2023年02月23日

食欲の秋に向かって (あいりんだより2009年9月号)

食欲の秋に向かって

 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(マタイによる福音書6:25)

 今夏の研修会の中で、わたしにとって一番インパクトが強かったのは、現代の子どもたちにとって人間関係を創り上げていく環境がいかに損なわれているかということの学びでした。

 食の環境においても、家庭で手作り料理を食べない(食べる機会がない)子どもが増えているとのこと。独りで食事をする子どもも増えています。かつて独りで食事をすることを「孤食」と記しましたが、今はそのように食事をする立場を擁護するかのように「個食」と記すようになったとか。

 わたしはキリスト教の司祭であり、その大事な勤めの一つに聖餐式(ミサ)の司式があります。聖餐式は誰も会衆がいない時には聖書を拝読して終わりとなり、「個食」のミサは成立しません。ミサを共にする信徒が司祭の他に少なくとも一人いる時、つまり人と人との間にいる神によって養いを受ける関係が成立している時にのみ、ミサが行わるのです。これはわたしたちの食事の原型でもあります。食事とは栄養を得るだけではないきわめて宗教的かつ社会的営みであることを覚えたと思います。

 また現代は、人間にとって最初の食事と言える授乳にも食環境の危機が見られます。生まれたばかりの赤ちゃんは、ただ栄養源としての乳を摂取するだけではなく、母親との視線を含めた交わりの関係の中で母乳を飲むのです。人間の赤ちゃんは授乳の時、他の哺乳動物とは異なり、一定のリズムで乳を飲む作業に休みを入れ、じっと母親の顔を見ます。それは乳を与えてくれる母親と乳を飲む自分の両者を確認する作業なのです。そうであれば、お母さんが赤ちゃんに乳を与える時に携帯メールをしたりテレビを見たりしていては、赤ちゃんの人間関係を創りだす基本的な第一歩が損なわれることになるでしょう。こんなところにも個食の危機があることを覚えたいと思います。

 授乳の時に赤ちゃんを胸元に抱いて、優しい眼差しと柔らかな声でゆったりと赤ちゃんに関わることが望まれます。これが赤ちゃんにとっての食生活の始まりです。赤ちゃんは早い時期から哺乳瓶を両手で持てますが、寝ころんだ赤ちゃんに哺乳瓶を持たせるのではなく、できるだけだっこして授乳させ、目と目のコミュニケーションを大切にしたいものです。

 さて、このように食の基本が「心を通わす」ことと深く関わることであれば、幼稚園生時代の子どものいる皆さんにもにも、食欲の秋に向かってご家庭でも是非心がけていただきたいことがあります。

 食事の時にテレビやゲームの画面は消して対話を心がけてください。食事中はメールや電話も控えましょう。手作りの料理を心がけ、仮に総菜などを買った場合にもひと工夫して手作り料理に変身させると良いでしょう。食材と栄養にバランスの良い食事を心がけてください。仮に子どもが一人で食事をするような時にも、孤食にならないように、お母さん(家族)は同じテーブルでお茶などを共にして、子どもの話し相手になってください。これらのことが「当たり前」と考えていただければ幸いです。

 内実のある食欲の秋をすごせますように。

(あいりんだより2009年9月号)

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2023年02月19日

主イエスに聞き従う      マタイによる福音書第17章1-9 大斎節前主日

主イエスに聞き従う      マタイによる福音書第17章1-9  大斎節前主日     2023.02.19

 教会暦では今週の水曜日から大斎節に入ります。大斎節は古くから復活日に洗礼を受ける人々の準備の時とされ、また既に洗礼を受けている人々にとっては自分の信仰を吟味し克己修養する時とされてきました。今週の水曜日から主日を除く40日間を私たちは大斎節として過ごし、ことに大斎節の後半では主イエスの十字架の苦難を思い、その先に復活日を迎えることになります。

 大斎節に入る直前の主日には、聖書日課福音書としていわゆる「主イエスの変容貌」の物語が取り上げられています。

 その物語の中から、マタイによる福音書第17章5節の言葉をもう一度思い起こしてみましょう。

 「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け。」 

 主イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子を連れて山に登りました。山の上で、主イエスのお姿は彼らの見ている前で白く目映く輝き、主イエスはそこに一緒にいたモーセとエリヤと何かを話しておられました。やがてその3人を覆った雲の中から神の声がしました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け。」

 この物語は、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に採り上げられており、しかも、どの福音書でも主イエスのご生涯を大きく2分する転換点にこの物語が位置づけられています。

 主イエスの御生涯を大きく二つに分けてみると、前半は主イエスがガリラヤ地方を中心に病人を癒し悪霊を追い出し人々に教えを説いて目覚ましくお働きになった部分、そして、後半はエルサレムに上って行って十字架に架けられて死にそして復活なさる部分になり、その転換点にこの「変容貌」の記事があります。

 ガリラヤでの宣教の働きを始められる時、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。その物語がマタイによる福音書第3章13節からにありますが、その中で、主イエスが洗礼を受けて水から上がられた時に天が開け、次のような言葉がありました。マタイによる福音書第3章17節です。

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

 この言葉は、マタイによる福音書の中に2度用いられています。一つは主イエスが洗礼をお受けになった箇所の中であり、もう一つは先ほども読んだとおり、いわゆる変容貌の物語の中で、主イエスが山の上で白く目映く輝いてモーセとエリヤと語り合いやがて一同が雲に覆われている時にこの声がしました。その時、主イエスが洗礼をお受けになった時と同じ言葉がありました。

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。そして変容貌の物語の方では、更に「これに聞け」という言葉が続いていてます。

 初めにこの声があった時は、主イエスが洗礼をお受けになった時であり主イエスさまの宣教が開始される時でした。そして2度目にこの声があったのは、今日の聖書福音書の個所である主イエスの変容貌の時であり、それは主イエスの宣教の後半が始まる時でした。

 ここから始まる主イエスの公生涯の後半は、人の目から見て決して華やかではなく、むしろ逆で、ガリラヤから従ってきた多くの人たちが主イエスから離れていき、その一方で当時の社会を動かす権力者や指導者たちからの弾圧が一層強くなり、エルサレムに向かう主イエスの苦しみや困難が増し加わってくることになります。また、そればかりではなくエルサレムに上った主イエスは、最後には十字架につけられ、まるで敗北者であるかのような姿を人々の前にさらしながら死んでいく事になるのです。主イエスは、そうなることもすべて承知の上でエルサレムに向かって行こうとしておられるのです。

 主イエスは当時の律法の規定を犯してまで重い皮膚病の人に関わって清め、宗教的な習慣を破ってまで病人や身体の不自由な人々を癒し、貧しい人々や虐げられている人々に生きる希望を与えて下さり、多くの民衆の支持と尊敬を受けました。前半部のそのような働きにもかかわらず、ユダヤ教指導者たちの教えと対立する主イエスは、次第に当時の権力者から憎まれ、恨まれ、一時は熱狂的にイエスを支持した人たちからも見捨てられ、排斥されるようになっていきます。多くの人が主イエスの許から去っていく中で、主イエスの歩みは十字架へと向かっていきます。

 このような人々の動きを見てみると、多くの人が一時は主イエスの素晴らしさに目を見張り自分もその恩恵にあやかろうと近付きますが、その中の殆どの人は主イエスに従っていくことに尻込みし、当局の弾圧を恐れて、いつの間にか主イエスの許から離れていってしまいます。

 先ほど、主イエスが洗礼をお受けになった時の天からの声と、変容貌の出来事の時にあった天からの声が同じであることに触れましたが、変容貌の時にはその言葉に付け加えて「これに聞け」という言葉が付け加えられています。「聞く」という言葉は、日本語でもそうですが、例えば「お母さんの言うことを聞きなさい」と言えばただ「耳で聞く」という意味だけではなく、「聞き従う」という意味があります。この箇所でも、天の声は3人の弟子たちに「神の子イエスに聞き従いなさい」と教えているのであり、「イエスの歩んでいく道にあなたがたも従って行きなさい。これがわたしの愛する子であり、この子が歩む道がわたしの心の通りなのだから」と招いておられるのです。

 この世の成功か失敗かの測りで見れば、主イエスの生き方は経済的に豊かになっていくわけでもないし、権力を自分の手中に収めていくわけでもなく、エルサレムでの最期に向かって次第に厳しさが増し、緊張感が高まってきます。

 そのような状況の中で主イエスは神の御心に聞き従い通します。そして、天の声は弟子たちに主イエスに聞き従うようにと告げています。

 ご自分の命をかけるまでに主なる神の御心に聞き従い通す主イエスには、一つの確信がありました。それは、神に信頼し神に希望を持ってその御声に聞き従う者を神は決して見捨てることはないし、例えそのことによって自分が死に渡されるようなことになっても、神は必ず死を超えて再び自分を立ち上がらせてくださるという神への信頼でした。そして、人々が罪から解き放たれて神と結び合わされて生きることができるようになるためには、主イエスが十字架のうえに死ぬことの他に選択肢はないということでした。

 主イエスは、エルサレムに上っていけば、ご自分に十字架の死がやってくることがよく分かっておられました。それでも、主イエスは神に全てを委ねて、死を超えたその先に消えることのない希望があることを信じて、エルサレムに向かって歩み出します。変容貌の物語は、このような苦難の先に人の力では創り出すことの出来ない栄光がある事をここに先取りして描き出しています。

 そのように歩み出す主イエスは、この信仰の中に弟子たちをも招いておられます。「これに聞け」と言う天の声は、主イエスに従っていきなさいという意味です。それは、ただ私たちが自分を押し殺していたずらに死へと向かうように歩むことではありません。それが神の御心だと信じるのなら、失敗や挫折や自分の限界を超える困難の先に、神は尽きない喜びを与えてくださることを約束してくださっているのだから、厳しい今を主イエスに導かれて歩みなさいということです。私たちは、主イエスのどこに神の子の輝きを見ようとするのでしょう。

 私たちは十字架の死の先にある復活を希望とし、復活をお与え下さる神に信頼して大斎節を迎え大斎節を過ごしたいと思います。この水曜日に始まる大斎節を信仰の養いと導きの時とし、主イエスに従い甦りの命にあずかる信仰を確かなものに出来るよう、共に祈り求めましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 05:52| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年02月14日

神さまの大きな手の中で (あいりんだより2009年7月号)

神さまの大きな手の中で                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

「天は神の栄光を物語り、大空は御手(みて)の業を示す。

昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。

話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても

その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩編第19編2節)


 今年は夏休みに入る頃の日に、日本でも場所により皆既日食を観測できると話題になっています。わたしは夏が近づくと上記の詩編の言葉を思い出します。七夕の季節だからでしょうか。この言葉は、神さまのお働きが静かに力強く進んでいることを感じさせます。そして、神さまの御手の働きが、いかに荘厳雄大であるのかについて改めて気付かされます。わたしたちも、一人ひとりがこうした神さまの御手の中で、無数の星のなかの一つである地球の上に、ほんの一瞬とも言える時を生かされているわけです。

 ところで、神さまに創られたもの(被造物)の中で、わたしたち人間のように物事を考えたり理解したり思い巡らせることのできる被造物は他にいるのでしょうか。上記の詩編のような言葉で神をほめたたえることのできる生き物は人間の他にいるのでしょうか。もしかしたら、人間は創られたものの中でも特別な存在なのではないでしょうか。

 詩編の言葉を借りて言えば、天は存在することで神の栄光を物語っています。この地球上でも、神に創られた野の花はありのままの姿で咲くことで神を賛美し、空の鳥もありのままにその鳥らしくさえずって創り主である神さまをほめたたえます。さて、わたしたち人間はどうでしょう。わたしたちも生きていること、存在していること自体が、他の被造物同様に尊いと言えます。でも、わたしたち人間はそれだけではありません。

 わたしたち人間は、他の被造物以上に、自分が神に創られたものであり、尊い命を生きていることを自覚しています。わたしたちは、神を思い、自分を思うと同時に、他の人々に思いを寄せ、互いに「自分のように隣人を愛し」て生きるのです。そして、他の被造物以上に自覚して、創り主である神に応えて神をほめたたえ、他の被造物にはできない人間としての行為(善悪を知り、自覚して善を行うことなど)によって神さまの御心をこの世界に実現していくべき存在なのです。先月この欄で、わたしたちは神が「良し」としてくださった世界に生かされていることを記しました。「良し」とされた世界に生きるわたしたちは、満天の星空を見上げたり、大自然の中に包まれたりしているとき、神さまの御心を理解する心の通路が豊かになるのではないでしょうか。わたしたちは、神の御手の働きを、その作品である自然をとおして理解し、その無限の大きさを実感するのかもしれません。

 夏はそうした自然の恵みに触れる絶好の機会です。是非、各ご家庭でも良い経験を重ねる夏休みをお過ごしください。

 わたしたち人間がこの世界の素晴らしさとその恵みを認識して味わい知ることができ、そのことを言葉で意識的に詳しく表現できることの大切さを再確認したいと思います。わたしたちはこの世界の置かれている状況を認識して更に良いものに創り上げ、神さまのお考えをこの世界に具体化してく使命が与えられているのです。そして、その使命をしっかり生きる人を育むことがキリスト教教育の目指すところであると言えます。

 自然との豊かな交わりの経験を重ね、神さまとのつながりを自覚し、より深く神と人々との交わりの中で生きることができるようになりたいものです。それは、子どもたちだけの課題ではなく、この世に命を与えられて、自覚的に神をほめたたえることができる人類の課題なのかもしれません。

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2023年02月13日

確かな秩序と方向を  (あいりんだより2009年6月号)

確かな秩序と方向を                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             


 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。                (創世記第1章3~5節)


 神さまは、天地創造のお働きを、混沌とした闇の世界に「光あれ」と言って光と闇を分けることでお始めになりました。きっと心を込めて一日一日の働きを進めたことでしょう。そして神さまは、第6日の最後に神ご自身のお姿に似せて人間をお造りになりました。神さまはそのお働きを「良し」とされています。

 わたしたちは、神さまがお造りになって「良し」とされた世界に生かされているのですが、それだけではなくわたしたち人間もまた神さまから「良し」とされた存在です。ことに人間は、神さまの似姿に造られましたので、わたしたちにはこの世界で神さまのお考えを具体的に示す働きを担う責務があるのです。わたしたち人間は、神さまがこの世界をお造りになって愛しておられることを、人として生きることをとおして示していくのです。

 日本語の「愛」は意味が広く曖昧な言葉ですが、聖書の「愛」とは神がお与えになった命が本来の姿を現すように関わり続けることを意味します。神さまは、いつもわたしたちに関わり続けていてくださり、ことにわたしたちの心に、問いかけ、働きかけ、わたしたちの成長を促していてくださいます。わたしたちは、日々神の問いかけに答えながら、正しいこと、本当のことを判断しながら生きているのです。

 神に愛されて生きている人間にとって、自分と他人を愛することが生きる基本です。でも、自分と他人を愛することは、「何をしても構わない」とか「子どもの願いを何でも言いなりになって叶えてあげる」と言うこととは違います。それは放任であり、神さまから与えられた生きる使命を放棄する無責任な生き方であるとも言えるでしょう。特に子育てや教育にあっては、愛の確かな秩序と方向性が必要なのです。

 たとえば、トマトの苗が伸び始めたとき、その生長を支えるためには支柱を立て脇芽を摘んでこそ立派な実を結ぶことになるように、わたしたちは人としての存在を損なうような悪や危険から子どもを守ることも必要ですし、真実と深く向き合う力を養えるようにしっかりと子どもの心と向き合うことが求められるのです。

 それは、時には子どもにとって自分の思い通りにならない経験になることもあるでしょうし、親子で努力を要する課題となることもあるでしょう。そのような時にも、私たちは神さまが私たちを祝し導いていてくださることを信じて、確かな歩みを続けていきたいと思います。

(あいりんだより2009年6月)

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2023年02月12日

 My聖書のすすめ

 教会で、一同で聖書を開く機会が少ないと、聖書の並び順を知っておきたいという思いも湧かないのかもしれません。そのような状況の中でも、いや、そのような状況だからこそ、旧約新約をあわせた一冊の自分の『聖書』をお持ちになり、主日礼拝にも是非その聖書を持参することをお勧めします。

 日本聖公会では日本聖書協会発行の1954年版新約及び1955年版旧約を合わせた『聖書』、『聖書-新共同訳(旧約聖書続編付1987年版』、『聖書-聖書協会共同訳(旧約聖書続編付(2018年版)』が公の礼拝で用いられるように認許されています。

 毎主日の聖餐式で拝読される聖書日課(旧約、使徒書、福音書)箇所は決まっていますので、多くの教会では礼拝中の煩雑さを避けるために聖書箇所を抜き出して印刷したり、『特祷・聖餐式聖書日課集』(ABC年別)を用いたりして礼拝しています。そのために一冊の『聖書』をあちこちのページを開く機会が少ないのではないでしょうか。

 今から20数年前のことになりますが、「聖書の順番を覚えましょう」という録音テープをつくり教会員に配布したことがありました。教会のオルガニストと歌唱の上手な信徒の方にお願いして「鉄道唱歌」のメロディにのせて幾度も演奏していただき、その一つを幾つもダビングしたのです。

「創、出、レビ、民、申命記、ヨシュア、獅子、ルツ、サム、列王、歴代、エズ、ネヘ、エステル記、ヨブ、詩、箴言、コヘレ(伝道)、雅歌。イザヤ、エレ、哀、エゼキエル、ダニ、ホセ、ヨエ、アモ、オバデヤ書、ヨナ、ミカ、ナホ、ハバ、ゼファ、ハガイ、セゼリヤ、マラキ、39」

「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒、ロマ、コリント、ガラテヤ書、エフェソ、フィリ、コロ、テサロニケ、テモ、テト、フィレモン、ブライ書。ヤコブ、ペトロⅠⅡの書、ヨハネ3巻、ユダ、黙示、新旧両約合わせれば聖書の数は66。」

 上記は新共同訳準拠です。「鉄道唱歌」を知らない人は「友だち賛歌」のメロディでどうぞ。

 このテープ作りをしている時、言葉とも言えぬ言葉が歌われるのを(プロデューサーとして)脇で聴いていると、私の中に不思議な感覚が生まれてきました。

 これら旧・新約66書の『聖書』の順番は、厳密に史実を古い方から並べているわけではありませんが、その全体は主なる神がこの世に働きかけてこられた壮大な歴史絵巻のタイトルがズラッと並んでいるように思えてきなのです。そして、聖書を読むと言うことは、この大きな神の救済史を意識して、その中のどの箇所を読んでいるのかを頭の片隅においてそのメッセージを受けることなのだという考えが生まれてきたのです。

 例えば、主日の聖餐式で、旧約聖書、使徒書、福音書の聖書日課を読み、旧約聖書には詩編の言葉で応答するすることも、聖書全体の中のどの部分からみ言葉を受けているのか意識することで、その主日のメッセージの意味はよりハッキリしてくると思えるのです。

 そう考えると、読まれていない部分も含んだ分厚い聖書を手にして当日の日課を読み(或いは聴き)メッセージを受けることはとても大切なことであると言えるでしょう。

 聖書を読む時、その箇所の前後関係を意識しながら読むことが大切です。説教の中でも、時に当日の日課の範囲を超えて流れや同じ語句が用いられている箇所を実際に聖書を開いて確認したいことがあります。その意味でも私は「日課集」や抜き刷りではなく、実際に「My聖書」を手に礼拝することをお勧めしたいのです。

 自分の本なら、その中に書き込みをしたり線を引いたりすることもできます。自分の本であっても礼拝用書専用にして書き込みはしたくないという人がいれば、是非2冊をお持ち下さい。

 『聖書-新共同訳』が発行され、それに応じるように『日課集』が発行された当時、教役者の会合である老司祭が『日課集』を「こんなくだらないもの作って・・!」と苦々しい表情で言っておられたことを昨日のことのように思い出します。

 『日課集』は公の礼拝での朗読には便利ですが、一冊の聖書を開く機会を減らしたという意味で私はその老司祭に賛成です。

 管区では祈祷書改正の作業も進んでおり、数年後には祈祷書が改訂されます。その時には『聖書-聖書協会共同訳』が用いられるようになるでしょう。いずれにしても主日礼拝にも『My聖書』持参の習慣をつけましょう。

(東松山聖ルカ教会教会通信『マラナ・タ』2023年2月号)

posted by 聖ルカ住人 at 23:19| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする