2021年05月29日

21.過越  (πασχα パスカ)

過越  (πασχα パスカ)

イエスが十字架にかけられたのは、イスラエルではちょうど過越祭の時でした。

過越祭(出エジプト12:43-)はユダヤの3大祝祭日(申命記16:1-)の一つですが、その中でも最も重要な祭と言って良いでしょう。

昔、モーセの時代に、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったとき、神はその民を救い出すためにある命令を出しました。

神はエジプトにいる人の長子と家畜の雄の初子を滅ぼすことにするので、イスラエルの民はその時の混乱に乗じてエジプトを脱出しなさいとのこと、ただしイスラエルの民にはその懲らしめを逃れるためのしるしとして各家の柱と鴨居に羊の血を塗っておくようにという指示でした。こうしてイスラエルの民はエジプトから脱出することが出来ました。

後代のイスラエルの民は、神が自分たちの先祖に罰を与えず過ぎ越してくださったことを記念して、「過越の祭」を行うようになりました。この祭りはユダヤ暦ニサンの月(ユダヤの正月)14(太陰暦、春分の日に近い満月の日)に行われます。この日にイエスが十字架にお架かりになりましたので、キリスト教会暦の中ではこの日が聖金曜日になっていきます。

「過越の出来事」は、やがてイエスを救い主と信じる人々によって新しい意味が与えられます。それは、イエスこそ真の過越の小羊であり、神はイエスの血による贖いを信じる者には罰を与えずに過ぎ越してくださる、という理解と信仰です。その意味でも、「過越」はイエスによる贖いを理解する上で大切な出来事であると言えるでしょう。

私たちは聖餐式の中で、「世の罪を除く神の小羊よ」とイエス・キリストへの信仰を表明して歌っています。

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20.権威 (εξουσια  エクスウーシア )

権威 (εξουσια  エクスウーシア 

イエスが行った悪霊追放働きを見て人々は言いました。「権威ある新しい教えだ(マルコ1:27)」。また、イエスが次のように言っています。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう(マルコ2:10)」。

イエスの権威が示されている箇所を2つ挙げてみました。

「権威」という言葉を聞くと、私たちはどこか厳めしい雰囲気を感じるのではないでしょうか。上記の聖句も、イエスにある種の威厳や特権が与えられているかのように感じる人も少なくないことでしょう。でも、この言葉の源語にあたってみると、この「権威」という言葉はそのような意味ではないことが分かります。

この言葉の原語はεξουσια(エクスウーシア)という言葉であり、ex(外へ)とousia(本質)という言葉でできています。つまり、聖書で言う権威とは、「本質が外に現れ出ること」を意味しているのです。

イエスが病人を癒やしたり悪霊を追い出す働きを始めると、人々はそのイエスの姿の中に神の本質(ουσια(ウーシア))が現れ出ているのを見て驚いたのです。このような神の本質の表れこそ神の国の姿に他なりません。

イエスは「地上で罪を赦す権威を持っている(マタイ9:6)」とも言いますが、この言葉も勝手な裁量で人を裁くことを意味するのではなく、神の赦しと恵みに基づいて人の罪を解き放つイエスの姿を言い表していると言えるでしょう。教会はイエスの権威を受け継いでいますが、教会の働きを通して神の愛の本質を世に示していく使命が与えられているということなのです。


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2021年05月27日

19. 天 (ουρανοs ウーラノス) 

天 (ουρανοs ウーラノス) 

 「天」について、もう一度、記します。(13.で一度とりあげました)。聖餐式聖書日課の福音書がマタイによる福音書を中心に採り上げられており、この時期に、この言葉に触れておくことにしました。この言葉は可算名詞で、例えば、主の祈りには、「父よ、我らの、天(複数形)にいる」という語順で「天」が用いられます。

 天は、当時の宇宙観天体観から生まれた言葉なのだと思うのですが、その当時、この世界はドームのような中にあって、天と地を隔てる蓋(あるいは層)があり、天はその外側の神の住まい(申命26:15、マタ5:16など)であり、そこは神の閣議が開かれる(列王上22:19、ヨブ1:6など)場所でした。

 復活したイエスは「天」に昇り神の右に座しており(マタ26:64、使徒7:55など)、「天」とは神のおられる特別な場所を意味していたと考えられます。

 ですから、「天が開ける」という言葉は、天井の神とわたしたちが生きるこの世界との間の隔てがなくなって一つになるという意味であり、聖書はイエス・キリストがまさのその働きをなさったお方であることをと伝えています。

 マタイによる福音書は、「神の国」という言葉を用いず「天の国」と言っていますが、その当時のユダヤ社会で、神への畏敬の念から「神」という言葉をできるだけ用いず、その代わりに「天」を用いたのでしょう。マルコによる福音書やルカによる福音書では「神の国」と表現される言葉をマタイによる福音書は「天の国」と言っています。

 天は、霊的な世界を指す意味が込められており、天蓋は幾つかの層(段階)に分かれていると考えられていました。パウロは「第3の天にまで引き上げられた人(Ⅱコリント12:2)」のことを記しています。

「天」は幾層にも分かれていると考えられたので、この言葉が可算名詞として扱われているのでしょう。

 「主の祈り」の始めの呼びかけの言葉は「諸天におられるわたしたちの父よ」ということであり、意訳すれば「どこにでもいてくださるわたしたちの父よ(いまし給わざる所なき我らの父よ)」ということになるのだと考えられます。

 人は、空を見上げる時、天体の興味関心に留まらず、時空を越えて存在しお働きになる神を思い巡らせ、「天におられる神」に思いを馳せるのです。

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18.ハレルヤ (αλληλουια ハレルヤ)

ハレルヤ (αλληλουια ハレルヤ)

 日本聖公会の聖餐式は、次の言葉を唱和して終わります(参.『祈祷書』p.183)。

執事または司祭 ハレルヤ、主とともに行きましょう

会衆 ハレルヤ、主のみ名によって アーメン

 この「ハレルヤ」という言葉は、聖歌ではない一般の歌の中にも用いられています。この言葉は、旧約(ヘブル語)の「ハッルー・ヤー」をギリシャ語音写したものです。日本語でもその意味を日本語訳せずに、そのまま「ハレルヤ」と言います。日本で生まれた歌の中にも「ハレルヤ」という言葉が用いられています。

 この言葉の意味は、「ヤー(主なる神)を賛美せよ」です。主なる神を誉め称える言葉で、感嘆詞のようにも用いられたようです。

 新約聖書の中でこの言葉が何度用いられていると思いますか?実は、ヨハネの黙示録第1914節の中に僅かに4回用いられるだけなのです。パウロが手紙(ローマ書、コリント書、テサロニケ書など)の中でこの言葉を一度も用いていないことは、チョット不思議な気もします。

こ の言葉は、旧約聖書の詩編によく用いられています。いくつかの詩編で、初めか終わり或いは両方に「ハレルヤ」があります。ことに第113編から第118編は、「ハレルヤ詩編」とも呼ばれ、過ぎ越祭で用いられていたようです。マタイ26:30を見てみると、イエスも最後の晩餐の後に、上記の詩編を弟子たちと歌ったのではないかと考えられます。

 やがて、教会では、典礼や音楽の中でこの言葉が用いるようになります。イエスの降誕や復活を祝う聖歌の中にもこの言葉がたくさん出てきます。心を込めて「ハレルヤ」と賛美できるように、信仰の内実を豊かにしていきたいと思います。

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2021年05月25日

17. ファリサイ派 (Φαρισαιοs ファリサイオス)

ファリサイ派 (Φαρισαιοs ファリサイオス)

 ファリサイ派は、1954年訳の聖書では「パリサイ人(びと)」と訳されていました。ファリサイ派は、新約聖書(ことに福音書)の中でイエスの論敵として、またキリスト教の論的として登場しますので、まるで悪人であるかのような印象を与えがちですが、決してそうではありません。

 ファリサイ派は、どうすれば神の国が実現するのかを熱心に論じかつ実践していた人々で、イエスも彼らと同じイスラエルの民(ユダヤ人)でした。当時の律法遵守の担い手であったファリサイ派から見ると、イエスは神の国を実現しようとする人々を無視してその実現を阻んでいるように見えたのでしょう。

 ファリサイ派は、前2世紀のユダヤ教の敬虔派から生まれたと考えられ、ヘブライ語の「ペルシーム(分けられた者、分離した者)」を語源としています。

 当時、地中海沿岸一帯は、アレキサンダー大王(B.C.356B.C.323)によって征服されたこともあって、ギリシャ・ローマの影響を文化、経済、政治、宗教などの面に受けていました。ファリサイ派はこの「ヘレニズム文化」に対してユダヤ教の律法宗教を堅持する防波堤的な役割を果たしていました。

 イエスの目から見ると、ファリサイ派の律法主義は律法の枠の中にいられない人やはじき出された人に対する優しさに欠け、そこに神の国の実現はあり得ないことだったのでしょう。イエスは神の愛が律法を完成すると考えたのでしょう。

 やがて、イエスによってもたらされた福音を熱心に伝えるようになったパウロもかつてはファリサイ派の一員でした(フィリ38)

 神の愛に基づくイエス・キリストの福音は、ファリサイ派を否定媒介として、世界に伝えられるようになったと言えるでしょう。


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2021年05月24日

16.監督(επισκοποs エピスコポス)

監督(επισκοποs エピスコポス)

 私たちの聖公会を含めて、伝統的な教会は、主教(司教)、司祭、執事(助祭)の三聖職位制をとっています。教会(エクレーシア)を目に見える形で表現するときに必須の要件とは何でしょう。この「歴史的主教制」も、教会が教会であるための大切な要件であると考えられています。聖書の中では、主教(司教)職のことがどのように記されているか見てみましょう。

 その前にクイズです。「聖公会」を英語では何と言うでしょう。The Church of England (訳せば、英国教会)とも言いますが、おもにアメリカではthe Episcopal Church (訳せば監督教会)と言います。このEpiscopalという言葉のもとになるのがεπισκοποs(エピスコポス) というギリシャ語です。

 この言葉は、〔επι:上に,上から〕と、〔σκοποs:見ること、目標〕で成り立っており、「上からみる人」つまり「監督者」という意味になるわけで、監督職(主教)のことは、επισκοπη(エピスコペー) と言います。

 教会が、次第に世界に拡がり組織的になってくると、教会の職務としての監督を指してこの言葉が用いられるようになっていきます。

 確かな聖職位ができてくるのは、2世紀に入ってからのことのようですが、フィリピ1:1,一テモテ3:2,テトス1:7  などには、その萌芽が見られます。

 パウロは、エフェソの人々に涙ながらに説教していますが、その中で「聖霊は、神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者(エピスコポス)に任命なさったのです。」(使徒20:28)と言っています。

 監督(主教)は、霊的指導者として、聖霊が任命しているのですね。野球チームに例えれば、教区が一つのチームであり、教区主教がその監督、教役者と信徒はその監督の下でチーム作りと各自の技術習得に励むことになるでしょう。

 どうぞ、実際にお示しした聖書の箇所を開いて見てください。


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2021年05月23日

15.栄光 (δοξα ドクサ)

栄光 (δοξα ドクサ)

 救い主誕生の時、天の大群は

「いと高きところには栄光、神にあれ

 地には平和、御心に適う人にあれ。」

と歌いました。

 ヘブライ人への手紙の中でイエス・キリストは神の栄光を映し出している(1:3)と言い、ヨハネによる福音書ではイエス・キリストの内に神の栄光が現れ出ており、私たちはこのイエスを通して「神の栄光を見た」(1:14)と言います。

 もともと、この言葉は「思い、考え」という意味を持つ言葉であったようです。ですから、良い意見や評価という意味から、賛美、誉れ、輝き、栄華、壮麗、威厳、尊厳などの意味を含み、キリスト教の脈絡の中で「イエス・キリストの卓越した姿」や「キリスト再臨後に、救い主を信じる人々に与えられる輝かしい祝福の状態」なども意味して用いられるようになったようです。

 この栄光(ドクサ)という言葉が用いられている興味深い箇所をひとつ挙げてみますので、是非、実際に聖書を開いて確かめてみてください。

 ヨハネによる福音書9:24にイエスに癒やされた盲人が、ユダヤ人から詰問されている場面があります。ユダヤ人たちはこのかつて目が見えなかった人に「神の前に正直に答えなさい。」と迫りますが、この箇所は直訳すれば「神に栄光を与えなさい」なのです。

 聖書の世界に生きる人にとって、行われるべきことが正しく行われていること、人の思いや考えが神のみ心に適うことは神に栄光が帰されることなのですね。

 冒頭に記したイエス・キリスト誕生の時の天使の歌は、聖餐式中の、「大栄光の歌」の中にも「いと高きところには神に栄光」という言葉で用いられていることはご存知のとおりです。

 「神さまが神さまとしてほめたたえられますように。あなたはそのように栄光を帰せられるべきお方です。」という信仰告白の思いで歌って(唱えて)礼拝を始めていくのです。

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2021年05月22日

14. 平和 (ειληνη エイレーネー)

平和 (ειληνη エイレーネー)

 日本に生きる私たちにとって、「平和」について思い巡らせることには特別な意味があるように思います。

 国語辞典によれば、「平和」とは、「①争いがなく、おだやかなこと。②安らかなこと。」(『新解国語辞典』小学館)と記されています。

 聖書で使われる「平和」にもそのような意味が含まれているかもしれませんが、「平和」とは、第一義的には、「神との関係が十分である、神殿関係に欠けるところがない」ということです。つまり、神と私たちとの関係が少しも損なわれることなく十分であり満たされていることが聖書で言う「平和」の内実です。  

 主イエスが生まれた時、天の大群は「神に栄光、地には平和、人には恵みあれ(ルカ2:14)」と歌いました。また、甦ったイエスは、恐れおののく弟子たちに手と脇腹を示して「あなたがたに平和があるように(ヨハネ20:19,21)」と言われました。イエスの誕生により神と人々がつながり、イエスの死と復活によって神と人のつながりが人への赦しと共に宣言されたとき、この「平和」という言葉が用いられています。

 ですから、武力の拮抗によりお互いに攻撃しないでいる状況は、争いがないように見えても、それは「平和」にはほど遠いことなのでしょう。

 イエスは次のように言いました。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ59)

 平和の尊さ、重さ、素晴らしさ、それに現代の平和の危うさをしっかり心にとめて、神の御心が行われる世界の実現のために祈り働くことへと導かれましょう。


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2021年05月21日

13. 天 (ουρανοs ウーラノス)

天( ουρανοs  ウーラノス)

 七夕の頃やキリッと冷えて冴え渡る冬の夜など、 季節によって、「天」や「空」について思い巡らせることも多いかと思います。

 今回は「天」について記します。

 実は、この天(ουρανοs ウーラノス)という言葉は、可算名詞であり、「主の祈り」のはじめの「天におられるわたしたち父よ」の「天」も複数形なのです。ヘブライ語(旧約)も例えば詩編第19編1節は、『聖書(1955年訳日本聖書協会)』では「もろもろの天は神の栄光をあらわし」と訳されています。

 現代に生きる人たちと聖書の時代の人たちの「宇宙観」「天体への意識」は、ずいぶん違っていたことが想像されます。

 天空は鳥が飛ぶ空間(1:20)であり、この世界を覆う幾層かの蓋のような天井の上は水をたたえており(1:6)、窓のような所から雨が降ってくる(7:11)と考えられていました。また、天は神の住まい(26:15、詩11:4、マタ5:16)であり、神の会議が開かれる場(王上22:19、ヨブ1:6))でもあります。

 復活のキリストは「天に昇り」神の右の座(使7:55、エフェ1:20、マタ26:64)に着いています。ユダヤ人は「神」という言葉を濫用しないように、「神」に代えて「天」を用いています。

 「天」は特定の場を意味するのではなく、神の居られる姿を意味しているということも出来るでしょう。

 パウロは「わたしたちの本国は天にある」(フィリ3:20)と言い、私たちは天からこの世に遣わされた旅人であると考えました。私たちも、天に国籍があります。それに相応しく生きる者でありたいと思います

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2021年05月20日

12.キリスト者 (χριστιανοs クリスティアノス )

キリスト者 (χριστιανοs  クリスティアノス

 はじめに、聖書のキーワード「キリスト」の復習です。

 ヘブライ語のメシア(マーシーアハ)は「油注がれた者」という意味で、メシアのギリシャ語訳はクリストス(キリスト)です。

「油注がれた者」は、神が世を救うために遣わされた救世主を意味し、旧約聖書の中では、祭司(レビ4:5)、王(サム上12:3など)の聖別の時に油注ぎの儀式が行われました。

 やがて、新約聖書では、イエス・キリストが唯一の救い主であるという信仰を言い表すために、このキリストという言葉をイエスに限って用いました。

 クリスティアノス(キリスト者)が、このクリストス(救い主)に由来する言葉であることは言うまでもありませんが、初めのうちこの言葉は、やや侮辱的な意味を込めて用いられました。

 聖書の中で「クリスティアノス」は3度出てきます。その一つ使徒11:26で、「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」と記されています。当時、おそらく「ああ、あのクリスチアノスの奴のことネ。」というように、この言葉が用いられ手板のではないでしょうか。他の箇所では、使徒26:28、Ⅰペトロ4:16にこの言葉が使われています。

 やがて2世紀になると、イグナティウスなど、聖書より後代のいわゆる教父たちの文書の中で、この「クリスティアノス」は名誉ある名として用いられるようになっていきます。

 「あなたはクリスチャンですか?」と尋ねられたら、誇りを持って「はい」と答えられるよう、クリスチャンとしての自分を育てていきたいと思います。


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