2021年06月11日

31.もてなし (φιλοξενια  フィロクセニア )

もてなし (φιλοξενια  フィロクセニア)


 聖書の世界で、旅人をもてなすことはごく当たり前に行われるべき大切な事でした。

 新約聖書の中ではφιλοξενιαという言葉が「もてなし」と訳されていますが、この言葉はφιλεω:(愛する、親しむ、好む)とξενοs:(よそ者、客)とからなる言葉で、「旅人を大切にする」、「見知らぬ人を歓待する」というような意味が語源になっています。

 ちなみに、フィロソフィという言葉は「哲学」と訳されますがφιλεωとσοφια:(ソフィア 知恵、学問)が合体した言葉です。

 アブラハムが3人旅人(実は神の使い)を迎えてもてなした話(創18:1-)、ヨブが旅人を拒む罪を犯していないと主張する言葉(ヨブ31:32)などを見ると、その時代の「もてなし」の大切さが伝わってきます。

 また、新約思想の中でも、主イエスが弟子たちを派遣するときには派遣される者がそれぞれの地で歓待されることを前提にしておられる様子が分かりますし(マタ10:5、ルカ10:1-)、終わりの時の審判においても、旅人のもてなしをしたかしなかったかが判断の要素になっています。自分を正しいと思い上がる者は、小さく貧しい人の中にいるキリストに目を向けず、「いつ、私たちは、あなたが見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸さなかったことなどあるでしょう(マタ25:42)」と言い訳をする者であることが指摘されています。

 使徒たちも「もてなし」をするように勧めます。例えば、パウロは、「聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすよう努めなさい(ロマ12:13)。」と教えていますし、監督として「冷静でいて慎みがあり、上品で、客を手厚くもてなし、よく教えることができなければなりません(Ⅰテモテ3:2)」と教えています。

 また、一説によると、ローマの時代には商売としての宿も多くあったようですが、経営者の多くは無法者であり風紀も悪く、キリスト者は旅するときに互いに信徒の家に泊めるように配慮されていたということです。

 いずれにしても、「もてなし」の背後には、見知らぬ場所を旅する人が不安や寂しさに困ることがないように配慮し合う素晴らしい思想があったのです。

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2021年06月08日

30.没薬 (σμυρνα スミュルナ)

没薬(σμυρνα スミュルナ)

 この言葉を「聖書のキーワード」として扱うのに相応しいかと迷いながらも、クリスマスを迎えるに当たり、また、主イエスの十字架の死をどのように受け止めるかを考えるためにも、取り上げることにしました。

 当時ギリシャ語を用いていた人々にとって、この σμυρνα はセム系の外来語であったとのこと。しかも、新約聖書の中には2回(マタ2:11,ヨハ19:39)とその変化系が1回(マコ15:23)用いられるだけなのです。英語ではmyrrhという語ですが、聖書のこの箇所以外にこの語が用いられる例は(私の調べた限りでは)見当たりません。

 「没薬」は、お生まれになった救い主イエスに占星術の学者たちが捧げた3つの宝物のうちの一つです。

 没薬は、ミルラの木から採取した香気ある樹脂で、当時は貴重な香料でありまた薬でした。防腐剤としても珍重され、ミイラをつくるときにも用いられていたようです。

 上にも触れましたが、「没薬」は救い主の誕生を知った占星術の学者たちが幼子を捜し当てて捧げた3つの宝物の内の一つとして出てきます。この場面で「没薬」が捧げられていることには、イエスがどのような意味での救い主となるのかを象徴していると考えられます。

 それを示すのが、この言葉が用いられているもう一箇所の場面です。

 十字架で死んだイエスの遺体を降ろして墓に納めることを許されたアリマタヤのヨセフのところにニコデモがやって来ます。ニコデモはユダヤ議会の議員でしたが、「没薬と沈香を混ぜた物」を100リトラ(約32㎏)ほど持って来ました。この油をイエスの遺体に塗って布を巻くためでした。このような働きをする「没薬」が救い主イエス誕生の献げ物であったことを考えれば、その意味することは容易に想像できるでしょう

 イエス・キリストは、軍事力や経済力によってこの世を転覆させて政治的独立を回復する救い主ではなく、人々の罪を負い贖いのために十字架にお架かりになり、すべての人が神の御心につながって新しい世界に生きるように愛の扉を開いた救い主であることを、没薬は示しているのです。


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2021年06月07日

29. 永遠 (αιων アイオーン)

永遠 (αιων アイオーン)

 愛恩幼稚園の「創立100周年感謝の集い」から1年が経ちましたが、広田勝一主教はあの日のご挨拶の中で、「愛恩」という名は聖書にも出てくる永遠という意味の「アイオーン」という言葉を連想させ、幼子を育む幼稚園の働きがこれからも永遠に続いていきますように、とお話しくださいました。

 ギリシャ語でアイオーンという言葉があり、聖書の中でその多くの箇所が「永遠」と訳されています。

 聖書の世界では、ただ神だけが永遠の始めから終わりまで存在するお方であり、私たち人間も含めてこの世のものはみな神によって創造された限りある存在(被造物)です。「永遠」とは、始めも終わりもない神、またその独り子であるキリスト・イエスに対して用いられるようになります。

 被造物は限りある存在であり、時間的な長さの中のほんの僅かな部分にのみ存在することになります。しかし、私たちはただそのような時間軸の中のほんの僅かな部分に位置づけられるだけの存在ではありません。私たちは、永遠なる神との関わりに於いてしっかりと位置づけられ意味づけられて、自分の存在を確かにすることができると言えます。

 イエスは、ヨハネによる福音書第17章3節で神に祈りながら「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と言っています。

 被造物である人間が神の御心から離れてしまうことを「罪」と呼んだことはかつてこのコーナーで取り上げました。そのことと対比して考えてみると、「罪」とはその永遠なるお方から離れることでありそれは「死」につながります。自分の力では「罪」と「死」から逃れられない私たち人間に、神はイエス・キリストを通して永遠の命を与えてくださいました。

 ヨハネによる福音書3章16節は「福音の要約」と呼ばれていますが、その中にも「永遠の命」という言葉が出てきます。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 「永遠」とは、単なるエンドレスを意味するのではなく、時間的、空間的状況によって決して動かされたり変質したりすることのない真理を表現しているのでしょう。その真理とはイエスを通して示された神の「無限の愛」のことです。

 イエスは次のように言っています。

 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(ヨハネ5:24)。」

            (水戸聖ステパノ教会月報『草苑』2019年11月号所収)

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2021年06月05日

28. 弱さ(ασθενηs アステネース )

弱さ(ασθενηs アステネース )

 この言葉そのものには特別な神学的な意味が含まれているわけではありませんが、パウロはこの「弱さ」について、様々に思い巡らせています。回心する前のパウロはファリサイ派の一員であり、戒律を守ることにつてについてはかなり厳格で、強い人でした。そのパウロには、「身にひとつのとげ(Ⅱコリ12:8)」が与えられていました。その「とげ」とはパウロには何かの病があったことを意味していると考えられています。

 興味深いことに、このασθενηs「弱さ」という言葉には「病気」という意味が含まれています。当時、病むことは、その病をもたらす霊の働きによって精神や身体が弱くされることだと考えられたのではないでしょうか。聖書の時代、病は悪霊の仕業であり、悪霊に取り憑かれていることと考えられていました。

 そこで、病の治療はその悪霊よりもっと強い名によってその霊を放逐するになります(参マルコ1:23-)。その人に取り憑いている悪霊よりもっと強い霊(或いは強い霊を操ることのできる人)の名によってその悪霊を追い出すのです。

 パウロには、病があり、「サタンから送られたこの使いから離れさせてくださるよう三度主に願った(Ⅱコリ12:8)」と言っています。自分にそのような「弱さ」の徴である「病」があるということは、パウロにとって、信仰の上でも耐えがたい苦しみであり、強くありたい者としては受け容れ難い屈辱であったに違いありません。

 パウロは自分の体のとげ(病)が取り除かれるように神に祈り、やがて神から「わたしの恵みはあなたに十分である(Ⅱコリ12:9)。」とのお告げを受けます。そして、パウロは「弱さ」は神の恵みが働く通路であることを悟り、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と言い、「わたしは弱いときにこそ強い(Ⅱコリ12:12)」とまで言うように変えられるのです。

 自分を受け入れ、自分の弱さを通して働いてくださる神を受け入れているパウロをここに見ることができます。強さを誇っていては自分を通して働いてくださる神の恵みに気付くことができなくなります。神は私たちの「弱さ」を恵みに変えてくださるのです。「弱さ」は悪いことや恥ずべきことではなく、神の恵みがもたらされる大切な通路になります。その意味でも「弱さ」は神に思いを向ける上での大切な言葉です。


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2021年06月04日

27.名前 ( ονομα オノマ )

名前( ονομα オノマ )

 仮に、私たちが誰かに心を惹かれたとき、その人の名前を知りたくなるのではないでしょうか。

 聖書の時代にも「名」には特別な意味がありました。

 ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒2:38)」と言いました。イエスの名によって洗礼を受けるということは、イエスを信じてその力を受け、その支配下に移されるということです。

 昔、大学の論理学の授業で「良い概念とは外延と内包が明確であること」と習いました。良い概念とはその言葉の示す内容と範囲がはっきりしている、ということです。

 では、主なる神は何と名付けられるでしょう。出エジプト記で、モーセは自分を召し出したお方の名を尋ねますが、神は「わたしはある。わたしはあるという者だ。(出エジ3:14)」とお答えになりました。神は範囲も内容も定められるお方ではないのです。ですから、「確かに存在し私たちに関わってこられるお方」としか名付けようがないのです。

 その神が人の目に見えるお姿をとってこの世に来られ、「わたしはある」ということの本質的な意味を示してくださいました。それがイエス・キリストです。

 聖書の時代の魔術師は、有能な人間や神々の名を用いて魔術や逐霊を行っていましたが、その名の持つ力を利用しようとしたのでしょう。イエスの名もそのように利用されたことがあったようです。

 私たちもイエス・キリストの名によって祈りますが、私たちがなぜそうするのか、次のように考えてみると分かり易いかもしれません。

 学校での授業中にT先生が「Aさん、職員室に行ってチョークを取ってきてください。」と言ったとしましょう。Aさんは授業時間中にもかかわらず廊下を歩き職員室に入って、そのT先生の名によってチョークを受けとって教室に戻ることができました。では、AさんはAさんの名で授業中に教室を出て自分がチョークを欲しいからと申し出てチョークを受けとることはできるでしょうか。きっとできません

 私たちは祈るとき、イエスの名によって、その御父である神に祈ります。イエスの名の故にその祈りを聞き入れられるのです。

 十戒の第3戒で、神の名をみだりに唱えることを禁じているのも、名が人格を表し実在を示しているからであり、名を汚さないように戒めているのです。

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2021年06月03日

26. 「安心しなさい」( θαρσειτε タルセイテ)

「安心しなさい」( θαρσειτε タルセイテ) 


 ガリラヤ湖で逆風に行き悩む弟子たちのところに近づいたイエスを見て、弟子たちはそのイエスを幽霊だと思って叫び声をあげました。イエスはその弟子たちに次のように言いました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。(マルコ6:50)

 この「安心しなさい」が、今回のテーマの言葉です。

 実は、この θαρσειτε(タルセイテ) は、違う箇所では他の言葉に訳されています。それぞれの場面を思い描きつつ、相応しい言葉に訳そうとしたのではないでしょうか。

 ヨハネ16:33に、主イエスの「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に買っている。」という箇所があり、その下線部がθαρσειτε(タルセイテ)です。同じ原語がこちらでは「勇気を出しなさい。」と訳されています。この箇所はイエスが十字架に賭けられる前夜、弟子たちに与えた告別の言葉の部分であり、この言葉はいわばイエスの遺言です。その言葉の中で「勇気を出しなさい」と言っておられます。

 使徒言行録23:11では、主がこの言葉でパウロを励ましておられます。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証ししなければならない」。ただしこの場面では、この命令を受けているのはパウロひとりであり、同じ言葉の命令形単数の θαρσει という言葉が用いられています。

 θαρσειτε(タルセイテ) は、θαρρεω(自信を持つ、安心する、はばからないなどの意味の動詞)の命令形複数です。

 この言葉は、他の場面にも用いられていますが、上記の3箇所を見れば、この言葉が重要な場面で用いられていることが分かるでしょう。

 このような言葉は、後代の信仰継承者たちに伝えられ、そのグループの合言葉のようになっていきました。

 キリスト者が、あの場面での弟子たちやパウロと同じような状況に立たされた時に、このθαρσειτε(タルセイテ) という言葉を思い起こし、或いはその場に働く主からこのみ言葉を与えられて、その場の危険や困難を乗りこえていく力にすることができたのです。

 聖書の言葉を深く思い巡らせる人は、聖書の言葉に深く生かされるのです。

 1954年日本聖書協会訳の聖書では「元気を出しなさい」とも訳されていました。

 あなたがガリラヤ湖で行き悩む舟に乗っている一人である場面を思い、また、イエスとの別れを直前にした緊迫感の中にいる自分を思い、この言葉を与えられる自分を想像してみてください。θαρσειτε(タルセイテ) は、どんな日本語に訳すのが相応しいでしょうか。

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2021年06月02日

25.会堂  (συναγωγη シュナゴーゲー )

会堂  ( συναγωγη シュナゴーゲー)

シナゴーグという言葉を聞いたことがありますか。ユダヤ教の会堂を意味する言葉です。 〔συν〕は、共に、合わせる、などの意味の接頭語で、〔αγω〕は行く、持ってくるなどの意味で、この二つの言葉を合わせて「会堂 シナゴーグ」という言葉になります。つまり、「さあ、一緒に行きましょう!」という場所がシナゴーグ(会堂)です。

 イスラエルの地に限らず、国を占領されて世界各地に散っていったユダヤ人は、その先々で会堂(シナゴーグ)を作りました。この会堂は、土地を失ったイスラエル民が、礼拝、律法教育、社会生活をする中心としての働きをし、ユダヤ人の生活をつくる上での基地として重要な役割を果たしました。

 エルサレム神殿はおもに祭儀を行う場でしたが、会堂(シナゴーグ)は律法教育を重視しました。

 イエスもおそらくはナザレの会堂で学びましたし、安息日にはカファルナウなどにあるガリラヤ地方の会堂で教えを説いておられます。

キリスト教も初期段階では世界各地に散った会堂での礼拝、祈りや教えによって成長した一面がありますが、やがてユダヤ教とキリスト教とは異なるという認識が進み、ユダヤ人たちからキリスト教は異端であるとみなされ、キリスト教徒は会堂から追放されてしまいます。キリスト者の群れは、キリスト教が容認されローマの国教になるまで、個人の家などで集会をすることになります。

  キリスト教の聖書朗読、祈り、説教などの形式は、ユダヤ教の会堂での礼拝の形式を引き継いでいる一面があります。


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24. 賜物(χαρισμα カリスマ )

賜物 (χαρισμα カリスマ )

たとえば「カリスマシェフ」、「カリスマ美容師」などと、近年、この「カリスマ」という言葉を耳にすることが増えました。

 かつてある社会学者はリーダーシップの在り方を3つに分類し、その一つを「カリスマ的支配」と言いました。

 カリスマは、神の賜物であれば、ある意味超人的です。英雄とされる人や預言者などにはそのカリスマ性が見られます。この資質を持つリーダーとそれに従う人々の間にできる関係は、時に冷静さを欠き、常識では考えられない次元での行動に走る事例も見られます。先に挙げた社会学者はその例としてイタリアのムッソリーニを挙げています。そのリーダーの雄弁と常識を越えた言動が魅力的であると、そこにいつの間にかカリスマ的支配とそれに従属する者や熱狂的に支持する者が相乗的な働きをして暴走しはじめるのです。

 χαρισμα(カリスマ)を手許の新約聖書ギリシャ語辞典でみてみると、「神の(恵みの、恩恵の)賜物、(特に霊的)賜物」と記されていました。言葉の限りでは特別な思い入れのある神学用語ではなさそうです。

 聖書の中でこの言葉が使われている箇所を拾ってみると、パウロがこの言葉を頻繁に用いていることが分かります。

 例えば、ロマ12:6で、私たちはそれぞれ異なった賜物を持っておりその賜物を用いてキリストに結ばれた一つの体をつくる、と言っています。また、Ⅰコリント12:4以下ではロマ12章で述べていることと同じ考えを更に具体的に語り、各自の賜物の集まりが一つの体を構成することにたとえ、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は数は多くても、体は一つであるように・・・」とそれぞれの賜物を生かし合うことを勧め、「あなたがたはもっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。(12:30)」と結んでいます。このような箇所を見てみると、パウロはカリスマを必ずしも特別に秀でた才能と考えていたのではなく、それぞれの人が神からいただいたその人として生きている力のことを言っているように思えます。

 私たちにはどのようなカリスマが与えられているでしょう。祈ること、歌うこと、笑うこと、話すことも大切なカリスマ(賜物)であり、この賜物を生かし合う時、そこには私たちの思いを超えた聖霊の働きがあり、それによって自分たちの力以上の祝福が与えられるのでしょう。


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2021年05月31日

23.信仰 (πιστιs ピスティス)

信仰 (πιστιs ピスティス)

 『聖書辞典-小型版-新共同訳』(キリスト新聞社 監修・木田献一、和田幹男)によると、「信仰」という訳語は旧約では7回(うち詩編に5回12:2,31:24など、イザヤ26:2、ハバ2:4)だけ用いられる一方、新約には263回用いられているそうです。特に新約では、イエス・キリストを救い主とする信仰に関連して用いられています。

 神と人の関係理解は、神によってイエスがこの世に救い主(キリスト)として与えられたことによって、人は律法を守ることによって救われるのではなく、イエスを救い主(キリスト)であると信じてその告白する者を救ってくださるという関係に、つまり「信仰」へと移行したのです。

 旧約時代の「信仰」とは、人々が神に対して信頼と服従をすることによって神に導きを任せることを意味しました(出エジ19:5)。

 新約においては、神がイエスによってご自身を示してくださったことを信じ、イエスを通して示された愛に生かされて日々新しくされること(ロマ6:11)に「信仰」の重心がかかっています。私たちはイエスを通して完全な愛を経験し、その愛の経験にすべての人があずかることができるように祈り、人々に関わることができるようになるという行動的な一面もこの「信仰」という言葉には含まれているのです。

 「信仰」とは、主なる神さまに対する私たちの在り方のことであり、神の愛を受け容れること、応答することのすべてを神に信頼して委ねることであると言えるでしょう。

 私の神学生時代に、「信仰とはボートを漕ぐようなもの」と表現した先生がおられました。人間にはこれまでのことは分かるけど、私たちはそれに基づいて見えない方にオールを漕いでいくように生きていきます。これから先のことは結果を神に委ねるしかないのであり、「これが神の御心だ」と信じる方向に最善を尽くすことが神を信じる者の生き方である、とのことです。信仰とは神について全てを理解して納得したので信じますということではありません。

 あなたは神を信じますか?

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22.記念 (αναμνησιs アナムネーシス)

記念(αναμνησιs アナムネーシス


 イエスは、最後の晩餐の中で、次のように言いました。

 「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい(ルカ22:19)」。この言葉は、Ⅰコリント11:24,25でも紹介されています。

 この「記念」とは、「ανα(再び)」と「μναω(思い出す)」が合成されて、「思い起こす」という意味ですが、ただ「昔、そんなこともあったなー!」と思い浮かべる意味ではなく、「私のことを、愛情を込めて思い起こし」と訳せるほどに強い意味を含んでいます。あるいは、「まさに今この時に、あの時のことが再現されている」ことが「記念」ということだと言えるでしょう。

 主イエスは、「記念の礼拝」である聖餐式を残してくださいました。上記の聖句はその制定の言葉です。私たちは、毎主日の聖餐式で、単に二千年前のイエスを思い起こして忘れないようにするのではなく、まさに今ここで、十字架にお架かりになる前の晩に行われたあの出来事を、再現しているのです。

 私は、このことをもっと実感をもって理解するためにはどんな例で説明できるかと考えました。思いついたのは、心理的な「フラッシュバック」のことでした。

 「フラッシュバック」とは、映画や小説などで、物語の進行中に過去の出来事を挿入して、その過去と今をつなぎ、回想を表現する手法のことで、心理的な「フラッシュバック」とは過去のある出来事が心に深い傷となって残り、「あの時」の出来事が「今ここで」の自分に強い影響を与えてしまうことを言います。この「フラッシュバック」は好ましいこととは言えませんが、このようなことが人を生かす素晴らしい出来事として「今ここで」再現することを想像してみてください。

 「記念」とは、それに似て、主イエスの残してくださった感謝の礼拝によって、今の自分が現臨するイエスと交わり、そのイエスによって生かされることを意味すると言えるでしょう。

 さあ、「記念の礼拝」によって復活の主イエスとの交わりを与えられ、その喜びと力とを主イエスからいただきましょう。


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