2024年05月20日

神の息吹に生かされる  ヨハネによる福音書第第20章19~23  聖霊降臨日

神の息吹に生かされる  ヨハネによる福音書第第20章19~23  聖霊降臨日  2024.05.20


 主イエスのご復活から50日経ったこの日、ユダヤはペンテコステの祭の日でした。

 イスラエルの民にとって、この日は過越祭から7週を経た日であり、春の収穫感謝祭の日であり、同時にモーセを通して律法を与えられたことを記念する日でもありました。イスラエルの民にとってこのような意味を持つ大切な日は、キリスト者にとっては神の愛の力がイエスを救い主であると信じる人々に神の大きな力が与えられ、それを世界に宣べ伝え始めた日、つまり教会誕生記念の日とするようになります。

 この日も弟子たちは一つになり集まって祈りを捧げていました。弟子たちはこの日に神の大きな力を受け、出ていってあちこちの国の言葉で主イエス・キリストのことを人々に語り伝え始めたのでした。エルサレムにペンテコステの祭りのために集まっていた多くに人たちは、イエスの弟子たちのこのような姿を見て驚き、あっけにとられて言いました。

 「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(使徒2:11)。」

 聖霊に満たされた弟子たちは、その力に突き動かされて、神のみ心のままにイスラエル周辺の他国の言葉で用いて主イエス・キリストのことを宣べ伝え始めました。聖書は人の思いや考えを遙かに超えて働くこの力を「聖霊」と呼んでいます。

 新約聖書の原語であるギリシャ語では、「霊」はプネウマpνeυµa(pneuma)という言葉で、私たちの体を動かす霊とか精神と言う意味があり、また息とか風という意味も含んでいます。また、旧約聖書の原語であるヘブライ語ではルーアハ(ruah)で、やはり霊という意味と共に風、息という意味があります。

 旧約、新約を通して、神が人にその息を与えた話はいくつか出てきますが、この「ルーアハ(ruah)」や「プネウマpνeυµa(pneuma)」に関する3つの物語を思い起こしてみましょう。

 先ず、創世記の、主なる神が最初の人をお創りになった時のことを思い起こしましょう。

 主なる神は、土の塵でアダムを形作り、その鼻に「命の息」を吹き入れました。人はこうして生きる者となりました。私たち人間は土くれから創られやがてはまた土の塵に戻るものであるにも関わらず、主なる神によって命の息を吹き入れられて生きる者とされています。

 2つ目に、今日の聖書日課福音書にある、主イエスが甦りの姿を弟子たちに顕された時のことを思い起こしてみましょう。甦った主イエスは、弟子たちの中に立ち復活のお姿をお示しになって、弟子たちに「あなた方に平和があるように」と言われ、更に弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい(20:22)」と言われました。この時まで、弟子たちは戸には鍵を掛けて部屋の中に閉じこもっていました。アダムの罪(すなわち人間の罪)が自分の中にもあることを思い知って打ち沈む弟子たちに、主イエスは息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言ってくださいました。

 このように、人の罪を赦し、新たに生かしてくださるために、甦りの主イエスは弟子たちに新たな息を吹き込んでおられます。この出来事は、甦りの主による「人間の再創造」と言えるでしょう。

 そして第3に、甦りの日から50日経ったこの日の風を思い起こしてみましょう。主イエスが天にお帰りになった後、弟子たちが心を一つにして祈っていた時、神は弟子たちに息を送って聖なる力ある霊を弟子たちに与えてくださったのです。目に見える主イエスがもはやおられなくなったこの世界で、弟子たちは聖なる霊の力を与えられて、大いなる神のみ業を宣べ伝え始めるのです。イエスこそ私たちの救い主であり、また救い主である事を世界中に宣言し、この救い主イエスを恐れなく伝えていく力が弟子たちに与えられています。また、弟子たちは、主イエス・キリストを中心にした共同体(教会)をつくり拡げていく歩みをこの時から推し進めていくのです。

 神の息吹について聖書から3箇所を採り上げて思い起こしてみましたが、それは父と、子と、聖霊に関わる箇所でした。

 これら「神の息」は決して昔の弟子たちだけに与えられているのではなく、今も私たちに絶え間なく注がれる息吹であり、私たちはこのように人間の誕生の時から今に至るまで、神の息吹を与えられ続けています。神の霊は、天地創造の時から今に至るまで、この世にあるもの全てと、この世に生きる私たちに力を与え、その存在を良しとし、神の御心を行うように促し続けておられるのです。

 神の霊は、私たちに命を与えてくださいました。神の愛は主イエスを通して、私たちに完全な赦しと愛を与えて、私たちが常に新しく生きていく力としてくださっています。更に神の霊は、私たちが本当にこの世界に生きた証を立てることが出来るように、神の御心を行う力を与えて下さっています。

 このように神の霊について振り返ってみると、私たちは私たちを通して働こうとしている神の霊に応えていく力を与えられていることに気付かられるのではないでしょうか。

 パウロは「神の聖霊を悲しませてはなりません(エフェソ4:30)。」と言っています。聖霊は私たちを通してそれぞれの人を通して神の御心を行うことを願い求めているのです。使徒言行録第2章に記された風と炎のような舌の記述は弟子たちを通して働こうとしている神の熱い思いを表現していると言って良いでしょう。その熱い思いが私たちにも臨んでいるのです。もし、神の御心が自分を通して顕されることを喜びとせず、その働きに与ることを逃避するのであれば、聖霊はどんなにか嘆き悲しむことでしょう。

 私が神学生だった時、当時校長であった竹田眞師父は、ご自身の牧会の経験を交えて、次のような話をしておられたことを今でも印象深く思い起こします。

 「聖霊の働きを邪魔しなければ、教会はもっと発展成長するのではないだろうか。例えば、神があなたにある働きを担って欲しいと思って聖霊を送ろうとしているのに、私たちの方で勝手に『出来ません』などと言ったりして、聖霊を悲しませているのではないだろうか。」

 主イエスが5000人にパンと魚をお与えになった奇跡は、少年の差し出した5つのパンと2匹の魚によって始まりました。その始めに、弟子のアンデレは「けれども、こんなに大勢の人ではそれが何になりましょう(ヨハネ6:9)」と言って、そのことを否定的に捕らえています。主イエスがそのパンと魚を受けて感謝の祈りと献げることがなければ、この奇跡はなかったかもしれません。神は小さな出来事からも、その先に神の大きな世界を用意してくださっているかもしれません。私たちは、そこに働こうとしている聖霊の力を拒んではならないのです。

 また、主イエスの弟子たちを見ても分かるとおり、彼らは学識のある人が多かったわけはありません。むしろ弟子の多くは無学な庶民であったと言って良いでしょう。神はその様な人々を聖霊を宿す宮として用いられたのです。それは、人の能力によって聖霊が働く余地を埋めてしまうことがないように、人が自分の働きを誇って親しい聖霊の交わりを無くしてしまうことがないようにするためでした。

 私たちも弱く小さな器に過ぎません。でも、私たちは弱いからこそ、その弱さに主の霊が注がれ、主の霊は私たちを通して働いてくださいます。弱さの中に聖霊を満たしていただく時に、私たちはその霊によって強くされるのです。そうであれば、私たちは、主イエスが天にお帰りになった後の弟子たちにように、先ず祈りを通して聖霊を呼び求める者でありたいのです。私たちの弱さの中に聖霊を満たしていただき、一人ひとりが聖霊を宿す宮として強められ、神の御心を行い、神の御名が誉め称えられるように生かされたいと思います。

 聖霊降臨日にあたり、私たちは聖霊の力に生かされる信仰生活をその交わりの中に導かれていきましょう。 

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2024年05月14日

ひとつの体を建て上げる (愛恩便り2019年2月)

ひとつの体を建て上げる

「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。」( コリントの信徒への手紙一第12章27節 ) 


 それぞれの個性が集まって心を一つにして何かをつくりあげる素晴らしさは、しばしばオーケストラに例えらます。いくつもの音色の違う楽器がそれぞれに異なる旋律を奏でながら、その全体がつくりあげる一つの音楽は、人を感動させるものになります。

 同じことを合唱に例えることもできます。人の声はそれぞれに音質が違い、そこに集う人々が同じ高さの音(例えばラの音)で発声すると、その響きはその時その場にしかない、他の誰にも取り替えられないものになるのです。そのようにしてうたわれる歌は、例え同旋律を歌う場合でも、その時だけの音楽になるのです。

 このことに例えられる出来事が、子どもたちのいるところで日々起こっています。

人はみな、他の誰とも取り替えることのできない尊い存在です。そのことは、子どもたちが他者と共にいる時に、1+1が2である以上に、量においても質においても、広がりと深まりのある表現ができるようになっていくことに表れてきます。

 昨年のドッジボール大会で、私にとってとても印象深く今でも私の目に焼き付いているプレーがあります。

 劣勢であったチームの子が、相手の投げたボールをキャッチすると、相手チームの子を狙うのではなく、相手チームの頭上を越える高さで外にいる仲間にボールを投げたのです。仲間が外から相手を当てれば当てたその仲間はまた中に入ることができて、中の仲間を増やせるからです。チームの状況の中での自分の立場を理解して、自分がどのように動くことが相応しいのかを判断して、あのようなプレーをする姿に私の心が躍りました。

 子どもたちの毎日の出来事の中に、目立たないけれど、オーケストラのような、合唱のような、あのドッジボールのプレーのような出来事はたくさん起こっているのです。子どもたちは、仲間と共に過ごすことで自分一人では経験できない世界が開けます。そこには、自分の役目をしっかりと担うところに生まれる一体感もあります。これは生きる喜びです。

 こうした場は、子どもたちが恐れなく自分を表現できる環境があってこそ開かれてきます。一人ひとりが大切にされねばならない意味をしっかりと心に留め、子どもたちの育みのために励んで参りましょう。

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2024年05月13日

人間として生きる喜び(愛恩便り 2019年1月)

人間として生きる喜び

 「人が独りでいるのは良くない。」( 創世記第2章18節 ) 


 新年、おめでとうございます。

 私は、昨年8月に二人目の孫が生まれ、4ヶ月半になったその孫も含めて、子どもたち家族と年末年始を過ごしました。孫は、まだまだ泣いて乳を飲んで眠るだけの生活ですが、私たちが話しかけると視線を合わせて笑顔を見せ、お腹が減ると泣き、眠くなると泣き、本当に可愛いものだと思います。

 そして、人の感覚とは何と素晴らしいのだろうと改めて思いました。

 例えば、録音した会議録などを再生すると、その席にはたくさんの雑音があったことに改めて気付きます。会議の最中は、自分の課題に集中するため、実際にはたくさんある雑音は認識しないようにその感覚を働いているからです。しかし、それは人が赤ちゃんの時から自然にできるのではなく、周りの人にたくさん話しかけられ、まだ言葉にもならない喃語や泣き声を聞いてもらい、確かな視線と言葉での反応を受けることを数え切れないほどに繰り返している間に、赤ちゃんは周囲の人々から必要な情報を取捨選択することができるようになるからなのです。

 そうであれば、赤ちゃんが画面をみているとおとなしくなるからといってテレビ、パソコン、スマホなどに頼ってはならず、周りから優しく柔らかな声をかけてあげたり、赤ちゃんの視線をしっかり拾って適切な言葉にして話しかけたり、喃語に柔らかな声で応じてあげたりすることがどれほど大切なことであるか分かるのではないでしょうか。

 赤ちゃんに限らず、人は視線を合わせてしっかり心を通わせることによって育ちます。認知症の老人にしっかり視線を合わせて語りかけつつスキンシップを図ることで、症状が回復する事例も報告されています。

 「人」という文字の成り立ちは二人が支え合っていることに由来すること、また人を「人間」と言って社会的関係に生きる存在として表現することなどからも分かるとおり、私たちは人々の関係の中で育まれるのです。

 愛恩幼稚園では、一人ひとりを大切にすること、一人ひとりに丁寧に関わることを大切にしておりますが、それは単なるお題目ではありません。一人ひとりを大切にする具体例がどのような事であるのかの一端をこうしたことから理解していただけると思います。

 愛恩幼稚園は創立101年目を歩んでいますが、教職員一同で幼稚園の使命を再確認して、一人ひとりを大切にする本園の働きを充実させていきたいと思います。本年も、どうぞよそしくお願いいたします。


posted by 聖ルカ住人 at 16:42| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大祭司主イエスの祈り  復活節第7主日(昇天後主日) ヨハネによる福音書第17章11-19

大祭司主イエスの祈り 復活節第7主日(昇天後主日) ヨハネによる福音書第171119  2024.05.12

 復活節第7主日は昇天後主日です。主イエスは十字架の上に殺されて三日目に甦り、40日に渡って弟子たちにお姿を現しましたが、甦りの日から40日目に弟子たちの前で天に昇って行かれました。

 教会暦に基づいて言えば、私たちは今、主イエスが天に昇って行かれた後、まだ天から聖霊を与えられていない10日間の中を過ごしています。この主日は昔から「待ち望み」の主日とも呼ばれおり、私たちはこの主日を、弟子たちと共に主イエスの再臨を待ち望みつつひたすら祈ることへと導かれる主日にしたいと思います。

 先ず主イエスの昇天について想像してみたいと思います。

 主イエスは、弟子たちを連れてエルサレム郊外の小高い山に来ました。

 両手を挙げて弟子たちを祝福し、そのまま天に昇って行かれました。主イエスが少しずつ昇に連れて、祝福する範囲も次第に広がっていきます。始めは11人と一緒に主イエスに従って来た女性たち、やがて主イエスの祝福はエルサレムから広がって死海からサマリアへ、更にガリラヤへ、地中海沿岸へ。やがて主イエスが天の父なる神の右の座にお着きになる頃には、主イエスの祝福は全世界を包みました。私たちは今もこの祝福の中に生かされています。

 初代教会より、教会は、復活された主イエスが天に昇っていかれ、また私たちのところに来てくださって、私たちを救いに導く働きを完成してくださると信じ、その信仰を継承してきました。私たちもその事をニケヤ信経の中で、主は「栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません」と信仰告白しています。

 初代教会の人たちばかりでなく、私たちも再び主イエスとお会いすることを待ち望みながら、主イエスの祝福の中で生きています。

 ことに教会暦で、主イエス昇天後の時を過ごす私たちは、天に昇って行かれた主イエスが、この世に生きる私たちのことをどのように思っていてくださり、天の主なる神にその思いをどのように取り次いでいて下さっているのかということについて思い巡らせてみたいと思うのです。

 そのような視点を持ちながら、今日の福音書に注目してみましょう。

 今日の福音書の部分を含めて、ヨハネによる福音書第17章全体は、主イエスが弟子たちと別れる前の晩(十字架にお架かりになる前の晩)に、熱い思いで天の父なる神に向かって祈っておられる箇所であり、「大祭司イエスの祈り」の箇所と呼ばれています。主イエスの地上での生涯が十字架の上で終わった後、弟子たちは目に見える主イエスのいない世界に生きていかなければなりません。その弟子たちのために、主イエスはご自身に迫る十字架の死を前に、血の汗を流すほどの思いで祈っておられます。

 祈りの内容に注目してみましょう。特に今日の聖書日課福音書の中で「○○して下さい」と祈願の文形になっている箇所を拾い上げてみましょう。

 主イエスは第1711節で「聖なる父よ、私に与えてくださったみ名によって彼らを守ってください。」と言って祈り、また17節で「真理の拠って、彼らを聖なる者としてください。」と祈っておられます。

 11節の言葉から、「み名によって守る」と言うことを考えてみましょう。

 私は小学校のある教室で授業をしています。授業の最中に私は、日直の生徒に「職員室に行ってチョークを2本もらってきてください」とお願いしました。生徒は「はい」と言って立ち上がり、教室を出て廊下を歩いて職員室に入ります。そして、その生徒は職員室で「小野寺先生からチョークを2本取ってくるように頼まれてきました。チョークを下さい」と言って、職員室で教頭先生からチョークを受け取り、教室に戻ります。

 この生徒が、授業時間中にもかかわらず教室を出て職員室に行くことや職員室でチョークを求めることは、「小野寺」の名によって行っていることであり、そうであるからこそ生徒は授業時間中に教室の外に出ることも職員室の教頭先生にも認められるのです。

 そして、もしこの生徒が疑われたり叱られそうになったら、この生徒は小野寺の名によって職員室に行くことを説明するでしょう。この生徒は小野寺の名によって守られねばならないし、小野寺にはこの生徒を職員室に行ってチョークを取ってくるように求めた責任があり、この生徒が小野寺に託されたことを忠実に行っているのであれば、小野寺先生は小野寺の名によってこの生徒を守る責任があるのです。

 このような教師と生徒との関係を例にしてみると、主イエスが弟子たちとの別れを前に「救い主イエスの名によって生きる者たちを守ってください」と祈っている思いとその祈りの意味が少し見えてくるのではないでしょうか。

 私たちは、天で祈っていてくださる主イエスの名によってこの世に遣わされて生きています。私たちは、この世の人々に誤解されることもあり辛く厳しくされることもあるかもしれません。でも、天上の主イエスは、私たちが主イエスの祈りに導かれ、力づけられて、本当のこと正しいことに向かって生きることが出来るように祈り続けていてくださるのです。

 主イエスは天に昇って、今も「聖なる父よ、私に与えてくださったみ名によって彼らを守ってください」と私たちのために祈っていてくださいます。

 神ではない色々な名が私たちを支配しようと攻撃してくる世にあって、私たちは「イエス・キリスト」という名によって守られるように、主イエスは私たちのために祈っていてくださっています。神と共に永遠の初めからあった真理が、イエスという具体的な人間の姿をとって人々の目に見える存在となってこの世に宿ってくださいました。私たちも主イエスの御名によって祈り、主なる神と心を通わせます。そのように祈る時、私たちはその名によって守られ、私たちは本当のことへ、正しいことへと生きていく力が与えられます。

 主イエスは、弟子たちとの別れを前にして、「イエス・キリスト」の名によって弟子たちを守ってくださいと祈られました。そして、私たちもこの御名によって祈るときに守られて一つになるようにと、主イエスは今も天にあって祈っていてくださいます。

 私たちがイエス・キリストの名によって一つになるということは、単に私たちの思考や行動の様式や発言の内容が画一的なることではありません。そうではなく、神の言葉を土台にして、いつも神の御心が何であり、真理を求めて生きていくということです。そして、その時、私たちはそれぞれにキリストに結び合わされ、神の大きな働きの中に一人ひとりが生きることへと導かれるのです。

 また、主イエスは、かつてご自身について「私は道であり、真理であり、命である」と言いました。その主イエスが、弟子たちのために「真理によって、彼らを聖なる者としてください(17:17)。」と祈って下さいました。

 主イエスのお姿を観ることができなくなった後も、主イエスに従う者は、時代を超えて天で祈っていて下さる主イエスに支えられ力を受けて、本当のこと、正しいことに向かって歩み続けることが出来るのです。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが弟子たちとの別れの前夜に苦悩の中で祈る場面の箇所です。弟子たちが主イエスを失う経験をすると、弟子たちを怯えさせたり神から弟子たちを引き離そうとする沢山の霊が弟子たちに迫り、また真理を貫くことより妥協させてたり真理から目を遠ざけさせようとする霊、自分ひとりに良い思いをさせようとする霊が働きかけてくることでしょう。

 主イエスは、十字架に架かる前の晩に、大祭司として献げたあの祈りの言葉によって今も天で祈っていて下さいます。

 私たちがイエス・キリストの名によって守られ、私たちも主イエスに導かれて、本当のことのために、正しいことを証しすることが出来るように、主イエスは天から私たちのためにいつも祈っていてくださいます。そして、そのしるしとして、神は私たちに助け主である聖霊をお与えくださると約束して下さいました。

 十字架の死を間近にした主イエスが弟子たちのために祈った祈りが、時を超えて、この世界を生きる私たちのためにも主なる神の右の座から祈られています。

 私たちは、今この時にも主イエスの祈りに支えられて、神とこの世界の間に立ち、主イエスに遣わされ、この世界の祈りを神に届け、神の御心をこの世界に知らせ、御心を実践していくのです。

 教会暦の一年の中で、ことにこの主日を、聖霊の力を待ち望みつつひたすら祈る時としていきましょう。その祈りを通して、主の御心を実践していく力を与えられたいと思います。大祭司主イエスが私たちのためにいつも祈っていてくださることを覚え、その祈りを感謝して生かされて参りましょう。

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2024年05月09日

「家族語」のこと 

 「家族語」という言葉は社会的に認められているわけではありませんが、私はこの「家族語」がとても大切なことを示唆しているのではないかと思っています。

 「家族語」とは、その家族の中で特有な意味を持つ言葉のことで、単語の場合もセンテンスの場合もあります。

 例えば、我が家では「ああ、重い、重い」という言葉がその一つです。

 我が子が1歳半の頃のことだったでしょうか。言葉が出始めて少しお話しが出来るようになってきた我が子をおぶって玄関を出ようとした時、私の背中の我が子が「ああ、重い、重い」と言いました。私は、その言葉をそれまで何気なく使っていたこに気付きました。

 振り返ってみれば、私は「大きくなって来たね。体重も増えたね。元気に育ってくれて、お父さんの私も嬉しいよ」という思いで、この言葉を使っていたのでしょう。我が子が、思いがけず私の背中のその言葉を発しました。それは、嬉しく、楽しい言葉であり、やがてこの言葉は我が家の「家族語」の一つになりました。

 その後、子どもたちが私におんぶしてくる時、どちらからともなくこの言葉が出るようになり、スキンシップをする親子の楽しく大切な言葉になりました。

 それだけでなく、家族の誰かが少し重い荷物を持つ時にもこの言葉が共有されるようになりました。子どもたちが少年野球の練習から帰る時など、自分のグローブやバットやシューズなどの用具だけではなくチームの用具も抱えて「ああ、重い、重い」。この言葉が出ると、私には我が子が初めてこの言葉を発した場面の嬉しく楽しい思いが甦り、子どもたちもこの言葉を口にすることで重い荷物を持つしんどさを和らげられ、かえってその楽しささえ味わっていたのではないかと思えるほどでした。

 それぞれの家庭に、それぞれの「家族語」があることでしょう。家族の誰かが口にした一言や口癖が家族語になっていった例もあるでしょう。それは単語の場合もあれば短い文章の場合もあるでしょう。

 さて、私たちにはこうした「家族の言葉」と共に「信仰家族の言葉」を共有しています。

 かつて私の恩師は、イエスの言葉は旅先で買った風鈴のような一面があると話してくださいました。夫婦旅行から戻って、軒下に吊した風鈴が風に揺られてチリンとなると、楽しかった旅の記憶が甦り互いに「いいね」と言います。その「いいね」は風鈴の音が良いということではなく、その音と共に広がる過去と今とこれからの世界があるから「いいね」と言うのであり、イエスのみ言葉はまさにこの風鈴のように私たちに働いてくださるのだと恩師は説明してくださいました。

 この風鈴の音の例は、私の中で「家族語」のイメージと重なります。そして、もう一つ勝手な造語を用いて言えば、私たちはクリスチャンとして「信仰家族語」を共有しているのです。「信仰家族語」こそイエスのみ言葉であり、またイエスのみ言葉こそ私たちの「信仰家族語」なのです。

 私たちが豊かな「信仰家族語」-イエスの言葉-を共有できることは、嬉しいことであり大切なことです。

 かつて日本に不法滞在する外国籍人の子どもたちの教育支援をする人の報告を聞いたことがあります。義務教育の対象にならない子どもたちが、いわゆる貧民街で過ごしています。彼らが受ける言葉は「○○野郎」「○生」「○ね」「○してやる!」など汚い言葉ばかりであり、子どもたちが覚えて口にするのは当然その種の言葉ばかり。そのような子どもたちと共に生きて、教育する必要を痛感したことがその活動の始まりだったとのこと。

 パウロは「キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい(コロサイ3:16)」と言っていますが、私たちが豊かな言葉を他者と共有することは、私たちが生きていく上でとても大切なことであり、必要なことなのです。主日礼拝出席を励み、聖書のみ言葉を「信仰家族語」として受け、養われていきましょう。

 子どもが言葉を発することが出来るようになるまでに、両親を始め周囲の人々はその子どもにどれ程多くの豊かな言葉をかけているのでしょう。種としての良い言葉が豊かに蒔かれることがなければ、子どもたちの中に「信仰家族語」は発根することも発芽することも、また、枝を伸ばすこともないでしょう。

 私たちがみ言葉を共有して生きる基本は、まず私たちが聖書の言葉に養われ導かれることにあります。教会は「み言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても。それを続けなさい(Ⅱテモテ4:2)」という言葉に従って、み言葉を受け、養われ、伝える共同体なのです。

posted by 聖ルカ住人 at 11:34| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする