2022年05月30日

一つとなるように  ヨハネによる福音書第17章20-26

一つとなるように ヨハネによる福音書第17章20-26  C年 復活節第7主日  2022.05.29

 今日、復活節第7主日は主イエスが天に昇られたことを記念する昇天日の直後の主日です。教会暦では、去る木曜日に昇天日を過ごしました。甦りの主イエスは40日にわたって弟子たちにそのお姿を現し、甦りの日から40日経った日、弟子たちの見ている前で天に昇って行かれました。この出来事は、ある一面から言えば、地上の主イエスと弟子たちとの「別れ」の意味があります。主イエスが天にお帰りになった後、弟子たちはもう目に見える主イエスと親しく顔と顔を合わせた交わりの中で生きることはなくなります。これから弟子たちは、主イエスの残された御言葉と行いを自分の力として生き、また主イエスのことを人々に伝えて生きていくことになります。弟子たちは、天におられる主イエスが残してくださった御言葉に生かされ、その教えを実践する中に共にいてくださる主イエスを信じ、また証しながら、生きていくことになります。その弟子たちに、御心を行う力-聖霊-が与えられるのですが、今日は主イエスが天に昇った後にまだ聖霊が与えられていない「待ち望み」の主日と呼ばれる主日です。
 主イエスは、十字架につく前夜、弟子たちと過ごす最後の夜に、弟子たちの足を洗い、長い「別れの言葉(告別の説教)」を残しておられます。その内容は、ヨハネによる福音書第13章半ばから第16章の終わりまで続きます。そして、第17章に入ると、主イエスは十字架への緊張感を覚えながら、ひたすらに祈っておられます。福音記者ヨハネは、その場所を明記してはいませんが、恐らく、他の3福音書が記すオリーブ山のゲッセマネの園での祈りであったと考えられます。
 ヨハネによる福音書第17章全体がその祈りであり、主イエスが天の父なる神と弟子たちとの間におられ、その祈りの内容が弟子たちのために捧げた祈りであることから、この個所は「大祭司主イエスの祈り」の個所とも言われています。
 その夜が明けて日が昇る頃、弟子たちは地上での主イエスを失う経験をすることになり、また、主イエスが復活した後にはそのイエスを目で見て確かめることができなくなる経験をします。人は誰でも大切な人と別れたりその人を失ったりすると、心にポッカリと穴が空いてしまったような思いになります。弟子たちもまた主イエスとの別れによって、そのような「喪失体験」を味わうことになります。
 弟子たちの多くはガリラヤで主イエスに召し出されて、自分の仕事を捨てて家族を残して主イエスにすべてを委ねてエルサレムまで主イエスに従って来ました。主イエスは十字架の上で神の御心を完全な形で示してくださいますが、その十字架の出来事は、弟子たちにとって、この世での生身の主イエスを失うことにもなりました。その時が間近に迫ります。その緊迫した場面で、主イエスは祈っておられます。この祈りの言葉に、主イエスが神と人々が一つであることを願うその思いがよく表れています。
 主イエスは、21節で「すべての人を一つにしてください」と言い、22節では「私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と言い、23節でも「彼らが完全に一つになるためです」と言って祈っておられます。更に26節でも「私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです」と言っておられます。この世界に残って生きていく弟子たちが、天の主なる神と一つであり、主イエスと一つであることを願い祈っておられます。
 この世は、主イエスが来られるまで、神の具体的なお働きを理解できない状態にありました。ことに主イエスの時代に、イスラエルの指導者たちは神との関係を神殿での祭儀と律法の細かな文言の中に閉じ込めてしまい、神殿での祭儀を行う人々や律法の専門家以外の人々にとって、遠い存在になってしまっていました。そして、多くの人々は、神と一つになる経験を持つことが出来なかったのです。
 でも、主イエスは主なる神の御心をこの世界に示してくださり、特に、主イエスは十字架の上で神の私たち人間に対する完全な愛の姿を示してくださいました。主イエスは、主なる神と完全に一つである姿を十字架の死をを通して私たちに示してくださり、また、主イエスは神の子としてこの世界の人々と完全に一つとなって生き抜いてくださいました。私たち人間の方からは神と一つになれなかったにもかかわらず、主イエスを仲立ちとして、私たちは主イエスの十字架を通して主なる神との間にある深い断絶を埋めていただきました。私たちは主なる神を「天の父よ(アッバ、父よ)」と呼んで一つになることができるようになったのです。
 この「一つになる」ということは、私たちの考えや信仰の質がすべて均一になることを意味するのではありません。主イエスが今は天におられ、そこからこの世界とそこに生きる私たちのために祈っていてくださるが故に、私たちは主イエスと一つとなり、私たちもその信仰によって一つとなれるのです。そのように一つとされた私たちは、かけがえのない一個の人間として互いに愛し合い支え合い、自分の可能性を広げ、信仰を深めていくことへと導かれています。そして私たちは、主イエスが今は天にあってこの世界を祝福してくださっていることをそれぞれの人の生き方を通して具体的に示し、主イエスの祈りがこの地上で実現するように働くことへと召し出されています。私たち一人ひとりは違う人間であるからこそ、信仰によって一致して、具体的な生活の場でそれぞれが主イエスの祝福を表すために生かされるのです。
 このように主イエスは、私たちの大祭司として、私たちが神と、そして私たちが互いに、一つになれるように最後の晩に祈ってくださったのであり、今も主イエスは天で祈っていてくださいます。そして、神のこの世に対する働きは主イエスの昇天で終わってしまうのではなく、御心を表すために働く人たちのために聖霊を与えてくださるのです。聖霊は、私たちがそれぞれに生活する場で御心を表すことができるように、その力となって私たちに働いてくださるのです。
 主イエスがこの世界での働きを完成して天にお帰りになって10日経った日、弟子たちは聖霊の力に突き動かされて世界に主イエスのことを伝え始めました。その当時キリスト教が、迫害されながらも、僅か半世紀ほどの間に地中海沿岸の全域に拡がっていったことは奇跡的なことでした。そこには、かつての無学で弱い弟子たちからは想像できないほどに力強い働きがありました。自分が置かれた場所、遣わされた場所に神の御心が行われるようにと働くところに、神がその人と一つであることを示し、神の愛が力となって働いてくださるのです。
 主イエスは神と私たちが一つであるように祈ってくださっています。神は、私たちと神が一つであることの約束のしるしとして、私たちに聖霊を与えてくださいます。それは、イエスの直接の弟子たちの働きに限ったことではなく、時代を超えて私たちにも及んでいます。私たちが神の御心を行う時、聖霊の力は私たち人間の思いを遙かに越えて働いてくださいます。聖霊の力は、私たちが天の主なる神と一つであることの証として神から私たちに与えられます。
 私たちは、主の祈りの中で「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈ります。私たちが主イエスによって天の主なる神と一つにされることによって、この祈りは実現するのです。私たちが天の主なる神と一つとされ神の御心をこの世に表す証人となる時、私たちは聖霊の力が働く器となってそれぞれの働きに用いられるのです。
 主イエスが私たちを神と一つにしてくださったことを感謝し、この世界が神の祝福を表す場として一つとされるようにそれぞれの働きへと遣わされて参りましょう。
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2022年05月23日

み言葉を思い起こさせる弁護者   ヨハネによる福音書第14章23-29 

み言葉を思い起こさせる弁護者       ヨハネによる福音書第14章23-29  C年 復活節第6主日  2022.05.22

 教会暦の復活節も終盤に入り、聖書日課のテーマも、主イエスの甦りを祝うことから目に見える主イエスとの別離のことへと移っています。
 今日の聖書日課福音書の箇所も、主イエスが十字架におかかりになる前の晩に弟子たちにお話しになった「告別説教」と呼ばれる箇所からの言葉が取り上げられています。
 ヨハネによる福音書14:26を心に留めましょう。
 「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
 弟子たちにとって、これまで主イエスの働きを自分の目で確認し、主イエスから直接にその言葉を受けてきたことは、どれほど心強かったことでしょう。でもこれから先、弟子たちはこれまでのようには主イエスに頼る事はできなくなります。主イエスが見えなくなっても、弟子たちはその主イエスを信じて生きていかなくてはなりません。そのような状況の中で、主イエスは弟子たちに一つの約束をしてくださいました。それは、弟子たちのところに「弁護者」すなわち主イエスの名による助け主である聖霊を送ってくださる、ということでした。
 今日の福音書の箇所で「弁護者」と訳されている言葉に着目してみましょう。
 この言葉は、原語では「パラクレートス(παρακλητos)」という言葉で「パラ:傍らに」「カレオー:呼ぶ、名付ける、召し出す」という言葉で成り立っており、「傍らに呼び出された者」という意味があり、この言葉は「裁き主の傍らに立ち、また罪ある者の傍らに立ち、私たちを弁護する者」という意味の言葉なのです。
 主イエスはもうすぐ地上での生涯を終え、弟子たちは直接主イエスと目に見える交わりを持つことはなくなります。それは弟子たちにとって主イエスを失う経験にもなりますが、主イエスが自分たちの目に見える存在でなくなることは主イエスとの関係が全てが終わってしまうことを意味しているわけではありません。主イエスは、弁護者である聖霊が生前の主イエスの言葉を思い起こさせることを約束してくださっています。
 そして、主イエスは弟子たちと共にいてくださった時と同じように、私たちを神さまの御心へと促し、支え、主イエスのみ言葉が「今、ここで」の言葉となって、私たちの助けとなってくださるのです。
 この弁護者の働きは、単に「昔イエスという男がいた」と言うことを思い出させるという働きではありません。この弁護者は、いつでも今この時にこの場所に私の傍らにいてくださって、私を支える働きをしてくださいます。
 主イエスのみ言葉がこのように働く例として私たちにも理解しやすいのが、十字架につけられる前に捕らえられて大祭司の館で取り調べられている場面でのペトロのことです。
 ヨハネによる福音書第13章で、主イエスは弟子たちの足を洗って別離の式をなさり、そしてご自分が十字架に付けられることを予告なさいました。それを聞いていたペトロは主イエスに向かって「あなたのためなら命を捨てます」とまで豪語して見せました。でも、主イエスはペトロにこう言います。「鶏が鳴くまでにあなたは3度わたしを知らないと言うだろう」。
 ペトロは、主イエスが捕らえられた時に一度は逃げ出してしまいますが、首尾良く大祭司の館に入り込むことが出来ました。ところがこの館の女中はペトロを見て「あなたもあの人の弟子の一人だ」と詰め寄ります。ペトロは「違う」と言って取り繕いますが、また大祭司の僕から「あの男の弟子の一人ではないか」、「あなたがあの男と一緒にいるのを見たよ」と言われると、ペトロは我を忘れて「違う」、「知らない」と言ってしまい、その時主イエスが言われたように鶏が鳴いたのでした。ペトロは我に返り、主イエスの言葉を思い起こしてその場を逃げ去り、外に出て激しく泣いたのでした。「思い起こす」とは、例えばこういう事です。
 ペトロにとって主イエスの言葉は「あの時あの場面」に限った言葉ではありません。主イエスのことを「知らない」、「違う」と呪いの言葉まで口にしてしまうペトロに、主イエスの言葉はまさにその時、その場で働きかけて、ペトロは本当の事へ、本当の自分になる事へと連れ戻されるのです。
 今日の福音書で、主イエスは、この地上で弟子たちにとっていつも目に見える存在ではなくなるけれど、神があなたがたに聖霊をおくり、その聖霊が主イエスのみ言葉を思い起こさせる、と言うのです。逆にもし、主イエスがまだ肉体を取ってこの世におられ、目に見えるお方であるとすれば、実在するイエスのいるところ以外にイエスはいないことになります。でも、神から弁護者が遣わされ、その弁護者が主イエスを思い起こさせて私たちを力づけて下さるのであれば、主イエスは時間を超え空間を超えて、私たちがいつどこにいても、私たちは主イエスのみ言葉が今ここに働く言葉として受け止めて生きていくことができるのです。
 そうであれば、私たちは日頃から主イエスのみ言葉を私たちの内に豊かに宿らせる必要があることが分かるでしょう。み言葉が私たちの内に思い起こされる前提として、先ず私たちが、主イエスのみ言葉を自分の内に豊かに宿らせねばなりませんし、主イエスがかつて(日曜学校で、家庭で、主日礼拝での御言葉の朗読や説教で、聖書の学びの会で、クリスチャンの友人との会話の中で等々をとおして)語ってくださった御言葉が宿っている必要があるのです。
 今日の福音書によれば、聖霊は主イエスが教えてくださったこと、お話しくださったことを私たちに思い起こさせる働きをします。主イエスのみ言葉が私たちの内に豊かであれば、困難の時や悩みの時にも、弁護者である聖霊が、主イエスのみ言葉を私たちの内に思い起こさせ、その御言葉が主イエスの今ここでの力となって私たちを導いてくださいます。
 ルカによる福音書10:38-39にマルタとマリアの姉妹の話があります。
 マリアは主イエスのおそばで主イエスのお話に聴き入っていました。マルタは自分だけでなくマリアにも主イエスをもてなしす食事などの働きをするように言わせようとしました。その時、主イエスはマルタに、「必要なことはただ一つで、マリアはその良い方を選んだのであり、それをマリアから取り上げてはならない」と教えます。
 私たちも礼拝の中で朗読されるキリストの言葉に養われることをおろそかにせず、日々御言葉に触れる機会を増やし、キリストの言葉を私たちの内に豊かに宿らせていきたいのです。
 教会に来て聖書のみ言葉の糧をいただき養われることは、この世界をうまく渡っていくための即効薬や特効薬を受けることではありません。弁護者である聖霊が私たちに思い起こさせようとする主イエスのみ言葉は、そうした即効薬や特効薬よりもっと深く私たちの存在そのものに関わるものです。
 主イエスが私たちの目に見えないと思える時、近くにはおられないと思える時にこそ、私たちは聖霊に導かれて主イエスがお与えになるみ言葉を通して主イエスと出会うことが出来るのです。
 私たちが途方に暮れる時、為す術も失ったと思える時にも、弁護者である聖霊は主イエスがお話し下さったみ言葉を私たちに思い起こさせ、主イエスの御力によって生かして下さることを、私たちは約束されています。
 私たちは信仰生活の中で、時に主イエスを見失って主イエスがどこにおられるのか分からなくなるような経験をします。そのような時にも聖霊が私たちと共におられ、時を超え、場所を超えて、私たちを主イエスとつないでくださいます。聖霊は、私たちが自分で思い考え意識しているよりももっと深く、私たちを支えてくださいます。日々、主イエスのみ言葉に養われ、悩みや困難の中でこそ、復活の主イエスに導かれて参りましょう。
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2022年05月18日

新しい掟「愛し合う」  ヨハネによる福音書第13章31-35

新しい掟「愛し合う」 ヨハネによる福音書第13章31-35   C年 復活節第5主日  2022.05.15

 教会の暦では、復活節も後半になりました。復活節のテーマは、前半では主イエスの甦りの喜びですが、後半では甦った主イエスに生かされる弟子たちへの教えや励ましへと移って参ります。
 主イエスは十字架に架けられる前の晩に、弟子たちにいわゆる「告別の説教」をなさいました。今日の聖餐式聖書日課福音書は、主イエスが十字架にお架かりになって神の御心を完成する前の晩に、弟子たちにお話になったいわゆる「告別の説教」と呼ばれる箇所の始めの部分です。ヨハネによる福音書第16章の終わりまで主イエスの「告別説教(遺言)」が続きます。
 場面は生前の主イエスが弟子たちと過ごす最後の夜です。イスカリオテのユダが主イエスを売り渡す下心を持って部屋から出てユダヤ教の指導者のところに向かいます。ユダがイエスと他の11人のいる部屋を出て行ったところから今日の聖書日課福音書の箇所が始まっています。
 主イエスは、ご自身の死が近づく緊張感の中で弟子たちに別れの言葉を話し始めました。主イエスは、これまでいろいろなおりに「私の時は来ていない」と言っておられましたが、ユダが裏切りのために具体的に動き出したことで、時は主イエスの栄光の時へと急速に動き出します。
 主イエスの遺言とも言えるこの告別説教の始めに、主イエスはご自身を通して示される神の栄光について話します。
 栄光という言葉、聖書の中に沢山用いられているとおり、大切な言葉なのですが、改めてこの言葉の意味を考えてみると、意外と理解しにくい言葉のようにも思えます。ここでは一先ず「栄光」とは「神の輝くばかりの素晴らしさ」と意訳して、主イエスが弟子たちに語る栄光について考えてみましょう。
 主イエスは、この31節と32節の中で「栄光δοξα」の動詞形である「栄光を現すδοξαζω 」という言葉を5度(日本語訳では4度)用いて話しておられています。
 「栄光」という言葉は聖書の他の箇所にも出てきますし、大切な言葉なのですが、改めて「栄光」とはどのようなことなのか考え直してみると意外と難しい気もします。ここではひと先ず「栄光」を「神の輝かしいばかりの素晴らしさ」と意訳して、主イエスの教える「栄光」について見てみましょう。
 その栄光の内容を見てみると、先ず、31節で「今や人の子は栄光を受け」が意味する主イエスの十字架によって示される栄光。そして、「神も人の子によって栄光をお受けになった」が意味する主イエスをこの世に与えてくださった父なる神の栄光。32節に記されている「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば」が意味する御子イエスを復活させて示した栄光。さらに「神のご自身によって人の子に栄光をお与えになる」が意味する御子イエスを天に挙げて神の右の座に着かせることに示される神の栄光。この4つの栄光について主イエスは語っておられます。主イエスは、別れの説教を、先ず主なる神の働きに現れ出てくるこのような栄光について弟子たちに伝えることから始めておられます。
 蛇足になりますが、日本語訳で一つ隠れているδοξαζω は32節の終わりにあり、そこを直訳すれば「しかも彼は直ぐに彼を栄光化する」になります。
 主イエスは、このように、神のお働きがいかに栄光に富んでおり、崇められるべきかを語った後、34節で、主イエスは11人の弟子たちに「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい」と言っておられます。弟子たちが互いに愛し合うことができるのは、栄光に富んだ神の子主イエスがあなたがたを愛したから、それに基づいてあなたがたも互いに愛し合うことができるし、愛し合うべきだからなのです。私たちが神の愛の基づいて互いに愛し合うとき、神はそこにおられ、そこに神の願っておられる姿が現れ、私たちも神の栄光に与るのです。
 主イエスの地上での生涯はあとしばらくの時が経てば終わってしまいます。主イエスは復活して神の栄光を表しますが、その主イエスも天に帰って、弟子たちの目に見えるこの世界での主イエスの働きは終わってします。でも、それは神のお働きが終わってしまうことを意味するのではなく、主イエスから神の愛を受けた弟子たちによって、引き継がれ、弟子たちは互いに愛し合うことによってこの世に神の働きを示し、神の栄光を示すのです。なぜなら、その働きを担う者に神はそれを行う力である聖霊を与え、私たちが互いに愛し合う働きを助けてくださるからです。だから、「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と、主イエス弟子たちには命じておられるのです。
 例えて言えば、「私があなたがたがを愛したように」ということに示される縦の棒と「あなたがたも互いに愛し合いなさい」という横の棒が主イエスを中心にした掟(戒め)として十字架によって示されるのです。
 甦った主イエスは愛の中にいてくださり、私たちがお互いを大切にし合う中で、私たちはそこにおられる主イエスによって力付けられ育てられていくことになります。
 この掟は11人の弟子に限らず、主イエスを救い主として受け容れ信じる私たちにも及んでいます。主イエスが弟子たちを愛してぬいて弟子たちを生かした力によって私たちも生かされています。私たちもその愛によって互いに愛し合う時、主なる神は人の思いを越えて働いてくださり栄光をお示しになります。主イエスの復活の力は、私たちが倒れた時、くじけた時、あきらめた時にさえ、私たちの思いを超えて働いてくださる神の力です。
 教会は主イエスによって栄光を表した神の愛の共同体であり、教会は主イエスによって示された神の愛に生かされている者が栄光ある神に向かって感謝と賛美を捧げる礼拝共同体です。
 主イエスは、イスラエルで具体的なお姿を取ってお働きになった後、甦ってくださり、私たちが何時どこにあっても私たちの具体的な生活の中で愛の内に働いてくださいます。
 この説教の始めにも触れたとおり、今日の聖書日課福音書は、主イエスが十字架の死へと向かう前夜に、弟子たちに別れの説教をするその話し始めの箇所です。私たちも、かつての弟子たちのように、主イエスを失うかのような、目の前の主イエスがいなくなってしまったかのような経験をする時もあるでしょう。でも、主イエスはそのようなしばらくの艱難の後に、その艱難に勝る大きな恵みを与えてくださることを約束して下さっています。主イエスが弟子たちの前から去っていくことは、私たちが互いに愛し合うことによって、私たちが何時、どのような場面にいても、主イエスの愛の力に生かされ主なる神の栄光を表すためであることを今日の福音書は私たちに教えています。
 私たちは復活された主イエスを目に見て確認することはできなくても、主イエスが生きて私たちを支えていてくださることを信じて、主イエスがお与え下さった新しい掟を全うし、主なる神の栄光を表す器となれるように復活の主イエスに導かれて参りましょう。
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2022年05月09日

良い羊飼いに聞き従う  ヨハネによる福音書第10章22-30

良い羊飼いに聞き従う ヨハネによる福音書第10章22-30   C年 復活節第4主日  2022.05.08
 
 今日の主日は、良き羊飼い主イエスを覚える主日です。
 今日の聖書日課福音書で、主イエスはご自身を羊飼いにたとえ、また主イエスのみ声に聞き従う人を羊飼いの声を聞き分ける羊にたとえておられます。
 福音書記者ヨハネは、「その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」と記しています。
 恐らく、その当時、この福音書の読者は、この言葉によってあるイメージを共有できたのではないでしょうか。例えば、私たち日本に生きる者にとって、ある文章に「その時、広島で原爆被災者の慰霊祭が行われていた。夏であった」と記してあれば、その場面設定が読者に共有されることになるでしょう。
 その意味で、今日の福音書からメッセージを受けるにあたり、始めにこの「神殿奉献記念祭」についてふれておきたいと思います。
 「神殿奉献記念祭」とは、紀元前165年に,イスラエルの国が一時期独立を取り戻し、エルサレム神殿を改めて聖別したことを覚え、そのことを記念して行われていた祭りのことです。
 マケドニアのアレキサンダー大王が地中海沿岸を中心に広く支配したのは紀元前330年の頃でしたが、その後継者であるアンティオコス王朝に4世エピファネスという人がいました。この人は紀元前175年から164年の間王位に就いていますが、彼は紀元前168年にユダヤ教の根絶をはかり、徹底してユダヤ教を禁止、弾圧したと伝えられています。この「悪の元凶」とも言われたアンティオコス4世エピファネスは、その当時エルサレム神殿を異教の神であるオリュンポスの神ゼウスを礼拝する場にしてしまったのです。またこの時代の様子については、旧約聖書続編のマカバイ記の中に記されています(Ⅰマカバイ1:10-64,4:36-58、Ⅱマカバイ6:2,10:1-8)。
 そして、このアンティオコス4世エピファネスの息子たちは王位継承問題で互いに反目し、王朝は次第に衰退していくことになり、その時をねらいユダのマカバイ一族はエルサレムを取り戻すことができました。
 紀元前165年12月25日、マカバイ一族を中心とするイスラエルの民は、エルサレム神殿に置かれた異教の偶像を取り払い、主なる神の祭壇を回復しました。こうしてユダ・マカベアがエルサレムを奪回して祭壇を回復したことを記念し、イスラエルの民の間で,この季節に年ごとに記念礼拝が行われるようになりました。この記念礼拝が、今日の福音書に出てくる「神殿奉献記念祭」です。
 本来、エルサレム神殿はイスラエルの人々が信じる唯一の神を礼拝する聖なる場所であり、かつイスラエルの人々にとっては民族の一致と団結のシンボルでもありました。その神殿が、異国の神をまつる場所にされて汚されたことは、イスラエルの民にとっては耐え難い屈辱でした。また、マカバイ一族を中心にしてエルサレムを奪い返し、神殿を主なる神を礼拝する場所として整える事が、イスラエルの民にとってどれほど深く大きな喜びであったかということは、私たちの想像を超える思いだったことでしょう。
 今日の福音書の舞台はこのエルサレム神殿であり、ちょうど神殿奉献記念祭が行われている頃でした。
 しかし、主イエスの時代はそれから200年経とうとする時代であり、初めての神殿奉献祭が行われた頃とは時代の状況は大きく違っていました。
 その後、イスラエルの国は、紀元前63年にローマ帝国に占領され、その属国として支配されました。その頃のローマ帝国の政策は、ローマに対して反抗したりその秩序を乱さない限りイスラエルの民として主なる神礼拝することが許されていたのです。そのような状況の中、ユダヤ教の指導者たちはローマの顔色を見ながらその体制の中で自分の利益を貪ることに心を奪われていました。彼らは自分たちの政治的宗教的な体制を守ることに思いを向け、神殿から発せられるメッセージは力なく、同じ国の弱者、貧困にある人々の救いには少しも手を貸そうとしませんでした。
 策略家であった領主ヘロデはイスラエルの民の思いを鎮めるためにエルサレム神殿の補修を始め領主がヘロデ家の中で代替わりしても、イエスの時代にもその補修工事は続いていました。当時のユダヤ教の指導者たちは領主ヘロデを憎みながらも、ローマにもヘロデにも当たり障りのない立場を取り、おそらくそのような時代状況の中で毎年の神殿奉献記念祭を繰り返していたことでしょう。
 しかし、主イエスの目から見ると、こうしたエルサレム神殿は少しも神の霊に満ちた聖なる場ではありませんでした。
 ヨハネによる福音書には第2章13節からの箇所に、主イエスがいわゆる「宮清め」をなさった記事があります。主イエスは、当時のエルサレム神殿が神の御心を表す場でなく商売の場となっている様子をご覧になって、その神殿を管理し運営するユダヤ教の指導者たちを「私の父の家を商売の家としてはならない」と、厳しく批判したのでした。主イエスの目には、荘厳な神殿の内実がまるで商売人の支配しているところのように見えたのでしょう。 
 主イエスは「私の羊は私の声を聞き分ける」と言われました。
 私たちは主イエスの御声に聞き従っていこうとすることによって、神の御心にかなう歩みが少しずつできるようになり、他の人を主イエスの御声を聞くように導くことができるようになります。主イエスを自分の羊飼いとしてその御声に聞き従っていこうとする人は,その力が養われ、ますます主イエスの御心に生きることへと導かれるでしょう。
 その当時の羊飼いは、一人で100頭ほどの羊を飼い、日中はそれぞれに羊を野原に遊ばせ、夕方になると野原の所々にある大きな石の囲いの中に他の羊飼いの羊も一緒に入れて共に羊を守って夜を過ごし、朝になるとまた羊飼いはそれぞれに自分の羊を連れて野原に散っていきました。その時羊たちは皆自分の飼い主の声を聞き分け自分の羊飼いに導かれていきました。
 羊は生まれた時から自分の羊飼いの声を聞いて育ち、自分の飼い主の声を他の人の声と聞き分けることができるように育つのです。
 私たちも、信仰者として生まれたばかりの小羊のように、主イエスの御声に敏感になり、主イエスの御声を聞き分け、主イエスに養われ、羊飼い主イエスに従って歩めるよう育まれていきたいのです。私たちは、はじめからその御声を聞き取り聞き分けられるわけではありませんが、主イエスの声を聞こう、御心が何であるかをたずね求めて歩もうとする人は、やがては主イエスの御声をしっかりと聞き取り、導かれるようになるのです。
 そして、主イエスが言っておられるように、「彼らは決して滅びず、誰も彼らをわたしの手から奪うことはできない(10:28)」世界へと導かれるのです。
 今、私たちの生きる世界は、多くのことを経済的な価値に換算して効率が良いかどうかを判断基準にしています。例えばこのような損得の判断基準しか示すことのできない偽羊飼いや、武力によって多くの羊を奪う狼のような偽羊飼いが数多く現れています。けれども、主イエスは良き羊飼いの御声に聞き従う人について「誰もわたしの手から奪うことは出来ない」と言っておられます。私たちが、青草も水場もないような荒れ野を歩まなければならない時にも、主イエスは良き羊飼いとして、私たちを導いてくださいます。
 主イエスは、私たちが群れから迷い出た時にも私たちを死の果てまで探し求め、連れ戻し、失ったものが生き返ったのだからと言って天に祝宴を設けてくださいます。事実、主イエスは十字架の死と復活によってそのことを示してくださいました。そして、小さな羊のような私たちを聖霊を宿す神の神殿として祝してくださり、御国へと招き続けてくださいます。
 良い羊飼い主イエスの御声をしっかりと聞き分け、聞き従う歩みを通して、私たちはますますその力を育てられ、永遠の命の喜びへと導かれて参りましょう。
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2022年05月01日

ティベリア湖での大漁   ヨハネによる福音書第21章1-14

ティベリア湖での大漁     ヨハネによる福音書第21章1-14  復活節第3主日  2022.05.01

 今日の聖書日課福音書のヨハネによる福音書21章1節~では、、ガリラヤ湖で復活の主イエスによって、大漁を得ることができた弟子たちの物語が記されています。この箇所ではガリラヤ湖がティベリアス湖と呼ばれていますが、ガリラヤ湖畔に新しく建てられた町を皇帝ティベリウスにちなんで町の名としたことからこの皇帝の名によって「ティベリアス湖」とも呼ばれるようになったと伝えられています。
 ヨハネによる福音書では、主イエスの十字架の死と復活の後、幾人かの弟子たちは自分たちの生活の場であったガリラヤ地方に戻って、湖で漁をする生活に戻っていた様子が伺えます。
 生前の主イエスがガリラヤ地方で宣教の働きをお始めになった時、先ずペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子として召し出されました。この4人をはじめ他にも3人がガリラヤ地方に戻り、その日は漁をしていたと、今日の福音書は伝えています。その日、彼らは舟で湖に漕ぎ出して夜通し漁をしましたが、何も取れませんでした。もう夜が明け、彼らは網を引き上げて岸に戻ろうとしていました。その時、数十メートル離れた陸地から声を掛ける人がありました。「子たちよ、何か食べるものはあるか」。
 原文のギリシャ語では、「子たちよ、食べるものは何も無いのだね」とも読むことが出来ます。そのお方は、漁師たちに舟の右側に網を打つように告げました。そして、この言葉に従った弟子たちは思いもよらぬ大漁を得て、その重さに網を引き上げることも出来ず、網を引いたまま舟を漕いで岸まで戻っていったのでした。弟子のヨハネは岸辺の人が甦った主イエスであることに気付き、「主だ」と言います。ペトロはそれを聞くと湖に飛び込んで、真っ先に主イエスのところに行こうと泳ぎます。岸辺に着いた弟子たちは主イエスが岸辺で用意していてくださったパンと魚で、共に親しく朝の食事をしたのでした。
 これが、主イエスが復活した後に3度目の姿を現された出来事です。
 今日の聖書日課福音書に採用されているいわゆる「大漁物語」と同じような内容の物語が、ルカによる福音書第5章1節からにもあり、そちらでの「大漁物語」は、主イエスが宣教のお働きを開始したごく初頃に漁師のペトロが主イエスの弟子として召し出される文脈に配置されています。
 ヨハネによる福音書の「大漁物語」は、甦った主イエスがお姿を現された文脈の中にありますが、この違いについて、次のように説明する聖書学者たちがいます。福音書に記されている多くの出来事は、始めから文章にまとめられていたのではなく、それぞれに散らされた信仰者たちの間で語り継がれており、やがてそれぞれの信仰者の集団の中でそれらの言い伝えが集められて、主イエスを伝える文章として編集されていった。福音記者ヨハネは主イエスを伝えるための文書を編集するときに、「大漁物語」の言い伝えを、主イエスの復活の脈絡の中にある意図をもって用いたと考えるのです。また、ルカの場合にはこの「大漁物語」を主イエスが漁師を弟子にする物語の脈絡の中に置いて、このような奇跡を行って神の子としての姿を現された主イエスにペトロが召し出されていくという編集をしたと考えるのです。もしこの「大漁物語」という素材があってそれを福音記者ヨハネも自分が主イエスを伝える文章の中に用いたのだとすれば、福音記者ヨハネがこの「大漁物語」を主イエスの復活の脈絡の中に位置づけた意図とは何であったのかが問われます。
 それは、復活した主イエスはどこか遠い所におられるのではなく、弟子たちの日常の生活の中に働いていてくださり、私たち信仰者の日々の生活の中にいてくださることを伝えているということなのです。
 ルカによる福音書の方では、ペトロが主イエスの言葉に従って大漁と得たとき、ペトロは自分の罪深さに気づき、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言っていますが、主イエスはそのようなペトロを真っ先に弟子にしたのでした。
 そのようなペトロをはじめとする弟子たちは、主イエスを十字架に失うことをとおして自分の無力さや罪深さに気付かされ、また彼らは甦りの主イエスにお会いして初めて神の愛の永遠性とその中に生かされている喜びを本当に知ることができたのでした。
 ペトロ、ヤコブやヨハネなど多くの弟子たちにとって、ガリラヤはふるさとであり、主イエスとの出会いの地であり、彼らはそこで召し出されて信仰の歩みが始まりました。復活した主イエスは、弟子たちの生活と信仰の原点であるガリラヤへと立ち帰らせ、そこから弟子たちを改めて主イエスは復活した神の子であることを世界に伝えることへと人生のステージを進ませているのです。福音記者ヨハネは、十字架で死んた救い主イエスは人々の生活の中に生きて働いておられるということを、この「大漁物語」を主イエスの復活の後のガリラヤ湖での生活という脈絡の中に位置づけている意図なのです。
 先にも触れたとおり他の3つの福音書では、ペトロはガリラヤ湖で主イエスよって大漁の経験を与えられ、更に主イエスさまから「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉を与えられ、弟子として召し出されました。その召命は、主イエスさまが十字架に死んでもはや過去のものになってしまった、と言うことではありません。復活の主は弟子たちの生きる真っ直中に共に居られ、弟子たちにとってそこで主が働いていて下さることは弟子たちには確かなリアリティーがあったのです。
 今日の福音書では、弟子たちが大漁を獲た時、それは自分の手の業ではなく主イエスの導きによる結果であることをはっきりと悟っています。岸辺で「舟の右に網を打ちなさい」と指示したお方が主イエスだと分かったひとりの弟子がペトロに「主だ」と言っています。
 私たちは、何か事がうまく運んだ時、そこに働いて下さったお方を「主だ」と告白するのでしょうか、それとも多くの収穫を得たのはあたかも自分の力であるかのように自分を誇るのでしょうか。私たちは、主の働きに仕えれば仕えるほど、主ご自身が生きて働いてくださっていることを実感するはずです。
 使徒パウロは生前の主イエスと共に過ごしたことはありませんでした。パウロは主イエスやその弟子たちを迫害する側にいた人です。やがてパウロは、復活の主イエス・キリストに生かされていることを実感し、「生きているのはもはや私ではありません。キリストがわたしの内にいきておられるのです(ガラ2:20)」と言いました。復活の主イエスは、その働きに仕える者のために、場を備え、時を備え、たとえ私たちが夜通し漁をして全く収穫のないような状況にあったとしても、私たちを導き、働いて下さっているのです。
 ガリラヤ湖の弟子たちが引き上げた魚の数は百五十三匹でした。ここでわざわざ「百五十三匹」としていることは興味深いことで、この数字については色々な説明がされています。「大きな魚が一五三匹であった」ということをそのまま受け止めれば良いという以外にも、この数字の意味を考える聖書学者もいて、その一つが当時知られていた魚の種類が153種であったという説です。そう考えると、百五十三匹の魚が捕れたということは、主イエスに導かれて降ろした網の中には全ての種類の魚が入っていたという意味になり、しかも「それほど多く捕れたのに、網は破れていなかった」のです。
 主の救いの約束に招かれているのは、153種類の全てつまりこの世界の全ての人と捕らえることができます。弟子たちはこれから主イエスを宣べ伝えるために世界に向かいますが、その教会はユダヤ教の民族主義を乗りこえ、世界のあらゆる人を包み込んで破れることなく、主イエスによって常に一つであることを私たちは教えられるのです。
 私たちも、主イエスの救いの網の中に捕らえられている者であり、それと同時に主は私たちを人間をとる漁師として召し出してくださり、私たちはおのおのの働きを通してあらゆる人々を主イエス・キリストの体である教会に導くように、遣わされています。夜通し働いても全く収穫がない時にも、復活の主イエスは私たちにその働きの網を打ちなさいと励まし導いておられます。
 ティベリアス湖で復活の主イエスが弟子たちに示された大漁の出来事は、復活の主イエスが私たちキリスト者を用いてそれぞれの生活の場で実現しようとしておられることです。なかなか収穫が得られないと思えるときでも、祈りつつ網を打つように主イエスは私たちを促しておられます。ティベリアス湖で大漁を与えられた弟子たちのように、私たちも主の御声に従い、自分の生活の直中で主の御心を行うことが出来ますように、復活の主イエス・キリストに生かされて参りましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 16:12| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする