2024年08月17日

幼稚園だより あとがき

幼稚園便り あとがき

 私事、日本聖公会法規により、2021年3月末をもって定年退職となり、園長の任も解かれました。

 1986年に聖公会神学院を卒業した私は、(当時の言い方で)伝道師として大宮聖愛教会と教務所に勤務しつつ、大宮聖愛幼稚園主事としての働きを任ぜられたのが幼稚園との関わりの始めでした。

 私は、聖職志願する前に教育関係機関で仕事をしていたことや教員免許を取得していたこともあり、1986年4月より日立聖アンデレ教会勤務と併せ二葉幼稚園園長に任ぜられました。

 以来、教役者として教会で聖務に与ると共に教会併設の幼稚園で園長として勤務して参りました。費やした時間やエネルギーは教会の教役者としての働きより園長としての働きの方がずっと大きかったと言えます。それは、同時に私にとって大きな恵みでした。

 勤務したそれぞれの幼稚園で、園長として每月の「園便り」の巻頭文を記すことも私にとって大きな仕事の一つでした。

 毎月、月末に翌月の原稿を係の先生に渡してその拙文が載った「園便り」が配布されるという流れがお決まりの事務的な仕事になりそうなときに、職員会で私の文章についてのコメントを述べてくれる先生や、毎朝のお迎えで玄関前に立つ私に「園便り」の感想を話してくださるお母さんに励まされながら、「園便り」への執筆を自分の大切な勤めの一つにすることができました。

 「園便り」の文章の背景にはそれぞれの時代や園の事情もあり、このような形で公にする意味は何なのかと自問自答することもありましたが、或る時代の或る幼稚園の保護者の方々に向けて当時の園長が発したメッセージの記録として受け取っていただけると幸いです。

 なお、ここに掲載した文章では、発行時の明らかな誤字誤変換や文章の不整合などについては、加除修正を致しております。

 「幼稚園だより」への掲載は、20213月号で完結です。お付き合いくださってありがとうございました。

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前を向いて(愛恩便り2021年3月)

前を向いて

わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。  (ローマの信徒への手紙 5:3-4)

  

 もう40~50年も前のことですが、私の恩師がよく「今の若い人たちは悩み方を知らないのよね。」、「どうせ悩むなら上手に悩みなさい。」と言っておられました。私もそのように言われる対象のひとりでした。

 私たちが生きていく時に、自分の思い通りにならないことや好ましいとは思えない状況に置かれることは沢山あります。いや、生きていくということは様々な課題に次々と出会い、それにどのように向き合うかということなのでしょう。順風満帆の人生は、たまたま良い風向きを授かっただけのことで、振り返ってみれば自分の力を少しも出さずに過ごしてしまったことを悔やむことになることもあり得るのです。

 子育てで大切なことは、安全安心の温室に子どもを置くことではなく、それぞれに置かれた環境の中で、一人ひとりがしっかり自分として生きていく力を育てるように支援することです。今、教育界で流行の言葉を用いれば、その力を「非認知的能力」と言います。

 かつて、ある研修会の小グループで話し合っているとき、若い先生が「クラスに落ち着かない子どもがいて、担任の私は力不足でなかなかクラスがまとまらなくて・・・。私は悩んで胃腸炎を起こして2日間寝込んでお休みしてしまいました。同僚にも重ねて迷惑をかけてしまい、申し訳なく思っています。」と、ご自身の悩みを話してくれたことがありました。

 私は、その若い先生に、少し冗談も交えて、次のように伝えました。

 「胃腸炎を起こすほどに悩むのは、あなたが一所懸命に自分の仕事に取り組んでいるからこそのこと。もしあなたの2日間の欠勤を本当に迷惑だという同僚がいたら、『私は胃腸炎を起こすほど真剣に保育しているのよ。あなたも自分の保育についてそれほど悩んだことあるの?』って言ってやりなさい。あなたが自分に不足していると感じているその力を付けたいのなら、具体的に何をどう勉強すれば良いのかを調べて勉強し、実際の場面ではどのようなアドヴァイスを得たいのかをはっきりさせて上司や同僚に尋ねて、目の前の課題を一つずつ越えていくことをお勧めします。そうする中で、あなたは保育者として力をつけていくでしょう。抱え込んで悩むのではなく、前向きに建設的に悩みましょう。」

 私は、このように生きることが、神さまが与えてくださった人生を自分として豊かに生きることにつながると考えます。その中で経験する試練や苦難は決して悪いことではありません。厳しい状況に置かれても、やがてその時を振り返ってみれば、「あの時のあの試練があったからこそ、今があります。」と感謝する時が必ず来ることを信じて歩んでいきましょう。

 私は、あの研修会でご自身の悩みを語ってくださった若い保育者とその場面を思い出して、あの人は建設的に悩みながら頑張っているだろうかとふと思うことがあります。

 私たち教職員も保護者の方々も、子どもたちと共に、神さまから与えられた大切な自分の人生を建設的に前向きに歩んでいけますように。神さまの御守りと導きをお祈り致します。

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2024年08月16日

育つ力に寄り添う(愛恩便り2021年2月)

育つ力に寄り添う

 わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。( ヨハネの手紙 一 4:12  ) 


 ある時、私が幼稚園の園長であることを知って、次のような相談を持ちかけてきた人がいました。

 「私の子(K君)がもうすぐ3歳になるのですが、今イヤイヤ期の真っ最中で、保育園ですぐに遊具の取り合いになり友だちを叩いてしまうことが増えています。その時の様子を家で聞いても泣き出してしまったりすることが増えてしまって。どうしたら良いですか?」とのことでした。

 私は、実際にK君にお会いしたことがないので、「一般論ですが、」と前置きをして、思いつくことを幾つかお話ししました。

 今の時期のK君は、自分の中に何をしたいのかという思いがしっかり育ってきているからこそ、思い通りにいかないと我を張りたくなっているのでしょう。結果について説諭するより、例えば「K君はその遊具を独りで使おうとしていたんだね。」と、K君の気持ちに寄り添う言葉をかけて、K君が自分の気持ちは理解されているという思いを持ちつつ少しずつ自分で自分を把握する力を付けていくことができるようにすることが一つ目で、これは即効薬ではないけれど一番大切なこと。二つ目に、K君はまだそのような場の対処方法を知らないのだから、K君に「待っててね」「貸してって言ってね」「使って良いか聞いてね」と、その場に相応しく具体的に対処する言葉を簡潔に教えてあげること(まだ3歳にならないK君にとってはまだ難しかったかも・・・)。そして三つ目に、K君が友だちを叩きそうな状況になった時には、先にこちらから「K君、こんな時にも、友だちを叩かないで偉いね。」と声をかけて他の解決方法へ誘導し、更にその結果が成功体験につながるよう見守ること、などを思いつくままにお話ししました。

 数週間後に再度お会いした時に、私はその方から「お陰様で、K君は落ち着いて過ごしています。」と報告を受けましたが、それは私の助言によるのではなく、K君自身の成長力によって次の段階へと進んでいったのでしょう。イヤイヤ期のK君の思いを押さえ付けることもK君の思いをすべて満たしてあげることも好ましいこととは言えません。

 子どもたちは、各家庭や幼稚園で、家族や教職員や友だちと、たくさん心を通わせることによって自分を育てていきます。私たち大人はその過程を喜んだり悩んだりしている中で子どもたちはいつの間にか自分の力で成長していくように思われます。

 私が貢献したのは、助言の中身より、K君の父親があれこれ私を相手に話をすることで、K君に向かう心のゆとりが少し生まれたことだったのかもしれません。

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充実した日々のために (愛恩便り2021年1月)

充実した日々のために

 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。(コリントの信徒への手紙一第12章31節) 


 新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

 今年度も残すところ、実質的には2ヶ月半ほどです。子どもたちはこの短い間にも、親しい仲間と遊びを深め、これまで触れ合うことの少なかった仲間と新たに出会い、対人関係の深さと幅を更に広げて成長していきます。

 今号では、子どもたちが充実した第3期を過ごすために、少々具体的なことを記そうと思います。必ずしもすべての人に当てはまる事ではありませんが、皆さんに承知していただくことで、更に充実した幼稚園生活を目指していけると思います。

 一つは、登園時刻のことです。本園は朝9時までに登園することになっていますが、午前9時を登園の目安時間としてではなく、園の登園完了時刻と考えていただきたいということです。園バス通園は別にして、可能であれば、子どもたちの到着時刻を少し早めにしていただけると有り難く思います。早めに登園することは、遊び時間を長く持てるだけではなく、その日の教材や遊具の占有の仕方にまで影響を与える場合があります。多くの場合、早めに登園した方が遊びの内容にも充実感を持てることは容易に想像できるでしょう。いつも既に登園している友だちに合流していた子どもが、登園を15分早めたら自分の選択と判断で遊びを展開するようになり、園生活での充実感も明らかに変わった事例もあります。各ご家庭の事情があることは承知しておりますが、できるだけ早めの登園を心がけてください。

 二つ目は、トイレットトレーニングのことです。第3期のこの時期の課題ではないという一面はありますが、お知り合いの小さな子どものいる方々のためにも心に留めていただけると幸いです。人の排尿や排便には体の感覚が伴いますが、大人にとって都合の良い紙オムツは子どもの排尿や排便の感覚とその意識を無頓着にして、その結果、子どもが自分で排泄の括約筋をコントロールできるようになる時期を遅らせます。子どもが遊びに集中している最中に粗相をした時、その始末のために遊びの展開が途切れることにもつながります。愛恩幼稚園では、低年齢クラス保護者の方々に紙オムツからパンツ着用への移行をお願いしましたが、それも上記のような理由からです。園生活を充実させていこうとする時、排尿排便の自立は大切な課題になります。子どもたちが自分でトイレに行けることは、園の管理上の都合ではなく、本人の活動の集中と生活の充実のためにも大切な課題なのです。寒い季節ではありますが、子どもたちの生活の充実のためにも、ぜひ取り組んでくださいますように。

 生活習慣の確立や十分な食事と睡眠の確保などは、それ自体は生活目的にならない一面もありますが、豊かで充実した生活の「枠」として大切な課題です。その「枠」があってこそ、子どもたちはその中でエネルギーを集中しまた開放していきます。

 充実した幼稚園生活を作り上げていくために、ご理解とご協力をお願いします。改めて、本年もどうぞよろしくお願い致します。

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2024年08月05日

家畜小屋でのお生まれ (愛恩便り2020年12月)

家畜小屋でのお生まれ                            

 彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。 (ルカによる福音書第2章6~7節)


 クリスマスを単なる年中行事とし過ごすのではなく、キリスト降誕の感謝と喜びを分かち合う時として過ごせるよう、クリスマスの意味を改めて確認しておきたいと思います。

 イエスが生まれようとする頃、イスラエルを占領していたローマ皇帝より住民登録の勅令が発せられ、ヨセフは先祖の町ベツレヘムに行かなければなりません。身重のマリアを連れて旅をすることは楽なことではありませんでした。この二人が百数十㎞はなれたベツレヘムに着く頃には、町は人々で溢れ、どこにも宿を取ることができず、町外れの家畜小屋に体を横たえ、マリアはそこでイエスを生んだのでした。そこは、旅人がロバやラクダをつなぎ止めておく場所であり、今で言えば駐車所に相当するかもしれません。幼子イエスは、産着も産湯もない場所で、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされました。キリスト(救い主)は、貧しく小さなお姿を取って、普段は誰も見向きもしないような場所で、お生まれになりました。

 この物語には、どのようなメッセージが含まれているのでしょう。この物語を私たちの心の中のこととして考えてみたいと思います。

 誰の心の中にも、この物語の家畜小屋のように、貧しく、汚く、醜いところがあります。自分でも、自分のことなのに、目を向けたくなかったり触れずにやり過ごしたい部分であり、もし、それを他の人に開示することになれば、軽蔑されたり嫌われたりするのではないか、と思えてしまうことでしょう。そのような、わたしたちの心の中の密やかで目を背けたくなるような部分が「内なる家畜小屋」です。救い主イエスが宿ってくださるのは、厚かましく他人を虐げて自分の欲望を満たしていく心にではなく、心の片隅の自分でも受け入れがたい密やかなところに敢えて宿ってくださるのです。

 私たちは、心配事や悩み事があるとき、そのことをきっかけにして深く自分の在り方を自分に問い直してみたり、考え直してみたりすることもできます。そのような時に、私たちの「内なる家畜小屋」に救い主が宿って、共にいてくださることを是非思い起こしていただきたいのです。救い主は、その心配事や悩み事の中から「私はあなたと共に生きるために、ここに宿った」と、言ってくださるはずです。いや、既にそう言っておられるのです。

 子どもたちにとってもそうなのです。子どもたちはまだ「内なる家畜小屋」とか「心の密やかな部分」と言っても分からないかもしれませんが、救い主イエスは子どもたち一人ひとりの内にも宿ってくださいます。

 救い主はいつでも「大丈夫。私が一緒にいます。神さまはそのままのあなたを認め、受け容れておられます。」と、私たちを受け容れ、共にいてくださるメッセージを送ってくださっています。

 クリスマスおめでとうございます。家畜小屋でお生まれになった幼子イエスを迎え入れることができますように。


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2024年08月04日

「共に生きることの難しさ」を生きる(愛恩便り2020年11月)

「共に生きることの難しさ」を生きる

  喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。( ローマの信徒への手紙 1215 ) 


 今号の準備をしていると、かつてある研修会で講師の先生がお話しくださったことを思い出しました。それは「共に生きる」をテーマにしたある幼稚園の事例報告の話です。

 運動会で、三位までに入ると、園の先生が折り紙とリボンで作ったメダルを授与する約束で競技をしました。その競技に入賞できなかったAちゃんが「メダルが欲しい」と泣き出しました。一緒に競技して入賞したB君が「それじゃ、ボクのメダルをAちゃんにあげる」と言い、先生は「ありがとう、B君。みんなもB君のように優しくなれると良いね。」と指導した、という事例でした。

 講師の先生は、そのような保育は本当の優しさを育まないし「共に生きる」ことにはならない、と言っておられました。

 私は講師の先生に共感しつつ、「それでは、本当の優しさを育むためにはどうすれば良いのだろうか」と幾度も自分に問いかけました。

 上記の事例で、Aちゃんは何を学んだのでしょう。Aちゃんは入賞した他の園児とは違って、ルールにはない方法でメダルを手に入れたのです。B君に対する保育者の応答によって、メダルが表わす「入賞」の意味は一変してしまいました。一所懸命に競技してメダルを獲得した他の子どもたちはどんな思いになったでしょう。そもそも入賞メダルは必要なのか、という問題提起もありそうです。

 保育者は、B君の「優しさ」を無駄にせず、Aちゃんがこの機会に学ぶべきことを学ぶために、B君やAちゃんにどのように関わることが相応しいのでしょう。この事例の、どうすれば良かったかということについての模範解答は無いのかもしれません。

 優しさは、無節操に相手の要求を満たすことではありません。子どもの我が儘から筋の通らないことが起こった時、その子の要求を満たすのが優しさではありません。

 私には、「Aちゃん、メダルが取れなくて残念だったね。とっても悔しいんだね。」とその気持ちに寄り添い、Aちゃんが自分の悔しさや残念さを自分自身でしっかりと受け容れられるように見守るほかないのではないか、或いはメダルを逃して泣くAちゃんと共に歩むことが必要ではないかと思い巡らせました。私たち大人は、Aちゃんがその悔しさをやがて生きる力にする時が来ることを信じて、関わり続けていくことが必要なのだと思います。また、B君にはどのような言葉をかけ、どのように見守ったら良いのかという課題も残ります。

 共に生きることは、こちらもAちゃんとB君の課題やその重荷を背負うことになります。その重荷を共に担うことを避けては「共に生きる」ことなど語れないでしょう。でも、こうして共に生きることに子育ての基本と神髄があるのではないでしょうか。

 私たちは、色々な意味で限界のある者ではありますが、子どもたちに「共に生きる」ことを教え、子どもたちと共に生きていく者です。明快な答などない課題を共に生きつつ、振り返ってみれば子どもたちがその中でいつの間にか成長していた、というのが実際の生活なのかもしれません。

 その下支えをしてくださっているのが、神の愛です。主イエスさまが私たちと共に生きてくださることで、私たちは他の人と共に生きることが出来るのです。

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2024年07月26日

「遊ぶこと」は「学ぶこと」 (愛恩便り2020年10月)

「遊ぶこと」は「学ぶこと」

 主は、何事においても理解する力をあなたに与えてくださいます。(テモテへの手紙二 2:7)


 私たちは、しばしば「遊び」と「勉強」という言葉を対にして用います。例えば「遊んでばかりいないで勉強しなさい。」などと、「勉強」は必要なことで「遊び」は意味のない無駄なことであるかのように対比させて用いることがあります。しかし、ことに幼児期の子どもにとって、「遊び」と「勉強」は対立することではなく、それらは子どもの生活経験をどのような視点でとらえるのかということの2つの側面であると言えます。

「勉強」という言葉は、どうしても学校の教科学習を連想させますので、「勉強」を「学び」という言葉に置き換えて、「遊ぶことの中にある学び」の大切さについて思い巡らせてみると良いかもしれません。

 夏休みに、蝉、蝶、甲虫類、トンボやバッタなど昆虫捕りをした子どもたちも多いようです。私も子どもの頃は昆虫捕りやメダカやザリガニ捕りが大好きで、それらの生き物を捕ることで、その種類と習性や棲息場所を知り、それらを捕まえるのにはどんな工夫をすれば良いのかを考えました。また、モンシロ蝶やアゲハ蝶の幼虫を見つけてきて羽化させてみたり、コオロギを飼って翌年卵から小さなコオロギがかえるのを観察したりしたことも、私が成長する上での貴重な経験であったと思っています。

 今では、それらについての図鑑をはじめとする書物も沢山出版されており、動画もあり、学びを深める環境は整っています。一夏の間に、すっかり昆虫博士になる子も珍しくありません。

 例えば、文字を習得することについても、ひらがなを50音表にそって「あ、い、う、え、お」と読み書きの「勉強」をすることより、とんぼを捕まえたらその絵を描いてみたり、図鑑を開いて「オニヤンマ」、「ギンヤンマ」、「シオカラトンボ」、「ムギワラトンボ」、「アキアカネ」などを見ていくうちに、子どもは沢山のことを総合的に立体的に学んでいくでしょう。その時、子どもの心には強いられた作業をする思いはなく、ワクワクしながら新しい知識を獲得していくことになるのです。特に、幼少期に大切なことは、机に向かって文字の書き方を練習することではなく、自然や他者との関わりを通して、自分の興味や経験を広げ深めることです。そして、その興味や経験を広げ深めていくプロセスこそ、子どもにとっての「勉強」なのです。

 私の二男はよちよち歩きの頃から野球が大好きで、小学校2年生の時に都市対抗野球の出場チームとその都市の場所と産業をまとめて、当時の学級担任の先生が感心していました。彼はまた、東京ドームに応援観戦に行ったチームのパンフレットに載っている選手名から、漢字を沢山覚えました。彼は、現在、野球に関する仕事をしています。

 子どもの感性を磨く質の良い遊びの経験こそ、勉強の土台です。秋晴れの気持ちよい日も与えられるでしょう。良い遊びを沢山重ねていきたいと思います。

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2024年07月25日

心の世界を広げる(2020年9月)

心の世界を広げる

   イエスは「何をして欲しいのか」と言われた。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです。」と言った。(マルコによる福音書10:51)


 あるテレビドラマ番組で、幾度か次の台詞が出てきました。「やらずに後悔するより、やって後悔する方がよい。」私はこの言葉を聞くたびに小さな違和感を覚えました。

 「やらずに後悔する」ことは本当に残念なことです。やれば違う可能性もあったのにやらずに過ごし、後になって「あの時、あれをしていれば、今はもっと良くなっていたのに・・・。」と悔やんでも過去を変えることはできません。チャレンジしなかった過去を後悔しているだけではその人の人生にあまり良いことは無いでしょう。

 私が上記の言葉に違和感を覚えるのは、その台詞の後半にある「やって後悔する方がよい。」という部分です。

私は、法律に触れることや明らかに命に関わることや他人に迷惑をかけることではない限り、「やって後悔する」ことなど滅多に無いのではないかと思うのです。思い切って何かにチャレンジすることは、仮にその結果が失敗であっても、「それをやってみた」という経験そのものが人生の大きな力になると思います。人の経験の広さと深さは生きる力になるのです。また、人生にはやってみて初めて分かることややってみなければ分からないことも沢山あるのです。

 例えば、幼児が高いところから飛び降りてみたら、思ったより簡単だったり、逆に着地する時に受ける足の衝撃の強さに自分で驚いたり・・・。また、一緒に遊ぶことを提案してみたら友だちも喜んで一緒に遊べたり、うまくいかなかったり・・・。このようなことを繰り返して経験を重ねながら、自分の中の思いと実際の経験をすり合わせ、現実を正しく認識して適切に判断する力が養われていきます。また、やってみることでしか経験できない「出来た!」という嬉しさ、喜び、楽しさも、挑戦してこそ味わえるでしょう。仮に失敗しても、その失敗は挫折や後悔とは別のものです。

 幼少期は、沢山のことを経験する時期です。やってみたら思い通りになったことやならなかったこと、やってみたら案外簡単だったことや難しかったこと、予想外の苦労をしたこと等など。その結果得られた満足感や自信、失敗や挫折。それらの経験を沢山重ね、積み上げていくことが「生きる」ということになるのではないでしょうか。チャレンジしてみることで、「あの成功の経験、あの失敗の経験が今の自分を生かしている。」という充実感にもつながっていくでしょう。

 「大丈夫、神さまが見ていてくださるから」、「ゆっくりで良いからていねいに。少しずつできるようになるよ」、「そこまでできたね。そうしたら次の段階に進めるよ」。このような支持と言葉かけが、子どもの経験の幅を広げていく支えになるのではないでしょうか。

 本年は、今のところ新型コロナウイルス感染の収束の見通しが立たず、幼稚園ではなかなかハッキリとした予定を立てにくい状況にありますが、みんながそれぞれに自分にチャレンジして、心の世界を広げていく時を過ごしていきたいと思います。

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2024年07月24日

夏休み(愛恩便り2020年8月)

夏休み

 どのようなときにも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。(詩編 34:2)


 本年(2020年)は、新型コロナウイルス感染拡大防止対策のために、多くの計画を変更し、予定していた諸行事も中止や規模縮小などによる対応を致しました。愛恩幼稚園では、子どもたちの生活経験の積み重ねの必要などを考慮して、第1期の終了を1週間ほど延ばし、本年の夏休み期間が例年より短くなりました。それでも、夏休みは30日以上に及びます。長い夏休みを是非有意義に過ごしていただきたいと思います。

 ここ数年、私は第1期終了の日に、子どもたちに「早寝、早起き、朝ご飯」について話してきました。この言葉は、2006年に文部科学省によって、子どもの基本的生活習慣の確立や生活リズムの向上につながるムーブメントを積極的に展開するために提唱されています。

 子どもたちは、夏休みに入ると登園時間に合わせる生活から解放されますが、夏休みの間も起床から就寝までの生活を整え、規則正しい生活の中で、特に排泄リズムも整えてくださいますように。

 排便は一日の食事や睡眠の時間と深く関わっています。早寝、早起き、食事の時間をできるだけ規則的に保ち、その中で一定の排尿のリズムと、朝食後あるいは夕食後の決まった時間に排便する習慣を身に付けられるように願っています。ことに夏は子どもが自分で衣服着脱の管理をしやすく、独りで排尿や排便が出来るようにしていくためにも良い季節です。良い習慣が身につくように心がけましょう。このことを小さな課題の一つとして、夏休み中も、早寝早起きと一日の生活エネルギー摂取のための朝の食事をしっかりすることを心がけてください。

 また、夏休み中も日々体を動かして遊ぶ時間を持ちましょう。文部科学省では、20123月に「幼児期運動指針」を示して、幼少期の子どもたちが毎日60分以上体を動かす機会をもつように促しています。特に今年は「コロナ感染防止」の観点から他者との距離を取るように促されることも多く、子どもたちが体を動かす機会が例年以上に減っているように思われます。その一方で、テレビ画面での過度の遊びは幼少期の運動不足の一因となり、他者とのコミュニケーションの機会も減って、心身の健全な発達を脅かす大きな要因になっています。

 体を動かして遊ぶことは、ボール遊び一つを例にとっても、投げたり蹴ったり受けたり走ったり等の筋肉を強めることに限らず、その運動を通して体全体の協応動作の獲得、ボールと自分の位置、方向、距離、速さや状況に対する瞬時の判断力、出来た時の達成感とその次への意欲、直ぐにはうまくいかない時の忍耐力とやり抜く精神力等々の養成が行われています。そこに一緒に遊ぶ兄弟や友だちがいれば、関わりの中で社会性や言語表現力等も養われます。「子どもは遊びによって心身共に成長する」と言っても過言ではありません。各ご家庭におかれましては、子どもたちが夏休みの間も様々な運動遊びをとおしてたくさん体を動かし、心身の発育に良い刺激を与える夏を過ごすよう工夫をしてください。熱中症に気をつけながらも、是非、屋外で体を動かして遊ぶ時間を十分にもつように心がけてください。

 夏休みの間も、神さまから与えられたそれぞれの大切な命が豊かに育まれることを祈っています。

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2024年07月22日

遊びの「広がりと深まり」 (愛恩便り2020年7月)

遊びの「広がりと深まり」

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。 (マタイによる福音書 18:20 ) 


 子どもたちが、泥、水、砂で生き生きと遊んでいる姿を見ていると、私は、旧約聖書の中の「天地創造」の物語を連想します。

 何もないところから海と陸が分かれ、山ができ、川が流れ、山にはトンネルが通り、向こうの世界とこちらの世界がつながります。子どもたちは次第にその遊びの中でそれぞれの役割を取り、子どもたちの表情も、そこに創り出される世界も実に生き生きとしています。

 自分たちの気に入った世界が出来上がってくれば、子どもたちはその遊びを通して表現したことやそこで自分が貢献できたことの満足感も一層大きくなり、(大袈裟に聞こえるかもしれませんが)生きることの自信や他の人々と係わる楽しさを深めることにもなるでしょう。

 こうした遊びを通して、自分が確かな役割を担ってお互いに一つの世界を創り上げることに力を出せたと思える時、きっと子どもたちの心はスッキリとし、物事に取り組む意欲を更に高めます。そして、他者と共に生きる喜びを更に広げ深めていくことにつながっていきます。

 子どもたちは遊び始める前から「完成したイメージ」を共有するわけではありません。時には、遊んでいる中で自分の創りたい世界のイメージが次第にはっきりしてくることもあり、しかも互いのそのイメージは異なって、気持ちがぶつかり合うこともあります。でも、多くの場合、その先には、独りで思い描いていた世界よりももっと素晴らしい世界が開けてくるのです。

 子どもたちは、こうして集団で遊ぶことを通して、独りで遊ぶときとは質の違う知識、思考力、感性、経験の幅と深さ、身体的能力、社会性等々を養っていきます。子どもたちにとって、他児と共に自分の思いを注ぎ出すことのできる遊びの環境の大切さを改めて思います。

 それでは、子どもたちが生き生きと遊ぶためのものや場所が整っていれば、私たち大人は不要なのでしょうか。決してそうではありません。

 子どもが遊ぶ時、私たち大人の一番大切な仕事は、子どもたちの楽しさと充実感を共にしながら見守ることなのです。子どもたちは、そのよ うな大人の見守りをベースにして自分たちの遊びを深め、発展させていくことができるのです。

 その上で、大人は、時に、子どもたち同士のコミュニケーションを補って互いの意思が正しく通じ合うように補助したり、行き違いを調整したり、行き過ぎた暴力的な表現を制止することもあるかもしれません。でも、それらは大人の役目はそれだけで良いのではなく、子どもたちは大人の受容的で肯定的な見守りと言葉かけの中でこそ伸び伸びと自分を表現するものであることを再確認しておきたいと思います。

 二人または三人が主イエスの名によって集まっているところには、主イエスが共にいてくださり、祝福していてくださいます。その中で生き生きと遊ぶことこそ、子どもたちの成長の原点です。


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