2023年11月29日

神さまに見守られて (愛恩便り2016年4月)

神さまに見守られて

 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる。(マタイによる福音書第2820節)

 新入園、進級おめでとうございます。

 この3月に愛恩幼稚園を卒園していった多くの子どもたちが、「たくさん遊んで、楽しかった」と言ってくれました。私は、園長として、その言葉をとても嬉しく思いました。

 小学生になると、文字の読み書きを覚えたり計算のし方を学んだりするようになりますが、そのような学びの根底には子どもの生きた経験がなくてはなりません。子どもの場合、その生きた経験を重ねるのが「遊び」であり、幼稚園生にとって「遊び」は大切なお仕事であり、生きることそのものという言うこともできるでしょう。

 私は、ことに幼少期の遊びの大切さを十分に踏まえつつ、その遊びが更に深まり発展するためには、保育者や保護者の「確かな眼差し」が必要であることを付け加えたいと思います。

 なぜなら、私たち人間は、心の内外に恐れや囚われがなく内的にも自由であるときに、より深く本当の自分を表現し、成長していくことができるからです。子どもたちが自分たちで自由に遊んでいるだけでも、遊びは深まり進展するものですが、そこに子どもを深く見つめる確かな眼差しがあるとき、子どもたちの遊びは深まり、発展していくのです。

 子どもたちがそのような確かな眼差しに守られて遊び、その遊びが展開していくことは、本人の心の表現にも関係してきます。子どもは遊びをとおして、自分を癒し、自分を教育し、より本当の自分を成長させていくことができます。

 私たち大人は、時に子どもたちにアドバイスをしたり、子どもたちを大きな危険から守ったり、また時には遊びに必要な道具をそろえたりして、子どもの遊びがより深く大きく進展するように環境を整えるのですが、大人の役割はそれだけではありません。私たち大人のもっと大切な役割は、子どもの存在を受け入れ、子どもに共感しながら、遊ぶ子どもたちを暖かな眼差しでしっかりと見ていてあげることなのです。

 そして、子どもたちばかりでなく私たち大人に対しても、私たちを越えたもっと大きく深く確かな眼差しが注がれていることを心に留めておきましょう。この眼差しは、愛の眼差しであり、私たちはこの眼差しを受けながら、隣人を自分のように愛することへと向かっていけるのです。

 新しい一年、新年度4月のスタートです。

 私は年度のはじめにあたり、園長として、子どもたちに「神さまが見ていてくださるから、みんな安心して楽しく遊びましょう。」と言いたいと思います。そして、私たち子育てに携わる大人が神から受ける愛の眼差しを自覚し、子どもたちに確かな眼差しを向けていきたいと思います。

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2023年11月27日

終わりの時に   マタイによる福音書25:31-46  降臨節前主日

終わりの時に   マタイによる福音書253146  降臨節前主日 2023.11.26

(2) 2023 年 11 月 26 日( A 年)降臨節前主日説教 小野寺司祭 - YouTube


 今日は、教会暦で年間最後の主日です。この主日に採りあげられている聖書日課は、旧約、使徒書、福音書ともに「終わりの時」についてであり、特に福音書は神が「全ての民を裁く時」の様子について記しています。

 「終わりの時」という事について、私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。

 今ここでの一瞬一瞬が過去のものになっていって再び戻らないのであれば、今ここに過ぎていくこの瞬間がいつも「終わりの時」であると考えられます。私たちは、目の前の一瞬一瞬を神に導かれ、「御国が来ますように」と祈る思いをもって生きていくとき、私たちはその積み重ねによって最終的に主なる神の御許に迎え入れられるのではないかと、私は思うのです。

 今日の聖書日課福音書は、マタイによる福音書253146節までの箇所が取り上げられていますが、その後の第26章に入ると、主イエスが十字架にお架かりになる記述に入ります。その意味で、今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスが弟子たちと群衆にに教えを述べた言葉が纏められている箇所であり、第23章から25章までの結びの言葉(まとめの言葉)を語っておられる箇所であると言えます。

 その箇所のまとめの言葉として、主イエスは次のように言っておられるのです。

 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

 またそれと対をなす言葉として45節でこう言っておられます。

 「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」

 羊飼いの導きに従う羊とその教えを聞こうとしない野生の山羊に例えられる人々のうち、裁きの座で左側に置かれた山羊に例えられている人々のことに目を向けてみましょう。

 彼らは44節で、「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、乾いたり、よその人であったり(旅をしたり)、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか」と言っています。この言葉の裏を返せば、彼らが「主よ、わたしたちは何時だってあなたにお仕えしてきたではありませんか」と言っているのです。山羊に例えられる人々は、自分はいつも、良いこと、正しいこと、神の御心に適うことをしてきたと思っているのです。しかし、それは律法の文言に照らして-とくに律法の細則である口伝律法に照らして-正しいことを行ってきたと言っているのです。

 彼らは、律法の言葉を正しく実行する自分を救われる者の側に置いて、それを行えない人々を見下し、自分は主なる神に認められようとしてきたのでしょう。それは、目の前にいる飢え乾いた人や宿のない人のことを、自分が正しいことを行いに表して、そのように出来ている自分を勝ち誇るための道具として飢えた人、渇いた人、旅人などを利用するような生き方だと言えます。

 彼らは、もし主なる神から「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」と言われれば、先ず自分の隣り人とは誰かを律法に照らして明らかにし、自分の隣人として愛すべきであると判断されればその人に関わることにして、その人が自分が律法を行う対象にする事が出来る人だから愛する、ということになるのです。しかしその対象外であれば、つまり徴税人や遊女をはじめ汚れた者とされる人たちに対しては、たとえ彼らが飢え渇き、旅に疲れ、裸や病気であったとしても、自分が善行を行う相手として相応しくないと決めつけて関わろうとはしない、ということなのです。彼らは、自分を高みに置くために他者を愛するのであり、愛する対象を限定し、自分の救いに役立つ相手である時にのみ、他人に関わっているのです。

 主イエスは、ご自分の目の前にいる人が、飢え、乾き、旅に疲れ、裸や病気であれば、その人が民族や血筋の飢えて愛するに相応しいかと考えるのではなく、先ず自分が痛むほどの憐れみをその人に寄せて関わってこられました。そして、主イエスが十字架に向かおうとしておられるこの時に、弟子たちに教え求めておられるのも、先ず目の前にいる隣人を自分を愛するように愛する心なのです。

 律法が愛せと言うからその範囲で自分を律法に当てはめて生きることは、神のお喜びになる生き方ではありません。主イエスは当時の律法で汚れた者とされて交わりを絶たれていた人々と交わりをもっておられますが、それば時に当時の律法の規定を犯して相手に関わる事にもなりました。主イエスはその事を口実に、ユダヤ教の指導者たちから律法を守らず神を侮辱する危険人物とされ、十字架の上に処刑されてしまうことになっていったのです。それでも主イエスは、目の前にいる飢えた人、乾いた人、旅に疲れた人、裸の人、病気の人などに関わりぬき、愛しぬき、その結果十字架に付けられ、その上からさえなお人々が神の御心に結ばれるように祈り続けてくださいました。

 主なる神は、この主イエスの愛が私たちにも向けられている事を信じ、主イエスを救い主であることを受け入れて信じる心をもって、自分が愛されているように隣人を愛することを私たちに求めておられるのです。

 自分が神に認められる事を真っ先に求めるのではなく、他の人に寄り添い、他の人を愛し、他の人に仕えるところにその人の救いがある事を、主イエスは「教え」の最後の言葉としておられます。

 私たちは、こうした教えを自分の力で全う出来る者ではありません。しかし神はそのような私たちのことを、赦し、愛していてくださっています。私たちはその愛によって生かされている喜びと感謝を受け入れることが出来る時、私たちは他の人々もまた神の赦しと愛を必要としていることを知り、神の愛がその人たちにももたらされるように祈らないわけにはいかなくなるのです。そして、貧しい人々や弱い人々に対しても、その人々に神の愛が届くようにと関わらざるを得ないのです。

 このような主イエスの生き方と教えは、イスラエル民族が神との契約である律法を守る事ことで救いに導かれると教えたユダヤ教の枠組みを越えて、世界の人々に救いと平和を与える教えとして広がってきたのです。

 もし私たちが自分が救われる事だけを考えて他の人々を善い行いをする道具のように見なすとき、それは主イエスの目から見れば、私たちは羊飼いの前で左に分けられた山羊のような存在でしかないと言えます。私たちが、自分が利益や業績を上げるためにでなはく、自分が優越感を持つためでもなく、目の前の人に関わり仕えようとする歩みを踏み出していく時、私たちは神の御心に相応しく養われ、育てられていくのではないでしょうか。そのように生きる私たちを、主なる神は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言って、祝してくださるでしょう。

 私たちは、神から「さあ、天地創造の時からあなたたちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言っていただく日を望みつつ、主イエスを通して与えられた神の愛に応えて、日々主の働きへと歩んで参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 10:59| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月20日

賜物(タラントン)を活かす  マタイによる福音書25:14-15、19-29 (A年特定27)

賜物(タラントン)を活かす  マタイによる福音書2514-1519-29  (A年特定27)    2023.11.19


 最近は、テレビなどに出演する人がタレントと呼ばれる時代になりました。タレントとは元々特別な能力、才能を意味する言葉であり、その語源をたずねれば今日の福音書に出てくるタラントンというお金の重量に発した単位にさかのぼります。

 神からプレゼントされた自分の内なる財産である色々な才能も、また外なる財産である金銭や証券また不動産も、もともとは神から与えられたものです。そのタラントンや資源を神がお創りになったこの世界をよりよい状態に管理することが神の似姿に創られた人間の働きの根拠であり、タラントンは独りで抱え込むものではなく、神の御業と栄光のために用いるべきものなのです。神がこの世界はどのような姿であることを願っておられるのかを考えて、この世界に神の御心が実現することを願って用いられてこそ初めてそのタレントは本来の意味を持ち役立つことになります。

 今の日本の状況を振り返ってみると、所得の高さや所有する財産の大きさであたかもその人間の価値まで決まるかのような感が強まっているように思います。こうしたことを念頭に置きつつ、今日の聖書日課福音書から導きを受けたいと思います。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが天の国についてお話しになった例えです。この箇所では、主人が長い旅に出かける時に、自分の僕たちにそれぞれの力に応じてタラントンを預けました。1タラントンは6000デナリオンであり、一年365日のうちの安息日52日を除くと、年間の労賃はほぼ300デナリオンということになります。一年間に300デナリオンの賃金を得るとすれば、1タラントンは6千デナリオンですから、おおざっぱに計算して1タラントンは約20年分の労賃の額であると言うことになります。

 ある主人が自分の財産を僕たちに預けて旅に出ました。僕はその力に応じて、ある者は5タラントン、ある者は2タラントン、ある者は1タラントン預けられました。かなりの日数が経って主人が戻ってきました。主人は僕たちを集めて「さあ、私が預けたタラントンをあなた方はどのように用いたのか、見せて貰おう。清算をしよう。」と言いました。

 5タラントンを預かった僕は、その5タラントンを元手に5タラントンを儲けて主人の前に10タラントンを差し出しました。2タラントン預かった僕も、その2タラントンを元手に2タラントンを儲けて4タラントンを差し出しました。主人はこの僕たちに「忠実な良い僕だ。お前は少しのものに忠実であったから多くのものを管理させよう。私と一緒に喜んでくれ。」と言いました。

 先ほどタラントンの価値について考えてみましたが、主人は5タラントンや2タラントンを「少しのもの」と言っています。これほど多額なタラントンを主人が「少しのもの」と言うのには、神がお与えくださる恵みそのものがいかに大きいかと言う福音記者マタイの思いが反映しているように思えます。このタラントンは、僕たちにとって、単に主人がいない間の生活費が与えられたのではなく、主人の良き働き人としてこのタラントンを生かすための資産を与えられた事を意味しているのです。

 1タラントン預かっていた僕は「ご主人様、あなたは厳しい人ですから、私は預かったタラントンをそのまま土の中に埋めて隠しておきました。これがそのお金です。そっくりそのままお返しします。」と言って1タラントンをそのまま主人に差し出しました。すると、主人は、「お前は怠け者の悪い僕だ。それならその1タラントンを取り上げて10タラントン持っている者に与えよう。」と言ったのでした。

 私たちは、神からそれぞれに生まれながら他の人とは取り替えることの出来ない特別なタラントン(才能、能力)を与えられています。そのタラントンは、お金や宝石ようにそのまま保管できるものではなく、「可能性」として与えられています。そのタラントンをどのように育て生かすかによって、タラントンは神の国の働きに役立つことにもなれば、ただ自分勝手な欲望を満たす道具にもなります。主イエスが弟子たちに語ったこの「タラントンの例え」は、生まれながらに与えられた自分の才能を生かして用いることを勧める例え話ではなく、神からそれぞれに与えられた恵みを感謝し、その恵みを神にお捧げすることによって天の国の姿を示すことを教えた例え話であると言えます。

 この恵みは神によって、時には人の目から見て不都合と思われることをとおしてさえ、豊かに働きます。

 二つの例を挙げてみようと思います。

 その一例として私が直ぐに思い出すのが目の見えない人が目の見える人を助けるボランティア活動のことです。

 イギリスの首都ロンドンは「霧の都」とも呼ばれ、町がしばしば濃い霧に包まれることで有名です。時には伸ばした自分の手の先が見えないほどの霧に町全体が包まれることもあります。劇場やホールでの音楽会などに人々が集まり、3時間ほどの会が終わると夜の町は冷えて濃い霧に包まれていることがあります。伸ばした自分の手さえ見えない程の霧に包まれて、人々が会場から出られなくなる時に、目の不自由な方がボランティアで活躍する例があります。普段は見えているはずの人が霧の濃い夜の町では一歩も歩くことが出来ないのですが、目の不自由な人がいわゆる健常者を自分の肩につかまらせて地下鉄の乗り場まで案内するのです。

 もう一つの例は、先日逝去されたSさんのことです。この方は、60歳になる前に脳出血で半身不随になりました。厳しいリハビリを経て職場に復帰され、健康な人であれば20分かからない通勤を片道2時間かけて勤めて社会貢献されました。Sさんのお連れ合いはSさんを「努力の人」と表現しておられ、私はその方の葬送式の説教の中でSさんの努力について次のように話しました。

 「努力すること」とは、聖書の脈絡に落とし込んで言い換えれば、「神から与えられた自分の命の賜物(神からプレゼントされた自分の命の可能性、潜在的な能力)を育み、目に見える姿にして、命の与え主である神にお応えすることである」と言えます。

 このような事例から考えてみると、神のお与えになるタラントンは多様であり、決して経済性や合理性などの一つの判断軸でタラントンを序列化して評価してはいけないことが分かるのです。そして私たちは、全てのタラントンが神の望んでおられる世界を実現するために用いられるように、招かれ、召し出され、遣わされていく者であることが分かります。

 私たちは、主なる神によって命を与えられこの世に生かされている事そのものが、神からの賜物(プレゼント)である事を確認しましょう。もし、神から与えられたその賜物を用いず、生かせず、不平や不満の中でそのタラントンを埋めてしまうとしたら、それは主なる神の目から見て、大きな損失であり、「天の国」からは離れた姿であると言えるのです。

 一人ひとりの命が神の前に輝き、人々にそれぞれに与えられているタラントンが生かされ、神の平和をつくりだす働きへと用いられるように祈り求め、お互いのタラントンが輝き出すように仕え合う教会共同体を創る思いと希望を新たにしたいと思います。

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2023年11月16日

御国(みくに)が来ますように (愛恩便り 2016年3月)

御国(みくに)が来ますように

 「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイによる福音書第6章10節)

                                                  

 教会で古くから伝えられてきた祈りに「主の祈り」があります。イエスさまが弟子たちに教えた祈りとされ、今では世界中の言葉に訳されています。私たちはこの祈りを日本語で唱えていますが、この祈りは、キリスト教が世界に拡がっていく中で二千年にわたって唱えられてきた祈りであり、「世界を包む祈り」とも言われています。

 この「主の祈り」の中に「御国が来ますように」という言葉があります。私たちの生きているこの世界に「御国(天の国)」が来るとは、どこか特別の地域を区切ってそこが神の領土であると宣言するようなことではなく、私たちが生活している直中に「そこには確かに神が共にいてくださる」という姿が現れ出ることであり、神さまの意思、お考え、願いがそこに現れ出るということなのです。

 そうであれば、私たちが「御国が来ますように」と祈ることは、私たちがただじっとしているうちに理想の世界を神さまが創り上げてくださいと願うことではなく、神さまの願いを実現するために私たちを生かしてくださいますようにと願うことであることが分かるでしょう。

 愛恩幼稚園では、日々「主の祈り」を唱えています。子どもたちがこの言葉の意味を理解するには、まだまだ時間がかかるでしょう。でも、イエスさまは、子どもたちを抱き上げて、「神の国はこのような者たちのものである」と教えました。子どもたちは、理屈ではなく存在で「御国」の姿を表しています。私は、「主の祈り」を日々祈りながら過ごしてきた子どもたちがますます大きく育ち、神さまの願う世界をこの世に実現するための働き人になって欲しいと思います。それは、大袈裟なことではなく、自分の家族や友人を愛することや自分の仕事を通して社会や隣人のために尽くすことなどを含め、一見平凡でありながらも地道に神さまの御心を行うところから開かれてくることであるように思います。

 神さまに向けて祈る愛の心と、自分の隣り人を大切にする愛の心は、十字架の縦の棒と横の棒に例えられ、この両者がしっかりと組み合わされて十字架は成立します。

 3月です。「御国が来ますように」と心から祈り、子どもたちが御国の実現のために働く人に大きく羽ばたくことを夢見ながら、私たちも子どもたちと共に育っていきたいと思います。

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2023年11月14日

信頼すること、信頼されること (愛恩便り 2016年2月)

信頼すること、信頼されること

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書第20章29節)


 上記の言葉は主イエスが、甦りを信じられない弟子トマスに現れて、告げた言葉です。最初に他の弟子たちが復活した主イエスに出会った時、トマスはその場にいませんでした。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。その後トマスも他の弟子たちと一緒にいる時に、甦りの主イエスに出会うことができました。その時、イエスはトマスに上記の言葉を告げたのです。

 この言葉は、「信じる」ということの大切さを教えています。わたしは、「信じる」といことは子育ての中でもとても大切なことだと思います。

 かつて、わたしは次のような事例に出会いました。

 ある園児が登園しても落ち着かず、自分の家のことや母親のことをしきりに気にして、そわそわして家に帰りたがっています。次第に明らかになってきたのは、両親が子どもの前で激しい口論をして、母親はそのたびに実家に戻ってしまうということでした。子どもは小さな胸を痛め不安になっているようでした。子どもにすれば、母親を自分の眼で確認していないと、「またわたしを置いて、どこかへ行ってしまうのではないか。今度はもう戻ってこないのではないか。」と不安になり、いてもたってもいられなかったのでしょう。

これは、人間関係の中で、ことに幼い子どもと大人の間で、信頼関係がしっかり保たれることの大切さを思わされる事例です。わたしたち大人が、いつも子どもに信頼されるに足る存在になっていることがいかに大切であるかを学ぶことができるでしょう。

 「信じる」とは、現状を見ないでありもしないことを思い込むことではありません。「信じる」とは、目で見て確認しなくても本当のことや正しいことに基づいて、そこにしっかりと立てると言うことです。

 ある心理学者は、人が精神的に発達していく上で最初の課題となるのが「基本的信頼関係」を築くことであると言いました。人の成長には信じ合える関係が必要なのです。落ち着いた暖かい関係の中で、大人が子どもの存在を認め、受け入れ、支えていくところに、自分を信じ身近な他者を信じる力が生まれます。自分が自分であることに自信を持ち、その自分をしっかりと相手に関わらせていくベースには、「信じる」ことが必要不可欠なのです。

 そうであれば、私たちは、「子どもが信じる対象として自分はふさわしいか」と謙虚に自分に問い返し、そうなれるように努めることが求められます。

 わたしたちは、子どもの信頼の対象として全てのことが完璧ではありません。でも、まず神がそのようなわたしたちをも愛し、赦し、信頼してくださっていることを心に留めたいと思います。わたしたちも神に信頼されていることを基盤として子どもたちに関わり、信頼される大人となれるよう努めて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 19:24| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする