2023年02月27日

光 (あいりんだより2009年12月号)

 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」  (ヨハネによる福音書8:12 ) 


 12月になりました。愛隣幼稚園はキリスト教会の幼稚園です。特に12月はイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスの月でもあり、イエスさまについて思い巡らせることの多い時でもあります。

 イエスさまは、聖書の中でしばしば「光」に例えられています。上に掲げた聖書の言葉もそのような言葉の一節です。

 少し「光」について思い巡らせてみましょう。深い闇の中にある光は、たとえその光が小さなものであっても、それは道しるべとなり、暗闇を歩く人はその光を見て自分の進むべき方向を認識できます。星や星座は、古くから海や砂漠を旅する人の案内役になってきましたが、聖書はそのことにたとえて「イエスがどのような意味での救い主であるのか」を示しているのです。

 光の位置を知ることによって自分のいる位置や進むべき方向を認識できることは、まさに私たちの生き方そのものをたとえているのではないでしょうか。本当のことや正しいことを知らずに、また知ろうとせずに、ただ目先のことを追い求めているのでは、私たちはいつの間にか同じことを繰り返したり、泥沼にはまりこんでいくことにもなりかねません。私たちはいつも、本当のことは何か、正しいことは何かを考え、見つめ、真理に立ち返りながら、生きていくものでありたいと思います。そのための「光」がイエスなのです。

 それまでは知らなかったり気付かずにいた本当のことや正しいことに出会うことによって、自分で大切にすべき事柄の順序が真理を根底に据えて心の中で置き換わり、新しく生まれ変わって生きていくような歩みを、私たちは「光」に導かれて進めていきたいと思います。イエスは,私たちが「そうだったのか!」と目から鱗が落ちるような思いになって、その後の生き方を変えられ、私たちがより深く真理に向かって生きられるようにされる意味での救い主です。

 かつて、ある宝石商人が次のように語っていました。

 「本物と贋物を見分け、質の高い宝石とそうでないものを見分ける眼力を養うためには、本物の最高級の宝石をたくさん見つめる以外に方法はありません。」

 本物の宝石、最高級の宝石を見つめてその眼力が養われるのとちょうど同じように、私たちは正しいこと、本当のことに触れて、その感性を養うことで、まがい物やこけおどしに流されずに、真理に導かれていくことができるのではないでしょうか。それは、子育てについても教育についても言えることです。

 イエスは,今から2000年前、当時のイスラエル社会の中で真理を示し、そのために当時の権力者によって弾圧され殺されていった人でした。この男の生き方と死に方の中に「光」を見た人々によって、イエスは救い主と信じられ、宣べ伝えられ、その後世界の多くの人々を支え導くようになりました。その歴史の中で、イエス・キリストの福音は日本にも届けられ、私たちの幼稚園も起こされました。

 近年、日本のクリスマスにはイエス・キリストが不在です。

 私たちは、子どもたちの中に「光」であるイエスさまの宿るクリスマスを迎えたいと思います。

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2023年02月26日

自分の罪を認める  創世記2:4-9,15-17、25-3:7  大斎節第1主日 

自分の罪を認める   創世記2:4-9,15-1725-3:7  大斎節第1主日   2023.02.26


 大斎節に入り、最初の主日を迎えました。今日の聖書日課旧約聖書には、創世記第2章と第3章の部分から、人間の罪について語られた箇所-アダムとエバが蛇に誘惑されて罪に陥った物語-が取り上げられています。

 この箇所に登場するのは、アダム、女、神、それに蛇です。そしてこの4者が言葉を交わしています。蛇と女、女と男、男と神のやりとりが続きますが、先ず、女と蛇との会話を見てみると、女は蛇の巧みな話術にはまり込み、女の思いが神との約束から次第にずれをおこし、遂には人が自分から神との約束を破り約束の木の実を食べてしまう罪を犯すに至る事が分かります。

 大斎節第1主日である今日、私たちが特に注目してみたいのは、木の実を食べて罪を犯した後の男アダムと女エバの態度と振る舞いについてです。

 今日の旧約聖書日課は創世記の第2章と3章から部分的に飛び飛びに取り上げられていますが、今日の旧約聖書日課をもう少し前の部分から見直してみることにしましょう。

 神はお創りになったアダムとエバをエデンの園に住まわせました。そして、人がそこで生活していけるようになさり、神は次のようにお命じになりました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 しかし、女は狡猾な蛇の話に乗せられて、自分でその木の実を取って食べ、一緒にいた男にも渡しました。彼もそれを食べました。

 2章6節の後半にこのように記されています。「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」

 すると2人は目が開けました。彼らは自分たちが裸であることを知り、二人はイチジクの葉をつづり合わせて腰を覆うものとしたのです。

 「イチジクの葉」とは、罪ある自分を覆い隠すその場凌ぎの装いであると言えるでしょう。

 今日の日課はここまでなのですが、こうして神との約束を破ってしまった後のアダムと女の態度と振るまいを見るために、この物語をもう少し先まで思い起こしてみましょう。神との約束を守らずに知恵の木の実を食べてしまったことも「罪」なのですが、この男と女が更に「罪」を重ねていることこそ、私たちがしっかり見据えておかねばならないことなのです。

 アダムとエバが罪を犯した日、風が吹く頃、主なる神が園の中を歩く声が聞こえます。すると、二人は神の顔を避けて、神と顔を合わせなくても済むように、園の木の間に身を隠します。神はアダムに「何処にいるのか」と声をかけました。3章10節でアダムは答えます。「あなたの足音が聞こえたので恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

 アダムの中に恐ろしさが生まれたのはなぜでしょう。自分が裸であることだったのでしょうか。そうではありません。それは、神から「食べてはいけない」と言われた「善悪の知識の木」の実を食べてしまって、自分の中にそのことを隠しておきたい気持ちが生まれたからです。主なる神との完全な交わりの中にあって、何の恐れもなかったこの男と女に恐れをもたらした原因は、人が裸だったからではなく、自ら神との信頼関係を破ったこと、つまり罪を犯したことにあるのです。

 神はアダムに問います。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

 これに対するアダムの答はどうでしょう。アダムは、3章12節で「あなたが私と共にいてくださるようにしてくださった女が木から取って与えたので食べました。」と言います。アダムはまるで、その責任は自分にあるのではなく、神が与えたパートナーが罪の原因であるかのように答えています。アダムは、その女を神が勝手に与えた者であるとでも言うような口ぶりで神に言い訳けをしています。

 この点では、女エバの答もアダムと同様です。「蛇がだましたので食べてしまいました」。

 でも、この箇所をよく読んでみると、蛇はこの女に「食べてみろ」と促すようなことは一言も言っていません。アダムの答も女の答も、神の問いかけに対して不適切でありまた不誠実です。彼らの答は彼らが自分の意志と決断で食べた事実との間に大きな隔たりがあります。

 このようなアダムと女の神への応え方を考えてみますと、人の罪とは、自分の保身を考えたり自分の欲望を満たすために、また神の御心から離れることで生じた恐れを覆い隠すために、神に対しても本当の自分に対しても不誠実になってしまうことである、と言えるのです。

 私たちは誰でもこうした不誠実やごまかしに誘われる者である事を肝に銘じておかなければなりません。人はこのように生まれる罪を認めたがらず、時には自分の過ちの責任を他人になすりつけ、自分には過ちが無かったようにして、偽りの中に自分を守ろうとすることをよく覚えておきたいのです。罪人は、自分の罪が顕わになりそうな時に、本当の自分を隠して必要以上に防衛的になり、攻撃的になり、あるいは自分の罪を隠して過度に偽善者ぶる事にもなるのです。神と人の前で自分の罪を認めその罪を告白することは、私たちが生きていく上でとても大切なことなのです。

 ヨハネの手紙一第1章8節に「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」と言い、続けて9節に「自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と言っています。

 人の世界に罪が入り込んだのは、人がただ蛇に唆されて善悪を知る木の実を食べてしまったその後に、アダムも女も自分の罪を神の前に言い表すことなく覆い隠し、その責任を他者に転嫁していくところにありました。

 先ほど触れたヨハネの手紙の言葉にもあるとおり、自分の罪を認めてしっかりと見据え、それを神の前に差し出すことは大切なことです。自分の罪を認めて誠実に生きることは、簡単なことのようであっても、それは時には辛く痛みを伴うこともあるでしょう。でも、私たちが神の前で自分の罪を認めて告白する時、神と私たちの間の亀裂は埋められ、神と私たちは結び合わされるのです。そうして私たちは自分を脅かす罪意識から解放され、癒され、主なる神は私たちにとって審きの神から恵みの神に変わるのです。

 罪を認めて懺悔することは、「ああしなければ良かった、こうしなければ良かった」と言って変えられない過去を思い出して悩み続けることではありませんし、罪を犯してしまった自分をいつまでも責め立てることでもありません。主なる神の前に自分の罪を認めることは、主なる神との関係をもう一度結び直すことであり、そうすることで主なる神の前に恵みと喜びに導かれることになるのです。

 私たちが善悪を知る木の実を食べたアダムやエバのように罪を犯して恐れの中にいるのなら、そのことを自覚した時にこそ神が私たちに「どこにいるのか」と声をかけておられることを覚えたいのです。主なる神が私たちの名を呼んでたずねるのは、決して神が私たちを犯罪者として吊し上げたり処罰するためではありません。私たちは、神の前に全てありのままで良いのです。罪人の自分を全て神の前に開いて、神にそのままの私を受け取っていただき、神の赦しと恵みの中に本当の自分として生きることを許されている喜びに与りたいのです。罪を自覚できる人は、その罪が主イエスを通して赦されて生かされている喜びをもまた自覚できるのです。

 かつてアダムとエバは、それとは逆に、神にも自分にもウソをつき責任を転嫁して自分を守ろうとしました。そして神の前から顔を背けました。そのようにしてアダムとエバは神と人の関係の亀裂をつくり、人間同士の関係の破れを拡げてしまいました。でも、神はこのような破れから、もう一度私たちを救い出して生かしてくださるために、神と人の破れを主イエスによって恵みが働く通路に変えてくださいました。一度罪を知りその罪を自覚できるからこそ、私たちはそこに働く神の恵みの深さと愛の大きさを知ることが出来ます。私たちは多くを赦された者として多くを愛されている喜びを主イエスを通して与えられました。

 主イエスは、罪による死の先にある永遠の喜びの世界を開くために悪魔の誘惑に打ち克ち、血の汗を流し、十字架をとおして救いの道を開いてくださいました。私たちは、主イエスの復活の命にあずかる時を目指して大斎節を過ごして参りましょう。この大斎節の間、私たちの罪に働いてくださる神の恵みをしっかりと思い起こし、それぞれの信仰の養いと導きを受け、感謝と喜びの復活日を迎えることが出来ますように。



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2023年02月25日

ロシアのウクライナ侵攻から1年 2023年2月24日

2023年2月24日
  かつて「地球資源は世界の人々が均しくその恩恵を受ける程度には備わっているけれど、人間が破壊しあって消耗することに堪えられるほど豊かではない」という言葉を聞いた記憶があります。
 世界中のミサイルや戦車の生産と消耗をやめて、食糧を産み出すための耕運機や世界に資源を共有するために運搬する船やトラックの生産に向かいますように。
 どれだけの命が失われているのでしょう。どれだけの地球資源が無駄に失われているのでしょう。
 私は、ロシアに、ウクライナからの即時全面撤退を求めます。
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受け容れることの大切さと難しさ  (あいりんだより2009年11月号)

受け容れることの大切さと難しさ

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」 (ローマの信徒への手紙12:15) 


 新聞や雑誌に掲載される人生相談や育児相談のコーナーで、回答者がよく「相手 (子ども)を受け容れてあげなさい」と記しています。多くの場合、言葉の限りでは「相手を受け容れる」ことは本当に大切なことであり必要なことなのですが、わたしは実際にそうすることがいかに難しいことであるかを痛感しています。

 なぜなら、「受け容れる」ことは、相手がやりたい放題することを無節操に容認することではないし、知らぬ振りをして放り出しておくことでもないからです。また、「受け容れる」ことは、こちらの立場で相手の善し悪しを評価して良い部分をほめながらある方向付けをすることでもありません。

 「受け容れる」ことは、子どもの心にどのような深い思いがあるのか、子どもが表現する言葉や行動の背景にはどんな経験や感情があるのかを含めて、その子どもの全体をありのままに理解することなしにできることではありません。

 嬉しいことや楽しいことまた少なくとも自分の価値観に合うことであれば、相手を受け容れることは比較的易しいことかもしれません。でも、それが悲しいことや反社会的なことであれば、受け容れられなくて当たり前であり、それを「受け容れなさい」と言われても戸惑うし、「受け容れる」ことは「あきらめる」ことなのかと言いたくなるのではないでしょうか。

 仮に、子どもが「あいつを殴りたい」と言ったとしましょう。「受け容れる」とは、その子が殴ることを許可するとでもないしその思いだけを理解することでもありません。「あいつを殴りたい」という言葉の背景には、きっとその子どもが自尊心を傷つけられたり生きることを否定されたりするような経験をして、そのきっかけとなった相手が赦せない思いになっているのではないでしょうか。そのような深い思いを子どもの立場から理解し、更に自分が傷ついたときに「殴りたい」と反応してしまうその子どもの課題や傾向をも見通しつつ、傷ついたその子の気持ちを自分が味わいながら子どもに関わることが「受け容れる」と言うことなのです。

 子どもはそのように受け容れられることを通して、やがて他者によって再び傷つけられるような経験をするときにも、自分の心をしっかり把握して相手に適切に関われるように成長していくのです。

 そうであれば、子どもが無理な要求をしてきたときにも、「受け容れる」とは曲げてその要求を飲むこととは違うことが分かるでしょう。時にはわたしたち大人は子どもの反社会的な言動に毅然として「No」を言わなければなりません。それは、子どもを日頃から受け容れているが故の「No」であり、「No」と言ったからといって、それで関係がすべて終わってしまうわけではありません。子どもを受け容れることができるとき、子どもは「物が欲しいという思いは満たされなくても、お母さんはぼくの本当の気持ちは分かってくれている」という信頼感を強くすることができるでしょう。

 「受け容れる」ことの基本的なことを記しました。それは難しいことではありますが、わたしたちは子どもを受け容れられるよう努めなければなりません。子どもに内的な力があれば、わたしたち大人が子どもの言動の鏡となって対話を進めればそれで十分です。例えば、子どもが「~~~」と言ったときに、わたしたちはその言葉をオウム返しするように「~~~なのね」と応じてあげれば、子どもは自分を少し客観化してとらえながら自分を受け容れる力を育てていけるものです。ご家庭でも、是非子どもたちの話に耳を傾け、しっかり受け止めてあげてください。それが人を深く「受け容れる」ことの第一歩です。        (あいりんだより2009年11月号)

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2023年02月23日

読書の秋 -「本が好き」の土台作り-  (あいりんだより2009年10月号)

読書の秋 -「本が好き」の土台作り-

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネによる福音書第1章1節)

 既に秋分の日も過ぎ、日中より夜の方が長い季節になりました。「読書の秋」です。子どもが童話や絵本の名作に触れながら、やがては読書好きで知的センスの高い人間に育ってくれたら、と多くの人が思います。わたしもそう思います。でも、不思議なもので、大人が子どもを「読書好きの人に育てよう」などと意気込むと、子どもはかえってそれに反発したり本嫌いになったりすることも多いようです。子どもが本好きになる前提とは何でしょうか。

 近年、子どもの成長を阻害するメディア環境が問題になっています。この問題は子どもの読書環境をも駆逐していますので、少しその点に触れておきたいと思います。

 本来、人間の声は小さく柔らかです。一方、テレビやテレビゲームなどのメディアから流れ出る音声は、人間(ことに赤ちゃん)の聴覚にとって鋭く刺激的です。私たち人間の聴覚は、幼い頃から母親をはじめとする人間の声と結びつき、その音声(声やことば)を聞き取れるようにその神経回路を強化してきました。ところが、現代の溢れ出るメディアの音声は幼子が本来強化されるはずの人間の声や自然の音(風や水の流れ)をキャッチする能力を育むことを阻害しているのではないかと考えられています。人が人の声を聞き分けて選び取る能力の素晴らしさについては、一度録音テープにとった音声を聞き直すと、周囲の物音がいかに多くまた大きいかという事などを手掛かりに分かります。人は小さいときから、人の声を選択して聞き分ける能力に磨きをかけていることが想像できます。またこうした能力は聴覚ばかりでなく、視覚や触覚をはじめ味覚にまで言えることであり、現代はこうした人間の感覚が危機にさらされていることを指摘する人も増えています。

 こうした環境の中で、母子を中心とした柔らかで穏やかな感覚刺激を得られないままメディアに犯されて乳幼児期を過ごした子どもたちは、その中で脳にたたき込まれた破壊的な擬音語や場にそぐわない乱暴な言葉遣いをその意味もよく分からないまま用いて他者とのつながりをつくろうとすることになります。でも、一生懸命に生きる子どもであっても、もし成長していく上での土台(母子を基本とした信頼関係)がつくられないままであったとしたら、子どもたちは多くの人々の集まる場で建設的な社会関係を作っていくことがどんなに難しいことになるのかは容易に想像できます。

 さて、本好きの土台も上記のことと関連しています。家庭でも日頃から、テレビ、ビデオ、テレビゲームなどのメディアに頼らず、親の肉声により語り聞かせや絵本の読み聞かせを親子で楽しめているか、子どもが自分の経験を落ち着いて話せるように子どもの心に寄り添って話しを聴いて受け止めているか、メディアのペースに拠ってではなく親子のペースで絵本を読み進められているか等々が、子どもが本好きになることの土台と言えるでしょう。

 ある著名な童話作家は、「子どもが10歳になるまでは、親が名作を沢山読み聞かせてあげてください。ただし本の感想など子どもに求めないでください。本当の感動は子どもの言葉の域よりずっと深いから言葉にならないのです」と言っていました。

 絵本や童話の名作は、わたしたちを心の深い領域に案内してくれます。読書は実際に経験できないことを追体験させてくれますが、そのときに信頼できる大人が傍らにいて物語を共有してくれることで、子どもは読書での体験を自分のものにしていくのです。その事は、子どもたちが勇気や正義感を獲得したり、感情の幅を広げたりしていくことにも繋がるのです。

 こうした土台ができてくれば、読み書きの練習開始が遅くても、もっと物語の世界に触れたい子どもは時間を惜しんで本を読むようになるでしょう。そのような本好きこそ根っからの本好きと言えるのではないでしょうか。

頭と体を育て鍛える秋にしたいですね。その基本はしっかりとした親子の心のつながりです。(あいりんだより2009年10月号)

posted by 聖ルカ住人 at 16:00| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする