永遠の命を受けつぐ (B年特定23.マルコ10:17-27) 2024.10.12
今日の聖書日課福音書の冒頭の言葉は新共同訳では「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って」と訳されていますが、聖書協会共同訳の聖書では「イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄り」と訳しています。私には、後者の訳の方が、主イエスがエルサレムに向かって歩み始められた様子がより一層伝わってくるように思われます。
ご自身の十字架に向かう歩みを踏み出された主イエスに走り寄って来た人がいました。その人は、主イエスの前に跪いて尋ねました。
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか(マルコ10:17)。」
今日の聖書日課福音書を理解し導きを受けるために、先ず「永遠の命」という言葉に着目してみたいと思います。
この「永遠」という言葉は、時間的に果てしなく続くと言うよりも、むしろ時間や空間によって影響されたり変化することのない「絶対性」「究極性」を意味していると考えると理解しやすいのではないでしょうか。「永遠の命」という言葉も、不老不死の生命のことや肉体的な死のない生命を意味するのではなく、生物としての命が終わるとしても、この世に生を受けて生かされたことには消えることのない意味や価値があるということを意味していると言えます。
主イエスがエルサレムに向かって歩み始めた時、一人の青年が主イエスの前に跪き、「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」と尋ねました。 今日の聖書日課福音書の物語は、マタイとルカの両福音書にも載っています。この「ある人」は、マタイによる福音書では青年であり、ルカによる福音書では金持ちの議員です。この人は、きっと若くして財を築き、地位も名誉も手に入れている人であり、この世の成功者であったと言えるでしょう。でも、この人には、こうして主イエスの前に跪いて「永遠の命」を求めないわけにはいかない思いがありました。この人はユダヤ教の中心にいる人でありながらも、心の中に、自分の救いについての不安があり、自分の過去と将来に、自分は本当に神の民の一人として救いを約束されているのだろうか、自分はそれに相応しいのだろうか、自分は神との契約のしるしである律法をしっかり守っているけれどこれで十分なのだろうかという、不安や心配が付きまとっていたのでしょう。
この人に限らず、人は誰でも自分の一生が終わる時、築いた財産も得た地位や名誉もみな自分の手から離さなければなりません。イエスの前に跪いたこの人も「こうして生きてきた自分は何者なのだ。全てを手放した私には何が残るのか。自分がこの世に生きていることに本当に意味があるのだろうか。自分は財産も名誉も得たけれど、それらを手放して裸の身になった時の自分の価値を認めてくれる者はいるのだろうか。」と自分に問い返してみれば、イエスの前に跪かないわけにはいかなかったのでしょう。
「永遠の命」についての確信を得たいと思って、どれほど律法を守ることに努めてみても、この人はその確信を得られなかったのではないでしょうか。
パウロも、ローマの信徒への手紙第7章で、回心する前の自分を振り返り、律法について完全であろうとすればする程、罪の意識が強くならざるを得なかったと言っています。
主イエスの前に跪いたこの人も、主イエスに出会う前には、永遠の命を得るためには律法に基づいて善行を更に積み重ねることが必要だと考えていたのでしょう。
主イエスは、この人の質問に答えて、十戒を思い起こさせ、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言われました。
彼はすかさず「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と模範的に答えています。彼は実際そうしてきたことでしょう。でも、彼の心は満たされず、不安なのです。なぜならこの人は、回心前にパウロのように、自分の力で永遠の命を獲得しようとしているのです。所詮、限りある存在が、お金や物を掻き集めるように「永遠」を生きる術を求めても、それは永遠にはなりません。仮に「永遠なるもの」があってこの人がそれを手に入れたとしても、限りある私たちは何時かはそれを手放さなければなりません。私たちは、自分の力によって「永遠なるもの」を獲得するのではなく、私たちが永遠なる神の働きの中に捉えられて、この永遠なる神に受け容れられてこそ、自分の限界を超えて永遠なる神の御手の中に生かされるのです。
今この人の前に居られる「永遠なるお方」である主イエスは、エルサレムに上って行こうとしておられます。それは、十字架の上で全ての人が神に愛されていることをお示しくださり、赦し抜き愛し抜き、ご自身は虚しく滅ぶかのようでありながらも、甦ってこの主イエスにこそ永遠の命があることを示そうとしておられるのです。
主イエスは自分の力で永遠の命を受け継ごうともがいているこの人を見つめ慈しんでおられます。この「慈しむ」という言葉は、神の絶対的な愛を表すアガペー(αγαπη)という言葉の動詞形が用いられています。つまり、主イエスがこの人に「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい(10:21)」と言っておられるのは、そのように出来ないこの人を裁いて切り捨てるために言っておられるのではなく、主イエスがこの人を愛し、慈しんで、この人の望む永遠の命へとお招きになっておられる言葉なのです。
言葉を換えれば、主イエスはこの人に「それを自分の力で得ようとするのではなく、私に委ねて従って来なさい」という意味で言っておられるのです。
「貧しい人々に施しなさい」と言うことは、「自分の力で自分の救いを得ることを目指すのではなく、主イエスを通して神の愛を受け、その愛で人々を愛し、貧しく弱く小さい人々に仕えなさい」と言うことです。
永遠の命を受け継ぐことは、これまでの生き方の上に主イエスの教えを付け加えることではなく、これまでの自分中心の生き方を捨てて主イエスに全てを委ねる事によって初めて可能になるのです。また、この人にとってこれまでのように十戒を中心とした律法を厳格に守ることは、自分の克己、修養にこそなれ、それは「自分を愛するように隣人を愛する」ことにはつながっていかないのです。 私たちも、今日の聖書日課福音書を通して、エルサレムに向かう主イエスに従う覚悟があるのかを問われています。
私たちがこのように集い、礼拝を通して神の前に進み出ることが出来るのは、神ご自身が人の貧しさや弱さを知っておられ、神ご自身の方から私たちに近付いてくださり、救いをお与え下さるからであり、私たちが永遠の命を受けつぐことも、神の慈しみを受け容れることではじめて出来る事なのです。
自分を中心に生きるこの人は、更に「救いの保証」を積み上げようとする態度を変えることができず、結局自分の財産を失うことを嫌がり、悲しい顔をして主イエスの許から立ち去っていったのでした。
主イエスはご自身が貧しいお姿をとって私たちのところに来て下さり、命を投げ出して下さいました。ご自身を与え尽くしてくださった主イエスに対して、私たちはどのようにお応えするのでしょうか。自分のためになお主イエスを用いようとするのでしょうか。それとも、貧しく小さな人々の中におられる主イエスに従い仕えるのでしょうか。小さく貧しい存在に過ぎない私たちも、既に主イエスを通して主なる神に受け入れられ、時も所も超えて掛け替えのない大切な存在とされています。このことこそ、「永遠の命を受けつぐ」と言うことに他なりません。
私たちは、主イエスを通して示された「永遠の命」を受け容れるのでしょうか、それともこの青年のように拒むのでしょうか。
今日の福音書の個所では、主イエスは十字架に向かってエルサレムへ向かう旅が始まっています。私たちが自分の負うべき十字架を既に主イエスが負ってくださっています。私たちは「永遠の命」を継ぐ者にとして招かれています。私たちは主イエスに従い、主イエスに仕え、神の国の働きの中に私たちが用いられ意味づけられ、いつも主イエス・キリストとの導きと養いを受け、永遠の命へと招かれていくことができますように。