2024年01月07日

イエスの名を広める  ローマの信徒への手紙第1章1-7節   主イエス命名の日

イエスの名を広める   ローマの信徒への手紙第1章1-7節  主イエス命名の日  2024.1.1


 救い主がこの世に来られたとき、宿る場所は無く、ヨセフとマリアはその幼児を飼い葉桶に寝かされました。それから8日経った日、救い主であるその幼児はユダヤ教の律法に従って割礼を受けイエスと名付けられました。そのことを覚え、降誕日から8日目にあたる1月1日は教会暦で「主イエス命名の日」とされています。

 今日の使徒書は、ローマの信徒への手紙の冒頭の部分です。

 主イエス命名の日の使徒書としてこの箇所が採用されている根拠を尋ねてみると、第1章5節の言葉を根拠にしているように思われます。

 「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」

 パウロは、自分は主イエスのことをローマにいる異邦人たち(イスラエルの民以外の人たち)にも宣教して彼らを信仰へと導くために使徒とされたのだ、と言います。パウロは、先ずそのことを手紙の冒頭で伝えています。

 主イエス命名の日にあたり、私たちも主イエスの御名によって一つとされ、主イエスの御名を人々に宣べ伝えることが出来るように、このローマの信徒への手紙の冒頭の部分に思いを向けてみましょう。

 当時のギリシャ、ローマ世界の手紙は、聖書の中にあるパウロが記した手紙に限らず、書き始めるときに次の3つの点を入れ込んでいたと考えられています。一つは発信人(誰から)、二つ目には宛名(誰へ、つまりその手紙の送り先)、そして三つ目に簡単な挨拶の言葉です。そのことに着目してみると、この手紙も「パウロから、ローマの人たち一同へ。恵みと平和があなたがたにあるように。」という当時の形式を満たしていることが分かります。そして、当時の手紙の書き出しの形式に、パウロが更にどのような言葉を付け加えているか、どの箇所が強調されているかなどを見ることによって、この手紙の特徴が見えてくるのです。

 先ず、パウロはこの手紙の発信人である自分を紹介するにあたり、単に名前を名乗っただけではなく、自分をどのような人間であるのかを説明しています。

 第1章1節によれば、発信人のパウロは、自分を「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」者であると紹介しています。そして次に宛先は7節の「ローマの人たち一同へ」と続くべきところですが、2節から6節までが割り込んで来ています。この「割り込み」の部分は本来、書き始めの挨拶が終わってから伝えていくべき内容ですが、パウロはその部分を挨拶の途中に割り込ませています。それだけ、パウロにとってこの部分は後回しに出来ない事であり、挨拶文を考えているうちにふと挨拶の言葉を離れて連想した大切なことに気持ちが飛んでいったと想像してみても良いかもしれません。

 当時の手紙は、口述筆記と言って、パウロが手紙にする内容を言葉にすると脇でペンを持っている者がその言葉を羊皮紙や植物繊維で出来た紙に筆記する方法をとっていました。パウロは、この手紙の挨拶文を言葉にし始めると、その途端にはやる気持ちを抑えることが出来ず、伝えたい内容が溢れるほどになってその内容の一端を言葉にしてしまったとも考えられます。

 パウロがこの手紙を書いた動機は、パウロがやがてローマへ行ってそこでイエス・キリストの福音を語り伝えたいと考えており、その福音の中心となるテーマや福音の骨格について予め伝えておこうとしたことでした。そのような事もあって、この手紙にはパウロがイエス・キリストをどのように理解しているのかを伝えようとする気負いのようなものさえ感じられます。

 パウロは、かつてはイエスの生き方を嫌い、イエスを救い主であると告白して生きる人々を迫害していました。パウロは熱心な律法の専門家であり由緒正しいユダヤ教の教育を受けて育ちました。

 まだイエスを救い主として受け入れられなかった時代のパウロは、キリスト教徒たちはユダヤ教の正統な信仰から外れた人と理解していました。パウロはユダヤ教の枠組みを乗り越えて異邦人にも広がり始めたクリスチャンを受け入れることができず、クリスチャンを捕まえては牢に入れることに息巻いていたのでした。パウロはその最中にキリストに出会い迫害者から回心して、一転してイエス・キリストこそ律法を完成し律法を超えた世界の救い主であるとその福音を宣べ伝えることへと駆り立てられていきました。

 パウロはこの大きな転換を、5節で、自分の意思によったのではなく、キリストの恵みを受けて使徒とされたのだと言いました。そして自分がこの手紙を書く目的は「その(イエス・キリストの)御名を広めて異邦人を信仰の従順に導く」ことであると記します。

 その当時、ユダヤ人がユダヤ人としての規範や枠を越えて異邦人に働きかけたり交わりを持ったりすることは考えられない事であり、難しいことでもあり、パウロが回心して主イエスの福音を異邦人に宣べ伝え始めた事は、ユダヤ人にとっても異邦人にとっても信じられないことでした。

 それにも関わらず、パウロは異邦人のためにイエス・キリストの御名を広め、異邦人を信仰の従順へと導こうとしています。使徒言行録にもパウロによる宣教の一端が記されていますが、それには多くの困難が伴いました。パウロが宣教旅行に出かけると、パウロたちは各地で袋だたきにされたり、それぞれの地に住むユダヤ人からも「神を侮辱する者」と見なされてその地から排斥されることもありました。それでも、パウロは神ご自身が自分を召し出したと信じ、イエス・キリストの僕となってその使命を全うするのです。パウロにとってそれほどにイエス・キリストの御名を広めることは大切なことでした。なぜなら、パウロはかつて自分が律法の奴隷になっていたのにそれと気付かず、自分を愛し生かしてくださるお方を迫害していましたが、そのような自分に対する気付きを与えられ、しかもそのような自分が完全に赦されていることをイエス・キリストから教えられたのでした。自分の罪がキリストを十字架に賭けたにもかかわらず、キリストは自分を受け入れてくださり愛していてくださることを知ったパウロは、目から鱗が落ちるような経験をし、この名を世界に広めないわけにはいかなくなったのです。

 その当時、「名を広める」とはその実態を伝えること事に他ならず、パウロの宣教の働きはまさに自分を通して示されたイエス・キリストの愛を人々に実践していく働きになるのです。

 私たちも主イエス・キリストの名によってここに集い、主イエス・キリストの名によってここからそれぞれの生活の中に派遣されていきます。そこでの働きを通してそれぞれに主の名を伝えていくのです。私たちは、パウロと同じようにイエス・キリストを主として、イエス・キリストの僕となって生きる者です。他の何ものをも主とせず、私たちとこの世界を愛し抜いて下さるしるしとなって馬小屋に生まれ十字架についてくださったお方が私たちの主であり、私たちはその僕なのです。それは、強いられて不自由にされて仕えるのではなく、他ならぬ自分に示された愛を他の人々のために示していく働きを自ら担う僕なのです。

 新しい年を歩み出す私たちの生活が、イエス・キリストの名によって導かれ、絶えずこの名が私たちの出発点である事を確認しながら、それぞれの場に主の御名によって遣わされていくものとなりますように。

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2023年12月31日

「静かに夜露の降る如く」  ヨハネによる福音書第1章1~18節 2023.12.31

ヨハネによる福音書第1章118  2023.12.31  降誕後第一主日 


 今日は、降誕日の直後の主日です。改めて主イエス・キリストのご降誕を静かに思い巡らせてみたいと思います。

 ローマ皇帝アウグストから出た住民登録の勅令のために、人々は自分の生まれ故郷に帰る旅を急いでいます。強いられた旅をする人々が行き交うユダヤの町は、どこもごった返していました。とりわけダビデ家の由緒ある町であったベツレヘムは、住民登録をするために戻って来た人々で溢れかえっていました。人々は、我先に宿を確保しようとして高ぶり、町はいつになく騒がしい姿になっていました。

 ヨセフが、出産を控えたマリアを連れて、やっとベツレヘムに着いた頃、町の中にはこの二人が宿を取る余地はありませんでした。彼らが町からはじき出されるように、体を休めるために見つけた場所は町外れの家畜小屋だったのです。この家畜小屋とは、旅する人がロバやラクダをつないでおくための洞窟のようはところであったと考えられています。

 マリアは、このような場所で子を産み、その子は温かな産湯も産着もないまま、あり合わせの布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされたのでした。そこは、時々、動物たちの鼻息が聞こえる動物小屋で、静けさの中に、幼子の産声が響いた様子が想像されます。そこには、街中のざわめきとは対照的な静けさがありました。

 そして、救い主誕生の知らせを真っ先に受けたのも、住民登録の人々でごった返す町の喧噪からは離れた野原にいる羊飼いでした。もし今の世にキリストがお生まれになったとしたら、そのことに誰が気付くのだろうかと私は思うのです。

 もし現代に救い主がお生まれになるのなら、それは今から2000年前のあの日と同じように、現代の力や騒がしさに隠されて、私たちに気付き難く見え難い所であり、そのメッセージが届けられるのは、あの時が羊飼いたちの所であったように、町の喧噪から追い出されたような人々のいる辺境の場所であり、あるいはまた今の世の中で悩みや困難の中にあって明るみに出てこない人に対してなのではないか、と思うのです。

 そして、私はその良い知らせを受けることが出来るのだろうか、などと考えてしまいます。

 このことは単に都会と田舎という問題ではなく、私たち一人ひとりの心の中の事として考えてみる必要のあることなのではないでしょうか。

 このようなことを思い巡らしながらこの説教の準備をしていると、昔のある出来事を思い出しました。

 かつて、私が経験したある音楽会での事です。

 その音楽会の観客席には多くの子どもたちが集まっていました。もう演奏が始まろうというのに、会場の子どもたちは演奏会の嬉しさいつまでも浮ついてざわざわしています。私は演奏者のことを思うと少々はらはらしてきました。

 そのような会場で演奏会が始まろうとする時に、演奏者は挨拶の中で、静かにこう言ったのです。

 「私たちは、沈黙の緊張感の上に立って演奏したいと思います。演奏中はぜひ皆さんの沈黙でその緊張感をつくってください。」

 わたしは本当にそうだと思いました。このことは、音楽だけではなくこうした礼拝でも、またキリスト降誕を受け入れる心についても言えるではないかと思いました。そして私は、その時から「沈黙の緊張感」という言葉が大切な言葉になっています。

 私は、キリストの降誕についても、この「沈黙の緊張感」の中で思い巡らせ、御子の降誕の恵みを受け容れるべきだと思うのです。

 この「沈黙の緊張感」を汚れの無い白い紙に例えれば、書道や墨絵もこれと共通することが言えると思います。紙の白さの上に描き出される墨の色合いは紙の白さと対比して浮かび上がります。もし紙が汚れていては、書家は筆を動かそうという意欲が引き出されないし、仮に書いたとしても作品の美しさは紙の汚れに邪魔されるでしょう。音楽の場合も、沈黙の静けさとその緊張感を必要とします。演奏者は、沈黙の緊張感によって引き出されてくる演奏への思いを表現し、それが聴く人は自分の心の深いところにその演奏を共鳴させるからこそ、演奏者と聴衆の間に一体感が生まれるのです。この大切な沈黙が損なわれてしまっているところで演奏するのであれば、演奏する人の意欲がどうなるのか、私のような凡人でも少しは想像できます。

  神さまからの救いのメッセージも、馬小屋の深い静けさの中で、弱く小さな姿をとってこの世に与えられています。ヨセフとマリアは、人口調査の慌ただしさの中で誰にも配慮してもらえずに、町の外にはじき出されるように家畜小屋へと追いやられ、その静けさの中で初子を産み飼い葉桶に寝かせました。

 救い主は、静けさの中で、その緊張感の中で、この世界に宿りました。神は、人々を威圧するのでもなく屈服させるわけでもなく、静かに夜露の降る如くに、この世界にそっと救いのメッセージを届けて下さったのです。

 人口調査の慌ただしさの外で、静かな野原で、このメッセージを聴いて受け入れたのは誰だったでしょう。

 それは、ローマ皇帝による住民登録の対象にさえならない無法者の羊飼いたちでした。羊飼いたちはこの日、夜の静けさの中で、自分の生きざまとその心の深みとに届けられるメッセージとが出会う緊張感を味わいます。彼らは静けさの中にいたからこそ、町の喧噪の中では決して聞こえてこない神のメッセージを受けることになるのです。

 私は、このことを私たち一人ひとりの心の中の事として考えてみる必要があると思うのです。

 ある哲学者がこのようなことを言っています。

 誰にでも心の中に他の人と分かち合う事のできない密やかな片隅があって、神はそこで私たちと出会ってくださる。私たちはそこでしか神と出会えないのかもしれない。

 仮に自分が傲慢であってその傲慢さを顧みようとしないなら、私たちの心の中には神の宿る余地はありません。私たちが自分の心の密やかな片隅を思って静まるとき、わたしたちはそこに神が語りかけてくださ小さな声に気づけるのではないでしょうか。

 福音は、声高で華やかなメッセージであるとは限りません。

 キリスト誕生の物語は、どれも静かです。乙女マリアへの受胎告知、夫になるヨセフにマリアを迎えるようにという夢のお告げ。飼い葉桶の幼児イエス。羊飼いへの御告げや三人の博士の来訪までどれも静かです。その一方で先を争って宿を求めたであろうベツレヘムの街中の人々や幼子の殺害を企てるヘロデ王は声高であり、居丈高でした。このように、聖書は静寂の中で神のメッセージを聞き取る人と聞き取れずかえって踏みにじる姿を対照的に描き出します。

 静かにこの世に生まれた御子イエス・キリストを、私たちは心の中のどこに迎えようとするのでしょうか。弱く貧しく小さな姿をとって私たちに宿ってこの世に来てくださった救い主を、心の片隅の密やかなところに迎え入れることができますように。

 主イエス不在の世俗のクリスマスシーズンは既に去りましたが、私たちのクリスマス(キリストの降誕を感謝して祝う期節)は降誕日から12日間続いています。神の御前に心を静め、私たちの内に静かに来てくださったイエス・キリストを感謝し、神の子の訪れを私たちの内に宿ってくださっている恵みを受け止める時を過ごしましょう。

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2023年12月27日

「お言葉どおり、この身に成りますように」  ルカによる福音書第1章26-38節 降臨節第4主日  2023.12.24

「お言葉どおり、この身に成りますように」  ルカによる福音書第1章2638節 降臨節第4主日  2023.12.24

  今日の聖書日課福音書には、いわゆる受胎告知の物語が取り上げられています。天使ガブリエルがマリアに現れ、マリアに告げました。

 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

 マタイによる福音書の第1章の物語の中に、また、このルカによる福音書の第1章の中に、マリアはヨセフの許婚であったことが記されています。

 天使ガブリエルはマリアの前に姿を現してこう言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」29節によれば、マリアはこの言葉に戸惑っています。マリアは、驚き、恐れ、おののきながら、天使ガブリエルの「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」という言葉を聞きました。そして、マリアは一度は「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしはまだ男の人を知りませんのに。」と言いますが、最後には天使ガブリエルに従って「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。

 ヨセフとマリアのことについては、マタイによる福音書第118節~にも記されていますが、そこでは夫になるはずであったヨセフがマリアの懐妊を知って思い悩んだ様子が記されています。ヨセフばかりでなく、マリアもこの出来事にどれほど心を揺さぶられたかということは、私たちの想像の域を遥かに超えているのではないでしょうか。

 その当時、婚約することは律法の上で結婚に等しく見なされることで、未婚の女が子を宿すことは律法に反する事であり、姦通の罪を犯した者として町の外に引きずり出されて石打の刑に処せられる可能性もありました。

 マタイによる福音書第1章では、夫になるはずのヨセフがマリアの受胎について悩み抜き、一度は離縁する決心をしたと記されています。それにも関わらずマリアは、天使のみ告げを受けて「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答えています。

 マリアの答は、深い呻きを伴う祈りの言葉であったに違いありません。

 私たちは、この受胎告知に物語で、28節で天使ガブリエルの「おめでとう、恵まれた方」という言葉を聞くと、この言葉だけを切り取って、マリアがまるで大きな幸運を手にする女性であるかのように考えてしまうのではないでしょうか。また、今日の福音書の直ぐ後の箇所で、マリアがエリサベトから祝福の言葉を受けていることや、マリアが神を誉め讃えて「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と歌うのを聞けば、私たちはマリアが幸運で幸福で明るく過ごして天国に迎えられる人であるかのようにも思えてくるかも知れません。

 でも、イエスの母マリアは、見方によれば、決して幸運でもないし幸福でもなく、むしろ生涯にわたって重荷を負い、イエスの母としての辛さや苦しさをも味わい尽くしたのではないかと私には思ます。

 周りの人々から未婚の母と見なされるに違いない受胎告知を「お言葉のとおりこの身に成りますように」と受け入れ、やがて勅令によるナザレからベツレヘムへの強いられた旅。子を産むための場所もなく身を横たえたのは旅する人々がロバやラクダをつないでおく街外れの家畜小屋。周囲の人々の刺すような視線を受けながら育て上げた息子イエスは30才になった頃に家族を離れて神の国の運動に没頭していきました。そのような我が子に会いに行くと、我が子から返って言葉は「わたしの母、兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」でした。それはマリアにとって親子関係を否定されるように響く言葉になったことでしょう。それでも、マリアはイエスの母親として息子を愛し続けますが、やがてイエスはエルサレムに上り、そこで理不尽にもユダヤ教の権力者ちによって犯罪人に仕立てられ、十字架刑に処せられてしまうのです。母マリアは我が子が神殿の指導者たちや群衆に罵られながら十字架の上に死んでいく様を見ました。

 「お言葉どおり、この身に成りますように。」

 こう言って、自分の全てを主に委ねて生きたマリアの人生は辛く苦しいものであったに違いありません。そして、この母親から生まれ育ったイエスは、マリアと同じように、それだけでなくマリア以上に全てを主に委ねて生涯を送りました。

 主イエスは、殺されることになる前の晩に、オリーブ山で血の汗を流して祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください(22:42)」。

 イエスは十字架につけられた最期にも「父よ、わたしの霊を御手に委ねます(23:46)」と叫んで息を引き取りました。

 マリアから生まれマリアに育てられたイエスは、母親と同じように自分を神に委ねて一生を過ごします。イエスの最期は無惨な死であり、その時にもあの受胎告知の時のマリアと同じ言葉で息子イエスが全てを主なる神に委ねる姿を、マリアは仰ぐことになるのです。それは、マリアが天使ガブリエルに「お言葉のとおりになりますように」と答えてから33年近くが経った時でした。

 マリアは、受胎告知を受けた時ばかりでなく、おそらく一生を「お言葉どおりこの身に成りますように」と祈り通したことでしょうし、そう祈らないわけにはいかな生涯だったことでしょう。そして、イエスは幼い頃から、母マリアの腕の中で、繰り返し繰り返し母マリアの言葉を聞いて育ったはずです。

 「お言葉どおり、この身に成りますように。」

 天使ガブリエルは、マリアに受胎を告げる時、「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけ、「あなたは神から恵みをいただいた」と語りかけました。マリアの生涯は「いったい、なぜ、これが恵みなのですか!」と幾たびも叫ばずにはいられない思いだったことでしょう。

 天使ガブリエルの言う「恵み」はどこに現れるのでしょう。

 それは、主イエスが十字架の死と甦りを通して、神の子の救いのみ業がこの世界にハッキリと示され、イエスを救い主として受け入れ信じる人々が生まれてくることによって、初めてマリアの恵みを確認することができるのではないでしょうか。つまり、私たちが信仰者として主イエスを救い主として受け入れ信じて生きることで、マリアの恵みはハッキリと現れ出るのです。

 この恵みは、マリアに限らず、神の働きが自分の身をとおして行われことを通して現れ出るものであり、言葉を変えれば、私たちが神の御心を表す器となる時に、マリアが苦しみを忍び、辛さを耐えて祈りながら生きたことの意味が明らかになるのです。そして、私たちも神の言葉が実現するように働いて生かされる時、「おめでとう、恵まれた方」という天の祝福を、マリアと共にいただく者とされるでしょう。

 マリアは自分を「主のはした女(仕え女)」と言いました。マリアは、自分を神に委ねて生きる事の中に働く神の恵みと祝福を信じて多くの苦労を担う生涯をおくり、自分の身を通して神の御心が成し遂げられる出来事の器となり続け、そこに示される神の祝福を受けながら生きて、神の御心を証しました。

 マリアが天使ガブリエルから告げられた恵みは、神に選ばれ、神の働きに招かれた者が受ける「恵み」です。この「選び」の「恵み」に対してマリアは「お言葉どおりこの身に成りますように」と応えているのです。

 私たちも、この世界に命を与えられ、この世の舞台に送り出されています。私たちは、神に選ばれ、神に招かれたことを自覚して生きる者であり、私たちは、マリアと同じ恵みと祝福の中に生かされています。

 私たちも、マリアと共に「神よ、私を御心を現す器として用いてください」、「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈りつつ生かされて参りましょう。

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2023年12月26日

「感動」と「自己表現」(愛恩便り2016年10月)

「感動」と「自己表現」

賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:4-5 ) 


 かつて、ある絵画教育の作品展を見学した時のことです。まるで大人が描いたような作品がずらりと並んでいました。見ている人の中には「じょうずねぇ、幼稚園生が描いたとは思えないわね」という人もいましたが、私はその作品を見ながら、次第にある種の気分の悪さを感じ始めていました。

 そこに並んでいる絵は、極端に言えば、描き方の訓練を受けた子どもの技術の発表であり、その技巧ばかりが目立って年齢相応の感性が封じ込められていて、残念ながらそれらの作品からは一人ひとりの「存在感」が伝わって来なかったのです。

 たとえば、絵画の場合にはクレヨンや絵の具の基本的な使い方や、版画の場合には彫刻刀の基本的な扱い方や注意事項を子どもに教える必要があるでしょう。また、習字の筆の扱いのように、止め、払いなどの部分的な練習が必要になることもあるでしょう。でも、芸術の根底になくてはならないのは技巧ではなく、先ず「感動」です。

 わたしがかつて出会った子どもに、生き生きとした絵を描く子どもがいました。ある時、その子は魚が泡を吐く様子を描きながら、小さな声で「ブクブクブク・・・」と言っていました。きっとその子どもは実際に魚が泡を吐く姿を見て感動し、興味を持ち、その様子を思い浮かべながら絵に表現していたのでしょう。脇にいるわたしにもその子の「ブクブクブク・・・」と言っている思いが伝わってくるようで、楽しくなりました。

 ある著名な日本画家がひどいスランプに陥った時の有名な話があります。

 彼は、ある時期に絵を描く意欲がわかず、しばらく絵筆を持つことから遠ざかっていました。ある日、森を歩いていると、一本の木が突然「わたしを描いてください」と迫ってきて、彼は夢中でその木の絵を描きました。その時をきっかけに彼は絵描きとしての自分を取り戻した、というのです。

 人は誰でも、好きなことには熱心になれますし、感動することが意欲につながります。好きなことに夢中で取り組むとき、その成果も目に見えて上がり、ますますその事に意欲的になり、そこで新たな感動を得ることになります。子どもたちもそのような夢中になれる「楽しみ」と出会えるといいな、と思います。かつて、わたしの息子が所属していた大学野球部のモットーは「エンジョイ・ベースボール」でした。この「エンジョイ」とは、ただ愉快にやるということではなく、目標に向かって自分から練習にも工夫を凝らし精一杯挑戦するという意味が込められているのだそうです。そうであればこそ、強いられてすることでは味わえない充実感や達成感が得られ、自分から挑戦して限界を超えていく経験をエイジョイすることも出来るのでしょう。

 子どもたちも、自分の感動から表現の広がりや深まりを獲得していく経験を沢山して欲しいと思います。その時、それぞれの個性が一層光り始めるでしょう。それは、運動、絵画や造形、音楽等の表現についても言えることです。

 そして、そのためには、わたしたち大人が子どもの小さな感動に共感することが求められます。子どもは、自分の感動に共感してもらうことで、その感動を自分の中に確かなものとして定着させます。それは、物事を感じる自分を再確認し、自信を持ち、自分の存在感を高めることにつながります。それは更に、怖れなくのびのびと自分を表現する力になるのです。子どもたちが自分の感動を豊かに表現できるように、わたしたちは子どもの感動を受け止め、共感し、子どもの表現を共に喜ぶものでありたいと思います。

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神の愛を受信する ヨハネによる福音書1:1~14 降誕日

神の愛を受信する   降誕日 ヨハネによる福音書第1章1~14節  2023.12.25


 かつて、私が勤務していた教会に宇野徹主教が巡回してくださった日がちょうど教区の児童の日であり、子どもたちも礼拝に出席する中で主教さまに説教をしていただいた事がありました。その時に主教さまはある道具を持参され、それを示しながら説教をして下さったことを印象深く記憶しております。その道具とは、一つが携帯ラジオ、もう一つは玩具のラジコンカーでした。その説教は私にとっても興味深いものでした。

 主教さまは、そのラジオのスイッチを入れて、ダイヤルを動かしながら、「電波は目には見えないけれど、こうして電波の周波数に合わせるとラジオはその電波を受信して放送を聞くことが出来ます。放送局からの番組を受信するにはその電波の波長に正しくダイヤルを合わせることが必要です。それと同じように、私たちも神さまが与え続けている愛の力を正しく受けられるように、日々の生活を霊性を祈りつつ育てていく必要があります」とお話になりました。

 また、ラジコンカーを前後させながら、「目には見えない電波を受ける車とコントローラが発する電波の周波数が合っている時にはじめて車が動きます。わたしたちも神の愛の力を受けてはじめて生かされるのです。だから、私たちは聖書を学ぶことや毎日の生活の中で神の導きを求めて祈ることにより、神の御心にピタリ合う生き方に励み、福音の喜びに満たされるようになりたいですね」という主旨のお話をしてくださったのです。

 今日の聖書日課福音書であるヨハネによる福音書の冒頭は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と伝えていますが、今述べたラジオのたとえで言えば、人間の方ではまだ電波を受信できるほどに信仰が育っていない時でも、神はこの世に生きる私たちに愛の電波を今も絶えることなく発信し続けておられ、これからもずっと発信し続けて下さるのです。その愛の電波のことを、ヨハネによる福音書では「言(ロゴス)」と言っています。

 「言(ロゴス)」という箇所を「神が発信する愛の電波」と置き換えて、今日の福音書の冒頭の部分を読みなおしてみます。

 「神が発信する愛の電波は初めからあった。電波は神と共にあった。愛の電波は神であった。この愛の電波は、初めに神と共にあった。万物は愛の電波によって成った。成ったものでそれによらずに成ったものは何一つなかった。この愛の電波の内に命があった。」

 しかし、「神の愛の電波」は、人々になかなか理解されませんでした。それは人の目には見えず、人はこの電波だけを抜き出して目に見て確かめることが出来ないからです。愛は何か具体的な行いの中に現れ出るのです。そして、私たちがこの愛の電波を確かめるためには、その電波をキャッチするための受信装置が必要になります。電波を受信した時にも、電波そのものを見るのではなく、電波を音なり映像なり動力に変換してはじめて、その電波の内容を確かめることが出来るのです。

 神さまがこの世に送ってくださった「言(ロゴス)つまり神の愛」についてもこれと同じことが言えます。神は天地をお造りになった初めからこの世界と人々を祝福し、愛し、関わり続けてきてくださいました。でも、私たち人間は、神さまの送る愛そのものを自分たちの目でしっかりと見て確認することが出来ませんでした。

 人は神の愛や守りが見えなくなったり感じられなくなったりすると、安易に目に見えるもの、触れて確かめられるものを求めて、そこに安心を得たくなります。神から離れて神を見失ってしまってもそのことに気付かないで、自分で思い描いき造り上げたイメージの神(偶像)を神として奉り、愛ではない物を愛であるかのように仕立て上げて、その幻想の中に生きようとしてしまうのです。私たちのまわりにも、本当は神からの愛によってしか癒されないはずなのに、お金に拠り頼んで他の人の財産までだまし取る者のニュースが後を絶たなかったり、権力にすがって他の人を踏みにじる者がおり、アルコールに溺れる者がおり、他の人の気を引くような事をして注目を集めて一時の快楽や満足を得たりうっぷんを晴らそうとする者もいるのです。しかし、それでは神の愛を受信する感性は鈍くなり、神の愛をキャッチして動き出すことからますます離れてしまうでしょう。

 主イエスの働きを快く思わず、十字架へと追いやった人々もそうでした。文字の上だけで愛を論じる律法学者たちは、神の本当の愛を実感できませんでした。また自分の身を守り形式的に儀式を繰り返し、それを民衆に強要する祭司長たちにとって、神の愛は邪魔であり面倒くさかったのです。

 そのような人々が支配するこの世に、神は、人の目に見える姿をとってご自身の愛を具体的に示して下さいました。それが神の子イエス・キリストの降誕です。神の子イエス・キリストは、人の上に立って支配し君臨するのではなく、貧しく小さなお姿を取って、人々の目に見える存在となってくださいました。ヨハネによる福音書第1章14節に「私たちはその栄光を見た」と記しています。

 私たちは主イエスを通して真の神の愛に触れて、目には見えない神の愛を実際に見て知り信じることが出来ました。文字の上でしか知らなかった「神の愛」の本当の姿を、主イエスを通して具体的に知らされ、その愛を受けた者は愛の電波の中継者となって人々を愛し、神の愛を伝える者へと変えられていくのです。

 律法によって「愛せよ」と幾度厳しく突き付けられても愛を実感できなかった人々は、律法を守れない人々を裁くようになります。律法を守れず裁かれた人々は、自分でも自分を否定してさまよい自分を見失ってしまいます。でも、そのような人々も、イエスによって自分も愛し抜かれていると言うことを心から理解できた時、本当の自分を取り戻して神の愛に生きるように回心するのです。

 神は、主イエスを通して私たちに神の愛を教えてくださいました。主イエスが示した「神の愛」をさらに世界に伝えていく働きは、その弟子たちに受け継がれ、使徒たちを通してやがて世界に拡がり、私たちの所にも届きました。

 神の愛を受信した私たちは、今度はこの「神の愛の電波」の中継基地となって、正しくこの神の愛の電波を中継して、人々に伝えていきたいのです。

 「言が世に来た」ことや「言は肉となって私たちの内に宿った」ということは、神の愛が主イエスをとおして具体的にこの世界に働いたことを意味しています。

 私たちはこの世で、時には弱り、時には悲しみにも出会います。でも、私たちは既に目に見える神の愛を与えられ、神の愛は私たちの中に深く宿っていて下さいます。馬小屋の飼い葉桶の中に、神の愛の姿を宿して下さった恵みを深く受けとめ、私たちも神さまの愛の電波を受信して中継する器として、それぞれの生活と働きを通して用いられるように祈り求めたいと思います。

 神の言が私たちのところに来て下さった喜びを一人ひとりが自分のものとすることが出来ますように。また、神の言をこの世界に中継し、それぞれの生活と働きの中で映し出す道具として働く喜びを与えられますように。

 主イエス・キリストのご降誕を感謝し、神の言を一人ひとりがしっかりと受信することができますように。

posted by 聖ルカ住人 at 09:12| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする