2023年07月26日

母の日に思う (あいりんだより2013年5月)

母の日に思う     「父と母を敬いなさい。」 ( エフェソの信徒への手紙 6 :2 ) 


 幼稚園では、5月初めの連休が終わると「母の日」のことが話題になります。そして「母の日」を念頭に置いた話し合いや制作の活動が行われます。

 「母の日」は、20世紀の初め頃、米国の女性社会運動家であったアン・ジャービスの娘であるアンナが、自分の母親の逝去2年を記念して5月第2日曜日に教会で祈りの時を持ち、母親への感謝の思いを白いカーネーションを用いて分かち合ったのがその始まりである、とされています。

 それから約1世紀の時を経て、日本でも「母の日」が教会の枠を超えて多くの人に意識されるようになったことは、キリスト教会と幼稚園に働く者として(商業主義のイヴェントは別として)嬉しいことです。

 特に「母の日」ではなくても、日頃から自分の父と母を敬い、その感謝の思いを伝えられたら、それはそれだけでも幸せなことであり大切なことだと私は思います。自分自身を振り返ってみると、もっともっと事あるたびに母親への感謝を表現すべきであったとも思います。

 私は、子どもたちと礼拝する中で、ことにお誕生会の礼拝の中で、よく命のつながりについてお話をしています。

 人は、他の動物に比べて、弱く小さな姿で生まれてきます。他の多くの哺乳動物は生後30分もすれば4つ足で立ち上がり、自分で母乳を求めて移動できるようになります。でも人間は、同じ哺乳動物であっても、赤ちゃんがハイハイできるようになるのが生後9ヶ月前後、2足歩行できるようになるのが1歳を過ぎる頃からです。この間、人間の赤ちゃんは、母親から数え切れないほどに名を呼ばれ、笑顔を向けられ、あやされ、お乳を与えられ、おむつを交換してもらい、母親からそのような具体的行為の中に溶け込んだ愛情を受けるのであり、人は誰でもこの愛情を受けなければ人として育つことができないのです。

 昔、私がまた若かった頃、母親との些細な感情的な行き違いから、母親をひどい言葉でなじったことがありました。その時、ある人が上記のことを根拠に、たとえ自分の方が正しく母親の方が間違っていても、自分の親に向かってそのような表現をすべきではないことを私に諭してくださいました。

 私たちは誰でもこうして当たり前に生きている大前提として、私たちの両親(あるいはそれに代わる大人)から愛を受けて育まれてきたのです。自分の親に対する満足度や好き嫌いは、人によって違いがあるかもしれませんが、私たちが今をこうして生きることのできる前提として、私たちの父母から愛情を受けてきたことは、忘れてはならない大切なことなのです。

 そして、子どもたちもやがて自分が受けた愛情を継承していけるように、言葉を換えれば、他者を愛する人に育ってさらに豊かな交わりの中で成長できるように、私たちはその環境を整えていくことに努めたいと思います。

 大げさな表現になりますが、人類の歴史はこうした子育てを脈々と受け継ぐことによって成り立っています。乳幼児期に愛情を込めて我が子に関わり育むことをおろそかにして人の社会は成り立ちません。その基盤である家庭の教育と、そして多くの子どもたちにとって初めての学校となる幼稚園教育をとおして、子どもたちの心の中に「おかあさん、ありがとう」と言える深い愛が育まれることを願っています。

posted by 聖ルカ住人 at 05:26| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年07月24日

枝葉の広がりは、目には見えない根の広がりによって(あいりんだより2013年4月号)

枝葉の広がりは、目には見えない根の広がりによって

わたしたちは、見えるものではなく見えないものに目を注ぎます。 (コリントの信徒への手紙Ⅱ 4 : 18 ) 


 進級、新入園おめでとうございます。私たちは、誰もが神さまからこの世に命をいただいた尊い一人ひとりです。子どもたちもそれぞれに固有の輝きを放つことが出来るように、私たちは誠意を尽くしていきたいと思います。また、ご家庭と幼稚園が共に子どもたちの命の育みのために歩んでいくことが出来ますよう、各ご家庭におかれましても、ご協力とご支援をよろしくお願いいたします。

