するということではなく、ある物事に強く心を動かされたり興味を持ったりすることが、その物事を更に探求したり思索を深めていくことの前提である、ということなのではないでしょうか。

 そうであれば、子どもが夢中に遊ぶことや何かに感動して心が沸き立つことは、その後も意欲的に生きていくための大切な要因となると言えるでしょう。

心に感動がなければ、工作も器楽演奏もただの作業になってしまうでしょうし、体を動かす喜びがなければ体操は億劫な労働になってしまうでしょう。また、心の動きを文字や言葉にして表現しようという思いがなければ、文字や豊かな言葉を習得しようとする意欲も高まらないでしょう。

 私は、「心を動かす」という言葉は、そのように子どもたちが何かに興味を持って行動へと促されていろいろとチャレンジしてみたくなる前提としての驚きや感動のことを意味しているのだと思えるようになりました。

 やがて、小学生になると教科の勉強が始まりますが、勉強の前提となる物事への興味や関心、またそれに取り組んでいく中で新しい発見やその感動、つまり「心を動かす」ことがなかったら、せっかくの勉強もあまり実感のない机上の知識を積み上げることにしかならないでしょう。それではあまりにもったいないと思います。

 幼児期は子どもがその後の生きる意欲を培う大切な時でもあり、それは言葉を替えればたくさん「心を動かす」時期でもあります。このように考えてみると、幼少期にたくさん遊び込むことの大切さが分かりますし、心を動かされたこと、つまり感動したことを素直に表現できるようになることの大切さも分かってきます。

 子どもたちが熱中して遊び込み、心に深い感動を経験してくれるようにと願っています。そしてそのことを素直に表現できるように支援することにも心がけていきたいと思います。子どもと共に生きるわたしたち大人が、子どもたちの心の動きを共有する大切な存在であることを再認識して、子どもたちの感動をたくさん引き出し、分かち合えるように努めていきたいと思います。

posted by 聖ルカ住人 at 00:01| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月03日

「目を覚ましていなさい」

「目を覚ましていなさい」 マルコによる福音書第133337     臨節第1主日 (2023.12.03)



 教会暦は新しくなり、主イエスをお迎えする準備の期節になりました。この期節に、私たちは主イエスとお会いするための準備ができているかどうかを振り返ってみましょう。そのことは、逆に言えば、私たちが主イエスに迎え入れていただくのに相応しく生きているかということでもあります。

 主イエスは、今日の聖書日課福音書の中で「目を覚ましていなさい」と言っておられます。今日の聖書日課福音書はマルコによる福音書第1333節から37節で、それほど長くはありません。その中で主イエスは「目を覚ましてる」という言葉を4度用いておられますが、実は33節の「目を覚ましていなさい」と34節、35節、36節の「目を覚ましている」は、原語のギリシャ語では違う言葉が用いられいるのです。

 3度のうち2度は命令形で「目を覚ましていなさい」と訳され、もう一つは「門番に目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」と訳される中での「目を覚ます」は原語ギリシャ語では「γρηγορeω(グレーゴレオー)」という言葉で、「油断なく注意する、覚醒している」という意味あいが強い言葉です。

一方、33節の「目を覚ましていなさい」の方は「aγρυpνeω(アグリュプネオー)眠らないでいる」という言葉です。

 主イエスは、33節で、「眠らないでいる、起きている」ということから話をはじめ、その「眠らないでいる」とは油断なく意識を覚醒している意味であることへと話を深めておられるように読み取れます。

 余談になりますが、歴史上の人物でキリスト教の歴史に深く関わる人の中に幾人かグレゴリウスという名の人がいますが、そのグレゴリウスという名前もこの「目を覚ますγρηγορeω(グレーゴレオー)」が語源になっており、その名の意味は「見張り人、監視人」とでもなるでしょう。

 主イエスはこの箇所で「目を覚ましている」ことの大切さを強調し、この箇所を読む私たちにも「目を覚ましている」ように導きを与えておられます。

 それでは、「目を覚ましている」とはどのような事なのでしょうか。

 私たちが人間らしい営みをするのは「目を覚ましている」時です。私たちは「目を覚ましている」とき、自分で自分の周りに起こっている事を認識し、自分が何を感じたり考えたりしているのかを意識する事ができます。そして、私たちはその状況に自分を関わらせていって、その状況をもっと良いものにしようと努めることも出来ます。私たちが眠っている時には、周りで起こっている事に気づく事は難しく、自分がその出来事や状況にどう感じたり考えたりしているのかを把握することも難しくなります。人が眠っている時には、他の哺乳動物との違い限りなく少ない状態にあると言えるのではないでしょうか。

 このように考えてみると、私たちが「目を覚ましている」ことは、神さまが私たちに与えてくださった「自分の命」をより良く生きるための基本であると思えてきます。「目を覚ましている」とは、「神に対して心が開かれていること」「神の御心が何であるのかということに覚醒していること」であると言えるでしょう。

 旧約聖書創世記の天地創造の物語の中で、神は人を「神の姿に似せて」お創りになったことが記されています。

 私たち人間には、他の動物に比べて「物事や状況を理解する力」があり「物事を創り出していく(創造していく)力」が際立っています。このことは、言い替えれば、人間には高い意識と生産力があるということであり、この性質は、人間が目を覚まして活動している時にこそ、はっきりと表れてくる性質です。私たち人間は、神から与えられた神の似姿としての性質を十分に生かして神の御心をこの世界に現し、他の人々と共に神の御心をこの世界に示していくことが「目を覚ましている」者の生き方であると言えるでしょう。

 今日の福音書は、「その日、その時は、誰も知らない」という言葉で始まっています。主イエスが再びはっきりとそのお姿を取って来てくださる時がいつなのかは誰も知りません。そのような状況の中で私たちは「目を覚ましている」ことを求められています。

 でも、突然起こる可能性のある大きな自然の変動やその災害に怯えながら暮らすことではありません。また、いつ起こるか分からない主イエスの再臨のために自分の生活を放棄して礼拝堂の中にこもることでもありません。私たちは神から与えられた人間としての賜物を生かし、今、私たちの世界に働いておられる神の働きに加わらせていただきながらそこに感謝と賛美を生み出していく事、いつ主イエスにお会いしても喜んで今の自分を見ていただけるように生きることこそ、目を覚ましている者の生き方に相応しいのです。

 例えそれが小さな歩みであっても、神の御心が実現するようにと祈りながら、その歩みを続けていくことが「目を覚ましている」「神に対して心を開いている」者の生き方なのです。

  私たちは、「終わりの時」という言葉にある種の恐れを感じることはないでしょうか。「終わりの時」になぜ恐れを感じるのでしょう。

 現代の豊かな社会の中で生きる人間にとって、今自分が所有している財産や立場を失いたくないという思いが、終わりの時に対する恐れにつながっていると考えられます。また、自分の過去の過ちや大切な人に対する失敗などを悔やむ思いを残していたり心の傷となっていたり、未整理、未解決のままになっているとき、突然に自分の終わりが宣言されたら、そのことに対する恐れや後悔がクローズアップされることも考えられます。今の生活を突然取り上げられてしまうことは、主なる神が無慈悲で横暴であると思うにもなるでしょう。神に対して、また、他者に対して懺悔したい思いをそのままに裁きの座に立たされることは、きっと私たち人間にとって、辛く苦しいことなのではないでしょうか。

 そのような私たちが「神に対して心を開く」のは、自分の財産や名誉を守るためではありません。私たちが主なる神の前に、他ならぬ自分としての存在を認められ、かけがえのない自分が神に愛され、受け入れられ、生かされているを感謝し、主なる神に迎えていただけることを喜び、確認するからなのです。

 「裁く」という言葉は「罰を与える」とか「懲らしめる」という意味ではなく、「選り分ける」「判断する」という意味の言葉です。

 主イエスが再び私たちの所に来て私たちを裁く目的は、私たちに怖れを感じさせたり怯えさせたりする出来事ではなく、十字架と復活によって私たちの罪を贖ってくださった主イエスの救いによって、それを信じる私たちを選り分け、受け入れ、永遠の愛の中に置いてくださることにあります。

 そうであれば、私たちは神の似姿に創られている者として、神に創られた人間らしく、神の御心に心を開き、心を向けて生きることが、「目を覚ましている」ことになるでしょう。

 身の回りの小さな事でも、また、この世界におこっている様々な事でも、主なる神の御心とはかけ離れた出来事が起こっています。それでもなお、いや、それだからこそ、私たちは自分の前の課題に一つひとつを主なる神に応えながら生きる事が「終わりの時」に備えて「目を覚まして生きる」ことにつながるのです。そして、そのように生きる時、私たちの思いを越えて働く主イエスの愛が与えられていることに気付けるのかも知れません。

 主イエスが再びおいで下さってお会いする時、主イエスは私たちをどのように決裁なさるのでしょう。私たちはいつも主イエスにお会いするときの自分を思い浮かべて、自分の今の生き方を導かれます。再びおいで下さる主イエスに自分を照らされ、今の自分のあるべき姿を問われ導かれています。

 それが、「目を覚ましていなさい」という主イエスの御言葉に従う喜びとなり、自分と神との関係を整えられながら生きることへとつながるのです。

 主イエス・キリストの御降誕を祝う準備の期節に入りました。2000年前に弟子たちをお導きになった主イエスを私たちがじぶんの心に迎え、今年の降誕日を迎える備えをし、再び来られる主イエスを迎える備えとして、日々、「目を覚まして」この降臨節を歩んで参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 18:36| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月02日

躍動する心 (愛恩便り2016年5月)

躍動する心

   「わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカによる福音書第24章32節)


 私は、小さな子どもの動きを見るのが大好きです。よちよち歩きするくらいの年齢の子どもが遊ぶ姿を見ていると、こちらもとても楽しくなってくるのです。その年齢の子どもは、何にでも興味津々です。もしその子どもたちの心の中を覗くことができたら、彼らの心はきっと周りの物事に対する反応で躍動していることでしょう。例えば、道路を歩いているとき、子どもはちょっと高くなっている所を歩いてみたり、路上に引いてある線の上を歩いてみたり、水たまりの中に入ってみたり・・・。

 でも、大人はついつい「急いでちょうだい!」「ほらほら、危ないから!」と声を掛けたくなり、時には子どもの腕を引っ張って、引きずってでも速く歩きたくなってしまいます。

 私はそのようなときにも、子どもは自分の躍動する心を行動に表し、身体のバランス感覚をはじめ、視覚、聴覚、触覚などあらゆる感覚を刺激しながら、感性を育てているのだと思えるようになってきました。子どもたちは、そのような行為の中で、周りの物事に興味を持ち、そこに自分を関わらせ、楽しみながらやがてそれを自分の経験として心に納める、という学習の「初めの一歩」を、既に始めているのです。

 もちろん、私たちは子どもたちに公共の場で他の人々に迷惑をかけることがないように教えていくことも必要です。しかし、自分の感性と意思でしっかりと生きていくことができるようになる土台は、自分が興味をもった事柄に触れてみて、味わってみて、その手応えを心と体に感じることなのです。

 幼稚園は、集団で活動をします。そのねらいはみんなが画一的な行動を取るために訓練することではなく、お互いの躍動する心が行動となり、触れ合い、ぶつかり合って、その先に一人でいることでは生まれない新しい世界を創造していく経験をすることなのです。そうできるとき、一人の心の中にあった躍動感は、他の人の心の躍動感と刺激し合い、他者と生きる楽しさが倍増することでしょう。

 社会のルールを身に付けることは、そうした子どもの心の躍動感を押さえつけたり奪ったりすることではなく、より良い方法で、より良い方向にその躍動感が生かされ、やがては、その子どもが意欲的に活き活きと生きていくことへと導くためであることを認識しておきたいと思います。

 幼稚園生活に慣れ始めた5月、子どもたちにとって、躍動する心を伸びやかに表現できる場をつくり、その表現を支えていきたいと思います。

posted by 聖ルカ住人 at 08:51| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月29日

神さまに見守られて (愛恩便り2016年4月)

神さまに見守られて

 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる。(マタイによる福音書第2820節)

 新入園、進級おめでとうございます。

 この3月に愛恩幼稚園を卒園していった多くの子どもたちが、「たくさん遊んで、楽しかった」と言ってくれました。私は、園長として、その言葉をとても嬉しく思いました。

 小学生になると、文字の読み書きを覚えたり計算のし方を学んだりするようになりますが、そのような学びの根底には子どもの生きた経験がなくてはなりません。子どもの場合、その生きた経験を重ねるのが「遊び」であり、幼稚園生にとって「遊び」は大切なお仕事であり、生きることそのものという言うこともできるでしょう。

 私は、ことに幼少期の遊びの大切さを十分に踏まえつつ、その遊びが更に深まり発展するためには、保育者や保護者の「確かな眼差し」が必要であることを付け加えたいと思います。

 なぜなら、私たち人間は、心の内外に恐れや囚われがなく内的にも自由であるときに、より深く本当の自分を表現し、成長していくことができるからです。子どもたちが自分たちで自由に遊んでいるだけでも、遊びは深まり進展するものですが、そこに子どもを深く見つめる確かな眼差しがあるとき、子どもたちの遊びは深まり、発展していくのです。

 子どもたちがそのような確かな眼差しに守られて遊び、その遊びが展開していくことは、本人の心の表現にも関係してきます。子どもは遊びをとおして、自分を癒し、自分を教育し、より本当の自分を成長させていくことができます。

 私たち大人は、時に子どもたちにアドバイスをしたり、子どもたちを大きな危険から守ったり、また時には遊びに必要な道具をそろえたりして、子どもの遊びがより深く大きく進展するように環境を整えるのですが、大人の役割はそれだけではありません。私たち大人のもっと大切な役割は、子どもの存在を受け入れ、子どもに共感しながら、遊ぶ子どもたちを暖かな眼差しでしっかりと見ていてあげることなのです。

 そして、子どもたちばかりでなく私たち大人に対しても、私たちを越えたもっと大きく深く確かな眼差しが注がれていることを心に留めておきましょう。この眼差しは、愛の眼差しであり、私たちはこの眼差しを受けながら、隣人を自分のように愛することへと向かっていけるのです。

 新しい一年、新年度4月のスタートです。

 私は年度のはじめにあたり、園長として、子どもたちに「神さまが見ていてくださるから、みんな安心して楽しく遊びましょう。」と言いたいと思います。そして、私たち子育てに携わる大人が神から受ける愛の眼差しを自覚し、子どもたちに確かな眼差しを向けていきたいと思います。

posted by 聖ルカ住人 at 15:28| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月27日

終わりの時に   マタイによる福音書25:31-46  降臨節前主日

終わりの時に   マタイによる福音書253146  降臨節前主日 2023.11.26

(2) 2023 年 11 月 26 日( A 年)降臨節前主日説教 小野寺司祭 - YouTube


 今日は、教会暦で年間最後の主日です。この主日に採りあげられている聖書日課は、旧約、使徒書、福音書ともに「終わりの時」についてであり、特に福音書は神が「全ての民を裁く時」の様子について記しています。

 「終わりの時」という事について、私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。

 今ここでの一瞬一瞬が過去のものになっていって再び戻らないのであれば、今ここに過ぎていくこの瞬間がいつも「終わりの時」であると考えられます。私たちは、目の前の一瞬一瞬を神に導かれ、「御国が来ますように」と祈る思いをもって生きていくとき、私たちはその積み重ねによって最終的に主なる神の御許に迎え入れられるのではないかと、私は思うのです。

 今日の聖書日課福音書は、マタイによる福音書253146節までの箇所が取り上げられていますが、その後の第26章に入ると、主イエスが十字架にお架かりになる記述に入ります。その意味で、今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスが弟子たちと群衆にに教えを述べた言葉が纏められている箇所であり、第23章から25章までの結びの言葉(まとめの言葉)を語っておられる箇所であると言えます。

 その箇所のまとめの言葉として、主イエスは次のように言っておられるのです。

 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

 またそれと対をなす言葉として45節でこう言っておられます。

 「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」

 羊飼いの導きに従う羊とその教えを聞こうとしない野生の山羊に例えられる人々のうち、裁きの座で左側に置かれた山羊に例えられている人々のことに目を向けてみましょう。

 彼らは44節で、「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、乾いたり、よその人であったり(旅をしたり)、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか」と言っています。この言葉の裏を返せば、彼らが「主よ、わたしたちは何時だってあなたにお仕えしてきたではありませんか」と言っているのです。山羊に例えられる人々は、自分はいつも、良いこと、正しいこと、神の御心に適うことをしてきたと思っているのです。しかし、それは律法の文言に照らして-とくに律法の細則である口伝律法に照らして-正しいことを行ってきたと言っているのです。

 彼らは、律法の言葉を正しく実行する自分を救われる者の側に置いて、それを行えない人々を見下し、自分は主なる神に認められようとしてきたのでしょう。それは、目の前にいる飢え乾いた人や宿のない人のことを、自分が正しいことを行いに表して、そのように出来ている自分を勝ち誇るための道具として飢えた人、渇いた人、旅人などを利用するような生き方だと言えます。

 彼らは、もし主なる神から「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」と言われれば、先ず自分の隣り人とは誰かを律法に照らして明らかにし、自分の隣人として愛すべきであると判断されればその人に関わることにして、その人が自分が律法を行う対象にする事が出来る人だから愛する、ということになるのです。しかしその対象外であれば、つまり徴税人や遊女をはじめ汚れた者とされる人たちに対しては、たとえ彼らが飢え渇き、旅に疲れ、裸や病気であったとしても、自分が善行を行う相手として相応しくないと決めつけて関わろうとはしない、ということなのです。彼らは、自分を高みに置くために他者を愛するのであり、愛する対象を限定し、自分の救いに役立つ相手である時にのみ、他人に関わっているのです。

 主イエスは、ご自分の目の前にいる人が、飢え、乾き、旅に疲れ、裸や病気であれば、その人が民族や血筋の飢えて愛するに相応しいかと考えるのではなく、先ず自分が痛むほどの憐れみをその人に寄せて関わってこられました。そして、主イエスが十字架に向かおうとしておられるこの時に、弟子たちに教え求めておられるのも、先ず目の前にいる隣人を自分を愛するように愛する心なのです。

 律法が愛せと言うからその範囲で自分を律法に当てはめて生きることは、神のお喜びになる生き方ではありません。主イエスは当時の律法で汚れた者とされて交わりを絶たれていた人々と交わりをもっておられますが、それば時に当時の律法の規定を犯して相手に関わる事にもなりました。主イエスはその事を口実に、ユダヤ教の指導者たちから律法を守らず神を侮辱する危険人物とされ、十字架の上に処刑されてしまうことになっていったのです。それでも主イエスは、目の前にいる飢えた人、乾いた人、旅に疲れた人、裸の人、病気の人などに関わりぬき、愛しぬき、その結果十字架に付けられ、その上からさえなお人々が神の御心に結ばれるように祈り続けてくださいました。

 主なる神は、この主イエスの愛が私たちにも向けられている事を信じ、主イエスを救い主であることを受け入れて信じる心をもって、自分が愛されているように隣人を愛することを私たちに求めておられるのです。

 自分が神に認められる事を真っ先に求めるのではなく、他の人に寄り添い、他の人を愛し、他の人に仕えるところにその人の救いがある事を、主イエスは「教え」の最後の言葉としておられます。

 私たちは、こうした教えを自分の力で全う出来る者ではありません。しかし神はそのような私たちのことを、赦し、愛していてくださっています。私たちはその愛によって生かされている喜びと感謝を受け入れることが出来る時、私たちは他の人々もまた神の赦しと愛を必要としていることを知り、神の愛がその人たちにももたらされるように祈らないわけにはいかなくなるのです。そして、貧しい人々や弱い人々に対しても、その人々に神の愛が届くようにと関わらざるを得ないのです。

 このような主イエスの生き方と教えは、イスラエル民族が神との契約である律法を守る事ことで救いに導かれると教えたユダヤ教の枠組みを越えて、世界の人々に救いと平和を与える教えとして広がってきたのです。

 もし私たちが自分が救われる事だけを考えて他の人々を善い行いをする道具のように見なすとき、それは主イエスの目から見れば、私たちは羊飼いの前で左に分けられた山羊のような存在でしかないと言えます。私たちが、自分が利益や業績を上げるためにでなはく、自分が優越感を持つためでもなく、目の前の人に関わり仕えようとする歩みを踏み出していく時、私たちは神の御心に相応しく養われ、育てられていくのではないでしょうか。そのように生きる私たちを、主なる神は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言って、祝してくださるでしょう。

 私たちは、神から「さあ、天地創造の時からあなたたちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言っていただく日を望みつつ、主イエスを通して与えられた神の愛に応えて、日々主の働きへと歩んで参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 10:59| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする