2023年10月11日

共に育つ (愛恩便り 2015年7月)

共に育つ

  

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民                               

主に養われる羊の群れ。(詩編 第100章3節)


 例えば、砂場遊びをするにしても、入園当初の子どもたちは、あまり他児との関係をもたずに、それぞれが独りで同じような遊びをしていました。いわゆる「並行遊び」の段階です。この時期の子どもたちは、友だちに関心を示して同じ場所で遊ぶのですが、まだお互いに役割を分担するような段階には至っていません。ですから、一つしかない遊具を二人が使いたくなると、その遊具を引っ張り合って、取られてしまった子どもはそこで泣き出すということもしばしば見られました。

 しかし、2,3ヵ月経つうちに、子どもたちは、少しずつ、友だちと関係を結びはじめます。他の子どもが使っている遊具を使いたくなったら、「貸して」と言ったり、「使っていい?」と尋ねたり、少しずつ相手を配慮するようにもなってくるのです。

 子どもたちは、遊びを通してそのような対人関係の技術(スキル)を体得していきますが、それだけではなく、子どもたちは自分の経験の幅を広げることにより他者を理解する力をも身に付けているのです。

 自分が使っていた遊具をいきなり横取りされて、戸惑ったり腹が立ったり悲しくなったこと。「貸してくれる?」と尋ねられて「うん」と答えたら、相手が喜んで「ありがとう」と言ってくれたこと。こちらから「貸して」と言ったのに「だめ」と言われて残念だったり、気持ちよく「良いよ」と言ってくれて嬉しかったり、等々の経験を子どもたちは重ねています。

 子どもが友だちと遊び、そこで経験することの一つひとつが子どもの心の幅を拡げます。そして、経験の幅が拡がっていくことは、他の子どもの様子や気持ちを理解して適切に関わる力を育てることにつながります。

 わたしたちは神の民です。上に記したことは、人が主なる神に導かれ養われることの具体例の一つであると言えます。わたしたちは子どもに関わる者として、子どもたちも神の民として生き、テレビ画面や液晶画面に向かって独りで遊ぶことでは得られないたくさんの経験を積み、優しさやたくましさを育み、社会性を身につけていくことを願っています。

 子どもたちが、幼稚園でもご家庭でも、仲間とたくさんの良い経験を重ね、主なる神さまに養っていただくことができますように。

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2023年10月09日

平和のために (愛恩便り 2015年6月)

平和のために

  平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書第5章9節)  


 国語辞典(『広辞苑』)を引いてみると、「平和」とは「①やすらかにやわらぐこと。おだやかで変わりのないこと。②戦争がなくて世が安穏であること。」と記されています。

 誰もが、「平和」とはとても大切な言葉であると思うでしょう。わたしもそう思います。

 ただし、聖書で使われる「平和」とは、単に「おだやかで変わりがない」状態を意味するのではなく、「神さまのお考え(み心)のとおりであること」を意味していることを、つまり神さまの意思の実現であることを、踏まえておく必要があるでしょう。そして、「平和」は与えられた状態のことではなく、わたしたちが努力してつくり出していくことで実現するという一面があることもしっかりと心に刻んでおく必要があるでしょう。

 子どもの健やかな成長にも平和が必要ですし、平和なしに子どもの健やかな育ちはあり得ないとも言えるのです。

 家庭や幼稚園などの子どもを取り巻く環境を子どもの育みのために相応しく整えることも、平和を実現するための身近な大切な働きです。わたしたちは、誰もが神さまから命を与えられ受け継いでいます。命の継承は、平和の中で、安定して安心して行われなければなりません。そのために、わたしたちが、神さまのお考え(御心:みこころ)に相応しく子どもが育つように祈り願いながら働きます。

 家庭が明るく円満であるように努めたり、家族が適切な栄養をとりながら楽しく食事ができるように料理をしたり、清潔で整った環境の中で暮らせるように掃除や洗濯をしたりすることも、何気ない平凡なことのように見えるけれど、実は平和を実現していくための大切な働きであると言えるのではないでしょうか。

 わたしたち人間は、この世に命を受けた時から、いや、胎内に宿ったときから、優しく柔らかな笑顔と声によるたくさんの働きかけを受けながら、つまり平和を体で感じ取りながら、少しずつそだつのです。そのように育って、平和の感性を養って、平和を実現するための働き人に育っていくのでしょう。

 こうした個人の成長における平和も、日頃暮らしている街の平和も、戦争のない世界をつくり出す平和も、その根底には、この世界とわたしたち一人ひとりを愛して生かそうとする神の熱い思いがあるのです。

 そうした神の熱い思いを覚えて、わたしたちはそれぞれに日々の具体的な働きをとおして神の平和を実現するために生きています。子どもたちの伸びやかな成長は、平和が実現する最も具体な例です。逆に言うと、子どもが伸びやかで健やかであるかどうかは、その世界が平和であるかどうかの指標でもあります。

 幼い者、弱い者、小さい者が大切にされ、喜びの中に生きられる平和な世界をつくるために生きることを喜びにすることができますように。

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「角の親石」  マタイによる福音書21:33~43 

「角の親石」    マタイによる福音書213343   (A年特定22)   2023.10.08


 今日の聖書日課福音書から導きを受けるために、はじめに少しぶどう園について思い起こしてみましょう。

 イスラエルの人々は、旧約聖書の時代から自分たちをしばしば神に造られた「ぶどう園」や「ぶどう園の働き人」に例えてきました。そのことは今日の聖書日課福音書だけでなく旧約聖書日課イザヤ書第5章などにもにも見られるとおりです。

 収穫したぶどうは、その多くがぶどう酒を造るために用いられ、また干しぶどうにされました。特にぶどう酒の場合は、収穫したぶどうの実を搾ってそのまま置いておけばそのぶどう液はひとりでに発酵してきます。昔の人々はこのようにしてぶどう酒が出来ることをぶどう液の成分の化学反応による発酵の観点から理解したのではなく、搾ったぶどう液に霊が宿ることとして理解していました。英語で酒を(おもに蒸留酒を意味するようですが)スピリットということにもその様な一面が現れているのかもしれません。

 ぶどうは、果物の中でも特に発酵しやすい性質があります。しかも、その絞り汁は神の霊を宿す性質のあると考えられた当時のことを思い巡らせてみると、旧約時代の預言者たちがイスラエルを「ぶどう園」に、またイスラエルの民を「ぶどう園の働き人」に例えて教えを説いたことにも見られるように、ぶどう園やそこで働くことが、神の国や神の民について考える上での格好の教材になったことが想像されます。

 預言者イザヤは、今日の旧約聖書日課イザヤ書第5章の始めの部分で、次のように神の言葉を取り次いでいます。

 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を。

 わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。」

 このようなぶどう園の様子を思いつつ、今日の聖書日課福音書に記された主イエスの例え話を簡単に振り返ってみましょう。

 主人は、ぶどう園を整えてそれを農夫たちに任せて旅に出ていきました。

 そのぶどう園は、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建てています。よく整備されたぶどう園だったはずです。

 ぶどう園を任された農夫たちはそのぶどう園の持ち主ではなく、あくまでも主人のぶどう園に雇われた農夫だったはずです。収穫の時期が近づいた頃、主人はその収穫を受け取るために自分の僕を農夫たちの所に遣わしました。ところがぶどう園の農夫たちは、主人の僕を捕まえて袋叩きにし、また他の僕は石打にして殺してしまいます。そこで主人は、前よりも多くの僕をぶどう園に遣わしますが、ぶどう園の農夫たちはその僕たちのこともまた同じ目に遭わせてしまいます。とうとう、主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと、自分の一人息子をぶどう園に遣わしました。ところが、農夫たちはその息子を見て、「この一人息子を殺してしまえばぶどう園は我々が相続することになる。さあ、こいつを殺してしまおう」と話し合い、その一人息子を捕らえてぶどう園の外に放り出して殺してしまうのです。

 主イエスはこの話をイスラエルの祭司長や長老たちを相手にて、彼らを厳しく批判する話として語られました。その日は、主イエスがエルサレムに来ていわゆる宮きよめをなさった日曜日の直後の火曜日で、その4日の後の金曜日には十字架につけられることになります。

 主イエスが神殿の境内で教えを述べ始めると、ユダヤ教の指導者たちは「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか」と詰め寄ってきます。主イエスはイスラエルの指導者たちを厳しく批判してこの例え話をなさるのです。

 その当時、イスラエルの人々は宗教的にも政治的にもエルサレム神殿を中心にして民族の一致と団結を計ろうとしており、その権力を握っていたのが神殿の祭司長であり、また民の長老や律法の専門家たちでした。しかし、彼らは神殿の権威の上にあぐらをかき、自分たちの利益を求めたり、律法を自分たちの都合の良いように解釈してその地位を守ることに腐心し、弱い立場の人や貧しい人々のことなど顧みようとはしませんでした。

 旧約聖書時代の預言者たちは、そうした権力者に対して神の言葉を取り次ぎました。ある預言者は神殿の指導者たちを糾弾する言葉を放ち、他の預言者はイスラエルの指導者や民衆に向かって神の御心に立ち戻るように勧める言葉を、また他の預言者は彼らに悔い改めを促す言葉を語りました。しかし、神殿で権力をふるう指導者たちや律法の教師たちは、預言者の言葉を聞かずに拒否し、預言者たちを弾圧し迫害を加え、沢山の預言者たちが殺されていったのでした。 そして、ぶどう園の主人の一人息子である主イエスをも拒み、ぶどう園をを我が物であるかのようにして、主イエスをエルサレム神殿の外の十字架の上に殺して捨て去り、彼らはユダヤ教の権威が自分たちの手中にあるかのように振る舞い続けたのでした。

 このように、神のひとり子である主イエスは十字架の上に殺されますが、神の国の実現を目指す働きはそこで終わるわけではありません。

 この論争の火曜日から4日目に、主イエスの働きは雇われ農夫らによって拒否され、十字架の上に捨てられることになりますが、その働きの中に神の救いを見た人々によって受け継がれるのです。十字架に示された主なる神の愛は、ぶどう園のイスラエルの指導者たちが捨てた主イエスを角の親石として信仰者の群れをつくりだし、教会として成長していきます。

 主イエスはそのことを詩編第11822節の言葉を用いて話しておられるのです。

 「家を建てる者の捨てた石、これが角の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える(21:42)」。

 ユダヤ教の指導者たちは、神の御心を自分たちの権力の中に抱え込み、預言者たちの言葉を聞かず、主イエスによって示された神の愛を拒否し、イスラエルの民は神の御心との間に大きな断絶をつくってしまいました。それでも、主なる神は主イエスの十字架の出来事を通して、主なる神の御心をイスラエル民族の枠を越えて世界中に拡げてくださいました。この歴史を教会では「救済史」と言います。

 そして、この「救済史」は、世界を把握する上での大切な視点であると同時に私たち一人ひとりの歴史にも深く関係しているのです。

 今日の福音書の最後の部分で主イエスはこう言っておられます。

 「だから、言っておくが、神の国の福音はあなたたちから取り上げられ、そ れにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

 ここで主イエスが言っておられる「民族」とは、主なる神の御心を行いその実を結ぶ人々の集まりである「神の民」のことです。私たちの教会も、主の御心に相応しい実を結ぶよう求められ、促されています。こうして教会に招かれている私たち一人ひとりも、またこの礼拝堂も、主が用意してくださったぶどう園であることを確認しましょう。そして、私たち一人ひとりも主なる神によって支えられ生かされることへと導かれた歴史があるのです。主イエスは私たち一人ひとりを支える角の親石となって、私たちの人生を支えていてくださいます。

 私たちは、神が用意して下さったぶどう園の働き人として、御心に相応しい実を結び、その実を主のご用のために納めることを私たちの喜びにしたいと思います。

 主イエスがイスラエルの人々に示した働きは、人の欲と罪のためにぶどう園の外に捨てられてしまったかのように見えても、ひとり子主イエスの働きは平和と愛に満ちた世界を作りだすための「角の親石」となりました。そして、私たちのぶどう園での働きを支えていて下さいます。神ご自身が人の罪のために傷み苦しみながらも、なおその先に御心を行う人を起こし、その人たちのための「角の親石」となって下さっています。主なる神は、あらゆる困難や挫折の先に、それに勝る喜びと平和を与えてくださるために、その礎となって今も働き、私たちをその働き人として用いて下さいます。私たちは、神の愛を受け、御心の実を結び、その実を主の御前に喜んでお献げできるよう、主イエスを私たちの内なる「角の親石」としてしっかりと据えることができますように。

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2023年10月01日

「考え直して」 マタイによる福音書21:28~32

「考え直して」  マタイによる福音書212832   (A年特定21) 2023.10.01


(1) 2023年10月1日(A年) 聖霊降臨後第18主日 説教小野寺司祭 - YouTube (この日の説教の動画)


 主イエスは、十字架にお架かりになった金曜日の直前の火曜日に、エルサレム神殿の境内でユダヤ教の指導者たちと激しい論争をなさいました。

 今日の聖書日課福音書の直前の段落の始めには、次のように記されています。第2118節です。 

 「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちが近寄ってきて言った。何の権威によってこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。」

 ユダヤ教の指導者たちは、エルサレム神殿の境内で教えを述べ始めた主イエスに、「お前は誰の許可を得て、何の名によって、何の権威によって教えているのか」と詰め寄ってきました。主イエスがその祭司長や民の長老たちを厳しく批判する脈絡の中に今日の聖書日課福音書の「二人の息子」の例えが置かれています。

 ある人が二人の息子に、それぞれに「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と声をかけました。その一人は「いやです」と答えましたが後で考え直して出かけました。もう一人は「はい、お父さん」と答えましたが出かけませんでした。

 主イエスは、この短い例え話によって、神の招きに応える罪人たちと神殿や律法に仕えながらも神の御心を行うと言うにはほど遠いユダヤ教の指導者たちを対比して、ユダヤ教の指導者たちを厳しく批判しておられるのです。

 今日は、この聖書日課福音書の例え話の中から一つの言葉(単語)を採り上げて、主イエスからの養いと導きを受けたいと思います。

 その一つの言葉とは、「考え直して」と訳されている言葉です。

 第2129節をもう一度拾い上げてみましょう。

 「兄は、『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。」

 この「考え直す」という言葉の原語はメタメロマイという言葉で、「心を入れ替える、取り替える」という意味から出た言葉です。

 父親からぶどう園で働くように言われても、「自分にはその意志がない、自分はそれに相応しくない、自分にはその資格がない」と思い考えて、その息子は父の求めに応じませんでしたが、後で「考え直して」ぶどう園に出かけて行きます。

 もう一人の息子は「はい、お父さん」と答えましたが、出かけませんでした。この息子について、主イエスは32節でこう言って批判しておられます。

 「ヨハネが来て(洗礼者ヨハネが出現して)、義の道(神と正しい関係を結ぶ悔い改めの道)を示したのに、あなたがた(イスラエルの指導者たち)は彼(洗礼者ヨハネ)を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して(先駆けの洗礼者ヨハネ)を信じようとしなかった。」

 当時、徴税人や娼婦などは「罪人」と呼ばれていましたが、それらの人々は主イエスと出会い、その愛に触れて、自分を見つめ直す勇気を与えられました。そして、神の御心に従って、これまでの自分を振り返り、自分がどのように生きることが神と自分に相応しいのかを「考え直す」ことが出来るようになりました。

 罪人と決めつけられていた彼らは、救い主の先駆けとして現れた洗礼者ヨハネの招きや救い主イエスの教えや行いに触れ、悪霊を追い出していただき、病を浄めていただき、「考え直して」本当の自分に立ち帰ることができました。彼らは、そのようにして自分に迫る神の言葉を、一度は尻込みしたり拒否しても、「考え直して」主なる神の招きに応え、ぶどう園の働きに、つまり神のお考えの実りをもたらす働きに、促されていくのです。それは、天の喜びになります。

 この「考え直して(メタメロマイ)」という言葉は、福音書ではこのマタイによる福音書の中だけにあり、ここで採り上げた2箇所の他にあと一箇所だけで用いられています。そのもう一つの箇所は第273節の中にあります。

 そこには「その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして」とありますが、この中の「後悔し」と訳されている言葉が「考え直す(メタメロマイ)」です。

 イスカリオテのユダは、イエスを裏切ってイエスをイスラエルの権力者たちに売り渡しましたが、ユダはイエスに死刑の判決が下ったことを知って後悔し、考え直しています。でも、ユダは考え直してはいるのですが、その時に何に基づいて考え直すべきなのかその基本的な信仰が曖昧なままであり、自分が立ち帰るべき原点を見失ったまま、銀貨30枚を神殿に投げ込んで首をくくることへと追い込まれていってしまいました。

 イスカリオテのユダは、洗礼者ヨハネが義の道を示したことを知っており、徴税人や娼婦たちが悔い改めてイエスの御許に立ち帰る姿を実際に自分の目で見ていたはずです。でも、ユダは主イエスに自分を委ねることができず、自分の犯してしまった過ちを考え直す機会を得ながらも、主イエスが身をもって示す神の愛に立ち帰ることができず、その結果、永遠に神の御心から離れてしまったと言えるでしょう。

 私たちも自分の思いや行いの過ちに気付いて「考え直す」ことがあります。初めから完璧な信仰を持っている人などいません。主の御心に自分を照らし、自分の心の貧しさや弱さに気付き、そこに働いてくださる神の愛を恵みとして受け止めるところに感謝が生まれます。そして、ぶどう園に招かれて働く喜びが生まれます。そのように神の愛の中で「考え直す」ことが信仰の成長へとつながっていくのです。

 主イエスは、当時の権力者たちが律法の枠組みから落ちこぼれた人々を罪人と呼んで蔑み自らは少しも「考え直す」ことのない姿を見て、厳しく彼らを問いただしています。

 私たちは、神殿の指導者たちのようにユダヤの律法やエルサレムの神殿制度を鎧にして頑なに「考え直す」ことを拒む者ではありません。また、イスカリオテのユダのように「考え直す」ことの拠り所(原点)を失ってさ迷う者でもありません。

 私たちは「考え直す」ときに、立ち帰って自分の全てを明け渡して委ねる対象を知って、そのお方を信じて受け入れています。その相手こそ主イエスです。

 私たちは、それぞれの心に主イエスご自身とそのみ言葉を深く迎え入れて自分を照らし出され、その自分が主イエスを通して神に受け入れられていることを信じ、主なる神さまと豊かに心を通わせる信仰生活へと導かれて参りましょう。

 私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを愛し選び出してくださいました。私たちはこの神の選びと導きの中で「考え直し」、恐れなく主なる神の御許に進み出るように招かれています。

 今日は、これから洗礼式を行います。自分を委ねて信じる対象が主イエス・キリストであることを受け入れ、信じて、召し出された者の群れに新しい仲間が加わる喜びを分け合い、共に信仰の道を歩んで参りましょう。

 
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2023年09月28日

「愛に基づく保育」 (愛恩便り 2015年4月)

「愛に基づく保育」(2015年4月)

 新しい年度に入りました。進級、新入園おめでとうございます。

 わたしたちの「愛恩幼稚園」はキリスト教の幼稚園です。幼稚園はキリスト教の信仰と精神に基づいてフレーベルによって始まりました。

 イエス・キリストの教えと行いの中心には、いつも「愛」がありました。わたしたちの幼稚園の保育も、主イエスさまをとおして表された神の愛に基づいています。

 「愛」とは何でしょう。聖書が伝える「愛」とは、「神さまのお考えが相手と自分の間に現れ出ることを願って、どこまでも関わり続けること」です。ですから、相手に対して無関心でいることや相手を思わずに自分勝手に振る舞うことは、主イエスさまの教える「愛」とは正反対のことであると言えます。

 近年、家族や地域に限らず、人間関係がずいぶん希薄になり危うくなってきているように感じるのはわたしだけでしょうか。保育行政の面では、部分的には過剰とも言えるサービスが提供される一方で、その内容、質の面では「愛」を欠いた状況があちこちに見られます。設備の整った保育施設の中であっても、保育士と笑顔を交わし合いスキンシップをとる機会が少ないために、幼い子どもたちが情緒的に不安定になっている事例も多いのです。愛は特別に取り出したカンフル剤のようなものではなく、日々の人間関係の中に溶け込んでいるものであり、またそうなるように心がける必要があります。

 人間に本来与えられているさまざまな可能性は、人と人の関係の中で芽を出し、花開き、実を結びます。愛は、人が人として精神的に成長していくために「心の栄養素」として絶対不可欠であり、人は「愛」によって互いの「愛」を育むのです。そして、その始まりは、赤ちゃんが生まれたとき、いや、赤ちゃんが母親の胎内に宿ったとき、もっと言えば親となる夫婦の間に既にあるといっても過言ではないでしょう。

 子育てや幼児教育も、原点はこの「愛」にあります。愛に基づき、「今、神さまは自分の目の前にいるこの人(この子ども)との間にどのような姿が現れ出ることを願っておられるのだろう」と自分に問いかけながら、わたしたちは子どもたちと関わり、皆さまと良い交わりを創り上げていきたいと思います。

 春です。教職員一同、互いに「愛」を育み、自分と同じように隣人を愛する人になれるよう、祈り合い、神さまから与えられた勤めに励んで参りたいと存じます。

 ご家庭でも、一つひとつの出来事の中に神さまから与えられた「愛」の姿が現れ出るように、心がけてくださるようお願いいたします。

子どもたちと、幼稚園と、ご家庭の中に、そしてその関係の中に神の愛の姿を実現していけますように。


 * 2015年4月から2020年3月までの6年間を愛恩幼稚園園長として勤務しました。毎月のお便りである『愛恩便り』に園長として巻頭文を記しました。その文章を本ブログ「幼稚園だより」に掲載して参ります。

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