2023年01月10日

「今が華」と励まされて

 私たち夫婦が3人の男児を育てるのにエネルギーを使っていた頃、教会の或るおばあさん信徒がよく次のように言って妻の子育てを励ましてくださいました。

 「今が華よ。」

 子どもの行動範囲が広がり、一時も目を離せない中で、炊事、洗濯、掃除などの日常的な家事をしながら、育児をする時期があります。私たち夫婦は、3人の男児の子育てに時間的なゆとりもなく、夢中で子育てをする時期に、幾度「今が華よ」という言葉に自分を取り戻し、励まされたことでしょう。

 この言葉をかけて戴いたとき、私の胸には「そうは言っても・・・。」という思いも付きまとっていたことも認めねばなりません。でも、それはかつて私たち夫婦よりもっと厳しい状況下でお仕事もし、子育てをなさった方の実感でした。

 既に3人の息子たちは成人し普段は老夫婦二人で過ごしている私は、子育てに奮闘する若いご夫婦やお母さんを見かけると、「今が華よ」という言葉を贈りたくなります。

 子育ては、時間的にも、心理的にも、経済的にも負担がありますが、親子の関わりの中でこそ知ることのできる子どもの命の輝きを見逃すことなく、「今」の子育てを楽しんで欲しいと思います。子どもは、そして私たちは、「今」しかない時を日々生きているのですから
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2023年01月04日

「目が合う」こと

 このごろテレビやラジオのニュースの内容で気になることがあります。

 私には考えられないような暴力事件が起こり、暴力をふるった人が逮捕され、「調べによると、容疑者は被害者のAさんと目が合ってむかついたから殴りつけたと話しているようです。」というような報道をしばしば耳にします。このような視線を向けることを今の若者言葉では「ガンをつける」と言うのでしょうか。

 私が気になるのは、「目が合った」ことが相手を攻撃するきっかけになっていることです。

 皆さんは「目が合う」と言うことから何を連想するでしょう。私は「目が合う」ことから親子関係の出発を思い起こします。お母さんは生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて赤ちゃんと目を合わせ、優しい言葉をかけたり、笑顔をつくったり、授乳したりします。そしていつの間にか、どちらからともなくお互いに目を合わせて笑顔を交わし合うようなります。

 かつて、赤ちゃんの前でお母さんが赤ちゃんの笑顔や声に全く反応しないとどうなるかの実験をした人がいました。赤ちゃんにはちょっと気の毒でしたが、生後7から8ヶ月の赤ちゃんの前でお母さんがほんの3分ほど能面のようになって全く反応しないようにしてみたのです。するとその僅かの時間の間に、赤ちゃんの表情は見る見る不安そうになり、赤ちゃんはべそをかき始めてしまいました。人が目を合わせて笑顔を交わし合うことは、人間関係の最も基本的なことであり、信頼関係の始まりであると言うことが出来ます。そして、知らない人同士の場合でも、目が合えばお互いにニッコリし合ったり、軽く挨拶をする文化のある国もあります。

 互いに目が合ったから相手を威嚇したり攻撃したりするのはなぜなのでしょう。もしかしたらそれは縄張りを主張し合いそれを侵したら攻撃する「4つ足動物」の行為なのではないでしょうか。もしかしたら、「相手と目が合ったからむかついた」とか「睨んできたから睨み返した」というのは、人が小さいときに身に付けてきた「人と目が合ったら微笑み返す」という、人としての基本的な信頼感を身に付け育む機会がないままに過ごしてきた人なのかと考えてしまいます。

 私たち大人は、自分の周りの子どもたちが幼いときから、笑顔で温かな視線をおくるように心がけてみてはどうでしょう。


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2022年12月28日

高い高ーい、アンヨアンヨ

  小さな子どもたちが、自分の体で沢山の経験を積み重ねていくことはとても大切なことです。近年、子どもも大人もテレビの画面などを通して遊ぶことが増えて、実際に自分の体を動かしてその感覚と共に達成感を味わうことが少なくなってしまったように思います。

 つい最近、ある幼稚園の先生からこんな話をお聞きしました。

 入園したばかりの4歳児が、スタスタと滑り台の階段を上っていきました。次の瞬間、先生は心臓が止まるかと思うほどビックリしたのです。滑り台の天板まで上ったその子は立ったまままるで空中を歩くかのように次の一歩を踏み出したのです。宙を泳いだその子は、滑り台の斜めの滑り板(お尻をつけて滑り降りてくる部分)にひっくり返って下まで滑ってきました。幸い滑り板が受け止めてくれたから良いものの、もし少しでも体が外に傾いていたらと思うと今でもゾッとします、とその先生は言っておられました。

 生育を調べてみると、その子の遊びはテレビ、ビデオ、テレビゲームが圧倒的に多いとのこと。実際の滑り台に上った時も、あたかもテレビゲームの中のキャラクターが空中に歩き出していくかのようで、実際の滑り台がどのようなものなのか身をもって経験したことがなかったかのようだったということです。

 この一件の原因を画面での遊びに結びつけてしまうのはあまりに短絡的かもしれませんが、少なくともこうした切り口から考えてみることは必要なことであり大切なことなのではないでしょうか。

 振り返ってみると、最近の乳幼児は本当に体を十分に動かしたり触れ合ったりする機会が減っているようです。親が両手で子どもの脇の下あたりをもって「たかいたかーい」と高く抱き上げてみたり、子どもを同じ方向を向かせて自分の足の甲の上に立たせて「いちに、いちに、アンヨ、アンヨ」と歩いてみたり、仰向けに寝た父親の膝の上や足の裏に子どもを腹這いにさせて「ヒコーキ、ブーン」をしたり、おんぶ、肩車、ぐるぐる回し等々、子どもは本来スキンシップをとる単純な遊びが大好きなのです。それは子どもが何よりも親との触れ合いの中で自分を感じることが出来るからです。そして自分の体と感覚を実感するからで、それは子どもが自分自身を獲得していく大切な作業でもあるのです。

 私も昔我が子と「ヒコーキブーン」をやっていて上からよだれを投下されたことも幾度もあります。また「もっと高く」というので、私の両手で子どもを高く掲げたら、その手が滑って子どもをわきに落としそうになったこともあります。

 大事な子どもさんに怪我を負わせることなど無いように気を付けてください。でもこうした遊びは、親子のスキンシップを図る上でもとても楽しい者です。そのような遊びを沢山経験したこは、きっと身体バランスのよい子になりますよ。

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2022年12月21日

一緒に絵本を読みましょう

一緒に絵本を読みましょう

  子どもは自分で言語表現する以上に周りの人の言葉やその雰囲気を頭でもハートでも理解しているものです。もし、言葉で話す程度にしか理解できていないにしても、その場の雰囲気を体で感じていますし、そう感じていることを前提にして接してあげることが大切です。子どもが片言を話すようになったら、是非親子で絵本を読む機会をとってあげてください。

 絵本にはテレビ番組やビデオとは違う良さがたくさんあります。その一つは、絵本は番組のペースではなく、親子のペースで読めることです。ある場面は繰り返し、ある場面はゆっくり、またある時は絵本に書いてないことも途中で付け加えたりしながら読めるのは絵本の素晴らしいところです。

 かつて、私の息子が妻の膝の上で絵本を読んでもらっていました。2歳になる前に頃のことだったと思います。その息子の表情を見て改めて気付いたことがありました。子どもは絵本の世界に入り込みます。子どもはお母さんに絵本を読んでもらいながら、お母さんの耳から言葉を味わい、自分の目で絵を味わい、体全体で絵本の世界を体験しているのです。視線は真剣な表情で絵本の上を、時に一点に止まり、時に駆けめぐり、ページがめくられるとまた食い入るように新しいページに思いを集中します。この時の親と子の作り出すリズムは、決してテレビ番組やビデオでは生まれません。絵本の世界は、その親子にしかない聖なる場を創ります。読み手のお母さん(或いはお父さん)は、少しゆっくりかなと思うペースで落ち着いた静かな声で読み聞かせてあげてください。子どもはその時、絵本の世界を経験していると同時に絵本を通してお母さん(或いはお父さん)と一緒に生きる世界を味わっているのです。

 テレビ番組やビデオの作品の中にも面白いものや興味を引くものはあります。楽しめる番組も沢山あるでしょう。でも、それは子どもが感じたり立ち止まって言葉を発したい時にも待ってはくれません。自分の感じることを自分のペースで心に捕らえ親と分かち合えることは、何物にも代えられない大切なことです。

 絵本の読み聞かせをする時間を取ってあげてください。そのうち子どもの方からお気に入りの作品を持って「読んで」と言ってくるようになるでしょう。お母さんの朗読は子どもの情操を養います。読み終わった時も、その余韻を大切にしてあげてください。すぐにコマーシャルが流れたりせず、読み終わった後のわずかな沈黙も親子の読書という聖なる時を引き立ててくれることでしょう。

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2022年12月19日

言葉かけの大切さ

 言葉かけの大切さ

 昔、私は、赤ちゃんは小さくてまだ話せないしまだ理解できないから言葉かけは無駄だと考えているお母さんにお会いしたことがありました。

 いいえ、赤ちゃんは何でも分かります。かりに百歩ゆずって、赤ちゃんはまだ言葉が分からないとしても、分かっているかのように言葉かけをしてあげることは大切なことなのです。まだ言葉の一つ一つの意味までは分からないとしても、赤ちゃんはお母さんが話しかける雰囲気や表情から、心の中で相当に強い反応を示しているのです。はじめのうちはごく大まかな快・不快という程度の反応かも知れませんが、お母さんの掛ける言葉が赤ちゃんの中に快適に入っていくこと、心地よく響くことは、赤ちゃんの精神的な成長にとって大切な「栄養」になります。また、言葉を獲得していく上でも大切なことなのです。

 ダッコして優しく子守歌を歌いながら軽くトントンと叩いてあげたり(パッティングと言います)、周りの様子や赤ちゃんの気持ちを代わりに言葉にしてあげるような言葉かけも有効だと考えられています。

 私たちが、満天の星を見上げても、はじめのうちは星の位置関係など見えませんが、幾度も幾度も夜空を見上げているうちに、そして星座を知るうちに、星は星座としてある程度のまとまりをもって認識できるようになるでしょう。赤ちゃんが言葉を理解していくのもこれと似たところがあります。お母さんの優しい声と言葉遣いによって自分に向けられる言葉を、幾度も幾度も耳にすることによって、赤ちゃんは自分の体験と言葉を結びつけ始めます。沢山のお話しの中から、赤ちゃんは、次第に重要な単語や言い回しをキャッチしはじめます。、

 言葉をかけられることは快い、言葉を受けることは心地よい、という経験を沢山重ねることは、赤ちゃんにとって単に言葉を獲得するために有効なだけではなく、情緒の安定した豊かな精神性を育むための第一歩でもあります。

 柔らかな声で、優しい言葉で、にこやかに沢山話しかけて上げましょう。

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2022年12月15日

「バブバブ(喃語)」を受け止めましょう

「バブバブ(喃語)」を受け止めましょう 


 このごろ、お父さんやお母さんの中に、子どもと何をどう話して良いのか分からないという声が聞かれます。共通の話題がないとか、子どもが何を考えているのか分からないという声も聞かれます。

 私は、子どもの考えていることを知り、共通の話題にする大切さを認める一方で、子どもが話している時の情緒や話をもっと続けたくなる雰囲気をつくる大切さも強調したいと考えています。

 赤ちゃんは、しっかりとした思考と言葉で話すようになる前から、明確な言葉にはならない言葉を発して「話をする」ことの楽しさを身につけていきます。

 「アーゴー、ウングウング」、「バブバブ、ワウワウ、アーウ」。

 これを喃語と言います。私の記憶では、我が子がこのようなお話しをし始めたのは、お座りができるようになった頃だったでしょうか。喃語は赤ちゃんからお話です。喃語は、言っている意味内容が大切なのではなく、赤ちゃんが周りの人に自分の存在を訴え、受け容れてもらえるように精一杯の自己表現して、大切な人とコミュニケーションをしようとすることそのものに大切な意味があるように思えます。

 そのような場で、お母さんはどう応対したらよいのでしょう。赤ちゃんの話の中味には意味がないからといって無視すべきではありません。先ほども申し上げたように赤ちゃんはお母さんをはじめ周りの人に自分の存在そのものを認めてもらおうとしています。お母さんの方からも、「あなたの存在を認めていますよ」ということを伝えてあげましょう。

 赤ちゃんの喃語に応じて、優しい顔で、穏やかな落ち着いた声で、「そう、そうなの」、「お話上手ですねぇ」、「お母さんはあなたのお話聞くと楽しいですよ」などと、赤ちゃんと視線を合わせて言葉を掛けてあげましょう。

 赤ちゃんは自分の表現をお母さんに認められて、自分の存在に自信と勇気を持つことでしょう。お母さんが喃語に応じるとき、赤ちゃんは、大人の言葉で言えば「自分が自分でいて良いんだ」「自分が表現することを受け止めてくれる人がいてくれる」という経験を重ねることになります。赤ちゃんへのこのような対応は、赤ちゃんの「自己肯定感」の獲得につながります。

 大人でもそうです。自分が一個の存在として認められていることを実感できるとき、人は自分で育とうとする力を伸ばしていくことが出来るのです。まして未だ小さく未成熟な赤ちゃんであれば、しっかりと受け止めてもらえれば、それだけ自分を大切にしてのびのび育つ基盤が出来るのです。この時期には話の内容より、自分が表現することがお母さんに受け入れられ、自分の存在に確かな手応えを感じられることが大切です。

 まだまだ具体的なものの名前など発音できない時期でも、人間は一個の人格として認められることによって、情緒の安定した発育が促されることを心に留めておきたいと思います。

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2022年12月12日

布おむつを使った時代の知恵

布オムツを使った時代の知恵

  私がこの文章を記したのは、2006年の頃だったと思います。私は、今でもこの文章が決して古くさいとは思えず、変わらない真理を含んでいると思うのです。どうぞ、読んでください。

 文明は人間関係の質を変えます。

 赤ちゃんを育てるのに今では紙オムツを使うことが当たり前になっています。私には現在高校生を頭に3人の子どもがいますが、私たち夫婦は子育てをするのに、当時次第に少数派になりつつありましたが、布のオムツを使いました。

 そうしたのにはいくつかの理由がありました。

 布のオムツを使ったことは、経済的なことや地球資源に関する問題意識のこと、オムツかぶれを起こさないようにということなどもその理由ですが、私たち夫婦に「紙オムツより布オムツの方が良い」という信念のようなものがあったことが一番の理由であったように思います。

 その「信念のようなもの」の中味を振り返ってみると、以下のようなことだったのではないかと思います。

 赤ちゃんは大人との心身の接触と交流の中で育ちます。紙オムツを使うより布オムツを使った方が、赤ちゃんも快適だろうし、交流も豊かになると考えたのです。

 赤ちゃんが排泄したとき、こまめに取り替えてあげていると、オムツが濡れたり汚れたりすると赤ちゃんは次第に泣いて教えるようになってきます。赤ちゃんが泣くことは決して否定的なことではなく、大人の言語表現と同じことなのです。赤ちゃんがオムツが濡れたことを泣いて表現して親に訴えていることについて出来るだけ適切に対応してあげるように心掛けました。やがて、赤ちゃんのオムツが濡れて泣くとその表現を受け取った親が出来るだけ手早く取り替えてあげる、というサイクルができてきます。そのサイクルが分かり始めると、時には「そろそろおしっこかな」と察してオムツをはずしておマルに座らせたり、トイレに連れて行って「シー、シー」とおしっこを促して成功することも増えてきました。こうして親と赤ちゃんの間に次第に生活のリズムも出来てくるのです。

 赤ちゃんと親の生活のリズムが比較的安定してくると、その中で排泄をする時間も親の方で察することが出来るようになります。

 このようなトイレットトレーニングは、赤ちゃんが自分の排泄を自分でコントロールしていく上で、きっと私たちが意識している以上に役立っているのではないかと考えました。

 親として、時には子育てに楽をしたくなります。楽をしたいからこそ、赤ちゃんの体のリズムを親もつかんで、トイレでの成功率が上がるように心掛けたのです。

 紙オムツは年々改良されているようで、脇漏れがなかったり、オムツの中におしっこをしてもサラサラした感覚であったり、本当に便利になっているようです。でも、便利であるために、かえって子どもに対する配慮が希薄になってきているような気がします。紙オムツの便利さのために、一日のおむつ交換回数は紙オムツ利用者の方が明らかに少ないのです。でも、オムツ交換の回数が少なくなる分、赤ちゃんのあのプクプクしたお尻の手触りの心地よさを味わう回数も減るのです。オムツを交換している最中に噴水のようにおしっこをされてしまった時の、2割の面倒臭さと8割のいとおしさなどは布オムツ利用者の方がずっとたくさん経験し、子育ての楽しさを実感するのではないでしょうか。

 「そろそろおしっこじゃない?」「いいのよ、うちは紙オムツだから」はじめこのような会話を聞いたとき私は唖然としましたが、このような考えのお母さんは増えているようですね。

 子育てをする基盤の「愛」は、我が子に「愛しているよ」と語りかけることで育まれるとは限りません。むしろ「愛」は色々は子育ての行いの中に溶け込んでいると言えるでしょう。オムツを取り替えたり、お風呂に入れたり、あやしたり、毎日の何気ないやりとりの中に親の愛情は溶け込んでいて、それが毎日子どもに具体的に関わる中で伝えられていくように思うのです。

 世の中はどんどん便利になりました。でも、便利さのゆえに失ってきたものもあるような気がしてなりません。布オムツを用いていた時にたくさんあった赤ちゃんとの交流が紙オムツを用いるようになって少なくなったのではないかと思うことがあります。いえ、紙オムツのことはホンの一例なのです。

 文明が発達すると人間関係の質まで知らず知らずのうちの大きく変わってしまうことをよくわきまえて、赤ちゃんが心身共に健康に豊かに育つために何を大切にしたらよいかをいつも模索していくことが求められているのです。

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2022年12月10日

いじめてよい理由もいじめられて良い理由も無い

いじめてよい理由もいじめられて良い理由も無い

 保護者の方々が「自分の子どもはいじめられていないかしら」と我が子を心配する時勢です。

 誰も他の人のことを悲しませたり苦しめたり嫌がらせをするようなことがあってはなりませんし、また、逆の立場から言えば、いじめの対象されたりしてもならないのです。

 私は時々「いじめられる方にも問題がある」という言葉を耳にしますが、そんなことはありません。

 確かにトラブルを起こしやすい人やそのために不適応を起こしやすい人もいるかもしれないし、いじめの対象にされやすい人はいるようです。

 でも、例えばスポーツが下手でいつもチームのお荷物になっているような人がいたとしましょう。その人は、スポーツが下手だからと言っていじめられてよいのでしょうか。出来ないからと言って蔑まれたりからかわれてよいのでしょうか。スポーツの上手な人は下手な人をいじめてよいわけがありません。

 もし、いつも行動が遅くて周囲を困らせるような人がいたとしたら、周りの人たちのすべき事は、その人の行動が遅くならないように支援していくことであり、具体的には少しでも自分で早くできるようにその方法を教えたり手伝うことであったりすることなのです。

 イジメはあくまでもイジメる側の問題です。多くの場合、自分にとって不都合となる相手の人権を踏みにじってまで保身しようとするところにイジメの原因があります。いじめる人は、自分を保とうとするときにそのような行動を取ってしまう心の狭さや卑劣さを認識すべきなのです。

  みんなが暮らしやすい世界を創り上げていくために「他人を(そして自分自身をも)いじめてよい理由なんか無い」ということを肝に銘じておきたいものです。

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2022年12月09日

赤ちゃんと視線を交わすこと

 赤ちゃんと視線を交わすこと

 私たちは、生まれたばかりの赤ちゃんでも大人が思っているよりずっと多くのことを認知していることを知っておく必要があります。いや、それは赤ちゃんがまだお母さんのお腹にいるときから言えることです。
 赤ちゃんの胎動が始まったら、まだお腹の中にいるときから時々お腹を優しく撫でて言葉をかけてあげてください。赤ちゃんが、やがて「自分は大事なひとりの存在としてこの世に命を与えられたのだ、自分を超えた大きな力に支えられてしかも喜ばれてこの世に命を与えられたのだ」という実感を持てるように、生まれる前からお母さんもお父さんも赤ちゃんが安心し安定した環境の中に生まれてこられるようにしてあげてください。
 さて、生まれたばかりの赤ちゃんにも視力があります。初めのうちはかなりボンヤリしているようなのですか、少なくとも、お母さんが自分の腕に赤ちゃんを抱いた時にお母さんの顔をひとまとまりとして認識するだけの知覚はあるようです。
 神さまは人間を本当に不思議にうまく造ってくださっています。赤ちゃんにとってはこのダッコされた顔と顔の距離が人間関係の出発点と考えることが出来ます。
 お母さんが、この距離で柔らかな表情で優しい言葉を掛けてあげることによって、お腹の中では「闇」であった自分の人生が「光」の人生に変わるのです。この時、お母さんは赤ちゃんに「光の人生は良いものだ」「光の世界も良いものだ」という経験を沢山させてあげてほしいのです。
 赤ちゃんが「生きることは楽しい、素晴らしい」という経験を沢山重ねることが出来ますように。そして初めて経験する「他者」を全面的に信頼して、共にいることは何と心地よいことなのだろう」ということを赤ちゃんが体で知り、体にしみ込ませることが出来るように心掛けてあげましょう。
 赤ちゃんは次第に動くものを目で追うようになります。赤ちゃんにとって一番身近であり目に入る存在はお母さんであり、一番親しみを感じるようになるのがお母さんの顔なのです。赤ちゃんにとって、自分に関心を持ってくれて、自分を受け入れてくれて、自分の気持ちに沿った言葉をかけてくれる「他者」が赤ちゃんの目にしっかりと入っています。
 これはとても大切なことです。例えばテレビがついていれば画面の動きは一方的に赤ちゃんの目に入ってきます。でも、その動きは赤ちゃんの気持ちや状況に沿ったものではありませんし、赤ちゃんのペースで働きかけてくるものではありません。自分の目に入ってくるものが、自分を認めてくれていて、赤ちゃんからのアクションにも反応してくれることで、赤ちゃんはまたその反応を目からも耳からも体中で心地よいこととして経験していくのです。
 この経験は、これからこの赤ちゃんが生きていく人間世界への良い方向付けになることなのです。「まだはっきり見えないからあまり働きかけなくても良い」などと考えないで、お母さんの素敵な優しい表情をまずお母さんの方から沢山赤ちゃんに見せて、お母さんと赤ちゃんの良い絆をつくってください。親と子の絆は初めからあるのではなく、このようにして赤ちゃんと一緒に創り上げていくものと考えましょう。




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2022年12月08日

笑顔を交わし合うこと

笑顔を交わし合うこと

 人は独りでは生きていけません。
人は、特に赤ちゃんは、他の人と一緒に生きることで、はじめて自分のことも相手のことも確認できるようになるのです。聖書の創世記第2章18節で主なる神さまは「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言ってパートナーとなる女の人を造りました。ここに人の性質がとてもよく表現されていると私は思うのです。人が独りでいると、自分の思っていることや考えていることを行動に表しても、そのリアクションがありません。すると、自分自身の確認が出来ないのです。神さまは人が独りでいる姿をご覧になって、人に合う相手を与えてくださったのです。これは、大人と大人の関係だけではなく、親子の関係(特にお母さんと赤ちゃんの関係)でもとても大切なことなのです。
 このごろ衝動的に犯罪を犯してしまう人がいて、時々新聞やテレビラジオで話題になるのですが、容疑者は「誰でもいいから包丁で刺してみたかった」言っていたなどと報道されています。こんなところにも、人と人の関係が深くしっかり結べないでいる現代人の様子が表れてるように思うのです。
 さて、赤ちゃんは自分の目の前にいる他の人との間で自分を確認します。赤ちゃんはまだ「自分を確認する」なんていう難しい言葉で自分をとらえているわけではありませんが、赤ちゃんがどのようにして対人関係を取れるようになっていくかを振り返ってみると、この「自己確認」は赤ちゃんがすべきとても大切なことなのたと気付くでしょう。
 赤ちゃんとお母さんが向かい合っています。お母さんがニコニコしながら赤ちゃんに優しい言葉で語りかけます。すると、赤ちゃんはご機嫌が良くなって、ニコニコっと笑います。お母さんは「まあ、かわいい!」と思ってまた赤ちゃんに笑って語りかけます。赤ちゃんはまたニコニコっと笑いました。お母さんにとってこれは本当に至福の時です。いえ、そればかりか、お母さんが赤ちゃんによって「自分は母親である」という実感を強められる大切な時でもあるのです。
 一方この時は、赤ちゃんにとっても至福の時であり、大切な時なのです。赤ちゃんにとってはまだまだ言葉は出なくても、お母さんとのニコニコのやり取りを通して自分を感じ、またお母さんを感じているのです。つまり、お母さんという他人を通して赤ちゃんは自己確認をし相手の人を認識するようになっていくのです。お母さんに協力してもらい6ヶ月くらいの赤ちゃんと実験をした人がいました。赤ちゃんがお母さんの前でニコニコ笑いかけてもお母さんは能面のような顔をして表情を変えないのです。すると赤ちゃんはどうなると思いますか。赤ちゃんは気の毒になるほど不安な表情をして、べそをかく子までいるのですよ。ニコニコのやりとりの始まりは、お母さんからでも赤ちゃんからでも良いのです。柔らかな声で優しい言葉を赤ちゃんにかけてあげてください。赤ちゃんはそのお母さんを通して自分とお母さんをしっかり確認するでしょう。赤ちゃんのニコニコっとする自分の表現が受け入れられて、優しく確かなリアクションを返してもらえれば、赤ちゃんは自分の存在を受け入れてもらえた経験をし、それはとりもなおさず赤ちゃんが自分の存在を肯定的に実感する経験を重ねることになるのです。
 赤ちゃんとニコニコ笑顔を交わし合いましょう。もしかしたら、そのような時を通してあなたがお母さんとして育まれているのかも・・・。



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