2023年03月20日

御国が来ますように(あいりんだより2011年5月号)

御国が来ますように

  御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。(マタイによる福音書 6:10) 


 わたしたちは、毎日「主の祈り」を唱えています。朝の職員会で、子どもたちとの朝の集会で、この祈りを唱えない日はありません。この祈りの言葉は、上記のように聖書の中にあります。

 主イエスが弟子たちに「こう、祈りなさい」と教えた祈りです。

 「主の祈り」の中に「御国が来ますように」という言葉があります。この言葉は、「天の国が来ますように」と置き換えることも出来ますが、「神さまのお考えの世界が到来しますように」という意味です。

 日頃使われている「天国」とは、わたしたちが死んだら迎え入れられる世界のことなのかもしれませんが、イエスさまの教えによれば、「天 国」は行くところではなく、この地上に求めるもののようです。主イエスさまは、どこか特定の地域を区切ってその領土を天国にするのではなく、わたしたちが生きている、今、ここを、神さまのお考えが実現する姿になるように求めて祈りなさい、と教えておられるようです。

 そして、そのように祈り求めることとは、ただ座って目を閉じてこの言葉をお題目のように唱えることを意味するのではなく、その願いが実現するように、例え小さな事柄でも、具体的な行いにして表すことへと促されることを意味するのです。

 かつて、ある臨床心理学者が次のように言っていた言葉が印象に残っています。

 「一見平凡に見える家庭でも、それを維持するのにはそれなりの努力が必要なのです。」

 この言葉と重ね合わせて考えると、天の国はただ誰か他の人の手によって作ってもらう世界ではなく、わたしたちの小さな努力を積み重ねることによって実現していく側面も大きいことがよく分かるのではないでしょうか。

 わたしたち大人が子どもたちにかける何気ない言葉の中にも、時には叱って正しいことを教える中にも、家族で食事をする中にも、神さまが共にいてくださるのですから、わたしたちは、その時、その場が神さまの望む姿が現れ出るように、いつも小さな努力を重ねていくことが必要なのではないでしょうか。

 そのような環境の中で、自分を精一杯表現して生きる子どもたちの中に「天の国」の姿が現れ出てくるのです。

 風薫る季節です。子どもたちは幼稚園生活のリズムにも慣れて、心も体も伸びやかに育つ季節です。その成長が天の国の姿が現れ出ることにつながるよう努めて参りましょう。御国が来ますように。

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2023年03月15日

傷みと苦しみを知る人の優しさと強さ (あいりんだより2011年4月号)

傷みと苦しみを知る人の優しさと強さ

 わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 (ローマの信徒への手紙 5 : 3-4 ) 


 新年度を迎えました。保護者の皆さまにはお子さまの入園、進級おめでとうございます。

 本年は、1ヶ月ほど前の3月11日に発生した太平洋東北沖大地震(東日本大震災)に起因する諸被害のため、多くの人が傷み、苦しみ、その辛さを抱えて4月を迎えたのではないでしょうか。仮に人的、物的な被災がなかったとしても、心に大きなダメージを受けている方も沢山おられるのではないかと拝察しております。

 今回の地震の後、私も教会の牧師として、ほんの少しではありますが、被災者に対する支援プログラムの構築とその調整に関わりました。その委員会の中には阪神大震災を現地で体験した方もおられましたし、今回の地震被災者もおられましたが、そのような方々は概して優しくかつ粘り強いのです。彼らは、自分の傷みを人々に関わる優しさに変え、自分の苦しい経験を他者と関わる上での粘り強さの糧としているように見受けられました。

 だからといって、わたしはこれ以上子どもたちに悲しい経験や苦しむ経験をさせればいいなどとは思いませんし、苦しい経験をすれば、それが必ず強さや優しさになるとも考えません。

 痛みや苦しみを優しさや強さに変えていくためには、傷ついたり悲しんだりしている子どものかたわらにいて寄り添い、見守り、支える存在が必要となります。

 子どもたちにとっては、「大丈夫、わたしが見ているから」、「あの時は辛いし、悲しかったね。あなたのその気持ちは、いつか傷みを知る優しさと強さになる日が来ますよ」と、ゆったりと、落ち着いて、坦々と子どもを支援する存在が必要なのです。

 実は、このことはこのような災害時にだけ適用すべき特別な支援の態度なのではありません。この態度は、日頃から子どもたちの成長を見守り支えようとする親、家族、教師、保育士などにとって、子どもに関わる基本的は態度なのです。また、こうした基本的な態度は、子どもたちだけではなく、わたしたち親や教師も含めたあらゆる人が他者と関わる時の大切な態度なのではないでしょうか。わたしたちは、大人でも「絶対的他者」と言うべきお方に見守られて、生きています。キリスト教保育ではこの絶対的他者である「神」を掲げ、「神」の御心をこの世界に示したイエス・キリストに導かれ、その守りと導きの中でわたしたちは子どもたちと関わっています。

 愛隣幼稚園は少人数の幼稚園です。わたしたち教職員は、子どもたちの目に見える行動だけではなく、一人ひとりの内的な世界も大切にして理解することを心がけ、子どもたちが日々経験することを一緒に味わいたいと思います。子どもたちの喜びや楽しさばかりではなく、悲しさや苦しさをも共にして、優しさ、強さ、心の豊かさを育んでいきたいと思います。周りの人の共感と受容を得ることで人は自分を保ち育てていきます。お互いに良い他者となり合い、優しさと強さを育み合いましょう。

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2023年03月08日

試練と希望 (あいりんだより2010年3月号)

試練と希望

「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙5:3-4) 

 わたしたちは、順風満帆に、あるいは敷かれたレールの上を何の問題もなく歩くように、生きていけたらどんなに幸せだろう,と思うことがあります。あこがれや羨望と共にそう思うとき、わたしは著名な臨床心理学者の次の言葉を思い起こします。「平凡な幸せな家庭を営んでいくのにも、それなりの努力が必要なのです。」

 3月になり、今年度の幼稚園生活も残りわずかになってきました。この一年間を思い起こしてみると、どの子にもその子なりの試練や危機がありました。大きくなっていくためには、少しずつでよいから自分でできるようにしていかなければならないこと、今はまだそれができないということや自分よりずっと上手にできる同年齢の友だちもいることを認めなければならないこともあります。ついわがままをしたり他人を傷つけるような結果になってしまった自分の行いを認めながらも、神さまが喜んでくださる生き方を模索していくべきことなど、それぞれに出会ったり乗り越えたりしながら、わたしたちは子どもたちと共に過ごしてきました。子どもたちも、それをどれほど自覚しているかは別としても、自分の人生を建設的に営んでいけるように、それなりの努力をしています。そして、わたしたち大人は、親も幼稚園の教職員も、その子の努力を適切に支援できるように学び、成長していきたいと思います。

 わたしたち人間は、適度な運動をして体に刺激を与えなければ、筋肉も骨も呼吸器も丈夫にはなりません。その鍛錬をすることは、時には苦しいこともあるでしょう。それは、わたしたちの心や精神についても言えるのではないでしょうか。

 わたしがかつてある相談機関で働いていたとき、ある母子が相談に来た時のことを思い出します。受付でその子どもは、お母さんとわたしを困らせようとするかのように「泣いちゃうぞ」と言ったのです。その時わたしは思わず吹き出してしまったのですが、その子の「泣いちゃうぞ」という言葉には、その子が家庭で日々どのような「問題解決方法」をとっているのかが象徴的に現われていると言えます。親はその子に泣かれるのがイヤだから、その子の泣きそうな状況をつくらないように先回りしてレールを敷き、それでもその子は自分の思い通りにならないと大声で泣いて親を困らせてワガママを通してきた姿が、わたしには目に浮かぶようでした。

 神さまはわたしたちにいろいろな課題(試練)を出してくださいます。時には子育ての上での課題も与えられます。時にはその課題が大きすぎるように思えたり、独りで担うのには重すぎると感じられたりすることもあるかもしれません。でも、冒頭の聖書の言葉のように、神はわたしたちを安易に生かそうとするのではなく、深く神と人に関わりながらわたしたちを生かし育てようとするが故に、わたしたちが乗り越えるべき課題を設定なさるのです。

 それでも時には重荷を降ろしたくなるかもしれません。そのようなときは、下記の聖書の言葉を思い起こして、神のお与えになった課題に向かって参りましょう。やがて「あの試練の時があったからこそ、今の豊かな時がある」と言えるときが来る希望を持って。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(マタイによる福音書11:28-29)


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2023年03月06日

「世界一」の子育てを   (あいりんだより2010年2月号)

「世界一」の子育てを

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」 (コリントの信徒への手紙Ⅰ 3:6 ) 

 子育てはなかなか私たち大人の思い通りにはいかないものです。私たち大人に出来ることは、子どもに内在している「育つ力」が現れ出るように支援することではないでしょうか。

 それでは、子どもの「育つ力」を支援するとは、どうすることでしょう。それは、「我が子」にとって「世界一の親」になることであり、私たち幼稚園の教職員としては子どもたちの「世界一の先生」になることです。

 「世界一」と言っても、オリンピックのような勝敗をつける競技で世界の頂点に立つことではなく、時に半歩下がって子どもの見守り役になり、時に半歩先に進んで子どもの良きお手本になり、また時には子どもと一緒になって子どもの気持ちを共感する人になって、子どもにとっての「最も大切な人」になることなのです。

 私たちは、どんなに高価な外食も3日も続けば飽きてしまいますが、お母さんの作る味噌汁は毎日だって飽きません。和やかで温かな会話のある食卓は、何にも勝る子育ての場であって、それは各家庭でその子にとって「世界一」の場となるでしょう。私が小学生の頃、『うちのママは世界一』というテレビ番組がありました。その内容は別として、どの子どもにも「うちのママは世界一」、「ボク(わたし)の幼稚園は世界一」という経験をして欲しいと思います。それは、モノの豪華さにおける世界一ではなく、子どもの経験の質や深さとしての「世界一」なのです。子どもの経験の質やその深さは、何かの出来事での体験が、大切な人と分かち合われて共感されるときに、本物となります。私たちは、日頃、子どもたちとどのような言葉をどれだけ交わし合い,心を通わせているでしょうか。

 子どもにとっての「世界一」とは、必ずしも子どもの物的な要求を何でも直ぐに満たしてくれる存在のことではありませんし、いつまでも赤ちゃん扱いして幼いままに留めさせる存在のことでもありません。かといって、子どもを叩いたり叱りつけたりすることでの「世界一」などと言うのもいただけません。なぜなら、子どもは多くの場合、叩かれれば「なぜ叩かれたのか」などと考えるより、叩かれたこと自体が心の傷になってしまうからです。また、子どもは、叱られたときも、大人が叱ったその内容に反応するより、叱る人の感情に反応することが明らかだからです。

 冒頭に掲げた聖書の言葉のように、「育ててくださるのは神」です。私たち大人に出来ることは、子どもの成長する力をしっかりと見据え、そこに肯定的かつ積極的に反応してあげることです。これさえ出来れば、子どもにとって「うちのママは世界一」であり、食育、知育、体育などそれぞれの事柄はそのバリエーションに過ぎません。そのバリエーション部門でも、例えばお料理、会話、生活習慣等々でも、ぜひ「世界一」の子育てをしていきましょう。神さまからいただく金メダルを目指しましょう。 (あいりんだより2010年2月号)

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2023年03月04日

「大切に育てる」ということ (あいりんだより2010年1月号)

「大切に育てる」ということ

   求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。(マタイによる福音書7:7)

 新年おめでとうございます。

 年末に里帰りしてきた大学生の息子が、レポートの課題とする新聞の切り抜きを私に見せてくれました。不登校児の増加に関する記事でした。ある評論家がそのコメントをする中に「現代の子どもたちは、大切に育てられるあまり、他者とのコミュニケーション能力が育っていません」という言葉があり、家族でそれについての議論が始まりました。

 「コミュニケーション能力が育っていない子どもは、むしろ大切に育てられてこなかったのではないか」とか「大切に育てると言うことの中身の問題なのではないか」などと話は延々と続きました。

そ の議論の中で、次第にはっきりしてきたのは「大切にする」と言うことは、必ずしも子どもの欲望を即座に満足させたり、子どもの葛藤をいつでも回避してあげたりすることではない、ということでした。「子どもを支援する」というとき、いつでも子どもを中心にして周囲がホイホイすることを連想する人もいるようですが、もしそのような接し方をしたら、上記の評論家の指摘するとおり、子どものコミュニケーション能力は育たないでしょう。

 以下の例え話をご存じの方も多いと思いますが、子どもを大切に育てることにも共通することだと思いますので、触れておきましょう。

 極貧の国の子どもたちに100円分の支援をするとします。食料を100円分買ってわたすことと、釣り糸と釣り針を100円分買ってわたし魚の釣り方を教えることでは、どちらが彼らにとって有効な支援になるでしょう。むろん後者です。

 この例から考えてみると、現代の日本の状況で、子どもを「大切に育てる」ということが、子どもが駄々をこねるときに何でも自分の思い通りになるような環境をつくることや子どもが風邪を引かないように無菌状態の安全な室内においておくことにすり替わってきているのかもしれません。でも、本当に子どもを大切に育てるとは、そのような至れり尽くせりの環境の中で過保護にすることではなく、子ども自身の学ぶ力や生きる力を育てることなのではないでしょうか。

 本園では、子どもたち一人ひとりを大切にし、成長を支援して参りたいと思います。子どもたちがじっとしているだけで事態が自分の思い通りに進むことが子どもを「大切にする」ことではありません。また子どものすべての要求を無条件に満たしてあげることが「大切にする」ことでもありません。

 先ずは、私たちが、子どもたち一人ひとりをできるだけ子どもの枠組みで理解することに努め、子どもたちの言動を先回りせずに半歩下がって受け止めて理解し、できるだけ子どもの心の動きに沿った言葉で応答し、子どもたちと心をかよわせることを心掛けたいと思います。こうした関わりから生まれる心と心の繋がりによって、子どもたちは自分の存在に実感を深め、他の人とコミュニケーションを取りながら生きていくことの楽しさと大切さを、身をもって感じていくことになるでしょう。

 このことは、決して目立つことではなく、派手の保育を展開することにもなりませんが、子どもたちが一個の掛け替えのない人として育っていく基本であり、人としてお互いを大切にし合う基本でもあります。

 人間関係の希薄化から様々な社会の問題が噴出する昨今、一人ひとりを大切にすることの比重は増しつつあります。幼稚園でも、家庭でも、子どもたちの自立を促すために、本当の意味で子どもたちを「大切に育てる」一年にして参りましょう。

 本年もどうぞよろしくお願いします。

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2023年02月27日

光 (あいりんだより2009年12月号)

 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」  (ヨハネによる福音書8:12 ) 


 12月になりました。愛隣幼稚園はキリスト教会の幼稚園です。特に12月はイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスの月でもあり、イエスさまについて思い巡らせることの多い時でもあります。

 イエスさまは、聖書の中でしばしば「光」に例えられています。上に掲げた聖書の言葉もそのような言葉の一節です。

 少し「光」について思い巡らせてみましょう。深い闇の中にある光は、たとえその光が小さなものであっても、それは道しるべとなり、暗闇を歩く人はその光を見て自分の進むべき方向を認識できます。星や星座は、古くから海や砂漠を旅する人の案内役になってきましたが、聖書はそのことにたとえて「イエスがどのような意味での救い主であるのか」を示しているのです。

 光の位置を知ることによって自分のいる位置や進むべき方向を認識できることは、まさに私たちの生き方そのものをたとえているのではないでしょうか。本当のことや正しいことを知らずに、また知ろうとせずに、ただ目先のことを追い求めているのでは、私たちはいつの間にか同じことを繰り返したり、泥沼にはまりこんでいくことにもなりかねません。私たちはいつも、本当のことは何か、正しいことは何かを考え、見つめ、真理に立ち返りながら、生きていくものでありたいと思います。そのための「光」がイエスなのです。

 それまでは知らなかったり気付かずにいた本当のことや正しいことに出会うことによって、自分で大切にすべき事柄の順序が真理を根底に据えて心の中で置き換わり、新しく生まれ変わって生きていくような歩みを、私たちは「光」に導かれて進めていきたいと思います。イエスは,私たちが「そうだったのか!」と目から鱗が落ちるような思いになって、その後の生き方を変えられ、私たちがより深く真理に向かって生きられるようにされる意味での救い主です。

 かつて、ある宝石商人が次のように語っていました。

 「本物と贋物を見分け、質の高い宝石とそうでないものを見分ける眼力を養うためには、本物の最高級の宝石をたくさん見つめる以外に方法はありません。」

 本物の宝石、最高級の宝石を見つめてその眼力が養われるのとちょうど同じように、私たちは正しいこと、本当のことに触れて、その感性を養うことで、まがい物やこけおどしに流されずに、真理に導かれていくことができるのではないでしょうか。それは、子育てについても教育についても言えることです。

 イエスは,今から2000年前、当時のイスラエル社会の中で真理を示し、そのために当時の権力者によって弾圧され殺されていった人でした。この男の生き方と死に方の中に「光」を見た人々によって、イエスは救い主と信じられ、宣べ伝えられ、その後世界の多くの人々を支え導くようになりました。その歴史の中で、イエス・キリストの福音は日本にも届けられ、私たちの幼稚園も起こされました。

 近年、日本のクリスマスにはイエス・キリストが不在です。

 私たちは、子どもたちの中に「光」であるイエスさまの宿るクリスマスを迎えたいと思います。

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2023年02月25日

受け容れることの大切さと難しさ  (あいりんだより2009年11月号)

受け容れることの大切さと難しさ

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」 (ローマの信徒への手紙12:15) 


 新聞や雑誌に掲載される人生相談や育児相談のコーナーで、回答者がよく「相手 (子ども)を受け容れてあげなさい」と記しています。多くの場合、言葉の限りでは「相手を受け容れる」ことは本当に大切なことであり必要なことなのですが、わたしは実際にそうすることがいかに難しいことであるかを痛感しています。

 なぜなら、「受け容れる」ことは、相手がやりたい放題することを無節操に容認することではないし、知らぬ振りをして放り出しておくことでもないからです。また、「受け容れる」ことは、こちらの立場で相手の善し悪しを評価して良い部分をほめながらある方向付けをすることでもありません。

 「受け容れる」ことは、子どもの心にどのような深い思いがあるのか、子どもが表現する言葉や行動の背景にはどんな経験や感情があるのかを含めて、その子どもの全体をありのままに理解することなしにできることではありません。

 嬉しいことや楽しいことまた少なくとも自分の価値観に合うことであれば、相手を受け容れることは比較的易しいことかもしれません。でも、それが悲しいことや反社会的なことであれば、受け容れられなくて当たり前であり、それを「受け容れなさい」と言われても戸惑うし、「受け容れる」ことは「あきらめる」ことなのかと言いたくなるのではないでしょうか。

 仮に、子どもが「あいつを殴りたい」と言ったとしましょう。「受け容れる」とは、その子が殴ることを許可するとでもないしその思いだけを理解することでもありません。「あいつを殴りたい」という言葉の背景には、きっとその子どもが自尊心を傷つけられたり生きることを否定されたりするような経験をして、そのきっかけとなった相手が赦せない思いになっているのではないでしょうか。そのような深い思いを子どもの立場から理解し、更に自分が傷ついたときに「殴りたい」と反応してしまうその子どもの課題や傾向をも見通しつつ、傷ついたその子の気持ちを自分が味わいながら子どもに関わることが「受け容れる」と言うことなのです。

 子どもはそのように受け容れられることを通して、やがて他者によって再び傷つけられるような経験をするときにも、自分の心をしっかり把握して相手に適切に関われるように成長していくのです。

 そうであれば、子どもが無理な要求をしてきたときにも、「受け容れる」とは曲げてその要求を飲むこととは違うことが分かるでしょう。時にはわたしたち大人は子どもの反社会的な言動に毅然として「No」を言わなければなりません。それは、子どもを日頃から受け容れているが故の「No」であり、「No」と言ったからといって、それで関係がすべて終わってしまうわけではありません。子どもを受け容れることができるとき、子どもは「物が欲しいという思いは満たされなくても、お母さんはぼくの本当の気持ちは分かってくれている」という信頼感を強くすることができるでしょう。

 「受け容れる」ことの基本的なことを記しました。それは難しいことではありますが、わたしたちは子どもを受け容れられるよう努めなければなりません。子どもに内的な力があれば、わたしたち大人が子どもの言動の鏡となって対話を進めればそれで十分です。例えば、子どもが「~~~」と言ったときに、わたしたちはその言葉をオウム返しするように「~~~なのね」と応じてあげれば、子どもは自分を少し客観化してとらえながら自分を受け容れる力を育てていけるものです。ご家庭でも、是非子どもたちの話に耳を傾け、しっかり受け止めてあげてください。それが人を深く「受け容れる」ことの第一歩です。        (あいりんだより2009年11月号)

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2023年02月23日

読書の秋 -「本が好き」の土台作り-  (あいりんだより2009年10月号)

読書の秋 -「本が好き」の土台作り-

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネによる福音書第1章1節)

 既に秋分の日も過ぎ、日中より夜の方が長い季節になりました。「読書の秋」です。子どもが童話や絵本の名作に触れながら、やがては読書好きで知的センスの高い人間に育ってくれたら、と多くの人が思います。わたしもそう思います。でも、不思議なもので、大人が子どもを「読書好きの人に育てよう」などと意気込むと、子どもはかえってそれに反発したり本嫌いになったりすることも多いようです。子どもが本好きになる前提とは何でしょうか。

 近年、子どもの成長を阻害するメディア環境が問題になっています。この問題は子どもの読書環境をも駆逐していますので、少しその点に触れておきたいと思います。

 本来、人間の声は小さく柔らかです。一方、テレビやテレビゲームなどのメディアから流れ出る音声は、人間(ことに赤ちゃん)の聴覚にとって鋭く刺激的です。私たち人間の聴覚は、幼い頃から母親をはじめとする人間の声と結びつき、その音声(声やことば)を聞き取れるようにその神経回路を強化してきました。ところが、現代の溢れ出るメディアの音声は幼子が本来強化されるはずの人間の声や自然の音(風や水の流れ)をキャッチする能力を育むことを阻害しているのではないかと考えられています。人が人の声を聞き分けて選び取る能力の素晴らしさについては、一度録音テープにとった音声を聞き直すと、周囲の物音がいかに多くまた大きいかという事などを手掛かりに分かります。人は小さいときから、人の声を選択して聞き分ける能力に磨きをかけていることが想像できます。またこうした能力は聴覚ばかりでなく、視覚や触覚をはじめ味覚にまで言えることであり、現代はこうした人間の感覚が危機にさらされていることを指摘する人も増えています。

 こうした環境の中で、母子を中心とした柔らかで穏やかな感覚刺激を得られないままメディアに犯されて乳幼児期を過ごした子どもたちは、その中で脳にたたき込まれた破壊的な擬音語や場にそぐわない乱暴な言葉遣いをその意味もよく分からないまま用いて他者とのつながりをつくろうとすることになります。でも、一生懸命に生きる子どもであっても、もし成長していく上での土台(母子を基本とした信頼関係)がつくられないままであったとしたら、子どもたちは多くの人々の集まる場で建設的な社会関係を作っていくことがどんなに難しいことになるのかは容易に想像できます。

 さて、本好きの土台も上記のことと関連しています。家庭でも日頃から、テレビ、ビデオ、テレビゲームなどのメディアに頼らず、親の肉声により語り聞かせや絵本の読み聞かせを親子で楽しめているか、子どもが自分の経験を落ち着いて話せるように子どもの心に寄り添って話しを聴いて受け止めているか、メディアのペースに拠ってではなく親子のペースで絵本を読み進められているか等々が、子どもが本好きになることの土台と言えるでしょう。

 ある著名な童話作家は、「子どもが10歳になるまでは、親が名作を沢山読み聞かせてあげてください。ただし本の感想など子どもに求めないでください。本当の感動は子どもの言葉の域よりずっと深いから言葉にならないのです」と言っていました。

 絵本や童話の名作は、わたしたちを心の深い領域に案内してくれます。読書は実際に経験できないことを追体験させてくれますが、そのときに信頼できる大人が傍らにいて物語を共有してくれることで、子どもは読書での体験を自分のものにしていくのです。その事は、子どもたちが勇気や正義感を獲得したり、感情の幅を広げたりしていくことにも繋がるのです。

 こうした土台ができてくれば、読み書きの練習開始が遅くても、もっと物語の世界に触れたい子どもは時間を惜しんで本を読むようになるでしょう。そのような本好きこそ根っからの本好きと言えるのではないでしょうか。

頭と体を育て鍛える秋にしたいですね。その基本はしっかりとした親子の心のつながりです。(あいりんだより2009年10月号)

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食欲の秋に向かって (あいりんだより2009年9月号)

食欲の秋に向かって

 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(マタイによる福音書6:25)

 今夏の研修会の中で、わたしにとって一番インパクトが強かったのは、現代の子どもたちにとって人間関係を創り上げていく環境がいかに損なわれているかということの学びでした。

 食の環境においても、家庭で手作り料理を食べない(食べる機会がない)子どもが増えているとのこと。独りで食事をする子どもも増えています。かつて独りで食事をすることを「孤食」と記しましたが、今はそのように食事をする立場を擁護するかのように「個食」と記すようになったとか。

 わたしはキリスト教の司祭であり、その大事な勤めの一つに聖餐式(ミサ)の司式があります。聖餐式は誰も会衆がいない時には聖書を拝読して終わりとなり、「個食」のミサは成立しません。ミサを共にする信徒が司祭の他に少なくとも一人いる時、つまり人と人との間にいる神によって養いを受ける関係が成立している時にのみ、ミサが行わるのです。これはわたしたちの食事の原型でもあります。食事とは栄養を得るだけではないきわめて宗教的かつ社会的営みであることを覚えたと思います。

 また現代は、人間にとって最初の食事と言える授乳にも食環境の危機が見られます。生まれたばかりの赤ちゃんは、ただ栄養源としての乳を摂取するだけではなく、母親との視線を含めた交わりの関係の中で母乳を飲むのです。人間の赤ちゃんは授乳の時、他の哺乳動物とは異なり、一定のリズムで乳を飲む作業に休みを入れ、じっと母親の顔を見ます。それは乳を与えてくれる母親と乳を飲む自分の両者を確認する作業なのです。そうであれば、お母さんが赤ちゃんに乳を与える時に携帯メールをしたりテレビを見たりしていては、赤ちゃんの人間関係を創りだす基本的な第一歩が損なわれることになるでしょう。こんなところにも個食の危機があることを覚えたいと思います。

 授乳の時に赤ちゃんを胸元に抱いて、優しい眼差しと柔らかな声でゆったりと赤ちゃんに関わることが望まれます。これが赤ちゃんにとっての食生活の始まりです。赤ちゃんは早い時期から哺乳瓶を両手で持てますが、寝ころんだ赤ちゃんに哺乳瓶を持たせるのではなく、できるだけだっこして授乳させ、目と目のコミュニケーションを大切にしたいものです。

 さて、このように食の基本が「心を通わす」ことと深く関わることであれば、幼稚園生時代の子どものいる皆さんにもにも、食欲の秋に向かってご家庭でも是非心がけていただきたいことがあります。

 食事の時にテレビやゲームの画面は消して対話を心がけてください。食事中はメールや電話も控えましょう。手作りの料理を心がけ、仮に総菜などを買った場合にもひと工夫して手作り料理に変身させると良いでしょう。食材と栄養にバランスの良い食事を心がけてください。仮に子どもが一人で食事をするような時にも、孤食にならないように、お母さん(家族)は同じテーブルでお茶などを共にして、子どもの話し相手になってください。これらのことが「当たり前」と考えていただければ幸いです。

 内実のある食欲の秋をすごせますように。

(あいりんだより2009年9月号)

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2023年02月14日

神さまの大きな手の中で (あいりんだより2009年7月号)

神さまの大きな手の中で                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

「天は神の栄光を物語り、大空は御手(みて)の業を示す。

昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。

話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても

その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩編第19編2節)


 今年は夏休みに入る頃の日に、日本でも場所により皆既日食を観測できると話題になっています。わたしは夏が近づくと上記の詩編の言葉を思い出します。七夕の季節だからでしょうか。この言葉は、神さまのお働きが静かに力強く進んでいることを感じさせます。そして、神さまの御手の働きが、いかに荘厳雄大であるのかについて改めて気付かされます。わたしたちも、一人ひとりがこうした神さまの御手の中で、無数の星のなかの一つである地球の上に、ほんの一瞬とも言える時を生かされているわけです。

 ところで、神さまに創られたもの(被造物)の中で、わたしたち人間のように物事を考えたり理解したり思い巡らせることのできる被造物は他にいるのでしょうか。上記の詩編のような言葉で神をほめたたえることのできる生き物は人間の他にいるのでしょうか。もしかしたら、人間は創られたものの中でも特別な存在なのではないでしょうか。

 詩編の言葉を借りて言えば、天は存在することで神の栄光を物語っています。この地球上でも、神に創られた野の花はありのままの姿で咲くことで神を賛美し、空の鳥もありのままにその鳥らしくさえずって創り主である神さまをほめたたえます。さて、わたしたち人間はどうでしょう。わたしたちも生きていること、存在していること自体が、他の被造物同様に尊いと言えます。でも、わたしたち人間はそれだけではありません。

 わたしたち人間は、他の被造物以上に、自分が神に創られたものであり、尊い命を生きていることを自覚しています。わたしたちは、神を思い、自分を思うと同時に、他の人々に思いを寄せ、互いに「自分のように隣人を愛し」て生きるのです。そして、他の被造物以上に自覚して、創り主である神に応えて神をほめたたえ、他の被造物にはできない人間としての行為(善悪を知り、自覚して善を行うことなど)によって神さまの御心をこの世界に実現していくべき存在なのです。先月この欄で、わたしたちは神が「良し」としてくださった世界に生かされていることを記しました。「良し」とされた世界に生きるわたしたちは、満天の星空を見上げたり、大自然の中に包まれたりしているとき、神さまの御心を理解する心の通路が豊かになるのではないでしょうか。わたしたちは、神の御手の働きを、その作品である自然をとおして理解し、その無限の大きさを実感するのかもしれません。

 夏はそうした自然の恵みに触れる絶好の機会です。是非、各ご家庭でも良い経験を重ねる夏休みをお過ごしください。

 わたしたち人間がこの世界の素晴らしさとその恵みを認識して味わい知ることができ、そのことを言葉で意識的に詳しく表現できることの大切さを再確認したいと思います。わたしたちはこの世界の置かれている状況を認識して更に良いものに創り上げ、神さまのお考えをこの世界に具体化してく使命が与えられているのです。そして、その使命をしっかり生きる人を育むことがキリスト教教育の目指すところであると言えます。

 自然との豊かな交わりの経験を重ね、神さまとのつながりを自覚し、より深く神と人々との交わりの中で生きることができるようになりたいものです。それは、子どもたちだけの課題ではなく、この世に命を与えられて、自覚的に神をほめたたえることができる人類の課題なのかもしれません。

posted by 聖ルカ住人 at 20:53| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする