2023年10月13日

たくさん体を動かそう (愛恩便り2015年9月)

たくさん体を動かそう

聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 ( エフェソの信徒への手紙 第1章18節 )   


 3年ほど前、文部科学省は「幼児期運動指針」を通知しました。

 それによると、現代の社会は、生活全体が便利になって体を動かす機会が少なくなり、子どもが身体を動かすことを軽視し、その結果、子どもの体力低下につながっている、と言います。このような幼少期の現状は、その後の児童期、青年期に運動やスポーツに親しむ力や意欲を減退させています。それだけではなく、運動不足は、本来なら幼少期に遊びをとおして培われる対人関係を築く力も育たないことなどの問題も引き起こす可能性があります。このように、現代社会の運動不足は子どもの体だけではなく心の発達にも重大な影響を及ぼすことになりかねないと、「幼児期運動指針」は子どもの将来を案じています。

 子どもが十分に体を動かして遊ぶことは、心肺機能や骨の形成にも大切なことであり、たとえば転んだときにも大怪我にならない耐性のある筋力や身のこなしを体得すること、普段から良い姿勢を保つことなど、健康の基盤づくりのためにも大切なことです。更には、子どもたちが鉄棒や縄跳びなどで「できた!」という体験をし、課題に向かう意欲や忍耐の態度を育てるためにも、体を動かして遊ぶことが必要です。

 体を動かして遊ぶことは、個人の身体・精神的な成長を促すことは言うまでもありませんが、「集団経験」ということでも大切な働きをしています。子どもは、その遊びをとおして、他の子どもたちとコミュニケーションを図り、自分を主張したり相手を理解したりすることや、チームで一つになって協力したり他者のために貢献したりすることも学んでいくのです。

 幼児期に体を動かして遊ぶことは、やがて学童期にはいると、ルールのある運動、スポーツに向かうことになります。運動は、素早い方向転換や身のこなし、状況判断、予測や協調など、脳の多くの領域を使用して刺激しながら、調和のとれた運動制御機能や判断力、知的能力を発達させる働きをします。

 幼い頃から特定の種目だけの運動訓練をした子どもと、特定の種目に限らず屋外でたくさん遊んだ子どもの運動能力の伸び方を追跡調査したところ、小学校高学年になる頃から両者の運動技術の差はなくなり、その後はかえって屋外でたくさん遊んだ子どもの方が運動能力全般で力を伸ばしているという結果が出ているそうです。

 また、本題からはそれますが、子どもが早期に文字学習を行なっても、小学校一年生の終わり頃には、早期文字学習を行なわなかった子どもとの間にその学力差はなくなり、小学校3年生になる頃には、早期の文字学習を行なわなかった子どもの方が、読解力、作文表現力などの点でかえって好結果を収めるようになるという研究結果も報告されています。幼少期には、子どもは、たくさん体を動かして遊び、そこで他者と言葉を交わし合い、心を豊かに通わせ合うことが、身体、精神、知的発育のための基盤づくりになる、と言えるでしょう。たくさん体を動かしましょう。

 ちなみに、文部科学省は「幼児は様々な遊びを中心に、毎日、合計60分以上、楽しく体を動かすことが大切です。」と言っています。

わたしたち大人が安全を確保し、温かな眼差しをおくり、そこで子どもたちがのびのびとたくさん体を動かして遊びこむ日々の積み重ねが、子どもの心身を健やかに育てる基本なのです。子どもたちの様々なまだ目には見えない可能性を開いていくためにも、子どもたちがたくさん体を動かして色々な事に挑戦して遊ぶ機会を持てるよう心掛けたいと思います。体を使ってたくさん遊ぶことは、子どもたちの心身が成長するための糧であると共に、経験の幅を拡げながら他者と共に生きていく上で必要不可欠のことなのです。

 (文部科学省の「幼児期運動指針」より多くの部分を引用しました。)


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2023年10月11日

光を受けて (愛恩便り 2015年8月)

光を受けて          

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神は光を見て、良しとされた。(創世記1:3-4)


 「早寝早起き朝ご飯」。この言葉は、平成18年に文部科学省が提唱した国民の健康維持増進運動のためのキャッチフレーズです。この言葉には、規則正しい生活の中で、適切な運動、十分な休養・睡眠、調和のとれた食事をとることが健康の維持と増進のための大切な要件であることがうたわれています。

 わたしは、各ご家庭でこうした基本的な生活習慣を大切にしつつ、子どもたちがこの夏休みの間にたくさん自然と交わり、その経験をご家族で豊かに共有することが出来るように願っています。

 今号では、「光」のことを、特に陽の光が人の生活リズムをつくって健康を増進するうえでとても大切であることを、記したいと思います。

一日は24時間ですが、人の体内時計の周期はそれと同じではなく、もし人が陽の当たらない一定の条件の中で過ごし続けていると、人の眠りたい時間帯と活動したい時間帯の間にはズレを起こしはじめ、食事、睡眠、排泄などをはじめとする体内のリズムも次第に乱れてしまうのです。そして、こうした人の生活リズムの乱れを修正するのにとても大切や役割を果たしているのが陽の光なのです。

 特に、朝の光を受けると、人の脳はセロトニンという脳内ホルモンが活発に分泌されてスッキリと覚醒し、体内のリズムがリセットされ、物事に取り組む意欲や集中力も高まります。その一方、人は夜になるとメラトニンというホルモンが分泌されて眠くなるのですが、このメラトニンはセロトニンを材料にしてつくられるので、よい睡眠をとるためには日中に陽の光を受けてよく体を動かすことが大切になります。

 つまり、わたしたちは、朝の光を受けて、体を動かして活動する時間を設けることで、夜にはメラトニンがたっぷりと合成されて質の良い睡眠をとることが出来るのです。このように、わたしたちの心身の健康は、早寝早起きをして適切な食事と運動によって増進されていくのです。

 長い夏休みを過ごします。

 聖書には、神さまがこの世界を「光あれ」から始めて丁寧にお造りになり、これを「良し」として祝福されたことが記されています。わたしたちが陽の光を受けて自然と遊ぶことは、神さまの思いと触れ合うことにつながります。夏休みの間も、毎日少しずつでも陽の光を浴びて、できることならたくさんの自然と触れ合うことができますように。そのためにも、ぜひ各ご家庭で「早寝早起き朝ご飯」を励行してたくさん遊び、9月に元気に顔を合わせることが出来るように祈っています。

 また、幼稚園では夏期の預かり保育も行っています。ご家庭の都合の限らず、子どもたちの生活を規則正しいものとして維持し、友だちとの活動経験を積み重ねていくためにも長期休暇中の預かり保育をぜひご活用ください。

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共に育つ (愛恩便り 2015年7月)

共に育つ

  

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民                               

主に養われる羊の群れ。(詩編 第100章3節)


 例えば、砂場遊びをするにしても、入園当初の子どもたちは、あまり他児との関係をもたずに、それぞれが独りで同じような遊びをしていました。いわゆる「並行遊び」の段階です。この時期の子どもたちは、友だちに関心を示して同じ場所で遊ぶのですが、まだお互いに役割を分担するような段階には至っていません。ですから、一つしかない遊具を二人が使いたくなると、その遊具を引っ張り合って、取られてしまった子どもはそこで泣き出すということもしばしば見られました。

 しかし、2,3ヵ月経つうちに、子どもたちは、少しずつ、友だちと関係を結びはじめます。他の子どもが使っている遊具を使いたくなったら、「貸して」と言ったり、「使っていい?」と尋ねたり、少しずつ相手を配慮するようにもなってくるのです。

 子どもたちは、遊びを通してそのような対人関係の技術(スキル)を体得していきますが、それだけではなく、子どもたちは自分の経験の幅を広げることにより他者を理解する力をも身に付けているのです。

 自分が使っていた遊具をいきなり横取りされて、戸惑ったり腹が立ったり悲しくなったこと。「貸してくれる?」と尋ねられて「うん」と答えたら、相手が喜んで「ありがとう」と言ってくれたこと。こちらから「貸して」と言ったのに「だめ」と言われて残念だったり、気持ちよく「良いよ」と言ってくれて嬉しかったり、等々の経験を子どもたちは重ねています。

 子どもが友だちと遊び、そこで経験することの一つひとつが子どもの心の幅を拡げます。そして、経験の幅が拡がっていくことは、他の子どもの様子や気持ちを理解して適切に関わる力を育てることにつながります。

 わたしたちは神の民です。上に記したことは、人が主なる神に導かれ養われることの具体例の一つであると言えます。わたしたちは子どもに関わる者として、子どもたちも神の民として生き、テレビ画面や液晶画面に向かって独りで遊ぶことでは得られないたくさんの経験を積み、優しさやたくましさを育み、社会性を身につけていくことを願っています。

 子どもたちが、幼稚園でもご家庭でも、仲間とたくさんの良い経験を重ね、主なる神さまに養っていただくことができますように。

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2023年10月09日

平和のために (愛恩便り 2015年6月)

平和のために

  平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書第5章9節)  


 国語辞典(『広辞苑』)を引いてみると、「平和」とは「①やすらかにやわらぐこと。おだやかで変わりのないこと。②戦争がなくて世が安穏であること。」と記されています。

 誰もが、「平和」とはとても大切な言葉であると思うでしょう。わたしもそう思います。

 ただし、聖書で使われる「平和」とは、単に「おだやかで変わりがない」状態を意味するのではなく、「神さまのお考え(み心)のとおりであること」を意味していることを、つまり神さまの意思の実現であることを、踏まえておく必要があるでしょう。そして、「平和」は与えられた状態のことではなく、わたしたちが努力してつくり出していくことで実現するという一面があることもしっかりと心に刻んでおく必要があるでしょう。

 子どもの健やかな成長にも平和が必要ですし、平和なしに子どもの健やかな育ちはあり得ないとも言えるのです。

 家庭や幼稚園などの子どもを取り巻く環境を子どもの育みのために相応しく整えることも、平和を実現するための身近な大切な働きです。わたしたちは、誰もが神さまから命を与えられ受け継いでいます。命の継承は、平和の中で、安定して安心して行われなければなりません。そのために、わたしたちが、神さまのお考え(御心:みこころ)に相応しく子どもが育つように祈り願いながら働きます。

 家庭が明るく円満であるように努めたり、家族が適切な栄養をとりながら楽しく食事ができるように料理をしたり、清潔で整った環境の中で暮らせるように掃除や洗濯をしたりすることも、何気ない平凡なことのように見えるけれど、実は平和を実現していくための大切な働きであると言えるのではないでしょうか。

 わたしたち人間は、この世に命を受けた時から、いや、胎内に宿ったときから、優しく柔らかな笑顔と声によるたくさんの働きかけを受けながら、つまり平和を体で感じ取りながら、少しずつそだつのです。そのように育って、平和の感性を養って、平和を実現するための働き人に育っていくのでしょう。

 こうした個人の成長における平和も、日頃暮らしている街の平和も、戦争のない世界をつくり出す平和も、その根底には、この世界とわたしたち一人ひとりを愛して生かそうとする神の熱い思いがあるのです。

 そうした神の熱い思いを覚えて、わたしたちはそれぞれに日々の具体的な働きをとおして神の平和を実現するために生きています。子どもたちの伸びやかな成長は、平和が実現する最も具体な例です。逆に言うと、子どもが伸びやかで健やかであるかどうかは、その世界が平和であるかどうかの指標でもあります。

 幼い者、弱い者、小さい者が大切にされ、喜びの中に生きられる平和な世界をつくるために生きることを喜びにすることができますように。

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2023年09月28日

「愛に基づく保育」 (愛恩便り 2015年4月)

「愛に基づく保育」(2015年4月)

 新しい年度に入りました。進級、新入園おめでとうございます。

 わたしたちの「愛恩幼稚園」はキリスト教の幼稚園です。幼稚園はキリスト教の信仰と精神に基づいてフレーベルによって始まりました。

 イエス・キリストの教えと行いの中心には、いつも「愛」がありました。わたしたちの幼稚園の保育も、主イエスさまをとおして表された神の愛に基づいています。

 「愛」とは何でしょう。聖書が伝える「愛」とは、「神さまのお考えが相手と自分の間に現れ出ることを願って、どこまでも関わり続けること」です。ですから、相手に対して無関心でいることや相手を思わずに自分勝手に振る舞うことは、主イエスさまの教える「愛」とは正反対のことであると言えます。

 近年、家族や地域に限らず、人間関係がずいぶん希薄になり危うくなってきているように感じるのはわたしだけでしょうか。保育行政の面では、部分的には過剰とも言えるサービスが提供される一方で、その内容、質の面では「愛」を欠いた状況があちこちに見られます。設備の整った保育施設の中であっても、保育士と笑顔を交わし合いスキンシップをとる機会が少ないために、幼い子どもたちが情緒的に不安定になっている事例も多いのです。愛は特別に取り出したカンフル剤のようなものではなく、日々の人間関係の中に溶け込んでいるものであり、またそうなるように心がける必要があります。

 人間に本来与えられているさまざまな可能性は、人と人の関係の中で芽を出し、花開き、実を結びます。愛は、人が人として精神的に成長していくために「心の栄養素」として絶対不可欠であり、人は「愛」によって互いの「愛」を育むのです。そして、その始まりは、赤ちゃんが生まれたとき、いや、赤ちゃんが母親の胎内に宿ったとき、もっと言えば親となる夫婦の間に既にあるといっても過言ではないでしょう。

 子育てや幼児教育も、原点はこの「愛」にあります。愛に基づき、「今、神さまは自分の目の前にいるこの人(この子ども)との間にどのような姿が現れ出ることを願っておられるのだろう」と自分に問いかけながら、わたしたちは子どもたちと関わり、皆さまと良い交わりを創り上げていきたいと思います。

 春です。教職員一同、互いに「愛」を育み、自分と同じように隣人を愛する人になれるよう、祈り合い、神さまから与えられた勤めに励んで参りたいと存じます。

 ご家庭でも、一つひとつの出来事の中に神さまから与えられた「愛」の姿が現れ出るように、心がけてくださるようお願いいたします。

子どもたちと、幼稚園と、ご家庭の中に、そしてその関係の中に神の愛の姿を実現していけますように。


 * 2015年4月から2020年3月までの6年間を愛恩幼稚園園長として勤務しました。毎月のお便りである『愛恩便り』に園長として巻頭文を記しました。その文章を本ブログ「幼稚園だより」に掲載して参ります。

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2023年08月31日

勝者とは (あいりんだより2015年3月)

勝者とは

   天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。(マタイによる福音書第25章34節)


 「勝者とは」などと、硬いタイトルを付けてみました。ここでの「勝者」とは、例えばアスリートが競技に勝ったか負けたかというようなことを意味するのではなく、自分として十分に生きているかどうか、という言葉に置き換えても良いかもしれません。

 わたしが若い頃に出会った次のような話があります。

 ある宗教的指導者が、一生が終わるときに、次のように言って自分の人生を悔やむのです。

 「わたしが神の前に立つとき、神はわたしに『あなたはモーセ(旧約聖書時代にイスラエルの民を導いた指導者)と同じように生きなかったのか。』とは問わないだろう。むしろ、神はわたしに『なぜあなたは、わたしがあなたに与えた人生を自分自身として十分に生きようとしなかったのか』と問うに違いない。」

 現代は、沢山のことが競争の原理の中で動き、判断されます。良い目標や競争相手をもつことは、人生の励みにもなり切磋琢磨することにもなるでしょう。でも、人の評価が「勝敗」によって為されるようになると、人生そのものまで「勝ち組」と「負け組」に分けられてしまいます。そのような世界に生きていると、厚かましさや図々しさと本当のたくましさの区別もできなくなってしまいます。わたしたちが目指すべき世界は、他者に較べた優劣を競う世界ではなく、それぞれが神さまから与えられた自分の人生をその人として共に十分に生き抜くために、互いに支え合う世界なのではないでしょうか。

 本当の勝者は、他の人を認めて支え合いながら建設的に生きることができます。他人の成功や勝利をねたんだり羨んだりせず、お互いに神さまから与えられた自分の人生が輝くように励まし合い支え合って生きようとすることでしょう。

 自分が生かされる場所や時代の状況は、わたしたちの思い通りにならないことも沢山あるかもしれません。それでも、その置かれた時代に、与えられた場所で、この世界が神の願っている姿になるように、より良い社会になるように、最善を尽くして生きることこそ勝者の生き方であると言えます。

 タイトルばかりではなく、文体もその内容もずいぶん硬い表現になってしまいました。

 愛隣幼稚園は、創立当初から、一人ひとりを大切にすることを心がけてきました。それは人がまだ幼い頃からこうした「勝者」の価値観と生き方を身に付ける必要があると考えるからです。

 子どもが生きることは、将来への備えをすると同時に、今ここで生きている自分を自分自身として表現して他者と分かち合うことにあります。

 神さまは人を機械の部品のように均質にはお創りにならず、一人ひとりをかけがえのない「個性ある人」として創ってくださいました。そうであれば、他人のように生きるのではなく、自分自身としての感じ方、考え方をしっかりと把握して、その場に相応しく適切に表現することが求められ、互いにそれを理解し合うことが必要になります。そうできるとき、一方が勝者になり他方が敗者になるのではなく、皆が共に人生の勝者になるのです。

 わたしたちも、子どもたちが互いに支え合ってそのように生きる世界の実現のために、本当の勝者となって生きることができるように、子どもたちと共に自分も勝者として歩み続ける者でありたいと思います。

*『あいりんだより』は、私が愛隣幼稚園(栃木県宇都宮市)に園長として勤務した2007年4月から2015年3月までの園便りの巻頭文です。

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2023年08月29日

御国がきますように (2015年2月あいりんだより)

御国がきますように

 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。(マタイによる福音書第6章10節)


 わたしたちの幼稚園では、毎日小さなお祈りをしていますが、その中でいつも「主の祈り」を唱えます。

 「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように」と始まるこの祈りは、キリスト教徒がごく初期から「イエスが弟子たちに教えた祈り」として継承されてきました。新約聖書の中にギリシャ語で記されたこと祈りは、やがて各国の言葉に訳されて、二千年近くの間にキリスト教と共に世界に拡がり、世界中で唱えられています。ある人は、「主の祈り」を「世界を包む祈り」と表現しました。

 この祈りの中には、冒頭に記したように、この世界が天におられる神さまの御心に沿った姿になりますように、という思いを表す言葉があります。「御国」とは、特定の地域や領土のことではなく、この世界が神さまの願っておられる状態であることを意味する言葉なのです。ですから、「御国が来ますように」という言葉と「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」という言葉は、どちらも、神によって平和に治められることを願う言葉であると言えるでしょう。

 「祈り」というと、小さな子どもたちは自分の願いをかなえたい時の呪文のように思っている場合もあります。例えば、何か欲しいモノがあるとき、病気の家族や友だちの回復を願うとき、何かもっと上手になりたいことがあるときなどなど、子どもは時には微笑ましく思えるような、時には吹き出したくなるようなお祈りをしますが、それらが子どもの純粋な思いからの祈りであれば、その具体的な願いか適うかどうかは神さまの判断に委ねるほかないのですが、神さまは子どもたちの祈りを喜んで受け容れてくださっていることでしょう。もしかしたら、子どもの純粋な祈りの姿は、まさに御国の姿であると言えるかもしれません。

 わたしは、そうした子どもたちの純粋な祈りがやがて神さまの大きな働きの中に位置づけられて、子どもたちの話すことや行うことが神さまの働きのために用いられるようになることを願っています。子ども自身が、自分の願うことや望むことが神さまのお考えになることにどのようにつながっているのかを考え、自分の祈りが神さまのお考えをこの世に実現させていくために役立つものになるようにと、考える人に育って欲しいのです。

 「天の国」とは、この世から切り離された理想郷のことではありません。この世界に命を与えられて生きるすべての人が、自分がこの世界に生まれてきたことを感謝して喜び、誰も空しく滅びることのない世界が実現することを願い求める言葉が「御国が来ますように」という言葉なのです。それは、子どもたちも含めたわたしたち一人ひとりが他の人と共に愛し合い、支え合って生きることで少しずつ実現するのかもしれません。

 祈りは神さまとの対話であり、必ずしも自分の願いや希望を述べ立てることだけではありません。愛隣幼稚園で育つ子どもたちの祈りが、やがて「御国が来ますように」という大きな祈りの中にしっかりと位置づけられた祈りになるときが来るでしょう。子どもたちが、将来、どのような仕事をするにしても、その働きが「御国が来ますように」という祈りに裏打ちされ、それぞれの働きを通してそこに神さまの願っておられる姿が現れでるような働きになることを願っています。「御国が来ますように」という祈りは、自分勝手になりがちな人の祈りの心を神の御心に向けさせ、わたしたちを謙虚にしてくれます。子どもたちは、御心の実現のためにたくましく、そして謙虚に育ってほしいと思います。

 今、世界はあちこちで分かれ争い、傷んでいます。

 子どもたちが、自分の幸福を願うだけでなく、御国が来ることを祈り求める人として成長してくことを願わずにはいられない昨今です。そして、「御国が来ますように」という祈りで、世界を包むことができますように。

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2023年08月26日

成長を支える (あいりんだより2015年1月)

成長を支える

 あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソの信徒への手紙第3章17節)


 先日、知り合いの若い父親から次のような相談を受けました。

 その方の2歳を過ぎたお子さんが、いわゆる「イヤイヤ期」(かつては第1次反抗期などとも呼ばれました)の真っ只中にあり、保育園で友だちとのけんかも増え、毎日のように友だちを叩いてしまうけれど、どうしたらよいでしょう、とのことでした。

 わたしは、その方のお話をもっと聴いてみたかったのですが、あまりゆっくり語り合う時間もなく、以下の3つのことを挙げてお答えしました。

 先ず、子どもが相手を叩きそうな状況になってきた時に、親や先生が先まわりして「Kくん、お友だちのことを叩かないで偉いね。」と言って、今は叩いていない状況を共有すること。

 二つめには、Kくんが叩きそうな状況になったときに、例えば「Kくん、悔しいんだね。」と、Kくんの気持ちに添った言葉をかけてあげること。

 そして三つめには、そのような状況にあるときに、どのように行動したら良いか、大人がモデルを示すこと。

 2歳を過ぎると、子どもは次第に周りの人たちの話を理解し、自分でも単語をつないで話をするようになってきますが、その表現はまだまだ未熟です。その頃なると自他の区別もでき始め、同年齢の子どもたちが集まれば、それぞれに自分のしたいことをするようになり、小競り合いが絶えないのは当たり前のことでしょう。話せてもその表現は未熟であり、言葉より行動が先になるのであれば、子ども同士がぶつかり合うのはあたりまえのことです。

 つい相手を叩いてしまった子どもがいつもそのことで叱られていては、自由に自己表現することのためらいが生まれたり、ますます相手を叩くようになるかもしれません。先ずは「叩かないでいる」ことそのものが素敵な姿であることを本人も少しずつ認識できるよう、周りが認めて言葉をかけてあげるのはとても良い方法です。

 子どもが相手を叩くのには、何かの気持ちがあり、その原因となる具体的な出来事があったかもしれません。たとえば、「ボクの使っていたおもちゃを持って行かれそうになった」とか「Aくんの脇に置いてあったおもちゃを使おうとしたらダメって言われた」とか、そのようなことがきっかけでけんかが始まるのはよくあることでしょう。その時の「困った」「悔しかった」「悲しかった」というKくんの気持ちを受け止めて言葉かけをすることで、Kくんは理解されていることの安心感を得ることができるでしょう。

 でも、まだ小さな子どもたちには、目の前の課題をどのように処理したら良いのか分からないことも沢山あります。そこで、時にはわたしたち大人が良いモデルを示し、葛藤の生じている場を子ども自身が乗り越えていけるようになるための「参考資料」を提供する必要があります。これは、日頃からわたしたち大人が、子どもの前でどのような言葉を使い、会話をし、どのような態度で危機を乗り越えているのか、ということも大きく関わっています。子どもは日頃の大人の何気ない言動をいつの間にか自分の中に吸収しているからです。その場だけでなく、日常の生活そのものが子どもを育んでいることを念頭に置きましょう。

 基本は、子どもの自己肯定感を損なうことなく、子どもが自分で生きていくための力を養うことを支えることにあります。

 子どもが他の子を叩いたとき、それはいけないことを教えねばなりませんが、頭ごなしに叱りつけたり人格を否定したり傷つけるような対応は避けねばなりません。子どもたちが、5歳、6歳になる頃にはより建設的に他の子どもたちと協力して生活できるようになることを見据えながら、子どもの育ちを支えていけるように心がけたいものです。

 本年も、子どもたち一人ひとりのありように寄り添い成長を支え促す保育に努めて参りたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

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家畜小屋でのお生まれ  (あいりんだより2014年12月)

家畜小屋でのお生まれ                                

 彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所が無かったからである。(ルカによる福音書第2章6~7節)


 クリスマス会は、わたしたちの幼稚園での年間行事の中で、とても大きなできごとです。内実のあるクリスマスを迎えることができるよう、残り少なくなってくる第二学期の日々を充実させて参りたいと思います。

 クリスマスを単なる年中行事とし過ごすのではなく、キリストの降誕を喜びその感謝を分かち合う時として過ごせるよう、クリスマスの意味をここで改めて確認しておきたいと思います。

 イエスが生まれようとする頃、その当時イスラエルを占領していたローマ皇帝より住民登録の勅令が発せられ、やがてイエスの父となるヨセフは、先祖の町であるベツレヘムに行かなければならなくなりました。身重のマリアを連れて(直線距離で)100㎞離れた町への旅は楽なものではありませんでした。しかも、彼らがベツレヘムに着く頃には、町は登録する人々で溢れかえり、ヨセフとマリアはどこにも宿を取ることができず、町の片隅の家畜小屋に体を横たえ、マリアはそこでイエスを生んだのでした。そこは、旅人がロバや駱駝をつなぎ止めておくための場所であり、今で言えば駐車所に相当するかもしれません。幼子イエスは、産着も産湯もない場所で、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされました。キリスト(救い主)は、貧しく小さなお姿を取って、普段は人々が見向きもしないような場所で、お生まれになったのです。

 この物語には、どのようなメッセージが含まれているのでしょう。今回は、この物語をわたしたちの心の中のこととして考えてみたいと思います。

 誰の心の中にも、この物語の家畜小屋のように、貧しく、汚く、醜いところがあります。自分でも、自分のことなのに、目を向けたくなかったり触れずにやり過ごしたい部分であり、もし、それを他の人に開示することになれば、軽蔑されたり嫌われたりするのではないか、と思えてしまうことでしょう。そのような、わたしたちの心の中の密やかで目を背けたくなるような部分が「内なる家畜小屋」です。救い主イエスが宿ってくださるのは、厚かましく他人を虐げて自分の欲望を満たしていく心にではなく、心の片隅の自分でも受け入れがたい密やかなところに敢えて宿ってくださるのです。

 わたしたちは、心配事や悩み事があるとき、そのことをきっかけにして深く自分の在り方を自分に問い直してみたり、考え直してみたりすることもできます。そのような時に、わたしたちの「内なる家畜小屋」に救い主が宿って、共にいてくださることを是非思い起こしていただきたいのです。救い主は、その心配事や悩み事の中から「わたしはあなたと共に生きるために、ここに宿った」と、言ってくださるはずです。いや、既にそう言っておられるのです。

 子どもたちにとってもそうなのです。子どもたちはまだ「内なる家畜小屋」とか「心の密やかな部分」などと言っても分からないでしょう。でも、救い主イエスは子どもたち一人ひとりの内にも宿ってくださっています。

 何か思い通りにならないときにも、救い主は「大丈夫。わたしが一緒にいるよ。今の努力がいつか何かの形になって表れるから。」、「それでいい、神さまはそのままのあなたを認め、受け容れておられます。」と、いつもわたしたちを受け容れ、共にいてくださるというメッセージを送り続けていてくださいます。

 クリスマスおめでとうございます。家畜小屋でお生まれになった幼子イエスを迎え入れることができますように。


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2023年08月22日

生活のリズムを保ちましょう (あいりんだより2014年11月)

生活のリズムを保ちましょう

 大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 (コリントの信徒への手紙Ⅰ3:6)

 秋の深まりを感じる頃となりました。日没も早くなり、子どもたちが外で遊ぶ時間も少なくなりがちです。しかも明け方は次第に寒さが増してくるようになります。このような時期ですので、改めて規則正しい生活によって心身のリズムをつくることの大切さを思い起こしておきましょう。

 「体内時計」という言葉があります。人の体が活動的である時と休息している時の周期的なリズムがあって、それを「体内時計」と言うようです。実際の一日は24時間ですが、「体内時計」はそのリズムとは違って25時間ほどであり、仮に一日の24時間を無視して生活していると、「体内時計」と実際の時刻の間には次第にずれが生じてくることになります。

 一般的には起床後3時間ほど経った頃からの数時間が頭脳も身体も活発になる時間帯であると考えられていますが、「体内時計」と実際の生活時刻との間のズレが起こると、この活動の時間帯を生活の中で上手くいかせなくなったり、良い睡眠がとれなくなったりすることにもつながってきます。

 そのズレを修正するのに最も有効なことは、太陽の光を受けることなのです。朝日を受けることが、一日の生活のリズムをつくり、ずれた生活リズムをリセットする上での効果が大きいことは言うまでもありません。でも、「体内時計」をリセットして実時間に合った「体内時計」にするためには、直射日光を長時間浴びなくても、また曇りの日や雨の日でもわずかな時間外に出たり、外気に触れたりすることだけでも効果があるということです。

 こうしたことから言えのるは、わたしたち人間の体は、毎朝ほぼ決まった時刻に早起きして一日を始めることの中で、脳が「朝」を感じ、「体内時計」が日々実時間に合わせてリセットされるということです。これから毎日少しずつ寒くなってきますが、できるだけ規則正しく早起きを心がけるようにしたいものです。

 前の日に夜遅くまで起きていたとか、休日などには家族揃って「遅起き」を楽しむこともあるかもしれませんが、むしろ、毎日のリズムを保つためには、一度決まった時刻に起きていつもの時間に朝食を済ませ、その後にまたリラックスした時を過ごす方が、体内時計を維持するためにもまた食べ物の消化や排泄のリズムを保つためにも効果的だそうです。

 随分と長く「体内時計」や生活リズムのことを書いてしまいましたが、幼少期の子どもたちが日中は屋外で体を動かしてよく遊び、夜は早寝をして質の高い睡眠をとることが、心身の成長に大切であることが分かってきます。健全な心身は、健全な生活によってつくりあげられることを心に留めたいと思います。

 日中に、体を動かして遊ぶことは、筋力をつくっていくことや骨を丈夫にすることにもつながります。同じ草花でも、温室で育てたものは、屋外で育てたものに較べて背丈が高くなりますが、茎が折れやすくなります。草花は屋外で育てると陽を受け風にふかれて、より緑が濃く折れにくいしっかりとした茎になります。それと同様に、一日の遊びで疲れた子どもの体は、睡眠中に疲労を回復させるだけでなく、更にその運動に耐えられる体になるように筋力をつけ、骨も強くなります。日中にたくさん体を動かして遊ぶことは、夜の睡眠を深くして心身を育むためにもとても大切なことなのです。

 冒頭にも書きましたが、これからの季節は次第に日中の時間が短くなり、寒くなってきます。布団から出たくなくなって一日の生活のスタートが遅れると、食事やトイレのリズムを崩すことにもつながります。

 そのような季節だからこそ、朝の光を受けて、「体内時計」を日々リセットして、充実した日々を過ごしていきましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 22:53| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする