2022年08月22日

狭い戸口   ルカによる福音書13:22-30   聖霊降臨後第11主日(特定16)

狭い戸口より ルカによる福音書13:22-30   聖霊降臨後第11主日(特定16)  2022.08.21                    

 はじめに、今日の聖書日課の福音書から、ルカによる福音書13章24節の御言葉をもう一度読んでみましょう。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
 ここで主イエスさまが言っておられる「狭い戸口」ということについて考えてみましょう。聖書新共同訳で「狭い戸口」と訳されている言葉は、他の訳によれば「狭い門」という言葉も用いられています。この言葉は、今の日本では、主イエスさまが用いた意味で用いられることは殆ど無く、例えば入試シーズンに「某大学は、志願者が募集定員の10倍を超える狭き門となっています。」などと言う用い方がされています。この用い方での「狭い門」という言葉の意味は、希望者は沢山いるけれどもその念願が叶う人は少ないということです。でも主イエスさまが「狭い門(狭い戸口)」と言っておられるのはそのような意味ではありません。
 聖書の中にある他の個所にも「門(戸口)」という言葉が出てきますが、主イエスさまがご自身を「わたしは門である」と言っておられる個所を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。ヨハネによる福音書10章9節で主イエスさまはこう言っておられます。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
 今日の福音書の中で「戸口」と訳されている言葉やヨハネによる福音書の中で主イエスが「わたしは門である」と言っておられる「門」という言葉は、どちらも同じ”θμρα”という言葉が用いられています。主イエスが「狭い戸口より入るように努めなさい」と言っておられたり「わたしは門である(羊の門である)」と言っておられることを考え合わせてみると、この言葉は、多くの日本人が用いている「狭き門」とは、全く違う意味であることことが分かってくるのです。
 主イエスがこの箇所で言っておられる「門」は、多くの人にとっては見つけにくくまたそこに救いがあるとは分かり難い門のようです。もしその門の先に誰にでも分かるように実際的な利益が約束されているなら、人々は先を争ってその門から入ろうとして、その結果、その実際的な利益を得られる確率は低くなるでしょう。でも、主イエスの言っておられる「狭い戸口」とはそのような意味のことではありません。
 今日の福音書の個所の前後関係をみてみると、主イエスのこの言葉は、ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたことに答えている中での御言葉です。このように「救われる人は少ないのか」と問う人は、この言葉がどのような背景から出てくるのでしょう。きっと主イエスが十字架の上に御自分の命を投げ出すほどにして示してくださった救いを自分に与えられた恵みとして受け入れる人が如何に少ないのかを感じている人であろうと想像できます。
 でも、主イエスの御言葉と御業を受け入れる人が沢山いるからそれが真理なのではないし、また逆に主イエスが世の人々に受け入れられなかったとしたらそこに真理はないのかと言えばそれも違います。私たちも、自分の信仰を持つようになったのは、主イエスの御言葉と行いが他ならぬ自分にとってそれが救いであり導きであると信じたからではないでしょうか。他の大勢の人が信じているからそこに真理があるのではなく、多くの人が見過ごたり見向きもしないことさえある主イエスの中にこそ救いに至る道があると、今日の福音書は伝えているのです。
 キリスト教が歴史を越えて真理を示し続けてきたのは、主イエスの教えや行いがはじめから多くの人に受け入れらて支持されて来たからではありませんでした。主イエスご自身がユダヤ教の指導者たちに迫害されて十字架刑に処せられたとおり、キリスト教の歴史はその母体であったユダヤ教によって迫害され弾圧されることから始まりました。そこに救いに至る門があると気づき、信じた人はごく僅かでした。
 その当時、人びとはローマ皇帝を神として礼拝の対象としていました。その中で、主イエスを救い主とする人びとは、ギリシャ・ローマ世界を中心に約三百年にわたってイエスを救い主であると告白する人を迫害し、「体制に順応することを拒む者」という烙印を押されたのでした。それでも少しずつ受け入れられ、キリスト者はその数を増し、支持されるようになっていったのです。その当時の信仰者が主イエスの「狭い戸口から入るように努めなさい」という御言葉をどのような思いで受け止めていたのか思い巡らせてみましょう。
 やがてキリスト教は、紀元313年にローマ皇帝によって容認され、紀元393年にはローマの国教となりました。それは、ローマ皇帝の支配下にある者は自分の信仰をしっかりと吟味すること無しにキリスト者であるようにされていったのです。それは当時のキリスト教がある意味での勝利を得たことではありましたが、私たちは当時の信仰者がどのような思いで「狭い戸口から入るように努めなさい」という御言葉を受け止めていたのかについても思い巡らせてみる必要があるでしょう。私たちは迫害下のキリスト教と国教となったキリスト教の対比によって、厳しく辛い状況の中で人びとに救いを与える門である主イエスのお姿をはっきりと理解することが出来るようになるのではないでしょうか。
 今日の福音書は、主イエスがエルサレムに向かって進んでおられる文脈に位置付けられています。エルサレムはイスラエルの民の一番の中心地です。このエルサレムの神殿には当時の政治的・宗教的な権力者、指導者がいました。また彼らの傘下には大勢の学者も祭司たちもいました。彼らは「自分こそ救われている」「自分たちこそ神に選ばれた者」として自分を誇っていました。そして、「あなたは清められている」「あなたは罪を償うための供え物を献げなさい」と、あたかも神の代理者のように人々を支配していました。このような人々は、神の名を持ち出しては自分を救われる者の側に置いて、弱い立場の人や貧しい人々を裁き、弱く貧しい人々の悲しみや痛みなどには、指一本貸そうとしませんでした。ユダヤ教指導者たちのこのような態度にも明らかなように、人は、先ず自分が助かる事や自分が誰よりも幸福になることや自分が真っ先に癒されることを考えます。そして自分のことしか考えられない結果、他の人を出し抜いたり、だましたり、操作したりすることが始まるのです。そのような世界は、たとえどれほど聖書の言葉が使われ神の掟が守られているようであったとしても、神に愛され生かされている喜びがありません。そして主イエスによって示されている狭い戸口を閉ざしてしまうのです。
 主イエスはご自身を神の国への戸口としてお示しになり、この狭い戸口から入るように「努めなさい」と言われます。ここで用いられている「努める」という言葉は、スポーツ選手が勝利を得るために自分自身を鍛える努力を意味する言葉です。そうであれば、狭い戸口から入るための努力は、主イエスを深く知り主イエスに従っていくために自分自身を主イエスに方向付ける努力だと言うことになります。そして他の人を押し退けたり蹴落としたりした結果の勝者がこの狭い戸口を通れるのではなく、信仰による祈りと賛美のうちにこの戸口を通る事へと導かれることが分かるのです。
 聖書を通して主イエスの御心を学び、主イエスの心に触れ、祈りと賛美を通して私たちも御国へと導かれる恵みを戴くことへと歩んでまいりましょう。
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2022年08月15日

終戦記念日に当たり 2022年8月15日

2022年8月15日
終戦記念日に当たり 脇芽のヒマワリの花のことなど
 終戦記念日です。今年は、昨日まで4つの主日の礼拝祭壇花として、庭に咲いたヒマワリを用いることが出来ました。
 初夏の頃、数種混合の種を蒔いたのですが、その中から育った数本は脇芽が良く出る種類で、主幹のてっぺんだけでなく、脇芽から、またその脇芽からと、例えて言えば子どもヒマワリ、孫ヒマワリ、ひ孫ヒマワリが咲きました。花はそろそろ終わりなのですが、玄孫ヒマワリまでは頑張ってくれることを期待しています。
 今もロシア軍のウクライナ侵攻が続いており、両国の兵士やウクライナ民間人の沢山の尊い命が奪われています。かつてウクライナを舞台にした「ひまわり」という映画を観ました。その時の気持ちが今年の夏のヒマワリを見る思いと重なってきます。
 ヒマワリや麦を与えてくれる豊かな大地が人間の愚かさの故に損なわれています。
 ウクライナで沢山のヒマワリが平和の証しとして咲く日を思い、祈ります。

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イエスの投じる火  ルカによる福音書12:49-56

イエスの投じる火  ルカによる福音書12:49-56  聖霊降臨後第10主日(特定15)  2022.8.14
 
 今、私たちは今日の聖書日課福音書から次のような御言葉を聴きました。
 ルカによる福音書第12章49節の言葉です。
 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」
 また12章51節には次のような言葉がありました。
 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たの思うのか。そうではない。言っておくがむしろ分裂だ。」
 私たちは、聖書の中にこのようなことばがあるのを知ると、心が揺さぶられる思いになります。とりわけ日本人は、相手を配慮して自分の意見をはっきり言わないことが美徳とされ、そのことを前提にして平穏無事を保ってきた一面があります。そのような私たちが、今思い起こした御言葉に出会うと、ある種の抵抗を覚える人も多いのではないでしょうか。
 でも、もし私たちが維持しようとする平穏無事の奥に不平や不満があったり、苦しんでいる人がいるとすれば、その表面的な平穏無事は決して健康な状況であるとは言えないでしょう。
 主イエスの御言葉は表面的な平穏無事を保つ働きをするのではなく、むしろそこにある矛盾や問題をえぐり出すように働きかけてくるのではないでしょうか。その意味で、主イエスの御言葉は私たちに火を投げ込み、見せかけの平穏無事の奥にある分裂をえぐり出してその問題点をはっきりさせる働きをすることを、私たちは今日の福音書の御言葉から学びたいと思うのです。
 いつの時代にも正義と平和や人権について語ることやその実現に努める人のことを歓迎するのかと言えば、必ずしもそうではありません。この世界の歴史を振り返ってみれば分かるとおり、人種差別の撤廃や不平等の解消に努めた多くの人が権力者から命を奪われてきました。旧約聖書の多くの預言者たちや福音書に描かれた洗礼者ヨハネもそのような弾圧を受けた人であり、主イエスもその例外ではありませんでした。
 主イエスは当時のイスラエルの状況の中で、愛を説き、身をもって愛を示してお働きになりましたが、それを嫌ったユダヤ教指導者たちの弾圧を受け、エルサレムでリンチ同然に十字架刑によって殺されたのでした。ユダヤ教の指導者たちは、神殿での宗教的な権力を握っていただけではなく、政治的にも経済的にも自分たちの利益を守り保身を計っていました。その権力に逆らう者や反対する者は迫害され抑圧され、またその枠からはじき出された人びとは少しも顧みられずに、当時の世界から捨てられていったのです。聖書の中では、特に徴税人や罪人たち、重い皮膚病を患った人びと、遊女や羊飼いなどはユダヤ教指導者たちから嫌われ、指導者たちはそのような人びとをユダヤ教社会の一致と団結を乱す落ちこぼれ者として扱っていたのでした。
 主イエスはこのようなユダヤ社会の中で、神の愛を説き、またご自身も罪人の一人に数えられるほどになりながら、貧しくされた人々の人間性の回復に努めました。その教えと行いは、まさに当時の社会に「火を投げ込む」働きであり、当時の人々の間に「分裂をもたらす」ことになったのです。
 主イエスは、神の救いは貧しく弱い人にこそ用意されており、今飢え乾き泣いている人びとこそ神の救いを受けるべき幸いな人であると教えました。そのように説き、貧しく弱くされた人びとに関わる主イエスの愛は、愛無き人びとにとっては火を投じられることになり、本物の愛と贋物の愛を選り分ける鋭い剣になります。主イエスのお働きが小さな人びとに受け入れられ彼らが本当の自分を取り戻して生きるようになればなるほど、主イエスの言葉と行いは権力者たちにとって厳しく挑戦的になります。そして主イエスはその動きを押さえ込もうとする権力者によって迫害されることになっていきました。不正がはびこる世界では、神の正しさを示そうとすればするほど、不正な者は自分に迫ってくる正義を潰そうとするのです。
 ですから、私たちは表面上の平穏無事がどんな力によってもたらされているのか、そしてその場にいる人びとがどんな感情やムードに支配されているのかについて、賢く見極めていかなくてはなりません。そして主イエスの火を投じていただき、見かけ倒しの平和や繁栄を見直し、私たちは本当の神の御心と結びついた世界に生きることが出来るように生まれ変わっていかなくてはなりません。
 私たちは、主イエスによって導かれて生きています。私たちは日々の生活の中で、主イエスの御言葉を聴き、主イエスの御体と血による養いを受けるのです。そのような私たちは、今日の御言葉をどのように迎えるのでしょうか。その場その場を波風立てないように、あるいは聞かなかったことにして、やり過ごして生きるのでしょうか。他の人との意見やその表現の違いを明確にすることを避けて、信仰に基づいて生きる自分を押さえ込んで、いつの間にか信仰さえ風化させてしまうことが無いようにしなければなりません。
 主イエスの御言葉は愛に基づくものであり、その御言葉は時には私たちを慰め励まし力付けてくださいます。しかし同じ御言葉が私たちに火となって投げ込まれ、分裂をもたらす働きもすることも、私たちはよく知っておかなくてはなりません。
 主イエスが「火を投げ込む」「分裂をもたらす」と言っておられるのは、ただ破壊的なことをすることではありません。主イエスによってこの世界に火が投げ込まれたり分裂がもたらされるとすれば、この世界に本当の愛と平和に抵抗して自分にだけ利益をもたらし自分だけがよい思いをすれば良いという罪が未だに根強く存在するからなのではないでしょうか。
 私たちも、主イエスの御言葉に導かれ養われて、愛と平和の働きを担おうとすれば、私たちの働きが時には火を投じたり対立や分裂を明らかにするきっかけになったりすることもあるかもしれません。しかし、それを恐れてその場を凌ごうとするだけであれば、神の御国は遠のいてしまいます。神の愛は、この世界に御心を行おうとする私たちにも火となって働き、神の御心の実現のために私たちを力付け、私たちをこの世界に派遣してくださいます。
 私たちが、互いに理解し合い、意見の違いや対立の先にある解決方法を求めるなら、神は私たちの思いを越えた道を用意して下さるでしょう。
 主イエスが投げ込む火は、決して単なる破壊のための火ではありません。それは十字架の愛に根ざした火であり、不義や罪を照らし出してそれを燃やし尽くして働きます。その火がこの世の付和雷同の一体感を焼いて、主の愛にもとづく深い一致と調和へと導かれるのです。
 私たちが主イエスのお働きを担おうとすれば、それに伴う苦難を負うことも増え、場合によっては迫害を受けることさえあるかもしれません。主なる神の御心を行う器となって真剣に生きることは、かえって辛く苦しい思いを自分に呼び込むことにもなるでしょう。
 しかし、今日の使徒書ヘブライ人への手紙によれば、そのような働きは主のなさる鍛錬なのです。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆鞭打たれる」と記しています。もし私たちが神の本当の子であれば、本当の父である神は私たちを鍛錬し、この世に御心を示す働き手として育ててくださいます。
 ヘブライ人への手紙代12章10節にはこう記されています。「霊の父は、わたしたちの益となるように、御自分の神性にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです。」
 主イエスは「火を投げ込む」と言われました。それも私たちにとっては「鍛錬」かもしれません。私たちは、その火によって罪や悪があぶりだされて、その先に本当の平和と愛へと導かれます。私たちはその中で主なる神に鍛えられる過程を主に導かれながら歩んでいます。
 特に8月の今の時期は、第二次世界大戦の終戦を覚え、平和への思いを新たにする時です。私たちは、主イエスから真理と愛の火を投げ込まれることについて、特別に大切な意味があることを覚えたいと思います。主イエスの投げ込んでくださる火によって私たちの罪が焼き尽くされ、一人ひとりの信仰がなお鍛錬され生かされることへと導かれて参りましょう。
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2022年08月07日

目を覚ましている僕  ルカによる福音書12:32-40   聖霊降臨後第10主日(特定14)  2022.08.07

目を覚ましている僕 ルカによる福音書12:32-40   聖霊降臨後第10主日(特定14)  2022.08.07
 
 今日の聖書日課福音書の、特に後半では、目を覚ましていて用意をしている僕のことがテーマになっています。
 ルカによる福音書第12章37,38節には「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」という言葉があります。ここで用いられている「目を覚ましている」という言葉の原語(グレーゴレオー)は、「覚醒している」「油断せず注意を払う」という意味であり、主なる神の御心を、或いは主イエスのことをいつも意識していることを意味していると言えるでしょう。主イエスが、いつも私たちと共にいてくださり、御心に沿った生き方へと導いていてくださっていることを忘れず、自分に与えられている目の前の課題に、主なる神の願っておられる姿が現れ出るように、お応えしながら生きることを心がけていることが「目を覚ましている」ことです。
 わたしたち日本人は、しばしば「真理より場の倫理」に支配されていると指摘されています。それは、本当に正しいことに照らして絶えず真理に導かれて神の願う姿を表そうとするより、自分の置かれたその場その場に自分を合わせて、目先の場が波風が立たないように、丸く収める態度であり、この態度は時に善悪の判断を失い、その場その場のご都合主義を生み出し、人を無責任にします。そのような態度は、何が本当に大切なのかを曖昧にして真理に目を背け、いつの間にか大きな悪の力に縛られていることにも繋がることさえ自覚できなくなってしまう可能性もあるのです。
 例えば近代の日本に於いても、一億玉砕とか一億総懺悔などという言葉が用いられて、何が本質的な問題なのかを振り返らずに、「みんながそうなのだから形を揃えておけば安心」というような態度で事態をやり過ごそうとした歴史的経験があります。そして、気が付けばまた同じ轍を踏むような道を歩いているのに、その危機感も持たないようになり、それは裏を返せば、一億総無責任的な体質を造り上げてきているように思います。
 主イエスは、ヨハネによる福音書第8章32節で「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。私たちは、今日の福音書を通して、主の御言葉に向かっていつも目を覚まし、本当の自由であることの大切さを学ぶことが求められています。ことに私たちの生きている時代は、主イエスが真理とは何かを十字架の死と復活によって示して下さった後の時代、つまり新約の時代です。主イエスは、天に昇って行かれる時に、もう一度この世に来ることを約束してくださいました。主イエスがもう一度この世に来て下さる時に、私たちは主イエスと共に天に用意されている食卓を囲むことが約束されているのです。
 私たちが主イエスをお迎えするときに、本来であれば私たちは主イエスに自分の主人として迎えてお仕えしなければならないはずです。しかし、37節にあるとおり、私たちの主人である主イエスは自ら帯を締めて給仕役となり、僕である私たちを席に着かせてもてなしてくださるというのです。
 主イエスは、私たち小さな群れに、恐れることなく、油断せず生きるように教えておられます。私たちは、目を覚まして、神の御心を求め、神の御心を自分の中心に据えて生きることを絶えず思い起こしていたいと思います。
 主イエスがこの世の生涯をお過ごしになった頃、イスラエルは救い主(メシア)の訪れを待ち望んでいました。
 指導者たちは、律法の言葉通りに生きることでメシアに受け容れられると考えていました。あたかも救いは自分の手の内にあるかのように振る舞い、律法を守ることの出来ない人々を蔑み、その人々は救いに与ることの出来ない「地の民」であるとレッテルを貼りました。そして、指導者層の人々は目を覚まして熱心に祈り求めることを怠り、やがて形式的に律法の文言を守ることに拘るようになりました。その人々の意識は権力を求めたり金銭を増やすことばかりを求めることへと移りはじめ、次第にそのために他人を利用し、支配して、そのやり方はやがて横暴を極めるほどになっていきます。やがてそのような世界に主イエスはそっと来られて、貧しく弱く小さな人びとと共に生きて、癒し、慰め、生きる力をお与えになる働きを始めたのでした。主イエスは、貧しい人や弱く小さくされた人びとの中におられ、権力者や裕福な人びとに小さな人々に仕えるように促します。しかし、権力者たちはそのイエスを嫌い、煩わしく思い、しかもそれが救い主(メシア)だとは気付かないまま、主イエスを神に逆らう者であるとして、処刑してしまうのです。
 四福音書には、人が神に対して目を覚ましていられなくなった時に、救い主イエスを十字架に追いやる罪の有様が表現されています。
 この話は決して他人事ではなく、私たち皆が真理に目を覚まし、我が事として受け止めなければならない問題です。私たちは、今日の聖書日課福音書から、毎日の生活が信仰に根ざして目を覚まし、神の御心に応えようとしているかどうかを問い返すための促しを受けているのです。
 特に今日の福音書の個所で私たちが注目したいのは、37節の内容です。
 37節で主イエスは、「主人か帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めてこの僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」と言っておられます。
 先ほども触れましたが、目を覚ましている人たちに迎え入れられた主人はどうするのかに着目してみましょう。主人であれば、自分が戻ってくれば、僕たちに足を洗わせたり食事の支度をさせたり、また給仕をさせて当然なのです。ところが、この主人は自ら帯を締めて、つまり働くために裾をたくし上げて帯で結び、僕であるはずも者たちを食事の席に着かせて、主人が僕となって給仕をして下さるという逆転が起こることが語られています。
 戻ってきた主イエスは、主イエスをいつでも迎え入れる思いを持っている者たちを、ご自身の方から喜びの宴に座らせて天の恵みに与らせてくださるのです。そしてその時は、思いがけずやって来ます。
 教会はその時を待ち望みながら、「御国が来ますように、御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈り求めています。
 私たちは「主よ、おいでください」といつでも主イエスを迎え入れる生き方に努めるとき、主イエスご自身が私たちを生かし養う僕となってくださり、教会は、私たちの僕となってくださった主イエスの養いによって御心を生きるように成長していきます。私たちは、主イエスをいつでも私たちの主人を迎え入れることが出来るように目を覚まして用意をしてくのです。
 私たちは、このように主イエスを迎え入れて、天にある喜びの食事を共にする約束を与えられています。その喜びの食事を先取りして、私たちの目に見える形の礼拝式にして現されたのが聖餐式です。
 私たちの聖餐式は「主イエス・キリストよ、おいでください」と主を迎え入れる用意をして目を覚ましている者が、主を呼び求める祈りの言葉から始まり、聖書の御言葉をいただき、主の御体をいただいて、主による養いを受けるのです。
 私たちは信仰の目を覚まし、祈りをとおして主なる神と心を一つにされて、主イエスが私たちのところにおいでになることを希望として、御心に適う信仰の生活を進めて参りましょう。
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2022年07月31日

貪欲への警告 ルカによる福音書12:13-21  聖霊降臨後第10主日(特定13) 2022.07.31

貪欲への警告        ルカによる福音書12:13-21      聖霊降臨後第10主日(特定13)  2022.07.31
  
 今日の聖書日課福音書で、主イエスは、神の前に富む者になるように、特に富に執着することの愚かさについて教えておられます。
 主イエスは例え話を用いておられますが、この譬えをお話しになるきっかけになったのは、ある人が主イエスのところに願い事をしに来たことでした。その願い事とは、ある人が自分も財産を相続できるように兄弟との間を調停して欲しいと言うことでした。この時に主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」と教えておられます。
 もし、実際に律法の専門家がこの相談を受けたとしたら、その人は当時の律法に基づいて得意になって財産相続の調停をしたことでしょう。実際に当時その遺産争いの調停は、ラビ(律法の教師)が、旧約の律法やそれに基づく口伝律法(トーラー)を元にして行っていました。
 例えば、旧約聖書の民数記第27章8節以下に、土地の相続の仕方が指示されています。そこには、ある人が死に相続する息子がいない場合は娘に、娘がいない場合は、父の兄弟に、父の兄弟がいない場合はその氏族の中で一番近い親族に相続するようにと記されています。また、申命記第21章17節によると、長子はその他の兄弟の2倍を受けて残りを均等にして相続するようにしていました。律法の専門家はその様な規定に基づいて、自分があたかも神の御心を実現する者であるかのように、調停していたのです。
 今日の福音書の中で、ある人が主イエスに「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と言っていますが、この人は、おそらく兄から自分が正統に受けることになっているはずの遺産の相続分を分けてもらえず、主イエスのところにやって来てその調停を頼んだのでしょう。この人は、律法学者を凌ぐ評判を得ているイエスに頼めば、きっと期待する以上の調停をしてもらえると考えたのでしょう。
 でも、主イエスは律法の教師のようにはお答えにならず、先ず、富そのものに対してどうあるべきかを教えておられます。
 主イエスはご自分が裁判官や調停人(つまり律法の教師ラビ)ではないことを前置きして、貪欲に対してよく注意するように教えておられます。
 先ず、「貪欲」という言葉に注目してみましょう。この言葉は、原語のギリシャ語ではプレオネクシア(πλεονεξια)という言葉であり、「より多くを持つ」「増し加える」という意味を語源としています。そして、この言葉は、福音書でもパウロの手紙などの中でも典型的な「罪」の一つに挙げられています。つまり、貪欲とは「持てば持つほどなお多くを持ちたくなる欲望」であり、不正をしてまで自分の欲望を満たす事へとつながり易いのです。主イエスは、金銭や不動産への貪欲がいつの間にか人の心を神から引き離し、金銭や物欲に囚われた人は横暴になり傲慢になり、その人は神の心から離れてしまうことを見抜いておられました。そこで、主イエスは、自分も遺産を分けてもらいたいと言う人に向かって、ただ律法に基づく手続きを教えるのではなく、所有する財産がどんなに増えても、それだけでは命の豊かさを生み出すことはないし、かえって貪欲は心を頑なにして罪を増し加える危険があることを指摘なさったのです。
 主イエスはそのような脈絡の中で次の例え話をなさいました。
 ある金持ちの畑には麦が豊かに実りました。大豊作です。金持ちは「どうしようか、こんなに多くの作物をしまっておく場所がない」と考え、今までの倉庫を壊してもっと大きな倉庫を建てることにしました。その倉が完成したら、穀物もその他の財産も皆しまい込むことにしたのです。そして彼はこう言います。
 「さあ、もうこれから先何年も生きていく十分な蓄えが出来た。食べたり飲んだりして楽しむのだ。」
 でも、神はこう言います。「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられるのだ。お前が用意したものは、いったい誰のものなのか。」
 主イエスはこの例え話に付け加えて言いました。
 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」
 「神の前の豊かさ」という点から振り返ってみると、日本に生活する私たちにも、この主イエスの例え話は厳しく、私たちを揺さぶる例え話です。
 主イエスは、私たちが個人的に財産を持つことを禁止しているわけではありませんし、自分で働いて収入を得る喜びを否定しているわけでもありません。この例え話でも、収穫の上がった穀物を目の前にして喜ぶのはごく当たり前のことでしょうし、その収穫物をどうすべきか考えることもごく当然の大切なことでしょう。
 でも、この例え話で、金持ちは神から「愚かな者よ」と言われています。この金持ちの愚かさとは何でしょう。この「愚かな」は、アフローン(αφρων) と言い、「理性を欠いた」つまり「神を忘れた」者を意味しています。主イエスは、この例え話の金持ちが、全てのことに於いて、自分のことしか考えられない人としてこの例えているのです。
 この金持ちは、自分の収穫を喜び、自分の倉を建てて財産を蓄え、自分がゆっくり休んで、自分が食べて飲んで楽しむことを考えます。これらのこと一つひとつは、その事柄そのものが悪いこととは限りません。でも、その富を自分のために保つことしか考えないのなら、人はいつの間にか「貪欲」に、「御心を離れた者」となってしまうでしょう。
 このことは、主なる神がモーセを通して与えた「十戒」の中にも示されています。
 十戒全体を見渡してみると、第4の戒めである「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」の前は、「主なる神以外の何ものをも神とするな」、「偶像を造るな」、「主の名をみだりに唱えるな」という神と私たち人間の関係における戒めです。そして第4の戒めが校舎へとつなぐ役目を果たして、第5の戒め「あなたの父と母を敬え」以降は、隣人との関係に於いて、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」と続き、第10の戒めが、今日の主日の主題でもある「貪るな」です。この第10戒「あなたは貪ってはならない」は、隣人との関係に於いて他人の物を欲深く自分のものにしようとする行為を禁止する以上に、貪ることで欲望がもっと大きな欲望を生み出し、いつの間にか神の御心を忘れ、悪魔の術中にはまっていくことがないように教え導く戒めであると言えます。そして、それとリンクするように第1の戒めへと戻るのです。
 今日の聖書日課福音書の例え話をに出てくる人は、富むことによって自分の富以外のことに心を向けることができなくなり、富のことで魂が埋め尽くされ、神の御心をすっかり忘れてしまいます。
 主イエスは、当時のユダヤ教の指導者たちが律法の言葉に拘りながらも、神と豊かに心を通わせることを忘れて律法に魂を窒息させてしまっている姿を厳しく批判しました。私たちの存在は神の御手の内にありますが、神に生かされていることを忘れて自分だけの富を追い求めることに心を奪われて魂を痩せ細らせていないかどうか、自分の生き方を振り返ることを求められています。
 私たちの一生涯は、神の永遠の働きの中のほんの一瞬であり、神の大きな働きの中に位置づけられ意味づけられることがなければ、私たちがどれほどの冨を蓄えようとも、それは虚しいと教えられています。
 私たちも主なる神の導きに生かされることを忘れるならば、財産の有無や権力を測りにして自分と他人を判断するようになり下がっていくでしょう。そして、小さく取るに足りない私をさえ愛して救い出してくださった神の愛を感謝する感性も失ってしまうでしょう。
 今日の福音書のすぐ後の個所で、主イエスはルカによる福音書第12章31節以下に「ただ神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。」と言い、「尽きることのない富を天に積みなさい。」と言っておられます。私たちの富のある所に命があるのだとしたら、私たちの命はどこにあるのでしょうか。
 今日の聖書日課を通して神の御前に豊かにされることついて改めて深く思い巡らし、神の愛の中に生かされる豊かさをいつも確信する者でありたいと思います。
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