 私は、幼稚園でも礼拝する時を持っていますが、春を迎える頃、子どもたちに水栽培のヒヤシンスを見せながらお話しをしてきました。

 そのお話しの中で、私たちの世界には目に見える世界だけではなく目には見えない世界もあって、むしろ目には見えない世界によって見える世界が支えられていることなどを伝えてきました。子どもたちは、私が見せる水栽培の容器の中に見えるヒヤシンスの白い根にすい寄せられるように視線を向け、普段はあまり目には触れない「見えない世界」に興味を示し、ヒヤシンスを食い入るように見つめていました。

 屋外の草木にも、普段は私たちの目には触れない地中の世界があって、その中でしっかり根を張ってこそ、葉も茂り花も咲くようになります。それとちょうど同じように、私たち人間の成長にとっても、目には見えない大切な世界があるのではないでしょうか。その「目には見えない大切な世界」は、毎日の生活の中に溶け込んでいて、例えば、挨拶の言葉や会話の中にも、また暖かな視線やスキンシップの中にも、生活の一つひとつの中にあると言えるでしょう。人間にとって目には見えない世界は、「愛情に裏打ちされたコミュニケーション」によって創られる、と言えるように思われます。

 草木がしっかり根を張ってこそ立派な枝を伸ばして花を咲かせるように、子どもの成長にもその前提となる「根」の部分の成長が欠かせません。子どもの心の中に、生きていく力、一度や二度の失敗でくじけることなくその失敗経験から学ぶ力、相手のことを自分と同じように大切にする力、こうした力の「根」が、心の中にしっかりと育つよう私たちは日頃から丁寧に子どもたちに関わっていきたいのです。

 草木に適度な水と肥料と光が必要なのと同じように、私たち人間も心身ともに適度な栄養が必要です。

 言葉かけを例にして言えば、子どもが何か出来ないでいる時「ここがダメなんだよ」と言うより「ここをこうすると良いよ」と言いましょう。「そんなことも出来ないの!」というより「大丈夫、今にきっと出来るようになるよ」と言いましょう。目先の結果より子どもたちが時分で自分を信頼して受け入れ、認め、肯定し、意欲を持って取り組む自分を大切に出来るように、励まし支えていきましょう。

 テレビで、時々、東日本大震災東北支援の歌である「花は咲く」が流れます。今年の選抜高校野球の行進テーマ曲にもなりました。

 「花は、花は、花は咲く いつか恋する君のために」。

 私は、その歌をきくたびに、被災地に復興の花が咲くようにという祈りと共に、すべての子どもたちがいつかそれぞれに大きな花を咲かせることができるように、しっかりと心の根を張り丈夫な苗木となって育って欲しい、という思いがわいてきます。

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2023年07月19日

水は器に溢れて流れ出す(2013年1月)

水は器に溢れて流れ出す

 平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。 ( マタイによる福音書 5 : 9 )   


 新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

 皆さまには、どのような年末年始を過ごされたでしょうか。教会では1225日から1月5日までの12日間がクリスマスシーズンであり、私は沢山の礼拝をしながら年末年始を過ごしました。

 私事では、各地に散っている3人の息子たちが正月には帰省して顔を合わせ、生後6ヶ月になる初孫に会うことができました。孫に会うのは今回2度目で、生まれて10日ほど経った日にとんぼ返りで会いに行って以来の体面でした。

 ほぼ3日間一緒に過ごすと、小さな赤ちゃんが僅か半年の間にも、いかに沢山のことを吸収して育っているのかを、実感します。しっかり目を合わせること、こちらからの働きかけに笑顔で応えてくれること。もう少し時が経てば、声を上げて笑ってくれたり「ウング、ウング」とお話ししてくれたりするようになるでしょう。適わぬことではありますが、そのような孫の成長の過程を、私はずっと一緒にいたいとも思います。

 赤ちゃんの首がすわる、寝返りを打つ、這い這いする、摑まり立ちする、一歩二歩踏み出してはトンと座る、よちよち歩きする、走り出す・・・。過ぎでみればこのような成長の過程はあっという間の出来事になるのかもしれません。そのようなことを考えていたら浮かんできたのが、今号のタイトルです。

 私たち大人は、子どもの先のことまたその先のことまで、期待し、心配し、時には、その期待や心配が高じて子どもに必要以上に負担をかけてしまうこともあるのではないでしょうか。

 水は器にいっぱいになれば、自然に溢れて器の外に流れ出します。そしてまた次の器にいっぱいになれば、また流れて次の器に満ちていきます。

 例えば、子どもがお稽古事で、なかなかその課題を乗り越えられないとき、大人は「この子、こんなこともできないの」、「いつになったら出来るようになるのよ」とつい感情的になり、思わず否定的な言葉を浴びせてしまうようなこともあるのではないでしょうか。

 でも、子どもの成長は、直線的ではなく、時に目覚ましく、時に停滞していると思えるように、段階を経るものです。水は器に満ちて自然に流れ出して次の器に溜まり始めるのです。まだその器に水が満ちないうちに、更に次の器の器に水を満たすような要求をすることが子どもにとって大きな心理的負担になることでしょう。

 何かが出来ないことは悪いことではありません。私たち大人は、「大丈夫!そのように練習していると、いつか出来るようになるから。」、「あなたがそのようにやろうとしている姿は素敵よ。」という思いで子どもを見守りましょう。そして、そのような言葉をかけてあげてください。現状を肯定的に受け止めながら、子どものチャレンジを支持していきましょう。

 器に溢れて流れ出す子どもの成長の過程が、やがて大きな河に、大海に出て行く始めです。

 今年も、神さまの見守りと導きのなかで、子どもたち一人ひとりの成長を見守りまた促していきたいと思います。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。



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神の言葉で生きる (あいりんだより2013年3月号)

神の言葉で生きる

 「『人はパンだけで生きるものではない。

 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある。」( マタイによる福音書4:4 )   


 私たちにいろいろな誘惑が襲います。「悪魔・サタン」とは、例えば虫歯菌のイラストのように私たちの目に見える姿で存在するのではなく、私たちの心にもっともらしく働きかけてきて、いつの間にか私たちの心を神の意思から引き離す恐ろしい存在なのです。

 イエスは、これから神の御心を人々に伝えてご自身でも身をもって実践していくにあたり、40日40夜にわたり断食して祈り続けました。すると「悪魔」が来て、イエスにこう言うのです。「神の御心を説くより、パンを与える方がみんなは喜びますよ」と。

 この悪魔の誘いは、イエスにも魅力的に聞こえたことでしょう。

 神の御心とは、平穏な状態の中に見えることではなく、そこに生きる人々の態度の中に現れ出るものであり、それをすぐには示すことはできませんし、なかなか理解してもらえないことも多いのです。そこで、悪魔は手っ取り早くしかも効果的な方法として、人々にパンに与えることを勧めたのです。

 私たちは、与えられた状況の中で、そこに神さまの願う姿が現れ出るように精一杯尽くすことが大切です。でも、それはすぐには目に見えて結果が現れるとは限らないのです。むしろ、パンを与えた方が、人々はすぐに反応を示しますので、結果も見えやすくなります。悪魔は、人が生きるのに必要なパンのことを持ち出し、いつの間にかパンのことだけしか考えないようにさせて、いつの間にか私たちの心を神の御心から引き離そうとするのです。

 そのような悪魔の巧みな誘いに対して、イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という旧約聖書の言葉を用いて、その誘いを退けました。

 私たちが生きるときに物や金銭や名誉が大切なのではなく、神の言葉によって生きることが大切であるということは、分かり切ったようなことでありながら、私たちの生活を振り返ってみるとき、そのことは案外おろそかにされているのではないでしょうか。

 例えば、家庭に電子ゲーム器が入り込んでいますが、それで遊ぶ中で心の交流はより豊かになっているのでしょうか。プログラム化した楽しみの中にはまり込んで、多くの人が対話を奪われています。高価で贅沢な食事をすることに気を取られて、豊かな会話のある食卓を囲む楽しみを見失っていないでしょうか。また、モノを得るための競争に勝つことをたくましさと勘違いして、他人のために心を尽くすことを忘れていないでしょうか。

 本当のたくましさとは、真理に自分をかけて貫き通せる力を持つことであり、自分の思い通りに他人を支配する力を持つことではありません。そして、本当の豊かさとは、富を独り占めすることではなく、喜びと共に自分の能力を他者と分け合うことです。心を通わせることとは、自分を主張するだけでなく、相手の側に立って共に泣き共に喜び合うことです。

 それを可能にするのは、私たちがパンによってではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きることへと導かれることによってなのです。

 そのような交わりを創り上げていくことを目指して、またこの一年、幼稚園の働きを進めてくることができました。皆さまのご理解とご協力を感謝いたします。たとえ小さくても、先ず自分から神さまの御心を行うことができるようにと祈り求めながら、これからも子どもたちの命の育みのために尽くして参りたいと思います。

posted by 聖ルカ住人 at 16:06| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年07月17日

「ありがとう」をたくさん言おう (あいりんだより2013年2月号)

「ありがとう」をたくさん言おう

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。( テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5:16-17 )   


 ある方がこう言っていました。

「普通のこと、当たり前のことはすべて感謝すべきこと。その感謝の思いを言葉に表して伝えましょう。」

 当たり前のことを、わざわざ「ありがとう」なんて言う必要はないし、それなのにそんなことするのはわざとらしくて気恥ずかしい、と思う方がいるかもしれません。でも、そのような気持ちを乗り越えて、是非、具体的に「ありがとう」と言葉にすることを実行していただきたいのです。

 例えば、路上で道を尋ねられて教えることができたというような小さなことでも、人の役に立てたら嬉しいことです。道を教えられた人も「ありがとう」と言えればお互いに気持ちよいでしょう。それと同時に、教えた人も「私も見知らぬあなたのお役に立てて嬉しいです。ありがとう。」という思いになれたら、お互いに更に気持ちよくなれるでしょう。

 してもらったことが自分に都合の良い結果になればそのことに「ありがとう」を言いやすいでしょう。つまり「行為」に対しては「ありがとう」と言いやすいし言う機会も多いのです。でも、それだけではなく、わたしたちは「存在」そのものに対しても「ありがとう」と言うことを心がけたいと思うのです。

 特に、子供はまだ経済的な力があるわけではなく体力も弱く出来ることには限りがあります。「行為」についてだけ「ありがとう」を言うのであれば、子供が大人から「ありがとう」と言われる機会はあまり多くはありません。でも、少し視点を変えて考えてみると、親にとって子供は「生まれてきてくれてありがとう」と言う存在なのではないでしょうか。また、我が子がまだおしゃべりできない頃に、親である私たちに視線を合わせてニッコリと笑顔をみせてくれたとき、「素敵な笑顔をみせてくれてありがとう」という気持ちになることもしばしばだったのではないでしょうか。そのようにしてわたしたちは子供に親として育てられており、子供に「ありがとう」と言うべきなのです。

 子供は親をはじめとする「重要な他者」に認められることによって、自分で自分の存在を認め、肯定的に建設的に生きる基盤を築きます。子供はこのことをまだ言葉に出して表現したりはしませんが、「お母さんが自分の存在を喜んでいてくれる」という実感が、子供の生きる自信を確かにしているのです。

 園児とお弁当を一緒にしていると、時々「お兄(姉)ちゃんからバカって言われるの」と話してくれる子がいます。言う方はただの遊び感覚でしょうが、言われる方は子供なりに自分の存在を傷つけられ、小さな胸を痛めている様子がうかがえます。バカと言われる代わりに「あなたが妹(弟)でいてくれてありがとう」と言われたら、その子はもっともっと自分が生きることを嬉しく思うことでしょう。

 「ありがとう」がたくさん言える人は、回りまわって、「ありがとう」をたくさん言ってもらえる人になるでしょう。

 そして、このようなことが言えるすべての前提として、神さまがわたしたち一人ひとりをこの世に送り出してくださり、わたしたちの存在を祝していてくださることを感謝したいと思います。

 改めて冒頭に掲げた聖書の言葉を思い巡らせています。

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2023年07月14日

サンタクロースのお手伝い (あいりんだより2012年12月号)

サンタクロースのお手伝い

 この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。( マタイによる福音書 25 : 40 )   

 クリスマスが近づいてきます。イエスをキリスト(救い主)として、その信仰に生きる者にとって、キリストの降誕を祝うこの日は嬉しい日であり、言葉に表せない深い喜びがあります。子どもたちにとってもクリスマスは喜ばしい日であり、家族やサンタクロースからプレゼントを戴くことを楽しみに待っている子どもも多いことでしょう。

 この機会に、少しサンタクロースについてお話ししたいと思います。

 サンタクロースとは、聖ニコラスのことです。聖ニコラスは4世紀の人で、ミュラ(現在のトルコの中の都市)の司教でした。ニコラスは、大富豪の家に生まれましたが親から受け継いだ財産を自分のものとは考えず、他人に知られないように貧しい人々のために使う人だったのです。ニコラスがそのように考える基にあったのは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい(マタイによる福音書1921)。」というイエスの言葉でした。

 ある時、ニコラス司教は、ある貧しい家の父親が3人いる自分の娘を借金のために奴隷として売らなければならない状態にあること知りました。すると、ニコラス司教は、その人の家に金貨の入った袋をそっと投げ込みますが、それがニコラス司教の働きだと知られお礼を言われても、「わたしではありません。お礼なら神さまに言ってください」と答えるのでした。とりわけ貧しい人や小さい子どもたちを大切にしたニコラス司教は、子どもたちからも親しまれました。

 やがてニコラス司教は天に召され聖人とされます。多くの人がニコラス司教の遺志をついで隠れた善行をするようになり、自分の名を用いずに聖ニコラスの名で贈り物をするようになりました。子どもたちも「聖ニコラスさんにお礼をしよう」、「聖ニコラスさんの働きをしよう」と、寝ている間にやってくる聖ニコラスさんの乗る白馬に干し草を用意し、ベッド脇の靴下や靴の中にその干し草を入れておくようになります。すると、聖ニコラスさんはそのような子どもへの「ありがとう」のメッセージとして靴や靴下の中にそっとキャンディなどを入れてくれたのです。

 こうして、姿の見えない聖ニコラスは、貧しく小さい人々に夢と喜びを与えながら、時代を超えてイエス・キリストを伝え続けているのです。

 わたしたちは、サンタクロースから「受ける喜び」を味わうだけではなく、隣人を配慮しサンタクロースのお手伝いができるようになりたいのです。なぜなら、神の祝福は特定の人だけに与えられているのではなく、この世界全体に与えられているはずであり、わたしたちがサンタクロースのお手伝いをすることをとおして少しでも神の祝福がこの世界に表われ出るようにできたら、それは一人の喜びになるばかりでなく、同時に神の喜びになるからです。

 神さまの喜びの輪が拡がるクリスマスを迎えられますように。そして、その喜びの輪の中で、子どもたちが神と人々を思う心を育むことができますように。そのような意味の「クリスマス、おめでとう!」を交わし合う日を迎えましょう。
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2023年07月09日

いじめて良い理由なんか無い! (あいりんだより2012年11月号)

いじめて良い理由なんか無い!

 平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。( マタイによる福音書 5 : 9 )    


 毎日のように、いじめに関する痛ましいニュースが流れています。それと共に、いじめの背景、構造、原因などについてもいろいろな解説や評論が行なわれています。

 一頃、いじめられやすい子どものタイプを分類したり、いじめられる側にどんな問題があるのかをもっともらしく論じたりすることもあったようです。そして、いじめをする側の小学生や中学生にその理由を尋ねると、いじめる自分を正当化するかのように「だって、あいつは雰囲気が読めずに、いつもクラスの調和を乱すから」とか、「あいつは性格が暗くて、あいつがそばにいるとうっとうしい。いない方が楽しい」などと答えることも見受けられました。

 そして、いじめられている子の保護者の方に向かって、指導する教師が、例えば、「どうも、お宅のお子さんがクラスの雰囲気を読めない面や、性格的に暗い一面がいじめられる原因にもなっていますから、家庭でも気をつけてよく指導してください」などと筋違いの説諭する例もあったようです。

 しかし、わたしたちは、そのようないじめる側の論理や管理するものの指導の在り方は、基本的に間違っていることを、しっかり認識しておきたいと思うのです。

 百歩譲って、いじめられている人が周りの雰囲気が読めなかったり性格が暗かったりするような一面があったからといって、その人はいじめられて良いのでしょうか。

 周りの雰囲気が読めない人が受けなければならないのは、暴力や嫌がらせではなく、その人が場の雰囲気を理解するための支援であり、どのように自分を表現すると良いのかを学び経験するための支援なのです。その支援を行なわずに、人をいじめる理由にすることは、いじめられる側の問題なのではなく、いじめる側の問題であることは明らかです。いじめる側の非常識、無責任、残忍さこそ、向き合って掘り起こし、解決していかなければならない大きな課題なのです。

 人は誰でも他人から拒否されたり否定されたりすれば、そうされるほど、自分でも自分の存在感や自分に対する肯定感を失っていきます。そのことを、ある教育学者がこんな例えで語っていました。「もし音楽をまったく解らない素人からでも自分の作品を否定されれば、ベートーヴェンでも落ち込みます。」

 イジメについては、今のところ当幼稚園の課題ではありませんが、現代社会の中では深刻な問題になっています。自分と同じようにすべての人が神によってこの世に命を与えられた尊い存在であり、誰一人いじめられて良い人、いじめる側に立って良い人などいないことを確認したいと思います。

 すべての人が神から命の恵みを与えられてこの世界に生かされており、自分の身の周りから平和を実現していく機運を創っていくことができるように、という思いをもって記しました。

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2023年07月08日

たくさん体を動かそう (あいりんだより2012年10月号)

たくさん体を動かそう

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 ( ヨハネの手紙 一4:8 )   

 本年3月、文部科学省から「幼児期運動指針」が通知されました。それによると、現代の社会は、生活全体が便利になって、歩くことをはじめとした体を動かす機会が少なくなり、多くの運動量を必要としない生活をするようになり、耐力が向上せず、子どもが身体を動かすことを軽視することにつながっている、と言います。そして、このような現状は、その後の児童期、青年期への運動やスポーツに親しむ資源や能力の育成を阻害し、更には意欲や気力が減退し、対人関係などのコミュニケーションをうまく作り上げられないなど、運動不足は子どもの心の発達にも重大な影響を及ぼすことにもなりかねないと、将来を案じています。

 子どもが十分に体を動かして遊ぶことは、心肺機能や骨の形成にも大切なことであり、危険を回避する力を身に付けたり生涯にわたる健康の基盤をつくるためにも必要です。更には、遊びで得られる達成感などの成功体験を得させ、課題に向かう意欲的な態度を育成するためにも、体を動かして遊ぶことが必要です。

 こうした、個人的な身体・精神的な面に限らず、幼児期の子どもは次第に集団で遊ぶようになりますので、他の子どもたちとコミュニケーションを図りながら自分を主張したり相手を理解したりすることを覚え、協力することや他者のために貢献することなども学んでいくことになります。

 幼児期のこのような遊びは、やがて学童期にはいると、ルールのある運動、スポーツに向かうことになります。運動は、素早い方向転換や身のこなし、状況判断、予測や協調など、脳の多くの領域を使用し刺激しながら、調和のとれた運動制御機能や判断力、知的能力を発達させていくことになります。

 幼い頃から特定の種目だけの運動をした子どもと、特定の種目に限定せず屋外でたくさん遊んだ子どもの運動能力の伸び方を追跡調査したところ、小学校高学年になる頃から両者の差はなくなり、その後はかえってその種目の能力についても逆転するという結果が出ているそうです。

 本題からはそれますが、子どもが早期に文字学習を行なっても、小学校一年生の終わり頃には、行なわなかった子どもとの間にその能力差はなくなり、小学校3年生になる頃には、かえって早期の文字学習を行なわなかった子どもの方が、読解力、作文表現力などの点で好結果を収めるようになるという研究結果も報告されています。幼少期には、子どもは大人とも子ども同士でも、たくさん体を動かして、言葉と心を交わし合い、心を豊かに通わせ合うことが、身体、精神、知的発育のための基盤づくりになる、と言えるでしょう。

 ちなみに、文部科学省は「幼児は様々な遊びを中心に、毎日、合計60分以上、楽しく体を動かすことが大切です!」と言っています。

わたしたち大人の暖かな眼差しのもとで、のびのびとたくさん体を動かして遊びこむ日々の積み重ねが、子どもの「骨太の心身」を創り上げる基本なのです。子どもたちの秘められた様々な可能性を開くためにも、子どもたちがたくさん体を動かして遊ぶ機会を持てるよう心掛けましょう。

 (今回は、文部科学省のホームページ「幼児期運動指針」より多くの部分を引用して記しました。)

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2023年07月05日

愛が育むもの(あいりんだより2012年9月号)

愛が育むもの

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。( ヨハネによる福音書第15章12節 )   

 わたしの息子に男の子が生まれて2ヶ月半が経ちました。わたしはお祖父ちゃんになりました。電子メールで孫の写真を送ってもらいました。自分を抱いている母親としっかりと視線を合わせてニッコリしている孫の顔は、何とも可愛く、わたしの中の穏やかさや優しさが引き出されてくるようで、お腹のあたりが温かくなってきます。息子家族は関西におり、なかなか会う機会が得られず残念ですが、息子から送られてくる写真を時々見ては、家内とニンマリとしている今日この頃です。そして、写真ではなく、実際に孫と目と目を合わせて笑顔を交わし合う時が与えられるのを待ち望んでいます。

 でも、もしかしたらその時には、孫は自分の父母や見慣れた人々と見知らぬ人との区別ができるようになっていて、見慣れぬおじいさんを見て大泣きするかも知れません。その時は、内心では泣きたい気持ちになっても、「おお、いろんな人の違いが分かるようになってきたねぇ、頭が良いねぇ。」と、笑顔で受け止める覚悟を固めております。

 もう一つは、ある研修会の実践報告で聴いた話です。

 ある病院に、虐待(育児放棄)で措置された赤ちゃんが引き取られました。当然、栄養不良で低体重、周囲の人にもほとんど反応を示すことのない赤ちゃんでした。この赤ちゃんの担当となった看護師は乳幼児の心身の発達と健康にとても意識の高い人でした。彼女は決められた食事や排泄処理などに限らず、まるで母親が我が子を育てるようにこの赤ちゃんに視線を向け、笑顔で語りかけ、赤ちゃんに関わる努力をしたのです。するとその赤ちゃんは一ヶ月ほど経つと笑って反応を示すようになり、栄養摂取(食事をとること)にも意欲的になり、まるで別人のように血色も良くなり、その後約3年を経て、運動、言語、生活習慣などの発達水準もほぼ年齢相応になるまでに回復していったのでした。わたしは、ほっとする面と心が痛む面とを自分の中に覚えながら、この報告を聞いていました。

 さて、こうした事例から、人間は他者と心を通わせ会って生きることがいかに大切であるかを思い知らされます。「心を通わせる」とは、具体的には、相手としっかり目と目を合わせて相手の心を受け取ることあり、赤ちゃんに限らず、相手(子ども)の発信したこと(視線、笑顔、表情、声、行動などなど)を受け止めて、肯定的で支持的な反応を返すことです。

 人は、未だ何もできない赤ちゃんの笑顔にさえ癒されて穏やかで優しい思いを引き出されるのですから、逆に子どもたちに関わる者として、家族のみんなも園の教職員も笑顔で子どもたちを支え育むことがいかに大切であるかを改めて心に留めたいと思います。「愛」とはキリスト教の礼拝の中だけで語られる事柄ではなく、日常の具体的な行為の中に神の働きが起こるように努めること、つまり相手を思って関わり続けることです。キリスト教保育の根底を再確認して2学期を始めて参りたいと思います。

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夏休みを前に(あいりんだより2012年7月号)

夏休みを前に

わたしの魂よ、主をたたえよ。

わたしのうちにあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。 ( 詩編103:2 )   


 新年度の始業からほぼ3ヶ月たって、夏休みを迎えようとしています。子どもたちにとっての一学期3ヶ月間は確実な成長を見て取れる時でした。

 例えば、入園当初は他児のしていることに興味をもっても関わり方が分からず、他児の遊び道具を横取りしたりせっかく他児が途中まで作った作品を壊してしまったりしていた子どもが、「貸してください」「入れてください」と言って、友だちと関わり、お互いに意見を交換することで仲良く遊ぶことができるようになってきました。また、お弁当のときにお箸を使ってじょうずに食べられるようになったり、衣服の着脱や手洗いなどもいつの間にか他人の手を借りずにできるようになってきた子もいます。

 各ご家庭でも、子どもが幼稚園に通い始めることによって、一日の生活リズムが整い、ご家族で規則正しい生活を確立してきた方もおられることでしょう。

 さて、もうすぐ夏休みに入ります。あくまでも園長個人の考えではありますが、長い夏休み期間を過ごすにあたり、皆さまにご家庭で是非心がけていただきたいことをいくつか申し上げたいと思います。

 先ず、是非子どもの自尊感情(自己肯定感)がしっかり育つように、子どもの言動を受け止めて支持する関わりを心掛けてください。人は誰も自分を超えた大きな力によってこの世界に生かされており、存在そのものが尊く素晴らしいのです。子どもの自己肯定感を育むことは、決して子どもを甘やかしたり間違ったことを容認したりすることではありません。自分は神によってこの世に命を与えられた取り替えることのできない自分であり、自分をしっかり表現することは大切なことである、という思いを持てることが自己肯定という言葉の内実です。そして、この思いは親や教師など子どもにとって大切な人に受け容れられ支持されるときに育つのです。

 第2に、上記のことと深い関わりがありますが、子どもがいろいろなことに自分でチャレンジする機会を与えていただきたいと思います。その「いろいろなこと」の中身は、奇抜なことや特殊なことではなく、例えば、衣服の着脱、ヒモ結び、トイレの始末などに、なるべく手を貸さずに見守り、自分で取り組んだことを認めて励ますように心掛けてください。

 第3に、日々体を動かして遊ぶ機会を持てるように心掛けていただきたいと思います。文部科学省では、本年3月に「幼児期運動指針」を発行し、毎日60分以上幼児期の子どもに体を動かす機会を与えるように促しています。この件についてはまた別の機会に触れたいと思いますが、各ご家庭におかれましても、子どもたちが夏休みの間も様々な運動遊びをとおして体の各部位を自然にたくさん動かし、心身の発育に良い刺激を与える夏を過ごすことができますように。

 もう一つ、生活のリズムを整え、子どもたちの排泄リズムを整えてください。ことに排便は一日の食事や睡眠の時間と深い関わりがあります。規則正しい生活を心掛け、その中で朝食後あるいは夕食後の決まった時間に排便する習慣を、また薄着で目の行き届くこの季節にオシッコのトレーニングが進むことを願っています。

 良い夏休みが過ごせますように。また、夏期預かり保育を有効に活用してください。
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