2021年07月10日

51.異邦人 (εθνοs エスノス)

異邦人 (εθνοs エスノス)

 国語辞典(『広辞苑』)には、「異邦人」は、「①外国人。異国人。②〔宗〕ユダヤ人が神の選民であるという誇りから他民族・他国民を区別して呼んだ言葉。」と記されています。

 新約聖書の中では、εθνοs(民族、国民、異教徒、異邦人、異邦のキリスト者の意味で用いられています) や εθνικοs(異邦人の意味) という言葉が「異邦人」と訳されています。近年「異国風」という意味で用いられている「エスニック料理」の「ethnic」も同じ語源の言葉です。

 聖書の世界での「異邦人」は、先の国語辞典の②の意味で用いられており、「異邦人」とはイスラエル人が「非イスラエル人」のことを意味して用いている言葉です。

 イスラエル民族は自らを「神に選ばれた民」とする自負がありました。この「異邦人」という言葉自体には差別的な意味はありませんが、選民思想をもつイスラエルの民が律法を遵守し割礼を徴として異邦人との違いを認識して一致を図ろうとすれば、この言葉に差別的な響きがついて回ったように思われます。

 旧約聖書の考えは、ユダヤの地に寄留する異邦人を認め、異邦人がユダヤ教に改宗することも受け容れ、決して排他的であったり差別的であったわけではありません。

 イエス誕生から40日経て聖家族が神殿に詣でた時、シメオンは幼子イエスを抱いて「異邦人を照らす啓示の光」と、イエスが民族を越える救い主であることを讃えました。

 イエスの働きはガリラヤに始まりエルサレムで十字架に死ぬことになりますが、その生涯で、イエスは幾人かの救いを求める異邦人の信仰を認めて彼らを祝福しています。

 イエスが昇天した後、使徒たちによる福音宣教は異邦人世界に広がっていきますが、使徒たちの中でも、福音宣教は異邦人にも及ぶのかということが大きな課題になりました。

 使徒言行録第10章以下には、福音が異邦人にも広がっていく転機の出来事が記されています。イタリア隊の百人隊長であるコルネリウスは異邦人でありながらイエスを救い主として受け容れますが、使徒たちの間でコルネリウスのような異邦人家族に洗礼を授け信徒の群れに迎え入れることは相応しいかということが問題になりました。この時、ペトロは「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。(使徒10:28)」と異邦人を受け容れるよう主張しました。

 また、異邦人改宗者もユダヤ教の慣例に従って割礼を受けなければキリスト者にはなれないのかということが大きな課題となりました(同15章)。そこでエルサレムで使徒会議が開かれ、異邦人に割礼を施す必要はないということになり、ここに異邦人への宣教が大きく開かれていきます。そして、パウロは異邦人への宣教に尽くします。

 パウロは「わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。(使徒11:13)」と言っていますが、イエスがイスラエル民族を超えて全ての人の救い主であるという福音は、パウロをはじめ使徒たちによって世界に広がっていくのです。

posted by 聖ルカ住人 at 21:22| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月06日

50.霊力( στοιχειον  ストイケイオン )

霊力( στοιχειον  ストイケイオン )


 私が神学院一年生の時、宣教論の授業の時だったように記憶しいていますが、担当の先生が黒板にこの στοιχεια という文字を書いて、授業が始まりました。

 この言葉は、聖書では、例えば以下のように使われています。

 ガラテヤ書4:3に「わたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。」、また、コロサイ書2:20では「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、」とあります。

 この言葉は、他の翻訳では「霊力」と訳されていましたが、担当の先生は、「諸霊」、「霊力」では意味が分かり難いけれど、これは「全体をつくりあげるための部分、つまり構成要素のこと」であると説明しながら授業は進んでいきました。

 ペトロ書Ⅱ3:10、12等には「その日、天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし」という用い方もあります。

 初めに神は天地を創造なさり、その神によって全てのものが創られ、神によって創られたもの一つひとつはこの被造世界の構成要素στοιχειαに過ぎません。しかし、人間はいつの間にか「木を見て森を見ず」という状態になって、部分に過ぎない物事に呪縛されやすいものです。

 かつてイスラエルの民は、エジプトを脱出して荒れ野の放浪が始まると、見えない神に頼るよりも目に見える身近な物に心を奪われて、心を引かれ、この世の構成要素に過ぎない物に心を奪われて、金の小牛を創り出して崇拝することにもなるのです。

 また、パウロは(Ⅰコリント12:27)「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」と言っています。それなのに私たちはその体を構成する部分に捕らわれて、全体が見えなくなり、それが全てであるかのように信じてしまうこともあるのではないでしょうか。

 昔の人たちは、このような構成要素στοιχειαにも霊の力が働いていると考えていたのでしょう。聖書を翻訳するときに、ただ「構成要素」と無機質な言葉を用いると、このστοιχεια という言葉に含まれている力が消えてしまうと考えたのかもしれません。

 神の力は、人を部分的なこと(この世の構成要素)に捕らわれていることから解き放ち、本当のこと、永遠へと私たちの心を向けさせてくださるのです。

 このように考えてみると、このστοιχειαという言葉は、私たちが心を奪われやすい物は何か、どうすればそれに気づき、心奪われた状態から解放されるのかに迫る意味でも、大切な言葉、キーワードであると言えるでしょう。

posted by 聖ルカ住人 at 21:19| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

49.弱さ (ασθενεια アスセネイア )

弱さ (ασθενεια アスセネイア )

 「ασθενεια:弱さ」、「ασθενηs:弱い」は、α(否定、欠如、剥奪を意味する接頭語)+σθενοs(強さ)から成る言葉です。「弱さ」は、とりわけパウロにとって大切な言葉です。

 この言葉は、身体的な弱さの意味でも、精神的・霊的な弱さの意味でも用いられていますが、物的な貧しさ(貧困)や健康を害している姿(病気)を意味して用いられる場合もあります。

 回心する前のパウロは、熱心ファリサイ派の一員であり、血筋の上でも経歴の上でもその自分を誇りにしていたようです。しかし、パウロには「肉体のとげ」と表現する身体的な病があったようです。当時、病は身体的に神の願う姿を十全に表わしていないことと見なされ、先祖や本人が犯した罪の結果が身に現れ出ていることとも考えられました。パウロはその「肉体のとげ」が取り除かれるように幾度も祈ったようですが、そのパウロが神から受けたメッセージは、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。(Ⅱコリント12:9)」と言うことでした。

 おそらく、パウロの何ものにも屈しない宣教への熱心さと神の御前における謙虚さは、こうした経験に裏打ちされ、自分の中に宿る神によってもたらされる力に基づくという信仰があったのでしょう。

 パウロはこのように自分の弱さを受け容れることを通して、「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)」と言い、様々な困難の中にあってもキリストのために満足できるのは、「私は、弱いときに強いからです。(コリントⅡ12:10)」と言っています。

 このような考え方が極まるところに「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです(ガラテヤ2:20)。」というパウロの言葉が発せられているように思われます。

 パウロが宣教した人々やまたそこから信仰を得た人々も、そのようなパウロに共感してのではないでしょうか。

 「あなたがたが召されたときのことを、考えてみなさい。・・・ 神は知恵ある者に恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。(コリントⅠ1:27-28)」と言って、キリスト者たちが「弱さ」の中にあることを自覚するように促しています。

 パウロはイエス・キリストについても「弱さ」という視点から説明しています。

 「キリストは弱さのゆえに十字架につけられました、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては神の力によってキリストと共に生きています。(Ⅱコリント13:4)」

 神の御心に従って十字架に向かうイエスの中にこの世での「弱さ」しか見ないとしたら、パウロを理解するのは難しいことになるでしょう。また、「強さ」を考えるときに、武力や財力に依存した力しか思い起こせない人にもパウロを理解することはできないでしょう。逆にパウロのいう「弱さ」を理解することを通して、イエス・キリストの十字架の意味も見えてくるのではいでしょうか。

posted by 聖ルカ住人 at 04:52| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月03日

48.祭司 (ιερευs ヒエレウス )

祭司 (ιερευs ヒエレウス 


 祭司 (ιερευs)は、基本的にはユダヤ教エルサレム神殿の神職を意味し、Ιεροs(ヒエロス:聖別されている、聖なる)を語根としています。

 旧約聖書の祭司の職務は、神殿における祭儀を執り行い、供え物を献げ、例えば当時の穢れの考え方によって、穢れたとされる人を浄める儀式を行い、その浄めの宣言を与えることなど、神と民との仲介となることでした。

 祭司は世襲制で、レビ族のアロンの子孫によって継承され、イエスの時代には、祭司はエルサレム神殿の中心的勢力になっていました。しかし、紀元70年にエルサレム神殿が陥落し働きの場を失うと、祭司階級は急激に力を失っていくことになります。

 イエスを救い主と信じて告白する人々は、エルサレム神殿とそこで働く祭司とは基本的に無関係であると言えます。エルサレムは、キリスト者にとって、イエスが十字架に架けられた特別な場所であり、ルカによる福音書と使徒言行録ではキリスト復活の福音がエルサレムから広がっていく構成になっていますが、ユダヤ教のようにエルサレム神殿を特別な聖地と位置づけてはいなかったと考えられます。

 「良いサマリア人」の例え話では、祭司は強盗に襲われた旅人を無視して通り過ぎる人(ルカ10:31)として、また、イエスを十字架に付ける立役者(マタイ16:21他)として描かれており、祭司(ことに大祭司)は、イエスを否定した者の代表格として描かれているように思われます。

 「ヘブライ人への手紙」ではこの「祭司」という言葉を用いて、イエスこそ真の「大祭司」であると主張しています。

 ヘブライ人への手紙では、ユダヤ教の祭司は、神殿の祭儀で、小羊の初子を献げその血を用いて罪の赦しを表わす「浄め」の儀式を行っていました。この儀式は毎年繰り返されるのですが、イエスご自身が傷や汚れの無い真の小羊となって十字架についたことは年ごとに罪の赦しを得るための儀式を執り行う必要の無い真の「大祭司」として、その働きを完成してくださったことであると主張しています。

 ヘブライ人の手紙には、イエスこそ旧約の大祭司を超越するただ独りの大祭司であり、神と民との関係を完全なものにしてくださったことが謳われ、その中でιερευs という言葉もたくさん用いられています。

 余談になりますが、「アーメン」とはどんな意味ですかと尋ねられた時に、私は、大学野球で応援団のリーダーの呼びかけに応えて叫ぶ学生たちの「そうだー!」が「アーメン」であると説明しています。そのリーダーは極めて祭司的な働きをしているように思えます。

 教会の聖三職位(主教、司祭、執事)の司祭も祭司としての働きを担いますが、宗教改革以降、全ての人がこの世界の中で、神の御前に祈りを捧げ、神の働きを担うという意味をこめて「万人祭司」という言葉も用いられるようになりました。聖餐式の聖別祷の中で、「わたしたちをみ前に立たせ、祭司として仕えさせてくださることを感謝し」と祈ります。キリスト者は神の前にひとしく祭司として生かされています。
posted by 聖ルカ住人 at 22:31| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月02日

47.祝福する ( ευλογεω ユーロゲオー )

祝福する ( ευλογεω ユーロゲオー )

 かつて、小学生の子どもたちと、イエスの昇天の場面を学んでいた時のことです。

 「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を挙げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に挙げられた。(ルカ24:50,51)」

 「先生、祝福って何ですか。」と尋ねられて、私は言葉に詰まったことがありました。教会でいつも当たり前に用いているこの言葉を説明しようとしても、「祝福は祝福だし・・・」と、直ぐに祝福を説明する言葉が思い浮かばなかったのです。私は、「辞書には何て載っているかな!」と言って、その子どもに国語辞典を開いてもらいました。

 「①(他人の)幸福を祝い、また祈ること。②キリスト教で、神から賜る幸福」とありました。

 その子は、それで納得したような、でもまだ何か腑に落ちないような表情を見せつつその場が過ぎました。

 改めて聖書釈義辞典を見てみると、世俗的には「褒める」とか「うまく話す」という意味もあったようですが、聖書の中ではもっと限定して、神から恵みを授けられることやその恵みについて用いられています。

 「祝福する」(動詞)は ευλογεω(ユーロゲオー)、「祝福](名詞)はευλογια(ユーロギア) で、ευ (良いという意味の接頭語)と λογοs(言葉、理念)の語幹が結合して「良い言葉」「合理的」とでもいうような意味から成っているようです。

 上に紹介した箇所を含め、ルカによる福音書の第24章50~53節の主イエスの昇天の場面でこの ευλογεω の用いられ方を見てみると興味深いものがあります。その場面では、主イエスが手(複数つまり両手)を上げて弟子たちを祝福しながら天に上げられていきます。そして、弟子たちは「絶えず、神殿の境内にいて、神をほめたたえていた(24:53)。」のですが、この「ほめたたえていた」もευλογεω が用いられているのです。天からは主イエスが弟子たちをευλογεω祝福していてくださり、地からは弟子たちが主イエスをευλογεω ほめたたえています。ルカはこの言葉を用いて、天と地の一体感を意図的に表現しているようにも感じられます。

 ルカによる福音書9:16では、イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人を養った奇跡物語の中で、パンと魚を祝福する時にこのευλογεω が用いられ、マタイ26:26、マルコ14:22では最後の晩餐の中でイエスがパンをとり祝福してευλογεω おられます。Ευλογεω には「聖別する」と訳しても良い用い方もされています。その一方、最後の晩餐の場面であっても、ルカは22:17と19で、 ユーカリステオー という言葉を用いてイエスがパンとブドウ酒を「感謝の祈りをささげ」た行為を表現しています。「祝福する」は「聖別する」と入れ替わるほどによく似た言葉なのかも知れません。

posted by 聖ルカ住人 at 14:29| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月28日

46.認める (λογιζομαι ロギゾマイ)

認める (λογιζομαι ロギゾマイ)

 前回(第45回)このコーナーで「義」をとりあげました。それと合わせてぜひ取り上げたいのが、「λογιζομαι:認める」という言葉です。

 この言葉には「勘定に入れる、考慮する、みなす」等の意味あり、英語では to take into account 、to reckon with などと訳されているようです。

 この「λογιζομι:認める」という動詞は、ことにパウロの手紙の中では、「義」という言葉を伴って「義と認められる」と用いられており、そのことがよく分かるのはローマの信徒への手紙第4章の1~11節、22~24節あたりです。

 例えでこの言葉について考えてみましょう。この言葉には、契約を結ぶ時に、その契約書に「署名する」という意味があります。

 神さまの手元に私たち一人ひとりの成績表があり、そこには私たちの罪の状況も記されています。昔、学校の先生が生徒の成績を管理していた「閻魔帳」をイメージしても良いでしょう。そこには私たちの日頃の行いがすべて記されています。神さまの手許にある私たちの成績表(閻魔帳)には、落第点ばかりが並んでいます。実際そのとおりなのだから、それはそれで致し方ないのです。それでも、成績表の最終欄に「総合評価:この人は合格。」と担任の署名があります。担任である署名者は、イエス・キリストなのです。この署名のおかげで、私は個別の項目は落第点ばかりなのに、私は恵みのうちに「合格」とされました。この「認めて署名をする」ことが λογιζομαι という言葉の意味です。

 私の合格・不合格は、これまでにどれだけの点数をとってきたのかということで最終判断されたのではありません。主イエスによって「義」と認められたかどうか、なのです。

 私が神に「義」とされるのは、私の業績によるのではなく、「私はこの人を義と認めます」というイエス・キリストの署名があるかによるのです。なぜなら、イエスを救い主であると信じて受け入れる人を神は「義」としてくださるからです。

 それでは、私たちはどうすれば神さまの手許にある私の成績表に「この人を義とします」と認めていただけるのでしょう。

 それは、私が「イエスは私のことを「義」とλογιζομαι認めてくださるお方です。」と信じているからなのです。「イエスが十字架の上から、ご自身の血によって、私を”合格”と認めてくださいました。」と受け入れることが「信仰による義」ということです。

 私の署名だけでは「合格」にはならない私の最終評価表に、主イエスが「この人を私の命に代えて合格とします。」と認めて署名(ロギゾマイ)してくださった故に、私は「義(合格)」とされています。

 「信仰による義」は、パウロのイエス・キリスト理解の中心となる思想です。

posted by 聖ルカ住人 at 16:52| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

45.義 (δικαιοσυνη ディカイオスネー)

義 (δικαιοσυνη ディカイオスネー)

 「義」δικαιοσυνη は、聖書のキーワード中のキーワードの一つです。

 例えば、「マタイによる福音書における『義』について」、「ローマ書の神の義についての考察」、「パウロの義認について」等々の題の論文はたくさんあります。聖書における「義」という言葉は重要であり、使用頻度も高く、様々に検討されるべき言葉なのでしょう。

 「義」は、「神の正しさ」と言えるかと思います。

 旧約聖書では、神は義によって民を導きまた裁きます。神の愛は義の表われであり、恵みや救いと同じような意味でも用いられます(イザヤ54:17)。神の義は貧しい者や虐げられている者を顧みて働きます(詩編10:12-18)。

 イスラエル民族は「神に選ばれた民」であると自認しており、それに相応しく神の義に応えて生きていこうという自覚が生じます。神の義に応えるために、神の義を基盤にした神との約束である「律法」を落ち度なく守って生きようとする考えが生まれてきます。しかし、人間は、自分の力によって律法を完璧に守ることはできず、神の義に応えることはできません。そこに、神の義による救いを求める思い(救い主待望論)が生まれてきます。

 こうした流れから、新約聖書では、神の義が救い主イエスによって完全な姿で現れ出たと考えます。救い主イエスは貧しい人や病の人などとも交わり、その人々に神の国の到来を告げ、病人をいやし、汚れた見なされた者を浄め、悪霊を追放して神の義の実現(天の国の到来)を宣言なさいました(マタイ11:2-6)。福音書はこのようにイエスによって神の義が完成されていることを伝えています(マタイ5:17)

 パウロは、神の義は律法の中に示されているのではなく、イエスの生涯と死と復活を通して示されておりキリスト自身が私たちの義であると主張しました(Ⅰコリ1:30)

 パウロは、人間は律法を実行することによってでは神の義に相応しく生きることはできず(ロマ3:20)、イエス・キリストによって示された神の義を信じて受け入れることによって、神に義と認められると説いたのです(ロマ3:21-26)。これを「信仰義認」と言います。

 旧約聖書の時代にも、神の義に相応しく生きた人々がたくさん登場しています。「アブラハムはその信仰によって認められた」という表現もありますが、「信仰義認」の予型と言えるかもしれません。また、神が義であれば、なぜ神の義を生きる者が苦しまねばならないのかということが聖書の深いテーマになります(ヨブ記)。神は、この世に独り子をお与えになることで義を示し、ヨブへの答とされたと言えるのかもしれません。

posted by 聖ルカ住人 at 05:29| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月26日

44.小羊 (αμνοs アムノス)

小羊 (αμνοs アムノス

 旧約、新約ともに、聖書には「羊」がたくさん登場します。イスラエルの民にとって羊は身近な動物です。日本語で「羊」と訳されている言葉は、子羊、小羊、雄羊など、旧約聖書(ヘブライ語)では5種類、新約聖書では3種類あるとのことです。

 新約聖書の中で、「羊」と訳されている言葉は以下の三つです。

 その一つめは一般的な羊(プロバトン)で英語では sheep に相当するでしょう。

 二つめは小羊(アムノス:罪の贖いのために捧げられる小羊に限定)で英語では lamb。

 三つめは「屠られた小羊」(アルニオン)で、ヨハネの黙示録で特別に用いられており、英語では the lamb や Lamb と表現される箇所があるようです。

 日本語では「羊」という言葉に、小、子、雄などの羊を形容する言葉をつけて訳して、もとの言葉の意味を表現する工夫をしています。聖書の世界の「羊」はその意味する内容によって違う単語になり、「羊」はそれだけ細かな概念に区分けされていると言えます。

 鰤(ブリ)が成長の段階でイナダ、ワラサ、ハマチ、ブリなどと名前が変わることに、日本人の魚に対する意識が細かいことが分りますが、イスラエルの民は羊についての意識と関心が強いと言えるかもしれません。

 今回は、その中のアムノス( αμνοs )について取りあげます。

 この言葉は、新約聖書の中で以下の4箇所(ヨハネ1:29,36、使徒8:32、Ⅰペテロ1:19)だけで用いられており、どの箇所も、イエスについて考える時の大切な切り口になる用いられ方をしています。

 使徒8:32はイザヤ書53:7の引用で、「彼は・・・毛を刈る者の前で黙している小羊αμνοsのように、口を開かない。」と用いられ、Ⅰペトロ書では、「あなたがたが・・・贖われたのは・・・傷やけがれのない小羊αμνοsのようなキリストの尊い血によるのです。」と用いられています。

 イスラエルの民は、旧約聖書の時代から、罪ある人間が自分の代わりに小羊を神に献げて罪を赦していただく儀式を行っていました。イエスの十字架を目の当たりにした人々の中に、イエスがこの小羊となって私たちの罪を担って十字架についてくださった、という考えが生まれてきます。新約聖書の小羊αμνοs は、まさにこのイエス・キリストを示す言葉なのです。ヨハネ福音書の中では、洗礼者ヨハネがイエスに会った時に、「見よ、神の小羊だ。」と大声でイエスを指し示している箇所でこの言葉が2度出てきます。この箇所は、顕現後第2主日の聖書日課福音書A年に用いられています。

 主イエスが私たちの罪を背負って、屠り場に連れて行かれる羊のように十字架についてくださったことや、イエスの流した血こそ年々繰り返される儀式の血ではない真の汚れなく清い小羊の血であるという理解が新約聖書の中には流れています。

 この小羊 αμνοs という言葉は、新約聖書の中にもっと沢山用いられているように思い込んでいましたが、調べてみて、この言葉の使用頻度がこれほど少ないのは不思議な気もします。
posted by 聖ルカ住人 at 16:11| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月24日

43.光(φωs フォース)

光(φωs フォース

 かつて、クリスマス・イヴ礼拝の式文を見直していたときのこと、朗読する聖書日課には、旧約、新約に限らず、「光」という言葉が沢山用いられていることを、再認識しました。

 英語の「写真photograph」(フォト:光、グラフ:書かれたもの)という言葉にも「φωs」が入っています。

 天地の創造は、神の「光あれ。(創世1:3)」という言葉で始まっています。神の言葉によって暗闇に光が差し出ることからこの世界が秩序づけられていきます。詩編でも「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光。(119:105)」と唱われているように、人の心の闇を照らし導く神の言葉は「光」に例えられ、このような用い方をしている箇所は他にも沢山挙げることができます。

 福音書から「光」の用いられている箇所として、「言の内に命があり、命は人間を照らす光であった。(ヨハ1:4)」という箇所はじめ、沢山の箇所を挙げることができるでしょう。

 「光」という言葉が使われている脈絡を考えてみると、この言葉は「闇」や「暗」に対する言葉であることが見えてきます。上に挙げた箇所だけではなく、ヨハネの「闇は光に勝たなかった(ヨハ1:5)」、「神は光であり、神には闇がまったくない(ヨハネⅠ1:5))」という言葉や、パウロの「闇から光が照り出でよと言われた神(Ⅱコリ4:6)」という表現などからも、多くの箇所で光が闇と対になって用いられていることが分かります。

 光に対する言葉である暗闇は、不幸や悲惨を表し、「闇と死の陰に住む者たち、苦悩と鉄の枷に締めつけられる捕らわれ人(詩107:10)」、「彼は光から闇に追いやられ、この世から追い払われる(ヨブ18:18)」のように用いられており、光の中を歩もうとしない者に対して、「闇の道を歩む者は、悪をなすことを喜びとする(箴言2:13,14)」と記されているように、歪んだ道程を進むことになることを警告します。

 ことにヨハネによる福音書では、イエスを闇の中に輝く光(1:4,5,9など)として描き、イエスが自分を「私は世の光である。(ヨハネ8:12)」、「私は、世にいる間、世の光である。(ヨハネ9:5)」と言い、闇の中にある人々には、光であるイエスに従うことで、「以前は闇でしたが、今は主にあって光となり(エフェ5:8)」、その人々もまたキリストのように「世の光(マタ5:14)」となることを教えています。また、主にあって光とされた者は「光の子として歩みなさい。(エフェ5:9)」と、光である主イエスに生かされ光の子としていきるように勧告されています。

 私たちが光の子として生きることができるのは、「神は私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださった(Ⅱコリ4:6)」ことに基づいています。

posted by 聖ルカ住人 at 21:41| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月23日

42.喜び(χαρα カラー)

喜び(χαρα カラー)

 χαιρω(カイロー)(喜ぶ)の名詞形がχαρα(カラー) (喜び)です。新約聖書に於いて、また、私たちの人生に於いて、喜びの源はイエス・キリストであり、当然、聖書にはこの言葉は名詞でも動詞でもたくさん用いられています。

 クリスマス物語の中にも、χαρα が出てきます。受胎告知の場面でマリアに現れた天使は先ず「おめでとう(ルカ1:28)」言いますが、この「おめでとう」も直訳すれば「喜べ」です。また天使は羊飼いに「民全体に与えられる大きな喜び(ルカ2:10)」を伝えています。学者たちも「幼子のいる場所の上に止ったその星を見て喜びにあふれ(マタ2:10)」ています。このようにクリスマスにもイエス・キリストに基づく喜びがたくさんあります。

 福音記者ヨハネは、イエスの受難の悲しみも喜びに変わることを(ヨハネ16:20,22,24など)教えています。

 パウロも、信仰者はキリストの福音に支えられて「艱難をも喜ぶ(ロマ5:3)」生き方へと向かうことを教えています。フィリピ書は「喜びの書簡」とも言われていますが、パウロはその手紙の中で、獄中にありながらも自ら喜び、仲間の信仰者に信仰に基づく喜びに満ちた生き方をするように「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい(フィリ2:18)。」と勧めています。

 興味深いことにこの言葉は、ヘブライ語の「シャローム」と同じように、会った時や別れる時の挨拶の言葉としても用いられており、上述の受胎告知する天使の挨拶もその一例と言えます。他にも、マタイ26:49(ユダの裏切り)、マタイ27:29(兵士のイエス侮辱)、マタイ28:9(甦りのイエス)等に挨拶として用いられる例の一端を見ることができます。

 私たちは、礼拝の中で「主の平和」と互いに挨拶を交わしますが、それはイエス・キリストに生かされる喜びの挨拶とも言えます。イエス・キリストへの信仰を土台として喜びに生きることは、キリスト教の信仰としての「基本のき」であると言えるでしょう。

posted by 聖ルカ住人 at 09:29| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする