2022年06月27日

イエスに従うことへの招き  ルカによる福音書第9章51~62節

イエスに従うことへの招き  ルカによる福音書第9章51~62節  聖霊降臨後第3主日(特定8)   2022.06.26


 今日の聖書日課福音書の後半でで、主イエスは、弟子である者の心構えについて厳しく教えておられます。今日の旧約聖書日課と合わせて、ルカによる福音書が語る「イエスの弟子としての心構え」について学び、私たちも主イエスの弟子としてふさわしく整えられて導かれていきたいと思います。
 今日の旧約聖書日課の列王記上第19章15節からの個所は、エリシャが預言者エリヤによって預言者としての働きが引き継がれていく様子が取り上げられています。エリヤは紀元前9世紀中頃の預言者でした。その当時のイスラエルの王は悪名の高いアハブ王であり、アハブとその王妃イゼベルは異教のバアル宗教をイスラエルの国に取り入れてイスラエルの神ヤハウェを礼拝する者たちを徹底して弾圧しました。エリヤはその王やバアル宗教を支持するアハブ王の取り巻きと戦って命を狙われるまでに弾圧された預言者です。エリシャはその立派な預言者エリヤの後継者として召し出されてその働きを担います。そしてエリシャは紀元前849年から793年にかけて50年以上にわたって預言者としての務めを担うことになります。エリシャがエリヤの弟子としてエリヤに従っていこうとする時、列王記上19章20節を見てみると、エリシャはエリヤに自分の家族に別れの挨拶をすることを願い、実際に両親や親しい人々と別れの食事をしてからエリヤに従っていった様子が伺えます。その時、エリシャは牛の装具(おそらく畑を耕すために牛にひかせる鋤をつけるための軛ではなかったかと思われます)を薪にして燃やしています。それは、エリシャが中途半端な思いでエリヤに従うのではなく、自分の退路を断ってエリヤの使命を全身で受け継ごうとするエリシャを描いていると考えることができます。
 エリヤはそのエリシャが見ている前で燃える馬車に乗って天に上げられていった預言者であり、やがてイスラエルにはこのエリヤが再びこの世に降りてくる(現れる)という伝説が生まれます。
 例えば、旧約聖書の最後にある、マラキ書第3章23節では、エリヤについてこう記しています。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」
 私たちは先々主日、ペトロが主イエスを「あなたは神のメシアです」と信仰を表明したことを学びました。主イエスがメシアであれば、その先駆けとなるエリヤは既に来ているのであり、救い主イエスの前に遣わされる洗礼者ヨハネこそメシアの先駆けであるエリヤだったのです。
 今日の聖書日課福音書では、主イエスは、「神のメシア」としての働きを成し遂げるために、つまり受難のうちに十字架にお架かりになり復活するために、エリサレムにのぼっていこうとしておられます。今日の福音書の始めに「イエスは天に上げられる時期が近づくと、エリサレムに向かう決意を固められた」と記されているとおりです。
 このような前後関係の中で、エルサレムに向かう救い主イエスに関わる3人の反応が伝えられているのが、今日の聖書日課福音書の後半部分です。
 この箇所に描かれた3人は、主イエスに従って行きたいという思いを持ってはいるものの、これからエルサレムに上っていこうとする主イエスの目から見ると、その働きに与るには大きな困難や課題が見えたのです。
それというのは、この3人が主イエスの招きに対する応答の態度やその姿が中途半端であったり不徹底であり、主イエスはこの3人に厳しい言葉をのべておられます。
 主イエスは、宣教の働きを始めるにあたり、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの二組の兄弟の弟子として招きましたが、「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」と記されていることを思い起こしましょう。
 主イエスは、ご自身の神の国を宣べ伝える働きを担う者を招き、訓練し、やがて主イエスのお働きを宣べ伝える働きをする者を招いておられます。今日の福音書で、主イエスはご自身についていこうとする人に対して、とても厳しい要求をしておられます。場面は主イエスがエルサレムに向かって歩き始めようとしておられる時です。この段階で、主イエスは、弟子の覚悟についてこれまで以上に厳しく教えておられるのです。
 主イエスは、父の葬儀に行こうとするする人に「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って神の国を言い広めなさい。」と言い、主イエスに従うために家族に別れの挨拶に行きたいという者には、「鋤きに手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国に相応しくない」とも言われました。
 主イエスがエルサレムに向かうことは、十字架の苦しみと死に向かうことでありそれを通して復活なさることであり、そのために主イエスはエルサレムで十字架の苦しみを通して神の御心の極みを人々に示すことになるのです。そして、主イエスの弟子であるということは、この主イエスに導かれてそれぞれが弟子として自分の十字架を背負うこと、つまり各自が主イエスから託された自分の使命を全うするために導かれていくことになります。主イエスの徹底した愛の中で本当の命にふれ、その喜びを分け合いながら、他の人々も自分の命を深く取り戻して生きるために、自分もイエスの愛に生かされ続ける信仰を新たにするのです。神の教えをただ口先だけで説くだけでなく、徹底してイエスに従う思うがいなければ、神の国は容易に実現しないことを主イエスはよく知っておられたのでしょう。
 私たちは、先ず、主イエスの徹底した愛の中に生かされていることをしっかりと心に留めたいと思います。そして私たちはこの主イエスを救い主と仰ぎ、信仰を生活の中に徹底させ、自分を通して神の国の姿をあらわす務めに預かるのです。そのような働きにあずかる私たちがよくよく心がけておかなければならないことを、今日の福音書は教えているのです。
 主イエスは、当時のユダヤ教の生活習慣やしきたりからはじき出された人々や罪人扱いされた人々と交わりを持ちましたが、それはエルサレムに向かう旅の途上でも変わることはありませんでした。そのような主イエスの態度と行動はユダヤ教の中心にいる人々から嫌われ、迫害される原因にもなり、十字架に付けられる口実にもされました。それでも、主イエスは、エルサレムに上って行かれます。
 今日の福音書で主イエスは、この3人に対してそれぞれに、「あなたは本気で私について来るのか。いざとなればあれこれと言い訳をしているのではないか。あなたの本心をもう一度自分に問い返してみなさい。」と、問うておられるのです。
 また、主イエスの招きにあれこれの言い訳をしてその機会を逃すなら、主イエスにお応えする後に用意されている何物にも替えられない大きな祝福を自分から拒むことになることも私たちは知っておかねばなりません。
 私たちは、主イエスによって愛され生かされ導かれていることを確認し、心の中心に据えたいと思います。そのようにできるとき、今日の聖書日課福音書が語る「親の葬り」のことも「家族へのいとまごい」のことも含めて全てのことを神のお働きの中に位置付けてくださり、意味づけてくださり、私たちは喜びの中で主の働きに用いられるようになるでしょう。主イエスが私たちに、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と教えるのも、それが義務や守るべき掟だからではなく、私たちが主イエスを通して受けた神の愛への応答がそのような形を取るからです。
 軸の曲がった独楽は、安定して回ることが出来ません。私たちは、主イエスに従う信仰の軸をしっかりと定めましょう。すべては主イエスによって位置付けられ、備えられます。
 主の大きな御手のうちに全てを委ね、エルサレムに向かう主イエスに従いましょう。御心を行う器として用いられる喜びが私たち一人ひとりに与えられますように。
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2022年06月22日

庭の草花のことなど

 今春のある土曜日の午後のこと。私が南側道路に面した花壇の雑草をぬいていたら、子どもをバギーに乗せたお母さんらしい二人が歩きながら話をしている声が聞こえてきました。

 「ここ、とっても雰囲気が良いのよね」。

 下から見上げる駐車場まわりの草花や芝生広場とその上の園舎の風景を言っていたのでしょう。私はおだてられて木にも登る思いになって、その日の作業に力が入りました。何と単純な私・・・。その母親たちが2,3年後にその子をこの幼稚園に入園させるかどうか分からないし、教会の礼拝に来ることもないかもしれません。でも、私の植栽作業で、季節の花が咲き、草むしりが教会周りの環境整備の域を越えて、人々にちょっとした楽しみを与えることが出来ていれば、それはとても嬉しいし有り難いことです。

 東松山聖ルカ教会 教会通信『マラナ・タ』 2022年6月号掲載

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主イエスの問いかけ  ルカによる福音書9:18-24  C年特定7   2022.06.19

主イエスの問いかけ   ルカによる福音書9:18-24  C年特定7   2022.06.19

 ルカによる福音書第9章20節の言葉を読んでみましょう。
 イエスが言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だというのか。」ペトロが答えた。「神のメシアです。」
 主なる神は、私たち一人ひとりを神の御前に立たせます。その神が「それでは、あなたがたは私を何者だというのか」という問いになって、私たち一人ひとりに正面から迫ります。私たちは、その神に対して、自分の全てを神に関わらせて応答していきます。私たちは、この関係の中で、神との生きた関係が生まれてくるのであり、その関係の中で私たちは神に導かれ育くまれていきます。
 その意味で、主なる神はただ遠くで奉られている存在ではなく、私たち一人ひとりと人格的な関係を持つ神なのです。
 私たちは、この神によってそれぞれに掛け替えのない固有の人としてこの世界に命を与えられました。主なる神は私たち人間を、一人ひとりが自分が誰であるかが分かり、他者と関わりを持ち、出会いながら、互いに人格的に成長する存在として造ってくださいました。そのことは、旧約聖書創世記の初めにも記されているとおりであり、その意味で人間は他の生物よりもずっと神のお姿に似せて造られているのです。人は、他の生物以上に、神さまとの交わりを感じ、味わい、しかも意識してその恵みを受け取り、ただ生物として生かされているという恵み以上に、人間として神さまにお応えし神を賛美できる存在なのです。私たち人間は「造り主である父なる神、救い主イエス・キリストである子なる神、慰め主である聖霊なる神」を知り、その神に対して意識的に礼拝できるただ一つの被造物です。
 私たちは、神との関係をより建設的でより充実したものにしてその中で成長していくことを求められていますが、私たちはそのために何をすべきなのでしょう。その答の糸口を今日の聖書日課福音書は与えています。
 今日の福音書の中で、主イエスは弟子たちに二つの質問をなさいました。
 一つ目は「群衆はわたしのことを何者だと言っているか」と言うことです。この質問に答えることは、難しいことではありません。なぜなら、自分自身をそこに関わらせず、正しい情報と知識によって答えれば済むからであり、場合によっては「分かりません」と答えることもあり得るでしょう。弟子たちも、「あなたのことを洗礼者ヨハネだと言っています」、「救い主の到来の前に来ると伝えられているエリヤが来たのだと言っている人がいます」と報告すればよいのですから、あまり自分が傷みもしないしで答えることが出来ます。
 話は横道に逸れますが、近代以降の科学は、自分をそこに関わらせずに第3者の情報を集めることや実験によって物事の因果関係を解明するすることに頼りすぎたと言えるでしょう。同じ条件の下で同じ結果が得られることを真理とし、それに経済的価値がある場合に高い評価を得るようになりました。その一方で、その真理が他ならぬ自分にとってどのような意味があり、それによって自分がどう生かされるのかという事などが置き去りにされてしまいました。ことに人の目で確かめられない領域のことや信じる心を排除してきた近代科学主義は、21世紀に入ってその破綻が目立ってきているように思えます。
 主イエスの第1の質問「群衆はわたしのことを何者だと言っているか」に対して、どれほど大掛かりな調査をして立派な論文を仕立てようとも、それだけでは人が神と人格的に関わっていることにはなりませんし、その質問に答えることだけでは、私たちが主イエスとの関わりの中で人間としての育みを受けることなどあり得ないのです。
 主イエスはもう一つの質問をなさいました。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか(9:20)」。
 ペトロは答えました。「神のメシアです(教会共同訳)」。
 ここでペトロは、「他の誰でもないあなたこそ神の子救い主です」と自分の信仰を表明しています。
 ルカによる福音書全体の流れの中で、このペトロの答には注目すべき点があります。それは、ペトロのこの信仰の表明をきっかけにして、主イエスと弟子たちの関係は更に深いものになり、主イエスはご自身に関わる大切なことを、つまりご自身の受難と死そして復活についてお話しになるのです。
 私たちは、お互いの信頼の度合いによってその関係の密度が深いものにも浅いものにも、親密なものにも疎遠なものになるということを知っています。主イエスと弟子たちの関係もそうであり、また主イエスと私たちの関係もまた、私たちが主イエスとどのように向き合っているかによって、人格的な深い交わりを得ることも出来れば、信仰が単なる習慣程度に留まることもあり得るのです。
 ペトロはここではっきりと自分の信仰を告白していますが、この時のペトロはもうこれで主イエスとの関係が完璧であり、ペトロの信仰が完成したということではありません。この後もペトロは幾度も失敗を繰り返します。ペトロはそのつまずきや失敗を繰り返すことを通して、そのようなペトロを愛し抜き赦して関わり続ける主イエスに生かされて、やがて弟子集団の指導者に成長していくのです。
 主イエスは、ペトロが「あなたは神のメシアです」と自分の信仰を表明した後に大きな挫折を経験することさえ、よくご存知でした。
 主イエスは最後の晩餐の席で弟子たちの裏切りを予告なさり、ペトロにはこう言っておられます。
 「シモン、シモン、サタンはあなた方を、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:31-32)」。
 この箇所から、ペトロと主イエスの関係は一方通行ではなく、ペトロから主イエスに近づき主イエスからもペトロに近づいておられることがよく分かります。私たちが主イエスの名によって祈るばかりではなく、主イエスも私たちのために祈ってくださいます。私たちが神さまを必要としているばかりでなく、神の方からも私たちを愛し続けてくださっています。このような神と私たちの人格的な交わりの中で、私たちは人としての自分を育てられ絶えず新しい人へと変えられていくのです。
 人が人として成長するには、嘘や偽りのないありのままの自分を認め、その自分が相手に受け容れられること、つまり人格的な関わりが必要なのです。その最も基本的な関係を主イエスは示し、これからその関係の完成のためにエルサレムに上っていくことになります。
 私たちは、欠点もあれば悩みもあり、失敗もあれば落胆することもまた沢山あります。そのような私たちが、ありのままの自分をそのままに神の御前に開き、主なる神と嘘偽りのない交わりの中に生きることを神は求めておられます。そして、そのことは、主イエスの「それではあなたがたは私を何者がというのか」という問いに「あなたこそ神のメシアです」と答えることに他ならないのです。
 主イエスは私たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と絶えず問うておられます。この問いに対して、私たちはしっかりと「あなたは神のメシアです」と答えたいのです。ことに私たちは主イエスのこの問いに対して主日礼拝の中で「ニケヤ信経」や「使徒信経」を通して応答してます。私たちは確かな内実をもってこ信仰告白をしたいと思います。私たちは、主イエスの「あなたがたは私を何者だというのか」という問いに対して、しっかりと「あなたは神のメシアです」と答え続けましょう。
 主イエスは十字架の死と復活を通して、私たちが神との人格的な交わりを豊かに保つことが出来ることを示してくださいました。
 私たちは心から「あなたは神の子救い主です。」と告白し、信仰者の群れである会を育てていきましょう。
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2022年06月12日

「聖なる神」の召命  イザヤ書6:1-8

「聖なる神」の召命   イザヤ書6:1-8  三位一体主日・聖霊降臨後第1主日   2022.06.12

 教会暦は聖霊降臨後の期節に入り、これからほぼ半年に渡って「聖霊降臨後」の主日を重ねていくことのなります。これまでの半年間に、救い主の来臨を待ち望む降臨節に始まり、主イエスの降誕と公の宣教の働きの始まり、そして十字架の死と復活、昇天、そして聖霊降臨によって弟子たちによる宣教の働きが世界に広がろうとすることを学びつつ過ごして参りました。私たちは、このような教会暦の中で養いと導きを受け、それによって培った信仰を基本に据えて、これからの半年を主イエスに再びお会いする希望を抱きながら過ごしていきます。
 今日は、聖書日課から旧約聖書イザヤ書第6章に記されたイザヤの召命物語から、主なる神に召し出されてその働きに用いられることを学びたいと思います。
 イザヤが主なる神の祭壇で幻を見たのは紀元前742年の時でした。その当時、南北に分裂していたイスラエルのうち、南ユダ国の王であったウジヤ王は紀元前742年に死ぬまで、40年以上に渡って王として君臨してきました。そのように長期にわたりウジヤが王位に就いていられたのは、ウジヤ王自身が有能であった事と同時に、この国を取り巻く周辺諸国の状況も大きな影響を与えていました。と言うのは、それまでイスラエルを脅かしていた周辺諸国がこの時代にはどこも衰退し、それに乗じてイスラエルはダビデ、ソロモンの時代に勝るとも劣らない繁栄を示したのです。この時代にイスラエルは領土を拡げたり貿易によって多くの冨を取り戻していました。
 しかし、その一方、ウジヤの治世も年が経つに連れて、多くの問題が生じてきました。国力が回復して国が豊かになると言っても、その国の支配者たちが得た富は、万民に平等に行き渡るのではなく、国民の間に貧富の格差を拡げました。また、イスラエルの国力が増強したと言うことは、それを違う側面から言えば、国の軍事力が強くなったのであり、貿易による冨を得た一部の階層の人々が資産を増やしたと言うことであり、それによって多くの外国の品物とともにその文化や習慣も流れ込んできて、当時のイスラエルも例外ではなく、異国の価値や宗教の影響も受けないわけにはいかなくなっていたのです。
 そして、やがて支配者階級の人々は権力に物を言わせて横暴に振る舞い、財力にものを言わせて下層民を抑圧し、そこから更に奪う事が当たり前になり、国の腐敗が進むことになります。ウジヤ王自身も、晩年には政治面のみならずユダヤ教の宗教的な権力をも手に入れようとして、祭司ではない国王が神殿の奥に入って香を焚き、神にうたれてしまうということまで起こっています。
 このように繁栄と共に腐敗が進むイスラエルの国は、ウジヤが死んだ頃からそのひずみが表面化し始め、イザヤはこのような問題が渦巻き混乱する時代の中で、神との出会いと召し出しを経験することになるのです。
 イザヤ書第6章8節でイザヤは「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わっていくだろうか」という主の御声を聞いていますが、その背景にはこうした罪が蔓延した国の姿があり、イザヤにはそれを嘆く神の声を聞いのです。
 イザヤの召命物語は、イザヤ書第6章1節からの箇所で、イザヤが神を見ることから始まっています。
 その当時の考えの中に、「神を直接見た者は死ぬ」という考えがありました。主の御座を守るセラフィムでさえ直接に神の顔を見ないよう自分の翼で顔を覆うように掲げています。そして、セラフィムは「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな」と神を呼び交わしていました。「聖なる」という同じ言葉を重ねてその度合いを表現し、神の聖なる性質がいかに強く大きいかを表現しています。セラフィムは神の聖なる性質を、「聖なるかな」と3度重ねて表現しています。
 イザヤは絶対的な神の聖なるお姿に照らされて、死ぬほかない自分を感じ、また自分の罪を明らかにされているのです。
 イザヤ、聖なる神の御前で神の聖性に自分を照らし出され、自分の罪が神の前に顕わにされて、死ぬべき自分を嘆きます。
 「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者。
 私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。
 しかも、私の目は、王である万軍の主を見てしまったのだ(6:5)」。
 主なる神はそれ程に「聖なる」お方です。
 それでは、「聖」とはどのようなことでしょうか。聖書の中で用いられるこの言葉にあたってみると、「聖」とは「神の純粋で汚れのない性質」、「畏れ敬いの念を起こさせる力」、「畏れとおののきを起こさせる存在」、「神に属しすべてを神に向かわせる性質」、「人間的な感覚や思考から隔絶した様子」を示す時にこの言葉が用いられ、単に清く汚れのない状態以上の意味がある事が分かります。イザヤがこのような「聖なる存在」を見た時の驚きと畏れがどれほどであったのか、イザヤの反応から私たちもほんの少し想像してみることができるのではないでしょうか。
 神は「聖なる」お方であり、その「聖」なる性質は自身が御座で奉られていればそれで良しされるお方ではありません。神は、ご自身の「聖性」を保つために、汚れある人に関わらないというお方ではなく、汚れある人間を裁いて切り捨てて済ませるお方でもありません。
 イザヤが聖なる神を見て死ぬばかりの自分を嘆いた時、主なる神はイザヤに天の使いを送ります。送られた天の使いは、祭壇の火を持ってきてイザヤの罪を焼き尽くしています。7節で主の使いセラフィムはイザヤに次のように言っています。
 「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎(過ち)は取り去られ、罪は赦された。」
 私たちは、ここに「聖」なる神のもう一つの大切な姿を見出します。それは、神が「聖」であるがゆえに、神の御心から離れてしまったものを神の願っておられる姿になるように回復させずにはいられないのであり、そのためにご自身が使者を遣わしてお働きになるということです。一般的には、神の神聖さは人に恐れを起こさせ神と人との間に埋めることの出来ない隔てを生み出しますが、イザヤの見た神はイザヤの深い嘆き悲しみを顧みて、神ご自身の方から御使いを通して近付き、イザヤの罪を焼き尽くしてくださいます。ここでイザヤは自分に働きかけてこられる神の聖なる性質を裁きとしてではなく愛として経験することになるのです。イザヤにとって神を見たことは、神の崇高さの前に自分が滅びる経験をするだけではなく、神によって自分の罪が焼き尽くされて、イザヤは再び生かされる経験になっていくのです。
 神は聖なるお方であるがゆえに、人をその似姿に造りながらも罪を犯してしまった人の罪や汚れを照らして顕わにしないわけにはいきません。それと同時に、神は、聖なるお方であるが故に、ご自身がお創りになった人間を神に祝福された聖なる姿に回復させるために、私たちを清めないわけにはいかないお方であり、やがてその独り子をこの世にお遣わしになるのです。
 私たちも、預言者イザヤが経験したのと同じように、神の御前に立って畏れとおののきを新たにする必要があります。それと同時に聖なる神が私たちを清め、私たちに宿って力を与えて下さり、私たちを神のお働きに遣わそうとしておられることも覚えたいと思うのです。イザヤは、自分が神に清められ、神に対して畏れをいだきおののきますが、イザヤは自分を浄めてくださった神が働き人を求めるときに、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と言っています。ここに自分に働きかけてくださった神に応答するイザヤの姿があります。
 私たちも、礼拝の中で、聖書のみ言葉を通して、聖餐を通して主なる神に出会います。また、神がお造りくださったこの世界の自然と人々の行いの中で神を覚えます。このことはイザヤが神の姿を目の当たりにした時ほどの衝撃を覚えさせるわけではありませんが、イザヤの経験した出来事と同じことが今ここに起こっていることに違いありません。私たち一人ひとりがこの礼拝をとおして、取り分けこの聖餐式の御言葉と聖餐をとおして、父と子と聖霊なる神と出会い、清められ新たにされて、主なる神の招きにお応えする喜びにあずかりましょう。
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2022年06月06日

聖霊に生かされる ヨハネによる福音書20:19-23   2022.06.05

聖霊降臨日  ヨハネ20:19~23              2022.06.05
 
 聖霊降臨日を迎えました。主イエスが甦ってから50日経った日、弟子たちは、この日もエルサレムのある家に集まって、心を一つにして熱心に祈っていました。すると突然強い風が吹くような音がして、弟子たち一人ひとりの上には炎のような舌のようなものが留まりました。力を受けた弟子たちは、出て行って主イエスを通して示された神の御業を力強く語り始めたのです。そして、この日三千人もの人が新たに洗礼を受けて信仰の仲間に加わったのでした。教会は、この日を弟子たちが聖霊によって強められて宣教の働きへと促されていった日として、また教会の働きが始まった日として、記念するようになりました。
 カナンの地の人々にとって元々小麦に刈り入れを終えた「鎌収め」の祭を、イスラエルの民は過越祭の日から50日たった日として、農業の祭とは違う特別な意味づけをして祝うようにしていったと考えられています。イスラエルの民はこの日をシナイ山で十戒を与えられたことを記念する日とし、過越祭から50日経った祭の意味である「ペンテコステ」を祝いました。更にキリスト教徒はこの日を自分たちの信仰によって新しい意味を与え、この「ペンテコステ」を聖霊が与えられている者として主イエスの愛の掟に生きる信仰集団の誕生を覚える日とするようになったのです。その意味で、この祝日は私たちにとっても大切な祝日です。
 今日は、弟子たちに聖霊が与えられたことを覚え、私たちも弟子たちの一人として聖霊を受け、聖霊を宿す宮となって、主の働きに生かされるように導きと養いを受けたいと思います。
 先ず、弟子の一人であったペトロのことを思い起こしてみましょう。
 主イエスが十字架にお架かりになる前の晩、主イエスは弟子たちにその予告なさいました。ペトロはその言葉を聞いて「あなたのためなら命を捨てます(ヨハネ13:37)」とまで言いました。他の弟子たちも同じでした。でも、実際に主イエスが捕らえられる時に、弟子たちは皆イエスを置き去りにして逃げ出してしまいました。主イエスが連れて行かれた大祭司の館に、ペトロはそっと入り込むことが出来ました。ペトロは大祭司の家の者の一人であるかのように紛れ込んで、館の人たちとたき火を囲みながら主イエスの様子をうかがっていました。ペトロに気付いた館の者から「あなたも、あの人の仲間だろう」と問いつめられると、ペトロは「違う、あんな男のことなど知らない」と主イエスのことを呪う言葉まで吐いて3度否定してしまうのです。やがて主イエスは十字架につけられました。こうした一連の出来事を通して、弟子たちは皆自分の弱さと罪に直面させられ、自分の無力さを思い知らされ、その三日後の朝に主イエスが復活した知らせを聞いても、重い気持ちで部屋に閉じこもって何も出来ずにいたのでした。
 甦った主イエスは、部屋に鍵をかけて閉じこもる弟子たちの所にそのお姿を現し、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように,私もあなたがたを遣わす。」と言い、弟子たちに息を吹きかけて言われたのでした。「聖霊を受けなさい」。
 「息を吹きかける」という言葉から、何を連想するでしょう。多くの人が、創世記第2章にある、神が初めての人間をお創りになった場面を連想することと思います。神は土の塵で人を形作りこれに息を吹き入れて人を生きるものとしてくださいました。私たちはこのように神の息によって命を与えられて生かされています。それにもかかわらず、私たちは先ほど思い起こした弟子たちのように、時に神を拒み、救い主を否定し、自分中心にしか生きられなくなってしまいます。その結果、私たちは生物としての息が絶えれば再び土の塵に戻る存在になってしまいました。しかし、甦った主イエスは罪ある弟子たちの真ん中に立って、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言ってくださいました。つまり、土の塵にすぎず滅びへと向かわざるを得なかった私たちであったのに、主イエスは再び私たちに命の息を吹き込んでくださいました。その息は、愛と赦しの息吹であり、それぞれの人の使命のために立ちあがらせる息です。復活の主イエスの息は、私たちを再び創造してくださったのです。
 聖霊を受けた弟子たちは、迫害を恐れず、主イエスこそ真の救い主であることを伝え始め、その働きはエルサレムから地中海沿岸諸国へ更には世界中に拡がります。先主日、私たちは主イエスが天に昇り、天からこの世界を祝福で包んでいてくださることによって一つとされていることを学びました。弟子たちは、主イエスが天からこの世界を祝福していてくださることを身をもって示すために、エルサレムから世界中に派遣されていきました。
 新約聖書外典の伝説によると、ペトロはやがて遠くローマまで宣教の働きに向かい、ネロ皇帝の時にローマで捕らえられ殉教しています。しかも、処刑のために十字架につけられる時、ペトロは「私は一度は主イエスを裏切った者で、主イエスと同じ十字架につけられるのに相応しい者ではありません。もっと苦しみを味わわなければならない。私を頭を下に足を上にして逆さ十字の刑に処して欲しい」と言って、逆さ十字の刑に処せられたと伝えられ、今もバチカンのサンピエトロ聖堂の中心にはそのペトロの殉教を示す逆さ十字架が掲げられています。ペトロだけでなく、弟子たちはみなそれぞれに宣教に出かけていった地で受難に遭い、ヨハネの他の弟子たちは皆それぞれの地で殉教していきました。そしてその殉教は、イエスの十字架がそうであったように、そこに沢山の新たな信仰者を生み出していったのです。
 こうしたキリスト教の初期の歴史を振り返ってみるとき、このように弟子たちを生まれ変わらせた力が何であったのか、迫害下でキリスト教がなぜこれほどまでに急速な広がりを見せたのか、歴史家は様々な要因を挙げてはみるものの、それらは歴史の一側面を説明する域を出ないのです。
 もし、世界史の試験に「初期キリスト教の教会が世界に急速に広がった要因は何かを記しなさい」という設問があったとして、その解答に「それは神のご計画であり、聖霊の力に因ります」と記せば、世界史の解答として適切でないかも知れないけれど、信仰的にはそれで合格であり、それ以外の説明は難しいのかも知れません。
 弱くだらしなかった弟子たちを生かし生涯を救い主を伝える事へと向かわせた力を、神は私たち一人ひとりにも注ぎ、私たちのうちに満たしてくださいます。それは、誤解を恐れずに言えば、人を特定の宗教の中に埋没させる力ではなく、主イエスをとおして示された普遍の愛と真理へと向かわせる力であると言えます。聖霊は確かに存在して、主イエスが示してくださった真理へ命へと私たちを導く力となって、今もこの世界に働いているのです。
 聖霊は私たちに神の御心を行うように促す力であり、助け主であり、慰め主であると聖書は説明しています。そうであれば、主イエスを通して示された愛の力は、愛そうとしない者には実感できないかも知れません。神の御心を行う意思のない人がどうして聖霊を宿す必要があるでしょうか。他ならぬ自分が神から愛されて今を生きていることを感謝できる人が、その恵みを他の人々に分け合いたくなり、その時に私たちは聖霊の助けを願わずにはいられないはずなのです。
 私たちが聖霊を実感したいのなら、先ず自分は本当に御心を行う者でありたいと祈り、そのために聖霊の助けを願う必要があるでしょう。ペトロたちも主イエスが愛し抜き赦し抜いてくださったことを伝えていくことを聖霊によって促され、先ず一歩踏み出した時に、それまで自分が思い描いていた以上の大きな神の力に導かれ用いられていることを実感したに違いないのです。
 今日の聖霊降臨日を覚え、主イエスを通して与えられた神の愛が、今聖霊として私たちに注がれていることを感謝しましょう。そして、先ず自分の最も身近な人にこの愛をもたらすための一歩を踏み出していきましょう。そこに確かに働いてくださる聖霊の力を感じ、神への賛美が更に深く豊かにされますように。
posted by 聖ルカ住人 at 07:02| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする