2024年03月22日

生きる喜び (2017年11月)

生きる喜び

神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。( フィリピの信徒への手紙  3:1 )


 聖書に出てくる「命」という言葉には、おもにふたつの意味があります。

 ひとつは、生物としての「命」で、すべての動植物に与えられている「命」です。もうひとつは、「生きること」、「人生」、「死に対する命」という意味であり、人が喜びや悲しみの中で生きる実感を味わうときに浮かび上がってくる「命」です。

 人は、生物としての命を生きているだけではありません。花は美しく咲き匂い、鳥は空を飛んでさえずることで、上に述べた前者の意味の「命」を表現していますが、人は、自分が誰であるかを知り、とりわけ他の人との交わりの中でお互いに出会う中で後者の意味の「命」を育んでいくのです。

 人は、他の誰とも取り替えのきかない大切な命を生きています。例え、生物としての命が満足な状態に置かれなくとも、いや、そのような時にこそ、人は平和をつくり出すことを求め、どのように逆境を乗り越えるのかを考えながら生きる存在であると言えます。

 人間は、自分には上に述べたようなふたつの意味での「命」があることを知り、その「命」について考えながら生きる唯一の生物であると言えるでしょう。

 そうであれば人間は、自分の命も他の人の命もすべての動植物の命も、大切に守り育む使命が与えられていることを自覚する必要があると思うのです。私たち人間は、上に述べたふたつの意味で、生きていること、生かされていることを感謝し喜ぶことができます。言葉を替えれば、人間はこの地球上で生きる喜びを知る唯一の存在であり、これを宗教的に言えば、人間は神を礼拝する特権を与えられているのです。

 秋は収穫の恵みを感謝する季節です。収穫の喜びを感謝できるのも私たち人間の特権です。また、その場をおもしろおかしく過ごすだけでなく、他の動植物もふくめてお互いに豊かに健やかに過ごすためにどうすれば良いか、何ができるのかを考え、その環境を創りだしていくことも私たち人間に与えられた使命であると言えるでしょう。

 おかげさまで、愛恩幼稚園は創立100周年を迎えており、今月は創立100周年を感謝し祝う諸行事も予定されています。幼稚園という組織そのものには生物としての「命」はありませんが、神から与えられた幼子の「命」を豊かに育もうという理念には「神の愛」という「命」が宿っていると言うこともできるでしょう。

 生物としての「命」を健やかに、人間としての「命」を豊かに、共に育み合う幼稚園としてますます成長していけるように祈り続けていきたいと思います。

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2024年03月07日

のびのびと遊ぶ(愛恩便り2017年10月)

のびのびと遊ぶ

どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。(テサロニケの信徒への手紙一 5:23)


 よちよち歩きするようになる時期から幼稚園期の子どもたちは、遊ぶことが大好きです。いや、もしかしたら、人間は生涯遊ぶことが大好きなのではないでしょうか。

 例えば、子どもは、道路を歩くときにも、少しでも高いところを選んで歩こうとしたり、白い線の上だけを歩こうとしたりします。また、水たまりがあれば足を踏み入れ、段差があれば飛び降りてみます。

 子どもはこうしたことを繰り返しながら、自分の身体的な感覚や感性を育てています。飛び降りてみたら意外に簡単だったので少し自信をつけたとか、逆に、飛び降りてみたら足に思わぬ衝撃を受けて自分の行動が無謀であったことに気づくなどということもあります。こうして、子どもは、自分の身体能力と現実把握の力を次第に自分の中でしっかりと認識できるようになっていきます。

 遊びの大切さは、身体のことだけではなく、精神的心理的な面についても言えます。

 例えば、子どもたちが他の人と遊びながら会話を重ねる中で、自分が表現したことが相手に伝わったか、受け入れられているか、喜ばれているか等の手応えを感じたり味わったりしています。また、子どもたちは、遊びの中で相手が話しかけたり働きかけてきたりすることに反応し、応答することによって、その遊びが具体的に展開しいていくことを味わいますが、それは、その相手と協働できた喜びとなり、その友だちに良い印象をもったり好きになったりして、更に一緒に何かしようとする気持ちをも育てます。

 このような経験の量と質が子どもの情操を育てる鍵になるのです。

現実を把握する力が弱いと、判断が独り善がりになり、その現実に対処していくためのアクションも有効に機能しないことになってしまうでしょう。子どもは、本来自分を伸び伸びと素直に表現しながら遊び、そのような「場」を生きる力を育てます。

 子どもは遊びをとおして自分の体を育てると同時に、情操、感性、心理、精神も育てていくのです。

 私は、子ども同士でお互いに刺激し合いながら、のびのび沢山遊んで欲しいと思います。その遊びを有効にするためには、重要な他者(つまり家族や園の保育者など)の適切な反応が必要になります。

 子どもたちのために良い環境を与え、その遊びを見守り、寄り添い、受け容れて、祈りつつその成長を支えていくのが、私たち保育者や親の務めだと思います。

 子どもたちが、良い遊びをのびのびと沢山楽しむ秋にすることが出来ますように。

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体と頭で(愛恩便り2017年9月)

神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(ペトロの手紙 一 4:10)


 私たちにとって、実際に体を動かして様々な経験を積んでいくことが必要であり、また、それはとても大切であることを考えてみたいと思います。幼少期の場合、それは、遊ぶことの大切さと言い換えても、決して言いすぎではありません。

 例えば、子どもがブロックで家を作って遊んでいる場面を想像してみてください。

 幅や長さの異なる小さなブロックを使って家の壁を立て上げていくとき、子どもは(大人でも)体感的に算数の作業をしています。同じサイズのブロックがないときに、少し小さめのどれとどれをつなげることでその部分を補うことが出来るのか、壁に窓をつけようとすればどのサイズのブロックを抜けば、その壁の部分に四角い空間が出来るのか、斜面の屋根をつけようとすれば、上に重ねるブロックをそれぞれ幾つずらしていけばよいのか、子どもは体で算数を味わっているとも言えます。

 また、その場でジャンプしている姿を思い起こしてください。

 「4回ジャンプして一回りしましょう!」「今度は6回ジャンプで一回り!」「次は、8回ジャンプで一回り!」。「それでは、2回で一回りできるかな!」。子どもたちは、こうして「平均」ということや「角度」ということを体で味わいながら、身につけていきます。

 幼児期の子どもに大切なのは、数式や計算方法を覚えることより、遊びをとおしてこうした数学的感覚をたくさん味わうことなのです。

 ある追跡比較調査によると、幼少期に遊びの経験がないままに数式や計算方法を身に付けた子どもより、文字も数字も習わないままたくさん遊んだ経験を持つ子どもの方が、小学校2年生の中頃には学力テストの成績も有意差をもって良くなっている、とのことです。遊びの経験とそこで養った感覚が算数の思考の土台になっていることが容易に想像されます。

 このことは、外遊びでも同じです。鬼ごっこで足の速くない二人で足の速い友だちをどのように捕まえられるかを考えながら体を動かすこと、縄跳びの手と足の動かし方とジャンプするタイミングの合わせ方が次第に調和していくこと、動いているボールを取りに行くときに走り出す方向と速さの感覚などなど、実際に体を動かして遊ぶことが「頭」の良い刺激になっていくのです。

 子どもたちは、本来、誰でも体を動かして遊ぶことが大好きで、そのエネルギーは大人が想像する以上に尽きることはありません。

 いろいろ楽しみながら、チャレンジする秋を過ごして参りましょう。

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2024年03月03日

対人関係の原点(愛恩便り2017年8月)

対人関係の原点

 神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。(ヨハネの手紙一413


 痴呆症の回復のために働きまた研究している人の話を聞きました。次のようなことを丁寧に行うことで、沢山の人の痴呆が(表面的に痴呆のように見えていた症状も含めて)軽減したり消失したりする事例が数多く報告されているとのことです。

 その「丁寧に行うべき3つのこと」は、一言でいえば以下のことです。

・見る:ケアする人は、「あなたの存在をしっかりと見ていますよ」という態度で、相手としっかり視線を合わせる。
・話す:相手の立場になってゆっくりと語りかけ、早急な反応を求めない。反応してくれた時には、受容して簡潔な言葉にして更に相手に語りかける。
・触れる:ケアする相手をつかむのではなく、その人の重さを支える気持ちになってスキンシップを図る。

 これらを大切にして、根気よく接することで、痴呆症が劇的に改善する事例も数多く報告されているということでした。

 よく考えてみると、この3つのことは、特別な治療方法なのではなく、人間関係の基本的事項であり、人が人として生き、互いに大切な人として生きることを支え合うための必須の要件であるように思えます。勿論、この要件をどのように具体化するのかということは、その対象が痴呆の老人なのか幼児なのかによって、違ってくるでしょう。でも、その基本的な態度や接し方の理念においては、共通していると言えます。

 人間は、本来、基本的に大切な固有の人間として成長する力があり、その力は上記の要件が整うときに目に見えて現われ出てきます。逆に、人が病んで自分の存在価値が失われたような思いになり、自分が周囲の人からも大切にされていないという思いが強まってしまえば、痴呆症は痴呆症にとどまらず、その人が生きていく上での精神的な重荷を更に大きくすることにつながっていくことになるのでしょう。

 あらためて痴呆症状改善の3要件を取り上げてみると、これは子育ての基本とも大きく重なります。人が人として大切にされていることの実感は、子どもや老人ばかりでなく、誰でも生きる意欲を強くすることにつながります。

 その実感は、一生を通じて必要であり、ことに乳幼児期と老齢期に大きな課題となると言えるでしょう。そして、その実感の根底には、神さまがいつも私たちと共にいてくださり、私たちを守り、支え、導いてくださっているという信仰があるのです。

 神さまに守られ、導かれて、家族で良いコミュニケーションをかさねて、楽しい夏休みをお過ごしください。

posted by 聖ルカ住人 at 05:55| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神さまの御手のわざ  (愛恩便り2017年7月)

神さまの御手のわざ

 天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す(詩編19:2)


 私たちは、神さまを直接見ることはできません。そのような私たちであるにもかかわらず、私たちはいろいろなものや出来事をとおして神さまを思い巡らせることができます。

 例えば、この詩編が歌っているとおり、大空を見上げることをとおして、自然と触れ合うことをとおして、その中で命と触れ合うことをとおして、また、人と人の関わりの中に働く愛をとおして、私たちは神を感じ、神の存在を思い巡らせるのです。

 冒頭の詩編の言葉は、私が大好きな言葉の一つです。

 この言葉は、神さまがお創りになり、支配しておられる宇宙の広がりに圧倒されるような思いと神への賛美を歌っています。私たち人間は、このような宇宙に触れ、自然に触れ、その不思議さと素晴らしさに5感を養い、癒やされ、励まされます。

 ことに、日本は春夏秋冬それぞれが豊かです。私たちはそれぞれの季節に自然の恵みを味わうことができますが、その中でもことに夏は海、山、森、湖などで自然と触れ合いながら、目には見えない神の御手の業を思い巡らせるのに相応しい季節です。

 私の子どもが小学生だったとき、山梨県のキャンプ地で夜空の満天の星を見て、その感動と共に、自然を壊す人間の働きを悲しく思った、という主旨の作文を書いたことがありました。日常の生活の中では、なかなかそのような神の御手の業を感じられる機会は多くありませんが、幼稚園でも、たとえ少しずつでも、子どもたちが神さまの恵みに触れ、目に見えるものをとおして見えない神の御手の業を思い巡らせる機会が増えるように願っています。

 子どもたちは、水や砂で遊ぶとき、昆虫や植物に触れ合うとき、また、大空、陽の光、月、星、雲、雷、雨、虹等々に触れ合うとき、しなやかで豊かな感性を取り戻し、育み始めます。各ご家庭におかれましても、是非、電子機器や電子ゲームから離れて、心身を養うよい夏休みをお過ごしになりますように、祈っております。

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2024年02月14日

拡がり (愛恩便り2017年5月)

拡がり

「強く、雄々しくあれ。」 ( ヨシュア記 1:6 ) 


 子どもたちは、愛恩幼稚園で生活する空間にも時間にも慣れ始め、表情の明るさ、柔らかさも増し、言動も意欲的になってきました。

 子どもたちは、それぞれに自分の好きな、遊具、場所、絵本などを見つけ、先生や友だちと一緒に、その楽しみを味わい始めています。これまで知らなかった世界を知り、そこに更に新しい発見があったりその面白さを感じたりすると、子どもたちの心の中には、その経験をとおして、「心の幅や深み」が生まれて来ます。

 そして、その「心の幅や深み」は、子どもたちがこれまで経験したことのない事態に直面した時にも、それに立ち向かう意欲やゆとりになり、他の友だちと関わる上での優しい気持ちや気遣う思いをも育むことへとつながっていきます。

 その意味でも、私は、子どもたちがたくさん遊び、その遊びをとおして良い経験をたくさん積んでほしいと思っています。子どもの遊びが拡がることは、子どもの心の中も拡がることにつながります。そして遊びの拡がりを通してたくさんの経験を積むことは、心の中にも深みが生まれます。

 例えば、クレヨンで絵を描くことが白い画用紙の上に自分を表現する経験になり、鬼ごっこをすることで逃げるだけでなく鬼になって他の友だちを追いかける立場の経験もすることになり、しかもそれらのことを先生や他の友だちと楽しみながら積み重ねていくことで、それぞれの内的な世界がますます拡がり豊かになっていくことになります。

 入園、進級してほぼ一ヶ月経つこの時期、子どもたちは先生や友だちとの交わりをとおして、自分の世界をどんどん拡げていきます。この時期は、子どもたちがこれから多くのことに興味関心を示し、物事に前向きに取り組む姿勢や意欲を方向付ける大切な時期です。

 神さまの大きな御守りの中、子どもたちの力が表現され、その世界が拡がっていくように、共に歩んでいきましょう。


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2024年02月12日

見える世界、見えない世界 (愛恩便り2017年4月)

見える世界、見えない世界                         

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:18 ) 


 新年度を迎えました。保護者の皆さまにはお子さまの入園、進級おめでとうございます。

 今年の春の訪れは、寒い日も多く、やや遅いように思えましたが、園庭には、春の花が咲き、創り主をほめたたえています。その球根や花苗の多くは、昨秋に子どもたちが植えたものです。寒い冬の間もこの花苗や球根は、土の中で根を張り、芽を出し、暖かな春の陽を受けて開花しました。

 寒い冬の間にしっかり根を張ることは、土の中でのことであり、わたしたちの目には見えませんが、花を咲かせ実を結ぶためにはなくてはならない成長の過程です。

 子どもたちの成長にもこのような過程(プロセス)があります。目に見えて何かができるようになる前に、必ずその前提となる訓練や準備の時を過ごしています。それは、日々の何気ないこと、当たり前のことを丁寧に積み重ねていくことの中にありそうです。

 縄跳びを例に挙げれば、縄跳びができるようになる前提として、両足でジャンプする力や手足の動きを調和させる力がついていること、リズム感や空間を認識する力などが必要となります。そしてそのような能力は、いきなりロープを持ってジャンプすることで養われるわけではありません。さかのぼれば、しっかりハイハイすること、歩いたり走ったりすることに始まり、たくさん体を動かして遊び込めるようになる過程が必要です。更にさかのぼれば、まだ赤ちゃんの時からしっかり目と目を合わせて笑顔を交わし合う過程があってこそ、やがて様々な特別な技量や能力が花開かせることへとつながるのです。「縄跳びをする」という目に見えることの背景には、目には見えない沢山の大切な過程があるのです。

 愛恩幼稚園では、子どもたちの目に見えない世界も大切にして理解することを心がけています。そして、子どもたちの成長の過程を教職員もご家族の方々と一緒に味わっていきたいと思います。子どもたちがやがて目に見える大きな成長を遂げる日を夢見ながら、日々の保育の働きに努めて参りたいと思います。

 ご家庭でも、幼稚園でも、子どもたちが周りの人々と豊かに心を通わせることを通して、子どもたちがしっかりと育つように、支援して参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 05:25| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月11日

タラントン (愛恩便り2017年3月)

タラントン

「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイによる福音書25:21)


 神さまは、私たちにいろいろなプレゼントをしてくださっています。そのプレゼントは、多くの場合、「麦の種」のようであり、直ぐに役立つわけではなく、潜在的な可能性として与えられている場合が多いのではないでしょうか。そのプレセントのことを「タラントン」と言い、「才能(タレント)」の語源になっています。

 イエスさまは、そのことを譬え話にしています。

 ある主人が僕たちにお金(タラントン:多額なお金の単位です)を預けて旅に出ました。長い年月が経ち、戻って来た主人は僕たちを集めて預けたお金の決算を求めます。

 ある僕は、「ご主人様、5タラントン預かりましたが、ご覧ください。ほかに5タラントン儲けました」と報告すると、主人は喜んで「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」と言いました。他の僕も同様でしたが、他の僕が進み出て「あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。これがあなたのお金です」と差し出すと、「怠け者の悪い僕だ。・・・さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、10タラントン持っているものに与えよ」と言ったのです。

 このたとえの主人は、私たちが受けたプレゼントを眠らせておくことを喜ばれず、その僕を厳しく叱っています。

 神は、私たちに与えてくださった様々な賜物を生かし用いることを喜ばれます。もし私たちがその賜物を一所懸命用いて努力しても満足する結果が得られなかったような場合でも、神はそのことを否定なさらず、チャレンジした経験をまた私たちの宝になるようにしてくださるでしょう。

 その意味でも、神さまから与えられた賜物は、使えば使うほど立派な財産として大きくなります。

 神さまからのプレゼントの中には、素晴らしい自然やそこに住む動植物のようなものもあります。でも、それだけではなく、私たちの体と心の中に「種」のように与えてくださったタラントンもあり、それは使えば使うほど素晴らしい才能として成長することを知っておきましょう。

 運動選手や音楽家が、何度も何度も練習するのも、神さまからいただいたタラントンをより素晴らしいものにするためです。

 園児たちも、この一年間、幼稚園でたくさんの経験を積み、神さまからプレゼントを生かし、色々な事が出来るようになってきました。その喜びを分かち合って感謝しつつ、神さまからいただいた賜物を更に豊かに成長させていくことができますように。

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2024年01月15日

つながり合うために (愛恩便り2017年2月)

つながり合うために 

 わたしにつながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。(ヨハネによる福音書第154)                                    

 先日、私が見かけた一場面からお話しします。

 少し混んでいる夕方の電車の中です。通勤帰りの若いパパが抱っこひもで赤ちゃんを抱いています。きっと我が子を保育園に迎えて、帰宅の途中なのでしょう。最近は、父親も子育てを分担して頑張っています。でも、その光景では、赤ちゃんは時々お父さんの顔をじっと見ますが、お父さんはスマホに視線をやって指を動かし続けています。

 私はその側に立っていましたが、その光景が気になって、赤ちゃんを見ていました。

 赤ちゃんの目と私の目が合いました。私は少し赤ちゃんの気を引くように、いろんな表情をしてみました。赤ちゃんは、じっと私を見つめます。そこで私は口をもぐもぐしたり、唇をとがらせたりするようなこともしてみました。赤ちゃんもそれに応じて少し口元を動かし、ニッコリしてくれるようにもなりました。その赤ちゃんをだっこしているパパは、相変わらず一心にスマホに向かっています。

 私がアクションをやめると、赤ちゃんはまたパパの顔にも視線を向けましたが、やがてパパの手のスマホにも目を向け、かなり首をねじってスマホの画面にじっと目をやり、パパの指先や変化する画面の動きに見入るようになりました。

 私は、そのパパに「お子さんがあなたとつながり合おうとしていたのに・・・。」と伝えたい思いのまま、乗換駅で下車しました。

 人間の目はいわゆる「白眼」の部分が他の哺乳動物よりも多く、私たちは、目を通して感情や思考の動きを他の人と分かち合い、心をつなぐように創られているのです。電車の赤ちゃんも、端から見ていて、その目の動きで、何に関心を持っているのかよく分かりました。赤ちゃんも他者と視線を合わせ、心をつなぎたいのです。

 「目は口ほどにものを言う」と言われるのもうなずけますし、子育てには暖かな視線が大切であることも再認識させられます。

 特に幼少期の子どもは、他の人との豊かなつながりの中で成長していきます。嬉しいことや楽しいことばかりではなく、ぶつかり合ったりすれ違ったりして、心がつながり、心が離れ、また心をつなぐことで、人は豊かに成長していきます。

 私たちは神さまから大きな愛の眼差しを受け、神さまとつながっています。いつでも、どこにいても、私たちは神さまとのつながりの中で生かされており、私たちもこのつながりの上に、互いに暖かく支持的な関係をつくっていくのです。

 私たちは、神さまの愛の眼差しが自分にもしっかりと向けられていることを信じ、互いに良いつながりをつくっていきたいと思います。神さまと私たちのつながりを土台として、子どもたちも互いのつながりを確かなものにしていけるのです。

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2024年01月11日

一緒に生きる (愛恩便り2017年1月)

一緒に生きる

 わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされるのです。( ヨハネの手紙一 4:12 )

 神さまがこの世界を創造し最初の人アダムを創られたとき、「人がひとりでいるのは良くない」と言って、アダムのパートナーとなるエバをお創りになりました。人は他者と心を通わせ合って生きる存在なのです。

 二人の人が会話している場面を想像してみてください。

 片方の人が話し、相手が聞いています。話し手は、聞き手がその話をしっかり受け止めることで相手を鏡のようにして自分を確認し、受け入れ、更にもっと深い心の中を見つめる思いが生まれ、対話を通して新たな気づきが与えられます。人は、お互いに自分の経験や気持ちを共有し、また他者との関わりを通して、新たな情報や知識を得ていきます。私たちも、親子、友人、仕事仲間などの人間関係の中で、互いに自分と相手についての気づきを与えられ、知識や情報を豊かにしており、人間としての成長も他者と共に生きることなしにはあり得ません。

 話は少し横道にそれますが、カウンセリングとは、他人の悩みに適切な解決策を教示することよりも、互いに対人関係を真実で深いものにする歩みの中で、互いが自分と他者を受け入れる営みによって成立するのです。

 こうした図式は、あらゆる人間関係に当てはまることであり、いわゆる「幼稚園期」にある子どものことを考える場合にも有効です。

 例えば、2歳を過ぎた子どもが二人で遊んでいる場面でも、二人はまだ互いに中身のあるやりとりはしませんが、お互いを意識し合います。その二人が一つしかない遊具を使いたくなれば、取り合いが起こったり相手を叩いたりすることが起こり、両者ともそこで上記のような気づき、学習、経験をすることになります。それらは人が人として育っていく上での大切な糧となり、社会性を身につけていく上で欠かせない歩みです。

 人は、それぞれに固有の存在として生かされています。その人と人が出会うからこそ、そこに起こる出来事もその時その場での大切な出来事になります。お互いに異なる存在であり、その自分と相手を大切にして生きていくことは、わたしたち人間が神さまから与えられた大切な課題であると言えるでしょう。「幼稚園期」は、家族の枠を超えて社会性を育む始まりとしてとても大切な時です。

 「一致は親和性を生み、相違は発展可能性を生む。」

 この言葉は、異なる存在であるわたしたち人間が他者と共に生きることの大切さ、楽しさを教えられます。

 時代は加速度をつけて、インターネット、カード決済、自動販売機の設置などをはじめ、機械に頼り、日常のことには人の手を介することが減っており、その分、人間関係も希薄になってきているように感じます。

 そうであれば、私たちは一緒に生きていくことの大切さをいっそう心にとめ、意図して一緒に生きる場を増やすことを心がけねばなりません。一緒に生きることは、みんなが同質に生きることではなく、それぞれが他ならぬ自分として共に未来を開いていくことなのです。

 子どもたちが、仲間と、先生と、家族と共に心を通わせ合って一緒に生きる楽しさをたくさん経験してほしいと思います。その環境作りに心がけていきましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 13:16| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする