2021年06月20日

41.御心 (θελημα セレーマ )

御心 (θελημα セレーマ )


 「主の祈り」の中に「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」というフレーズがあります。その「みこころ」が θελημαセレーマ(テレーマ)です。聖書ではマタイ6:10の箇所で「新共同訳」も「共通訳」も漢字で「御心」と訳しています。 θελω (志す)の名詞形がこの「θελημα御心」です。聖書では漢字、祈祷書ではひらがなが用いられていますが、その違いについては、ここでは詮索しないでおきましょう

 「御心」とは神の意志を意味します。英語では will にあたるでしょうか。

 神は天地を創造しこれを「良し」とされました。神はそのお働きの6日目に人を神の似姿にお造りになりましたが、「見よ、それは極めて良かった。(創世1:31)」と記されています。この「良し」とされた姿が回復されるように、また、私たちの生きる世界に神の意志が現れ出るようにという思い(祈り)が、「主の祈り」の「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という言葉に込められているように思います。

 この θελημα という言葉は、他の箇所では「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。(ヨハネ5:30)」や「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。(マルコ3:35)」の下線部のように神の御心の意味で用いられています。

その一方、この言葉は人間の意志や欲という意味で、例えば「この人々は、血によってではなく、肉のによってではなく、人のによってでもなく、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:13)。」のようにも用いられています。

私たちは自分を殺して御心に絶対的服従するのではなく、自分の意思(θελημα)により自覚的に神の御心(θελημα)に応答しながら生きる者です。神の似姿に造られた人間には意思があります。が、この人間の意思は時に御心を離れて「自分さえ良ければ・・」という世界に人を誘います。そこに罪が生じます。

パウロはこの罪について高い意識を持つ人でした。回心する前のパウロは、律法に自分を服従させることが御心であると考えていましたが、イエスを通して示された愛こそ神の御心であり、このイエスを救い主と信じて受け入れ、この愛に生かされることこそ御心に応答する生き方であると悟ります。パウロは「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ロマ12:2)」と言いますが、この言葉も「イエスこそ罪人である私を救い出してくださった」という感謝に裏打ちされているのです。

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2021年06月19日

40.失う( απολλυμι アポッリューミ )

失う( απολλυμι アポッリューミ 

 ルカによる福音書第15章には、「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」と3つの例えが並んでいます。これらの例え話の中で、イエスは幾度もこのαπολλυμι という言葉を用いています。でも、それらがみな「失う」と訳されているわけではありません。

 ルカ15章の中でこの言葉が用いられている箇所を示します。その箇所は、4節(2カ所)、6節、8節、9節、17節、24節、32節です。どのような文脈でこの απολλυμι という言葉が用いられているのか確かめてください。

 この言葉は、απο(全く)とολλυμι(滅ぼす)から成り立っており、全く無きものとする、滅ぼす、殺す、救いを失わせる等の意味で用いられ、ルカ15章に限らず多くの場面で用いられています。

 ルカ15章でこの言葉がどのように用いられているかを調べてみると、イエスはこの言葉を単に「無くしてしまう」、「姿が見えなくなる」という意味ではなく、「本来存在するはずであるにもかかわらず、その存在が脅かされて滅びへと向かう」、という意味を込めて用いていることが見えてきます。

 「放蕩息子」の例えの中では、放蕩で落ちぶれた息子が17節で「飢え死しそうだ」と言っていますが、この「飢え死に」も原語はαπολλυμιであり、単に体のことを言っているのではなく、人間として存在する自分が失われてしまうという意味で用いられていることが推測できます。また、他の2カ所(24,32節)ではどちらも「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、見つけられて主の許に戻ることは死から命に移されることであり、それは天の喜びになるのです。この「見つけた喜び」が「失う」の対極にあることです。

 ルカ第15章の3つの例え話の中で、主イエスご自身がこのαπολλυμι(失う)という言葉を用いていることは、失われた命を回復し、すべての人が神の祝福の中に生かされることを願ってお働きになった主イエスの姿につながるのです。

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2021年06月18日

39.契約 ( διαθηκη ディアセーケー )

契約 ( διαθηκη ディアセーケー )

 「契約」とは、神と人、また人と人の厳粛な「取り決め」あり、原語のδιαθηκηには協定、遺言、契約などを「置く、整理する」という意味があるようです。

 キリスト教は、ユダヤ教の流れからイスラエルに生まれました。イスラエルの神と民との関係が「契約」関係であったように、私たちが三位一体の神を「神」とするのは「契約」に基づいています。

 旧約聖書では、神はシナイ山でモーセと契約を結んでいます。それ以前にも神はノア(創6:18,9:9)やアブラハム(創15:18、17:2)との間に契約を結んでいます。それだけ、神に対する人間の側からの応答ということが大切な事なのでしょう。

 契約の内容は「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。(出エジ20:1-17)」ということです。

 神は取るに足りないイスラエルの民を選び、その民をご自分の民となさいました。これは神と民との相互契約ではなく、神が主権を執りながらも、イスラエルの民にこの神に従う選択の権利を与え、神は選んだ民にその権利を選び取ることを求める契約です。

 イスラエルの民はこれに応えて、神の民となることを誓い、神との間に契約を結びました。神の意志を現わしていくための契約の徴として「律法」が制定され、この律法を遵守することで契約は保たれ、民は神に受け入れられる(救いを得る)ことになります。

 多くの預言者は、この契約に不忠実な指導者たちを糾弾し、エレミヤは文字でく心に刻むべき新しい契約(エレ31:31)を待望しました。

 しかし、イスラエルは正しく律法を守ることによって契約を履行することが出来ず、神はイエス・キリストを通して決定的な契約を立ててくださいました。

 その契約とは、イエスの血によって罪が贖われるという内容であり、これを信じて受け容れる者は誰でも義とされ神の子とされる恵みの契約(ルカ22:20,1コリ11:25))であり、モーセの時に結ばれた古い契約(旧約)に対して、イエス・キリストによる新しい契約(新約)になるのです。

 この契約を提示された私たちは、これに応じて契約を結ぶこと、つまりイエスを救い主であると信じて受け入れてその契約のしるしとなる洗礼を受けることによって、この契約手続きが完了することになります。

 その契約の保証、賜物として、私たちは聖霊(使徒1:4、2:14)を与えられるのです。

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2021年06月17日

38.執り成し (εντευξιs  エンテウクシス)

執り成し (εντευξιs(エンテウクシス) エンテウクシス)

 元来「出会う」というような意味のあるτυγχανωの前に接頭語のενがあって、英語で言えばエンカウンターのような意味をもち、「誰かについての意見を求めるために会う」、「誰かのために祈り執り成す」というような意味を持つのが、このεντευξιsエンテウクシスという言葉です。名詞形ではⅠテモテ2:1、同4:5のみで使われており、テモテに宛てて書かれた手紙の中で他者のために執り成しの祈りを献げることの大切さが見られます。ちなみに動詞は「εντυγχανω υπερ ○○」 とう使い方で、「○○のために執り成す」という用い方をしています。

 上記のように、執り成しとは、信仰の弱い者や罪のある者のために力ある者に対して懇願することや祈ることを意味しています。

 旧約の人物の中でも、アブラハムはソドムの町のために(創18:23-)、モーセは頑ななイスラエルの民のために(出エジ32:31-)、サムエルは国の民のために(サム上7:8-)、真剣に執り成していますがまだまだ他にも執り成しの箇所を挙げることはできます。

 イエスはご自分に従う弟子たちのために神に向かって祈っていますが、ことにヨハネ17:1-では父なる神と人々の間で仲介者となり執り成し主として祈られました。また、イエスはイエスを十字架につけようとする者のために十字架から執り成しの祈りを献げました。そして天にあるキリストは、今もキリストを信じて生きる者のためにいつも執り成していてくださいます(ロマ8:34)。

 これに基づいて私たちも執り成しの祈りを神に献げ、(執り成しに限らず)その祈りを「イエス・キリストのみ名によって祈ります。」と結びます。ヨハネによる福音書では祈るイエスとイエスを信じて祈る私たちはイエスの御名によって一つとされています。聖霊も、時にどう祈れば分からない私たちを執り成し、霊自らが深い呻きと共に私たちのために祈ってくださいます。

 こうして、イエスに、聖霊に、執り成していただいている私たちは、私たちがお互いに祈り合うこと、執り成すことが信徒としての大切なつとめになるのです。

 今年の教区婦人会の年間テーマとして掲げられたⅠテモテ2:1にもこの  εντευξιs (執り成し) という言葉があります。


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2021年06月16日

37.夢 (οναρ オナル)

夢 (οναρ オナル)


 「夢」が学問の一領域として扱われるようになったのは、19世紀後半から20世紀にかけて、フロイトやユングによる精神分析学が注目されるようになってからではないでしょうか。聖書の中で「夢」は、しばしば「神のお告げ」としての働きをしています。

 旧約聖書では、創世記で、ヤコブは度々「夢」を見ており、また他者の「夢」を説き明かし、神の働きの中でそれらが実現するという形で物語が展開しています。ことに創28:10~のヤコブの夢(天に続く階段で神の使いが昇り降りする夢)の物語は、ヤコブの生涯を意味づける大切なテーマになっています。

 エレミヤはエレ23:25~で、夢のことは夢のこととして、預言の言葉を受けて真実をもって語るようにと言い、神の言葉を取り次ぐことの大切さを強調しており、「夢」を特別に扱ってはいないようです。

 また、詩編73:20,126:1などでは、夢は実体のないもの、イザヤ29:8では空しいものとして取り上げられています。

 新約聖書の中では、「夢」οναρは、わずかにマタイによる福音書の中で1:20、2:12,13,19,22、27:19と、使徒2:16で旧約聖書ヨエル書3:1~を引用して用いられているに過ぎません。

 マリアの懐妊に思い悩むヨセフに、主の天使が夢に現れて「マリアの迎え入れ」を告げた箇所、ヘロデ王による幼子の殺害の折に聖家族が「エジプトへの避難」をした箇所などでは、主の天使が夢の中でお告げをすることが、神の計画の大きな働きをしています。

 夢は自分の身のうちのことでありながらも自分では統制できない不思議な出来事であり、神のお告げと考えられたのでしょう。また、物語の中で神からのメッセージが「夢」によって与えられるという脚色をすることにもつながったのではないでしょうか。

 「夢」を「聖書のキーワード」として取り上げるのに相応しいかとも考えましたが、個人的な興味もあり、掲載することにしました。  

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2021年06月15日

36. 義 (δικαιοσυνη ディカイオスネー)

義 (δικαιοσυνη ディカイオスネー)

「義」という言葉は、聖書の中に頻繁に出て来ます。神に良しとされる(嘉納される)状態、正義、正直、を意味する言葉であり、まさに「聖書のキーワード」のひとつです。

 4つの福音書の中で、マタイによる福音書がこの言葉をよく使っており、この言葉の使われ方を見ていくと、「義」という言葉の意味内容が更によく分かってきます。

 主イエスは「義に飢え乾く人々(マタイ5:6)」や「義のために迫害される人々(マタイ5:10)」の幸いを教え、神の義によって生かされる人になるように(マタイ6:33)呼びかけています。そしてこのイエスこそ旧約聖書が預言した神の義の実現そのものなのです。そのイエスが求めるのは、旧約聖書に記された律法を遵守する域を超えて、愛によって律法の先に神の御旨である「義」を完成させることでした。

 イエスがこのような「義」を求める前提になるのが、主イエスがご自身を十字架に献げて神の義を示してくださったことであり、私たちはこの主イエスによって救いを得ていると信じることによって、神に義とされるのです。

 パウロは「信仰によって義と認められる」という考えを「ローマの信徒への手紙」の中で示しています。

 人間は罪に支配されており、自分の力で神への応答をしようとしても行うことはできず、かえって罪の下に閉じ込められていました。しかし、神はみ子イエス・キリストを罪人に等しい姿でこの世に遣わし、十字架の死と復活によって私たちの罪を贖って死を打ち破り、神ご自身が「義」を貫徹してくださいました。私たちはイエス・キリストに現された「神の義」を受け入れることで神に「義」と認められるのです(ロマ3:20-26,4:1-8)。

 こうして律法を行うことでは実現できなかった「義」は、人を「義」とする神の働きと、この働きにある神の「義」を受け取る私たちの信仰によって成し遂げられるのであり(ガラ5:22-23)、私たちからはその信仰に基づいて隣人を愛することと神を愛することがひとつの奉仕(サービスつまり礼拝の行為)となるのです。

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35.偶像 (ειδωλον エイドーロン)

偶像 (ειδωλον エイドーロン)


 「偶像」と訳されるειδωλον は、ειδοs (見えるもの、姿)と同じ語源の言葉です。本来、天地を創造し支配しておられる神は目に見える存在ではありませんが、人間が神をイメージして造り上げた神の像をさしてこの言葉は用いられるようになりました。

 旧約聖書の中では、十戒の中の第1戒、第2戒でも、偶像礼拝を禁止しています。それは、神が何の制限をも受けることなく超越した存在だからであり、その神を人の手によって見える姿にして表現ことなどできない(イザヤ40:18-,46:5-)はずです。

 このことは、十戒を授かるためにホレブの山に登ったモーセが神の名を尋ねた時に、神が「私はある」という者だと答えたことにも関連しています。神は他の被造物が制限や範囲を定めることなどできないお方であり、目に見える特定の像の中に表現することは不可能であり、神の内実を示す名辞化をすることもできないお方なのです。

 パウロは、「世の中に偶像の神などはなく(Ⅰコリ8:4)」と言い、本来偶像なるものは存在せず、「唯一の神以外にいかなる神もいない(Ⅰコリ8:4-6)」とも言っています。偶像そのものは存在しないにもかかわらず、パウロは偶像礼拝を厳しく戒め(Ⅰコリ10:7)、偶像から決然と離れるべきことを教えています。

 それだけ人間は弱く、目に見える何かに頼りやすく、誘惑されやすく、見て確かめることでの安心が欲しくなるのでしょう。その弱さの自覚がないと、私たちは「滅びることのない神の栄光を,滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。(ロマ1:23)」ということに陥りやすいのです。

 神を忘れて真実から離れると、私たちはまるで悪霊の力によって偶像が実在しているかのような世界に引きずり込まれることになります。しかも、その世界に引きずり込まれた本人はそれが自分で偶像を造り上げているということに気付いていなし、気付こうとしない状態に陥ります。言い換えれば、本当は実在しない偶像の支配下に置かれてしまうということであり、既にキリストに属している信仰者は自由を得ているはずなのに、真理を離れて偶像の支配に従属することへと誘惑されていきます。神はそのような偶像を全て相対化する存在であり、相対化されるべきものに捕らわれることのないように、主なる神は偶像礼拝を厳しく禁じているのです。

 偶像とは、ただ目に見える鋳物や彫刻を意味するばかりではなく、私たちの先入観、誤解、恨みや妬み、憎しみの中にも入り込んで、人や物事をありのままに認めず、私たちの心の中に虚像を造らせることを私たちはよくよく心得ておきたいものです。


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34.神殿 (ναοs ナオス)

神殿 (ναοs ナオス)

 新約聖書での「神殿」という言葉は、この ναοs(ナオス) という言葉と ιερον(ヒエロン) という言葉が用いられています。

 ναοs(ナオス) は「住む」という言葉から発して、エルサレムにある聖所と至聖所を含む神の住居を意味ますが、例外的には使徒言行録で、エルサレム神殿の型に合わせて作った銀細工のアルテミス神殿(使徒19:24)をさして用いられている箇所があります。

 一方、ιερον(ヒエロン) の方は、「聖い」という意味から発して、「聖別された場所、神殿、宮」などの意味で、境内とその中の建物を含めてこの言葉が用いられているようです。

 イスラエルの民にとって、「神殿」はエルサレム神殿以外にはあり得ませんでした。神殿は、ダビデの子であるソロモンによって建てられました。その後、神殿は諸国に散らされたイスラエルの民にとっても、政治的にも宗教的にも社会的にも、民族の一致と団結のしるしであり続けました。遠く異国の地に住む人もその生涯のうちに一度は神殿詣でをすることを当然のことと考えていました。彼らにとって神殿は文字どおり神の住まいであり、神と出会う場所だったからです。

 神殿は、イスラエルが幾度か侵略、征服された時に破壊され、修復再建されています。

 その一つはバビロン捕囚から解放された後の紀元前520年ゼルバベルによる再建(エズラ6:16)であり「第2神殿」と呼ばれます。もう一つは「ヘロデ大王の大改修」と言われ、紀元前20年頃から始まり、大王の死後も続いた改修です。

 神殿を拠点にしたユダヤ教は、大祭司を頂点とする強力な組織があり、ユダヤ人は神殿税を納めることが義務づけられていました。しかし、紀元70年にエルサレムはローマ軍の攻撃によって陥落し、多くのユダヤ人はパレスチナから離散し、ユダヤ教徒にとって神殿に替わって一致の役割を果たすようになるのが「律法」でした。

 パウロは、ファリサイ派としてキリスト者を迫害していましたが、幻のうちにキリストと出会い、回心してイエスを救い主として受け入れ、イエスを救い主と信じる人々は聖霊を宿す新しい「神の宮(Ⅰコリ3:16)」「聖霊の宮(Ⅰコリ6:19)」であると教えるようになりました。キリスト者は神の御心を行う器として生きて、そこに天の国の姿を出現させていくのです。一人ひとりはその神の宮、神殿なのです。

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2021年06月14日

33.魚 ( ιχθυs イクシュス )

魚 ( ιχθυs イクシュス)


 このιχθυs(イクシュス) 「魚」という言葉は、聖書の基本的な言葉ではありませんが、教会史の知識として「魚」について知っておくと楽しいと思います。

 それは以下のような意味でのことです。

 ギリシャ語のἰχθύς (魚)の5文字の ι(イオタ)は Ιησούς (イエス)、χ(キー)は Χριστός(キリスト)、θ(セータあるいはテータ)は θεοs() 、υ は υιοs()、sはσωτηρ(救い主)の頭文字であり、その頭文字を合わせてιχθυs(イクシュス)となって、「イエス・キリスト、神の子、救い主」を暗号的に示す言葉になっていました。ことに迫害下のクリスチャンが用いていました。

 キリスト者が迫害されていた時代に、自分がキリスト者であることを相手に伝えたい時、魚の徴(ギリシャ文字のアルファを平たく伸ばしたようなマーク)を描きました。時にはある人がそっと魚マークの上半分を書いて、その意味が分かると相手のキリスト者は下半分を描いて残りの部分を書き加えて魚マークを完成させることで互いに信仰者であることを確認したのです。

 切支丹禁令下の日本では、お互い見ず知らずの隠れキリシタン同士は、どのようにして互いの信仰の確認をしていたのでしょう?

 魚はクリスチャンにとって特別な暗号のような役割を果たしましたが、聖書の中では「魚」が神やキリストを示すシンボルとして用いられている箇所は無いようです。でも、聖書のメッセージを読み解いていく時に、「魚」という言葉から興味深い解釈が生まれてきます。

 ルカ5:1-やヨハネ211-に、イエスの言葉に従った弟子たちが大漁を得た物語があります。「魚」は、普段は私たちの目に見えない水の中にいて、私たちの知らない深い世界からメッセージをもたらす存在です。イエスが与えてくださるメッセージは、その御言葉に従う者に大漁を与え、弟子たちの網(許容枠や理解の範囲)には収まらず、それは自分の舟に引き上げられないほどに豊かです。イエスのメッセージは弟子たちに扱いきれない程となり舟は沈むばかりです。その豊かさを知ったペトロは、イエスによって自分の罪深さを知り、畏れと喜びをもって「人間を取る漁師」としてイエスに従っていくのです。

 ポーランドのノーベル賞作家へリンク・シェンケービッチの小説『クオ・ヴァディス』の中に(その映画の中にも)、迫害下のクリスチャンが砂の上にこの「魚マーク」を記すシーンがあります。

 今では、キリスト教用品店にはデザインされた「魚マーク」のステッカーや栞なども販売されており、街を走る車にこのシールが貼ってあるのを見かけることもあり、その時には親近感を覚えます。

 十字架のネックレスなどはクリスチャンでなくても身に付ける人がたくさんいますが、魚もその意味が深く理解された上で多くの人に用いられると嬉しいのですが・・・。

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2021年06月12日

32.自由 (ελευθερια エリュウセリア )

自由 ( ελευθερια エリュウセリア )

 この言葉は「行く、来る」という意味の動詞であった ελευθω を語源にし、「好きなところに行くことのできる」という意味が含まれています。そこから、奴隷ではなく自由の身であること、束縛から解放されていること、律法や罪の縄目から解放されていることなどを意味するようになりました。

 人間にとって「自由」はとても大事なことですが、とりわけイスラエルの民にとって「自由」は民族としても自分たちのアイデンティティを形成する上で、とても大切な思想でした。現在もそうであることは言うまでもないことです。

 イスラエルの民は、紀元前13世紀の頃にエジプトで奴隷にされていた時代があり、また紀元前6世紀にはバビロンの捕囚を経験し、奴隷状態から解放されて自由の身とされた経験があります。そのことは、彼らが神を認識することや自分を理解することの原点になっています。彼らにとって、解放されていること、自由であることは、人間として生きる原点です。イスラエルの民が奴隷であったことや捕囚の経験をしたことを通して、彼らは「自由」の大切さと有り難さを骨身にまで理解していたと言えるでしょう。

 弱く貧しく小さなイスラエルの民が、大国の縄目から解放されて自由を得た経験は、彼らに「我らは主の民」「主は羊飼い、我らはその羊」という自己認識をうみだしました。

 イエスとその弟子たちは、イスラエルの民のこのような自由の思想を受け継ぎながら、人間の本当の自由と解放を宣べ伝えたとも言えます。イエスも宣教のはじめに、イザヤ書61:1,2の言葉を用いて、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と、人々の解放の喜びを宣言しておられます(ルカ4:16)。福音書は、救い主イエスをとおして、民族の枠を越えてすべての人々に本当の自由がもたらされたことを伝えている、と言えます。

 パウロはこの「自由」の思想を自分の内的なこととしてとらえ、思想として深めました。

 パウロは、自分の経験から、神を離れた人間は罪と死に支配されており、自分の力で自分を解放することは出来ないことを実感していました(ロマ6:20)。律法に頼ればかえって罪の自覚が深まり、罪の支配下にあることを逃れられない(ロマ3:20、ガラ3:22)のですが、パウロはキリストに出会い、イエス・キリストの贖いによって「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました(ガラ5:1)。」と理解し、イエス・キリストによって自分の人生を180度転換させられたことを人々に熱心につたえるようになるのです。

 この自由を得た者は、キリスト以外の何者にも服従することなく、この自由を神と人々に仕えるために用いるのです。人は何かの囚われから解放されて自由(どこにでも行くことができる状態)を得たとき、何に向かうのでしょうか。

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