もてなし (φιλοξενια フィロクセニア)
聖書の世界で、旅人をもてなすことはごく当たり前に行われるべき大切な事でした。
新約聖書の中ではφιλοξενιαという言葉が「もてなし」と訳されていますが、この言葉はφιλεω:(愛する、親しむ、好む)とξενοs:(よそ者、客)とからなる言葉で、「旅人を大切にする」、「見知らぬ人を歓待する」というような意味が語源になっています。
ちなみに、フィロソフィという言葉は「哲学」と訳されますがφιλεωとσοφια:(ソフィア 知恵、学問)が合体した言葉です。
アブラハムが3人旅人(実は神の使い)を迎えてもてなした話(創18:1-)、ヨブが旅人を拒む罪を犯していないと主張する言葉(ヨブ31:32)などを見ると、その時代の「もてなし」の大切さが伝わってきます。
また、新約思想の中でも、主イエスが弟子たちを派遣するときには派遣される者がそれぞれの地で歓待されることを前提にしておられる様子が分かりますし(マタ10:5、ルカ10:1-)、終わりの時の審判においても、旅人のもてなしをしたかしなかったかが判断の要素になっています。自分を正しいと思い上がる者は、小さく貧しい人の中にいるキリストに目を向けず、「いつ、私たちは、あなたが見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸さなかったことなどあるでしょう(マタ25:42)」と言い訳をする者であることが指摘されています。
使徒たちも「もてなし」をするように勧めます。例えば、パウロは、「聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすよう努めなさい(ロマ12:13)。」と教えていますし、監督として「冷静でいて慎みがあり、上品で、客を手厚くもてなし、よく教えることができなければなりません(Ⅰテモテ3:2)」と教えています。
また、一説によると、ローマの時代には商売としての宿も多くあったようですが、経営者の多くは無法者であり風紀も悪く、キリスト者は旅するときに互いに信徒の家に泊めるように配慮されていたということです。
いずれにしても、「もてなし」の背後には、見知らぬ場所を旅する人が不安や寂しさに困ることがないように配慮し合う素晴らしい思想があったのです。