2024年04月20日

遊びこそ学び (愛恩便り2018年10月)

遊びこそ学び

あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。(コリントの信徒への手紙一 1:5)


 先日、ある会合で、幼稚園時期の子どもたちにいわゆる「勉強」をさせるべきかどうかが話題になり、意見を求められました。その場ではあまり長くお話しする時間もありませんでしたが、その会が終わってから自分の子どもたちはどうだったのか思い出してみました。我が子に限らず、子どもたちにとって、遊びこそ学ぶ経験であり勉強の基礎です。

 「遊び」という言葉が「勉強」という言葉の対極の意味のように思われてしまう面がありますが、ことに子どもの場合は、「遊び」と「勉強」は分けてとらえるべきことではなく、むしろそれらは一つのこととして考えるべきなのではないでしょうか。

 例を挙げてみましょう。

 玉入れ競争をしました。「赤と白、どっちが勝ったかな。あと幾つ入れれば同点?」。机の上でドリル帳を開くことより、玉入れの方がずっと数についての具体的イメージがつくれます。

 「その場でジャンプしましょう。」「それでは4回ジャンプして一回り。それ、ジャンプ、ジャンプ、ジャンプ、ジャンプ。」「今度は3回ジャンプして一回り。それ、ジャンプ、ジャンプ、ジャンプ。はい、また真っ直ぐ前を向けたかな。」

 このような動きの中に、子どもは分数について体験し、角度について体で学んでいます。

 また、レゴブロックでお城を作りながら長さ、高さ、面積、体積のことを学び、ボールで遊びながら速さや距離のことを体感し、お散歩をしながらお店のことや季節の花々を目にし、息を切らせて走ることで自分の体の仕組みを感じ、ナゾナゾやしりとりで語彙や発想力に磨きをかけるなどなど、子どもが遊びの中で経験していることがどれほど多様でありかつ豊かであるかを挙げていけば限りありません。

 野球が大好きだった私の子どもは、たくさんの漢字を野球選手の名前で覚え、打率の計算方法を学び、日本地理や地域の産業については都市対抗野球の代表チームで学びました。

 家族や友だちとその経験を言葉にして共有することも、子どもにとっては大切な「遊び」でありつつそれが「勉強」でもあることは言うまでもないでしょう。

 そのような実体験があれば、テレビやパソコンの画面を通した「疑似体験」や「仮想体験」も少しは子どものイメージを膨らませるために役立つ可能性もあるかもしれませんが、実際に体を動かし、心を動かして質の高い遊びを遊び込むことこそ幼児期の子どもにとっての最高の勉強なのです。子どもは、この土台があって、小学校への教科学習にも意欲を持てるのです。

 早期に文字や計算などのドリルを始めた子どもより、十分に遊んだ子どもの方が、10歳を超える頃から学力試験の成績が逆転して上位になるという研究結果も明らかにされています。

 秋の気持ちよい日も増えてきます。遊び込んでたくさん学びましょう。


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2024年04月16日

成功の体験を積むこと(愛恩便り2018年9月)

成功の体験を積むこと

いつも、塩で味付けられた快い言葉で語りなさい。(コロサイの信徒への手紙3:6)


 近年、教育界で「成功体験」という言葉がしきりに使われています。この言葉の意味は、文字どおり、何かの行動が良い結果につながったという経験をするということです。

 例えば、子どもがお母さんに「〇〇ってどういうこと?」と尋ねてきたときに、お母さんが「そのことは教えたでしょ。あなたはまだ覚えないの。だめねー。」と応じていたら、子どもは成功体験を積むことができるでしょうか。いいえ、子どもはきっと小さな傷つきの体験をすることでしょう。そして、その子どもの心の中には、〇〇がどういうことかを理解することより、お母さんから非難されて心折れる思いになったことの方が強く心に残り、〇〇について理解する意欲はなお失われていくことでしょう。また、その子どもは、分からないことをお母さんに尋ねて分かろうとすることは、お母さんを起こらせることになる、という学習をしたことになると言えるかもしれません。

 成功体験とは、「分からなかったことを尋ねて良かった。」という思いと共に、小さな課題を一つ乗りこえることができた満足感、達成感を伴っているはずです。このような日々の小さな成功体験の積み重ねが、子どもの意欲、興味や関心、チャレンジ精神などを少しずつ少しずつ育んでいきます。日々の、何気ない子どもとのやりとりの中にも、子どもに成功体験を与える「種」は沢山あるはずです。

 「大丈夫、神さまが見ていてくださるから。」、「ゆっくりで良いからていねいに取り組むことで今にできるようになりますよ。」、「ほら、そこまではできたね。あと半分で全部できるようになれる!」。このような支持と言葉かけが、子どもの成功体験を生み出す言葉になるのではないでしょうか。

 こうした成功体験で育まれる精神が、子どもの生きる力の土台になります。

 「何かに挑戦したボクが、その結果はどうであれ、受け入れられた。」という経験こそ、大切な成功体験なのかもしれません。

 すると、「あの時のあの失敗の経験があったからこそ、そのことが今の自分の成功につながっている。」という深い成功体験にもつながっていくのではないでしょうか。

 9月になりました。第2期には沢山の楽しい行事もあります。みんながそれぞれに自分にチャレンジして、沢山の成功体験を積み重ねていく時にしていきましょう。


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2024年04月15日

夏休みを過ごす(愛恩便り2018年8月)

夏休みを過ごす 

すべてのものを豊かに与えて楽しませて下さる神に望みを置くように。(テモテへの信徒への手紙一 6:17


 夏休みを過ごすために、いくつか具体的なことを記したいと思い

 まず、「早寝、早起き、朝ご飯」を心がけてください。このことは、長期休みの前にいつも子どもたちに伝えていることですが、この生活のリズムが心身のリズムをつくります。前日の就寝が遅くなった翌朝も、早起きをして生活リズムを保つことを勧める医師もいます。

 そしてこのリズムは排泄のリズムもつくります。朝食あるいは夕食の後、トイレに行って排泄する習慣をつくれるよう努めてください。適量の食事と便意には強い関連があります。はじめのうちは「したくない」「出ない」という場合もあるでしょう。でも、わたしの経験で言えば、早ければ3~4日で朝のトイレ習慣ができています。このことは、幼稚園で集団生活をおくる時、活動の途中にその場を離れることがなくなること一つ考えても、大切なことであることが分かるでしょう。

 次に、できるだけ毎日外で体を動かして遊ぶ時間をとってください。近年、これまでの標準的な天候を前提に「夏休みの過ごし方」を考えることが難しい状況になってきてはいますが、筋肉を動かしてその成長を促すことの大切さと必要性に変わりはありません。幼稚園児の運動量(歩数計での計測)の調査で、40年ほど前には一日に12,000歩ほど動いていたのか、8,000歩ほどに減少していると報告されていました。

 膝や腰などに極度に負荷のかかる運動をする必要はありませんが、夏休み中も屋外で十分に体を動かして遊ぶことができるよう、各ご家庭でも心がけてください。

 もう一つは、しっかりと顔と顔を合わせて対話する時間をとっていただきたいことです。

 近年の子どもたちはテレビ、ビデオ、電子ゲームなど、またパソコンやスマホなどに囲まれて過ごしており、それが食事やおやつの時間にまで入り込んでいます。親しい人との話や大切な事柄を伝えようとする話の時にも、しっかりと相手に顔を向けない子どもが増えています。食事の時間をはじめ、家族で会話する時間を十分にとって、子どもたちの話をしっかりと視線を合わせて受け止め、また、子どもの心に届く言葉をかける機会をつくってください。つまり、心を向き合わせ、顔と顔を向き合わせ、視線を合わせる機会をたくさんつくってください。

 先日、ある医師が、各家庭によって子どもたちの健康管理の意識(保護者の配慮)に違いがあると言っておられました。夏休みの過ごし方は各ご家庭に任せられていることとは言え、子どもたちが「愛恩幼稚園のこども」として健やかに良い夏休みを過ごしてほしいと思います。また、夏休み中の「預かり保育」も有効に活用してください。

 近年、教育界で「成功体験」という言葉がしきりに使われています。この言葉の意味は、文字どおり、何かの行動が良い結果につながったという経験になるということです。

 例えば、子どもがお母さんに「〇〇ってどういうこと?」と尋ねてきたときに、「あなたはまだそんなことも知らないの。だめねー。」と応じていたら、子どもは成功体験を積むことができるでしょうか。いいえ、子どもはきっと小さな傷つきの体験をすることでしょう。

 成功体験とは、「分からなかったことを尋ねて良かった。」という思いと共に、小さな課題を一つ乗りこえることができた満足感、達成感を伴っているはずです。このような日々の小さな成功体験の積み重ねが、子どもの意欲、興味や関心、チャレンジ精神などを少しずつ少しずつ育んでいきます。

 夏休み中の各ご家庭に神さまの御守りと導きをお祈りいたします。

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交わり (愛恩便り2017月7月)

交わり

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。(ヨハネによる福音書13:34)


 園庭の片隅にあるベンチで、4人の年少さんが砂やカップで遊んでいます。近づいていくと、その中の一人が「園長先生、レストランごっこしてるの。」と説明してくれました。

 私が「座ってもいい?」とたずねると「いいよ」と気持ちの良い返事が返ってきて、子どもたちは「どうぞ」とお料理とデザートのおもてなしをしてくれました。

 年少さんの遊びも、並行遊び(同じ場で同じ遊びを、友だちを意識しながらも、まだ具体的な関係をもたずに遊ぶこと)から集団の遊び(遊びの中で互いに協力したり役割分担したりすること)へと進展していることを感じました。

 集団遊びができる前提として、それまでにしっかり遊び込むことで、子どもの中に「自己存在感」が育っていることが必要です。それは、言い換えれば、十分に遊んだ満足感です。3才の子どもでも、遊びの中で、自分は何をしたいのかということをしっかり把握しています。その自分に自信を持って自分らしく色々な表現ができるようになると、同じように育っている友だちと遊ぶことで、並行遊びの先に共同作業をする素晴らしい世界が展開してくるのです。

 そのような集団遊びは、絵の具の色に例えられます。Aさんはきれいな赤色、Bさんは鮮やかな黄色、二人が創り出す世界はオレンジ色。AさんがCさんのさわやかな青色と関われば二人の創り出す世界は紫色。そしてBさんとCさんの関係は緑色の世界を創り出します。更にDさんの個性が白色であれば・・・。

 このようにして友だちと関わり合うことでできる新しい世界の経験は、人の心を更に豊かに育てます。

 神さまは「愛」となって、人と人との交わりの中にいてくださり、人を育てます。その「交わり」がお互いを育てるのです。子どもたちの遊びは、独りでは決して味わうことのできない素晴らしい世界を創り出します。私たちの交わりの根底に神の愛があることを感謝しつつ、子どもたちをとおして神さまの願っておられる世界が顕現する働きに勤めて参りたいと思います。

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2024年04月08日

経験の広がり (愛恩便り2018年6月)

経験の拡がり

お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。(マタイによる福音書 25:21 ) 


 今から半世紀前、人の成長について以下のような簡単なモデルで説明をした人がいます。

 人間の心には4つの窓(領域)があります。

1.自分で分かっており他の人も知っている窓(open)。

2.その対極にあるのが自分のことであるにも関わらず自分も他人も知らない窓(dark)。

3.自分では分かっているけれど他の人は知らない窓(hidden)。

4.自分では気付いていないけれど他の人には分かっている窓(blind)。

 そして、他の人とのコミュニケーションを通して、1.の窓を開いていくことが心の成長である、というモデルです。

 幼稚園生活を始める年齢の子どもたちは、まだ自分の身の回りのことを論理的に理解しているわけではありません。でも、子どもたちは日々のことを体験としてよく分かっています。子どもたちが「当たり前のこと」の経験を日々たくさん積み重ねている時に、わたしたち大人がどのような態度で子どもに関わり、どのような言葉をかけているのかということに注意を払う必要があります。この時期の子どもたちが周りの大人の人たちからどのような関わりを与えられてどのような言葉をかけられているかは、子ども自身が日々の経験を自分の中にどのように意味づけて、基本的な生きる姿勢をどのように方向付けていくのかということに大きな影響を与えるからです。

 子どもたちに対するわたしたち大人の言葉のかけ方の違いは、子どもたちが自分の経験を心の中にどのように定着させていくのかの違いになって表れてきます。それは人が生きていく基本的な態度を形成していく上で、大きな影響を与えることなのです。

 わたしは子どもたちに「自分の一生は素晴らしく、大切である」と思う人生観を形成していってほしいと思います。

 わたしたちが誰か他の人から助けられたときに「やってもらって当たり前」という反応をする人と「ありがとう」という反応をする人とでは、その後の人間関係の質や方向性が大きく違ってきます。それは例えば、やがて「周りの人たちに接することは楽しいしありがたいこと」と思うか「他の人と触れ合うことは面倒くさくて煩わしいこと」と思うかの違いになってくることにもなるでしょう。

 5月の第2日曜日は「母の日」です。子どもたちにとって、お母さんの存在はどれほど尊く、嬉しく、意味深いことでしょう。でも、子どもたちがその深い思いをしっかりと感謝の言葉にして表現できるようになるのはまだまだ先のことです。子どもたちが日々お母さんに受け入れられる経験を積み重ね、やがて心から「お母さん、ありがとう」と言える人に、そして、神と人を愛する人に育って欲しいとわたしは願っています。

 どうか、ご家庭でも、日々の当たり前の生活の中で、子どもたちの当たり前の小さな出来事を拾い上げて肯定的な言葉をかけてあげてください。それは子どものありのままの存在を支えることにつながっています。

 ごく普通に当たり前にしている自分を認められる経験は、人が生きる上でとても大切です。人は、自分を愛してくれる大切な存在を感じるとき、ありのままの自分を大切にし、その自分に自信を持ち、やがて他の人のことも大切にして生きることへと成長していきます。これは子どもをおだてたり甘やかしたりすることではありません。子どもたちが、より本物の自分に育っていくためにも、日々の当たり前の小さなことを大切にし、感謝し、祈り、喜ぶことを心がけたいものです。

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2024年04月04日

神さまの守りの中で(2018年4月)

神さまの守りの中で

子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(マルコによる福音書 9:14 ) 


 お子さまの新入園と進級を感謝し、お慶び申し上げます。

 昔、子どもは一個の人格としては認められていない時代がありました。子どもはまだ働き手としては十分ではなく物事の理解も未熟なため、大人になる準備段階のように位置づけられていたのでしょう。

 イエスのところに子どもを連れてきた人たちがいました。弟子たちは彼らを追い返そうとします。しかし、イエスはその様子を見て、子どもたちを抱き上げて、手を置いて祝福なさいました。

 当時、一個の人格としてまだ認められない子どもを、イエスは大切になさいました。イエスに大切にされた子どもは、自分の存在を認められることをとおして、現代に言葉で言えば、彼らの心の中に「自己存在感」が生まれてきたのではないでしょうか。

 子どもに限らず、大人でも、周りの人に認められ愛されている実感をもつ時、安定感や意欲が生まれ、自分の感じ方や考え方にも自身を持てるようになります。

 例えば、お母さんがお家で料理をした時に、家族から「美味しいね」「ありがとう」と心から言われたら、どんなに嬉しくなることでしょう。そして、「今度は他の料理にもチャレンジしよう」という気持ちにもなります。褒めて育てることの意味もここにあります。

 最近、「自己存在感」とか「自己肯定感」という言葉がよく使われますが、この言葉は「自分で自分を愛し、信じる」ということでもあります。そして、自分を受け容れてしっかりと保つ力は、先に述べたお母さんの料理の例のように、毎日の生活の中での平凡な会話の中で養われるものでもあります。

 本園はキリスト教の信仰と精神に基づいて、幼児教育をおこなう幼稚園です。でも、それは特別にキリスト教の教えをたたき込む教育ではなく、子どもも神によって愛される大切な一個の存在であるという人間理解に基づき、一人ひとりに内在する「生きる力」を育てようとするものです。

 毎日の当たり前の生活と会話の中に、お互いが一個の大切な人であることを認め合う力を育んでいきましょう。幼稚園では、全教職員が子どもたちみんなを理解し、受け容れ、大切にする関わりができるように心がけて参ります。それは、ただ子どもの言いなりになることではなく、子どもの内面を理解してその状況を受け容れ、成長の課題を見据えて適切な対応が出来るように心がけることです。

 どうか、ご家庭でも、神さまがわたしたちを受け容れ大切にしてくださっていることを基盤にして、暖かく子どもを育むことを心がけてくださいますように。子どもたちの中に、自分と他者を大切にする心が育ちますように。


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2024年04月01日

時が育てる(愛恩便り2018年3月)

時が育てる

 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉第3章1節)


 3月になりました。進学、進級をひかえ、子どもたちは希望に胸をふくらませる時です。それと同時に、3月は子どもたちにとってこれまでの自分に別れを告げて新しい段階へと移っていく時でもあり、一抹の寂しさや不安を抱く時でもあります。

 かつて私が関わった次のような幼稚園生の事例があります。

 その子は、いつも元気に健康に遊んでいましたが、なかなか夜尿が治まりませんでした。でも、その子が小学生になった日に、夜尿はピタリと治まったのです。「時」がその子に以下のような決心させたのでしょう。

 「小学生になるのだから、もうオネショはやめよう。」

 すべての夜尿がこれほど単純に治まるわけではないし、夜尿のある子に「あなたはもう小学生になるのだから・・・。」とプレッシャーをかければ良いというものでもありません。でも、少なくとも上記の事例では、「時」が大きく働いたことは確かです。

 「時」は、それまで「甘えん坊」だった自分に別れを告げさせ、その子の自立の階段を一つ上らせた、と言えるでしょう。

「何事にも時がある」という聖書の言葉は、何もせずただジッとしているということではありません。鳥がしっかりと巣立つために、親鳥は小さなヒナにえさを運んだり、わざと少し離れた場所にえさを取りに来させたりします。ヒナ鳥も巣の中で幾度も羽ばたきの仕草をして筋肉を鍛え、親鳥からえさを捕獲する訓練を受けながら、巣立ちの時を迎えるのです。そして、その「時」が満ちると、鳥は羽ばたきます。

「時」は待つものでもありつつ、活かすものでもあります。その状況を受け入れて「時」が来るまで耐えなければならないこともありますが、「時」を活かして積極的に動かなければならないこともあるでしょう。「時」がくるまで、しっかりと底力をつけましょう。

 いずれにしても、今という「時」のはるか先で、神さまが私たち一人ひとりを大きな御手の中に位置づけてくださいます。やがて、今を振り返る時がきます。その時に、「あの時のあの出来事があったからこそ、今の自分がある」と言えるようになりたいと思います。

 子育てについても同じです。子どもたちに関わる私たちは、「時」が熟するのを待ちながら、早急に安易な結果を望むのではなく、地道にていねいに子どもに関わっていくことが大切なのでしょう。

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2024年03月25日

三寒四温(愛恩便り2018年2月)

三寒四温

「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙 5:13 ) 


 「三寒四温」。毎年、立春を迎える頃から、私の大好きなこの言葉が心に浮かびます。この言葉が私の心に強く残っているのは、季節のこととしてではなく、人の成長に関することとしての思い出があるからです。

 私がかつてある研究会で指導を受けていた時、先生はこの言葉でコメントをしてくださいました。

 「人が成長したり回復したりしていくのは、三寒四温だからね。ゆっくりとしっかりと支えてあげなさい。」

 それ以来、この言葉はわたしの大切な言葉になっています。

 この数年、幼児教育の中で、この「三寒四温」に通じる精神の大切さが指摘されています。

 それは、幼児教育において、何が本当の効果をもたらすのかということについての議論が盛んになったことに関連しています。

 例えば、文字教育や計算力の学習を早期から行うことは、それを行わなかった子どもと比較すると、小学校の低学年までは確かに有意差のある結果があらわれます。しかし、8歳から9歳になる頃にはそれを行わなかった子どもとの有意差はなくなり、むしろそれを行わなかった子どもたちの方が表現力や発想力が豊かに伸びているという指摘さえあるのです。つまり、早期の文字教育や計算力教育はその直後には一定の効果が見られるものの、長い目で見ればそこに力を注ぐ意味は薄いと言えるのです。

 それでは、何が人を育てるのでしょう。

 それは、直ぐに点数に出てこないような、「生活力」の大切さです。そして子どもの「生活力」を育てる上で最も基本的なことは、先の言葉を用いて言えば「子どもの成長は三寒四温だから」と、子どもを温かく支えていくことなのです。そのような周りの大人の信頼感に支えられて、子どもは自分の言動に自信と責任を持つようになります。その上で、子どもたちは、仮に失敗しても「大丈夫、今にできるようになるよ。挑戦を続けるうちにきっとできるようになるよ。」という思いで、自分にも他の人にも関わることのできる人に育っていけるのです。そのような「生活力」を育てるためには、幼少期にたくさん遊び込むことが必要であり、その子どもたちを育む枠としての生活習慣や良い環境(親や教師を含めて)の必要性が指摘されているのです。

 その具体的なことを2,3挙げておきましょう。

 子どもの話をしっかり視線を合わせて聴いてあげること。叱るのではなくどうすれば良いのかを一緒に考えること。食事、排泄、着替えなどをはじめ自分でできるように支援すること。挨拶をはじめ良い生活習慣を身に付けさせること。意欲をもって取り組むことを受け入れ励ますこと等々。こうした流れの中で、子どもが漢字や計算に興味や意欲を持った時にそれに挑戦させることは決して悪いことではないことも付け加えておきましょう。

 冬の寒さの先には、花咲く春が来ます。三寒四温の季節を、希望をもって過ごして参りましょう。

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人間として生きる喜び (愛恩便り2018年1月)

人間として生きる喜び

 「人が独りでいるのは良くない。」( 創世記第2章18節 ) 


 新年、おめでとうございます。

 私は、昨年8月に二人目の孫が生まれ、4ヶ月半になったその孫も含めて、子どもたち家族と年末年始を過ごしました。孫は、まだまだ泣いて乳を飲んで眠るだけの生活ですが、私たちが話しかけると視線を合わせて笑顔を見せ、お腹が減ると泣き、眠くなると泣き、本当に可愛いものだと思います。

 そして、人の感覚とは何と素晴らしいのだろうと改めて思いました。

 例えば、録音した会議などを再生してみると、その席にはたくさんの雑音があったことに改めて気付きます。会議の最中には自分の課題に集中するため、実際にはたくさんあったはずの雑音は認識しないようにその感覚を働いているからです。しかし、それは人が赤ちゃんの時から自然にできたことではなく、周りの人にたくさん話しかけられ、まだ言葉にもならない喃語や泣き声を聞いてもらい、周りの人から確かな視線と言葉での反応を受けることを数え切れないほどに繰り返している間に、赤ちゃんは周囲の刺激から自分に必要な情報を取捨選択することができるようになるからなのです。

 そうであれば、赤ちゃんが画面をみているとおとなしくなるからといってテレビ、パソコン、スマホなどに頼ってはならず、周りから優しく柔らかな声をかけてあげたり、赤ちゃんの視線をしっかり拾ってあげたり、喃語に柔らかな声で応じてあげたりすることがどれほど大切なことであるか分かるのではないでしょうか。

 赤ちゃんに限らず、人は視線を合わせてしっかり話を聞いて心を通わせることによって育ちます。また、認知症の老人にしっかり視線を合わせて会話することで、かなり症状が回復する事例も報告されています。

 「人」という文字の成り立ちは二人が支え合っていることに由来すること、また人を「人間」と言って社会的関係に生きる存在として表現することなどからも分かるとおり、私たちは人々の関係の中に生きています。

 愛恩幼稚園では、一人ひとりを大切にすること、一人ひとりに丁寧に関わることを大切にしておりますが、それは単なるお題目ではありません。一人ひとりを大切にする具体例がどのような事であるのかの一端もこうしたことから理解していただけるものと思います。

 愛恩幼稚園は創立101年目を歩んでいますが、教職員一同で幼稚園の使命を再確認して、一人ひとりを大切にする本園の働きを進めていきたいと思います。本年も、どうぞよそしくお願いいたします。

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2024年03月22日

真の光 (2017年12月)

真の光

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」  (ヨハネによる福音書8:12 )


 イエスさまは、聖書の中でしばしば「光」に例えられています。上に掲げた聖書の言葉もその一節です。

 深い闇の中にある光は、たとえその光が小さくても、道しるべとなり、暗闇を歩く人はその光を見て自分の進むべき方向を確認できます。闇夜の星は、古くから海や砂漠を旅する人の案内役になってきましたが、聖書はそのことにたとえて「イエスがどのような意味での救い主であるのか」を示しています。

 私たちは、光よって自分のいる位置や進むべき方向を知ることがでます。本当のことや正しいことを知らずに、また知ろうとせずに、ただ目先のことを追い求めていると、私たちはいつの間にか生きる意味を見失い、その歩みは泥沼にはまりこんでいくことになりかねません。私たちはいつも、本当のことは何か、正しいことは何かを考え、真理に立ち返りながら生きていくものでありたいと思います。その導き手である「真の光」がイエスなのです。

 クリスマスは、真の光であるイエスのお生まれを祝う日です。

 かつて、ある宝石鑑定士が次のように語っていました。

 「本物と贋物を見分ける眼力を養うには、本物の最高級の宝石をたくさん見つめる以外に方法はありません。」

 私たちは正しいこと、本当のことに触れて、その感性を養うことによって、真理に導かれていくことができるのです。

 それは、子育てや教育についても言えることです。

 イエスは、今から二千年近く前、当時のイスラエル社会の中で真理を示し、そのために権力者によって弾圧され殺されていった人でした。イエスの生き方と死に方の中に「光」を見た人々によって、イエスは救い主と信じられ、宣べ伝えられ、世界の人々に生きる力を与え続けてきました。その歴史の中で、イエス・キリストの愛は日本にも届けられ、私たちの幼稚園も起こされました。相手の中に神の願う姿が現れ出るように、どこまでも関わり続ける神の愛に基づき、子どもたちを育みたいと思います。

 日本のクリスマスには、多くの場合、イエス・キリストが不在です。

 私たちは、子どもたちの中に「光」である主イエスさまに宿っていただくクリスマスを迎えましょう。


posted by 聖ルカ住人 at 19:33| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする