2021年05月22日

父の言葉 -ヘンテ女史のこと-

父の言葉 -ヘンテ女史のこと-
 私はこの3月末(2021年)で教役者として定年を迎えた。4月4日に水戸聖ステパノ教会で現職として最後の聖餐式をして離任し、転居して東松山聖ルカ教会の牧師館に定住させていただき、嘱託教役者として過ごしている。今年の復活日は4月4日であったが、この文章をしたためているのは明日が聖霊降臨日となる5月22日土曜日である。
 この50日間の前半は、引っ越しの荷物整理にエネルギーを費やし、それに嫌気がさし、いくつか未開封の段ボール箱をそのままにして今に至っている。
 神学生時代からの資料やノートの断捨離作業をしていたら、オードレイ・マーガレット・ヘンテ女史の著した文章の冊子(と言うより、紙片と言ってもの)が出てきた。
 ヘンテ女史は、千葉県匝瑳市にある社会福祉法人九十九里ホームの創設者でもある英国聖公会の婦人宣教師である。当ホームは「日本聖公会九十九里ホーム」として1935年に開設している。
 この小冊子がなぜ私の手元にあるのか、その記憶は無い。想像するに、私の祖父(小野寺精一郎)、祖母(小野寺リウ)と父親(小野寺透)は千葉県の大多喜や館山に縁があり、ことに祖父は旧制中学校の教師であったり、大正2年生まれの父親は若い時代に肺結核を患ったことがあったり、どこかでヘンテ女史との関わりがあったのだろう。
 (日本聖公会横浜教区の100周年記念誌であったと記憶するが、大多喜の教会の記録の中に小野寺精一郎の名があることを知らせてくださった方があった。祖父は私が生まれる前の年に召されており、このように私の祖父について知る機会を与えていただき嬉しく思っている。)
 或いは、この冊子が1953年8月の発行であり、その頃私の家族は既に埼玉県浦和市に住んでおり、療養中の父親が手に入れたか教会を通して祖父母が入手したのかもしれない。
 当時はまだこの病で命を落とす人が多かった中にあって、ヘンテ女史の働きの範囲は結核患者のために尽くしただけでなく、この冊子からも分かるとおり、女史は第2次世界大戦の戦犯死刑囚との関わりなどにも尽くされたことを、改めて思い起こす機会になった。
 でも、私がここに記そうとするのはそのことではなく、父がよく語っていたヘンテ女史についての一断片である。
 私の父は、内容も無いのに自分を売り込むことや真理より自分の保身を優先することが大嫌いな人間だった。家族の他にはあまりそのようなことを口にすることは少なかったようだが、父親がそのように感じる人の個人名を挙げて「あんな人間最低だよ」という言葉も幾度が聞いたことがあった。
 そんな父親が、私が神学校に行こうとする頃に、頻りに話してくれたのがこのヘンテ女史のことだった。
 ヘンテ女史の尽力によって、九十九里ホームに新しい建物ができ、その建物を「ヘンテ館」と命名しようとする気運が高まったとき、女史はこのようなことに自分の名前を用いるものではないと怒るように反対し、彼女の洗礼名によってマーガレット館とすることで彼女はやっと了承した、と言うのである。
 父はそれ以上のことをあれこれ付け加えなかったが、私が牧師になって何を伝えて生きていこうとしているのかを、このヘンテ女史のことを持ち出して、私に問いかけまたメッセージを送ってくれていたのだろう。
 きっと、ヘンテ女史にとって大切だったことは、自分の名が残ることではなく、全ての人が神から与えられた命を健やかに祝福のうちに育み自分の人生を全うすることであり、彼女はそのために来日したのだろう。彼女の尽力によって建てられた施設は結核を患った人が、一日も早く回復するように、そして神に希望を持って生きることができるように、その建物が用いられることだったのだろう。
 日本聖公会初代主教のC.M.ウィリアムズ師を、「道を伝えて己を伝えず」と評する言葉がある。ウィリアムズ師に限らず、聖職であることとは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えその御心に遣えて生きることであり、父が話してくれたヘンテ女史についての逸話も、ヘンテ女史がそのことを身をもって示してくれたこととを私に伝えて、私が自分のためではなくキリストの器として神と人々のために働くように伝えたかったのだろうと受け止めている。
 なお、出てきた小さな冊子「日本戦犯の死にのぞみて」は、九十九里ホーム宛てに郵送させていただいたが、丁重なお礼状を戴いた。
 こうした人物の記録を残し、後世に伝えていくことが大切なことだと思っている。
「追記」
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2021年05月19日

「み言葉を響かせる」こと

 長年にわたって毎主日の礼拝をはじめとする説教や子どもたちへの教話をしていると、時々、自分の限界を感じることがあります。かつては、何の取り柄もない私が福音を伝えられるようになるためには、どんな方法があるのかといろいろ考えてみたこともありました。例えば、鍵盤楽器や弦楽器を弾き語りしながら・・・、腹話術で・・・、落語のスタイルで・・・等。説教の中で部分的にでも採り入れられないかと、実際にこっそりとその下調べをしてみたことも。

 そのようなことを考えたのは、神学生時代に「語っているお前の実存が感じられない。」とか「お前は無味無臭だ。」と言われたことなどをどこかで引きずっていたからなのかもしれません。

 でも、私には、楽器演奏にも話芸にも、神に用いていただけそうな持ち合わせは何もなく、そんな自分が立ち返るところは、恩師の「説教ではみ言葉そのものを響かせよ。」という言葉でした。以来、この言葉は、私にとって、説教に向かう指針になってきました。

 説教で伝えるべきことは、私の実存ではなく神の存在であり、キリストの香りです。伝える者の存在が伝えるべきことよりも大きくなってしまった場の空気の悪さは多くの人が経験していることでしょう。礼拝の中で、聖書の言葉を根底に据えてそれに導かれようとしているのか、聖書の言葉を利用して自分の思いを満たそうとしているかの、その違いは、同じ祈祷書で礼拝していても、如実に現われてくるように思います。それは、聖歌を歌っている時に、神をほめたたえて歌うのか、自分の声をひけらかして歌うのかの違いが、その場にどのような霊が呼び出されるのかの違いになって表れてくるのと同じこと、と言えます。

 私は「語っているお前が無味無臭だ。」という評価については、時と共に、それは自分にとっての課題ではないと思うようになりました。今は司祭として聖書そのものが響くための器になれるようにという思いで説教や教話をするように心がけています。私が無味無臭であればこそ、イエス・キリストの福音をそのまま響かせる器として相応しく用いられたいと考えるようになりました。もしそこに私の弱さがあるとしても、神は私のそのような弱さに働いてくださいます。私は、聖書が記している主イエス・キリストの福音がそのまま引き立つように、響くように、その器に徹したいと思います。それこそが私の実存です。

 私が若い頃に感じていた「限界」は説教する自分の資質や技量についてのことでしたが、今の私が思う自分の限界とはそうした問題ではなく、主イエスの福音そのものを我が事として捕らえて響かせることができるかということの難しさにあるように思います。

 説教や教話をするとき、み言葉を取り次ぐ私の口は、キリストのみ言葉そのものが響くための口になるのです。それに徹することは難しいことですが、この難しさは、克服すべきことではなく、み言葉に仕える限り背負い続ける難しさなのでしょう。この難しさを担わないのなら、仮に私がどれほど楽器演奏や話芸に長けていたとしても、教役者として相応しくないと言えます。

 このように記した拙文が何の特技もない私の負け惜しみの言葉にならないように、み言葉を宣べ伝えること、み言葉をそのままに響かせることに努め、徹したいと思っています。

(『聖公会の信仰』AAMJニュースレター第59号 2021年3月発行 所収)

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言葉が育む

 今から20年近くも前のことです。ある出来事を目の当たりにしたことを契機に、沢山のことを考え、思い巡らせてきました。

 その出来事とは、ある駅で電車の到着を待っていた時のことです。

 駅員のアナウンスが入りました。

 「お客様にお知らせ致します。次の電車は信号機故障のために5分ほど遅れて到着する見通しです。お客様にはお急ぎのところ、ご迷惑をおかけ致しましてまことに申し訳ございません。電車の到着まで今しばらくお待ちください。」

 ホームに列を作っていた人々は、「5分程度の遅れなら大したことはない。」という雰囲気で、特別に変わった様子もなかったのですが、ホームをウロウロしていたまだ5歳か6歳くらいの男の子が、突然誰かに言い掛りを付けるかのような刺々しい口調で、ブツブツと独り言を口にし始めたのです。

 「何だよ、勝手に遅れやがって。早く来いつってんだよ。まだ来ねえんかよ。ぶっ飛ばすぞ、てめえ。なめんじゃねえよ。」

 ホームに列を作っていた人々が驚いてその子に目をやりましたが、その男の子はウロウロしながらブツブツ言い続けています。

 やがて駅員のアナウンスがありました。

 「間もなく8番線に電車が参ります。5ほど遅れての到着になります。電車が遅れまして、お客様にはお急ぎのところ、ご迷惑をおかけ致しましてまことに申し訳ございません。」

 すると、列の中で漫画週刊誌を見ていた父親らしい人が、「おい、いつまでフラフラしてんだよ。バカ野郎!早くこっち来い。おいていくぞ、てめえ。」と言って、その子どもを呼び寄せていました。ホームで列を作っていた人々は互いに顔を見合わせました。

 親子と思われる彼らの口調がそっくりであったことは容易に想像できるでしょう。

 私は、大人が幼い子どもに言葉をかけることには、大理石の塊にノミをコツコツと当てながら具体的な人物像を彫り上げることにも似た一面があるように思います。

 幼子がやがて自分が置かれた状況をどのような言葉でどのように認識してどのように生きていくのか、その根底に最終的に自分を委ねるお方をイメージできるのか、私たちは幼子の前で自分の生き方を示しつつ、子どもたちがやがてそうできるようにその資源となる言葉を与えていく必要があります。

 劣悪な環境の中で生きる子どもたちが、「畜生」、「バカヤロー」、「死ね」、「殺す」という類の言葉ばかりを使っている状況に胸を痛め、彼らに対する教育へと駆り立てられていった人の話を伺ったことがあります。人間の成長には、愛に裏打ちされた言葉が必要なのです。

 神の言葉に生かされることとそれに基づく正統な信仰を継承していくことは、深く繋がっています。

 私たちは、状況をどのような言葉で把握し、思いや考えをどのような言葉で人々と分かち合い、この世界をどのような言葉で後代へと引き継いでいくべなのかを、問われているように思います。

 (『聖公会の信仰』AAMJニュースレター第58号 所収)


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中村哲師の逝去を悼む

 私の心に刺さってこの一ヶ月の間クサビのようになって動かない出来事があります。
それは、アフガニスタンで献身的な働きをなさっていた医師中村哲氏が、12月4日の現地時間午前7時ごろ、何者かに銃撃されて逝去されたことです。
アフガニスタン東部のジャララバードから約25km離れた灌漑作業現場に向かう途中、その車を運転していた人や護衛のアフガン人ら5人と共に、襲撃されました。
 同師の主宰していたペシャワール会のホームページによると、中村哲師は「2000年から、旱魃が厳しくなったアフガニスタンで飲料水・灌漑用井戸事業を始め、2003年から農村復興のため大がかりな水利事業に携わり現在に至る」とのことです。アフガニスタンでは多くの人が餓えと乾きで亡くなっており、中村師はそれを防ぐためには「いかにきれいな水を供給できるか」が課題であると考え、人の体の診療をする域を越えて、その地の灌漑事業などに取り組んでこられました。そして、「井戸を掘る医師」と呼ばれるようになりました。その働きによって、アフガニスタンの大地に緑が甦り、数十万人の食料を生み出したと報道されていました。
 中村哲師は、1980年代には日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)の派遣医師としてパキスタンでお働きになっていたこともあり、当時から当会の会報『みんなで生きる』に度々その名前を見たり、私の妻はその会報で(の中であったと記憶していますが)、「現地でタオルが足りない」という記事を見て名入り未使用タオルなどを集めて衣服などと一緒にお送りしたことなどもあり、中村哲師自身の丁寧な返信を受けたこともあり、私にとって面識はないけれど、密かに応援し師の働きのために祈っていました。
 中村師は、医術による患者への診療ばかりでなく、「井戸を掘る医師」として灌漑事業などを行ってきましたが、そのことについては「医師の仕事ではないと思われるかもしれないけれど、これは平和運動ではなく、医療の延長として行っていること」と言っておられたとのことです。
 このような人が殺害されたというニュースが流れ、辛い思いになっていた時に迎えた降臨節第3主日(A年)の聖餐式旧約聖書日課が、胸にしみました。
 それは、イザヤ書第35章の中の言葉です。5節から7節を記してみます。
 「そのとき、見えない人の目が開き
 聞こえない人の耳が開く。
 そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けない人が喜び歌う。
 荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
 熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。
 山犬のうずくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。」
 『聖書-新共同訳-』には、第35章の始めに「栄光の回復」という見出しがついています。中村哲師の働きは、まさに神の栄光の回復の働きであったと言えるでしょう。
 この人の働きによって、ヴィジョンやイメージとしてはなく、本当に荒れ野に水が湧き、荒れ野に川が流れ始めました。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の涌くところになり始めていました。が、その働きを担う人が突然に武器によって殺害されてしまいました。
 中村哲師があと数年元気でお働きになれば、もっと川が流れ、もっと水が湧き、パピルスの茂るところはもっと拡大していたことでしょう。
 降臨節第3主日の聖書日課福音書は、マタイによる福音書第11章1節~10節です。
その前半部分では、洗礼者ヨハネが領主ヘロデの不正を批判したことで捕らえられて獄中にいるとき、ヨハネは自分の弟子をイエスのもとに遣わしたことが記されています。
洗礼者ヨハネは、弟子を通してイエスに「来たるべき方(つまり救い主)はあなたですか」と尋ねました。
ヨハネは死を予感して不安だったのでしょう。
その時にイエスがイザヤ書のこの言葉を用いて「ヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言っています。
いつ殺されるか分からない洗礼者ヨハネは、この言葉をイエスから伝えられることで深い安堵と御国への確信を得たにちがいありません。そして、イエスは中村哲師に対しても洗礼者ヨハネに対してと同様に、このイザヤ書の言葉で御国の確信を与えておられるのではないかと想像します。
 イエスはこのイザヤ書の言葉を引用しながら、獄中の洗礼者ヨハネに「主の栄光と我らの神の輝きを見る(イザヤ35:2)」時が既にイエスによってもたらされているということを告げています。そのイエスは、天の国を実現する働きのゆえに、やがて十字架つけられ殺されました。その十字架の上でイエスは自分を十字架につける者たちのためにも祈りました。イエスの働きはそれで途切れたのではなく、弟子たちによって引き継がれて、世界に広がっていきました。そして、イエスの十字架から2000年近い時を経て、中村哲師もその働きを担い、殺されました。
 私の中では、クリスチャン医師であった中村哲師の働きと死がイエスの働きと十字架の死と重なって見えてきます。中村哲師はどのような思いで死んでいったのでしょう。
 こうした平和の働きが、暴力や武力によって否定されることに憤りや悔しさを覚え、そのような行為に出る者のすべてを否定したくなります。でも、それだけではなく、私たちは神から何かを指し示されており、その何かを見つけ出して私たちの具体的な働きに歩み出すように促されているような気がするのです。
「見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く」ため、「歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けない人が喜び歌う」ようになるため、神は私たちに何を求めておられるのをイエス・キリストの生と死から学び、中村哲師の働きと死を重ね合わせながら「大切な何か」を見出していく課題をそれぞれに与えられているように思えるのです。
(『草苑』水戸聖ステパノ教会月報2020年1月号に掲載)
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祈りの習慣

祈りの習慣
 
 ほぼ毎日、決まり事のように祈っていることがあります。私の場合は、「朝の祈り」、3食の「食前の祈り」、勤務する幼稚園での「始業の祈り」や「終業の祈り」等々。それは、ある意味、単調で変わり映えのない日々の祈りです。
 例えば勤務する幼稚園で、私は園長として、「主なる神さま、み守りのうちに新しい朝を迎え、こうして祈りをもって一日を始める恵みを感謝します。この日もあなたのお与えくださる良き交わりのうちに、あなたの愛によって共に育まれ導きを受けることができますように。ことに主イエス・キリストは幼子を祝し、神の国はこのような者の国である、と教えてくださいました。どうか子どもたちが主のみ旨に従って育ち・・・」と、いわゆる自由祈祷の中で祈祷書の言葉を想いつつ、祈っています。
 時に、祈りの言葉に自分の実感が伴わず、形式的で上辺だけの祈りになってしまうことに嫌悪感にも似た思いが付きまといます。そんな私が、日々の祈りを坦々と行っていく恵みを再認識する出来事が起こりました。
 その出来事とは高速道路での走行中に受けた追突事故です。その日、私は教区の集まりで静想の講話を担当し、良い時を過ごせた充足感を胸に他の婦人信徒と共にその集会から帰る途上で、高速道路を走行中に、居眠り運転でスピードを上げた後続車に突然に追突されたのです。念のために救急車に乗せられての応急処置と検査を強いられましたが、双方とも運転者と同乗者には大きな外傷はなく、軽度の怪我で済んだのでした。私の車両は修理不能になりました。
 翌朝、幼稚園での始業の祈りで「主なる神さま、み守りのうちに新しい朝を迎え、こうして祈りをもって一日を始める恵みと導きを感謝・・・。」と祈り始めると、この当たり前の祈りが、どれほど多くの恵みと導きの上に受けて成り立っているのかについての感謝が湧き上がり、胸が詰まる思いになりました。
「そうだったんだ。ずっとこの恵みと導きを前提に祈っていたんだ。事故に遭った翌日にもこのように祈れることそのものさえ、大きな恵みなんだ。」
 毎日、形ばかりの祈りになりそうであっても、決まった時間に、神の御前に手を合わせて祈る行為は、下支えしてくださっている神の恵みと導きがあればこそ成り立つのであり、時が良くても悪くても、実感があろうがなかろうが、私たちは神に対して応答しながら生きていくことが大切なことであると、改めて感じる時となりました。神の恵みに応答して生きることは、私たち人間の神に対する責任であり、このことは信仰生活の「基本のき」です。
 もし、祈りの言葉に実感が伴わないことがあっても、その言葉は私たちの意識を掘り下げ、祈りの言葉と私たちの経験を結びつける準備が進むでしょう。
 「主よ、わたしの口を開いてください。わたしは主の誉れを現わします。」という祈りで起床し、「あなたのみ手にわたしの霊をゆだねます。」という祈りで一日を終える生活を保ちたいと思います。
 (『聖公会の信仰』AAMJニュースレター第57号 2020年10月16日発行 所収)

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2021年05月18日

トマスを思い巡らせる

 現在、日本聖公会の聖餐式聖書日課は3年周期であるが、この聖書日課で主日の聖餐式を行ってると、かつて同じ聖書日課で原稿をつくった説教の視点から抜け出せず、3年前と同じような説教になってしまうことが増えてきた。それだけではなく、復活節第2主日には毎年同じ聖書日課福音書が採用されている。私は、その聖書日課の箇所の前半部をテーマにすることと後半部をテーマにすることを隔年で繰り返すことになってしまう自分を感じてきた。今年は何とかそこから脱したいと思い、トマスに関する絵画にどのようなモノがあるのかを調べてみた。私が目にしたほとんどの絵画作品は、トマスがイエスのわき腹に二本の指を入れてその傷口に触れているのだか、私は随分昔から「トマスはイエスの傷跡に触れなかった」と確信しており、どの作品にも共感できなかった。
 その中で、ただ一つ、エルンスト・バルラハという人の彫像の作品に感銘を受けた。
 調べてみれば、バルラハは1870年生まれのドイツの彫刻家、画家であり、また劇作家でもあったとのことである。この人の「再会」と題する彫刻では、トマスはイエスを見上げるようにしながらも少し前屈みに立ってイエスにすがろうとしているかに見える。一方、イエスはそのトマスの脇を支えるようにして真っ直ぐに立っている。
 イエスがラザロを甦らせるために、またユダヤの地に向かおうとしている時、そのただならぬ雰囲気を感じたトマスはこう言った。
 「私たちも行って、一緒に死のうではないか(ヨハネ11:16)」。
 しかし、イエスがゲッセマネで捕らえられた時、弟子たちは一人残らず、イエスを置いて逃げてしまった。トマスもその一人だった。
 復活したイエスが、部屋に鍵をかけて閉じこもる弟子たちの中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と告げた時、トマスはそこにいなかった。トマスは、他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。(ヨハネ」20:25)」と言った。
 それから8日の後、イエスはまた弟子たちに姿を現された。あの時と同じように、イエスは弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように(20:26)」と言われたのである。トマスはイエスと「再会」した。
 イエスはトマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。(20:27)」と言い、トマスは答えて「私の主、私の神よ(20:28)」と言った。
 聖書はそれ以上のことは記していないが、トマスはこの時号泣していただろう。イエスを裏切った弱く醜い自分に対しても、十字架で死んだイエスが「神はお前を愛して止まない」と言ってその傷口を示すとき、傷口は罪人を責め立ててその罪を暴く証としてではなく、無限の愛の徴となって罪ある人を生かす証になるのである。
 「再会」の像のトマスはイエスを見上げているが、そのトマスはイエスの支え無しには今にもくずおれそうである。この時のトマスには、イエスの傷跡を見てそこに手を入れて確かめることはもはや問題ではなく、イエスの十字架によって自分が贖われ、赦され、愛され、生かされていることを確信し、そのイエスに「私の主、私の神よ。」と、恐らくは号泣しつつ、信仰を告白していることが大切な事なのではないだろうか。
 かつてイスラエルの民は、モーセが独りシナイ山頂で神と語り合っている間に不安になり、目に見える徴を欲しがり、金の子牛を造ってそれを神としようとする過ちを犯した。
 私たちも、もしイエスの十字架と復活を信じるのではなく、復活の主を見て確かめようとするのなら、かつてのイスラエルの民と同じ過ちを犯すことになることを肝に銘じておく必要があるだろう。                                                                                                                                                              
 ちなみに『聖書-新共同訳-』では、トマスの信仰告白の箇所は「わたしの主、わたしの神よ。」と訳されている(聖書協会共同訳も「私」を漢字表記しているが同様)が、ここは呼格(よびかけ)ではなく、主格(主語になる形)であり、「私の主、私の神。」と訳して、呼びかけの「よ」を省略して訳してはどうだろうか。少なくとも私にはその方がピッタリする。(2018年5月)
トマズ バルラハ 縮小.png
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2021年05月13日

御国がきますように

 教役者は皆そうだと思うのですが、よく「なぜ牧師になったのですか」とか「召命感はどんなことだったのですか」と尋ねられます。私はそれに応えて言葉にしようとすると、いつも「それだけではないだろう」という声が胸をよぎります。

 私の召命とは、例えて言えば、自分で思い描いていた「将来」への線路上で「小野寺達号」は複合事故で脱線し、イエスに助け出されて修理されたのでした。気がつけば、主イエスは私が脱線するずっと以前から私を支え続けてくださっていました。私はイエスを運ぶ車両の一つとして、どの路線であれ用いられたいと願い始めていました。脱線のきっかけや原因は、私の召命を促すものではありましたが、召命そのものではありません。敢えて自分の召命を言葉にすれば、「御心であれば、主イエスに仕え主イエスを宣べ伝える器として用いられたい」という一点であり、自分に限らず、召命とはその一点を外してはあり得ないように思います。

 私は聖公会神学院を卒業した翌年の4月に伝道師(実習生職候補生)として日立の教会勤務と併設幼稚園の園長として遣わされました。園の管理運営から経理も含め、いきなり大海に放り出された思いになりながらも、若い先生方と充実した日々を過ごしました。でも、私の中には「子どもと関わる職を辞して聖職志願したのに、このように園務に忙殺されることが聖職志願した私の召命は生きているのだろうか」という思いが付きまとっていました。

私は、そのように過ごす中で執事、司祭に按手され、4年が過ぎて次の任地へ向かう日に、教会のある信徒から短冊に記した次の言葉をいただきました。

 「この町に御国の来たるを望みつつ幼子育む司祭先生」。

 幼稚園で過ごす事が多く信徒への関わりも手薄になりがちな若い牧師に対して、身に余る餞のメッセージでした。

 どこに遣わされても、その場に「御国が来ますように」と祈りつつ働くことが私の召命であることを再認識し、それ以来、日々の「主の祈り」の中で特に「御国がきますように」という言葉に励まされて参りました。

 そうとは言え、呪文のように祈りの言葉を唱えれば万事が自分の思い通りになるわけではなく、「これが御心なのか」と問い返したり呟いたりすることもあれば、自分の限界を感じることも度々でした。特に、一人前の牧師と見なされて自分で決断する機会も増えてくると、どんな組織でも言えることですが、ある意志決定は他の選択肢とその可能性を切ることにもつながり、意見を異にする方々を落胆させる結果になってしまうこともありました。

 そのようなことの続いたある日、机に向かっていると、私の黙想は次の言葉になって纏まってきました。

 「愛を説く我に愛など無きを知るキリストはなお我を愛せり」。

 それまで短歌など詠んだことのない私には不思議な体験でした。私は思わず朝日歌壇宛てに投稿しました。幾週か過ぎた日曜日、新聞を開くと、その短歌が馬場あき子氏選の筆頭句となり、「作者は牧師さんであろうか。愛を説く自らがどれだけ大きな愛を知っているかをふと内省する一瞬、謙虚に『我に愛など無きを知る』と言ったのだろう。」(200156日朝日新聞)と評してくださっているではありませんか。私はこんなことがあっては良いのだろうかと驚き慌てました。

 この短歌は私の心に根付くに従って、キリストの愛によって生かされ用いられる自分を確認する大切な言葉になり、自分の召命を確認する言葉であり続けてきました。

 私はこの3月末をもって定年を迎えましたが、今後も自分の置かれている場で、それが目に見える教会の働きであってもそうでなくても、「御国が来ますように」と祈りつつ、キリストの愛を人々と共に確認し生かされる者でありたいと願っています。

 今、日本聖公会は本教区を含めて新しい動きを創り出すための大切な時にあります。共に「御国が来ますように」と祈りながら、歩んで参りたいと思います。皆さまへの感謝と共に。

(『北関東教区時報』第345号 2021年4月4日号所収)

色紙 この町に御国きたるを.JPG

「追記」
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2021年05月12日

ちから

 カトリック教会の信仰者であった作家の故遠藤周作氏は、自分の信仰を深く見つめつつ、自分の思うイエス(「私のイエス」)の姿を幾つかの作品の中に描き出しています。遠藤氏がそれらの作品の中で描くイエスは、奇跡や癒やしの業は何もできないけれど、相手に寄り添ってその人を受け入れどこまでも共にいる人として描かれることが多いように思われます。そして、そのように描かれるイエスの印象は、弱々しく物足りなさを感じる、という人も多いようです。
 かつて、ある教会の機関誌の中に、次のような一文を目にしたことがあります。
 「奇跡を行い、神の教えを説き、病の人を癒やしてきたイエスが十字架の上で何もできずに死んでいく姿の弱さに失望した。」
 でも、私は遠藤周作氏が描くイエスは決して弱くはないし、何もできなかったのではないと思います。もし、神の意志を貫徹する強さがなければ、イエスは十字架につくこともなかったのではないか、と私は考えます。
 イエスの力とは、物理学的な数量の大きさで例えられる力ではないのです。
 幼稚園の園長でもある私は、かつて遠足で次のような経験をしました。
幾つかの幼稚園や保育所が同じ公園に遠足に来ていました。幾つかの遊具の前に色々な園の子どもたちが順番待ちの列をつくっています。その列の一つに、ある園の子どもが割り込んできました。たまたまそこに居合わせた私は、思わず「みんな順番を待って並んでいるのだから、あなたは一番後ろに並びなさい。」と言いました。
 すると、恐らくその子どもの所属する園の先生らしい人同士の声が私の頭の後ろから聞こえてきました。
 「うちの子どもたちは逞しいわね。」
 私は、グッと堪えましたが、怒鳴りつけてやりたい気持ちになりました(実際にはしませんでしたが・・・)。
「それは逞しさではなくて、厚かましさでしょ!あなたの園ではどんな子を育てたいのですか!」
イエスが神の御心を生きるということは、自分一人が他人より多くを得るために厚かましく生きることや力によって他人を従えることではありませんでした。目の前にいる人が自分のせいではないのに貧しくされ、汚れたものとされ、生きることが困難になっているのであれば、その人と私との間に、神がそこに存在している姿が現れ出るようにと祈りつつ、その実現のために自分ができることを貫いて生きたのがイエスです。しかもイエスはそれを暴力によってではなく、愛し抜くことによって実現なさいました。イエスは、暴力的な力によっては究極の平和は得られず、神の御心は完成しないと考えていたのでしょう。その結果、自分が十字架に付けられることになると分かっていても、自分の目の前にいる人に神の御心が現れ出るようにと祈りながら、その人にかかわり続けたのがイエスです。
私は園児と礼拝しますが、礼拝の中で、時々次のような歌詞の聖歌を歌います。
 「神さま ください 信じる力を
 みんなと一緒に 生きる力を」
この歌を元気な声で歌う子どもたちも、おそらく思春期を迎える頃から、遠藤周作氏の描くようなイエス像については、「そんな生き方じゃ世の中を生き抜いていけない。」と思う日が来るかもしれません。また、「信じることや愛することは強いことではなく、現実に立ち向かう力にならない。それが何の役に立つの。」と悩む日が来るかもしれません。
 現代は、国の政治の世界でもイジメの世界でも、力を誇示する者の時代であり、力を恐れる人々は力を誇示する者にすり寄って生きようとしていますし、その力に抵抗する者を仲間外れにしようとする時代です。
 そのような時代の中で、生きていく強さを身に付けることとは、暴力的で厚かましい力を身に付けていくことではなく、弱い者も小さい者も大切にされて共に生きていくことのできる世界を創り出すことに労を厭わない強さを身に付けることではないでしょうか。そして、恐れずにそれを実行していく力を身に付けることが、生きる力を身に付けることであると私は思うのです。
 その力を名付ければ、「愛力」と言えるかもしれません。そんな言葉はありませんが、まさにこの「愛力」こそイエスの力なのです。
 イエスは、自分がそのような愛の力によって生きれば、体制を維持しようとするユダヤ教の指導者たちの反感を買い、迫害され殺されることになると分かっていました。でも、イエスはその生き方を貫き、人を愛し抜き、そのような生き方の先に何があるのかを示してくださいました。
イエスの伝えた救いは、私たちが呪文を唱えるように祈ればその願いが直ぐに満たされるという魔法のような救いではなく、神の愛の力によって一人ひとりの命が大切にされ、その交わりの中で自分として生きる喜びを獲得していく、という救いなのです。もし、イエスに期待して失望するのであれば、自分はイエスに何を求めどのように生きていこうとしているのかを謙虚に振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。
教会は、救い主イエスを自分の救い主として受け入れた者の集まりです。
 私たちはそれぞれに、そのイエスにどのような力を見てイエスを救い主と告白し、イエスを通して何が実現することを願い求めているのでしょう。
(『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2018年10月号より)
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普段の普通のことに対する感謝

 先日、交通事故に遭いました。それも、教区婦人会静想日の帰り道のこと、6月27日の午後4時過ぎのことでした。
 上述のように、前橋聖マッテア教会で開催された教区婦人会主催の静想日は、小職の講話と短い静想での約2時間の時を過ごし、その後の昼食と歓談も含めて、とても満たされた思いで帰途につきました。そして、私たち4人の乗った車は北関東道を走行し、間もなく栃木、茨城両県境の大政山トンネルをぬけようとする時に、突然にバーンという音と共に体にもショックを受け、「アッ!」と思った3秒ほど後に、もう一度、同じバーンという衝撃を受けました。一瞬、「まさか!」と思いましたが、本当のことでした。
 居眠り運転の車に追突されたのです。後で聞いたことですが、後ろの車を運転していた人は居眠りをして私たちの車に追突し、慌ててブレーキと間違えてアクセルを踏み込み、2度目の追突を起こしたとか。幸いにも、車は左右にぶれることなく、停止させることができました。運転していたのは私ではありませんでしたが・・・。
 そのことを、ここに詳しく書くつもりもありませんが、同乗の4名、相手方は1名、大怪我にならなかったのは何よりでした。
 その翌日、愛恩幼稚園の教職員の朝の会でいつものように始業の祈りをしました。普段は園長(私)が、特に決まっているわけではありませんが、下記のような言葉で祈ります。
 「天の父なる神さま、夕べの暗い間も見守りを与えてくださり、こうして祈りをもって一日を始めることの出来る恵みを感謝致します。どうかこの一日も主の守りと導きのうちに(以下略・・・。)」
 「祈りをもって一日を始めることの出来る恵みを感謝」という言葉を唱えつつ、私はいつもと違う感謝を思いました。「祈りをもって一日を始めること」は、日々のごく当たり前のことでした。その実感を忘れてしまい、その言葉でおきまりの言葉にして祈ることになりがちです。
でも、その朝の思いは特別でした。仮に、怪我が重くて入院していたら、その日はその言葉で祈れませんでした。自分が加害者になる可能性だって日々の中に潜んでいます。もし、今回の事故でも、もっと酷い目に遭っていたら、その日はその言葉で祈る状況になかったでしょうし、その気持ちも起こらなかったでしょう。
 流行歌に「♪何でもないようなことが、幸せだったと思う~♪」という歌詞の歌があって、私の息子たちが口ずさんでいたのは、もう10年以上も前のことだったでしょうか。ふと、その歌詞を思い出しました。
 改めて、毎日の当たり前のことが当たり前に行われる恵みを実感致しました。私たちが、日々当たり前のことを坦々と行っていくことができるのは、それを支える沢山の人とその力があるからで、その感謝ができない世界は、味気なくなってしまいます。
私は、日々の祈りを習慣化することと形式化することはまったく違うことであることを今回の出来事から再確認しました。毎日の生活が当たり前のように流れていくことは、何と恵まれたことでしょう。そしてそれを感謝をもって保っていくことは、どれほど素晴らしいことか考え直してみる必要があるのかもしれません。
 朝、目が覚めたとき、「主よ、わたしたちの口を開いてください。わたしたちは、主の誉れを現わします。」と、一言の祈りをもって一日を始められますように。そして一日の終わりに、与えられた平凡な事に潜む大きな恵みを感謝して、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈りつつ眠ることができますように。
 普通のことを感謝しつつ、自分に与えられた働きを進めていく力を養っていくことができますように。
 (『草苑』水戸聖ステパノ教会月報 2018.07.01)
posted by 聖ルカ住人 at 23:08| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伝統、伝承

 先月より、スポーツの好きな私にとって、何とも印象の悪いニュースが流れています。
5月6日に行われた日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボールの試合で、日本大学の学生選手がコーチングスタッフの指示を受け、相手チームの学生選手に対して悪質なタックルをして怪我を負わせました。勿論ルール違反(反則)であり、そのプレーについての問題点や批判がSNSに流れはじめました。
 私もテレビのニュースで、このプレーのビデオが流れるのを見て、明らかに限度を越えた悪質な反則であると思いました。
 しかも、その件についての日本大学の対応、コメント、謝罪などが、後手に回っただけでなく、アメリカンフットボール部監督とコーチの記者会見、学長の記者会見、テレビ放映された理事長のテレビ記者インタビューなどがあまりに大学組織と指導者側の保身を印象づけるものでした。また、反則プレーをした学生選手自らが記者会見を行って自分の反則プレーを認めて置かれた状況などを述べることになり、世間の日本大学に対する批判は治まることなく、まさに「炎上」状態になりました。
 5月29日には、日本大学アメフト部学生現役部員学生による声明文が出されたり、関東学生アメフト連盟理事会により、同大学同部元監督、元コーチ、チームに対する処分が発表されたりしましたので、「炎上」はやや「鎮火」の動きもありますが、この事件はいろいろな課題を提示する結果となりました。
 わたしが、本稿であえてこの問題を取り上げたのは、組織の伝統、伝承について、教会組織としても気をつけるべき、考えるべき点があるからです。
100名を超える大きな組織で日本での頂点をめざし、全員がその目標に向かって思いを一つにすることは難しいものと思います。全体を束ねる者がどのような理念によってその組織を動かしていくのか、そこに監督の手腕が問われることになります。
チームは学生組織です。そのチームでの教育と養成の在り方は、そこで育つ学生の組織運営や選手育成の考え方に影響を与えます。そして、そこで育った人の中から沢山の指導者が生まれてくるのです。
 彼らが受けた教育と養成の中身を知らない人たちは、日本のトップレベルのチームの一員であった人の指導とその在り方に期待することでしょう。
 しかし、彼らが受けた指導の内実が、実際には高校で活躍した有望選手をスポーツ推薦の特待生としてスカウトし、あとは暴力と罵声が蔓延する中で盲目的に練習した程度であれば、その指導を受けた人がまたそのようなスタイルでの指導を繰り返す危険があることを踏まえておかねばならないでしょう。
 「全体の大きな目標のために働け。」「自分の小さな目標など捨てろ。」「チーム一丸となるために自分を犠牲にしろ。」などのスローガンによって奴隷のように扱われたり、仮に選手として華やかな舞台に立っても「お前は反則してでも相手を潰さなければ出場させる意味はない。」と強い圧力をかけられて自分の能力を思う存分発揮してプレーをしたいという気持ちとは程遠い思いでグラウンドに立たされ、その学生を思うと、また、学生選手にそのようにさせる組織を思うと、組織全体の不健康さを思わずにはいられません。
 また、そうすることがチームに貢献することであるかのように教育された人がまた指導者になって、同じことを次世代の人に強いていくという伝承の再生産を、どこかで断ち切らなければなりません。
 この問題を単に一つの大学体育会クラブ活動の問題としてとらえるのではなく、文化や価値や信仰をどのように引き継いで今の世に生かし伝えていくべきかという問題として考えてみると、この事件はとても重大な意味を持っていると思います。あのような組織の中で人の教育と再生産が行われていってはなりません。その結果がどうであるのかを身をもって知っている人も多いことでしょう。
 自分たちの教会とは何か、教会として伝えていくべきもの、守り育てていくべきものについて、深く思い巡らせる機会にしてみたいと思います。
       (『草苑』水戸聖ステパノ教会月報2018年6月号)
posted by 聖ルカ住人 at 23:01| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする