2023年12月08日

「夏休み」を過ごす (愛恩便り2016年8月)

「夏休み」を過ごす

 わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。(テモテへの手紙Ⅱ 2:1)

 夏休みをいかがお過ごしでしょうか。今号では、あくまでも園長個人の思いではありますが、長い夏休み期間を過ごすにあたり、ご家庭で是非心がけていただきたいことをいくつか申し上げたいと思います。

 先ず、是非子どもの自尊感情(自己肯定感)がしっかり育つように、子どもの言動を受け止めて支持する関わりを心掛けてください。人は誰も自分を超えた大きな力によってこの世界に生かされており、こうして生かされていることそのものが尊く素晴らしいことです。私たちも、喜びと感謝を基本に生きていけるよう、お互いを尊重して生きる態度を身に付けていきたいものです。

 子どもの自己肯定感を育むことは、決して子どもの言いなりになって甘やかすことではなく、間違ったことを容認することでもありません。自分は神によってこの世に命を与えられた取り替えることのできない存在であり、その自分をしっかり表現することは大切なことである、という思いを持てるようになることが自己肯定という言葉の内実です。そして、このような思いは、大切な人に受け容れられ肯定されている実感を土台にして育つのです。時には、子どもの誤りを指摘したり叱ったりしなければならないこともありますが、その時も子どもの人格を否定したり傷つけたりするのではなく、その課題を乗り越えることで、子どもの可能性が更に広がることを願って関わるべきでしょう。

 第2に、上記のことと深く関わりますが、子どもがいろいろなことに自分でチャレンジする機会を与えていただきたいと思います。その「いろいろなこと」の中身は、奇抜なことや特殊なことではなく、例えば、日々の衣服の着脱、ヒモ結び、トイレの始末などに、なるべく手を貸さずに見守り、子どもが自分で取り組んだことを認めて励ますように心掛けてください。こうしたことは、子どもが生きていくことの土台になるのです。

 第3に、日々体を動かして遊ぶ時間を持ちましょう。文部科学省では、4年ほど前に「幼児期運動指針」を示して、幼少期の子どもに毎日60分以上体を動かす機会を与えるように促しています。近年、私たちの生活は自分で体を動かす機会がめっきり少なくなり、電子機器での遊びは幼少期の子どもたちの運動不足と他者と心をかよわせる機会を奪い、心身の健全な発達を脅かす大きな原因になっています。各ご家庭におかれましては、子どもたちが夏休みの間も様々な運動遊びをとおして体の各部位を自然にたくさん動かし、心身の発育に良い刺激を与える夏を過ごす工夫をしてください。

 もう一つ、起床から就寝までの生活を整え、子どもたちの排泄リズムを整えてください。ことに排便は一日の食事や睡眠の時間と深い関わりがあります。早寝早起きの生活習慣を保ち、毎日の食事の時間を定め、規則正しい生活を心掛け、その中で朝食後あるいは夕食後の決まった時間に排便する習慣を身に付けられるように願っています。夏は、子どもが自分で衣服の着脱を管理しやすく、一人でトイレで排尿、排便が出来るようにする絶好の季節です。よい習慣が身につくように心がけましょう。

 良い夏休みが過ごせますように。また、夏期預かり保育を有効に活用してください。


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2023年12月07日

言葉をかけること (愛恩便り2016年7月)

言葉をかけること

その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。(エフェソの信徒への手紙 4:29 ) 


 日々、子どもたちにどのような言葉をかけているでしょうか。

 例えば、子どもが小さな失敗をしてしまった場合、「そんな失敗を繰り返すなんて、ダメね!」という人もいれば、「よく頑張っているね。大丈夫、今にできるようになるから!」という人もいるでしょう。言葉を与える事は、大きな大理石の彫刻作品を創る作業にも似ています。同じ原石であってもやがて出来上がる作品は全く違うものになるように、私たち大人の言葉かけは、子どもの人格形成にも大きな影響を与えています。

 私の友だちが、中学校時代に教師の一言に深く傷付いた経験を話してくれたことがあります。美術の授業中、彼は一所懸命にその課題に取り組んでいましたが、机の間を巡視していた教師が彼の所に来ると、彼はいきなり「あなた、何やってるの、もっとマジメにやりなさいよ!」と言われたというのです。自分なりに真剣に取り組んでいたにもかかわらずそのような言葉を受けた彼は、それ以来、美術の授業もその先生のこともすっかり嫌いになってしまいました。

 彼がショックを受けたのも当然です。自分なりに心を込めて描いていた作品を否定されることは、彼自身が否定されることと同じだったのです。

 私たちは、ことに子どもと関わる時、子どもの成長の流れに沿って子どもを受け止め、よい方向付けを与える言葉かけをすることが大切です。

 トイレットトレーニングでの小さな一例です。

 1歳半から2歳の頃、子どもはよくパンツにオシッコをしてしまった後で「オシッコ、出た」と教える時期があります。そのようなとき、「すぐによく教えたね。」と言葉をかけることが大切です。また、「オシッコ出るよ」と言った時は、例えトイレに間に合わなくても、「よく言えたね。自分でオシッコの出る時が分かるようになってきたね」と子どもの小さな成長を肯定的に認め、その方向付けを与える言葉をかけるように心掛けましょう。私たち大人がかける言葉の質と方向性は、子どもが生きる意欲や自信を獲得していく上で大きな影響を与えるのです。

 例えば、いつも「○○しなくちゃダメでしょう!」、「どうしてそんなバカな事するの!」と、心に刻みつけられていけば、子どもの心がどのように方向つけられていくのかは容易に想像できるでしょう。

 言葉かけは、人が他者にどのような思いをもって関わっているかということと深く関係しています。私たちは、責任のある大人として子どもたちに適切な言葉をかけるスキル(技術)を身につけていくことも必要です。日頃から子どもにどのような言葉を使って関わっているのかを振り返り、自分を整えていくことも大切なことになってくるのです。

 私たちの基本的な生き方が、言葉になって表現されます。子どもたちの心の成長を支える言葉かけに心がけ参りましょう。

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2023年12月04日

心を動かす (愛恩便り2016年6月)

心を動かす

   「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録第3章6節)

 標題の「心を動かす」という言葉は、保育の現場でしきりに用いられています。でも、私の心にはこの言葉がなかなか馴染みませんでした。なぜなら、私には「人の心を、物を右から左へ移動するように動かすことなどできない」と思えるからです。そして、「まして他人の心を操作してはいけないし、もし、できたとしてもそうすることは相手に失礼なことであり、不遜なことだ」とも考えるからです。それにもかかわらず、保育の中で、「心を動かす」などという言葉が盛んに用いられるのは、私たち人間の経験の原点に、この「心が動く」ということが欠かせないことだからなのではないでしょうか。

 古代ギリシャには、ソクラテス、プラトンをはじめとして、後世に大きな影響を与えた哲学者たちがたくさんいますが、彼らには「驚きは、知ることの始まり」だったのです。これを違う言葉で言えば、それは自分から意図的に心を操作するということではなく、ある物事に強く心を動かされたり興味を持ったりすることが、その物事を更に探求したり思索を深めていくことの前提である、ということなのではないでしょうか。

 そうであれば、子どもが夢中に遊ぶことや何かに感動して心が沸き立つことは、その後も意欲的に生きていくための大切な要因となると言えるでしょう。

心に感動がなければ、工作も器楽演奏もただの作業になってしまうでしょうし、体を動かす喜びがなければ体操は億劫な労働になってしまうでしょう。また、心の動きを文字や言葉にして表現しようという思いがなければ、文字や豊かな言葉を習得しようとする意欲も高まらないでしょう。

 私は、「心を動かす」という言葉は、そのように子どもたちが何かに興味を持って行動へと促されていろいろとチャレンジしてみたくなる前提としての驚きや感動のことを意味しているのだと思えるようになりました。

 やがて、小学生になると教科の勉強が始まりますが、勉強の前提となる物事への興味や関心、またそれに取り組んでいく中で新しい発見やその感動、つまり「心を動かす」ことがなかったら、せっかくの勉強もあまり実感のない机上の知識を積み上げることにしかならないでしょう。それではあまりにもったいないと思います。

 幼児期は子どもがその後の生きる意欲を培う大切な時でもあり、それは言葉を替えればたくさん「心を動かす」時期でもあります。このように考えてみると、幼少期にたくさん遊び込むことの大切さが分かりますし、心を動かされたこと、つまり感動したことを素直に表現できるようになることの大切さも分かってきます。

 子どもたちが熱中して遊び込み、心に深い感動を経験してくれるようにと願っています。そしてそのことを素直に表現できるように支援することにも心がけていきたいと思います。子どもと共に生きるわたしたち大人が、子どもたちの心の動きを共有する大切な存在であることを再認識して、子どもたちの感動をたくさん引き出し、分かち合えるように努めていきたいと思います。

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2023年12月02日

躍動する心 (愛恩便り2016年5月)

躍動する心

   「わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカによる福音書第24章32節)


 私は、小さな子どもの動きを見るのが大好きです。よちよち歩きするくらいの年齢の子どもが遊ぶ姿を見ていると、こちらもとても楽しくなってくるのです。その年齢の子どもは、何にでも興味津々です。もしその子どもたちの心の中を覗くことができたら、彼らの心はきっと周りの物事に対する反応で躍動していることでしょう。例えば、道路を歩いているとき、子どもはちょっと高くなっている所を歩いてみたり、路上に引いてある線の上を歩いてみたり、水たまりの中に入ってみたり・・・。

 でも、大人はついつい「急いでちょうだい!」「ほらほら、危ないから!」と声を掛けたくなり、時には子どもの腕を引っ張って、引きずってでも速く歩きたくなってしまいます。

 私はそのようなときにも、子どもは自分の躍動する心を行動に表し、身体のバランス感覚をはじめ、視覚、聴覚、触覚などあらゆる感覚を刺激しながら、感性を育てているのだと思えるようになってきました。子どもたちは、そのような行為の中で、周りの物事に興味を持ち、そこに自分を関わらせ、楽しみながらやがてそれを自分の経験として心に納める、という学習の「初めの一歩」を、既に始めているのです。

 もちろん、私たちは子どもたちに公共の場で他の人々に迷惑をかけることがないように教えていくことも必要です。しかし、自分の感性と意思でしっかりと生きていくことができるようになる土台は、自分が興味をもった事柄に触れてみて、味わってみて、その手応えを心と体に感じることなのです。

 幼稚園は、集団で活動をします。そのねらいはみんなが画一的な行動を取るために訓練することではなく、お互いの躍動する心が行動となり、触れ合い、ぶつかり合って、その先に一人でいることでは生まれない新しい世界を創造していく経験をすることなのです。そうできるとき、一人の心の中にあった躍動感は、他の人の心の躍動感と刺激し合い、他者と生きる楽しさが倍増することでしょう。

 社会のルールを身に付けることは、そうした子どもの心の躍動感を押さえつけたり奪ったりすることではなく、より良い方法で、より良い方向にその躍動感が生かされ、やがては、その子どもが意欲的に活き活きと生きていくことへと導くためであることを認識しておきたいと思います。

 幼稚園生活に慣れ始めた5月、子どもたちにとって、躍動する心を伸びやかに表現できる場をつくり、その表現を支えていきたいと思います。

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2023年11月29日

神さまに見守られて (愛恩便り2016年4月)

神さまに見守られて

 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる。(マタイによる福音書第2820節)

 新入園、進級おめでとうございます。

 この3月に愛恩幼稚園を卒園していった多くの子どもたちが、「たくさん遊んで、楽しかった」と言ってくれました。私は、園長として、その言葉をとても嬉しく思いました。

 小学生になると、文字の読み書きを覚えたり計算のし方を学んだりするようになりますが、そのような学びの根底には子どもの生きた経験がなくてはなりません。子どもの場合、その生きた経験を重ねるのが「遊び」であり、幼稚園生にとって「遊び」は大切なお仕事であり、生きることそのものという言うこともできるでしょう。

 私は、ことに幼少期の遊びの大切さを十分に踏まえつつ、その遊びが更に深まり発展するためには、保育者や保護者の「確かな眼差し」が必要であることを付け加えたいと思います。

 なぜなら、私たち人間は、心の内外に恐れや囚われがなく内的にも自由であるときに、より深く本当の自分を表現し、成長していくことができるからです。子どもたちが自分たちで自由に遊んでいるだけでも、遊びは深まり進展するものですが、そこに子どもを深く見つめる確かな眼差しがあるとき、子どもたちの遊びは深まり、発展していくのです。

 子どもたちがそのような確かな眼差しに守られて遊び、その遊びが展開していくことは、本人の心の表現にも関係してきます。子どもは遊びをとおして、自分を癒し、自分を教育し、より本当の自分を成長させていくことができます。

 私たち大人は、時に子どもたちにアドバイスをしたり、子どもたちを大きな危険から守ったり、また時には遊びに必要な道具をそろえたりして、子どもの遊びがより深く大きく進展するように環境を整えるのですが、大人の役割はそれだけではありません。私たち大人のもっと大切な役割は、子どもの存在を受け入れ、子どもに共感しながら、遊ぶ子どもたちを暖かな眼差しでしっかりと見ていてあげることなのです。

 そして、子どもたちばかりでなく私たち大人に対しても、私たちを越えたもっと大きく深く確かな眼差しが注がれていることを心に留めておきましょう。この眼差しは、愛の眼差しであり、私たちはこの眼差しを受けながら、隣人を自分のように愛することへと向かっていけるのです。

 新しい一年、新年度4月のスタートです。

 私は年度のはじめにあたり、園長として、子どもたちに「神さまが見ていてくださるから、みんな安心して楽しく遊びましょう。」と言いたいと思います。そして、私たち子育てに携わる大人が神から受ける愛の眼差しを自覚し、子どもたちに確かな眼差しを向けていきたいと思います。

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2023年11月16日

御国(みくに)が来ますように (愛恩便り 2016年3月)

御国(みくに)が来ますように

 「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイによる福音書第6章10節)

                                                  

 教会で古くから伝えられてきた祈りに「主の祈り」があります。イエスさまが弟子たちに教えた祈りとされ、今では世界中の言葉に訳されています。私たちはこの祈りを日本語で唱えていますが、この祈りは、キリスト教が世界に拡がっていく中で二千年にわたって唱えられてきた祈りであり、「世界を包む祈り」とも言われています。

 この「主の祈り」の中に「御国が来ますように」という言葉があります。私たちの生きているこの世界に「御国(天の国)」が来るとは、どこか特別の地域を区切ってそこが神の領土であると宣言するようなことではなく、私たちが生活している直中に「そこには確かに神が共にいてくださる」という姿が現れ出ることであり、神さまの意思、お考え、願いがそこに現れ出るということなのです。

 そうであれば、私たちが「御国が来ますように」と祈ることは、私たちがただじっとしているうちに理想の世界を神さまが創り上げてくださいと願うことではなく、神さまの願いを実現するために私たちを生かしてくださいますようにと願うことであることが分かるでしょう。

 愛恩幼稚園では、日々「主の祈り」を唱えています。子どもたちがこの言葉の意味を理解するには、まだまだ時間がかかるでしょう。でも、イエスさまは、子どもたちを抱き上げて、「神の国はこのような者たちのものである」と教えました。子どもたちは、理屈ではなく存在で「御国」の姿を表しています。私は、「主の祈り」を日々祈りながら過ごしてきた子どもたちがますます大きく育ち、神さまの願う世界をこの世に実現するための働き人になって欲しいと思います。それは、大袈裟なことではなく、自分の家族や友人を愛することや自分の仕事を通して社会や隣人のために尽くすことなどを含め、一見平凡でありながらも地道に神さまの御心を行うところから開かれてくることであるように思います。

 神さまに向けて祈る愛の心と、自分の隣り人を大切にする愛の心は、十字架の縦の棒と横の棒に例えられ、この両者がしっかりと組み合わされて十字架は成立します。

 3月です。「御国が来ますように」と心から祈り、子どもたちが御国の実現のために働く人に大きく羽ばたくことを夢見ながら、私たちも子どもたちと共に育っていきたいと思います。

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2023年11月14日

信頼すること、信頼されること (愛恩便り 2016年2月)

信頼すること、信頼されること

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書第20章29節)


 上記の言葉は主イエスが、甦りを信じられない弟子トマスに現れて、告げた言葉です。最初に他の弟子たちが復活した主イエスに出会った時、トマスはその場にいませんでした。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。その後トマスも他の弟子たちと一緒にいる時に、甦りの主イエスに出会うことができました。その時、イエスはトマスに上記の言葉を告げたのです。

 この言葉は、「信じる」ということの大切さを教えています。わたしは、「信じる」といことは子育ての中でもとても大切なことだと思います。

 かつて、わたしは次のような事例に出会いました。

 ある園児が登園しても落ち着かず、自分の家のことや母親のことをしきりに気にして、そわそわして家に帰りたがっています。次第に明らかになってきたのは、両親が子どもの前で激しい口論をして、母親はそのたびに実家に戻ってしまうということでした。子どもは小さな胸を痛め不安になっているようでした。子どもにすれば、母親を自分の眼で確認していないと、「またわたしを置いて、どこかへ行ってしまうのではないか。今度はもう戻ってこないのではないか。」と不安になり、いてもたってもいられなかったのでしょう。

これは、人間関係の中で、ことに幼い子どもと大人の間で、信頼関係がしっかり保たれることの大切さを思わされる事例です。わたしたち大人が、いつも子どもに信頼されるに足る存在になっていることがいかに大切であるかを学ぶことができるでしょう。

 「信じる」とは、現状を見ないでありもしないことを思い込むことではありません。「信じる」とは、目で見て確認しなくても本当のことや正しいことに基づいて、そこにしっかりと立てると言うことです。

 ある心理学者は、人が精神的に発達していく上で最初の課題となるのが「基本的信頼関係」を築くことであると言いました。人の成長には信じ合える関係が必要なのです。落ち着いた暖かい関係の中で、大人が子どもの存在を認め、受け入れ、支えていくところに、自分を信じ身近な他者を信じる力が生まれます。自分が自分であることに自信を持ち、その自分をしっかりと相手に関わらせていくベースには、「信じる」ことが必要不可欠なのです。

 そうであれば、私たちは、「子どもが信じる対象として自分はふさわしいか」と謙虚に自分に問い返し、そうなれるように努めることが求められます。

 わたしたちは、子どもの信頼の対象として全てのことが完璧ではありません。でも、まず神がそのようなわたしたちをも愛し、赦し、信頼してくださっていることを心に留めたいと思います。わたしたちも神に信頼されていることを基盤として子どもたちに関わり、信頼される大人となれるよう努めて参りましょう。

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2023年11月07日

成長の時を見守り支える (愛恩便り2016年1月)

成長の時を見守り支える         

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉 第3章1節)


 新年おめでとうございます。本年も教職員一同で子どもたちの心身の豊かな育みのために努めて参りたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 昨年の引越を機に、牧師館玄関前(みどりの広場の突き当たりコンクリート立ち上がり部分)に水仙の球根を植えました。また、幼稚園の各クラスではヒヤシンスの水栽培を行っています。

 水仙の芽が出てくるのを心まちにし、また、水栽培のヒヤシンスの根が伸び、芽が大きくなってくる様子を楽しみながら新年を迎えました。花の咲く時が楽しみです。

 それぞれの子どもたちにも成長の時があります。十分に根を張る時、葉をしげらせる時、花を咲かせる時、実を結ぶ時、休眠する時。

 成長するのは子ども自身なのですから、大切な事は周りの人が出来るのは良い環境を整えることであり、あとは手出しをせずに関心をもって見守ることです。それぞれの子どもの姿をしっかりと見極めながら、急がせず、かといって放任するのでもなく、心の栄養になる言葉をかけ、子どもたちを見守ることが大切なことだと言えるでしょう。

 各ご家庭におかれましては、子どもたちが出来るだけ規則正しい生活が出来るようにご配慮いただければ幸いです。なぜなら、規則正しい生活は、「時」のメリハリをしっかりと創り出すからです。生き生きと心を通わせ、言葉を交わし合う生活を創っていく上でも、「時」をしっかりと意識していたいと思うのです。

 近年、日本の教育力の低下が指摘され、マスコミなどでも、昨今の子どもたちの学力が世界の他国に較べて順位を下げていることが話題になります。特に思考力や応用力の低下が目立っているようです。その原因として、子どもたちが幼い頃から周りの人たちと対話する機会を奪われ、自分の実感を大切にして他者と心を通わせる機会が減っていることが指摘されています。

 人と人との深く暖かな心の交流を失っては人間としての成長はあり得ません。時代は私たちを怠惰にさせるほどに便利な道具や指先を動かすだけで遊ぶ気になる遊具にあふれ、心と体を十分に動かしながら他の人とぶつかり合い、理解し合いながら心の交流を深める機会が乏しくなってきています。同じ場所にいながらも、例えば、それぞれがテレビ画面に向かって一日中ダラダラと電子ゲームをする人も増えて、そこでの心の触れ合いや交流は乏しくなり、「時」に対するメリハリも失っているかのように感じられます。

 子どもの確かな成長を信じて、豊かな交わりのある「時」を創り出す働きに努めて参りたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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2023年11月04日

羊飼いの喜び (愛恩便り 2015年12月)

羊飼い喜び

 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」(ルカによる福音書第2章11節)


 救い主(キリスト)誕生の知らせがいちばん初めに届いたのは、羊飼いのところでした。

 当時の羊飼いは、卑しい職業とされていました。羊飼いは、遊牧の生活をします。定住地もなく野原で生きる羊飼いは、当時の律法(おきて)を守れる境遇にはありません。例えば、野原に羊を残したまま安息日ごとに神殿もうでをすることなど、羊飼いには出来ないことです。

 そのような羊飼いは、権力者たちから「律法を守れない汚れた者」「民族の一致と団結を乱す者」として扱われ、次第に落ちこぼれた者の集まりとなっていきました。羊飼いたちは、世の中に背を向け、たとえ救い主が出現したところで自分たちには関係のないことだと考えたことでしょう。

 しかし、救い主誕生の知らせがいちばん初めに届いたのは、羊飼いのところだったのです。

 この出来事は、救い主がいつもわたしたちの心の奥深くにひそむ貧しく弱いところに宿ってくださり、どんな境遇の中にある人のことでも神は大切に思っておられることのメッセージです。

 羊飼いは、この知らせを受けて、生きる喜びを取り戻したことでしょう。「神は、人の職業や身分によらず、私たちのことも認め、受け入れ、愛してくださる」という知らせを、羊飼いは天使から受けたのです。そして、彼らは救い主にお会いし、喜びに満たされました。

 ここにクリスマスの喜びがあります。クリスマスとは、キリスト(救い主)とマス(礼拝)から成り立つ言葉です。つまり、キリストの生誕を感謝して礼拝することが本当のクリスマスなのです。

 クリスマスの喜びが、わたしたち一人ひとりの心の奥底からの、本当の喜びとなり、わたしたちの幼稚園の枠を越えて拡がっていくように祈りたいと思います。

 わたしは、キリスト教保育の基盤もキリストの降誕に示された神さまの意思にあると思います。誰もが、神から与えられた大切な命を生きています。その命が、損なわれるようなことや、不当な悲しみや苦しさの中に捨て置かれることを神がお喜びになるはずがありません。私たちも、クリスマスのメッセージをしっかりと受け止めて、自分と他者を共に大切にして生きていきましょう。

 クリスマスおめでとうございます。共に救い主の降誕を祝いましょう。


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2023年11月02日

「ありがとう」の原点 (愛恩便り2015年11月)

「ありがとう」の原点

 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。( マタイによる福音書第6章11節 ) 


 私は、誕生日の感謝礼拝で、よく次のような教話を致します。

 私たちは、毎日お食事をします。もう皆さんはお箸やスプーンを使って自分一人で食事をすることができますが、生まれたばかりの時からできましたか?そうではないですね。生まれたばかりの赤ちゃんのお食事って何でしょう。お母さんからおっぱいをもらうことです。

 赤ちゃんは、まだお話しできないから、お腹が空いた時にも泣きます。お母さんはその泣き声を聴いて、「お腹が空いたのね。ほら、今すぐおっぱいあげますよ。」って優しい声で言葉をかけて、赤ちゃんにおっぱいを飲ませます。

 赤ちゃんは、コクン、コクンとおっぱいを飲み始めますが、時々飲むのを休みます。その時、お母さんは赤ちゃんを見て、優しく声をかけて軽く赤ちゃんを揺すってあげます。赤ちゃんは、またコクン、コクンと飲んで、また少し休みます。お母さんはまた赤ちゃんに優しい笑顔を見せ、柔らかな声で赤ちゃんの名前を呼んで話しかけます。赤ちゃんはまたコクン、コクンとおっぱいを飲んで、また少し休んで、お母さんが赤ちゃんに笑顔を向けることを幾度も繰り返します。これが赤ちゃんのお食事とお母さんのお世話です。途中でお休みしながらおっぱいを飲むのは、人間の赤ちゃんだけとお母さんだけの、お互いに心を通わせるための、大切な営みなのです。人間が食事をすることは、ただ体に栄養を採り入れるだけのことなのではなく、赤ちゃんの時に限らず、お互いに心を通わせ合うための大切な時でもあるのです。

 また、牛や馬など動物の赤ちゃんは、30分もすれば、自分で立ち上がって自分でお母さんのところに行って、おっぱいを飲みますが、動物の親子は人間のお母さんと赤ちゃんのように言葉を交わしたり見つめ合ったりはしません。

 人間の赤ちゃんは、他の動物の赤ちゃんよりずっと時間をかけて、8ヶ月も10ヶ月もかけて、やっとハイハイしたり立ち上がったりするようになります。その間、人間の赤ちゃんは、毎日毎日、優しい眼差しと言葉を受けながら、お食事のお世話をしてもらって育つのです。

 これは、今の子どもたちだけのことではなく、皆さんのお父さんやお母さんも赤ちゃんの時代があり、生まれてすぐに、そのお母さんであるお祖母ちゃんにお乳を飲ませてもらって大きくなったのです。その命のつながりの中で私たちは生まれ、育てられてきました。

 人間にとっての食事は、単に空腹を満たすことや栄養を補給することにとどまらず、人間同士が互いに心を通わせる聖なる営みです。いつも感謝の思いをもって楽しく食事ができるように心がけたいと思います。

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