2025年10月27日

神の前にへりくだる人 ルカによる福音書18:9-14   聖霊降臨後第20主日(特定25)

神の前にへりくだる人    ルカによる福音書18:9-14     聖霊降臨後第20主日(特定25)  2025.10.26


 今日の聖書日課福音書で、主イエスは例え話によって、自分を正しい者の側において自惚れるファリサイ派の人と、罪を自覚してへりくだる徴税人の姿を対照的に描き出しています。そして、主イエスは、神の御前に「義」とされるのは、卑しい職業とされて罪人呼ばわりされている徴税人の方である事を教えておられます。

 私はこの箇所を読むと、いつも昔のある出来事を思い出します。

 その出来事とは、私が神学生だった時のことです。ある神学生は、とても世話好きで、他の仲間によく関わっていました。その当時、学期末には先生方と神学生の個人面談がありましたが、その神学生が面談から戻って、次のようなことを話してくれました。

 面談の中で、彼はある先生からこう尋ねられたと言うのです。「君は世話好きで、仲間の面倒もよく見ているようだけど、自分にはそういう資質があって、君は他人を助ける力があると思っているのだろうか。」

 尋ねられた神学生は、意気揚々と「はい、そうです」と答えると、その先生はこう言って切り返してきたのだそうです。

 「それじゃ、君には神は要らないのだろう。君はなぜ牧師になろうとしているのかな。」そこで、この神学生はまたガックリと落ち込むことになるわけです。周りで彼の話を聞いていた私たち数名は、笑いながら愉快な話として聞いていたのですが、改めて考えてみると、神の御前に本当にへりくだって生きることの大切さと難しさを感じないわけにはいかなかい思いになりました。私は、福音書のこの箇所を読むと、この出来事を昨日のことのように思い出します。

 今日の聖書日課福音書の箇所で、主イエスのなさった例えは簡潔で分かり易いと思います。

 二人の人が祈るために神殿に上って行きました。一人の人はファリサイ派で罪人でない自分を感謝し、律法をしっかり守って、しかも律法の要求以上に断食をし、十分な捧げ物をして生きている自分を誇りにして、それらのことを感謝する祈りを捧げました。このファリサイ派の人は、自分の行いに自信を持って祈っていたのです。もう一人は徴税人でした。徴税人は、ファリサイ派から見れば罪人でした。徴税人は入札によってその仕事の権利を買い取り、税金取りの仕事を請け負い、定められた額以上の税を取ることを許されました。そして、その上前を自分のものにすることができました。取り立てられる側からすれば、徴税人は盗人のようにも見えたことでしょう。ファリサイ派にとってこのような徴税人は、政治的権力者の犬であり、神の国の実現を阻む民族の裏切り者であると考えられていたのです。神殿にやってきた徴税人は、遠く離れて立ち、目を上げようともせずに胸を打ちながら、主なる神に憐れみをこい願うのです。「目を上げずに胸を打ち叩くこと」は、深い悔い改めを表現する仕草でした。

 主イエスは、この例え話の中でファリサイ派と徴税人の祈る姿を対比してお話しになり、「義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派ではない(18:11)」と言われました。

 この箇所の始めの言葉を見てみると、主イエスはこの例え話を「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」なさっていることが分かります。この「うぬぼれて」という言葉は、「自分に依拠する、自分に依り頼む」という意味であり、この箇所では「自分は正しい者であり、その自分に拠り頼む」という意味で用いらています。見た目には、敬虔に神に祈っているようでありながら、実は彼らは自分を神に委ねて祈っているのはなく、自分のために律法を用いているのです。このファリサイ派の人は、祈る自分を誇り、また掟に従って断食をし捧げ物をする自分を誇り、人々の前にそのその自分を披露するために、神殿の中でも自分の祈る姿を見せびらかすように示しているのです。その姿は、罪など無いようでありながら、主イエスの目には少しも神とつながっていないし、神を必要ともしていない罪の姿が現れ出ているのです。

 主イエスは、マタイによる福音書5章から始まるいわゆる「山上の説教」を、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉で始めておられます。この「心の貧しさ」とは、「自惚れて」という言葉と反対に、自分中心の思いを捨てて、全てを神に明け渡して委ねることであり、そのような人こそ幸いであるということです。

 今日の聖書日課福音書の徴税人は、律法の専門家たちに「罪人」と決めつけられ、人として生きることを否定されています。その自分を神の前に開き、自分を神の御前に投げ出し、ひたすら「罪人の自分を憐れんでください」と祈るほかありません。でも、このような人こそ神の前に「義」とされる人なのだと、主イエスは教えておられます。このような自分の弱さと貧しさを知って神に依り頼む人こそ幸いなのです。この徴税人には、神が必要であり、神は神を求めるこの徴税人を「義」とするのです。もし自分の中心に他者を見下して自分を誇るような頑なさがあって、そのような自分を誇るのだとしたら、その人は本当に神を必要としているのでしょうか。主イエスは、ファリサイ派が人の前では敬虔を装いながらも実は自分中心の傲慢と自惚れがあることを見抜いておられました。しかも、その傲慢と自惚れは、他人を罪人と決めつけて社会から排除するようになるのです。そしてファリサイ派の人々は、徴税人たちを社会から遠ざけて彼らを罪人に仕立て上げながら、少しもその痛みを知ろうとしない冷酷さがあることも主イエスは見抜いておられました。

 使徒パウロも、主イエスと出会う前は、このようなファリサイ派の一員でした。パウロも他のファリサイ派の人々のように、律法を厳格に守ることによって、主なる神に受け入れられると信じていました。でも、パウロはその事に徹しようとすればするほど、自分の中に深まる罪の思いを消し去ることが出来なかったのです。そして、パウロ(当時のサウロ)はイエス・キリストを信じる人々を捕縛しようと息巻いてダマスコに向かう途上、キリストと出会い、自分の全てを主に委ねる者へと変えられていくのです。

 パウロには、パウロ自身を悩ませる持病か何かがあったと考えられ、パウロはそのことを「私の体に一つの棘が与えられました(Ⅱコリ12)」と表現しています。パウロはその「肉体のとげ」が無ければどんなに素晴らしいだろうと考え、それが取り去られるように幾度も祈りました。でも、それに対してパウロが神から与えられた答えは「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ(12:9)」ということでした。自分の力を頼みとして傲慢になるのではなく、神の力を利用して生きるのでもなく、パウロは悔い改めの中から、自分は神から既に恵みを受けていることを悟り始めるのです。

 そして、パウロは次のように考えるに至ります。「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう(12:9)」。

 そのパウロは、「私は弱いときにこそ強いからです(12:10)」とまで言っています。ここには、かつてパウロがファリサイ派であった時のような見栄もプライドも傲慢さもありません。全てを主に委ね、弱さの自覚に立ち、主によって生かされている強さがパウロの中に見られます。

 主イエスのなさった例え話の中の徴税人に限らず、人は主イエスを通して、その人の罪や弱ささえ、神の恵みに与る通路に変えていただけるのです。

 今日の福音書を通して、主イエスは私たちにも、自分を頼みとして自分を誇るのではなく、すべてを主に明け渡してありのままの自分に立ち返り、そこに働く主の力によって生きるように促し勧めておられます。自分の全てを主の前に告白して委ねる徴税人は、ただそれだけで神に「義」とされています。

 自分の義を中心に立てて生きるのはなく、私たちの罪に働いて罪を大きな恵みに変えてくださる主イエスの恵みの中で生かされて参りましょう。

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2025年10月20日

神と格闘するヤコブ 創世記32:23-30       聖霊降臨後第19主日(特定24) 

神と格闘するヤコブ    創世記322330       聖霊降臨後第19主日(特定24)   2025.10.19


 今日は、この主日の聖書日課旧約聖書から、主なる神の導きを受けたいと思います。

 創世記第3227節の御言葉を思い起こしましょう。

 ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくれるまで離しません。」

 主なる神がヤコブに姿を現された場面に注目し、主なる神が私たちの人生に介入して来られる事を学びたいと思います。そして、その時、私たちもしっかりと神と向き合って、このヤコブのように、主なる神と格闘し、「祝福してくれるまで離しません」と言う者となれるように導きを受けたいと思います。

 今日の旧約聖書日課は、創世記第324節からです。

 イスラエルの民が、導き手である自分たち民族の神を言い表すときに、その表現の一つとして「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言い表しました。ヤコブは「イスラエル」という名を授けられ、それが民族の名称になります。そのいみでもヤコブはイスラエルの民にとって大切な人物の一人であり、創世記の中でも多くの部分をさいて取り上げられています。

 はじめに、今日の場面にいたるヤコブの半生を眺めてみましょう。

 ヤコブには双子の兄エサウがいました。この兄弟が誕生した時、弟ヤコブは兄エサウの踵を掴んで生まれてきました。それは、これからの二人の関係を暗示する出来事でした。

 エサウとヤコブが成人した頃、父イサクは年老いて目もかすみ、エサウに長男としての権利(家督)を譲って祝福を与えようと考えました。その時、ヤコブはわずかなスキを狙って目の見えない父イサクをだまして、長男としての祝福を横取りするかのようにして受けてしまいます。ヤコブは当然兄エサウの怒りを買いました。エサウは怒りに燃えて「父の喪の日の後に(つまり父イサクが死んだら)弟を殺すのだ」とまで言いました。そこでヤコブは母リベカの勧めもあり、エサウを逃れて長い間ハランの地にいる伯父ラバンの所に身を寄せることにしました。ヤコブはラバンの許で20年の時を過ごしますが、持ち前の賢さで財を築き妻を得て家族をつくりました。そして寄留の地での20年を経て、ヤコブは今、自分の家族と沢山の家畜を引き連れて故郷に帰ろうとしています。そして、ヤコブの一行はヨルダン川のヤボクの渡しまで戻ってきて、いよいよ明日は対岸の兄エサウの土地に足を踏み入れることになります。

 兄のエサウは長子としての権利を横取りされた時、「弟を殺すのだ」とまで言いいました。ヤコブには、20年経った今も負い目があります。それはまた、いつもずる賢いほどに生きてきた自分自身に対する癒しがたい痛みでもあり、自分の中にある深い傷でもありました。故郷を離れている間にも、ヤコブは持ち前の賢さで、伯父ラバンに負けない財産を築き、妻をめとり、沢山の子供にも恵まれました。このヤコブが故郷に戻る上での、大きな気がかりは兄エサウのことでした。明日にはエサウに会わなければなりません。

 ヤコブは、その日にも持ち前の賢さから、もしエサウがまだ怒っていたらどうしたらよいか、どうすることでエサウの怒りをやわらげることが出来るかを考えました。そして、先の先まで読んである段取りをしたのでした。

 その晩、ヤコブは妻も子どもたちも自分の財産である羊や牛やロバなどの家畜も全て川の向こう岸へ渡らせてしまいます。ただ、自分は独り川を渡らず、ヤボクの渡しのこちら側で一夜を過ごすことにしました。

 やがて、夜が更けていくと、ヤコブの前に何者かが現れ、夜明けまでヤコブに戦いを挑み、ヤコブはその相手が誰か分からないまま一晩中組み打ちを続けたのです。実はこの何者か分からない者は神であり、ヤコブは一晩中神と格闘していたのです。

 このような物語から、主なる神がヤコブの人生に介入してこられた事について考えてみましょう。

 これまで、ヤコブは賢くぬかりなく生きてきました。ヤコブは、誕生の時からそうであったように、兄エサウの足を掴んで生まれ、兄を出し抜き、いつも賢く、ぬかりなく生きてきました。伯父ラバンの所に寄留する間にも、ヤコブは財産を築き、美しい妻と多くの子供を得て、身の危険や難題も上手く切り抜けてきました。その人生は多くの人が「そうありたい」と思うような、苦境を乗り越えてきた人生でもありました。

 しかし、神は夜の闇の中でヤコブに問いかけるのです。

 「そのようにして生きているお前は何者なのか。家族も財産も向こう岸へ渡し、自分一人、身を守るようにこちら側にいるお前は何者なのか。」

 今、暗闇の中でヤコブは神に問われています。「神と格闘する」とはそういうことです。

 主なる神のこの問いを前にして、たとえば財を豊かに築いたというような世俗の業績は、それだけでは主なる神に対する確かな答えとしては役に立つのでしょうか。ヤコブはこれまで抜け目なく賢く振る舞ってきましたが、家族も財産も向こう岸へ渡してただ一人の自分になった時、自分の心の中にある未解決で深い亀裂を残したまま、そこにしっかりと目を向けることを避けてきた自分の弱さに対して、神はのしかかるようにヤコブに迫ってきています。ヤコブは神と格闘します。神と格闘すると言うことは、神の厳しい問いかけに答えねばならない自分と格闘することであり、自分の存在が揺さぶられると言うことです。夜の闇の中で神と格闘して、ヤコブは頑なに自分を守り続けますが、最後には神に打ち砕かれて、大腿部の関節を外されてしまいます。その関節は人の体の中心にあって自分を支えて立つ時に力が集まる場所です。その関節を外されたということは、自分の力を頼みにして立つことが出来いということでしょう。ヤコブは今、神の前に自分の知恵と力を頼みとして生きる事の限界と無力さを思い知らされています。

 そして、この時にヤコブはこう言うのです。「いいえ、祝福してくださるまでは放しません(3227)」。

 ヤコブは、体一つで神と格闘し、そして、神の祝福を得ようとしています。

 神はそのヤコブを祝福して去っていきました。そして夜は明けてきます。

 32節にはこう記されています。「ヤコブがペヌエルを立ち去るときには、日は既に彼の上に昇っていたが、彼は腿を痛めて足を引きずっていた。」

 ヤコブは明るい太陽の下で、足を引きずりながら、エサウのところに向かいますが、その足を引きずる姿こそ神に祝福された姿です。

 私たちはどうでしょうか。私たちも神に介入される時、いくら自分を誇り自分を頼んで神を打ち破ろうとしても、私を生かしてくださる神を支配できる者など一人もおりません。時に、私たちは、神に介入されることを嫌がり、自分をごまかして表面を繕ったり、身勝手な屁理屈で、自分を防衛して、自分が強く正しい者であるかのように装うのではないでしょうか。そのような私たちは、神が関わってこられ、神に揺さぶられる時、「あなたが祝福してくださらないのなら、私はあなたを離しません」と言うべきなのではないでしょうか。

 日が昇ると、夜中の格闘で神に打ち砕かれたヤコブは、足を引きずって、エサウに会うために歩きます。私たちは、このヤコブの一見無様な姿の中に、神の祝福を受けた者の輝きを示されているのです。

 主なる神は、信仰をもって歩む私たちに、薄っぺらな楽しさや御利益を保証してはおられません。神はむしろ私たちが己の力や財力を頼みに生きようとする時に、その人の人生に介入して、その人の生きる課題を突き付け、時には挑戦的に迫ってこられるのでしょう。神が私たちのところに介入して来られるのは、私たちに神の御心を知らせて、私たちを御心によって生きるように導くためです。ヤコブがそうであったように、本当の自分と向き合う事が出来るように、私たちも神によって腿の関節を外されるような経験を強いられることもあり、それは表面的には惨めさや辛さを負う経験になる場合もあるでしょう。私たちはそのような時にこそ主なる神に「祝福してくださるまでは離しません」と祝福を祈り求めたいのです。

 今日の聖書日課福音書ルカによる福音書第18章7節で、主イエスはこう言っておられます。「まして、神は昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておられることがあろうか。」

 私たちは主なる神から働きかけられ、時にその働きかけによって自分の思いを打ち砕かれたり揺さぶられたりしながら、信仰生活を歩む者です。私たちは、主なる神に寄りすがり、ヤコブのように「祝福してくださるまであなたを離しません」と、主なる神に祝福を求め続けて、深く確かな信仰を養っていただけるように導かれて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 10:21| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年10月12日

清められた10人の[規定の病]を負った人  ルカによる福音書17:11-19  聖霊降臨後第18主日(特定23)

清められた10人の[規定の病]を負った人   ルカによる福音書171119  聖霊降臨後第18主日(特定23)  2025.10.12


 主イエスは、サマリアとガリラヤの間を通って、エルサレムに向かっておられます。主イエスがある村にお入りになろうとすると、10人の重い皮膚病を病んでいる人たちが現れ、大声で憐れみを請い求めたのでした。主イエスは、彼らに、祭司のところに行ってそのまま体を見せるようにお告げになりました。彼らは祭司の所に向かいますが、その途中でみな清められていることに気付きます。その内の一人は大声で神を賛美しながら戻って来て、主イエスの足下にひれ伏して感謝したのです。彼はサマリア人でした。主イエスはその人に言いました。

 「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を崇めるために戻ってきた者はいないのか。」

 そして主イエスはこのサマリア人に言いました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

 はじめに「重い皮膚病」という言葉について理解しておきたいと思います。

 日本語訳では、かつての文語訳や1954年日本聖書協会訳の聖書等で、この言葉は「らい病」と訳されました。日本語で「らい病」と訳された言葉の原語ヘブル語ではツァーラアトであり、ヘブル語のツァーラアトは、新約聖書のギリシャ語で魚などの鱗()を語源とするλepροs であり、λepροs は英語で leprosy 、その病を得た人をleper と訳してきました。これらの言葉は、長い歴史の中で、元々の「ツァーラアト」という言葉が、今私たちが用いる「らい病」や「ハンセン氏病」と同じ意味なのかが不確かなまま、偏見や差別的な意味合いを含みながら用いられてきたと言えます。

 「らい病」の病原菌は、1873年にノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンによって発見され、その抗菌薬プロミンが発見されたのは1940年のことでした。旧約聖書のツァーラアトや新約聖書のレプロスが、やがてハンセン医師によって病原菌が発見された「らい病(ハンセン氏病)」と同じ病原菌によるものかどうか確かでなく、近年、聖書を翻訳する場合にもこの「ツァーラアト」や「レプロス」をどう訳すべきかは大きな課題となって来ました。1987年に刊行され現在私たちが用いている聖書新共同訳では、かつて「らい病」と訳された言葉は「重い皮膚病」と訳され、2018年に発行された聖書協会共同訳では「規定の病」と訳されています。また、他の出版社から発行された日本語訳聖書(新改訳)ではツァーラアトのままカタカナで用いています。

 さて、旧約聖書レビ記第1345節には、重い皮膚病に関して次のように記されています。

 「規定の病を発症した人は衣服を裂き、髪を垂らさなければならない。また、口ひげを覆って、『汚れている。汚れている』と叫ばなければならない。その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、独り離れて住まなければならない。」

 その箇所からも読み取れるように、規定の病(ツァーラアト)は、現代のように医学的、細菌学的に診断していたわけではありません。当時、病は、その病をもつ本人なり先祖が罪を犯し、その罰としてのしるしが身体に表れていると考えられました。その中でもこの「ツァーラアト(規定の病)」は、その病の重さのゆえに、最も恐れられた病だったのです。

 旧約聖書レビ記に記されている規定によれば、この病の人は、宿営の外で-つまり健康な人々の生活の場の外に-排除されました。そして、町の門の外で、例えば旅をする人がこの病の人に気付かずに近寄ってきたときなど、自分の名を名乗る代わりに「汚れた者です。汚れた者がここにいます」と叫んで相手の注意を喚起し、自分の方からとその場を立ち去らなければならない、とされていたのです。

 主イエスと弟子たちの一行は今エルサレムに向かっていました。

 この病の人たちは、ユダヤ人もサマリア人も互いの違いを忘れ、日頃の差別意識などすっかり消えて、でもお互いに自分の素性を明かすこともなく、肩を寄せ合うようにひっそりと町の外で暮らしていたのでしょう。

 彼らは主イエスがその近くを通ると聞くと、「私は汚れています」と叫ぶのではなく、主イエスに向かって憐れみを求めて大声で叫ぶのです。主イエスはそれに応えて、彼らにそのまま祭司たちの所へ行って見せるようにお告げになりました。

 旧約聖書の規定では、ツァーラアトの者は、祭司によってその病が消えていることを認められると、浄めの式を行い、それを終えて初めて他の人々との交わりに復帰することができました。でも、主イエスは、憐れみを求める10人の病者に、その症状があるまま、自分たちを祭司に示すように言われたのです。

 ユダヤ教の浄めの規定に従えば、神殿に行って祭司に体を示して浄めの祈りを受けられるのはその病が癒えた後です。でも主イエスはこの10人に、直ぐに立って祭司たちのことろに行くように命じたのでした。

 この点についてある聖書学者は次のように説明しています。 

 この個所は、主イエスがこの病のために排除された人たちを立ち上がらせ、自分たちが差別を受けている実情を差別する者たちに突き付けるように勇気づけた物語である、と言います。

 この病の人は、体が健康を害している以上の差別を受け、苦しみを味わっています。病者であれば、健康な人以上に周りの人たちの憐れみを受け、看護される必要があるでしょう。それなのに、彼らは生きることを認められず、体の苦しみ以上の社会的な苦しみを味わうのです。主イエスは、その実情を、差別している者の代表的立場にある祭司に示すように促していると考えられます。

 そして、主イエスの言葉に促された10人は、皆立ち上がり、皆清められました。言葉を換えれば、この10人は主イエスによって本当の自分を回復し、一人前の人間として人々の中で生きていくようにされたのです。彼らは主イエスに立ち上がらせていただきました。そして、神殿に向かう途上で皆浄められています。

 けれども、その中で自分が癒されたことを知って、大声で神を賛美しながら戻ってきたのは、ただ一人だけでした。しかも、その人は日頃イスラエルの民から差別され交わりを絶たれていたサマリア人でした。主イエスは言われました。「清くされたのは10人ではなかったか。他の9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を崇めるために戻ってきた者はいないのか。」

 ツァーラアトを病んで見捨てられ、誰一人相手にしてくれる者などなかった時、主イエスはその人々の叫び声を受け止めてくださいました。そして、主イエスは、彼らに立ち上がってその姿を祭司たちに示すように指示してくださいました。主イエスは、彼らがワラにもすがるような思いで必死に叫んだ時、「汚れた者よ、下がれ」とは言わず、彼らの叫びに応えてくださっています。そして、そのみ言葉に従って立ち上がり、歩み始めたとき、この人たちの内に自分は主イエスに受け入れられ、愛され、人間として生きる力を与えられていることに気付いたのでしょう。主イエスのみ言葉は、絡みついてくる差別や偏見から解き放ち、大切なその人として生きる事へと導いてくださいます。

 10人の重い皮膚病の人たちが主イエスによって清められましたが、それは、これからも主イエスとの交わりを深め、その恵みの中に生きていく信仰の入り口だったはずです。他の9人のイスラエル人は浄められた後どうしたのでしょう。彼らは、自分が浄められて、自分の願いが満たされると、またユダヤの祭司階級を頂点とした制度の中に戻って、サマリア人を差別しながら自分を高みに置く生活を始めていったのではないでしょうか。

 主イエスの戻ってきてひれ伏すサマリア人に目を向けてみましょう。

 このサマリア人は、自分の病が浄められたことを通して大声で神を賛美する事へと導かれています。初めは遠くから憐れみを求めて叫ぶほかなかった人が、今は主イエスの足下にひれ伏して感謝し、恵みを与えてくださった神を賛美しています。

 肉体的、物質的な恵みは分かりやすく、人を喜ばせます。そして、それは大切なものでもあります。でも、受けた恵みは忘れやすく、過ぎ去り消えていくことも多く、それゆえにもっと多くを求めたくもなります。主イエスの許に戻ってきたこのサマリア人にとって、自分が浄められた事は単なる肉体的な恵みに留まらず、主なる神から受けた恵みに応えて、感謝し賛美する事へと導かれています。このサマリア人は、この先、差別や偏見に悩み苦しむ人の友となり、自分が主イエスから受けた愛を分かち合うために尽くすことが予想されます。 主イエスはこのサマリア人に言います。

 「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 主イエスは、この人が浄められた事に留まるのではなく、「立ち上がって行きなさい」と促します。

 主イエスの体である教会に連なる私たちも、同じ信仰に生かされ、感謝賛美へと導かれ、主イエスの祝福を受けつつ生きる者です。私たちは自分の苦しみや困難を主イエスに叫び、憐れみを求めましょう。そして主に対する感謝と賛美をささげる者となり、それぞれの信仰を養われ導かれる歩みを進めて参りましょう。

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2025年10月05日

僕(しもべ)の謙遜と喜び ルカによる福音書17:5-10  聖霊降臨後第18主日

(しもべ)の謙遜と喜び    ルカによる福音書17:5-10  聖霊降臨後第18主日(特定22)              2025.10.05


 今日の聖書日課福音書の中で、主イエスは仕える者の謙遜と喜びについて教えておられます。

 僕が主人の家の外で羊を飼いまた畑を耕して仕事を済ませて家に戻ってきます。主人は彼をもてなすこともなく彼に次の仕事を言いつけます。「外の仕事が済んだら、次は食事の用意だ。私が食事をしている間は給仕をしなさい。あなたの食事はその後だよ。」

 このように言う主人のことを、私たちはどう思うでしょう。聖書についての予備知識もないままにこのような話を聞けば、この主人は何と人使いが荒いのだろう、ねぎらいの言葉一つもなく僕をこき使う冷酷な人だなどと、思うかもしれません。

 主イエスがここで伝えようとしているのは、主人のそのような一面についてではなく、むしろ主人がこの僕を用いて生かしていることついてであり、僕は主人の仕事に与れること、主人に用いられることを喜びにしているいう事なのです。

 主イエスも、自分を遣わした父なる神のために、その御心がこの世界に一つひとつ実現していくように働き、父なる神の僕として、父なる神の御旨の実現のために働くのは当然であるとお考えだったのでしょう。主イエスは、主なる神の僕として、御心の実現のためにエルサレムに向かう旅をしておられます。僕として自分が仕えている主なる神のために働くことは喜びであり、その喜びの故に、僕としての働きに謙遜でいられるのです。

 今日の聖書日課福音書の箇所は、使徒たちが主イエスに「私どもの信仰を増してください」と願ったことから始まっています。この箇所の主語が「弟子たち」ではなく「使徒たち」であることに注目してみましょう。なぜなら、直前の段落(ルカ17:1)では、「イエスは弟子たちに言われた」と始まり、この箇所(ルカ17:5)は「使徒たちが私どもの信仰を増し加えてください」と言ったことに主イエスが応えて教えを述べているのです。

 おそらく、この福音書を記したルカは、この箇所の主イエスの教えが、12弟子に限られた教えにとどまらず、主イエスを救い主として受け容れて御跡に従う人々にこの教えを広く伝えようとする意図をもって記したのではないでしょうか。つまり、信仰を増し加えることは、イエスの直接の12弟子にとっての課題であるだけでなく、パウロやテモテ、バルナバなどをはじめ主イエスを救い主と信じて従う使徒たちやこの福音書の読み手である私たちにとっても大切な課題であることを、福音記者ルカは伝えているのではないでしょうか。

 この箇所を理解するために、第7節以下に出てくる「」という言葉について理解しておきましょう。

 ここで僕(しもべ)と訳されている言葉の原語は、「奴隷」という意味でもある「dουλοsドューロス」という言葉ですが、当時の「奴隷」は、モーセ時代のエジプトで重労働を課せられた奴隷とは全く違う存在であることを心に留めておきましょう。

 この箇所で主イエスが教えておられる「僕(奴隷:dουλοs)」は、例えば、創世記後半に出てくるヨセフ(ヤコブの子ども12人の第11番目のヨセフ)を思い起こしてみると分かり易くなるかもしれません。

 ヨセフは父ヤコブに可愛がられて兄たちに妬まれ、旅の隊商に銀貨30枚で売られてしまいます。そのヨセフは、エジプトで王宮の侍従長ポティファルの奴隷として買い取られますが、ヨセフはポティファルの信頼を得て、様々な出来事の後に、エジプトの総裁にまで上り詰めるのです。奴隷の全権はその奴隷の所有者である主人にありますが、主人はその奴隷を家族と同じような待遇を与え、場合によっては、主人の資産管理や運用もこの僕に任せていたと言われています。

 そうであれば、この例え話の僕(奴隷)が、主人に必要とされ、為すべき仕事を主人に与えられることは感謝すべきことであり、自分の主人に貢献できることはこの僕(奴隷)にとって大きな喜びでもあったと想像されます。

 この「僕(奴隷)」について、現代の「人権」という観点によって、このような主従関係が正当か不当かという評価をすべきことではなく、「主人と主人に仕える人」という視点で見てみると、主人に用いられ生かされる僕(奴隷)の感謝と喜びの姿さえ見えてくるのではないでしょうか。

 僕(奴隷)は、主人に選ばれ、買い取られ、必要とされています。僕(奴隷)は主人の指示に従って喜んで働きます。僕(奴隷)が「私は取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言えるのは、倫理や道徳に基づくことではなく、また処世術の習慣であったからでもありません。僕(奴隷)が自分の主人の働きに与り、主人のために働いた喜びが根底にあるからなのです。そして、その主人も僕(奴隷)に喜ばれ感謝される「良い主人」なのです。

 このような関係の中で、使徒の信仰が増し加えられる事を考えてみると、ヨハネによる福音書1516節の主イエスの言葉が思い起こされます。

 「あなたがたが私を選んだのではない。話があなたがたを選んだ。」

 私たちは、主イエスとのこうした関係、つまり主人である主イエスと僕(奴隷)である私たちという関係の中に生かされていることがはっきりしてきます。

 こうした視点を持って、一般的なこの世の人の祈りを考えてみると、主イエスと私たちの人格的な関係がいかに大切なものであるかが分かってきます。

 この世の一般的な祈りは、多くの場合「願掛け」です。自分の願いを主イエスの御名によって祈ることは必ずしも悪いこととは言えませんが、例えば、家内安全、商売繁盛、健康回復、交通安全、学問成就、水子供養に厄除け等々、この世の人々は自分の求めにはどの神社やお寺に祀られている神に願をかけるのが良いかを考え、キリスト教もその選択肢の一つとなり、人は自分に都合の良い神をその時々に選んで願い事をして、お札やお守りを買うのです。そしてその願いが満たされることが「願いを叶えてくれる神さま」、「自分に利益をもたらす損をしない宗教」ということになるのです。実は、それは信仰とは程遠く、自分の様々な願いを満たすことが救いであるかのように取り違える誤りへと人は引きずり込まれることになるのです。そこにあるのは、利用する者とその願いを叶えることができるかのような幻想の関係であり、そこには神と人との出会いはなく信仰の育みもありません。

 主イエスは言われます。

 「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」

 そして、それに続けて、その選びは「選ばれた者が出かけていって宣教の実を結びその実が残るようになるため」と、主イエスは言っておられます。

 主人に選ばれて主人の僕(奴隷)として働く者は、自分の願いを満たすことを優先させるのではなく、主人に仕えて主人の必要を満たすことが当然の任務となるのです。僕(奴隷)の勤めは、主イエスが自分を召し出してくださった事を感謝し、主人であるイエスの命じる務めに喜んで与ることです。僕(奴隷)は、その働きに与ることによって、僕である自分が生かされ、そうすることで、僕は人として生きる意味を与えられるのです。主人が他ならぬ私を僕として選び出し、大切な主人の務めの一端を担わせてくださっています。私たちは、その務めをとおして、主の僕として生かされるのです。

 私たちは自分の力に依り頼むのではなく、私たちを選び召し出してくださった主イエスを自分の主人とし、主イエスの働きに与ります。私たちは謙遜になって、私たちが生活する場の直中に主イエスの御心が現れ出るように遣わされていく者なのです。

 もしこのような信仰の喜びと謙遜が無かったとしたら、教会という組織の中で営まれることも、その活動は世俗の活動と少しも変わらないものになるでしょう。

 主イエスは信仰を増し加えることを求める使徒たちに「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば・・。」と言っておられます。主が私を選び主が私を捕らえ主が私を僕として用いてくださるという信仰があれば、私たちはその喜びと謙遜によって、信仰は育まれるのです。初めは砂粒のように小さな信仰であったとしても、やがてはそのカラシナの枝に鳥が巣を作るほどになるのです。たとえ小さく弱い信仰であっても、私たちが主に召し出された僕(奴隷)としての喜びと謙遜によって主の働きに与るなら、そこから私たちの信仰は育まれ、私たちの教会も一層主の宣教の器として成長することが出来るのでしょう。

 今日の聖書日課福音書を通して、私たちは信仰の原点に立ち返り、一人ひとり主の働きの器とされている喜びを新たに致しましょう。

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2025年10月03日

富める私たちと貧しいラザロ   ルカによる福音書16:19-31

富める私たちと貧しいラザロ   ルカによる福音書161931  聖霊降臨後第17主日(特定21)  2025.09.28


 聖書の言葉は、私たちに慰めや励ましを与え私たちを導きます。しかし、それは必ずしもいつも心地良いとは限らず、時には私たちにとって厳しい問いかけや促しを迫ることもあります。私たちが真実を示される時、それは深い慰めになることもありますが、自分ではそれを認めたくない事実や過ちを突き付けられる場合もあります。そのような時に、人はその相手に攻撃的になったり仕返しをしたくなったりすることも多いのです。主イエスもユダヤ教の指導者たちの反感を買い、十字架に挙げられることになります。主イエスはその十字架に向かってエルサレムへと旅をしておられます。

 今日の聖書日課福音書の「金持ちと貧しいラザロ」の物語は、金銭的には豊かな国である日本に生きる私たちにとって挑戦的であり、私はこの個所を読むたびに心を揺さぶられる思いになります。

 この「ある金持ちと貧しいラザロ」の箇所は、主イエスの教えに心を向けようとしないファリサイ派の金持ちを想定して、主イエスに従う弟子たちと主イエスに付きまとうようにしてその動向を観察するファリサイ派の律法学者たちに向かってお話になった物語です。

 この話で、金持ちはいつも紫の衣服や柔らかい麻の衣を着て、贅沢に遊び暮らしていました。当時、そのような衣服は、身分の高い金持ちが身に付けました。金持ちは、そのような服を身にまとい高価な料理を食べ、毎日贅沢に遊び暮らました。当時の食事では、左肘をついて体を横にして、フォークやスプーンを使わず手で食べました。用意してあるパンを手ふき代わりにも用いて、指先を拭い、そのように用いたパンをそのまま捨てることが贅沢とされました。それは自分が金持ちであることを示す行為でもあったとも考えられています。

 一方、ラザロという名の貧乏人は、この金持ちの家の前に座り込み、おそらく、この金持ちたちが手を拭って投げ捨てるパンで飢えをしのぎたいと思っていたのでしょう。ラザロは体中に出来ものがあって、体は弱り果て、自分の体をなめる犬さえ追い払うことが出来ませんでした。犬は当時のユダヤ社会では汚れた動物であり、ラザロの体をなめる犬は、野良犬であったと考えられます。犬もきっと金持ちによって捨てられるパンにありつこうとその辺りをうろついていたのでしょう。金持ちにとって、ラザロはこのような犬同然であり、この野良犬がラザロをなめるほかには誰もラザロを顧みることもありませんでした。

 主イエスは、この世における富める者と貧しい者の姿を対照的にお話になり、テーマはやがて二人とも死んだ後のことに移ります。

 ラザロは神の国に安らかであり、紫の服を着た金持ちは死の国の苦しみの中でもだえています。ラザロのことについては22節で「この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた」と記されています。アブラハムは、イスラエル民族の父祖であり、救いの約束を受けた神の民の父祖とされた者です。貧しかったラザロは何の業績にもよらず、いま、神の国に迎え入れられています。一方、贅沢な金持ちは、死者の国の中で苦しんでいます。

 何故この金持ちは死者の国に落とされたのでしょう。この金持ちは何か悪いことをしたのでしょうか。彼はラザロを追い払いもしませんし、意地悪をしたわけでもありません。

 当時、金持ちであることは、神に祝されていることの現れであると考えられていました。そして、反対に、ラザロが貧しく体にイヤな出来ものがあるのはラザロやその先祖の罪の結果だと思っていたかも知れません。このような考えは当時のファリサイ派のごく当たり前の考えでした。

 でも、この金持ちが、貧しいラザロを毎日目の前にしながら紫の服を着て贅沢に遊び回ることは本当に神の御心の現れなのでしょうか。神は、金持ちとラザロがいつまでも無関係のまま、金持ちがラザロに無関心でいることをお望みなのでしょうか。

 これまでにも度々触れてきましたが、主イエスがお教えになった「愛」の反対語は、「恨み」や「憎しみ」ではなく「無関心、無関係」の方が適当です。主イエスによって示された神の愛は、この貧しいラザロの話の前にある、第15章の「見失った羊」、「無くした銀貨」や「いなくなった息子(放蕩息子)」の例えに示されているように、どこまでも相手を思い、見捨てることなく関わり続けることであり、「愛」とはその意思を意味しています。ファリサイ派の人々は、自分を高みに置き、貧しい人々を見下して関わろうとせず、律法の枠に従って生きることの出来ない人々を罪人として排除してきました。主イエスの目から見ると、貧しくされた人を少しも顧みないファリサイ派の形式主義的な生き方こそ愛とは正反対なのです。

 このような意味で、金持ちがやがて陰府で苦しむことになるのは、目の前にいるラザロを少しも愛さなかった事に因るのです。神がこの金持ちに求るのは、自分だけが満ち足りることではなく、自分の目の前にいる貧しい者に仕えて、愛することで、主イエスは、愛とはそのような具体的なことなのだと言っておられるのです。

 貧しい人にこそ神の恵みがもたらされねばならないということは、この「貧しいラザロ」を含めて、ルカよる福音書の大きなテーマです。

 その一例を挙げれば、ルカによる福音書第1章5253節でマリアは「権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で見たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と神を誉め称え、第6章20節で主イエスは「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言っておられ、更にその先の24節で「富んでいるあなたがたは、不幸だ。あなたがたはもう慰めを受けている」とも言っておられます。

  貧しい人が貧しさのためにそのまま滅んでいくことは神の御心ではありません。そして富んでいる者が貧しい人に関心を持てば、その富によって具体的に貧しい人を助け出すことが出来るでしょう。それにも関わらず、金持ちが何もしないのであれば、それは神の御心が行われない不幸なことなのだ、と主イエスは言われます。

 主イエスは、貧しい人々や権力者たちに罪人呼ばわりされる人々と交わり、食事を共になさいましたが、そこには天の喜びをこの世に先取りした姿がありました。当時の上級階級の人々が、主イエスが共にいてくださる喜びを求めず、贅沢に酔いしれて、他の人の痛みを知ろうともせず、神の御心を求めようとしない姿に対して、主イエスは今日の聖書日課福音書を通して厳しいメッセージを発しておられます。

 私たちの周りでは、今日まで、「豊か」といえば「物が豊富である」ことを意味してきたように思えます。人は目に見える物に対しては貪欲になりますが、その一方で貧しさや弱さは、怠惰の表れとして、また学ばない結果であると考え、貧しさや弱さから目を背けてきたのではないでしょうか。主イエスは、そのような私たちに対しても「あなたはラザロを愛するか」と問いかけておられるのではないでしょうか。

 この聖餐式の中でも、私たちは「懺悔の祈」りをします。カトリック教会のミサ式文中の「懺悔」は、日本聖公会現行祈祷書とほぼ同じ言葉なのですが、一つこれに加えて「思いと言葉と行いと怠りによって罪を犯していることを懺悔します」と祈ります。私たちは「怠り」によって大きな罪を犯すことがあることも心に留めましょう。ラザロに関わらない金持ちの罪は、このような「怠り」の罪でもあります。

 ファリサイ派の人たちは、律法を盾にして自分を救われる側に置き、保身し、貧しく小さな人々を差別しました。主イエスはそのようなファリサイ派を厳しく批判なさったのです。

 主イエスの御言葉は、神の御心がこの世界に行われるように私たちを導き促す救いのメッセージです。愛に基づく本当の豊かさに生かされるために、私たちに向けられた主イエスの御言葉を心に深く受け止め、日々の生活の中に主イエスのお働きを愛を実践して示していくことができるように、祈り求めて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 23:39| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする