2021年05月12日

終わりの日、さばきの日は本当に来るのでしょうか?

 その疑問あるいは関心はどこから来ているのでしょう。
 その質問をしたくなるあなたの背景にはどのような思いがありますか?何か心配や不安なことがありますか?
 「でも、あなた、終わりの日は昨日もう来てしまいましたから。残念!」と言われたら、あなたはどうしますか?
 わたしは、慌てず騒がず、誠実に自分の生活を(もちろん他の人々を大切にして)送ることが終わりの日に備える人のあり方だと考えていす。
 終わりの日とは「神さまのお考えが完全に実現する日」のことです。その日が本当に来ることを待ちながら、少しでもそのために役立とうと働くことは尊いことだと思います。神さまがあなたに与えてくださった生命を、貴いものとして、あなたらしく生きてください。そして、他の人もそのように生きられるように祈りつつ生きてください。
 できれは、マタイによる福音書第25章をお読みになって感想をお聞かせください。
 そうそう、ある神学者が「わたしは、終わりの時は本当に来るのかと尋ねられたら、『もう昨日来てしまいましたよ』と答えることにしている」と言っていました。
posted by 聖ルカ住人 at 16:14| Comment(0) | Q & A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

他の教会に在籍していますが、貴教会の礼拝に出席して陪餐できますか?

 「陪餐」とは、キリスト教の信仰を持つ者が、聖餐式(ミサ)の中でキリストの体と血であるパンとぶどう酒を受けることです。
 結論として、礼拝の前に牧師にお申し出ください。
 原則は、教派の間で相互陪餐の関係にあるかどうかが問われます。つまり、教派の間で公式に陪餐を認め合っているかどうかが問われると言うことです。
 聖公会は、幾つかの他教派とそのような関係を認め合っています。
 ここからはわたしの個人的見解です。その方の事情によって、例えば旅行先であるとか、ご自身の所属する教派の教会が近くにないとか、他の教派の教会で陪餐を希望する場合が出てきますね。そのような人がイエスを救い主と信仰告白する教会の信徒であり主イエスの養いを得ることを望んでいるのなら、人が陪餐を妨げる理由はないと思うのです。
 他の教会での陪餐には、最低限、自分の所属する教会での正会員、陪餐会員(私たち日本聖公会の呼び方では、堅信受領者)であることが求められます。
 と、言うわけで、この教会の場合でも、他の教会の場合でも、礼拝が始まる前に牧師に礼拝の出席と陪餐の希望をご相談になってください。
posted by 聖ルカ住人 at 16:06| Comment(0) | Q & A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

牧師、神父、司祭などの呼称に違いはありますか?

 私もいろいろに呼ばれています。
 辞書レベルのことは、『広辞苑』のような比較的大きな辞書を引いてください。それぞれ載っていますので、その知識で十分でしょう。
 私は、日本聖公会の司祭ですが、それは誰が認めたのでしょう。教会が認め、教区主教が司祭按手式の中で私に手を置いて(按手して)私は司祭に叙任されました。この叙任によって、私が司祭という職位にあることは生涯変わりません。その司祭である私が今は教会に派遣されて牧師として働いています。私たちの教派(教会)は、北関東教区として一つの体であり、司祭は主教によって具体的宣教の働きのために各地の教会に派遣され牧師として働くわけです。教会は、伝統的に、主教(カトリック教会では司教)、司祭、執事(カトリック教会では助祭)の3世職位制度をとっていますが、その職位に按手されていない働き人もいて、私たちはその人々を総称して「教役者」と言っています。
 ご質問の「司祭」は、教会の一つの「職位」であり、牧師は司祭としての「職務」の一つであると言えます。
 また、「神父」とは、教区司祭と修道司祭の総称のように用いられる言葉で、おもにカトリック教会の司祭の呼称で、聖公会の司祭にはあまり「神父」という呼称を用いません。でも、聖公会のアングロ・カトリック的立場から、「神父」という言葉を用いている人もいます。
 余談になりますが、遠藤周作氏の小説『沈黙』をご存知ですか?
 キリシタン迫害の時代に日本に潜伏した宣教師が転ぶ(棄教する)物語です。あの話の最後の方で、転んでしまった宣教師のところに裏切り者のキチジローがやってきて、赦罪(罪の赦しの祈り)を求めます。転んだ神父が執り成しをして赦罪の宣言をすることは有効?それとも無効?
 答えは深いですね。
 司祭になるための按手が生涯にわたり有効であったら、神父が転ぼうがキリストを裏切ろうが、司祭であることは消えないのであって、キチジローのために祈り宣言された赦罪は有効であると言えます、が、司祭は主教(司教)によって具体的な働きのために派遣されるのであり、司教は棄教者が牧師として勝手に働くことを認めないでしょう。司教が認めていない司祭の祈りは有効でしょうか。その答も深いですね。
 さて、あなたはこの神父の働きを神の愛を具現する働きとして有効であるとお考えですか。それとも教会が認めていない人の業であり無効とお考えですか。
 そうそう、まだ口の回らない稚き子が私のことを「チンプチャン」と呼んでくれました。案外本質を突いているかも。
posted by 聖ルカ住人 at 15:58| Comment(0) | Q & A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

・聖書の内容は全部そのまま信じるべきでしょうか?

 その答えを私から申し上げる前に、あなたにとって「信じる」とはどういうことかを振り返ってください。他の言葉に置き換えると、あなたによって「信じる」はどんな言葉になりますか。
 一般論ではなく、あなたに限っては、「聖書の内容の全てをそのまま信じて良いわけではありません。」と申し上げた方が良さそうです。
 聖書は物理学のテキストではありませんから。また、聖書(ことに旧約聖書)は古い時代から千数百年に及ぶ移り変わりの中でしるされており、その中で思想的にも成長、成熟していく歴史があり、その視点から見れば、その思想に矛盾する箇所も沢山ありますし、時代の中での人の神理解や自己理解も変化していきます。その中のある一部を切り取ってその文言を「信じる」ことは、正しい読み方、信じ方ではありません。
 例えば、聖書(創世記の始めの箇所)の中で、神は六日で天地を創造しますが、これは科学的事実を記しているのではありませんから、そのまま信じることは相応しいとは言えません。この物語を通して聖書は読み手に何を伝えようとしたのかを学ぶと、聖書は真実を伝えていることが理解できるでしょう。
posted by 聖ルカ住人 at 15:43| Comment(0) | Q & A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする