2022年07月25日

祈り求める  聖霊降臨後第9主日(特定12)   ルカによる福音書11:1-13  2022.7.24

祈り求める  聖霊降臨後第9主日(特定12)    ルカによる福音書11:1-13 

 今日の聖書日課福音書、ルカによる福音書11章9節の言葉をもう一度思い起こしてみましょう。
 「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」
今日の聖書日課福音書では、主イエスが弟子たちに祈ることをお教えになり、しかも、天の父なる神に向かってしつこいほどに祈り求めるように教えておられます。私たちもこの教えに導かれて、天の主なる神に向かって熱心に祈り求めるようになりたいと思います。
 その糸口として、先ず、今日の旧約聖書日課(創世記18:20~33)を見てみましょう。
 アブラハムの甥であるロトの住むソドムは退廃した街でした。創世記第13章10節を見てみると、ソドムとゴモラの町が滅びる前には、ヨルダン川流域の低地に当たるその一帯は、「主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」と記されています。この一帯は農作物の収穫に恵まれ、その豊かさによってその地域は繁栄していたことでしょう。しかし、現代の世界にも多く見られるように、ソドムとゴモラはその豊かさの中で次第に罪深い町に成り下がっていきました。おそらく農産物の豊かさに恵まれて経済的にも豊かになったソドムとゴモラの町では、人々は次第に贅沢になり、その贅沢に酔いしれているうちにその土地の人々は節制や倹約を忘れてゆきます。やがて人々は神を忘れて酒に溺れ、風紀が乱れ、怠惰になり、町には暴力が横行し、ソドムとゴモラは堕落していったものと思われます。
 ソドムとゴモラがそのような状態になっていた頃、3人の主の遣いがアブラハムの家を通りかかりました。アブラハムは主の使いであるその人たちを自分の家に迎え入れてもてなしました。そして彼らを見送ってアブラハムと主の使いたちがソドムを見下ろす場所まで来たとき、アブラハムは主の使いから、恐ろしい御告げを受けたのでした。
 その言葉によると、「私たちは、ソドムとゴモラの罪は非常に重いという叫びを聞くが、本当にその通りかどうか確かめに行く。もし本当にその評判通りならそれらの町々を滅ぼそうと考えている」と言うのです。
 ソドムには、甥のロトの家族など、アブラハムの親類の者も暮らしています。アブラハムは、その町が滅ぼされないように、一所懸命に執り成しをします。「もしその町に50人の正しい人がいるとしてもその町を滅ぼすのですか。」「いや、もしかしたら正しい人は50人には足りないかもしれないが、45人の正しい人がいるのに滅ぼすのですか。」「もしかしたら30人しかいないかもしれません。それでも僅か30人の正しい人の故に、その町を滅ぼさないでください。」アブラハムは「正しい人は10人しかいないかも知れませんが、滅ぼさないでください」と懸命に執り成します。このように必死になって執り成すアブラハムに、主の使いは「正しい人が10人いれば、その10人のためにその町を滅ぼさない。」とまで約束してくれました。
 しかし、その町には正しい人は10人に満たなかったのでしょう。ソドムとゴモラは、主の御手によって、滅びてしまいます。
 私たちはこの物語から、神がアブラハムの熱心な執り成しの願いを受け容れ、その願いを叶えてくださろうとする姿を見ることが出来ます。
 今日の主日の聖書日課は、旧約聖書ではアブラハムがソドムとゴモラのために執り成しをする箇所によって熱心に執り成すことを取り上げ、福音書では主イエスが弟子たちに熱心に祈る者となるように教えています。
 主イエスは「あなたがたが願い求めることを、主なる神はお聞き下さるのだから、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と、しかもしつこいほどにそのように祈り求めなさいと、弟子たちに教えておられます。私たちが主なる神に願い祈り求めることに熱心であるなら、しかもしつこいほどであるなら、その熱心さの故に主は聞いてくださると言っておられます。
 私たちは、このような御言葉を受けて自分自身を振り返ってみるとき、本当に熱心に神に祈り求めているだろうかと、問い返さないわけにはいきません。また、熱心に、しつこいほどに祈りなさいと言われても、私たちは何をどう祈ったらよいのか分からないほどに、祈りを身に付いていない自分を認めなければならないのではないでしょうか。
 アブラハムの熱心な執り成しの祈りは、主の遣いが、初めは50人の正しい者がいれば町は滅ぼさないと言っていたのに、たとえ10人でも正しい者がいれば町を滅ぼさないと言うまでに御使いの心を動かしました。正しい人の熱心な祈りは、神に聞かれることを私たちはしっかりと心に留めておきましょう。
 私たちが天の父に向かって心から願い祈り求めるなら、私たちはその祈りの中で、自分が本当に正しいことを祈り求めているのかを神に問われ、そこに神との対話が始まるでしょう。神に向かってしつこいほどに祈り求めるなら、その祈り求めるものを得るために、私たちは自分では何をなすべきかを神から問われ、私たちの祈りは御心にかなう祈りへと近づいていきます。私たちが願い求めて祈る時、祈る自分の願いが深められ、一層神の御心に沿った祈りに近づいていくのです。その意味でも、私たちは祈ることに於いて怠惰であってはなりません。今日の福音書に促されて、求め、探し、門を叩き続ける者でありたいし、祈り続けて、私たちは御心に適う者とされるように導かれていきたいと思うのです。
 今日の福音書の中で、私たちはもう一つ覚えておきたいことがあります。それは、「祈り」とは自分の願い事を叶える呪文ではなく、神は私たちの願い求めるものを無節操に何でも与えて下さるわけではないと言うことです。
 例えば、もし自分の子どもから明らかに体に悪い食べ物を食べたいとせがまれたり、社会の秩序に反する事をやってみたいからお金を出して欲しいと求められても、子どもの言いなりになる親はいないでしょう。私たちの求めに応えてくださる神も同じなのです。
 私たちは、天の神に向かって何を求め願い探すべきなのか自分でもなかなか分からない者です。主イエスは、そのような私たちに「祈り」を教えてくださいました。それが「主の祈り」です。その祈りは「父よ」と、祈る対象である神を親しく「父」と呼びかけて始まり、その後「み名があがめられますように」という最初の祈願が続きます。その祈願の第一は、自分の願い事が叶うことではなく、主なる神のみ名が聖なるものとして誉め讃えられるように、と祈ります。そして、その後にいくつかの具体的な事柄が続きます。私たちの具体的な願いや思いも、主なる神の大きな御手の中でしっかりと神と繋がっていられますようにと祈ります。私たちが思い、考え、行うことが神を誉め讃えるための具体的な出来事になるように、私たち一人ひとりは生かされたいのです。
 私たちの祈りは、神の目から見れば、まだまだ未熟であったり的外れであったり、主イエスの名によって祈り求めるととして相応しくない祈りであったりするかも知れません。でも、たとえそうであっても、神に向かって願い祈ることの熱意に於いては、怠りのない者でありたいと思うのです。なぜなら、私たちが主なる神のみ名が聖とされる事を中心に据えて祈り始めると、神は私たちの祈りを全て主なる神のお働きの中に位置づけ、意味づけて、小さな私たちを主のお働きのために用いてくださるからです。
 ちょうど甥のロトが自分では知らないところで伯父アブラハムの懸命な執り成してを受けていたように、主イエスは天の父の右で私たちの祈りを受けてくださり、執り成してくださり、聖霊を与えてくださっています。聖霊は私たちの祈りを更に深く主なる神の御前に執り成してくださっています。私たちの祈りは、聖霊に支えられ導かれて、一層清められ、深められて、天の神の御許に届くのです。
 主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」と教えてくださいました。
 この命令形は、文法的には「・・・していなさい」とか「・・・し続けていなさい」という継続的な意味であります。「求め続けていなさい。そうすれば与えられる。探し続けていなさい。そうすれば見つかる。叩き続けていなさい。そうすれば開かれる」ということです。
 私たちは、自分たちの祈りがたとえ拙い祈りであったとしても、神の御前に真剣に、熱心に、しつこいほどに祈ること、それも祈り続ける事へと導かれましょう。
 主イエスご自身も、大切な場面や場面が大きく変わろうとするときにいつも祈っておられます。
 私たちが主イエスに導かれて熱心に祈り続けると、やがてその自分を振り返ってみれば、祈りを通して確かに神に導かれていたことに気付き、主なる神への感謝と賛美を一層深くすることが出来るでしょう。
 今日の聖書日課から、熱心に祈る者へと導かれましょう。
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2022年07月17日

イエスの足もとに(マルタとマリア)  ルカによる福音書10:38-42

イエスの足もとで(マルタとマリア)  ルカによる福音書10:38-42  聖霊降臨後第8主日(特定11) 2022.07.17

 今日の聖書日課福音書の箇所は、『聖書-新共同訳-』には、「マルタとマリア」という見出しがついています。
 皆さんは、聖書の中の「マリア」から、幾人のマリアを思い起こすでしょう。四つの福音書からは、主イエスの母マリア、マグダラのマリア、ヤコブとヨハネの母マリア、そして今日の聖書日課福音書に記されているベタニアのマリアが挙げられます。
 ベタニアのマリアは、見出しにもあるように、マルタの姉妹(妹と考えられています)であり、ベタニアのマリアと呼ばれます。
 主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤからユダヤの地方へと旅をして、ベタニアにお入りになりました。ベタニアはエルサレムから3㎞ほどのところにある小さな村です。その村にマルタ、マリアとその兄弟ラザロの住まいがあり、主イエスはこの家族と親しい交わりを持っておられら様子が覗えます。
 マルタの家族は主イエスと弟子たちの一行を招き、マルタは喜んで主イエスをもてなします。マルタもマリアも主イエスを迎えられることが嬉しかったことでしょう。
 旧約聖書の中にも、旅人をもてなすことは大切なこととして教えられています。主イエスと弟子たちは男だけでも13人以上いたと考えられ、マルタは主イエスの一行をもてなすために食事の用意などで忙しく立ち働いていました。一方、マリアは主イエスの足もとに座って、主イエスの話に聴き入っています。するとマルタは主イエスのところにやってきてこう言ったのです。
 「主よ、マリアは私だけにもてなしをさせています。何ともお思いになりませんか。手伝うようにあなたからマリアに言ってください。」
 先ほどふれたとおり、この時のマリアは主イエスの足元に座って、主イエスの語る言葉に聞き入り、またそのみ言葉をしっかりと胸に納めていました。
 「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」とは、当時のイスラエルで、弟子が教師(ラビ)に学ぶときの姿勢であり、律法と預言の書を学ぶ者は、このようにラビの足元で教えを受けたのでした。
 しかし、当時の社会では、それは男性に限られたことであり、女性は、律法の教師になることはなく、律法や預言の書を専門的に学ぶ必要はないと考えられていました。
 しかし、マリアはそのような一般的な考えによらず、また通常の来客を迎える婦人の役割をとらず、主イエスの御言葉を聴いてその教えを自分のものにしようとしていました。おそらく、その様子を見ていた弟子たちの中には、このマリアのことを厚かましい人とか非常識な人と思う者もいたことでしょう。
 主イエスは、このようなマリアのことを抗議するように訴えてきたことに答えて次のように言いました。
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 今日の聖書日課福音書の箇所は、短い物語であり、その内容も簡単で分かり易いと言えます。この箇所から私たちが受け取るべきメッセージの結論も「マリアのことをとおして主イエスがマルタを教育している物語である。私たちも主イエスの御言葉に思いを集中しましょう」ということです。
 私たちも、この物語から、主イエスの心を深く感じ取って自分の中に主イエスを迎え入れたいと思うのです。
 この場面でのマルタは、マルタなりに一所懸命に、喜んで主イエスをもてなそうとしたことでしょう。でも、マルタは次第に苛立ち始めていたのではないでしょうか。「もてなし」は当時のイスラエルの文化や習慣の中では善いことであり、褒め称えられたことであり、マルタはごく当たり前に喜んでその奉仕を始めたはずでした。でも、もしマルタに自分の心の中に深く主イエスの本当の思いを迎え入れることがないのなら、マルタがどれほど心を尽くしてもてなしをしても、主イエスの本当の思いに触れて深く主イエスと出会うことはできません。
 主イエスの脇にいるマリアに注目してみましょう。
 ルカが39節に記しているとおり、マリアは「イエスの足もとに座って、その話に聞き入って」いました。そして、これこそ、ルカが42節で記しているように、主イエスが「必要なことはただ一つだけ」と言っておられることの中身です。
 今、マリアは主イエスの足もとにいますが、ルカによる福音書の中で「イエスの足もと」という言葉は特別な意味を含んでいるように思われます。ルカは好んでこの言葉を使っていますが、例えば第4章8節では、ガリラヤ湖で大漁を得た時のシモン・ペトロは主イエスの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。第7章38節では、罪深いとされた女の人は石膏の壺に入った香油を持って主イエスの足もとにひれ伏しました。また、第8章41節では、会堂長ヤイロが主イエスの足もとに伏して自分の娘の癒しを求めました。福音記者ルカのこのような用い方を見れば、ここでマリアが主イエスの足もと座っていることにも特別な意味が込められていると考えられます。
 この箇所のマリアの場合も、単に物理的な距離として主イエスの一番近いところにいるだけではなく、主イエスの弟子として教えを受ける姿を描写しているのであり、その姿を福音記者ルカは「イエスの足もと」という言葉で表現していると考えられます。
 マリアは主イエスの直ぐそばで、主イエスの話を、心の奥深くに受け容れていたことでしょう。このようにマリアが主イエスの御言葉に集中するところに主イエスとマリアが本当に通じ合う一瞬つまり「出会い」が生まれるのです。こうした関係の中でマリアは主イエスの言葉に、養われ、生かされるのです。
 ヨハネによる福音書によれば、主イエスは受難の死を遂げるためにエルサレムにお入りになる前日、再びベタニアのマルタとマリアに家でお過ごしになっておられます。その時、マリアは主イエスの足に純粋で高価な香油を注ぎ、自分の髪でその足をぬぐいました。弟子たちは間もなくエルサレムに入ると、主イエスは祭司長たちや律法の専門家たちとの論争に勝って権力を得ることになると思い、浮ついた気持ちになっていましたが、この時マリアは主イエスがエルサレムで受難の死を遂げることを既に理解していました。主イエスは香油を注ぐマリアのことを「前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言っておられます。マリアはこの時既に主イエスのエルサレム入城と受難とを正しく理解していたのです。こうしたマリアの主イエス理解は、主イエスの足元に座り主イエスの話に聞き入るマリアだからこそできたことなのです。
 そうであるにもかかわらず、マルタは自分を正しい者として、自分のもてなし方のためにマリアを用いようとしており、そうすることはマリアを主イエスの足もとから引き離しまうことになります。また、マルタが忙しく立ち働くことは、マルタ自身にとっても主イエスの足元に座る機会を失うことにもつながってくるのです。
 主イエスがこの家を訪問してくださった喜びはマルタにもマリアにもラザロにもありました。でも、マルタは料理のことやぶどう酒のこと等のもてなしに心を奪われ、マルタの心は主イエスとの間で一番大切にすべき事から離れ初めています。
 私たちは主イエスとどのような関係を結ぶことを望んでいるのでしょう。また、私たちは何をすることによって主イエスに本当に喜んでいただけるのでしょう。
 主イエスは親しくそのマルタの名前を呼び、「必要なことはただ一つだけである」と言っておられます。主イエスは、ただマリアを弁護しておられるのはなく、マルタにも正面から心を向けて「私はあなたと出会いたい」と言っておられるのではないでしょうか。
 私たちは、この教会が、皆主イエスの足もとに来て自分の心を開き主イエスとの親しい交わりに生きることができるように、主イエスの導きを求めて祈りたいと思います。
 今日の聖書日課福音書で主イエスが「マルタ、マルタ」と親しく語りかける箇所に、私たちはそれぞれ自分の名前を当てはめて、静かに主イエスの御声を聞き、主イエスとの出会いを求めましょう。
 この世の煩いから離れて、ひととき主イエスの足許に集い、主イエスの足もとに座っている自分を思い描き、主イエスに自分の名を呼ばれ招かれていることを想像しましょう。私たちもマリアと一緒に主イエスの足もとに進み出て、主イエスの前に自分を開き、主イエスの御言葉を迎え入れましょう。
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2022年07月10日

愛の実践(善いサマリア人の例え) ルカによる福音書10:25-37  聖霊降臨後第5主日(特定10) 2022.07.10

愛の実践(善いサマリア人の例え)  聖霊降臨後第5主日(特定10)  ルカによる福音書10:25-37  2022.07.10


 今日の聖書日課福音書には、善いサマリア人の譬えの個所が取り上げられています。
 ある人が、エルサレムからエリコに向かって旅をしていました。エルサレムからエリコへは20数㎞の道のりで、標高差1200㍍を降ります。その途中には岩場も多く、当時この辺りには実際に盗賊が出没したとも言われています。旅人はこの道の途中で追い剥ぎに襲われて持ち物を奪われ、半殺しにされて放り出されてしまいました。この人は、起き上がることもできず、呻いていたことでしょう。この人の脇を通りかかったのは、祭司やレビ人でした。祭司やレビ人は、エルサレム神殿で礼拝をはじめとする諸儀式に携わる人で、旧約聖書の律法にもよく通じていた人たちでした。
 民数記19章11節にはこう記されています。「どのような人の死体であろうと、それに触れた者は7日の間汚れる。」
 もし、道端に倒れている旅人が既に死んでいるか、また、運ぶ途中で死んでしまえば、彼らは汚れ7日の間は人々との交わりから離れなければならなくなります。そこで、祭司もレビ人も、傷を負って倒れているこの旅人を見ても関わろうとせず、通り過ぎていってしまったのでしょう。でも、注目したいのは、祭司もレビ人もエルサレムからエリコに向かっており、主イエスはおそらく神殿での働きを終えた祭司やレビ人には、仮にこの場で宗教的な意味での汚れを受けたとしても、次の勤めまでには十分な浄めの期間があったことを想定しているのでしょう。主イエスの目には、当時のユダヤ教の担い手たちが律法の文言には忠実であるように振る舞うものの、その実際は神の御心からは遠く映っていたのでしょう。
 エルサレムからエリコの一帯は、昼と夜の気温差も大きく、倒れた旅人がこのままでいればまず助からないでしょう。この人の脇をひとりのサマリア人が通りかかりました。
 「サマリア」ということについて、簡単に振り返っておきましょう。
 イスラエルをごく大まかに3つに分けると、北部がガリラヤ地方、中央部がサマリア地方、そして南部がユダヤ地方と、3つの地域になります。イスラエルのほぼ中央部に位置するサマリア地方の人が、イスラエルの民と互いに極度に嫌い合うようになったことには、その歴史があります。
旧約時代のイスラエルは、紀元前1021年頃、サウルを初代の王として王国となり、ちょうど紀元前1000年にダビデが次代の王になってその体制を造り上げ、ダビデの子ソロモン王の時代には王国の繁栄を誇るほどになりました。しかし、ソロモンが死ぬと、その王国は紀元前922年に南ユダ国と北イスラエル国に分裂してしまいます。北イスラエル国では、ダビデ、ソロモンの血を引かないヤロブアムが王になり、南ユダ国のエルサレム神殿に対抗してサマリアのゲリジム山に自分たちの礼拝の場を設けて、金の小牛象をまつるなど異教の要素も採り入れた礼拝を行うようになっていきます。こうして、サマリア地方の人々は正統のユダヤ教徒からは、汚れた民、社会的な落伍者、異教の民と見なされ、両者はいわば近親憎悪の状態になっていきます。更に、南北分裂からちょうど200年経った紀元前722年に、北イスラエル国はアッシリアに占領され滅びてしまいますが、アッシリアはイスラエルの国力を分散させることを狙い、多くのサマリア人を捕虜として国外に連れ出した上にサマリア地方に異国人を入植させ、この地に異民族子孫も増えていくことになります。
 このように、サマリア人は、南ユダ国の生粋のユダヤ人から、異民族の血の混じった汚れた民と見なされます。今日の聖書日課福音書の中で、主イエスの「誰が強盗に襲われた者の隣人になったと思うか」と問われた律法の専門家は「サマリア人です」とは答えないで「その人を助けた人です」と言っており、「サマリア人」という言葉を使うことも避けており、当時のユダヤ教徒たちがサマリア人という言葉を口にするのも嫌っていた様子を伺うことが出来ます。
 主イエスの例え話に戻りましょう。
 旅人が倒れているのを見つけたサマリア人はそばに来ると、この人を見て「憐れに思い」、傷の処置をしてこの人を自分のロバに乗せて宿屋に連れて行きました。その上、彼は一晩中世話をし、翌日になると宿屋の主人に自腹を切って代金を渡し、この旅人の介抱を頼み、もし費用がかかったら帰りがけに自分が支払うことを約束して出て行ったのでした。
 主イエスがこの例え話をなさるきっかけは、律法の専門家が主イエスを試そういう下心を持って、「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問してきたことでした。
 その後の受け答えからも分かるとおり、この律法の専門家は聖書のことをよく知っており、その教えを字句通りに守り、また自分の行動の規範にして熱心であったことも想像されます。彼らは、そうすることによって神に受け入れられ、永遠の命を約束されると考えたのでしょう。
 この律法学者は、主イエスの教えに対して、「では、私の隣人とは誰ですか」と問い返しています。律法の専門家がこのよう言う心の奥には、「私は神に選ばれたイスラエルの民です。仲間同士は愛し合い、律法もしっかり守っています。あなたのように、律法を守れない汚れた人や罪人たちと交わりを持って自分を卑しめるようなことはしていません」という思いがあったことは明らかです。そして、救われる側に身を置く自分を誇り、救いから漏れる人々を蔑み、主イエスを試みようとする姿には、この人のこのような「律法主義」に基づく自分中心とその傲慢が現れ出ています。
 主イエスがなさったこの例え話の中で、祭司やレビ人は、同じ民の旅人が傷を負って半死半生の状態にあるのに関わろうとせず、向こう側を通って行ってしまいます。
 神殿の祭儀に関わる祭司やレビ人にとっての律法は、神の御心を現すための仕組みや導きではなく、自分の立場や利益を守るための隠れ蓑になっていました。
 この律法の専門家も、先ず誰が自分の隣人なのかを定めて、その隣人は自分の救いのために愛すべき対象であるどうかと考えています。そのように自分の隣人を品定めすることで、目の前の半死半生の旅人にも心を痛めることなく、自分の愛の対象外として通りすぎでしまうことになるのです。
 主イエスは、「あなたの隣人は誰か」ではなく「この旅人の隣人になったのは誰か」と問うておられます。
 私たちも、自分を守るために、倒れている旅人を助けようとしない理屈を並べるのなら、いくらでも挙げることはできすでしょう。しかし、傷ついた人を目の前にして、自分の保身しか考えないのなら事態は何も変わりません。主イエスは「自分にとっての隣人とは誰か」と問う人に対して、「この傷つき倒れた人にとっての隣人は誰か」と問うて、その生き方を厳しく挑戦しておられると言えます。
 主イエスはこの例えの中で、傷つき倒れている旅人のことを「憐れに思い、近寄って介抱した」と語っておられます。ここで用いられる「憐れに思い(気の毒に思い)」という言葉は、主イエスを主語とする時と主イエスがなさる例え話の中でだけ用いられている特別な言葉で、「内蔵(スプラングノン)」という言葉を動詞形である「スプラングニゾマイ」という言葉なのです。
 つまり、傷つき倒れている人を目の前にしても律法を言い訳に保身して心の痛まない人と、傷つき倒れている人に自分のはらわたが痛み震えるほどの思いをもってその人に近づく人と、どちらが倒れている人に愛を施しているのかと、主イエスは問うておられるのです。そして、主イエスは、あなたは律法を言い訳にして愛することも永遠の命を得ることも失っている、と指摘しておられるのです。このような意味を込めて、主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と促しておられます。28節では、律法の専門家が聖書の言葉を用いて答えたことに対して、主イエスは「正しい答だ。それを実行しなさい」と言っておられます。つまり、こうして愛を行うときに、旧約聖書の律法は成し遂げられるのです。
 主イエスは、ご自身の十字架と復活によって、このたとえ話のサマリア人の生き方を示し、私たちの苦しむ時、倒れる時にも腑が痛むほどの思いで共にいてくださり、私たちを愛しぬいて下さいました。主イエスの愛を受けた私たちは、主イエスの愛をもって目の前の人々と関わるとき、私たちは目の前の相手にとって初めて隣人になることができるのです。愛は観念ではなく、神の私たちへの関わりの行為です。
 主イエスは「あなたも行って同じようにしなさい」と言っておられます。
 私たちは、皆、人生の旅で倒れたときに主イエスによって抱き起こされ介抱していただく者です。主イエスは、今も私たちの良き隣り人となるために私たちのところに来て下さり、ご自身の御言葉と御体によって憐れみを示してくださいます。
 「あなたも行って同じようにしなさい」と言う主イエスの御言葉に仕えて、傲慢な自分を抜け出し、永遠の命の約束をいただきましょう。

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2022年07月08日

教会生活の実際について 思いつくままに

 教会暦は、聖霊降臨後の期節に入りました。

 これから11月末までその後半期を過ごしていくことになりますが、それに関連して、教会生活の実際についての勧めをいくつか挙げておきますので、再確認の上、是非できることから実践してください。

 私は、本欄に「教会生活の実際」と題して何回かのシリーズで教会生活を過ごしていく上での心構えや実践すべき内容などを記していこうかとも考えていましたが、ここにその幾つかを纏まりもないままに記そうと思います。あくまでも、義務ではなく心得ですので、ご自身での判断の参考にしてください。

・礼拝開始前の静想を 

 フランシスコ・ザビエル髙橋宏幸北関東教区管理主教が北関東教区のある教会を巡杖された時のことを以下のように語っておられました。

 礼拝開始時刻の15分ほど前に、聖堂があまりに静かなので「何人来ているのかな」と思いつつベストリーから会衆席を覗いてみると、既に10数名が着席して静かに祈り或いは聖書を開いていたとのことで、その日は20名に足りない会衆の礼拝ではあったけれど、とても落ち着いて心のこもった礼拝ができたとのことでした。礼拝前に心を落ち着けて、礼拝に向かう心を整えるのはとても大切なことです。それを一人でではなく、主日礼拝に向かう一同の思いにできれば、なお礼拝前の有意義な時になるでしょう。

 ・My聖書、My祈祷書、My聖歌集を!

 3冊あわせるとかなり重くなりますね。でも、できるならMy各書を手元に置き、前日に当日の聖書日課の箇所と祈祷書の特祷に栞をはさみ、目を通しておきましょう。そしてその内容の感想や疑問点などを心に保ちながら、自分の礼拝用書を用いて毎主日の礼拝に臨めたら良いと思います。私がかつて勤務した教会で、それを実践していた人が時々「私が疑問に思ったことを説教の中で触れてくださって、よく分かりました」と言ってくださり、私には説教準備の励みになりました。 My聖書であればそうした疑問点や注釈などを書き込むこともできます。私は主日礼拝には司式、朗読する時のほかは『聖餐式聖書日課(ABC年別)』より『聖書』を用いることをお勧めします。聖書全体のボリュームの中でその日の聖書日課箇所の位置を感じながらその内容を理解することも味わい深いことであり大切なことかも知れません。また、前日には、当日の説教を準備する聖職のためにも祈ってください。

・主日礼拝には15分前の出勤(?)を!

 教会には、管区、教区、他教会などから多くのお知らせ、案内などの印刷物が届きます。それら全てを全員に紹介したり取り次いだりするには限界があります。主日の礼拝に参集するとき、教会には早めに到着するように心がけて、掲示板や受付周りの印刷物、ご自分のレターボックスなどに配布物はないかをチェックして、必要な情報を得るようにしてください。親しい方と挨拶したり近況を語り合うだけでも時間は直ぐに過ぎていきます。礼拝開始時刻が近くなると、自席で静かに黙想したい人もいますし礼拝に心を向けて沈黙のうちに過ごす人もいます。礼拝前の点燭(ロウソクに火を灯す)は、原則礼拝開始の5分前です。それまでに当日の聖書日課に目を通して栞を入れておくことなどの準備も完了しておきたいものです。

また、事情によって当日の聖書日課の朗読担当など「お役」を突然に依頼されることもあるかもしれません。そのような場合にも「備えあれば憂いなし」です。少し早めの出勤(?)で、礼拝に向かう思いを整え、突然の依頼や変更にも対応することができます。

 また、多くの教会には受付に礼拝出席者記名簿があります。陪餐者であるかどうかによらす、礼拝に参列出席の折は記名を心がけて下さい。その名簿をもとに年度統計の資料を作成します。近年では、万が一のコロナ感染症対策での連絡や忘れ物や拾得物をご本人に戻す手掛かりにもなりますので記名を心がけて下さい。

・牧師への伝達事項はメモ書で。

 「あのことを、今度の日曜日に牧師に伝えよう」という事柄がある場合があります。そのような時は、できるだけ伝達事項をメモ書きにしてお渡しください。もしそのような伝達事項のある方が3人いたとして、一人3分要するとしたらそれで9分かかります。牧師の方からも出席者の中に個人的に何かを伝える必要がある場合、その必要時間が更に加わります。主日礼拝での代祷で共に祈りたい項目がある場合もあるでしょう。そのようなことについてより確かに伝わるように、メモ書きで構いませんので、できるだけ文書にしてお渡しください。

 (2022年7月3日 東松山聖ルカ教会教会通信『マラナ・タ』より、一部書き直し)


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2022年07月04日

イエスによって派遣される者  ルカによる福音書10:1-12、16-20

イエスによって派遣される者  ルカによる福音書10:1-12、16-20  聖霊降臨後第4主日(特定9) 2022.07.03

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが72人の弟子たちを任命して派遣された箇所が取り上げられています。
 今日の福音書のすぐ前、ルカによる福音書第9章1節からの箇所では、主イエスが12人の弟子を派遣されたことが記されています。主イエスは、神の国を宣べ伝え、神の国を実現していくために、先ず12人の弟子を派遣し、更にここで72人を派遣しておられます。ルカによる福音書では、主イエスの働きを担う者が派遣され神の国を宣べ伝えることが大きなテーマになっています。
 今日の聖書日課の箇所であるルカ第10章1節にはこのように記されています。 「その後、主は他に72人を任命し、ご自分が行くつもりの全ての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」
 先に12人を遣わし、またここに72人を遣わし、それでも主イエスの宣教を担う者の数はまだまだ足りません。主イエスは、第10章2節でこう言っておられます。
 「収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
 当時、主イエスご自身のお働きも、また主イエスによって遣わされる弟子たちの働きも、多くの課題や困難がありました。それは、イスラエルの多くの人が弟子たちの宣べ伝える「知らせ」を受け入れる一方で、また多くの人が主イエスの教えや働きを拒み、また主イエスを宣べ伝える弟子たちを批判し、嫌がらせや脅迫を加える勢いも次第に大きくなって来ていたからです。
 そのような場に72人を派遣するにあたり、主イエスは「収穫は多いが働き手が少ない」と言っておられます。「収穫が多い」とは、言葉を換えて言えば、あそこにもここにも主イエスの働きを必要とする場があり、その働きを通して主なる神を理解して受け容れる用意のある人も潜在的には沢山いるということです。そして、そのような場に、神の御心を具体的に表していく働き人が与えられるように祈りなさいと主イエスは言っておられるのです。私たちも、この72人と同じように、主イエスに教えられ養われ導かれて、ここからそれぞれの生活の場に遣わさていく者です。そして、私たちは自分の遣わされていく場がどのようになることが神の御心なのかを絶えず祈り求める者です。私たちが生きている場が、いつでも神の御心が実現している場になるように私たちは働いています。その働きを必要とする場はあまりに多く、働き手はまだまだ少ないと主イエスはお考えなのでしょう。
 主イエスは疲れた人や重荷を負って行き悩む人々をご自身の御許に招いておられますが、ただ「さあ、いらっしゃい」という立場におられるだけではありません。主イエスは多くの人をご自身の許に招くだけでなく、ご自身が貧しさや病に悩む人々の中に入って行かれ、また、たくさんの弟子たちをそのような人々の中に遣わしておられます。
 なぜなら、「神の国」とは特定の場所や地域を確保してそこを主イエスの願い通りにする事を意味するのではなく、神の御心が実現している状態がそこに実現していることを意味しているからなのです。神の御心を実現するための働きは、この世界のある特定の場所を切り取るようにしてキリスト教国家を性質させることなのではなく、私たちがどこにいようと、それぞれが生活している場に神の御心(意思)を具体化することで「神の国」が実現されるのです。私たちも、それぞれの家庭でも職場でも、そこに主イエスが共におられる場になるように生きることを通して、神の国は少しずつ実現してくるのです。
 それは時として「狼の群の中に羊を送り込む」ほどの厳しい働きにもなります。現代の日本で主イエスさまを救い主と信じて受け入れている人は人口の1パーセントにもなりません。このような国の中で主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることは、狼の群の中に送り込まれる羊ような思いになることもしばしばです。キリスト教の2000年に渡る歴史を振り返ってみれば、それが多くの場合迫害や苦難の歴史でもありました。
 故八代崇主教がかつてこのような話をしてくださったことがありました。
 八代崇主教は30歳の頃、英国カンタベリーの神学校で学びました。八代主教は当時のご自分を生意気盛りだったと振り返っておられますが、ある時、英国人の指導教授に、その授業の流れの中で、イギリスは帝国主義による領土の拡大と共にキリスト教の宣教師もその手先となって教会を拡大していったのだと言ったことがあったそうです。すると英国人の学生が彼をその下にある礼拝堂に行って壁を見て来いと言ったのでした。八代崇青年はそこへ行って壁を見てみると、その神学校を卒業してアジア、アフリカに出て行って命を落とした沢山の聖職者の名が刻まれていて、しかもその多くの人たちがその時の八代青年と同じほどの年齢の若者であり、主教さんは頭を鉄棒で殴られたかのような衝撃を受けたと言っておられました。主イエスの派遣の言葉に応えて命がけで宣べ伝える人たちがいなかったら、私たちは異教徒のままであったに違いないと、八代主教は語っておられました。
 時を問わず、場所を問わず、主の御心を自分の身をもって示してきた多くの宣教者の働きによって、今の私たちも時を超え、場所を超えて、主イエスに出会い、その信仰を得ています。私たちもその歴史の先端にあってこの世界に遣わされていくのです。
 主イエスは、72人の弟子たちを派遣するにあたり、主イエスは「財布も袋も履き物も持っていくな」と、つまり、福音の他に頼るべきものや万が一のための備えなど何も持つなと、言っておられます。そうであれば、派遣される私たちは本当に頼るべきものは何かを深く心に据えなければなりません。
 主イエスは、十字架にお架かりになる前の晩に弟子たちと最後の食事をなさった時、その席で弟子たちにこうお尋ねになりました。
 「財布も袋も履き物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」(ルカ22:35)
 その時、弟子たちは、「いいえ、何もありませんでした」と答えています。
 主イエスによって派遣されるということは、私たちのように平凡で特別な才能もない者にとって、時に不安になり、尻込みしたくなることであり、何か他の大きな力を頼みとしたくなることがあるかも知れません。でも、財布や袋や履き物に表されるような、主の福音以外の備えなどなくても、最終的には何も不足するものはないことを主イエスは教えてくださっています。主が私たちを選んで派遣なさるのであれば、その結果も主ご自身が引き受けてくださいます。
 主イエスは、特別な才能や力のない私たちを召し出し、用いて、私たちの中に主イエスご自身が働いて、神の国が実現している姿を示そうとしておられます。
 もし私たちが主のご用のために派遣される器であるのなら、その働きに私たちの利己主義や傲慢が加われば、神の国の姿は隠れてしまいます。また、私たちが主の器であるのなら、もしそこに主の御心とは異なる中身を入れれば、主の御心を表現できなくなってしまいます。私たちが日々御言葉によって生かされ、主イエスのみ糧に養われる理由もここにあるのです。
 私たちは主イエスに召し出され養われていることを根拠にして、私たちは主の働きのために用いられるのです。それがたとえ狼の中に派遣される羊のようであったとしても、既に主イエスご自身が神の御心を示してくださり、私たちはこの主イエスに愛され生かされていることを自分の身をもって示すことができ、それが私たちの働きの使命となるのです。
 私たちはこの聖餐式を通して御言葉と御糧に養われ、「ハレルヤ、主と共にいきましょう」「ハレルヤ、主の御名によって」と言葉を交わして派遣されていきます。
 私たちの日々の生活が身をもって主を証するものとなりますよう、主の御言葉と御糧を通して主の御力を与えられ、それぞれの生活の場へと遣わされてゆきましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 10:33| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする