2023年08月22日

「遊びが動き出す」ということ (あいりんだより2014年10月)

「遊びが動き出す」ということ

 キリストに結ばれて歩みなさい。 (コロサイの信徒への手紙2:6)


 遊ぶことの大切さについて、ことに子どもの自由遊びの大切さについて、お話ししたいと思います。

 ある作家が、小説を書いていく時に、よい作品では「作中の人物が動き出す」と語っていました。私はこの言葉をとても興味深く聞きました。そして、子どもの遊びにもこれと共通するところがあると思いました。

 作家が小説を書くときには、綿密な事前調査を行い、それに基づいて具体的な文章を起こしていきます。でも、この作家の言葉は、作品は必ずしも予め立てた計画だけよってできあがるのではないことを物語っています。執筆する者は、一つの小説を書きあげていく中で、作中の人物のイメージが変化したり、さらには前もって考えていたのとはまるで違う場面を構成することへと引っ張られていくような経験をしたりしているのでしょう。

 そして、そのような経験をとおして完成した作品は、その作品を書き上げたという満足感を与えるだけでなく、何か自分を超えた大きな力がその小説の中に働いて、作中の人物と一緒にひとつの仕事を完成させたかのような充実感を与えるようです。

 子どもが遊ぶこと、ことに時間と空間を守られて遊びこむことは、子どもにこの作家と同じような経験を与えています。

 砂場での遊びを例にして考えてみましょう。

 子どもが砂場で遊び始めます。「よし、お山をつくろう!」。ある程度の大きな山ができると、その山にトンネルを掘り始めます。そこに友だちが加わって両端からトンネルを掘ってそれが貫通します。すると一人は山のふもとに道路をつくり、乗り物に見立てた積み木を動かしてトンネルを通しました。もう一人の子どもは、山の中腹から下に溝を掘って川に見立て、その川は道路を横切り、道路は寸断されてしまいました。でも、二人はアイディアを出し合って、道路に橋をかけ、川はその下を流れるようになりました。こうして砂遊びは与えられた時間いっぱい展開しました。遊びが新しいイメージを生み出し、生み出されたそのイメージは遊びをさらに発展させました。遊びが動き発展する中で、さらにまた新しいイメージが膨らんで遊びが充実しました。

 子どもはこうした遊びを展開する中で、自分の持っている知識や技術を精一杯駆使します。そして、その遊びは、それまで子どもが持っていた知識や抱いていたイメージを超えて発展していきます。その時、子どもの心の中には何物にも代えがたいとても大切なことが起こります。子どもがこのように遊びこむとき、その心は集中力を増し、整理され、浄化されます。そして、その遊びを展開するために新しい情報を集め、本物の自分をその遊びの中に表現して、その結果を受けとめながら、さらにその先へ進んでいこうとするのです。ここに子どもの成長があり、それは科学や芸術の始まりとなります。

 このように、子どもは「遊びが動き出す」ことの中に、一流の作家と同じような経験をするのです。この経験は、既成のプログラム化された電子ゲームや学習ドリル等からはなかなか得られないものであり、遊びを通して子どもの内界が動き出し、自分の内から高まる興味や関心によっていっそう豊かにされていくものであると言えるでしょう。

 子どもたちのその経験を大切にするために、私たち大人はいくつかの心がけるべきことがあります。

 その一つは、例えばチャンバラ遊びで相手を本当に傷つけ合うことがないように、子どもの心身の安全を見守らねばなりません。二つ目には、子どもが恐れなく自由に自分を表現できるように、時間と空間を保証してあげることが必要です。思い切り自分を表現できるように、できるだけ制限を少なくした環境を与えたいものです。そして三つ目に、子どもには自分が表現することを理解し、共感し、受け入れる存在としての私たち大人が必要である、ということです。

 人は、ありのままの自分をしっかりと表現できる時に、その内なる世界は動き始めます。子どもにとっては「遊び」を通して自分を表現することは、生きることそのものなのです。

 もし、私たち大人が子どもたちにこうしたダイナミックな経験を与えることが出来なかったとしたら、子どもは自分自身を育てる機会を失います。幼稚園でも、各ご家庭でも、次世代を生きる子どもたちが、遊びをとおして豊かに心を育むための支援を心がけたいものです。

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2023年08月21日

「遊び」こそ子どもの仕事 (あいりんだより 2014年9月)

「遊び」こそ子どもの仕事

 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。( 創世記1:31) 


 日本では、これまで成長や発展を前提に物事を考える時代を過ごしてきました。しかし、その前提が大きく変わろうとしています。これから30年先には日本人の半数が高齢者になり、その年に産まれてくる子どもの数は、その時に80歳の人の半分になると試算する人がいます。そのような社会の中で、これまで前提にして考えてきたことが成り立たなくなったり、前例にならって物事を進めたり定められた方法で問題を解決したりすることでは、もう対処できないことがたくさん起こるだろうと想像されます。

 今幼稚園で過ごしている子どもたちやこれから幼稚園に入ってこようとする子どもたちは、これまでとは違う状況の中で、これまでとは違う世界観や価値観を持って生きていくことになるでしょう。その時代は、もしかしたら、色々な意味で厳しい時代になることも予想できます。例えば、日本国内だけでは各分野での働き手が不足するようになり、このままでは、これまで日本の誇っていた産業や技術の担い手がいなくなり、伝統ある優れた品物作りやその文化が消えてしまうかもしれません。

 これからの時代を生きていく人に求められるのは、その場の課題を建設的に乗り越えていく解決力や、人々が共に生きる社会を創り上げていく創造力や、他者と協力して物事を進めていく感性なのです。幼稚園を含めた学校教育に求められることも、一定の知識や技術を習得することよりも、「学ぶ力」や「生きる力」を身に付けることへと移り変わってきています。どれだけの知識を持っているかということより、厳しい状況の中でそれらの知識を活用する知恵や新しい生き方を生みだしていく発想力が必要になるでしょう。

 そうであれば、将来を担う子どもたちにどのような教育を施すことが求められるのでしょうか。

 結論から言えば、遊びを楽しむ子どもを育てることが幼少期の大切な課題であると言えるでしょう。

 ただし、「遊び」と言ってもパソコンやテレビ画面を用いるゲーム類のことではなく、例えば戸外では泥、砂、水などで友だちと山や河などの世界を創り出すことや、屋内では積み木やブロックなどを使って心に思い浮かべた世界を作りあげることや、空き箱や廃材で造形遊びをすることなどが挙げられるでしょう。それらは、子どもが自発的にしかも仲間とたくさんコミュニケーションをとりながら、自分の思いを表現しつつその場を発展させることのできる遊びです。また、その遊びに野原を駈け回ることやボール遊びなど身体感覚を養う遊びを加えることも必要でしょう。子どもたちはこうした遊びをとおして創造力を発揮して自分の内的世界を表現し、また、他の子どもとやりとりをしながら創意工夫を重ねていくことになります。

 子どもの興味、意欲、関心は、自分から遊ぶ中で芽生えまた育ちます。そして遊びの中の創意工夫が問題解決の力となり、科学や芸術へと向かう心の土台を形成するのです。それは外から答えを教え込むこととは違い、大人がすべきことは、子どもたちが自由にのびのびと自分を表現できるようにその場を見守り共に楽しむことと、危険を防ぎ安全と安心を保証することなのです。もし子どもが行き詰まったら、大人は先回りせず、子どものその時の思いを共感して受け止めることが必要です。時には、子どもたち同士で意見が対立したり気持ちの上ですれ違ったりすることもありますが、それもまた問題解決の力を身に付けていく大切な機会になるでしょう。

 登園してきた子どもたちが、身支度を調えて目を輝かせて園庭に走り出していく姿を目にします。そこにある「さあ、遊ぼう」というエネルギーこそ、未来を切り開く力の原点です。子どもたちの遊びがいっそう豊かになる2学期にしていきたいと思います。

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2023年08月17日

「根を張る」こと (あいりんだより2014年7月)

「根を張る」こと

 あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 ( エフェソの信徒への手紙 3 :17  ) 


 先日、幼稚園の先生たちと高名な児童心理学者の講演録を読んで学びました。その内容は、「早期の文字学習や外国語学習は子どもの成長にとって有益か」というものでした。その講師の結論から言うと、そのような早期教育は、「百害あって一利なし」とのことでした。

 講演者は、米国で1600人の乳児を5年にわたって追跡調査をしたデータをもとに次のような報告をしていました。

 調査対象1600人の三分の一ほどの子どもの言語や認知の発達がどんどん遅れだしたので、その原因を探ったところ、その一群の子どもたちは、生後6ヶ月から10ヶ月間、毎日一時間以上にわたって録画教材DVDを見ながら語学の早期教育を受けていたことが分かったというのです。

 そこには2つの大きな問題があります。一つは、脳が発達する過程にあるこの時期にDVDやテレビなどで音と光の刺激を過度に浴びると、大脳の言語理解をつかさどる言語野の萎縮が認められること、もう一つは、子どもの実体験やその実感と結びつかない文字や言語の学習は子どもの自発的な思考の源をふさぎ、自分の感情や経験を認知するより「外にある正解」を求める反応が強化され、子ども自身の活き活きとした表現を妨げることになることです。

 かつてわたしが読んだ同講師の他論文では、早期に文字を習得させなかった子どもでも小学校2年生の段階で学力(文字の習得)についての優劣はなくなり、むしろ文章表現力に至っては、小学校3年生になると文字の早期学習をさせた子どもよりも優れるようになる、と報告していました。

 これを裏から言えば、親や子どもの周辺にいる者が子どもの自発的、主体的な言動を大切にして、子どもに受容的共感的に関わることが乳幼児期の子どもを育み成長を促す基本的なスタンスである、ということなのでしょう。そして、乳幼児期に人と人とのコミュニケーションによって子どもの内界を豊かに育むことが、この時期の大切な課題であると言えるのです。

 そのためには、保護者の方は子どもにとっての「心の基地」である必要があります。ご両親は子どもたちが、自分の実感、本当の気持ちを安心して伸びやかに表現するための拠り所なのです。子どもが不安や危険を感じたときに、そこに避難したり休んだりして、自分を整えて、再びそこから外界へと挑戦していく基地が必要であり、保護者や子どもの周辺にいる大人はその基地であることが求められるのです。

 今年の入園式に出席なさった方は、その時にわたしがお話しした『「くり返し」と「ね」の子育て術』を思い出してください。

 その『術』とは、上記のことの具体的な方法として、子どもの話すことをよく聴いてその内容と気持ちを受け止めつつ、簡潔に「~~なのね」と言って応答し、その先を子どもに委ねることです。

 今回のこの巻頭文のタイトルは、『「根を張る」こと』としました。人間にとっての乳幼児期は、成長のためにしっかりとした根を張る時期に例えられるからです。その根とは、子どもが自分の感性に自信を持ち、子どもなりに活き活きと自分を表現する前提となる自己肯定感のことであると言い換えることも出来ます。まずその根が丈夫にしっかり育つことで、やがて子どもはその感性で把握した経験をその子らしく色々に表現にして個性の花を豊かに咲かせ実を結ばせることになるでしょう。しっかりと「根を張る」時期に花や果実を求めすぎず、「根を張る」時期の子どもの豊かさを一緒に楽しみたいものです。

posted by 聖ルカ住人 at 11:05| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「シー、こい、こい」のこと(あいりんだより2014年6月)

「シー、こい、こい」のこと

  愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。( コリントの信徒への手紙 Ⅰ 13 :4 ) 


 標題を見て、何を意味する言葉なのか、直ぐにお分かりになりましたか?この言葉は赤ちゃんの排尿を促すときの言葉で、家族により、また地方により、「シー、来い、来い」「シー、トット」「チー、チー、おいでおいで」などなど、どのように言うのかは違いますが、子育てする人であれば、何かこうした言葉を用いて我が子の排尿を促したことがあるでしょう。

 と、ここまで記してみて、近年ではこうした習慣が無くなりつつあって、上記のようなトイレットトレーニングをして来なかった方には、「シー、来い、来い」が何のことか全くイメージできなかったかも知れません。

 かつて、人によって違いはありますが、子どもが生後十ヶ月頃になると、おしっこをしそうな時間を見計らって子どもをトイレやオマルに座らせて、お母さんは上記の言葉で子どもにおしっこをするように促しました。特に男の子の場合には、軽くトントンとおちんちんを叩いて刺激して、「チー、チー、出ておいで」などと言葉をかけたものでした。そして、このタイミングがうまくいって、オムツを濡らさずに放尿させることができたとき、親であるわたしたちはこの成功体験を「じょうずにチーチーできたね、えらい、えらい」などと言って子どもと喜び合って、ある種の満足感を味わったものでした。子育ての喜びは、こうした毎日のごく当たり前のことの中に溶け込んでいます。

 子育ての中でこのようなトイレットトレーニングが行われていた背景には、以下のような事情があったものと思われます。

 一時代前の生活では、オムツが布であったこと、トイレが和式でまだ水洗化されていない家庭も多かったことなどが影響していたのでしょう。オムツの洗濯にかかる手間を少しでも減らすためにも、また、赤ちゃんを抱えて中腰でトイレをまたぐ大仕事から早く解放されたい思いもあって、子育てする人(ことにお母さん)は今より赤ちゃんの排尿についての意識(気遣い)を強くしていたのでしょう。

 でも、その当時を振り返ってみて、わたしは思うのです。そうしたある意味不便な子育て状況の中で、親は子どもへの意識(気遣い)を強くしていたために、その具体的な行いの中に今よりずっと多く我が子と心を通わせ合っていたのではないだろうか、と。

 わたしたち夫婦が子育てをしていた頃、幾人かのお母さんとその子どもたちが集まっていた場面でのことを思い出します。少しぐずり始めた子どもを見て「あら、○○ちゃん、おしっこじゃない?」と声をかけたら、○○ちゃんのお母さんはサラリと「平気よ、うちの子、紙おむつだから。」と言って、紙おむつの手軽さを評価していました。この出来事は、子育てについての時代の移り変わりを象徴的に示す出来事であったように思います。

 時代は移り、育児用品も便利になり、子育ての労働としての分量が軽減するのは有り難いことです。その一方で、わたしたちは、本来育児の労働に溶け込んでいた愛情を与える機会と愛情の質もまた変わってきていることについても、しっかりと認識しておかなければならないように思います。

 トイレットトレーニング、着替えや食事などでの生活習慣を身に付けること、挨拶や言葉遣いなど、毎日の生活の中でのごく当たり前の小さなことの中にも、わたしたちは愛情を溶け込ませ、子どもたちに丁寧に関わっていきたいと思いますし、家庭での遊びや教育も便利な機器に任せすぎず、出来るだけ豊かに心を通い合わせることを心がけてくださいますように。

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2023年08月14日

子育ては肯定的かつ支持的に(あいりんだより2014年5月)

子育ては肯定的かつ支持的に

 いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

    ( エフェソの信徒への手紙 5 :20 ) 


 ポジティブ・シンキングという言葉があります。物事を、肯定的、支持的、積極的にとらえていこうとする考え方のことです。子育ての基本的なスタンスは、まさにこのポジティブ・シンキングにあると言えます。

 例えば、子どもに幾度も「やめなさい」と言い聞かせていたのにやめないで、とうとうその子どもが大きな失敗をしてしまった、としましょう。あなたはどのような言葉をかけますか。

 「だからやめなさいって言ったでしょ、まったく、言うこと聞かないのだから・・・」と叱りつけたくなる気持ちも分かりますが、子どもはそのような時に自分でもつい調子に乗って羽目を外してしまったということを、身をもって感じているのです。そのような子どもに向かって、追い打ちをかけるように、子どもを否定したり突き放したりするのではなく、またこちらの感情をぶつけるのでもなく、子どもがその失敗から何を学びどのような経験をする機会になったのかを考える生きた教材にしていきたいものです。そうすることで、もしかしたら子どもは、はじめから聞き分けよく失敗しなかったこと以上の学びをすることができるかもしれません。

 わたしたちが子育てや幼児教育についてもポジティブ・シンキングが大切であると考える根拠は、キリスト教の信仰にあり、その中心には「復活」という信仰と思想あります。

 イエスは刑罰に処せられる理由も無いままにその時の権力者たちによって十字架につけられ殺されましたが、イエスはその十字架の上からさえ、自分を十字架につける人々の赦しを神に祈り続けながら死んでいきました。この十字架の出来事の中に神が最も願っていることが成就したと信じる人々が生まれ、イエスの十字架に示された愛と赦しに支えられながらその力を世界に伝えていこうとする働きが起こったのです。この信仰者の集まりが教会の始まりであり、キリスト教保育の原点でもあります。

 子どもにポジティブに関わることは、悪いことを野放しにしたりただ子どもに自分の好きなことだけをさせたりすることではありません。子どもが自分の考え方や感じ方を大切してそれをしっかりと表現して他の人々と意見を交わし合い、自分の間違いや足りないことを認めて、更に自分の人間性を練り上げていく基盤になるのがポジティブ・シンキングなのです。

 子どもは、周囲の人々から、肯定的かつ支持的な関わりをたくさん受けることで、自分で自分の行いや考え方も肯定的かつ支持的に育んでいけるようになりますし、他の人々にも優しく建設的に関わる力を身に付けていきます。

 もっと身近な例えで言えば、笑顔の素敵なお母さんからは笑顔の素敵な子どもが育つ、ということなのです。

 わたしたちは主イエス・キリストの「復活」の力に生かされています。そこには神さまからの究極の肯定と支持が示されています。その力によって、子どもたちも神さまの子どもとして育つことができるよう、わたしたちも神さまの大きな愛と赦しに生かされている喜びと自覚を持つことができますように。

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2023年08月11日

神さまの愛の眼差しのもとで (あいりんだより2014年4月)

神さまの愛の眼差しのもとで

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 (ルカによる福音書22 :61-62 )


 進級、新入園おめでとうございます。愛隣幼稚園は、本年も、子どもたち一人ひとりがそれぞれに固有の輝きもって成長していくことができるように、努めて参りたいと思います。また、ご家庭と幼稚園が共に子どもたちの命の育みのために歩んでいくことが出来ますよう、ご協力とご支援をよろしくお願いいたします。

 子どもたちが遊んでいる時、例えば鉄棒での前回りや逆上がりに挑戦する時など、「先生、見てて!」と言ってきます。また、縄跳びをする時などにも「先生、かぞえて!」と言ってきます。子どもは、身近な他者の存在とその眼差しを必要としているのです。誰か信頼できる人の眼差しを受けて、その中で子どもは自分のしていることに力を集中することができます。そして、その行いがうまくいった時には、子どもは「ほらね、できたでしょ!」というように満足げな表情を見せ、うまくいかなかった時には残念そうな表情を見せながら、私たちと視線を交わし合います。そのようにして子どもは、自分が受け入れられていることや共感されていることなどを実感しながら、「自分」という存在を自分でしっかりとつかみ取りながら成長していくことになります。小さな子どももこのようにして自分のしっかりとした存在感と肯定感を育てていくのです。

 私は、人と人がこのように視線を交わし合いながら、ことに幼子がその暖かな眼差しの中で生きていくことの原点は、母親の授乳の中にあるのではないかと思うのです。人間の赤ちゃんはお乳を飲む時に、他の動物たちと違って、しばしば一定の間隔でその動きを止めて母親(授乳者)の顔をじっと見つめます。その時に母親は自分の胸の中にいる赤ちゃんの顔を見て、柔らかな声で言葉をかけたり笑顔を向けたりします。赤ちゃんはやがて母親の言葉や笑顔に応じるようになっていきます。私には、このコミュニケーションこそ人間が人間として育っていく原点であるように思えるのです。

 人が、そのようにして「大切な他者」に見守られながら育まれる大切さは、子ども時代に限らず、その一生をとおして変わりません。

冒頭の聖書の言葉は、イエスが捕縛された後、弟子のペトロが「お前もあの男の仲間だ」と問いつめられて思わずイエスを裏切って否認してしまった時に、イエスが振り向いた場面の描写です。このイエスの眼差しは、決して非難や叱責の眼差しではなく、ペトロを本心へと立ち返らせ愛し続けてやまないことを示す眼差しであったのではないでしょうか。ペトロはその後、いくつもの失敗を繰り返しながらも、教会の指導者になっていきます。神の愛の眼差しは生涯ペトロに注がれていたのです。

 この神の愛の眼差しは、私たちにもいつも注がれています。いつでも、どこにいても、どんな時でも、私たちを温かく見守り導いてくださる神さまがいてくださり、その愛に生かされて、私たちも本当の自分に立ち戻るように導かれ、整えられて、私たちは子どもに関わります。そのようにして、子どもたちは家族や幼稚園での関係の中で、少しずつ神の愛を実感できるようになるでしょう。

 子どもたちが「神さまが見ていてくださるから、大丈夫!」と、しっかりと正しいこと、本当のことに立って生きていく力を身につけていくことが出来るように、私たちも神の愛の眼差しのもとに生かされて参りましょう。

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2023年08月08日

神に認められるということ (あいりんだより2014年3月号)

神に認められるということ

 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。 ( マタイによる福音書 6 :30 ) 


 いよいよ本年度最終の月、3月です。

 子どもたちの卒園、進級に当たり、相応しい言葉を記したくあれこれ思い巡らせている間に、ソチで行われていた冬季オリンピックも過ぎていきました。

 オリンピックでは、毎回のことではありますが、今回もたくさんの感動を与えられました。各競技種目における世界最高位の証となるメダルを獲得した選手たちからだけでなく、メダルを逃した選手たちやはじめからさほど好記録を期待されていなかった選手たちからも、たくさんの感動を与えられました。

 こうしたオリンピックの感動を振り返りつつ、今回、私が記したいのは「人生における勝者」ということです。

 ここで言う「人生における勝者、敗者」とは、他者と比べてその優劣で評価する勝敗のことではなく、神から取り替えのきかない命を与えられた自分の生涯を本当の自分として生きているかどうかによって判断されるのです。

 私が若いときに出会い、大きな励ましを受けた一つの言葉をご紹介したいと思います。

 ある人生の指導者が臨終を迎えたとき、次のように言って自分の人生を悔やむのです。

 「私が死んで、神の裁きの前に立つとき、私は神から『あなたはモーセ(出エジプトのリーダーで、神から「十戒」を授かる)のように生きたか』とは問われないだろう。そうではなく、私は神から『あなたに託したあなたの人生を、他ならぬあなたとして生きたか』と問われる違いない。ああ、私の一生は単なる律法の番人に過ぎなかった。」

  例えば今回のオリンピックでも、前半の演技では自分の持っている力を出すことが出来ずにメダルが絶望的になった選手が、後半では自分の最高の演技をしたことに、私たちは深い感動を受けました。そこには勝敗やメダルを越えた感動がありました。

 私たち一人ひとりは、オリンピック選手のように人々から注目されることはそれ程多くはありませんが、それでも神は、冒頭の聖書の言葉のように、私たち一人ひとりを気にかけてくださり、見守りを与えてくださり、導いてくださっているのです。そのように私たちは一人ひとりが「神に認められている者」なのです。

 そうであれば、私たちにとって大切なことは、他者との比較による優劣や勝敗にこだわることではなく、自分が置かれた状況の中でどのような態度でいるのか、またどのように振る舞うのか、ということになるでしょう。

 野の花は、人に見られることがあってもなくても、神の御心のままにその花として咲きます。イエスは、そのことに目を向けさせ、一人ひとりに与えられた二つとない命をそれぞれに精一杯に生きることの大切さを私たちに教えておられます。

 私は、このことを思うとき、余分な力が抜けて、自分の務めに向かう力が増し加えられるような気持ちになります。人が育つということは、他人と比べてその優劣の中で生きるようになっていくことではなく、自分がますますかけがえのないその人になっていく過程を生きることなのです。

 私たちは誰もが神に認められている存在です。一度や二度の失敗や思い通りにならないことで自分を否定することなく、二度や三度の小さな成功に思い上がることなく、子どもの成長を支えていきたいと思います。

 また、子どもに関わる私たちも、親として、教師として、天の国にいたるまで、神に導かれながら、他ならぬ自分として育つ歩みを進めていきたいと思います。

 この一年間の恵みを感謝し、皆さまの上に神の恵みと導きをお祈りいたします。

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ドロ団子 (あいりんだより2014年2月)

ドロ団子

 「主よ、目が見えるようになりたいのです。」

          ( ルカによる福音書 18 :41) 


 寒い日が続いていますが、登園してきた子どもたちは元気に外遊びをします。端から見ていると、水を使って遊ぶのは手が凍えないかと思えるほどなのに、小さなバケツに入れたドロに水を加えてそれをこねて手に移し、おにぎりをつくるように、じょうずにドロ団子を作る子どもたちがいます。

 例えば土曜日などに、誰もいない園庭の片隅にそっと置いてあるドロ団子を見ると、私は思わずニッコリとしてしまいます。

 きっとお片付けの時間になっても、しっかり作ったそのお団子を崩す気になれず、誰にも踏まれないような場所やちょっと見つかりにくい場所に、その「作品」をとっておきたかったのでしょう。

 そして、子どもたちはまたその翌週も登園してきます。中には、前の週にツツジの根元に置いたドロ団子のことなどすっかり忘れてしまう子どももいますし、他の新しい遊びを始めて、前の週のドロ団子作りはもうそれで一段落しかたのように興味を示さなくなる子どももいます。その一方、またお団子作りが始まる子もいます。

 愛隣幼稚園の先生は、こうした子どもたち一人ひとりの様子をできるだけ丁寧に把握して記録することを心がけています。それは、多くの場合、遊びが子どもの内界(心)の姿を外に表しているからであり、子どもの表現の一つひとつに意味があると考えるからです。もし私たちが、その遊びをとおして子どもは何を表現しようとしているのかをその場では読み取れなかったとしても、時間をおいて振り返ってみるとその子どもがその時にしていた遊びの意味が、記録をとおして見えてくる場合もあり、時と共にその遊びがどのように進んできたのかがその記録と共に見えてきて、そこから保育者として多くのことを学ぶことになるからです。そして、そのような学びをとおして、子どもの状況に応じたより適切な言葉かけや関わりなどの支援が出来るようになっていきたいと私たちは思っています。

 そのような思いを持ちつつ子どもたちの遊びを見ていると、ドロ団子作りは子どものセルフ(自己自身)作りの表現である場合が多いことなども見えてきます。

 例えば、ドロ団子は、そこに混ぜる水の量が多すぎても少なすぎても、うまく結ぶことが出来ません。また、自分の手でそのドロを幾度も握り直しながら固めるため、子どもは手の中のドロ団子に意識を集中し、両手の平の力を均等にドロ団子の中心に向けて圧力をかけていくことが必要になります。子どもはそのように自分の中にある様々な能力や技術を用いて、それらを自分の中で統合して一つの力にする時に、はじめてあのような球形の固いドロ団子を作り上げることができるのです。大人の目で見れば「たかがドロ団子ひとつ」ではありますが、子どもはその作業をしながら自分の全神経をそこに集中し、全身全霊をかけてドロ団子を作っていると言っても決して大袈裟ではないのです。私たち子どもに関わる者は、園庭の片隅に置かれた一つのドロ団子にも、子どもの「魂」が込められているということをわきまえておく必要があるでしょう。

 愛隣幼稚園ではこうした視点からも、子どもたち「一人ひとりを大切にする」ことの実践に努めています。子どもたちのドロ団子作りという目に見える姿一つとっても、それがそれぞれの子どもの深く豊かな内的世界を表現していることを思う時、子どもに関わる者としての「眼力」を養うことをおろそかにしてはならないという思いを新たにされています。

 子どもに関わる者として、幼稚園の教職員も保護者の皆さまも共に成長して参りましょう。

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2023年07月31日

神に「良し」とされた世界で (あいりんだより2014年1月)

「良し」とされた世界で

 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。  ( 創世記 1 :16 ) 


 暑くなってくると、幼稚園で子どもたちは、砂場だけでなく園庭でも裸足になって、水、砂、泥で遊びます。嬉々として遊ぶ子どもたちの姿を見ていると、わたしは聖書の始めにある「天地創造」の物語を連想します。

 「初めに、神は天地を創造された。」という言葉から始まるこの天地創造の物語で、神は日々ご自分でお造りになったこの世界を認め、「良しとされた」のでした。神は6日かけてこの世界のあらゆるものを造りましたが、その最後に造ったのが人間です。つまり、人間は、神さまがお造りになって恵まれた世界の中に生きるようにされたのです。

 更に、神さまは人間を神さまのお姿に似せて造ってくださいました。このことを「神の似姿」と言いますが、人が神の似姿に造られたとは、私たち人間が、自分の存在と行為を認識しつつ物事を喜びのうちに創り出していく能力が他の動植物に較べて際立っているということです。泥、水、砂の遊びに興じる子どもたちを見ていて、わたしが「天地創造」の物語を連想するのもこのことと深く関わっています。

 神さまが混沌として何もなかった世界を秩序付け、「良し」として、素敵な世界を創り上げたように、子どもたちも遊びをとおして子どもの世界を創り上げています。そのように遊び込むことによって、子どもたちは目に見える園庭の世界だけでなく、自分の心の中の「内的宇宙」とも言える世界をも少しずつ秩序付けていきます。山を造り、川ができ、水が流れ、子どもの遊びが展開していくにつれて、子どもの心の世界も拡がり深まり、創造する喜びを自分のものにしていくのです。

 わたしたちは、聖書に記された「天地創造」の物語から以下の二つのことを学び心に留めたいと思います。

 その一つは、わたしたちは神がお造りになった素敵な世界に生かされており、この素晴らしい世界をいつまでも保ち更に良いものにしながら後代に引き継いでいかなければならないということです。人間は造られたものの中で最も新しい存在であり、食べ物のことを考えてみれば直ぐに気付くことですが、人間は他の被造物の命を受けること無しには生きていくことができません。わたしたちが栄養にしているもので、塩以外のすべては他の生物の恩恵に与っていることを覚えましょう。神がお造りになった地球を汚すことは、人間が自分の首を絞めることにつながっています。

 もう一つは、天地を造りそれを「良し」としてくださった神の心を考えることができる存在として、わたしたち人間は自分の思いと言葉と行いが神さまの意思に相応しいかどうかをいつも振り返る者でありたいと思うのです。

 夏です。海に山に、自然と触れ合い交わることの多い時期です。神さまがお造りになって「良し」とされた世界をたくさん体で味わって楽しみ、それによって養われる感性が、子どもたちがこれからの時代を生きる力になるようにと願っています。

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行動地図 (あいりんだより2013年6月)

行動地図

 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。(ヨハネの手紙:16) 

 折り紙を折ってそこに筋をつけると、また広げた折り紙はいつもまたその筋に沿って折れるようになります。わたしたちの性格や行動の面についてもこれと似た側面があります。ある場面で、判断や行動の選択をする時、いつの間にかいつも同じようなパターンで処理するように学習するのです。比喩的に言えば「心の傾向」とでも言えるでしょうか。このように人の頭の中には状況を捉えて物事を判断し、見通しを立てて行動に移していくための手順の図式がつくられてきますが、「行動地図」と呼んでいます。

 例えば、ある子どもの遊びを見ていると、もう一がんばりすれば深い達成感が得られそうな場面になるといつもそのもう一がんばりを避けるかのように他の遊びに移っていってしまう子がいます。また、好きなことでも嫌いなことでも自分の本心を表現する場面になると、その気持ちを素直に表現するのをためらうかのように動きが止まってしまう子がいます。そのパターンはまさに十人十色であり、それぞれ自分の動きを先取って予想する心の地図を持つようになるのです。

 出来ることなら、誰でも自分の心に建設的で正しい「行動地図」を持てるようになると良いのですが、その地図が現実に相応しくないものになってしまうと、場に適した判断が出来ず、自分の能力を十分に表現できなくなり、勿体ないことになります。

 小さな子どもでも、これまでの経験に基づき、「自分がこうすると、周りの人々はこう反応するから、そうならないように(あるいは、そうなるように)、このように行動しよう」と自分の心の中の地図によって予想を立てて行動するようになります。

 このような「行動地図」は、目的を達成するためのよい見通しを立てたり希望や意欲に満ちた行動へと導くのですが、もし子どもの心の中に実際よりも悲観的であったり臆病な思いばかりで、その子の行動の判断軸が出来てくれば、その子どもの行動は、間違った折り目のついてしまった折り紙のように、いつも同じように悲観的で臆病になってブレーキがかけられ、その子どもに本来備わっているはずの力を十分に生かすことが出来なくなってしまいます。

 子どもたちが色々なことに積極的にチャレンジしていく土台となる「行動地図」を自分の中に描けるように、子どもたちを支援していくことが必要になってきます。

 そのためには、日頃から子どもたちの行動を温かく見守りそれに相応しい言葉かけをすることや、子どもたちが物事を達成する喜びをたくさん得て、その経験を大人も共に喜ぶことなどが必要になるでしょう。また、人は成功と失敗を繰り返して「行動地図」をたえず修正しながら成長するのですが、その結果だけではなく物事に取り組む子どもの態度を認めて受け容れ励ますことや、取り組んでいる時の子どもの気持ち(感情)を受け止めて共感し励ますことなども、子どもが自分の心に正しい行動地図を作る上で大切なことになります。

 そして、そのようなことの大前提として、わたしたちは神の大きな愛に包まれていることを知っており、またそう信じているのです。

 子どもに関わるわたしたち一人ひとりの「行動地図」も、神さまの大きな愛の中で、絶えず建設的で実際の生活に相応しいものに書きかえていくことが求められています。わたしたちは子どもを養育する役割を負っていると同時に、子どもをとおして自分の成長を促されている者でもあることを忘れないようにしたいと思います。


posted by 聖ルカ住人 at 16:13| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする