2024年10月13日

永遠の命を受けつぐ  マルコ10:17-27

永遠の命を受けつぐ       (B年特定23.マルコ10:17-27)    2024.10.12

    

 今日の聖書日課福音書の冒頭の言葉は新共同訳では「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って」と訳されていますが、聖書協会共同訳の聖書では「イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄り」と訳しています。私には、後者の訳の方が、主イエスがエルサレムに向かって歩み始められた様子がより一層伝わってくるように思われます。

 ご自身の十字架に向かう歩みを踏み出された主イエスに走り寄って来た人がいました。その人は、主イエスの前に跪いて尋ねました。

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか(マルコ10:17)。」

 今日の聖書日課福音書を理解し導きを受けるために、先ず「永遠の命」という言葉に着目してみたいと思います。

 この「永遠」という言葉は、時間的に果てしなく続くと言うよりも、むしろ時間や空間によって影響されたり変化することのない「絶対性」「究極性」を意味していると考えると理解しやすいのではないでしょうか。「永遠の命」という言葉も、不老不死の生命のことや肉体的な死のない生命を意味するのではなく、生物としての命が終わるとしても、この世に生を受けて生かされたことには消えることのない意味や価値があるということを意味していると言えます。

 主イエスがエルサレムに向かって歩み始めた時、一人の青年が主イエスの前に跪き、「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」と尋ねました。 今日の聖書日課福音書の物語は、マタイとルカの両福音書にも載っています。この「ある人」は、マタイによる福音書では青年であり、ルカによる福音書では金持ちの議員です。この人は、きっと若くして財を築き、地位も名誉も手に入れている人であり、この世の成功者であったと言えるでしょう。でも、この人には、こうして主イエスの前に跪いて「永遠の命」を求めないわけにはいかない思いがありました。この人はユダヤ教の中心にいる人でありながらも、心の中に、自分の救いについての不安があり、自分の過去と将来に、自分は本当に神の民の一人として救いを約束されているのだろうか、自分はそれに相応しいのだろうか、自分は神との契約のしるしである律法をしっかり守っているけれどこれで十分なのだろうかという、不安や心配が付きまとっていたのでしょう。

 この人に限らず、人は誰でも自分の一生が終わる時、築いた財産も得た地位や名誉もみな自分の手から離さなければなりません。イエスの前に跪いたこの人も「こうして生きてきた自分は何者なのだ。全てを手放した私には何が残るのか。自分がこの世に生きていることに本当に意味があるのだろうか。自分は財産も名誉も得たけれど、それらを手放して裸の身になった時の自分の価値を認めてくれる者はいるのだろうか。」と自分に問い返してみれば、イエスの前に跪かないわけにはいかなかったのでしょう。

 「永遠の命」についての確信を得たいと思って、どれほど律法を守ることに努めてみても、この人はその確信を得られなかったのではないでしょうか。

 パウロも、ローマの信徒への手紙第7章で、回心する前の自分を振り返り、律法について完全であろうとすればする程、罪の意識が強くならざるを得なかったと言っています。

 主イエスの前に跪いたこの人も、主イエスに出会う前には、永遠の命を得るためには律法に基づいて善行を更に積み重ねることが必要だと考えていたのでしょう。

 主イエスは、この人の質問に答えて、十戒を思い起こさせ、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言われました。

 彼はすかさず「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と模範的に答えています。彼は実際そうしてきたことでしょう。でも、彼の心は満たされず、不安なのです。なぜならこの人は、回心前にパウロのように、自分の力で永遠の命を獲得しようとしているのです。所詮、限りある存在が、お金や物を掻き集めるように「永遠」を生きる術を求めても、それは永遠にはなりません。仮に「永遠なるもの」があってこの人がそれを手に入れたとしても、限りある私たちは何時かはそれを手放さなければなりません。私たちは、自分の力によって「永遠なるもの」を獲得するのではなく、私たちが永遠なる神の働きの中に捉えられて、この永遠なる神に受け容れられてこそ、自分の限界を超えて永遠なる神の御手の中に生かされるのです。

 今この人の前に居られる「永遠なるお方」である主イエスは、エルサレムに上って行こうとしておられます。それは、十字架の上で全ての人が神に愛されていることをお示しくださり、赦し抜き愛し抜き、ご自身は虚しく滅ぶかのようでありながらも、甦ってこの主イエスにこそ永遠の命があることを示そうとしておられるのです。

 主イエスは自分の力で永遠の命を受け継ごうともがいているこの人を見つめ慈しんでおられます。この「慈しむ」という言葉は、神の絶対的な愛を表すアガペー(αγαπη)という言葉の動詞形が用いられています。つまり、主イエスがこの人に「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい(10:21)」と言っておられるのは、そのように出来ないこの人を裁いて切り捨てるために言っておられるのではなく、主イエスがこの人を愛し、慈しんで、この人の望む永遠の命へとお招きになっておられる言葉なのです。

 言葉を換えれば、主イエスはこの人に「それを自分の力で得ようとするのではなく、私に委ねて従って来なさい」という意味で言っておられるのです。

 「貧しい人々に施しなさい」と言うことは、「自分の力で自分の救いを得ることを目指すのではなく、主イエスを通して神の愛を受け、その愛で人々を愛し、貧しく弱く小さい人々に仕えなさい」と言うことです。

 永遠の命を受け継ぐことは、これまでの生き方の上に主イエスの教えを付け加えることではなく、これまでの自分中心の生き方を捨てて主イエスに全てを委ねる事によって初めて可能になるのです。また、この人にとってこれまでのように十戒を中心とした律法を厳格に守ることは、自分の克己、修養にこそなれ、それは「自分を愛するように隣人を愛する」ことにはつながっていかないのです。 私たちも、今日の聖書日課福音書を通して、エルサレムに向かう主イエスに従う覚悟があるのかを問われています。

 私たちがこのように集い、礼拝を通して神の前に進み出ることが出来るのは、神ご自身が人の貧しさや弱さを知っておられ、神ご自身の方から私たちに近付いてくださり、救いをお与え下さるからであり、私たちが永遠の命を受けつぐことも、神の慈しみを受け容れることではじめて出来る事なのです。

 自分を中心に生きるこの人は、更に「救いの保証」を積み上げようとする態度を変えることができず、結局自分の財産を失うことを嫌がり、悲しい顔をして主イエスの許から立ち去っていったのでした。

 主イエスはご自身が貧しいお姿をとって私たちのところに来て下さり、命を投げ出して下さいました。ご自身を与え尽くしてくださった主イエスに対して、私たちはどのようにお応えするのでしょうか。自分のためになお主イエスを用いようとするのでしょうか。それとも、貧しく小さな人々の中におられる主イエスに従い仕えるのでしょうか。小さく貧しい存在に過ぎない私たちも、既に主イエスを通して主なる神に受け入れられ、時も所も超えて掛け替えのない大切な存在とされています。このことこそ、「永遠の命を受けつぐ」と言うことに他なりません。

 私たちは、主イエスを通して示された「永遠の命」を受け容れるのでしょうか、それともこの青年のように拒むのでしょうか。

 今日の福音書の個所では、主イエスは十字架に向かってエルサレムへ向かう旅が始まっています。私たちが自分の負うべき十字架を既に主イエスが負ってくださっています。私たちは「永遠の命」を継ぐ者にとして招かれています。私たちは主イエスに従い、主イエスに仕え、神の国の働きの中に私たちが用いられ意味づけられ、いつも主イエス・キリストとの導きと養いを受け、永遠の命へと招かれていくことができますように。

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2024年10月06日

永遠のパートナー 創世記2:18-22 (B年特定22)     

永遠のパートナー       創世記2:1822(B年特定22) 2024.10.06    


 この主日のみ言葉(聖餐式聖書日課)は、旧約聖書、使徒書、福音書ともに、私たちが生きる上での「相手、他者」について教えています。これらの聖書の箇所は結婚式の時にもよく読まれる箇所ですが、今日は旧約聖書日課を中心に人が生きる上での「相手、他者」ということについて教えられ、導かれたいと思います。

 初めの人アダムが創られ、エデンの園に住むことを許されました。でも、アダムは孤独でした。創世記の第1章には神がお創りになった世界はとても良かったと記されています。その素晴らしい世界にいてもアダムは孤独なのです。神は「人が独りでいるのは良くない」と言われます。アダムだけではなく、人は誰でも、他の人との交わりがなかったら、思い考えることは次第に現実から離れて、独り善がりになり、更に自分勝手になってしまうことも多いのです。もし人が、生まれた後あらゆる事をたった独りでやっていかなければならないのなら、おそらく3日と生きていられないでしょう。あるいはまた、生まれたばかりの赤ちゃんが、たとえどれほど豊富な栄養を摂取できたとしても、もし、人から言葉もかけられずあやされることもなく視線を交わす相手もなく、ただ寝かされているだけだとしたら、その赤ちゃんは情緒の安定した豊かな人に育つことは困難になってしまいます。

 私たちは、もしたった独りで居るしかないとしたら、たとえそれがエデンの園の中であったとしても、何と寂しく不幸なことでしょう。人は何不自由のない暮らしをしていても、もし本当に心を通わせる相手が一人も居なかったら、不安定になり精神的に病理的な言動を起こすことにもつながっていくことでしょう。また、せっかく他者との豊かな交わりに生きる可能性を与えられているにもかかわらず、人と共に生きることのできない寂しさややるせなさを感じている人は意外と多いのではないでしょうか。

 創世記の第1章で、主なる神は野の全ての獣や空の鳥を創り、人にその管理をお任せになりました。でも、野の獣や空の鳥は、人の究極的な相手にはなり得ませんでした。このような人の姿をご覧になって、神は人を深い眠りに落とし、その人が深く眠り込んだとき、その人の体からあばら骨の一部を抜き取りその骨で相手となる女の人をお創りになったのでした。

 なぜ、主なる神はこんな事をなさったのでしょう。

 主が人の体からあばら骨を取り出したことに着目してみましょう。昔、ユダヤの人々は人間の感情は胸から発する(感情の座は胸にある)と考えました。日本語でも「腹が立つ」「胸が痛む」「頭にくる」と言うように、私たちはしばしば感情の動きを体のある部分を用いて表現します。主なる神は、人の胸の中をガードするあばら骨の一部を抜き取って、その骨で相手となる女の人をお創りになったのです。つまり、神は、人の心、人の感情、情動の固い守りを少しはずし、その守りを薄くして、人の相手になる存在をお創りになったのです。こうして人は自分の感じていることや思っていることを他の人に伝えるように、そして相手の言動に自分の心が共感し、その思いをまた目の前の相手に伝えて共に生きるための「相手」を創って下さったのです。人はお互いに深く心が通い合う存在であり、お互いに相手の心の内を理解し合ってこそ、自分が生きていることを実感し喜び合える存在として創られたのです。私たちは、もし自分の本当の気持ちをいつも押し隠すだけで他の人と分かち合おうとしないのなら、その人がたとえどれほど多弁であっても、どこか空々しく虚しい思いになるのではないでしょうか。

 主なる神さまが人のあばら骨の一部を抜き取って創られた相手を聖書では「助ける者」と訳しています。この言葉は「ヘルパー」とか「援助する人」という意味ではなく、「パートナー」とか「コンパニオン」という意味を持つ言葉です。今日の旧約聖書日課の箇所で、人(アダム)は自分の身辺の世話をしてくれる人を与えられたのではなく、お互いに心を開き、分かち合い、理解し合う存在、共に生きる相手を与えられたのです。

 このパートナーが与えられたとき、アダムは言いました。

 「これこそ、私の骨の骨、私の肉に肉(2:23)。」

 相手はまさに自分の分身なのです。お互いに相手と自分を分け合い、心を開いて語り合って理解し合える時、その相手は互いに自分の分身なのです。アダムは更に続けて言います。「これを女(イシャー)と名付けよう。これは男(イシュ)から取られたからである(2:23)。」神が男のあばら骨を分けて創られた女は、神がお互いのために創って与えた良きパートナーであり共に生きる相手なのです。新共同訳では、旧約聖書の元の言葉であるヘブライ語をカッコの中に入れて、男イシュ、女イシャーと記して、発音上でも男と女は共に呼び掛け合い響き合う存在であることを示しています。つまり、男と女はこのように呼応し共感し、互いを理解し合う存在であることをヘブル語の発音の上でも響き合うことを紹介して示していました。

 ユダヤ人の哲学者で19世紀後半から20世紀半ばを生きたマルチン・ブーバーという人がいます。この人が人間関係を「我-汝」という言葉で説明していますが、その一文を引用してましょう。

 『世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。その二つとは「我-汝」と「我-それ」の世界である。私たちがある人と向かい合う時、その人の外見、特徴を見抜こうとする。これは「我-それ」の世界である。実際、人間はこのような「我-それ」の関係だけで生きるのは真の人間ではない。その人の全人格を認める「我-汝」の関係が根底になければならない。』

 ブーバーのこの言葉は、神が人()のあばら骨から相手となる人()を創り出した物語の意味を哲学の言葉にして的確に表現しているように思われます。そしてブーバーは、この「我-汝」の関係に生きる態度が重要であると指摘しています。私たち人間は自分中心に独りで生きることによってではなく、他者との交わりに中で自分と相手の命を育み、そこに人間としての価値を示すのです。アダムは、そのような意味で相手となる人を見た時、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、肉の肉。」と言っているのです。

 しかし、創世記を今日の日課の先まで読み進めていくと、神が人をせっかくこのように生きる可能性を開いて下さったのに、罪を犯す人が描かれるようになります。人はエデンの園にいたとき、神が良しとした中に生かされていましたが、その時でさえ、人は神とのつながりを忘れて罪を犯すのです。そして、お互いに罪の責任を他者になすり付け合い傷付け合う姿、少しも本当の自分を開かず、分かち合わず、心に壁をつくり、自分を固く防衛して傷つけ合う者へと成り下がる姿を描きます。人は良きパートナーが与えられても、神の御心に開かれていなければ、それだけでは罪の中をさまよい歩く者に過ぎないことを、聖書は物語るのです。

 創世記は、人間の誕生の物語、アダムとエバに罪が入り込んでエデンの園から追放される物語の後、第4章のカインとアベルの物語へと続きます。エデンの園を追放された人間は更に神の御心から離れ、その他者の存在を否定し、カインは弟アベルを殺して知らぬ顔をするという身勝手で傲慢な者へと成り下がって行きます。そして人々の中に不信感が生まれ、心を開いて分かち合うことを止め、お互いは相手を自分の欲望と野心を満たすために利用する道具としか考えなくなるのです。

 それでは、お互いを信頼して怖れなく心を開いて愛によって共鳴し合う世界は完全に永遠に失われてしまったのでしょうか。それはもう回復出来ないのでしょうか。

 そうではありません。

 神は、人が自分の力では回復できなくなってしまったこの信頼の関係を、神ご自身が主イエスを遣わすことによって取り戻して下さいました。

  主なる神は、主イエスに貧しいお姿を取らせ、神が人を愛し信頼してくださるしるしを飼い葉桶の中に与えてくださいました。たとえ私たちが孤独になり罪に悩むこをを逃れられないと思えても、神は私たちの生きるこの世界に人の姿を取って入り込み、私たちの「助け手」となって下さったのです。

 主イエスは、徴税人、病を負った人、汚れたもの扱いされる人と共にいて、その人々と「我-汝」の関係をとってどこまでも共にいて下さり、誰もが神から与えられた自分の命を全うして生きることが出来るように仕えて下さいました。そして、最期には誰一人主イエスのパートナーになる者などいない中で、十字架の上で他者の罪の苦しみを担い、罪人の姿をとって死んで行かれました。こうして主イエスは、ただ一人孤独のうちに見捨てられて死に行く人とも共にいて下さり、死の先にまで共にいて下さる事を身をもって示して下さったのです。このような「究極のパートナー」である主イエスに生かされて、限りある私たちでも、お互いに「助け手」となり合い、互いのパートナーになれる道を開いてくださいました。

 私たちはこの主イエスを自分の良き同伴者として、主イエスを通して神の前に自分の全てを開き、生きる幸いを与えられています。主によって生かされ、お互いに「良き助け手」として仕え合う交わりを、教会の中に育て上げていきましょう。

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2024年09月29日

主の名によって生きる マルコ9:38-43 (B年 特定21 )

主の名によって生きる  マルコ9:3843  (B年 特定21 )  2024.09.29


 マルコによる福音書第9章は、この福音書の大きな節目(転換点)になっています。主イエスはこれまでガリラヤ地方で神の子としてのお働きをなさり、弟子を召し出して訓練してこられました。多くの人が主イエスの癒やしや清めの業に触れ、多くの人が僅かの魚とパンで養われ、この主イエスに様々な期待を寄せるようになりました。でも、多くの人は主イエスの思いとは違う過剰な期待を寄せるだけで、やがてイエスに失望して離れていきました。このような状況の中、主イエスはエルサレムに上っていこうとしておられます。

 主イエスは弟子たちに、これから自分はエルサレムに上って行って捕らえられ、苦しみを受けて死ぬ事になっていると伝え始めました。しかし、弟子たちは、この時点では、まだ主イエスの受難予告の意味を理解できず、多くの人たちがイエスを見限る中でも、私たちの先生はエルサレムに上って行ってユダヤ教権力者たちの論争にも打ち勝って、エルサレムで指導者として君臨することになると期待を寄せ、その主イエスに従っていた様子も覗えます。

 今日の聖書日課福音書で、弟子のヨハネは、ある祈祷師がイエスの名を使って悪霊を追い出しているのを見て、その祈祷師が自分たちに従おうとしないので「あなたの名を使うことを止めさせました」と主イエスに報告しています。

 この場面では、「名によって」という言葉が一つのテーマになります。

 始めに少し「名」について思い巡らせたいと思います。

 私たちは、祈る時にその祈りを主イエスの御名によって主なる神に御前に捧げます。また、聖餐式の終わりには「派遣の唱和」で「ハレルヤ、主と共に行きましょう」、「ハレルヤ、主にみ名によって アーメン」と一同で唱えて、私たちはここから主の名によってそれぞれの生活に遣わされていきます。

 私がかつて立教小学校のチャプレンをしていた時、聖書の授業中にある生徒が「先生、御名によってとはどういうことですか」と質問してきました。私はどのように答えようかと考えましたが、次のように答えました。

 「ちょっと、職員室に行ってチョークを取ってきてくれる?」

 質問した子どもは直ぐに「はい」と言って立ち上がりました。

 私は「はい、そこまでで良いです。今、あなたが授業中でも、教室を出て、廊下を歩いて、職員室に行って『チョークを取りに来ました』と言ったら、職員室にいる先生は『どうぞ』と言ってくれるね。それはあなたが小野寺チャプレンの名によって行動しているからです。もし、これがA君自身の名によってのことなら、授業中でしょ、早く教室に戻りなさい、ということ事になる。でも、小野寺チャプレンの名によってチョークを取りに行ったのなら、職員室であなたが疑われたり叱られたら、小野寺があなたを守ります。神はイエスを救い主と信じてイエスの名によって生きる私たちを受け容れてくださっています。お祈りでも『主イエス・キリストの名によって祈ります』という事は、その祈りが私たちの祈りであると同時に主イエスが引き受けて一緒に祈ってくださることでもあるのです。」

 現代に生きる私たちは「誰かの名によって悪霊を追い出す」と言うことがなかなか理解しにくい面がありますが、実は、私たちも他人の名を使って自分の願う状況を作り出そうとすることがあります。

 例えばある家庭で、言うことを聞かずに我が儘を言う我が子を前にした母親は、その子供に向かって「お父さんにあなたのこと言いますよ」と言うと、そこに父親がいなくても子供は母親に従順になることがあるでしょう。また、ある会議の席で自分の意見を通したい時に、部長は「社長もよく言っていることだけど・・・」と、本当は社長がそのように言っているかどうかは別として、社長の名を持ち出して、他の人の意見を牽制することなどもよくあることでしょう。

 先の母親と子供の例えは母親は父親の名を用いて子供の「我が儘の霊」を押さえており、会議の席の部長の例えは社長の名で他の社員が反対意見を言う霊を支配している事例と言えるでしょう。

 私は、フィリピンの逐霊祈祷師の研究をしている人の話を聞いた事があります。フィリピンの古い習慣や文化の中で過ごす地域には、今でも逐霊師が生活の中に入り込んでいます。

 例えば、熱を出して寝込んでいる子どもがいる時、親は子どもに取り憑いた熱を出させる霊を追い出すために医者を呼んできます。その医者とは現代の医学に基づく資格を得た医師ではなく逐霊師なのです。逐霊師は、その子どもに取り憑いている霊の名前を判別して、その霊よりもっと格上の霊の名を用いて、特有の言葉と仕草によってその子どもに取り憑いている「熱を出させる霊」を追い払う儀式を行います。

 今日の聖書日課福音書で弟子ヨハネが主イエスに報告した逐霊師も、「この子どもに取り憑いて熱を出させている霊○○よ、ナザレのイエスの名によって命じる。この人から出て行け!えい、やあ!」と、イエスの名を用いて悪霊祓いをしていたのでしょう。

 その逐霊師は、主イエスが病を癒やし、悪霊を追い出し、罪人に赦しを告げ、命の回復を宣言するお働きをなさるのを目の当たりにして、その評判を耳にして、イエスの名に頼りイエスの名を用いて悪霊祓いをしたのでしょう。

 ヨハネはその祈祷師に出会った時に、その人を問い詰めました。

 「あなたは私たちの先生の名前を勝手に使っているが、あなたは私たちに従う思いはあるのか。私たちはこれから先生に従ってエルサレムに上っていくのだ。イエス様に従う気がないのなら、その名を使うことはやめなさい。」

 ヨハネはこのことを少し得意気に主イエスに報告したのでした。

 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました(9:38)。」

 ヨハネはお褒めの言葉をいただけると思っていたことでしょう。でも、主イエスはヨハネと他の弟子たちにこう言って彼らを諭されたのでした。

 「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、その直ぐ後で、私の悪口は言えまい。私たちに逆らわない者は私たちの味方なのである(9:39.40)。」

 弟子ヨハネはイエスの名を用いる逐霊師を批判して止めさせました。でも、イエスはこの事について「私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。」と言っておられます。

 この個所の「味方である」という言葉は、原語のギリシャ語ではυpeρ(ヒュペル)という前置詞が用いられており、それは英語のforに相当します。つまり、「味方である」とは、「向いている。関係している」という意味であり、試し訳すれば「私たちに反対しない(aginstではない)者は、私たちに(for)向いている」、「私たちに反対しない者は、私たちに関係している」となります。この箇所の文脈では「私たちに敵対しない者は私たちのためにいる」と訳すこともできるでしょう。

 カトリックの本田哲郎神父はこの箇所を次のように訳しています。

 「わたしたちと対立する側にいない人は、わたしたちの側にいるのだ。」(『小さくされた人々のための福音』)と訳しています。

 つまり、イエスの名に逆らいその働きを汚す者でないのなら、その人は主イエスが天の国を実現する働きに関わっており、その方向に位置付けられているというのです。主イエスが天の国を実現する働きは、今はまだ主イエスの御許に集ってはいない人々をも含めて確かに進んでいくことを、主イエスは弟子たちに教えておられるのです。そして、41節で、主イエスは、「キリストの名によって働く者のために一杯の水を飲ませる人には、神が必ずその人を報いてくださる」ということを弟子たちに教えておられます。

 主イエスは、神の国を実現する働きに逆らわない者や邪魔をしない者は誰でも共に神の国に向いた人々であり、やがて主イエスが十字架を通して身をもって示して下さる救いの恵みの中に位置付けられることを教えてくださいました。

 主イエスの受難と十字架を通して成し遂げられる神のお働きは、主イエスに従ってエルサレムに行こうとしている十二弟子が独占するものではありません。主なる神の救いの計画がイエス・キリストの御名によって進んでいく事は、全ての人に及ぶ広く深く大きなご計画であることを、私たちはこのみ言葉から思い知らされるのです。

 主イエスは、これからエルサレムに上って行こうとしておられます。

 この救い主イエスの名を汚さず、そのお働きに反対せず逆らわない人たちのすべてが罪を赦され、神に愛され、それぞれに大切な人として生かされる事を主イエスは十字架と復活によって示してくださいます。いや、それだけでなく、主イエスはイエスを拒み罵る者の事さえ十字架の上から執り成してその赦しを祈り、主イエスに従わない(againstの)人々をも招くためにご自身をお献げになりました。

 私たちは、主イエスの十字架の死と復活によって、罪の側から主イエスの側へと、つまり神に敵対する側(against)から神に連なる側(for)へと既に移されています。

 主イエス・キリストの名による救いは、エルサレムの律法学者たちに見られる民族主義や信じる者の特権意識の枠を遥かに超えて、すべての人に対する恵みとなって世界中に拡がります。私たちもその恵みを受けて、今、こうして最も尊いイエスの名によって集い、共に感謝の礼拝をする恵みに与っております。

 今日は、日頃それぞれの場で主の御名を讃えて礼拝する兄弟姉妹と共に、こうして共に礼拝する恵みを与えられたことを主なる神と皆さまに感謝申し上げます。

 主イエスの御名に生かされている者として、共にみ言葉とみ糧を受けて、「ハレルヤ、主と共に行きましょう」、「ハレルヤ、主の御名によって」と、感謝をもってそれぞれの生活の場へと遣わされていきましょう。

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2024年09月22日

最も小さい者と共にいるイエス  マルコによる福音書第9章30-37 

最も小さい者と共にいるイエス マルコによる福音書第9章30-37 (B年特定20)  2024.09.22


 私が神学生だった時、毎週「聖書内容試験」という小さな試験がありました。その試験で「次の言葉はいつ誰がどのような状況で言った言葉であるかを説明しなさい。」という形式での出題がありました。振り返ってみると、先生方は神学生たちに聖書を文脈を踏まえて読む事の大切さを教えようとしておられたのだと思います。

 そのような視点で、つまり脈絡を意識しながら、今日の聖書日課福音書の中で主イエスが弟子たちに語っている言葉に注目してみると、その言葉が大切な位置に置かれていることが分かってきます。

 マルコによる福音書第9章は、この福音書全体の節目(転換点)にあります。

 主イエスはこれまでガリラヤ地方を中心に神の国を宣べ伝え、神の子として多くの癒やしの働き、悪霊を追い出す働きなどの奇跡をなさいましたが、これからエルサレムに上っていこうとしておられます。その転換点に位置付けられるのがこの第9章です。

 転換点となる大切な出来事の一つは、第9章3節からの「主イエスの変容貌」の出来事であり、もう一つは第9章30節以下の「受難と復活を予告」なさったことです。

 更にマルコによる福音書の流れを第8章から見てみると、先主日の聖書日課福音書の箇所で、ペトロがイエスをメシア(救い主)であると信仰を言い表し、その告白を前提にして主イエスはご自分の受難による死と復活を予告なさいました。それに続いて第9章では主イエスの変容貌、そして第9章30節からの個所で主イエスがご自分の死と復活を再び予告しておられます。この一連の出来事の流れの中で、今日の聖書日課福音書の個所で、主イエスは弟子たちに天の国で最も偉い者とは最も小さい者の一人を受け入れる人であると教えておられるのです。

 主イエスがエルサレムに向かおうとする緊張感が高まってくる時に、弟子たちはまだその意味を理解できずに、自分なりの期待をイエスに寄せて胸を躍らせているその姿がはっきりと見えてきます。

 主イエスに付き纏うようにして監視する律法学者たちがいましたが、主イエスはこれまでそのような人々の質問にも完璧に答えてきたし論争にも負ける事はありませんでした。弟子たちはそのようなイエスを誇りに思っていたことでしょう。主イエスが受難と復活の予告をなさっても、弟子たちはその真意を理解できず、私たちの先生はエルサレムに上っていってもユダヤ教指導者たちとの論争に負けることなく、エルサレムで最高の教師になる日も近いと胸を躍らせていたことでしょう。弟子たちは「誰が一番偉いかと言い合っていた(9:34)」ことも、エルサレムに上っていったら誰が主イエスの側近の席が相応しいか、それぞれに「我こそはイエスの側近として上位に着くのに相応しい」と主張し合っていたということなのです。

 マルコによる福音書第9章では、主イエスと弟子たちとの間で、メシア(救い主)理解の大きな隔たりが示されています。

 そのような弟子たちに主イエスは「道で何を議論していたのか(9:30)。」とお尋ねになりますが、弟子たちは黙るしかありませんでした。弟子たちは自分たちの中にあった浮かれた思いを露わにされ、自分たちの思いや考えが主イエスの御心とは大きな隔たりがあることを教えられるのです。

 更に、マルコによる福音書第10章35節まで読み進めていくと、弟子のヤコブとヨハネが主イエスのところに進み出て、「あなたが天下を取ったら私たちをあなたの左右の座に着かせてください」と願い、それを知った他の弟子たちが憤慨したという記事があります。このように、弟子たちは主イエスに対してそれぞれが自分の期待や願いや欲望を寄せて、それが満たされることを求めているに過ぎず、受難と復活を告げる主イエスの事を全く理解できていませんでした。

 このような弟子たちを前にして、主イエスは座って十二弟子を呼び寄せておられます。主イエスがお座りになったのは、当時、ユダヤの教師が正式に教えを述べる時の姿勢です。ここで、主イエスが重要な事を弟子たちに教えようとしておられることが分かります。主イエスは、子どもの手を取り、彼らの真ん中に立たせ、その幼子を抱き寄せて言われました。

 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい(9:36)。」

 そして、その具体的な一例として、主イエスは一人の子どもを真ん中に立たせるのです。

 「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである(9:37)。」

 主イエスは、今、弟子たちの真ん中におられ、幼子を抱いておられます。弟子たちが主イエスに目を向けると、弟子たち主イエスと共にいる子どもが目に入ります。また、弟子たちが幼子に目を向けると、子どもと共におられる主イエスが自ずと弟子たちの目に入ります。主イエスと幼子は一体なのです。

 当時、幼い子は、現代の幼子のような扱いを受けていたわけではありません。現代では、幼子は純真無垢、汚れのない天使のようにも考えら、教育を受ける権利のある者と認められています。しかし、当時の幼子は、先ず第1に「無力」ということであり、まだ労働力として無価値な存在と考えられ、一日も早く大人の仕事を助ける働き手になることを求められる存在でした。

 しかし、主イエスは幼子を弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げて言いました。

 「私の名のためにこのような子どものひとりを受け入れる者は、私を受け入れるのである。」

 弱く小さな者を受け入れることは主イエスを受け入れることであり、主イエスを受け入れることは弱く小さな存在を受け入れることなのです。無力で小さな子どもを見れば同時にそこにおられる主イエスが目に入ります。また、主イエスを見ようとすれば、主イエスに抱かれた幼子も同時に目に入ります。しかも、無価値で働き手としては評価されない存在を受け入れることは、自分の中の弱く小さく醜い部分を受け入れることと深くつながっているのです。もし、自分の中の弱さ、小ささ、醜さを受け入れることが出来ないなら、他の人の中にある同じような弱さ、小ささ、醜さを見た時、やはりその人を受け入れることは難しいでしょう。そうであれば、どうしてそこからキリストの平和が生まれてくるでしょう。自分の中にある弱さ、小ささ、醜さ、貧しさが主イエスによって受け入れられ、たとえそのような私であっても主イエスに愛されていることを受け入れられる時、私たちは自分と同じように主イエスを通して神に愛され大切にされている弱く小さな存在を受け容れ、愛することが出来るようになり、その人と共におられる主イエスを見出すことが出来るようになるのです。自分の醜さや弱さを押し殺したり切り捨てたりしている人は、どうして他の人の弱さや醜さを受け入れそこに働く主イエスを見出すことが出来るでしょうか。

 このことは、今から2000年前の弟子たちに限った課題ではなく、いつの時代であっても人が主イエスに仕え主イエスに導かれようとする時に、主イエスから教えられることなのです。

 主イエスは最も小さい者と共におられ、最も小さく弱い者を通して働いておられます。私たちが弱く小さい人々に仕えることは主イエスに仕えることです。そうであれば、私たちが弱く小さな人々に仕えることは単なる義務や美徳なのではなく、私たちの救いに関わることなのです。

 主イエスは、無力で助けを必要としそれに恩返しすることなど出来ないような小さい存在を受け入れ、そのような存在に仕えることが主イエスにお仕えすることであると教えておられます。見返りなど全く期待できない弱く小さな存在に対しても、愛をもって仕えることが神の国を実現する道であることを主イエスは小さな子どもを抱き上げて示しました。そして主イエスは、その教えが真実である事をエルサレムでの十字架の死と復活を遂げることによって私たちにお示し下さったのです。

 エルサレムに向かう主イエスの歩みは、弟子たちが期待するような権力を手に入れる歩みではなく、弱く小さく貧しい人々に向かう歩みです。主イエスは権力や財力や政治力に拠ってではなく、弱く小さく貧しくなって神の御心を示してくださいました。

 私たちの弱さや小ささも、主イエスによって抱き上げられ受け容れられ、主イエスは「神に国はこのような者の国である」と言っておられます。その主イエスを信じて受け容れるとき、そこに天の国の姿が現れます。そして私たちが他の人の弱さや貧しさに出会う時、そこに働く主イエスにお仕えすることが出来るように育まれ導かれていきます。

 私たちの小ささ、弱さ、貧しさを知り、受け容れてくださり、愛の中に導いて下さる主イエスに従って参りましょう。

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2024年09月15日

「あなたは、メシアです」マルコによる福音書第8章27-38 

「あなたは、メシアです」     マルコによる福音書第8章27-38 (B年特定19)   2024.09.15


  今日の聖書日課福音書の初めの部分で、主イエスは弟子たちに二つの質問をしておられます。

 一つは、第8章27節の「人々はわたしのことを何者だと言っているか」、もう一つは第8章29節の「それではあなたがたはわたしを何者だというのか」という質問です。

 第一の質問に答えることは難しいことではありません。ただ情報として、周りの人々が主イエスのことを何と言っているかを答えれば済むことです。しかし、二つ目の質問に答えることには、少し大袈裟な表現になりますが、自分の存在をかけなければなりません。この二つ目の質問は、正しい知識や情報に基づく答を求められているのではなく、自分自身を開いて答えねばなりません。そして、その答によっては、誰か他の人が批判してきたり馬鹿にしてきたりすることもあるでしょう。自分自身をしっかりと表現することは意外と勇気のいることではないでしょうか。私たちも、自分の意見を述べる必要が生じた時、「みんなが言っていることですが・・・」とか「他の人たちも同じようにお考えのことと思いますが・・・」などとつい付け加えてしまうことがあるように思います。

 弟子たちは、主イエスから「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と正面から問いかけられたとき、きっと自分の存在を問われるような思いになり、緊張感が走ったのではないかと想像します。また、ペトロが「あなたは、メシアです」と答えた時も、ペトロの心の中にもその緊張感が一層高まったと想像されます。

 私たちも今日の聖書日課福音書を通して、主イエスから「それでは、あなたは私を何者だと言うのか」と問われています。この問いに私たちはどう答えるのでしょうか。

 私たちが主イエスのこの問いに答えようとするとき、主イエスが私たちを正面から見据えておられます。私たちは自分の内面を含めた態度や生き方を明らかにされるのだと言えます。

 ペトロもそうでした。ペトロは主イエスの問いに「あなたは、メシアです」と答えました。ペトロは、こう答えた時、きっと心の中が揺れたことでしょう。なぜなら、人の心の中には一言では言い表せない幾つもの思いがあるのです。思い切って自分の信仰を告白できた満足感もあれば、告白してしまった以上もう後には引けないという思いもあれば、そのように答えた自分の信仰は完璧なのだろうかという自分への問い返しもあれば、自分の応答をイエスはどのように受け止めておられるのだろうがという不安など、一瞬にしてペトロの心を駆け巡ったのではないでしょうか。

 ペトロだけでなく、人の心はそのように時に揺らぎ、また、固まったり致します。そうであれば、私たちは主イエスの前に本当に完全な信仰を告白することなど出来るのでしょうか。完璧な信仰を持てない者が、「信仰を告白して良いのか」とさえ思う人もいるかも知れません。

 もし、そうであれば、私たちは主イエスへの信仰を告白しない方が良いのでしょうか。また、ペトロはこの後主イエスがご自身の受難予告をなさったときにそれを受け入れられずに主イエスを諫め、そのことで厳しい言葉を受けています。また、主イエスが捕らえられる時にはイエスのことを見捨てて逃げたり、大祭司の館で問い詰められてイエスのことを「知らない」と言ってしまいます。そのようなペトロはこの時に「あなたはメシアです」と自分の信仰をいあらわさない方が良かったのでしょうか。

 決してそうではありません。

 ペトロも、私たちも、信仰を言い表すとは、主イエスと心の中で対話を重ねながら自分の本心を主イエスに向かって告白し続けていくことであり、主イエスと一層深く関わるプロセスを歩むことだと言えます。

 今日の聖書日課福音書の箇所でも、このようなペトロの信仰告白を受けて、主イエスが弟子たちにお話しになることは更に深いこと、大切なことへと進んでいきます。この時にペトロが「あなたは、メシアです」とハッキリと信仰告白したからこそ、主イエスは更深い大切なことを話すことへと進んでいきます。

 つまり、メシア(救い主)の本質は、今のペトロが理解している域を越えて、十字架につけられて死ぬことを通して与えられる復活にあると言うことを、主イエスはペトロに教えることができる状況になるのです。

 私たちも同じです。どれほど主イエスについての知識を増し加えて正しく論評しても、またキリスト教の文化や習慣に好感を持っても、私たちは最終的には「あなたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに自分をかけて答え、答え続ける事を求められているのです。

 この時ペトロは主イエスの問いに「あなたは、メシアです」と答えていますが、この時点でのペトロに信仰はとても完璧であったとは言えず、また主イエスを正しく理解していたわけではありませんでした。

 私たちが「あなたはメシアです」と答えられるとしたら、ここに表現されているペトロのように、完全でもなければ時には逃げ出してしまうようなどうしようもなく情けない私のことさえも見捨てず、愛し抜いてくださる主イエスに対してお答えするのです。主イエスは、神の御心に立ち戻るように私たちを見捨てず、招き続けてくださる救い主であり、私たちはその主イエスに対して「あなたはメシアです」と信仰告白をするのです。

 私たちが自分の信仰を言い表すのは、信仰が完璧になってからとか、イエスをもっとよく知ってからということによって可能になるのではなく、むしろ、私たちは、たとえ不完全であっても、日々その信仰を表明し続けることが大切であり、それによって、私たちはより深く信仰を練り上げていくことが出来るのでしょう。私たちはいつでも、その時、その場で、「あなたこそ救い主です」と答えながら主イエスに従っていくことを求められているのです。

 ペトロの信仰は、きっと、「時にはイエスを否定し、呪いの言葉まで吐いてしまった私のような者のために、主イエスは救いの道を開いてくださったのだ。私の告白する救い主は、人の弱さの中に共にいてくださり痛み苦しんでくださり、十字架の上に死んで復活してくださったのだ。この私にとってあなた以外に救い主は居られません。」と言う信仰へと練り上げられていったことでしょう。

 このように見てくると、漁師のペトロが召し出された時、主イエスに「私を何者だというのか」と問われた時、イエスのことなど知らないと言った時にイエスの眼差しを受けた時、復活のイエスに出会った時、聖霊降臨の時など、その時々にペトロの主イエスに対する信仰の告白があり、そのすべてのプロセスが主イエスがペトロを招き導いて下さる中にあったと言えるのです。

 私たちの信仰告白も、主イエスのすべてを理解してからその資格が与えられるとか、かつてまだ聖書の知識が不十分なうちに信仰を言い表したことは無駄だったということではなく、その時々に主イエスに対して「あなたは、メシアです」とお応えしていくことが大切なのです。

 ペトロの働きについては、使徒言行録の中にも記されていますが、晩年のペトロについて次のような逸話があります。

 晩年のペトロはローマにおける宣教の指導的な働きを担いました。時は紀元60年代半ばで、皇帝ネロによるクリスチャンの迫害が強まっていた頃です。表だった宣教の働きが困難になり、仲間たちはペトロにローマを出て迫害を逃れるように願い、ペトロもそれに応じて、ある朝早くローマを背にしてアッピア街道を歩きます。ペトロは一人の人がローマに向かって歩いて来る姿を見るのですが、その人が近づいてくるとそれは甦りのイエスだと分かりました。ペトロは甦りのイエスに声をかけます。「主よ、どこへ行かれるのですか(「クオバディス、ドミネ」)。」

 甦りの主イエスは答えます。「お前が迫害下のローマから逃れて私の民を捨てるなら、私はもう一度ローマへ行って十字架に架かろう。」

 ペトロは喜んでローマに戻り、捕らえられ、殺されることになりますが、処刑される前にペトロはこう言ったのです。

 「私はかつてイエス・キリストを裏切った者だから、イエス以上の苦しみを受けて当然だ。私は頭を下に足を上にした逆さ十字になって十字架につこう。」

 このように処刑されたペトロを記念して、殉教跡にサンピエトロ礼拝堂が建てられました。

 今日の聖書日課福音書の場面で、ペトロは一度きりの完璧な信仰告白をしたのではありません。ペトロは、弟子たちの代表的な役割をとり、主イエスの一番近くにおり、時に筋違いなことを言い、時に失敗して主イエスに叱られ、それでも主イエスに対する信仰を言い表しながら従っていった人であったと言えます。

 私たちもペトロの信仰告白に合わせて「あなたは、メシアです」と主イエスに応え、その時々に信仰を告白し、主イエスの導きの内に日々の歩みを進めて参りましょう。 日々の生活の中で、主イエスを救い主とする信仰を表明していくことへと導かれますように。

posted by 聖ルカ住人 at 16:26| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする