2023年02月12日

律法の完成のために  マタイによる福音書第5章21-24、27-30、33-37

律法の完成のために    マタイによる福音書第5章21-2427-3033-37  顕現後第6主日 2023.02.12

 主イエスは、ガリラヤ地方の小高い山で、弟子たちをはじめとする大勢に人に話しておられます。いわゆる「山上の説教」です。その話は、聴く人々の心の中に強い印象を残します。貧しい人々や悲しむ人々の幸いを説き、更には主イエスの名によって生きるが故に迫害される人々の幸いを説きました。

 主イエスの話は、まるで旧約聖書の教えを否定しているかのように聞こえたり、その時代には奇抜な話として受け取る人も多かったことでしょう。

 でも、主イエスは、今日の聖書日課福音書の直ぐ前の箇所で、「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言っておられます。

 それに続く今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスが律法と預言者(つまり旧約聖書)が示す神の御心をどのように完成するのかについてを伝えている箇所であると言えるでしょう。

 主イエスは、第5章21節から48節までの中で、今日の聖書日課福音書に採り上げられている3つの事柄を含め、旧約律法の中から6つの事柄を採り上げて、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく。・・・・。」という形式で、どのように旧約聖書の約束を完成するのかということを展開しておられます。

 つまり、主イエスは、「旧約聖書ではこれこれと教えているけれど、でも、その事についてわたしは以下のように教えます。」と言っているわけです。

  この箇所のイエスの話のその内容は、どれも旧約律法そのものを否定しているのではなく、当時の律法の専門家やファリサイ派たちが律法を事細かに外に見える形で守ることを「口伝律法」として教えていたことを批判し、人々が旧約聖書の教えを律法解釈の中に中に閉じこめられることなく律法の文言を支える神の御心(律法の精神)をどのように実現するのかを教えるものでした。

 主イエスは、その6つの事柄のうち、最初に採り上げたのは、「殺すな。殺した者は裁きを受ける」という事でした。

 「殺すな」とは、イスラエルの民が授かった「十戒」の第5の戒めです。

 「殺してはならない」ということは、人が社会生活を営む上で、最も基本的な戒めの一つです。主イエスが旧約律法の言葉に触れながら説教をなさる上で、真っ先に採り上げた言葉が「殺してはならない」でした。しかし、主イエスは相手の身体を殺さなければそれでこの戒めを完全に履行しているとはお考えになりませんでした。

 主イエスは、もし誰かが殺人の罪を犯した場合、殺人という行為に至った動機や原因までにまで深めて教えておられるのです。

 もし、私たちの心に相手を恨み、憎み、否定する思いが生まれれば、それが相手を消し去ろうとする行為となって殺人に至るのです。主イエスは、その原因となること、つまり腹を立てることや相手を否定して罵る言葉を吐く者も罪人であると言います。

 そのような思いを心に抱えながら神に対して供え物を献げるとすれば、それがどれほど高価な献げ物であっても神は喜ばれず、それよりも供え物は祭壇の前に置いたまま、先ずあなたの兄弟と仲直りをしなさいと言っておられます。

 このように、自分の非を認めず、相手を愛せずに否定する思いを強くすることは、人を殺すことに通じる、或いは人を殺すことに等しいと主イエスは教えておられます。

 律法の中心である十戒は、旧約聖書出エジプト記第20章と申命記第5章に出てきます。十戒にはそれに先立つ前文があります。出エジプト記の十戒の前文は以下の通りです。

 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

 この前文は、十戒のすべての項目に係るものであり、この第五に戒めについても「わたしはあなたがたをエジプトの国から導き出しのだからあなたがたは殺してはならい」また「殺すはずがない」と言うことなのです。

 「神が創り、神が選び、神によって持ち運ばれるあなたがたなのだから、あなたがたは殺してはならないし、この神によって生かされる者として互いを殺すはずがない」というのが十戒の基本的な考え方です。そしてこの十戒を核とする律法のそれぞれの文言もこの十戒の前文に表現する精神を具体的に示すものであり、その精神に基づいて律法の体系が構成されているはずでした。

 しかし、律法の専門家やファリサイ派たちは律法を細部にわたって解釈して厳格に守っているようではありましたが、主イエスの目から見ると、彼らは律法を細かな点まで字句通りに形式化してそれを守ってはいるものの、その態度は律法を全うできない人々を苦しめ、差別し、切り捨てて自分を守るものになっていたのです。

 「人を殺すな、殺した者は裁きを受ける」と旧約聖書には記されているけれど、あなたがたは律法を守れない人々を罪人呼ばわりしているではないか、表面では他者の命を奪ってはいないと言うだろうが、他人の存在を否定し、彼らを罪人に追いやっているのではないか」と言っておられるのです。

 刃物や凶器を手に他者の命を奪うようなことはしなくても、病の人を悪霊に憑かれた者と言い、重い皮膚病の人を汚れた者として共同体から追放し、律法を守れない立場の人を神に見捨てられた者として罪人扱いすることは、十戒の第5の戒めを踏みにじるに等しいことなのだと主イエスは教えておられるのです。

 もし、わたしたちが律法の根本的な精神に立ち帰ることなく表面的な言葉のレベルでそれを実行しようとするなら、「するな」という禁止命令については何もしないでいれば律法に反することにはならないで済みます。また、「しなさい」という実行命令については律法の専門家やファリサイ派に倣って水準の行為ができていればそれで合格点ということになるでしょう。律法学者やファリサイ派たちの教えは、口伝律法の細則を基準として判断しており、主イエスはそこに神の愛を受けた生き生きとした命を見ることが出来なかったのでしょう。主イエスは、ファリサイ派が貧困層や社会的弱者などを罪人扱いし、差別し、軽蔑することで自分たちを正しい者の側に置く態度については、人を殺すに等しい出来事に見えて、深い悲しみと憤りをもたれたことと思います。

 人は、律法に違反することもなく正しい行いをしているように見えても、一人ひとりが神の前に深く自分を顧みる時、律法はあなたを生かしているのかと主イエスは問いかけます。あなたがたは神の全き愛によって生かされているのに、そのことを自覚しているのか、他の人々が生きるためではなく相手の存在を潰すために律法を用いてはいないかと、問うておられるのです。

 この問いは、律法学者やファリサイ派を批判するだけでなく、救いを求めて山上に集まる人々やわたしたち一人ひとりにも向けられていることを覚えましょう。

 そして、私たちは、自分を正しい者の側においてこの言葉を受け取るのではな、主イエスの愛に赦され、生かされ者として、人々の和解へ、赦しへと歩み始めるのです。

 主イエスは、「殺すな」という律法の言葉は「愛しなさい」という教えによって初めて完成することを教えてくださいました。そして主イエスはわたしたちをそのような世界へと導くために、わたしたちの過ちや負債をすべて十字架の死によって帳消しにしてくださいました。

 主イエスによって救い出されたわたしたちは、律法を(つまり神の御心を)愛によって完成する働き人として招かれています。わたしたちは感謝をもってその働きに与らせていただけるのです。

 律法を愛によって完成してくださった主イエスに導かれ、感謝と喜びのうちに主の働きに与らせていただきましょう。 















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2023年02月08日

神の似姿を示す人として  (あいりんだより2009年5月号)

神の似姿を示す人として

 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。(創世記第1章23節)

 昨年の遠足のことでした。本園の子どもたちが遊具の前で列を作って順番を待っていると、他園の子どもがズカズカと割り込んできました。わたしは、思わず「みんな順番に並んでいるのだから、列の後ろに回りなさい」と言っていました。世の中にはそのような子どもを「たくましい」などと勘違いしている人もいるようですが、それは「たくましさ」ではなく「厚かましさ」です。

 旧約聖書の冒頭には天地創造の物語があります。その中で、神は人間を「神にかたどって」お創りくださった事が記されています。

 「神にかたどって」とは、他の動物にはない人間の抜きん出た性質のことを意味しています。つまり、この物語の根底には、人間は物事を他の動物以上に認識する能力や物事を建設的に創造していく能力、それに言語をはじめ他者とコミュニケーションを豊かにとる能力などが特別に与えられているという人間理解があります。そして、その能力を生かして神の意思をこの世に具体的に現していくことが人間らしく生きることの内実であると聖書は教えているのです。

 わたしたちはその場その場の出来事に応じてそれに対処する方法を選び取り、決断して行動に表します。その一つひとつが神の似姿を現すことへとつながれば、人間として何と名誉なことだろうかと思います。そしてそのような生き方を貫くことがたくましいことであり、それは何でも自分勝手に一人だけ良い思いをすれば周りにお構いなしという厚かましい生き方とは雲泥の差があることがお分かりでしょう。

 目の前に困っている人がいたとしましょう。困っている人を可愛そうに思うのも人間の反応ですし、いじめてやろうと思うのも無視しようとするのも人間の反応です。わたしたち人間は、困った人を見たときに、自分でも人間として恥ずかしく思えるほどに神の似姿に相応しくない感情が湧くことだってあるかもしれません。でも、自分の中にあるそれに気付き、神の似姿に相応しく自分を顧みて、どうすれば目の前の困っている人の助けになるかを考えて行為に現すこともまた神の似姿に相応しい人間の在り方であり生き方なのではないでしょうか。

 幼稚園時期の子どもたちは、まだまだ幼く考えも短絡的ですが、素直であり、生き方を方向付ける上で大切な時期であると言えます。本当のこと、正しいことをしっかり見据えながら、大きく育ち、やがて神の意思を示す人になれるよう願ってやみません。そのように生きることこそたくましい生き方であり、それは他人を顧みない厚かましい生き方とは全く違うことを再度申し上げておきたいと思います。

(「あいりんだより」2009年5月号)

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2023年02月06日

確かな眼差しのもとで (あいりんだより2009年4月)

確かな眼差しのもとで

「子どもたちをわたしのところに来させない妨げてはならない。」(マルコによる福音書9:14)

 教育要領が改訂され、「遊びをとおして子どもを育む」と言うことが、強調されるようになりました。小学生になると、文字の読み書きを覚えたり計算のし方を学んだりするようになりますが、そのような学びの根底には子どもの生きた経験がなくてはなりません。子どもの場合、その生きた経験を重ねるのが「遊び」と言うことになります。

 今から15年近く前になるでしょうか。『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』(R・フルガム著)という本が随分話題になったことがあります。この本の中でも、人が幼い頃から遊びをとおして沢山の生きた経験を重ねることの大切さを強調していたように、私は記憶しています。

 私は、遊びの大切さを十分に踏まえつつ、更に遊びが深まり発展するためには、他者の「確かな眼差し」が必要であることを付け加えたいと思います。私たち人間は、心の内外に恐れや囚われがなく内的にも自由であるときに、より深く本当の自分になっていくことができます。子どもの遊ぶ場面でも同じです。子どもたちが自分たちで自由に遊んでいるだけでも、遊びは深まり進展するものですが、そこに子どもを深く見つめる確かな眼差しがあるとき、子どもたちの遊びは深まりと発展は一層確かなものとなるのです。子どもたちがそのような確かな眼差しに守られて遊び、その遊びが展開していくことは、本人の心の表現にも関係してきます。子どもは遊びをとおして、自分を癒し、自分を教育し、自分を成長させていくことができます。

 私たち大人は、時に子どもたちにアドバイスをしたり、子どもたちを大きな危険から守ったり、また時には遊びに必要な道具をそろえたりして、子どもの遊びがより深く大きく進展するように配慮するのですが、このように子どもを支援する存在のことを、親も教師も子どもにとっての「人的環境」と呼んでいます。

 そして、子どもたちばかりでなく私たち大人に対しても、私たちを越えたもっと大きく深く確かな眼差しが注がれていることを心に留めておきましょう。この眼差しは、愛の眼差しであり、私たちはこの眼差しを受けながら、隣人を自分のように愛することへと向かっていけるのです。新しい一年のスタートです。私たち大人が神から受ける愛の眼差しを自覚し、子どもたちに確かな眼差しを向ける子育てへと向かって参りましょう。(あいりんだより2009年4月)

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2023年02月05日

地の塩、世の光  マタイによる福音書第5章13-21  顕現後第5主日   2023.02.05

地の塩、世の光   マタイによる福音書第5章1321  顕現後第5主日    2023.02.05


  今日の聖餐式日課福音書より、もう一度二つの言葉を思い起こしてみましょう。

 「あなたがたは地の塩である。」(5:13)

 「あなたがたは世の光である。」(5:14)

 主イエスは、小高い山の上で、大勢の人々にお話しを始めました。

 「幸いなり、これこれの人たち」という言葉で、8つの幸いを告げた主イエスの話は、「あなたがたは・・・」と主イエスの話を聴く人びとに向かって直接に語りかける調子に変わります。

 主イエスは、主イエスを見つめる弟子たちや多くの人に向かって、神の幸いの内にあるあなたがたはその祝福を受ける者としてどのように生きるべきかを語り始めます。

 主イエスは、ご自分の話を聴く人々と視線を合わせながら、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と迫るように語りかける姿が想像されます。

 私たちが「地の塩」であることと「世の光」であることは、この二つのことがただ脈絡なく並んでいるのではなく、この二つの言葉がある意味で対比して語られていることに注目したいと思います。

 先ず「塩」について考えてみましょう。

 ここで言う「塩」とは岩塩のことです。岩塩が例えば風雨に晒されていると、塩分は次第に流れ出して塩分は失われ、その石は塩味を失ったスカスカの軽石のような塊になってしまいます。その事を念頭に置けば、「塩に塩気がなくなれば・・・」という言葉は「岩塩から塩分がなくなってしまえば・・・」という意味であることが分かります。

 主イエスは「あなたがたは地の塩である」と言いました。岩塩のように福音の塩分をいただいている私たちが、「塩」の脱けた石のようになってしまえば、その人はもはや抜け殻状態であり、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と例えておられるのです。

 主イエスは、当時の背景として、ファリサイ派や律法学者たちを意識してこの話をしているように思われます。彼らは、旧約律法の枠組みを形式的に生き、しかも律法の細則を口伝律法としてその一つひとつを厳格に守り実行することが救いに至ると考えていました。主イエスは彼らのように律法を形式的に生きるのではなく、岩塩の塩分がそこから塩味としての溶け出すように、命の喜びが溢れだして御心を行う「地の塩」として生きることを勧めているのでしょう。

 主イエス・キリストの福音に生かされ、その喜びがその人の内から外に溶け出して、神に生かされる喜びを人々に味わわせる働きが「あなたがた」の働きであると言っておられるのではないでしょうか。

 塩について、視点を変えて考えてみましょう。

 塩は塩化ナトリウムの結晶です。もし、塩がこの結晶のままであれば塩味は出てきません。塩が水に溶けて人の目に見えなくなる時にはじめてその塩味が働きます。もし塩が結晶のまま塩味を出さないとすれば、それは塩の働きをしません。

 つまり人が自分にこだわり保身して結晶としての姿を抱え込んで自分の中にだけ留め置こうとすれば、塩は塩としての働きをしないのです。

 私たちの内に結晶として与えられた「塩」つまり言葉として与えられた神の御心は、私たちの内から溶け出して、他の人々と分かち合われることが必要であり、私たちはそのように主イエスによって生かされる喜びを分かち合う働き人になることを主イエスは求めておられるのではないでしょうか。

 私たちの日々の働きの中に、主イエスの御言葉を溶け込ませて、人々に福音の味を届けることで、日々の具体的な働きの中でみ栄えを現す器となるように主イエスは私たちを促しておられるのです。

 次に、「あなたがたは世の光である」という言葉について思い巡らせてみましょう。

 私たちが「光」であることとは、自らが太陽のように発光体(光源)となって自分の光を放つか、月のように自らは光源ではなく光の反射体となって他の光源が発する光を受けてその光を反射させるか、そのどちらかです。私たちは自分自身が発光体なのではなく、光に映し出されて輝く「被写体」に例えられます。私たちは光源ではなく、主イエスの光を受けその光を反射して生かされます。

 違う視点から「光」について考えてみましょう。

 当時のパレスチナの家は、屋内は壁で囲まれた一つの空間でした。普段は一つの明かりを灯して家の中全体を明るくしました。当然、燭台は家の中全体を照らす所に置かれました。灯火はその光が部屋全体を照らす所におかれて当然であり、わざわざ物陰に置かれては灯火として相応しくありません。私たちも福音の光を受けてその光を輝かす器として生かされている者であれば、引っ込み思案になったり、逃げ隠れすることなく、福音の光を人々の前に強く雄々しく輝かす使命を授かっていることを覚えたいのです。 

 主イエスの時代に、自分たちを「光の子」と名乗る一団がありました。そのグループは「クムラン宗団」と呼ばれるグループです。彼らは神殿や会堂を中心とした当時のユダヤ教の流れや町の生活から離れ、荒れ野で修道の生活をしていました。この「クムラン」の人々は「エッセネ派」と呼ばれるグループのことであっただろうと考えられています。そして洗礼者ヨハネはこのエッセネ派に属していたと考えられています。この人たちは、自分たちを「光の子」と呼び、町の人々を「この世の子」とか「闇の子」と呼んで、エッセネ派は世俗から離れて祈りと修養に集中していました。彼らは自分たちを「光の子」と呼んでいたのです。

 しかし、主イエスは、今主イエスの御言葉を求めて集まってきている貧しい人々や救いに飢え乾く人々に向かって「あなたがたは世の光である(あなた方こそ世の光である」と言っておられます。

 山の上で説教をする主イエスの御声が沢山の人々のいるその山に響きます。この御言葉を山上で聴く人々は、「地の塩」としてまた「世の光」として、人々の中で生きるように促されています。

 主イエスは、私たちに社会との交わりを絶って隠遁の修行者のように生きるのではなく、人々の中に入り込んで人々に福音を塩味のように人々に届け、あなたがたが光となって福音を示すように、弟子たちを促し励ましておられるのです。

 元のギリシャ語を見てみると、この二つの言葉はどちらも、主語、述語、補語のすべてに省略のない完全な文型を用いています。ギリシャ語は動詞が主語の人称によって語尾変化するので、普段は完全に整った構文で話すわけではなく、多くの場合は主語を省略して動詞だけで用いられます。この場で主語、動詞、補語を全部整えて表現することは、主イエスがこの内容を伝えるために一語一語を区切るようにしっかりと強調して話しておられることが想像でき、またこの福音書の言葉を受ける私たちにも、主イエスが「あなたたちこそ世の光なのだ」また「あなたたちこそ地の塩なのだ」と強い語調で語っておられることを踏まえたいと思います。

 そして、神の愛を受けその愛をこの世に表していくことによって、神の御心が実現するのであり、主イエスの働きはそのようにして旧約聖書に示されている神の御心を完成するものであることを福音記者マタイは私たちに伝えているのです。

 私たち一人ひとりが主イエスから「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」と言われていることを心に留め、その働きに与る者として養われ導かれて参りましょう。

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2023年02月03日

「時」を受け入れ「時」を活かす (あいりんだより2009年3月)

「時」を受け入れ「時」を活かす

 「何事にも時があり  天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉第3章1節)

 3月になりました。進学、進級をひかえ、子どもたちは希望に胸をふくらませる時です。それと同時に3月は、子どもたちにとってこれまでの自分に別れを告げて新しい世界、新しい次元に移っていく時でもあり、一抹の寂しさや不安を抱くこともある時です。

 私は、3月になると、かつてカウンセリングの指導をしてくださった恩師が次のように言っていた言葉を毎年のように思い出します。

 「時が人を癒したり生かしたりすることがあってね、そういう意味ではこの時期(3月,4月)は大切なのですよ。」

 かつて私が関わった次のような幼稚園生の事例があります。

 その子は、ごく普通の子でしたが夜尿がやまない子でした。やや甘えん坊ですがいつも元気に健康に遊んでいますが、夜尿はなかなか治まりませんでした。でも、その子が小学生になったとたん、夜尿はピタリと治まったのです。「時」がその子に以下のような決心させたのです。

 「他のお友達はもうオネショしていないんだって。小学生になるんだから、私ももうオネショはやめよう。」

 すべての夜尿がこれほど単純に治まるわけではないし、夜尿のある子に「あなたはもう小学生になるのだから・・・。」とプレッシャーをかければ良いというものではありません。でも、少なくともこの子にとって「時」が大きく働いたことは確かです。

 「時」は、その子にとってそれまで「甘えん坊」だった自分に別れを告げさせ、自立の段階を一つステップアップさせたと言えるかもしれません。

「何事にも時がある」ということは、何もせずただすべてを神に任せてこちらはジッとしているということではありません。鳥がしっかりと巣立つために、親鳥は小さなヒナにえさを運んだりわざと少し離れた場所にえさを取りに来させたり子育てをしますし、ヒナ鳥も巣の中で幾度も羽ばたきの仕草をして筋肉を鍛えたり親鳥にえさの捕獲の訓練を受けながら、巣立ちの時を迎えるのです。

「時」は待つものでもありつつ、活かすものでもあります。その状況を受け入れて「時」が来るまで耐えなければならないこともありますが、「時」を活かして積極的に動かなければならないこともあるでしょう。

いずれにしても、今という「時」のはるか先で、神さまが私たち一人ひとりを大きな御手の中に位置づけてくださいます。やがて時がたち、今という時を振り返って「あの時があったからこそ今の自分がある」と言えるようになりたいと思いますし、そうなるためには、日々祈りの思いをもちながら、「時」が熟するのを待ちながら、ていねいに子どもに関わっていく他に子育ての王道はないのではないかと思います。

(あいりんだより2009年3月)



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