2022年07月08日

教会生活の実際について 思いつくままに

 教会暦は、聖霊降臨後の期節に入りました。

 これから11月末までその後半期を過ごしていくことになりますが、それに関連して、教会生活の実際についての勧めをいくつか挙げておきますので、再確認の上、是非できることから実践してください。

 私は、本欄に「教会生活の実際」と題して何回かのシリーズで教会生活を過ごしていく上での心構えや実践すべき内容などを記していこうかとも考えていましたが、ここにその幾つかを纏まりもないままに記そうと思います。あくまでも、義務ではなく心得ですので、ご自身での判断の参考にしてください。

・礼拝開始前の静想を 

 フランシスコ・ザビエル髙橋宏幸北関東教区管理主教が北関東教区のある教会を巡杖された時のことを以下のように語っておられました。

 礼拝開始時刻の15分ほど前に、聖堂があまりに静かなので「何人来ているのかな」と思いつつベストリーから会衆席を覗いてみると、既に10数名が着席して静かに祈り或いは聖書を開いていたとのことで、その日は20名に足りない会衆の礼拝ではあったけれど、とても落ち着いて心のこもった礼拝ができたとのことでした。礼拝前に心を落ち着けて、礼拝に向かう心を整えるのはとても大切なことです。それを一人でではなく、主日礼拝に向かう一同の思いにできれば、なお礼拝前の有意義な時になるでしょう。

 ・My聖書、My祈祷書、My聖歌集を!

 3冊あわせるとかなり重くなりますね。でも、できるならMy各書を手元に置き、前日に当日の聖書日課の箇所と祈祷書の特祷に栞をはさみ、目を通しておきましょう。そしてその内容の感想や疑問点などを心に保ちながら、自分の礼拝用書を用いて毎主日の礼拝に臨めたら良いと思います。私がかつて勤務した教会で、それを実践していた人が時々「私が疑問に思ったことを説教の中で触れてくださって、よく分かりました」と言ってくださり、私には説教準備の励みになりました。 My聖書であればそうした疑問点や注釈などを書き込むこともできます。私は主日礼拝には司式、朗読する時のほかは『聖餐式聖書日課(ABC年別)』より『聖書』を用いることをお勧めします。聖書全体のボリュームの中でその日の聖書日課箇所の位置を感じながらその内容を理解することも味わい深いことであり大切なことかも知れません。また、前日には、当日の説教を準備する聖職のためにも祈ってください。

・主日礼拝には15分前の出勤(?)を!

 教会には、管区、教区、他教会などから多くのお知らせ、案内などの印刷物が届きます。それら全てを全員に紹介したり取り次いだりするには限界があります。主日の礼拝に参集するとき、教会には早めに到着するように心がけて、掲示板や受付周りの印刷物、ご自分のレターボックスなどに配布物はないかをチェックして、必要な情報を得るようにしてください。親しい方と挨拶したり近況を語り合うだけでも時間は直ぐに過ぎていきます。礼拝開始時刻が近くなると、自席で静かに黙想したい人もいますし礼拝に心を向けて沈黙のうちに過ごす人もいます。礼拝前の点燭(ロウソクに火を灯す)は、原則礼拝開始の5分前です。それまでに当日の聖書日課に目を通して栞を入れておくことなどの準備も完了しておきたいものです。

また、事情によって当日の聖書日課の朗読担当など「お役」を突然に依頼されることもあるかもしれません。そのような場合にも「備えあれば憂いなし」です。少し早めの出勤(?)で、礼拝に向かう思いを整え、突然の依頼や変更にも対応することができます。

 また、多くの教会には受付に礼拝出席者記名簿があります。陪餐者であるかどうかによらす、礼拝に参列出席の折は記名を心がけて下さい。その名簿をもとに年度統計の資料を作成します。近年では、万が一のコロナ感染症対策での連絡や忘れ物や拾得物をご本人に戻す手掛かりにもなりますので記名を心がけて下さい。

・牧師への伝達事項はメモ書で。

 「あのことを、今度の日曜日に牧師に伝えよう」という事柄がある場合があります。そのような時は、できるだけ伝達事項をメモ書きにしてお渡しください。もしそのような伝達事項のある方が3人いたとして、一人3分要するとしたらそれで9分かかります。牧師の方からも出席者の中に個人的に何かを伝える必要がある場合、その必要時間が更に加わります。主日礼拝での代祷で共に祈りたい項目がある場合もあるでしょう。そのようなことについてより確かに伝わるように、メモ書きで構いませんので、できるだけ文書にしてお渡しください。

 (2022年7月3日 東松山聖ルカ教会教会通信『マラナ・タ』より、一部書き直し)


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2022年06月22日

庭の草花のことなど

 今春のある土曜日の午後のこと。私が南側道路に面した花壇の雑草をぬいていたら、子どもをバギーに乗せたお母さんらしい二人が歩きながら話をしている声が聞こえてきました。

 「ここ、とっても雰囲気が良いのよね」。

 下から見上げる駐車場まわりの草花や芝生広場とその上の園舎の風景を言っていたのでしょう。私はおだてられて木にも登る思いになって、その日の作業に力が入りました。何と単純な私・・・。その母親たちが2,3年後にその子をこの幼稚園に入園させるかどうか分からないし、教会の礼拝に来ることもないかもしれません。でも、私の植栽作業で、季節の花が咲き、草むしりが教会周りの環境整備の域を越えて、人々にちょっとした楽しみを与えることが出来ていれば、それはとても嬉しいし有り難いことです。

 東松山聖ルカ教会 教会通信『マラナ・タ』 2022年6月号掲載

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2022年04月11日

イエスの十字架に関わる人 二人の例

イエスの十字架に関わる人 二人の例


・キレネ人シモン

シモンは、過越祭を祝うためにキレネ(エジプトの西に接する地中海沿岸の町)からエルサレムに来ていました。ゴルゴタの処刑場に上っていく道に人だかりができています。3人の死刑囚が兵士に囲まれて、自分の処刑台となる重い木を担いで歩いています。その3人の中の一人は、頭に茨の冠を押し付けられ、激しく鞭打たれたために体中が血に染まって黒ずみ、よろめいています。シモンはいきなり一人の兵士に引きずり出され、その男に代わって彼の処刑台となる木を担がされました。

 「何でこんなことをする羽目に・・・。」

 ゴルコタの丘で、その男の十字架が立て上げられその男が死んでいく様子を見ていると、シモンにはその男が犯罪人であるとは考えられなくなってきました。その3日後にこの男が復活したことを知ったシモンは、このイエスという男の弟子たちと関わりを持つようになり、イエスを自分の救い主として受け容れました。

聖書の中に、シモンは「アレクサンドロとルフォスの父(マルコ15:21)」と記され、使徒パウロは「主にあって選ばれたルフォスと、その母によろしく。彼女は私の母でもあります(ロマ16:13)」と記しています。シモンが強いられてイエスの十字架を担った出来事は、イエスの苦しみを担う名誉になり、彼の子孫たちはパウロとも親交のある信仰者になっていきました。

私たちも、始めのうちはイエスのことが分からなくても、自分からイエスに近付きそのお方を知ろうとすることによって、その先が大きく開かれてくるのです。


・十字架の下の百人隊長

 百人隊長とは、ローマ兵百人ほどをまとめる下士官のことです。ゴルゴタの処刑場で、十字架に架けられた犯罪人たちの下に立っていた番兵は百人隊長でした。この兵士にとって、3人の犯罪人がなぜ十字架刑に処せられたのかはどうでもよく、この処刑に因る反乱や暴動などが起こらずにこの任務が終わることを願っていたことでしょう。十字架に付けられた犯罪人たちの一番近くにいたのがこの百人隊長でした。

 この百人隊長には、十字架上の犯罪人の一人がイエスを罵る声やもう一人の犯罪人がイエスから楽園の約束を受ける言葉もはっきりと聞こえ、十字架の犯罪人たちの呻き声や息づかいまでを感じ取ることができました。粛々と作業が進めることばかりを考えていたこの百人隊長の心が次第に動き始めます。

 百人隊長には、真ん中の十字架にいる男の故に、この処刑場の様子がいつもとは違うように感じられるのです。

 三つ並んだ十字架の真ん中の男から、この百人隊長がこのような刑場では聞いたことのない赦しの祈りが聞かれ、この男は罵られ嘲られているのに、その十字架から死を超える希望の光が放たれているのです。全地は暗くなり太陽は光を失っているのに、この人の周りには神の御心が現れ出ているのです。

 この十字架の男は「父よ、私の霊を御手に委ねます」と言って息を引き取りました。その時、百人隊長は思わずこう言って神を賛美しました。

 「本当に、この人は正しい人だった(ルカ23:47)」。

 私たちも、主イエスに近づきましょう。遠くにいては聞こえないけれど、十字架の直ぐ下でイエスの息づかいを感じ、この百人隊長のようにイエスの御声を聞くことができるように導かれましょう。

2022.04.10号 『我が牧者』東松山聖ルカ教会教会報掲載

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2021年12月13日

幼児賛美歌『藁の寝床ですやすやと』に思うこと

『藁の寝床ですやすやと』(幼児賛美歌32)に思うこと

 子どもの頃からどこか素直でなく生意気たっだ私は、幼児用の聖歌・賛美歌が好きではなかった。
 幼稚園生の頃に、例えば、日常生活で使わないような赤ちゃん言葉で「小さいお手々」とか「お目々を閉じて祈りましょう」という歌詞を歌って礼拝していると、内心「へっ、子ども扱いしやがって!」というような思いがつきまとっていたことを、今でもはっきりと覚えている。
 そんな私がやがて教会の教役者になり、いくつかの併設する幼稚園での園長を仰せつかり、子どもたちと一緒に礼拝する中で、いわゆる「子ども聖歌」をたくさん歌ってきた。そして、70歳を過ぎて現職を退いた今でも、私は嘱託勤務する教会に併設する幼稚園で、子どもたちと一緒に礼拝し、いくつか「子ども聖歌」を歌っている。
 私にとって、その極めつけのような歌が表題の「藁の寝床で」(幼児賛美歌第32番)というクリスマスの子ども賛美歌である。実は私はこの歌をこれまで殆ど歌ったことがなかったのだが、園児たちと礼拝する時にこの幼児賛美歌「藁の寝床ですやすやと」を歌うにあたり、しっかり歌えるようにしなければならなくなった。
歌詞は以下の通り。
1.わらのねどこですやすやと
  イェスさまはいまおねんねよ
  しずかなおうたがきこえます
  ねんねのおうたがきこえます
2.どこのおうちもみなしずか
  クリスマスのほしだけが
  きらきらおめめをさましてる
  しずかなしずかなよるでした 
(作詞:深山澄 作曲:大中寅二)
(参考 https://www.rcj.gr.jp/izumi/sanbi/youzi032.html
 
 子ども聖歌が嫌いだった自分を思い出さざるを得ない。
 そして、この歌を歌うことについて昔のような屁理屈をつける。
 この歌詞は、メルヘンチックな平穏なイエスを表現しているのではなく、飼い葉桶をも厭わずに宿る神の御子を表現しているのだという理屈によって自分を納得させ、子ども聖歌が嫌いだった遠い昔の自分を思い出しながらも、自分の信仰のこととしてこの聖歌を歌っている。いや、この屁理屈は屁理屈なりに真実だと信じて、気持ちを込めて歌っていると言った方が確かだと思う。
 もしかしたら、今でもこうして園児と一緒に子ども聖歌を歌うことは、半世紀以上も前の自分の子どもらしい信仰の埋め合わせをさせてくれているのかもしれない。
 クリスマスの絵本もクリスマスカードもクリスマスソングも、イエス・キリストの降誕やそれにまつわる聖書の物語が排除されるかのような昨今の日本のクリスマスシーズンである。こうして、また聖家族は馬小屋に追いやられ、イェスさまは藁の寝床に寝ることになるのだろうか。
 神の御子イエス・キリストはこうした聖歌を歌う子どもたちの中に宿ってくださるのかもしれない。

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2021年10月04日

黙想して教えられること

黙想して教えられること   2021-10-01
 毎朝夕の礼拝をするために聖堂に座ると、開始まで5分間ほどの、あるいは7分程度であったり、1分足らずであったり、空白の時間が生じることがある。その時間には、簡単な呼吸法による黙想することを心がけてきた。
 その方法は、背筋を伸ばして脳天を真上に引き上げられるイメージで「良い姿勢」を取り、鼻から少し深めに腹に息を吸い込んでゆっくりと吐くことに集中するというごく簡単な方法だ。おそらく、これが黙想の基本ではないだろうか。
 黙想が「今、ここ」の自分の呼吸に集中することを課題とし、他のことが気になったり脳裏に浮かんでもひたすら気持ちを呼吸に集中する。このことを日々行っている中で、自分で大きく変わったと言えることなど何もないが、小さなことへの気づきがある。その2,3を記してみよう。
 先ず、礼拝が始まっても、司式をする自分の気持ちが先を急がなくなったと思う。例えば、詩編や賛歌を唱えている時に、気持ちがその次にすべきことに引っ張られて、栄光の頌(「栄光は、父と子と聖霊に。初めのように今も・・・」)を唱えているなど、次にすべき聖書朗読や祈りのために祈祷書から聖書へと手を移しかえていたり、次にすべきことのために祈祷書のページをそちらに開きにかかっていることが多かったが、栄光の頌を唱え終わるまで気持ちを込め、その先の準備にかからないように心がけるようになったと思う。自分一人で自由に祈っているときは未だしも、他の人と一緒に礼拝していると、私は余計な時間を取らないように、そして適切な「間」を取るようにと、かなり意識してきたと思う。その配慮は悪いことではないが、自分も礼拝の中で「今、ここ」に集中すべきだと思うようになった。礼拝に用いる詩編や聖書日課の箇所など、祈祷書に栞を挟むことなど予め普通に準備をしていれば、気持ちの上で先回りしなくでも、時間の上では殆ど違いはなく、一つひとつの祈りや賛美に集中でき、内容のある礼拝になるのではないだろうか。仮に、そのために時間がかかったとしても、ほんの数秒のことであり、一緒に礼拝している人もそれを「間延びした」とは感じないのではないだろうか。
 第2に、このような意識と態度ができれば、その意識と態度は一層「いま、ここ」に向かうことになる。
 目の前にことに集中する思いを高めることは、周りが見えずに近視眼的になることではなく、目の前の課題に落ち着いて丁寧に取り組むことにつながることを実感している。
 引いては、主日の聖餐式でも、言ってみれば司祭として「そつのない整った司式」から「心のこもった内実のある司式」へと導かれていきたい。既に定年退職の身はあるが、礼拝の司式をする恵みを深くできることを感謝している。
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2021年09月22日

彼岸花 

彼岸花

 「彼岸花 今年も彼岸に咲きにけり」
 この句はその当時小学校4年生だったと思うが、息子が私に付き合って作ったもの。季重なりでもあり、「俳句」としての評価は「才能なし」か「凡人」かもしれないが、私はこの句をとても気に入っている。
 ちょうど2000年のことであった。当時、世の中は、仕事のためだけではなく家庭にも急速にインターネット環境が拡大し始め、多くの教会で宣教の一環としてホームページを立ち上げるようになった。
 前橋聖マッテア教会の牧師であった私は、ホームページを立ち上げることを年の初めの教会委員会で提案し、その年の復活日の完成とアップロードを目ざして、大斎節の間、ホームページ作成に熱中していた。多くの人が親しめるように「句会コーナー」を設けようと考え、短歌、俳句、川柳をいくつか掲載し、そのホームページで投句を求めることにした。できあがったホームページは自分としてはなかなかの出来映えで、その後の改良と更新を加えてますます成長していった。「句会コーナー」は、短歌にも俳句にも何の基礎知識も無いまま、他の人が投句するための呼び水とするためにそれぞれ2,3句を作り、ホームページ開設の時に掲載した。しかし当たり前にことかも知れないが、開設後も投句はほとんど無かった。それでも、「継続は力」とばかり、私はそのコーナーに俳句や短歌を少しずつ掲載し、我が子たちにも応援を求めた。その時、私の三男が応じて口にしたのが上記の句である。
 前橋聖マッテア教会の敷地は広く恵まれていた。歴代の教役者たちが皆植物好きで、広い敷地には色々な植物があった。その中でも曼珠沙華(彼岸花)は見事だった。牧師館前にも聖堂アプローチの脇にもフェンス脇にも広い敷地のあちこちに雑然と植えられた彼岸花は、秋分の日前後に一斉にあでやかな花を咲かせ、道行く人の目を楽しませた。猛暑の年も冷夏の年も、彼岸花は秋の彼岸の頃に花を咲かせた。それは神の摂理と言える着実な生命の営みである。私には、「今年も彼岸に咲きにけり」とはそのような神の営みを背景にした表現に思えた。
 また、この「彼岸」は、秋分の日を意味するだけでなく、生死の川を渡った対岸をも意味していると捕らえれば、この球根を植えて既に召された先輩教役者やこの教会の信徒逝去者たちの居られるところでも今年も彼岸花が咲いたと言い切ってうたっているとも言える。
 私が前橋に赴任した当初、庭の彼岸花の球根は、長年手を入れなかったようで、地中で毎年分球を繰り返した球根は場所によっては地表にまでグロテスクに盛り上がるほどになっており、それらを掘り上げて植え直したが、さて、余った球根をどうしようかということになった。
 思いついたのは、前橋公園の水路沿いや土手の中腹に植えること。毎朝犬の散歩の時に、球根を数個持って出かけ、埋めてくることにした。また、息子たちが所属していた少年野球チームの練習場である利根川河川敷の南町グラウンドの土手にも植えた。少なくとも2年にわたってそのようにした記憶があり、植えた球根の数は200個は下らないだろう。もう一箇所、峰公園の教会墓地にも15球ほど植えたが、それは私の前橋勤務最後の年であったため、教会墓地の境界に植えた曼珠沙華が毎年咲いていると話に聞くが実際に見てはいない。
 また、残念ながら、離任する前年に前橋市で全国都市緑化フェアが開催されて、メイン会場の前橋公園は大幅に改装されてしまい、密かに植えて年毎に咲き始めていた彼岸花の球根も大掛かりな工事によって殆ど無くなってしまったようだ。それまで前橋公園も南グラウンドも彼岸花は咲いていなかったので、もし今でも咲いていたら、それは前橋聖マッテア教会の彼岸花の兄弟である。
 現在勤務する東松山聖ルカ教会の敷地には、彼岸花はない。ホームセンターで4個入りの袋が398円で「リコリス」という名で売られていた。一袋購入して花壇のどこかに植えた。来秋の彼岸の頃にその彼岸花は息子の俳句の通りに咲いてくれるだろうか。そしてこの花は本当に「今年も彼岸に咲きにけり」だなぁ、と思わせてくれるだろうか。

 
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2021年09月20日

金木犀の香り

 二、三日前の朝のこと、ジョギング&ウォーキングの帰り道、少し疲れてゆっくり走る私の胸は一瞬にして金木犀の香りで満たされ、思わず立ち止まり、辺りを見回していた。「ああ、ここにあったのか」。それと同時に、これまでの金木犀にまつわる多くのことが思い出された。
 金木犀にまつわる一番古い私の記憶は、幼稚園生の頃のこと、その香りに惹かれて一枝を手折り家に持ち帰って母親に見せると、牛乳瓶に生けてくれた。教役者として初めての住居となった日立の牧師館は、幼稚園の庭の中にあり、牧師館の直ぐ脇には大きな金木犀の木があった。ことにこの季節には外出から戻ると、金木犀が「お帰りなさい」と言ってくれてるように思えた。11年間勤務した前橋聖マッテア教会では、ちょうど2000年の4月に初めて自分で作った教会ホームページを立ち上げ、その秋、デジカメで大写しにした金木犀の花をアップした。7年間勤務した宇都宮聖ヨハネ教会の牧師館の前には銀木犀、愛隣幼稚園の園庭には金木犀があり、銀、金の順に花が咲き、幼稚園の先生が子どもたちを順に抱いてその香りに触れさせていたこと。現職として定年までの6年間勤務した水戸では、大きなコンクリート鉢の金木犀は窮屈そうだったけれど、道路脇のその木の下には朝になるとオレンジ色の円の点描ができていて、そこだけは掃き掃除を除外した。
 その朝の金木犀の香りは、一瞬にして多くの記憶を呼び起こしてくれた。
 思い起こしてみると、このような記憶は、香りだけでなく、私の5感と深くつながっている。特に私の幼少期は、樹木の小枝を手折ることも許された古き良き時代でもあり、金木犀も桜も小枝を手折った感触まで思い出されるような気がする。本物を見る、触れる、嗅ぐ、聞く、そして味わう経験の多様さと深さが人間を育て人生を支えていく大切な要素なのではないかと思う。もし、私にそのような体験が極度に少なかったら、私は一体どんな感性の人間に育っていたのだろう。今の自分はそのような感性が豊かだとは思わないが、私は金木犀の香りばかりでなく、多くの草花や樹木に良い刺激を沢山戴いたと思う。
 先日、幼稚園の先生が、「子どもたちが触れたり摘んだりすることのできる花がもっと欲しい」と話してくれた。教会の花壇を作り管理する立場にある私はハッとした。管理された花壇の花は見るものであり、触れたり摘んだりするものではなくなっている。園児が金木犀の樹の下にしゃがみ込んで、撒き散らしたように落ちた金木犀の小さな花をつまんではもう一方の手に移して握りしめる光景は、これまで幾度も見てきた。中には「お集まり」の声に応じて拳の中の小さな花を「それっ!」と投げ上げる子もいる。他の草花にまで拡げて言えば、タンポポの花を乗せた砂団子、タンポポの綿毛を吹いて飛ばすこと。朝顔の色水作り、オオバコの茎相撲や松の葉相撲。オシロイバナの落下傘。草笛や葉笛等々。草花で遊んだことを挙げればまだまだ尽きない。
 私と同じ経験を現代の子どもたちにも与えるべきだとは言わないが、子どもたちが5感で自然に触れる環境をたくさん用意したいと思う。
 金木犀が香ると秋が進んでいく。(2021年9月17日)
                                 2021-09-16金木犀02.jpg  PHOTO068 金木犀.JPG
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2021年09月18日

烏瓜(カラスウリ)の花

烏瓜(カラスウリ)の花 

 今年の梅雨が明けて猛暑が到来した頃、草花の好きな素敵なご夫妻に引き合わせていただき、歓談する機会がありました。いろいろお話ししていると、「烏瓜の花をご存知ですか?」と尋ねられました。「カラスウリって、秋に赤い実をつけるつる性の植物ですよね。でもその花は・・、思い浮かばないですね・・」。

 写真に撮った烏瓜の花を見せていただき、そのご夫妻が烏瓜の花と出会った時のことや実際に花が開く様子のことなどをお聴きしていると、私はとてもワクワクしてきました。

 烏瓜の花は日没と共に開きはじめ朝にはしぼんでしまう一日花で、しかも、光のない夜に咲くにもかかわらず、どうしてこんなに繊細で美しく咲くのか不思議で、私はやっと「夜中に咲いて朝にしぼんでしまうのでは、どのように受粉するのでしょうね」と、少し的外れな感想を口にするのが精一杯でした。家に戻って、烏瓜について少し調べてみると、夜行性の蛾をおびき寄せるためにあのように白い色を大きく見せているという説もあることなどを知りました。

 翌朝、日課のジョグ&ウォークの最中に、私の視線は烏瓜の蔓のある場所を探して動き回っていました。今まで、赤い実の他には関心を持ったことがありませんでしたので、実の無い時期の烏瓜を見つけられるか心配でしたが、直ぐに見つけることができました。ああ、ここにもあったのか。数カ所見つけることができました。

 朝6時近くの烏瓜の花は、既に花弁は萎んでいましたが、確かに写真で拝見した花が咲き終わった姿であることが分かります。蕾も幾つか見つけました。

 これまで烏瓜のことなど全く意識していなかった私は、昨日まではその生け垣の脇を素通するだけでしたが、この日からその場所は私の特別なところになりました。

 それから2,3日経った日の夜9時30分頃、懐中電灯とカメラを手に、烏瓜の花が咲いているかどうか、妻を誘って近所の生け垣に行ってみました。

 「確かここに絡んでいるはず・・」、「ああ、あった、これ、これ」。「わあ、綺麗!」

 写真で見せていただいたとおりの花が生け垣に絡んで幾つか咲いています。ゴーヤのようの形の白色の花弁の先に細い糸を放射したような部分があって、その部分はまるでレース編みのようにひろがっています。暗い中で、カメラをその花に向け、数回シャッターを切りました。家に戻ってさっそく写真データを確かめ、興奮さめやらぬ思いでSNSにアップしました。

 またその翌日、毎朝のように散歩ですれ違って「おはようございます」と声をかけ合うようにようになった人には、ちょうどその生け垣辺りでお会いしたので、私は萎れた白い花を指さして「烏瓜の花をご存知ですか。この白い花はもう萎んでいるけど、夜に咲く一日花で、この花弁の先がすーっとレースのように広がっていて・・・」と思わず話しかけていました。

 私は、烏瓜の花のことを知ってからの3,4日間、かなり興奮しておりました。そして、烏瓜のことから私の発想は色々なことに広がっていました。

 烏瓜は学名Trichosanthes cucumeroides (トリコサンセス ククメロイデス)、Trichosanthesuは、ギリシャ語のθριξ(毛、髪)とανθοs(花)から成る言葉です。

 聖書の中で、θριξ(毛、髪)はイエスが「あなたがたの髪の毛一本残らず数えられている(マタ5:36他)」や、罪深い女がイエスの足元に来て涙でイエ スの足を濡らしその足を自分の髪の毛で拭った場面(ルカ7:38)、洗礼者ヨハネが「ラクダの毛衣(マタイ3:4他)」を着た姿等の箇所で用いられ、ανθοs(花)はイザヤ書の「草は枯れ、花はしぼむ、しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」を引用したヤコブ書1:10,11やⅠペトロ書1:24に用いられています。cucumeroides は「ウリ科の」という意味のようです。

 さて、私がこの教会通信『マラナ・タ』にこのような文章を掲載しようと思ったのは、ただ私が烏瓜の花を知りそれを皆さんに伝えたかったからだけではありません。

 私たちは、何か楽しいことや嬉しいことを経験すると、そのことを周囲の人々に伝えて共有したくなりますが、このことは、福音に生きる教会の働きの原点なのではないでしょうか。主イエスの愛が嬉しいから、大切なことだから、自分が救われたことだから、神さまの素晴らしさを伝えたくなるのです。神のこと、主イエスのこと、教会の交わりのこと等の経験を、楽しく豊かなものにしながら、その経験を多くの人と分かち合って、神さまのこと、主イエスのこと、教会の交わりのことを、知らなかった人々にも知らせ、多くの人にその素晴らしさを味わって欲しくなります。

 私は、もし烏瓜の花のことを教えていただけなかったら、花は毎夜咲いていてもそれを知らずに過ごし、秋になって深いオレンジ色の実を見て「ここに烏瓜がある」と思う程度だったことでしょう。烏瓜の花を知らずに生きていくなんて、勿体ないことです。私は烏瓜の花を教えていただき、その感動と共に自分の心の世界も豊かになった気がします。そしてその感動を伝えたくなりました。そのことについて知るきっかけがなければ、烏瓜は咲いていても私はそれを知らずにいたことでしょう。

 烏瓜の花のことでさえそうであれば、どこかで神と出会い生かされた経験を持つ者として、神さまの存在やその働きを伝えたくなって当然なのではないでしょうか。

 烏瓜の花を知らないままであることが勿体ないことであれば、イエスさまのことを知らない人の人生は何と勿体ないことでしょう。主イエスを通して示してくださった神の愛を知らないのであれば、その存在を意識することもありません。でも、その存在を知れば、あのことにもこのことにも神さまの存在やそのお働きを感じ、理解し、神に生かされていることの喜びと感謝を味わうでしょう。主イエスを通して示された神の愛が、あの出来事この出来事の中に潜在していることに気づき、神の愛を見出し、その喜びと嬉しさ(感謝)を周囲の人々に伝えて、分かち合うことへと促されていくはずです。神の働きを知れば、「あなたにもこの喜びと感謝を知って欲しい」という思いが強くなり、それが祈りになることでしょう。神を知らずそれまで神を意識していなかった人も、私の烏瓜の花の経験と同じように、神の存在を知りその大切さと素晴らしさに気付くことができれば、その人の見える世界は更に開け、ずっと豊かになるのではないでしょうか。もっと多くの機会に主イエスを伝えましょう。

 現行の『聖歌集』403番(いともかしこしイエスの恵み)は私の大好きな聖歌のひとつです。その歌詞の途中の部分ですが、「滅びを出でしこの喜び あまねく人とたたえ歌わん(2節)」、「我をも捨てず召したまえば たれか洩るべき主の救いに(3節)」という言葉が、ここに記してきたような思いと重なってきます。

 神さまのお与えくださる良い経験を共に分け合い、感謝と賛美に導かれていくことができますように。

 (東松山聖ルカ教会教会通信『マラナ・タ』2021年9月号)

カラスウリの花

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2021年06月29日

ヤイロの願い 「私の幼い娘が・・・」

ヤイロの願い 「私の幼い娘が・・・」

 マルコによる福音書第5章21節から43節に「会堂長ヤイロ」の物語がある。
 現在、日本聖公会で用いている3年周期の聖餐式聖書日課のB年特定8の主日に、(この物語に挟まれた「イエスの服に触れる女」の部分を除いて)この箇所が用いられている。
 今年の6月27日の主日聖餐式の配当日課に当たり、開式前に、ベストリーで、サーバー(侍者)をしてくださる方から話しかけられた。
 「今日の聖書日課福音書で、ヤイロはイエスに『私の幼い娘が死にそうです(5:23)』と言っているのに、後の方で『12歳にもなっていたからである(5:42)』と書いてありますよ。どういうことなのか理解に苦しみますね。」
 私もそう思っていた。なぜなら、ルカによる福音書第2章41節以下に「神殿での少年イエス」の記事がある。当時の法的成人年齢は満13歳であったとされており、この少年イエスの神殿詣では、イエスが成人になることを感謝して行われたと説明する人もいる。12歳は、私たちの感覚では「幼い」という言葉にマッチしないのではないだろうか。
 マルコによる福音書第5章23節の部分を原文に当たってみると、το(定冠詞) θυγατιρον(娘)μου(私の) εσχατωs(死)εχει(持つ)と、特に娘の幼さを強調してはいない。しかし、日本語訳は、1954年聖書協会訳、新共同訳、聖書協会共同訳のいずれも「幼い娘」と訳しており、英語訳でもRSVは My little daughter is at the point of death. であり、TEVは My little daughter is very sick. であって、どちらもθυγατιρον(娘) をlittle daughter と訳している。これらのことから推測するに、ギリシャ語の θυγατιρον には元々「幼い娘」「小さい娘」という意味があるのだろうか、ということになる。
 どうも、そうらしい。ただし年齢のうえで「幼い」と言うことではないようだ。
 と、言うのは、ギリシャ語の辞典を見れば、このθυγατιρον(シュガティロン) という言葉は、θυγατηρ の指小詞(或いは指小辞)であるとのこと。
 指小詞(指小辞)とは、日本語では、名詞や形容詞の用法で、例えば「綺麗」を「小綺麗」と言ったりして気持ちの上で「小ささ」や「少し」を示す時に用いられている。もっと例を挙げれば、「腹が減った」を「小腹が減った」とか「憎らしい」を「小憎らしい」と言うと少しニュアンスが柔らかくなる、という時の用法である。「我が家の犬」というのを「うちのワンちゃん」などと言うのもこれに近いか、と発想を飛ばしてみた。
 ちなみに、この物語ではマタイによる福音書やルカによる福音書にある平行記事には指小詞ではないθυγατηρ(シュガテール) が用いられている。
 想像するに、翻訳者は、この言葉が指小詞であることを意識して θυγατιρον を日本語にする時に、単に「娘」とするのではなく「幼い娘」としたのではないか。
 指小詞であることを意識して訳せば「小娘」もあり得るがそれでは意味が違ってきてしまう。
 この箇所の物語に戻って、それではなぜ会堂長ヤイロが指小詞を用いて「私の幼い娘が死にそうです」とイエスに手を置いていただくことを願い出たのかを思い巡らせることができそうである。
 ジョークで言えば、「ヤイロさんは我が娘を可愛さのあまり箱入り娘にしておきたかったから。」これが、ベストリーのサーバー氏に対する私の回答であった。
 それにしても、もしここまで述べてきたことが誤りでないのなら、この箇所の「幼い娘」は、「十二歳にもなっていたからである。」との語感のギャップが大きく、あまり良い訳ではないと思う。かと言って、まだ適訳は思い浮かばない。
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2021年05月27日

「平和」を思う -「のぞみ」のことなど- 

 今年も,鉢植えの「のぞみ」が咲き始めました。引っ越し作業など多忙であったため、鉢増しなどの作業ができず、きっと鉢の中は根詰まりを起こしているのではないかと気にかけています。花の咲き具合がやはり物足りないけれど、この花が咲いてくれるとやはりホッとします。

 以下のエッセイは、水戸聖ステパノ教会月報『草苑』2019年8月4日(第575号)に掲載したものです。今年の「のぞみ」の開花にあわせてこのブログにも掲載いたします。

「平和」を思う -「のぞみ」のことなど-  

 水戸市は、第2次世界大戦下の1945年8月1日深夜から2日未明にかけて、空襲を受け、米国機B29の投下する焼夷弾によって市街地のほぼ全域が焼け野原となり、本教会聖堂と幼稚園園舎を焼失しただけではなく、本教会員の中にも死傷者がでました。

 多くの人がこんな悲惨な戦争を二度と起こしてはいけないと感じ、思い、考えました。戦後に制定された日本国憲法は、基本的人権の尊重、国民主権主義(民主主義)、平和主義を3つの柱としました。この憲法はその発布当時から大多数の人によって受け入れられ支持されてきたと言って良いでしょう。敗戦を契機とし、日本人自身の手による憲法ではなかったとしても、恒久平和への思いは、第2次世界大戦を経験した人々にとって、その反省と共にごく当たり前の感覚であったのではないでしょうか。

 しかし、その後70年を経て、世界の状況は変わり、国内でも日本を戦争に参加できる国にしようとする動きや原爆を造れる状態にしておこうとする政策については、その一部は特定の政治家の私見とはいえ、いつの間にか表立って発言されるようになりました。そして現世界の状況では現憲法は現実的ではないとして、改憲すべきであるという声は大きくなってきています。

 8月は広島(6日)と長崎(9日)に原爆が投下された月であり、日本が連合国軍に対して無条件降伏することを認めたことが天皇という人間の声と言葉によって放送された(15日)月でもあります。

 第2次世界大戦の爪痕が次第に薄くなってくると、戦争そのものについての意識も希薄になりがちです。でも、戦争の悲惨さや酷さを語り継ぐことは大切なことであり、忘れてはならないことです。

 例えば、原爆の悲惨さは永久に語り継がれなければなりません。同じように、戦争の被害者も加害者も、自らの思いと言葉と行為と怠りを語り継ぐ必要があります。この教会の信徒であった方とその家族は、おそらくは戦争など望まない平凡な一市民であったことでしょう。それにもかかわらず、戦争によって一夜のうちに家族ごと命が奪われてしまったことを取りあげてみても、戦争など決してあってはならないこととして語り継いでいくべき事でしょう。

 極めて個人的なエピソードであっても、その家族や親族などの域を超えて語り継がれる必要のある事もあり、そこから何を受け取り何を学ぶのかは、その後の時代をどのように生きるようとするのかということにも関わる大切なことだと思うのです。

 2019年3月24日にNHKeテレで放送された『趣味の園芸』という番組の「バラと暮らす12ヶ月(第12回)」というコーナーで、わたしの亡父が作出したバラが紹介されました。

 そのバラの花は「のぞみ」と命名されており、野バラのような一重の桜草ほどの大きさです。この「のぞみ」という名に込められた亡父の平和への思いを共有していただきたく、ここにその文章を転記致します。

《バラになった少女》 

小野寺 透

 私と仲の良かった妹が、牧師と結婚して教会の事業にたずさわること半年で、その牧師は知る人ぞ知る南方の激戦地ガダルカナルへ出征した。その時生まれてくる子供に“のぞみ”と名づけて行った。

 彼は周囲の兵隊たちと同じく殆ど死んだと同様に倒れていた。その時耳元でアメリカ兵がガヤガヤ話していた。やがて彼は、そのアメリカ兵達の話にアメリカ英語で返事をしてしまった。それは彼が牧師に必要な神学の勉強に、数年間アメリカ留学していたからであった。

 彼の返事を聞いて驚いたのはアメリカ兵であったが、それが縁で彼は通訳の仕事を受け持ち、結局無事帰国することになった。出征時に名付けた“のぞみ”は女の子であって、父親の実家があった満州に渡った。渡った当時(昭和18年頃)の満州は平和であったが、終戦後、例のソ連軍の侵入で、女ばかりの一家の生活は苦しくなり、先ず祖母が亡くなり、次いで母も亡くなり次々に家族が死亡し“のぞみ”は一人ぼっちになって、近隣の教会関係の人々に助けられ暮らしていた。

 やがて帰国の順番が来て、三歳の“のぞみ”は一人で帰国列車に乗り、はるばる長い汽車の旅を続けて、日本に着き、やっと明日は東京に着く予定が列車の編成の都合で一日延びた。この延びた一日が幼い女の子に限りない悲劇となったのである。それは、この延びた日の東京品川に着く二時間前に、長旅の疲れか“のぞみ”は列車の中で息を引きとってしまったのである。

 一方父親は品川駅に、生まれてはじめてのわが子を迎えに行って、未だ温もりの残っている我が子“のぞみ”を抱いたのである。この様にして父親は“のぞみ”の持ってきた二つの遺骨箱と一緒に浦和の家に帰ってきて、狭い我が家は一度に三つの葬式をすることになった。

 話をバラに移して、私は1968年(昭和43年)頃から実生花を作り始め、最初の作出花に私は忘れ得ぬ、“のぞみ”という名前をつけた。バラの“のぞみ”は浦和では六月の第二週頃に一週間くらい桜草のような花で盛大に咲くが、ヨーロッパの気候では六月から十一月まで咲き続けるので、世界中のバラ花壇に植えられて有名になり、バラを記事にした世界中の本にも載っているし、有名なプロフェショナルのバラ作りの集会に、アマチュアの私が唯一人招かれたりしている。 ”のぞみ”が埼玉の浦和生まれであることを思うと、無常の感慨に打たれるのである。                                

 ちなみにバラの“のぞみ”は、英国王立園芸協会の「アワード・オブ・ガーデン・メリット」を受賞した唯一の日本品種です。私の父親が書いたこの文章の載った冊子の発行年月を調べる余裕もありませんが、この文章はおそらく1970年代に、父親が埼玉バラ会の会報に掲載したものです。

 私の父親も召集され兵役を強いられましたが、帰還できたおかげで、私は戦後ちょうど5年経った8月15日に生まれ、生かされて更に3人の男児の父親になりました。しかし私と同じように、それぞれの命を生きているはずであった多くの人々が、戦争によって尊い命の繋がりを断ち切られてしまいました。私の従姉妹になるはずであったのぞみちゃんもその母親である私の叔母純子も、直接被爆した者ではないにしても、戦争のために命を奪われました。

 そのように多くの人の生命をも奪ってまで他国と交戦する根源には何があり、誰がいて、どうすることを目指しているのでしょう。

 平和に生きることは、神の御心を求めて生きることや他者を愛することと深くつながっています。私は自覚する前に洗礼を受けたクリスチャンですが、イエス・キリストの愛と赦しの中に生かされ、その愛に基づいて平和を希求する人々と共に生きていきたいと思います。

 「平和を実現する人々は、幸いである、

 その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)」

 たとえ私たち一人ひとりは小さくても、キリストの平和を担って生きることを歩む者でありたいと思います。


    

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