2023年03月13日

命の水を受ける  ヨハネによる福音書4:5-42  大斎節第3主日

命の水を受ける  ヨハネによる福音書4:5-42  大斎節第3主日  2023.03.12


 今日の聖書日課福音書は、主イエスとサマリア地方の女の人が出会い、言葉を交わし合ってる箇所が取り上げられています。今日の聖書日課福音書の箇所は聖餐式の中で拝読する箇所としてはかなり長い部分であり、また多くの内容が含まれています。今日はその中から特にこのサマリアの女が主イエスと出会って自分を取り戻していく様子に焦点を当てて振り返り、私たちもこの福音書から主イエスの導きを受けて生きるように歩ませていただきたいと思います。

 主イエスと弟子たちの一行は、旅の途中でサマリア地方を通りました。サマリアのシカルという町に来られた時、主イエスは旅に疲れ、町の井戸のそばに座って休んでおられました。時は丁度昼頃です。

 そこに、この地方の町に住むサマリアの女が水を汲みにやってきました。当時の人たちは、今の私たちのように水道設備が整った中で生活をしているわけではありませんでした。水汲みは、女の人たちにとって当たり前の日々の働きでした。でも、水汲みは朝か夕方の仕事であり、普通はこのように日中に水汲みをすることはないはずなのです。このような時刻に水汲みをするこの人には、そうしなくてはならない事情なり思いがあるのです。もしかしたら、この女性は、他の人たちを避けて、誰にも会わないで済むように、このような日中の時間をねらって水を汲みに来たのかも知れません。

 その当時、ユダヤ人とサマリア人は交際がありませんでした。その分裂を産み出したイスラエルの歴史を簡単に振り返ってみましょう。

 イスラエルは紀元前1020年の頃、それまでの部族連合から王国となり、紀元前1000年に即位したダビデの時代にその王国はエルサレムを中心にした統一した国になりました。ダビデの子であり後継者であったソロモンが死ぬと、紀元前922年にイスラエル王国は南北(北イスラエルと南ユダの国)に分裂してしまいます。その時に、北イスラエルでは南ユダ国のエルサレム神殿に対抗する形でゲリジム山を聖なる場所に定めて独自の礼拝をするようになっていきます。それから200年後の紀元前722年に、北イスラエル国はアッシリア帝国に占領され滅ぼされてしまいます、そして、多くのイスラエル人が捕虜となってニネベに連行されていきますが、アッシリアの王は、サマリア地方に他民族の人々を入植させ、その地で他民族の人の結婚するように強制されるものもあって、サマリア地方の人々は生粋のユダヤ人から激しく嫌われるようになります。ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、サマリア人のゲリジム山での礼拝を認めず、彼らを異端視するようになりました。サマリア地方はイスラエル全体のほぼ中央部であり、このように国を分断して国力をそぐことは支配する外国の王たちの策略でもあったのです。イスラエル中央部のサマリアの人々と、南部のユダヤ地方の人々は、いわば近親憎悪とも言える関係になっていました。

 主イエスは水を汲みに来たサマリアの女性に、静かに声をおかけになりました。「水を飲ませてください。」

 サマリアの女は驚き戸惑って主イエスに尋ねます。「どうしてユダヤ人であるあなたが、サマリアの女である私に水を飲ませてくださいなどと頼むのですか。」

 こうして主イエスとサマリアの女の間に会話が始まります。その中で主イエスは言われました。「あなたと話している私が誰であるかを知っていたら、あなたの方から私に生きた水を求め、私はあなたにそれを与えるでしょう。」

 サマリアの女はこの言葉を聞いてもその意味が分からず、初めのうち二人の会話はすれ違い、イエスに応じるこの女性の言葉は的はずれでした。でも、二人の会話を通して主イエスの言葉は次第にこの女の心の奥深い思いと触れ合っうようになります。

 このサマリアの女は、過去に5人の夫を持ち、今は夫とは呼べない男と連れ添う身でした。主イエスには、そのような女の人が自分に向けられる周りの人の視線や罵りの言葉を避けるために、昼日中にこっそりと水を汲みに来る思いが痛いほど分かったのでしょう。

 主イエスは更に言葉を続けます。「こうしたサマリアの女であるあなたも私たちユダヤ人も、何の区別も差別もなく心を一つにしてありのままの自分を神にお捧げして礼拝をする時が来ている。今がその時なのだ。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と、主イエスはこのサマリアの女に言うのです。そして「今あなたの目の前でこうして話しているこの私が救い主なのだ」と言っておられます。

 こうしてこのサマリアの女は「生きた水」である主イエスと出会い、本当のありのままの自分に気付き、自分を取り戻し、喜びと感謝を持って神を礼拝する者へと変えられていくのです。

 私たちも、誰もが皆、このサマリアの女のように、心の内に飢え乾く所があります。自分を人目につかないようにそっとその渇きを満たしたくなるし、渇きを潤したいと思ってしまいます。でも、私たちが自分の力だけで自分を癒そう、満足させようとした時、多くの場合ますます独りよがりになったり、自分の本当の気持ちとはかけ離れた事までしてしまい、ますます神の御心から離れ、他の人とのズレや壁を厚くしてしまうのです。このサマリアの女も、ユダヤ人からはサマリア人として差別され、同じサマリア人からはまともに生きられない女として蔑まれ、いつの間にかまともに人と目を合わせて会話することもなく生きるようになっていたことでしょう。こうした生活の中で心を固くして独りで自分を守る他なかった人が、主イエスに出会い、主イエスとの対話によって、疑いと頑なな心が解きほぐされ、癒されて、自分の本心に触れ、次第に自分を回復していくのです。

 このサマリアの女が自分を取り戻して生きていくためには、主イエスによって受け容れられることが必要でした。同じサマリア人からさえ汚れた女として除け者にされてしまうようなこの人から、主イエスは水を飲もうとしました。この女は主イエスに声をかけられた時、戸惑いの中にも、自分を認めてくださったこのお方に心を動かされたに違いありません。そしてそればかりではなく、主イエスがこの人の全てを知っておられ、しかも自分でも隠しておきたい過去があるにもかかわらず、主イエスはそのことをもよくご存知の上でこの人を蔑むことなく、「あなたと共に一つの神に礼拝する時が今来ている」とまで言ってくださるのです。このようにして主イエスによって自分が生きていることを受け容れられ、慈しまれて、初めてこのサマリアの女は自分を取り戻して生きることが出来るようになっていきます。

 イスラエルの民とサマリアの人々が互いに相手を敵視して心を頑なにする状況の中で、主イエスは双方の人々が共に神を礼拝することへと導いておられます。主イエスがこの女の人に「生きる水」を与えようと言われた水は、乾ききって頑なになった人の心を溶かして育む命の水であると言えるでしょう。

 今日の聖書日課福音書で、主イエスは、私たちもこのサマリアの女と同じように、主イエスのお与え下さる交わりの中に生かされ、主イエスとの対話の中で御言葉に導かれて生きるように招いておられます。

 このサマリアの女性は、はじめのうちは他の人々に会うことを避けていましたが、主イエスと出会って、水瓶をそこに置いたまま町の人々の中に入って行って、自分に命の水を与えてくださった主イエスのことを人々に伝えるようになりました。そして、多くの人が彼女の語ったことによって主イエスを信じるようになりました。自分が主イエスによって救われていることを人々の前で証することによって、サマリアのシカルの町には主イエスを救い主と信じる人々がたくさん生まれています。シカルの町の人々は、この女性が生まれ変わった体験を聞くことをきっかけにして、更に実際に主イエスと出会い、伝えられて信じる段階から実際に主イエスに出会って信じる事へとその信仰を確かなものにしていきます。そして、正統な礼拝は、エルサレム神殿かゲリジム山の聖所かと言う次元を超えて、つまり民族の違いを超えて、すべての人がどこにいても主イエスの名によって心を一つにして礼拝をすることへと導かれていきます。

 私たちも、今、主イエスを記念するこの礼拝に招かれ集っています。主イエスのみ言葉と聖餐を通して育まれ、導かれ、心の奥底から新しくされて、喜んで人々に主イエスを証していく者へと育まれていきましょう。

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2023年03月08日

試練と希望 (あいりんだより2010年3月号)

試練と希望

「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙5:3-4) 

 わたしたちは、順風満帆に、あるいは敷かれたレールの上を何の問題もなく歩くように、生きていけたらどんなに幸せだろう,と思うことがあります。あこがれや羨望と共にそう思うとき、わたしは著名な臨床心理学者の次の言葉を思い起こします。「平凡な幸せな家庭を営んでいくのにも、それなりの努力が必要なのです。」

 3月になり、今年度の幼稚園生活も残りわずかになってきました。この一年間を思い起こしてみると、どの子にもその子なりの試練や危機がありました。大きくなっていくためには、少しずつでよいから自分でできるようにしていかなければならないこと、今はまだそれができないということや自分よりずっと上手にできる同年齢の友だちもいることを認めなければならないこともあります。ついわがままをしたり他人を傷つけるような結果になってしまった自分の行いを認めながらも、神さまが喜んでくださる生き方を模索していくべきことなど、それぞれに出会ったり乗り越えたりしながら、わたしたちは子どもたちと共に過ごしてきました。子どもたちも、それをどれほど自覚しているかは別としても、自分の人生を建設的に営んでいけるように、それなりの努力をしています。そして、わたしたち大人は、親も幼稚園の教職員も、その子の努力を適切に支援できるように学び、成長していきたいと思います。

 わたしたち人間は、適度な運動をして体に刺激を与えなければ、筋肉も骨も呼吸器も丈夫にはなりません。その鍛錬をすることは、時には苦しいこともあるでしょう。それは、わたしたちの心や精神についても言えるのではないでしょうか。

 わたしがかつてある相談機関で働いていたとき、ある母子が相談に来た時のことを思い出します。受付でその子どもは、お母さんとわたしを困らせようとするかのように「泣いちゃうぞ」と言ったのです。その時わたしは思わず吹き出してしまったのですが、その子の「泣いちゃうぞ」という言葉には、その子が家庭で日々どのような「問題解決方法」をとっているのかが象徴的に現われていると言えます。親はその子に泣かれるのがイヤだから、その子の泣きそうな状況をつくらないように先回りしてレールを敷き、それでもその子は自分の思い通りにならないと大声で泣いて親を困らせてワガママを通してきた姿が、わたしには目に浮かぶようでした。

 神さまはわたしたちにいろいろな課題(試練)を出してくださいます。時には子育ての上での課題も与えられます。時にはその課題が大きすぎるように思えたり、独りで担うのには重すぎると感じられたりすることもあるかもしれません。でも、冒頭の聖書の言葉のように、神はわたしたちを安易に生かそうとするのではなく、深く神と人に関わりながらわたしたちを生かし育てようとするが故に、わたしたちが乗り越えるべき課題を設定なさるのです。

 それでも時には重荷を降ろしたくなるかもしれません。そのようなときは、下記の聖書の言葉を思い起こして、神のお与えになった課題に向かって参りましょう。やがて「あの試練の時があったからこそ、今の豊かな時がある」と言えるときが来る希望を持って。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(マタイによる福音書11:28-29)


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2023年03月06日

「世界一」の子育てを   (あいりんだより2010年2月号)

「世界一」の子育てを

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」 (コリントの信徒への手紙Ⅰ 3:6 ) 

 子育てはなかなか私たち大人の思い通りにはいかないものです。私たち大人に出来ることは、子どもに内在している「育つ力」が現れ出るように支援することではないでしょうか。

 それでは、子どもの「育つ力」を支援するとは、どうすることでしょう。それは、「我が子」にとって「世界一の親」になることであり、私たち幼稚園の教職員としては子どもたちの「世界一の先生」になることです。

 「世界一」と言っても、オリンピックのような勝敗をつける競技で世界の頂点に立つことではなく、時に半歩下がって子どもの見守り役になり、時に半歩先に進んで子どもの良きお手本になり、また時には子どもと一緒になって子どもの気持ちを共感する人になって、子どもにとっての「最も大切な人」になることなのです。

 私たちは、どんなに高価な外食も3日も続けば飽きてしまいますが、お母さんの作る味噌汁は毎日だって飽きません。和やかで温かな会話のある食卓は、何にも勝る子育ての場であって、それは各家庭でその子にとって「世界一」の場となるでしょう。私が小学生の頃、『うちのママは世界一』というテレビ番組がありました。その内容は別として、どの子どもにも「うちのママは世界一」、「ボク(わたし)の幼稚園は世界一」という経験をして欲しいと思います。それは、モノの豪華さにおける世界一ではなく、子どもの経験の質や深さとしての「世界一」なのです。子どもの経験の質やその深さは、何かの出来事での体験が、大切な人と分かち合われて共感されるときに、本物となります。私たちは、日頃、子どもたちとどのような言葉をどれだけ交わし合い,心を通わせているでしょうか。

 子どもにとっての「世界一」とは、必ずしも子どもの物的な要求を何でも直ぐに満たしてくれる存在のことではありませんし、いつまでも赤ちゃん扱いして幼いままに留めさせる存在のことでもありません。かといって、子どもを叩いたり叱りつけたりすることでの「世界一」などと言うのもいただけません。なぜなら、子どもは多くの場合、叩かれれば「なぜ叩かれたのか」などと考えるより、叩かれたこと自体が心の傷になってしまうからです。また、子どもは、叱られたときも、大人が叱ったその内容に反応するより、叱る人の感情に反応することが明らかだからです。

 冒頭に掲げた聖書の言葉のように、「育ててくださるのは神」です。私たち大人に出来ることは、子どもの成長する力をしっかりと見据え、そこに肯定的かつ積極的に反応してあげることです。これさえ出来れば、子どもにとって「うちのママは世界一」であり、食育、知育、体育などそれぞれの事柄はそのバリエーションに過ぎません。そのバリエーション部門でも、例えばお料理、会話、生活習慣等々でも、ぜひ「世界一」の子育てをしていきましょう。神さまからいただく金メダルを目指しましょう。 (あいりんだより2010年2月号)

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2023年03月05日

新たに生まれる  ヨハネによる福音書3:1-17   大斎節第2主日

新たに生まれる  ヨハネによる福音書3:1-17   大斎節第2主日      2023.03.05

 大斎節第2主日の聖書日課福音書には、ユダヤ教の教師であるニコデモが主イエスを訪ねた箇所が取り上げられています。

 ニコデモのことを考える上で、人生の「二度生まれ(twice-born)」という考えを思い起こしてみましょう。

 アメリカの哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームス(1842-1910)によれば、「二度生まれ(twice-born)」とは、自分の人生に神の祝福が増し加えられることで救いに至るような直線的な生きることではなく、この世の人生における罪、破綻、挫折などから新たな人生へと生まれ変わって生きることを意味する言葉です。

 ヨハネによる福音書第3章のはじめに記されているように、ニコデモはユダヤ議会の議員でした。サンヘドリンと呼ばれるこの議会は、大祭司を議長とする71人で構成されていました。政治と宗教が分離していなかった当時、サンヘドリンはイスラエルの最高議決機関であり、また裁判についても行政についても国の最高の執行機関でもありました。ニコデモはこのような議会のメンバーの一人であり、地位、名誉、実権ともに非常に高い人でした。

 ニコデモはまたファリサイ派の一員でもありました。ファリサイ派の人々はイスラエルの民が神との間に結んだ約束である律法を、細かな点まで字句通りに厳格に守っていました。そして、自分たちは、律法を守れないような落ちこぼれとは分けられた者であり神の選びにふさわしい者であるという思いを強くしていました。また、「ファリサイ」とは「ペルシーム(分離した)」という意味の言葉に発した名称で、ファリサイ派の人々自身によってそう名付けられたとも言われています。

 ニコデモは、おそらく自他共に、神によって用意されている祝福の人生を順調に歩いてきた人であると認めていたことでしょう。

 このニコデモが主イエスを訪ねました。それは夜のことでした。明るい日中ではなく夜に主イエスを訪ねるニコデモのことを思い巡らしてみましょう。

 例えば、私たちが誰かと旅行した時など、いつもとは違う場と雰囲気の中でお互いに心を開いて夜更けまで、語り合った経験のある方も多いことでしょう。ニコデモが夜主イエスを訪ねたことも、自分の深い思いを主イエスに語り合いたい思いがあったのではないでしょうか。また、日中に堂々とイエスを訪ねるのではなく目立たないように、夜になってそっとイエスを訪ねるニコデモを思うと、社会的に成功した人でありながら、自分でも捕らえられない不安や癒されない悩みや渇きかがあったのかも知れません。ニコデモは、自分でも掴みきれない心の暗闇を主イエスの前に開くことによって主イエスから具体的な導きを得たかったのかも知れません。

 ニコデモは、ファリサイ派の知識人であり教師らしく、主イエスに対しても丁寧に話しかけました。

 「ラビ(先生)わたしどもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを誰も行うことが出来ないからです。」

 言葉の限りでは、ニコデモの言うとおりです。でも、ニコデモは心を開いて主イエスと対話していく内に、主イエスのことを少しも分かってはいない自分を明らかにされてくるのです。これまでのニコデモは、いつも自分を正しい者として天の国を約束された者の側に自分の身を置いて生きてきました。そのニコデモには「人は新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない」という主イエスの言葉を理解することが出来ないのです。そして会話を通して浮き彫りにされてくるニコデモの姿は、これまで自分を正しい者の側に置いてそこからしか物を見ることの出来ない視野の狭さと鈍感さであり、言い換えれば、律法を盾にして自分を守り、律法を剣として人を攻撃しながら生きてきた自分の姿が明らかにされてきたのです。

 ニコデモは幼い頃より立派な教育を受け、順調にこの世の成功の階段を昇ってきました。でも、このようなニコデモも主イエスにお会いして、主イエスと深く出会うと、自分の価値観は揺さぶられこれまでの自分は本当の自分だったのだろうか、と考えざるを得なくされていくのです。

 主イエスは、そのようなニコデモは再び新たにされて生きる必要のあることを見抜かれたのでした。

 主イエスはニコデモに言われました。

 「人は新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない」。

 この時のニコデモは、主イエスの言葉を理解できず、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と応えることが精一杯でした。

 ニコデモにはイエスの「新たに生まれる」という言葉についても、ファリサイ派的思考で字句通りにしか理解できなかったのでしょう。

 でも、ニコデモは主イエスにお会いして、これまでの自分を揺さぶられ、生き方を深く問われ、主イエスが言われたように新しく生まれ変わる事を促され、自分が「新しく生まれ変わる」ことへと歩み始めることになるのです。

 こうしたニコデモの人生は、私たちにとっても決して他人事ではないはずです。ここに描かれているニコデモは、信仰生活の途上にある私たちの生き方と重なるはずなのです。私たちの中には、誰も初めから完成した信仰を持っている人などいません。私たちはそれぞれに主イエスと出会った時があります。その時が喜びや励ましとなる場合もあるでしょう。あるいは、主イエスとの出会いが自分を否定されたり打ちのめされるような経験になることもあります。あるいは、ニコデモのように主イエスとの関わりによって自分の不信仰や不完全さを顕わにされることさえあるのです。時には、主イエスと関わらなければ味わうことの無かった辛さを味わったり、重荷を負わされるような思いになる時もあるかも知れません。でも、そのような自分であるからこそ、主イエスによって赦され愛されていることの気付きがあり、そこから更に本当の自分として神に生かされる事へと導かれる喜びが生まれてくるのです。ここに「人が新しく生まれる(二度生まれ:twice-born)」ということが起こるのです。

 かつてのニコデモは、ユダヤ教の指導者として何不自由なく生きてきたようでありながらも、人目を避けて夜にこっそりと主イエスを訪ねるような弱さを抱えていたことが想像できます。でも、その後のニコデモは確かに変えられていくのです。

 ヨハネによる福音書を読み進めていくと、このニコデモに関する記述が他に2度で出て参ります。

 その一つは、ヨハネによる福音書7章51節からの箇所です。そこには、ユダヤ教の指導者たちが主イエスに対する偏見や誤解を先立たせている事についてニコデモは、しっかりと律法に立脚してイエスについての評価と判断を下すべきであると主張する姿が見られます。

 この時ニコデモはユダヤ教の指導者(つまり仲間)たちから「あなたもガリラヤ出身なのか」となじられています。ファリサイ派の人々がイエスを排斥しよう、抹殺しようという思いを強めていく中で、ニコデモは主イエスこそ真理を表すお方であることを知り始めていたのではないでしょうか。

 更に、ヨハネによる福音書19章には、主イエスが十字架におかかりになった場面が記されていますが、主イエスが十字架の上で死んだ時、ニコデモはもうかつてのように自分の立場を曖昧にしはしませんでした。ニコデモはアリマタヤのヨセフと共に主イエスの遺体を受け取り、新しい墓に自分の手でイエスの亡骸を納めたのでした。この行為は、自分がイエスの親しい仲間であることを公然と示すことです。かつて夜こっそりとイエスを訪ねたニコデモが、最後には十字架を通して示された主イエスの愛を確認し、自分が主イエスの仲間であることを人々の前で示すように変えられています。こうしてニコデモは、主イエスが自分の救い主であることを受け容れました。当時の状況を考えると、自分が主イエスの仲間だと公に示すことは、議会から追放されたり迫害を受ける可能性もありました。それにもかかわらず、ニコデモはイエスを自分の救い主であると公にしないわけにはいかなかったのです。

 私たちは、聖書の言葉を通し、聖餐式を通し、また日々の祈りと交わりを通して主イエスに出会い、導かれています。その中で私たちもニコデモと同じように、主イエスによって導かれ養われるのです。私たちは古い自分を主イエスの十字架によって赦され、新しい自分に生まれ変わって生かされています。私たちは、初めのうちは昔のニコデモのようであったとしても、主イエスとの交わりに中で自分の生きる姿に気付かされ、主イエスに導かれて神との深く豊かな交わりへと導かれています。そしてやがてニコデモが公然と主イエスを自分の救い主として証したように、私たちも恐れなく力強く主イエスを証しする事が出来るように育まれていきたいと思います。

 特に大斎節は主イエスの十字架と苦しみに心を向け、主イエスの甦りに与る準備をする時です。主イエスとの出会いと交わりを通して私たちも新たにされ、再び生まれて生きる喜びと感謝にあずかれますように。

(以下の動画は、当日の礼拝における福音書朗読と説教部分を切り取ったものです。)

2023 03.05 大斎節 第2主日説教 ヨハネによる福音書第3章1節-17節(小野寺司祭による) - YouTube

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2023年03月04日

「大切に育てる」ということ (あいりんだより2010年1月号)

「大切に育てる」ということ

   求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。(マタイによる福音書7:7)

 新年おめでとうございます。

 年末に里帰りしてきた大学生の息子が、レポートの課題とする新聞の切り抜きを私に見せてくれました。不登校児の増加に関する記事でした。ある評論家がそのコメントをする中に「現代の子どもたちは、大切に育てられるあまり、他者とのコミュニケーション能力が育っていません」という言葉があり、家族でそれについての議論が始まりました。

 「コミュニケーション能力が育っていない子どもは、むしろ大切に育てられてこなかったのではないか」とか「大切に育てると言うことの中身の問題なのではないか」などと話は延々と続きました。

そ の議論の中で、次第にはっきりしてきたのは「大切にする」と言うことは、必ずしも子どもの欲望を即座に満足させたり、子どもの葛藤をいつでも回避してあげたりすることではない、ということでした。「子どもを支援する」というとき、いつでも子どもを中心にして周囲がホイホイすることを連想する人もいるようですが、もしそのような接し方をしたら、上記の評論家の指摘するとおり、子どものコミュニケーション能力は育たないでしょう。

 以下の例え話をご存じの方も多いと思いますが、子どもを大切に育てることにも共通することだと思いますので、触れておきましょう。

 極貧の国の子どもたちに100円分の支援をするとします。食料を100円分買ってわたすことと、釣り糸と釣り針を100円分買ってわたし魚の釣り方を教えることでは、どちらが彼らにとって有効な支援になるでしょう。むろん後者です。

 この例から考えてみると、現代の日本の状況で、子どもを「大切に育てる」ということが、子どもが駄々をこねるときに何でも自分の思い通りになるような環境をつくることや子どもが風邪を引かないように無菌状態の安全な室内においておくことにすり替わってきているのかもしれません。でも、本当に子どもを大切に育てるとは、そのような至れり尽くせりの環境の中で過保護にすることではなく、子ども自身の学ぶ力や生きる力を育てることなのではないでしょうか。

 本園では、子どもたち一人ひとりを大切にし、成長を支援して参りたいと思います。子どもたちがじっとしているだけで事態が自分の思い通りに進むことが子どもを「大切にする」ことではありません。また子どものすべての要求を無条件に満たしてあげることが「大切にする」ことでもありません。

 先ずは、私たちが、子どもたち一人ひとりをできるだけ子どもの枠組みで理解することに努め、子どもたちの言動を先回りせずに半歩下がって受け止めて理解し、できるだけ子どもの心の動きに沿った言葉で応答し、子どもたちと心をかよわせることを心掛けたいと思います。こうした関わりから生まれる心と心の繋がりによって、子どもたちは自分の存在に実感を深め、他の人とコミュニケーションを取りながら生きていくことの楽しさと大切さを、身をもって感じていくことになるでしょう。

 このことは、決して目立つことではなく、派手の保育を展開することにもなりませんが、子どもたちが一個の掛け替えのない人として育っていく基本であり、人としてお互いを大切にし合う基本でもあります。

 人間関係の希薄化から様々な社会の問題が噴出する昨今、一人ひとりを大切にすることの比重は増しつつあります。幼稚園でも、家庭でも、子どもたちの自立を促すために、本当の意味で子どもたちを「大切に育てる」一年にして参りましょう。

 本年もどうぞよろしくお願いします。

posted by 聖ルカ住人 at 12:16| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする