2023年08月16日

9.時 ωρα(ホーラ)

時 ωρα(ホーラ)

 ヨハネによる福音書を読んでいると、イエスが「時が来た」とか「時が来ていない」と言っている言葉にたびたび出会います。拾い上げてみると「時が来た」は12:23、13:1、17:1の3箇所、「時が来ていない」は2:4、7:6、7:8、7:30、8:20の5箇所です。

「時」とは時計の刻む時刻を意味しますが、「神の定めた時期」の意味をこめて、特にヨハネによる福音書では、上記8箇所を見てみると、イエスの十字架の死と復活の時を意味する言葉として「時」という言葉が用いられていることが分かってきます。

 その一例を挙げれば、カナの婚宴の席でぶどう酒がなくなりそうになったとき、母マリアがイエスに「ぶどう酒がありません(ヨハネ2:3)」と言うと、イエスはマリアに「私の時はまだ来ていません(ヨハネ2:4)」と答えています。この場面での「時」は、神の御心が成就する時のこと、また、主なる神の栄光と御子イエスの栄光が一つになって現れる時のことであり、この場面でイエスが婚宴のぶどう酒に関わることが救い主がこの世を贖う決定的なことではないという意味でこの言葉が用いられているのでしょう。イエスはそうは言いながらも、誰も気付かないようにそっと瓶の水をぶどう酒に変えるしるしを行い、婚宴を祝しておられます。

 聖書全体では、この「時ωρα」という言葉はヨハネによる福音書ほど限定的な意味で用いられているわけではありませんが、「時が満ちる(ガラテヤ4:4)」と神は御子を遣わし、「お定めになった時(使徒1:7)」に神は聖霊を与え、盗人が夜来るようにキリスト再臨の「その時(1テサロニケ5:1)」は来ると、救いの「時」が神の定めの中にあることを伝えています。

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2023年07月03日

60.水 υδωρ(ヒュドール)

水 υδωρ(ヒュドール)

 聖書には、「水」が多くの箇所で出てきます。人間のみならず命を与えられたすべての生物にとって水は不可欠のものであり貴重なものであると言えます。

 日本は緑豊かで水が豊富です。それが当たり前の私たちが聖書を理解するには、パレスチナの気候や風土のことなどもしっかりと把握しておく必要があることを痛感しました。

 エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野で水を求めて互いに争い、また他国人とも争いました。水は、生活水としてだけでなく、象徴としてまた比喩として聖書の中に沢山出てきます。

 例えば、羊飼いと羊と水の関係。羊飼いは羊を養う上で地勢のことや水場のことを知っていなければなりませんが、その情報は安易に他の羊飼いに教えることはありません。他人の真似をしているだけでは羊飼いは羊を養えず、いつも他人とは違う独自の判断が必要になります。そのような生活は、水を共有して同じ時期に同じ作業をしながら生きる稲作文化とは全く違う生活であり、そこで育まれる精神性も稲作文化で養われる精神性とは全く異なることが想像されます。彼らには遊牧民として養われる神への思い(信仰)、聖霊、生け贄を捧げることなど、「水」を切り口として考えることは四方八方に広がります。

 「水」は、命の養い、洗い、浄めなどに関連して用いられるだけではなく、洪水やそれに発する神の罰や裁きに関する語としても用いられています。

 ヨハネによる福音書では、「水」は色々な意味を含んで用いられているように思えますが、ことにヨハネ福音書第4章の「サマリアの女」の物語でイエスが「私が与える水を飲む者は決して渇かない(4:14)」と言っている箇所などは、イエスご自身とイエスのお与えになる永遠の命のこととして「水」が用いられているように思われます。水は命にとって必要不可欠のもの。私たちが羊に例えられるなら、主なる神は私たちを水辺へと導く羊飼い。その水は飲んでもまた渇くことのない永遠の生ける水です。神にひとり子イエスこそ私たちのために命を捨てて下さったまことの羊飼いであることを聖書は伝えています。「水」は詩編第23編とも深い関わりがある言葉です。

 余談ですが、イザヤ書第124節に「あなたがたは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」という言葉を調べていたら、ヘブライ語で「水」は「マイム」という言葉であり、フォークダンスの「マイム・マイム」はイスラエルの民が井戸を掘り当てた喜びの踊りであることを思い出しました。この踊りの「マイム(×4)、マイム、ベッサッソン」というかけ声は「水だ、水だ、喜べ!」という意味です。

 私は、もし高校生の頃にこの「マイム、マイム」の言葉の意味を知っていたら、あのフォークダンスをどのような思いで踊っただろう、と空想しました。


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2023年01月19日

59. 鶏(雄鶏) αλεκτωρ アレクトール

鶏(雄鶏) αλεκτωρ アレクトール

 鶏 αλεκτωρアレクトールという言葉は、「聖書のキーワード」として取り上げるには相応しくないかもしれません。聖書の中でキー概念となる言葉ではないからです。でも、聖書にある言葉として興味深いものがあり、取り上げてみました。

 教会の建物のてっぺんに風見鶏が立てられていて、「教会なのに十字架ではなくて、なぜ鶏なの?」と思った方はいますか。風見鶏は、「聖霊」の表現でもある「風」に反応するものの象徴として聖堂の屋根の高いところに立てられていることがあります。

 さて、聖書の中で鶏(αλεκτωρアレクトール)が出てくるのは、弟子のペトロがイエスのことを否認する場面であり、4福音書ともにこの場面で鶏が鳴いています。

 イエスは、最後の晩餐のあとに、ご自分の十字架の死を予告しますが、その予告を受け入れられないペトロにイエスはこう言いました。

 「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは3度、私を知らないと言うだろう(マルコ14:30)。」

 やがて捕縛されたイエスは大祭司の館の外で取り調べを受けますが、その場にそっと潜り込んだペトロは、その館の女から「この人はあのイエスの仲間だ」と言われて、イエスを否定し呪いの言葉さえ用いて「知らない」と言ってしまいますが、その時、鶏が鳴き、ペトロはイエスの言葉を思い出して泣き崩れたのでした。

 鶏は、人を寝床から起き上がらせる存在であり、人を我に返らせる存在の象徴とされます。

 αλεκτωρアレクトール(鶏)とφωνηフォーネー(声)を合わせてαλεκτροφωια(アレクトロフォニア:鶏の鳴く時刻)という言葉が、たった一度だけ(マルコ13:35に)出てきます。この鶏が鳴く時刻とはローマ式の時間区分によれば「第3の見張り時(夜中の12時から午前3時」であり、ペトロがイエスのことを「知らない」と言い、鶏が鳴いたのは午前3時頃のことだったと思われます。

 ここからは聖書物語のジョークです。

 天国の鍵を授かったペトロは、この世の生涯を終えた人々がそこに入るに相応しいかどうか判定するために、天国の門で番をしています。そこにかつてイエスを売り渡したイスカリオテのユダがやってきました。ペトロはユダを追い返しますが、しばらくすると再びやって来てユダは追い返そうとするペトロの耳元で何かをそっと囁きました。するとペトロは急に表情を変えてユダが天国のを門を通ることを許したのでした。

 この様子を見ていた他の弟子たちはユダに「お前、ペトロに何を言ったんだ?」と尋ねると、ユダはニヤリと笑って言いました。

「俺は一言コケコッコーって言ってみたのさ。」

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2022年03月06日

58.εξοδοs エクソドス

εξοδοエクソドス

 εξοδοs エクソドスという言葉そのものが、日本語訳の聖書の中に載っているわけではありません。その意味で、今回の「聖書のキーワード」は、いつもとはちょっと違った切り口からの採り上げ方をしていると言えるでしょう。

 先ず、この言葉が用いられている箇所を拾い上げてみます。

「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの脱出について語り、(ヘブライ11:22)」。

「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた(ルカ9:31)」。

「自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、(Ⅱペトロ1:15)」。

 以上3箇所のそれぞれどの訳語が、εξοδοs エクソドス であるか、推測できますか。その答は上から「脱出」、「最期」、「世を去った」です。

 εξοδοs は、εκ(外に)という接頭語とοδοs(道)という言葉から成り、「出て行くこと」、「出発」、そしてこの世から出て行くという意味で「最期」、「死」の意味が含まれています。

 ヘブル語で記された旧約聖書のギリシャ語訳で、「出エジプト記」のことをεξοδοsエクソドス と言います。このような用い方から、この言葉のニュアンスが感じ取れるかと思います。

英語でExodus は「出エジプト記」の意味、また、the Exodus でイスラエルの民のエジプト脱出の意味、exodus は「大勢の人の外出」や「移民などの出国」を意味する一般名詞として用いられているようです。

聖書のキーワードとして興味深いのは、上記のルカによる福音書9:31での用法です。いわゆる主イエスの変容貌の物語の中で、白く目映く輝いたイエスがモーセとエリヤと話し合っていた内容が、「イエスがエルサレムで遂げようとするεξοδοs について」であったことです。このεξοδοs は、十字架の死の意味でしょうか、死からのエクソドスという意味で「復活」のまでを意味するのでしょうか、この世からのエクソドスという意味で「昇天」までを言っているのでしょうか。

いずれにしても、この言葉は、イエスによる神の御心に成就を意味する興味深い言葉であり、私たちはイエスのエクソドスによって贖われ、私たちも日々古い人間に死んで新しい人間に生まれ変わって救いの中に生かされています。その意味で、私はエクソドスは新生をも意味しているように思えるのですが、いかがでしょうか。

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2021年07月26日

57.食事する (ανακειμαι アナケイマイ)

食事する (ανακειμαι アナケイマイ)

 私たちの文化の中で、食事をすることと横たわることは結びつきにくいと思いますが、「食事をする」という言葉の元々の意味は、「横たわる」、「もたれかかる」です。。

 聖書の中に、イエスが食事をする場面がいくつかあります。その代表的な場面は「最後の晩餐」であると言えるでしょう。 「最後の晩餐」の場面を思い描くためにも、ぜひこのキーワード「横たわる」について理解しておきたいのです。

 レオナルドダビンチの名画「最後の晩餐」を参考にしながら考えたいと思うのですが、ダビンチの描いた「最後の晩餐」は、イエスの生きた時代ではなくダビンチの生きた15世紀後半の時代の様子が色濃く出ていて、あの絵から「横たわる」を理解するのは難しいことなのです。

 イエスと弟子たちが最後の食事をする場面の記事はどの福音書にも記されています。ヨハネ13:23には、「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。」とありますが、実はこの弟子はイエスの胸元にもたれるような姿勢を取っているのです。この弟子に限らず他の弟子たちもみな低い長椅子か床に左肘をついて体を横に投げ出している姿勢を想像してください。これがイエスの時代の「食事をする」姿勢であり、「横たわる」が「食事をする」になります。聖書の中では、このανακειμαιという動詞は、すべて「食事をする」の意味で用いられているのです。

 マルコ14:18では「一同が席について食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人でわたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」も同じ場面での出来事です。ここで、ダビンチの絵に影響されて現代の西洋式椅子と食卓を連想しては、最後の晩餐の情景は聖書が描写する様子からずれてしまいます。

 マタイ26:7の場面を想像してみてください。「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席についておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」

 イエスが左肘をついて横になっており、女はそのイエスに香油を注ぎかけたのです。女は身をかがめ膝をついて石膏の壺を傾けています。そして、この女の人は、その壺を置いてイエスの髪を、おそらくこの女の長い髪の毛で、拭ったのではないでしょうか。

 ヨハネ12:2では「ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。」という記述がありますが、ここは直訳すれば「イエスの胸にもたれかかっていた。」であり、上述のヨハネ13:23でのイエスに愛されている弟子の描写と共に、イエスに受け容れられている者の光栄の姿を見ることができるのです。

 「横たわる、食事をする」がこのような性質の言葉であり、この言葉を名詞的用法にして「横たわる者」になり「食事の席に着く者」の意味で用いられるようになり、「客」と訳されるようにもなります。

 「婚礼の礼服(マタイ22:10,11)」、「洗礼者ヨハネの殺害(マルコ6:26)」などの箇所にこの言葉がありますので、実際に聖書を開いて確かめてみてください。また、ヨハネ6:11では「5千人の給食」の中で「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。」という文章にもこの言葉が用いられています。

 その当時は、脚のあるテーブルと椅子で食事をしているのではないことを理解しておきましょう。

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2021年07月21日

56.40 τεσσερακοντα (テッセラコンタ)

40 τεσσερακοντα (テッセラコンタ)

 聖書に出てくる「40」という数を取り上げましょう。

 私の神学院入学試験の時、「聖書」の小問に「聖書に記されている40に関する出来事や物語を5つ挙げなさい」という問題がありました。私は、「荒れ野の40日:イエスが断食してサタンの誘惑を退けるに至る期間(マタイ4:2他)」、「40年:イスラエルの民がエジプトを脱出して荒れ野を放浪した期間((出エジ24:18,34:28,申命9:9)」まではスラスラと記して鉛筆が止ってしまい、「さて、あと何が・・・」。いざとなると急に浮かばなくなり、「約40年:エレミヤの宣教期間」と書き、「40に一つ足りない鞭:パウロがユダヤ人に鞭打たれた経験を記している数(Ⅱコリント11:24)。」を書こうかどうか迷った末に、なぜか「苦し紛れにこんなことまで書くか!」と思われそうな気がして、それは書きませんでした。

 上記の前者二つの他に挙げてみると、「旧約聖書」ではノアの箱舟物語の降雨期間(創世7:10、7:17,8:6)、モーセが十戒を受けるときにシナイ山中にいた期間(出エジ24:18)、エリヤがホレブに逃走する期間(列王上19:8)などの箇所がありますし、新約聖書ではイエスの復活から昇天までの日数(使徒1:3)が挙げられます。

 このように聖書の中の「40」という数に注目してみると、この数字にはある象徴的な意味が含まれているように思えてきませんか?

 象徴的な意味のひとつは「徹底」です。イエスは宣教の始めにあたり40日40夜を断食して過ごしますが、その期間を通して悪魔の誘惑を退けています。マタイ、マルコ、ルカの3福音書ともこの時の「荒れ野のイエス」について「40日間」を明記しています。また、旧約聖書ノアの洪水の降雨期間についても、神はこの世の悪と罪を徹底して否定しておられることがこの数字によって表現されています。このことは徹底であることに加えて、出エジプトの放浪の40年なども合わせて考えると、「うんざりするほどの期間」という意味がこめられているように思えます。

 もう一つ、「40」には「転換期」という意味があるのではないでしょうか。ノアの箱舟物語で神が洪水によって新しい世界をもたらそうとした降雨の期間、奴隷とされていたイスラエル民族が約束の地に入っていくまでの放浪の期間、主イエスがこれまでの血縁家族の生活から公生涯へと移っていくために断食して備えた日数、地上での生涯を終えたイエスが昇天してユダヤに限らず世界を支配する救い主になっていく期間などを考えると、「40」の持つ転換期としての意味が見えてきますし、これらの「40」の後、場面は次のステージに入っていきます。

 このように「40」は聖書の中で特別な意味をこめて用いられる数です。

 神学院入試の時、もし私が[パウロが受けた40にひとつ足りない鞭打ちの数]と解答していたら、それは得点になったでしょうか。想像するに、その答案を見た某先生はニヤリとして○でも×でもない△を付けたのではないかと思います。

 聖書の中では40の他に、7、8、12などにも特別な意味がこめられています。拾い出してどんな意味があるか考えてみてはいかがでしょう。

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2021年07月20日

55.アンティオキア Αντιοχεια

アンティオキア Αντιοχεια

 今回も都市名をとりあげます。日本語訳の聖書では「新共同訳」でも「聖書協会共同訳」でも表題のとおり「アンティオキア」ですが、1954年訳の聖書では「アンテオケ」でしたので、その言い方に馴染みの人も多いことでしょう。アンティオキアは、使徒たちの働きによってクリスチャンが世界に拡大していく上で、とても大切な場所になりました。

 アンティオキアは、ローマ時代にはシリア地方の中心地となり帝国第3位の都市として発展しました。この都市の名は使徒言行録11:19、13:1等に出てきます。

 ことにルカによる福音書と使徒言行録では、イエス・キリストの福音はイエスの十字架の死と復活の波紋がエルサレムから広がるように世界に拡大していきましたが、このことは先月号のこのコーナー「エルサレム」に記したとおりです。

 しかし、その波紋の拡大は、決して順調なものではありませんでした。ことにエルサレムでは、イエスをキリスト(救い主)であると告白する人々の中でも異邦人に対するユダヤ教徒の迫害が強く、ステファノの殉教をきっかけにしてその迫害は激しくなり(使徒8章)、異邦人キリスト者はエルサレムから逃れて各地に散っていきました。この出来事が「福音の波紋」の広がりとなる大きなきっかけになるのです。散らされた人々の行き先は、ユダヤとサマリアの地方(使徒8:1)から更にフェニキア、キプロス、アンティオキア等に及びます(使徒11:19)。特にアンティオキアではユダヤ人たちに対してヘブライ語を話す人々に福音が伝えられただけでなく、異邦人に対してもギリシャ語で福音が宣べ伝えられました。ことにこのアンティオキアでは「主の御手が共にあったので、信じて主に立ち帰る者の数は多かった(使徒11:21)。」と伝えています。

 この知らせがエルサレムにいる使徒たちに届き、エルサレムにいる使徒たちはアンティオキアにバルナバを遣わして励ましを与えることにしました。アンティオキアに来たバルナバは、多くの人に励ましを与え更に主イエスを救い主とする信仰へと導かれます。更にバルナバはそこからさほど遠くないタルソスに身を引いていたサウロ(後のパウロ)を訪ねて一緒にアンティオキアに戻り、バルナバはパウロと一緒に丸一年の間ここで大勢の人を教え導いたのでした。やがてバルナバとパウロはこのアンティオキアから宣教旅行に出発することになります。

 このように、アンティオキアはキリスト教が異邦人世界に広がっていく上での大切な拠点になったのです。

 イエスを救い主と信じて告白する者の集まりをエクレーシアと呼びそれが日本語で「教会」と訳されるのですが、エクレーシアを構成する信徒が「クリスチャン(キリスト者)」と呼ばれるようになったのもこのアンティオキアの教会から始まっています(使徒11:26)。

 なお、アンティオキアという名は、もう一つ同名別所の「ピシディア州のアンティオキア(使徒13:14)」という都市があります。ここは、バルナバとパウロが第1回の宣教旅行のときにこの地のユダヤ人会堂を訪ねています。

 聖書の巻末には聖書世界に関する地図が載っているものが多いです。アンティオキア、タルソスなどの場所を是非確認してみて下さい。

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2021年07月16日

54.エルサレム Ιεροσολυμα

エルサレム  Ιεροσολυμα


 先回はエリコを取り上げました。そうであればエルサレムを取り上げないわけにはいきません。ただし、あくまでも「聖書のキーワード」としてのエルサレムに限定します。そうでないと、1冊の本程度の説明をしなければなりません。ギリシャ語のエルサレムの綴りは、タイトルの他にΙερουσαλημ としている箇所もあります。

 旧約聖書以前の時代では、紀元前3000年頃、城壁に囲まれた面積3haほどの居住地跡があり、これがエルサレムと起源とされ、その地名は古代エジプトの「アマルナ粘土板文書」などの記録に見られるとのことです。

 旧約聖書では、起源前1020年の頃にサウルを初代の王としてイスラエル王国になりますが、その第2代国王ダビデによってエルサレムが都に定められました(サムエル下5:6-)。

 神は、軍人であったダビデに神殿の建設を許しませんでしたが、その子ソロモン王によって最初のエルサレム神殿が建設され、ソロモンの時代に王国は栄華を極めたと言われています。しかし、ソロモンの死後紀元前922年に王国は南ユダ国と北イスラエル国に分裂し、エルサレムは南ユダ王国の都になりました。

 北イスラエル国は紀元前722年にアッシリア王国によって滅び、南ユダ国も紀元前597年にバビロニアの支配下に入り、ネブカドネツァル2世によってエルサレムの住民3000人程がバビロンに捕虜として連行され、更に紀元前586年にユダ国も完全に滅ぼされてしまいます。この時にエルサレム神殿は破壊され、多くの住民はバビロンへと連行されています。この捕虜連行が「バビロン捕囚」です。

 しかし、バビロニア王国はその後半世紀足らずでペルシャに滅ぼされ、ペルシャ王キュロスはイスラエルの民の故郷への帰還を認めました。そして、イスラエルの民の悲願であったエルサレム神殿再建は、第2神殿として紀元前515年に成し遂げられています。その後イスラエルはセレウコス朝シリアの支配を受けたりしますが、紀元前140年頃にはユダヤ人がハスモン朝を建てて一時的に独立します。しかしローマ帝国の勢力が強まり、紀元前37年にはローマの宗主権のもと、ヘロデ大王によってヘロデ朝が創始され、イスラエルはローマの支配下におかれました。ヘロデは第二神殿をほぼ完全に改築し、この神殿はヘロデ神殿とも呼ばれるようになります。

 ローマの支配下、州都はカイサリアに置かれますが、エルサレムとその神殿はユダヤ教の中心となり続け、紀元30年頃にイエスが十字架刑に処せられたのもエルサレムでした。

 紀元66年にはユダヤ戦争が起こり、イスラエルの民はローマに抵抗したものの、紀元70年にエルサレムは占領され、神殿も破壊され、イスラエルは国を失うことになってしまいます。

 イスラエルの民は、エルサレムを追われ、離散を強いられ、ユダヤ教徒にとっての一致の拠り所はエルサレム神殿での礼拝祭儀から、どこにいても律法によって結束を図ることへとシフトしていくのです。

 キリスト者にとって、特にルカによる福音書や使徒言行録によれば、イエス・キリストの福音はエルサレムから波紋が広がるように拡大し、地上のエルサレムは信仰的に重要な意味はなくなっていきます。キリスト者たちは終末的な希望をもって、永遠の住まいを「天のエルサレム(ガラテヤ4:26)」、「新しいエルサレム(黙示3:12)」と表現するようになるのです。

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2021年07月14日

53.エリコ ( Ιεριχω イェリコ )

エリコ ( Ιεριχω イェリコ)

 都市名エリコを取り上げようと思い、下調べをしてみると、聖書考古学の詳しい知識がないととても「エリコ」について語ることなどできないと思い知りました。

 中東からヨーロッパにかけて、古い街には、その歴史の中で「崩され、建て直され」を幾度も重ねて、それが地層をなしている例が多くあります。街の場所が元の場所から移動している場合も少なくありません。『小型版新共同訳聖書辞典』(キリスト新聞社)には、エリコは、「古址は新石器時代(前7000年頃)から後期青銅器時代(前1200年頃)の十八の文化層を含み(深度20m)、断続的な興亡の跡を示している。」と記しています。

 エリコに限らず古代の都市造りは、周囲の石垣を築くことに始まると言っても良いでしょう。その石垣(城壁)の中が街であり、その石垣(城壁)は住まいや倉庫になっている例(ヨシュア2章)もあります。そして、その街を出入りするための門が設けられます。その門の前には広場を作り、そこで町の会議、裁判や集会などが持たれたようです。

 エリコは、そのような街の中でも「世界最古の街」、「オリエント最古の街」などと言われ、聖書の世界でも重要な都市です。この街は死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、標高は海抜-250mの低地にあり、世界で最も低い所にある町と言われています。

 旧約聖書では、ヨシュア記にエリコが出てきます。エジプトを脱出したイスラエルの民が、40年にわたる放浪の末に約束の地カナンに入ったとき、ヨルダン川を渡って最初に占領したのがこのエリコでした。ヨシュアが率いるイスラエルの民(兵)がエリコの周りを6日間にわたって静かに行進し、7日目に7周してから鬨の声を上げると、エリコの城壁が崩れ去り、イスラエルはエリコを征服しています(ヨシュア6章)。この場面は「Joshua fit the battle of Jericho ジェリコの戦い」という黒人霊歌の題材になっています。

 この箇所については、ヘブライ人への手紙(11:30-)の中にも触れられており、信仰について考える上で大切なこととして考えられていたことが窺われます。

 エリヤ、エリシャの時代にはエリコの辺りに預言者養成の場があったようです(列王下2:15-)。

 新約聖書の時代には、エリコはエルサレムに向かう人が、このエリコで一泊して翌日に直線距離で30㎞ほどにあるエルサレムに上っていきました。エルサレムは標高800mの台地にあり、エリコとの標高差は1000m以上あるわけです。

 ザアカイはこのエリコの町の徴税人頭であり、町の門に収税所を設けて、手下になる者を使って通行税などを取っていたのでしょう(ルカ19:1-)。また、町を出入りする人は、門を通らねばならず、門の辺りはそこを通行する人に物乞いをする人々も集まっていたようです。マルコによる福音書第10章46節~には、盲人バルティマイが、エルサレムに向かう門の辺りで物乞いをしており、近づいてきたのがイエスの一行だと分ると、イエスに向かって憐れみを求めて叫んだ記事があり、この話は内容の違いこそあれ、マタイ20:29-、ルカ18:25-にも載っています。

 イエスの例え話「善いサマリア人」(ルカ10:25-)は、「ある人が、エルサレムからエリコへ下っていく途中」という場面設定で始まっています。例え話の設定は都詣での帰り道或いは商売の帰途なのでしょうか。エルサレムとエリコを結ぶ街道とはいえ、当時はさほど人通りもなく、いかにも強盗の出没しそうな道だという一文を読んだ記憶があります。

 エリコがこのような町であることを思いながら聖書を読むと、その光景がより鮮明に浮かび上がってくるのではないでしょうか。

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2021年07月13日

52. ぶどう園 αμπερων(アムペローン)

ぶどう園 αμπερων(アムペローン)

 パレスチナは、ぶどう、オリーブ、イチジクなどの栽培に適する気候で、特にぶどうはそのまま食べるだけでなく、干しぶどう、ぶどう酒にするためにも盛んに栽培されていました。

 旧約聖書にも、イザヤ書第5章をはじめぶどう園(畑)の話は多くの箇所に出てきます。それも、実際のぶどう園に関する話もあれば、例えに用いられている箇所も数多くあります。イエスも生活に身近な「ぶどう園」を用いて例え話をしておられます。

 ぶどう園を作ることや管理することは極めて尊いことであり、イエスはぶどう園を「天の国」の例えに用いています。

 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には共通の「ぶどう園と農夫(後継ぎ)」の例え(マタイ21:33~他)がありますが、マタイによる福音書にはその他にもイエスがぶどう園を例えにした話があります。それは、「ぶどう園の労働者(夕方5時から働いた者も同じ1デナリ)マタ20:1-」と「二人の息子(嫌ですと答え後から考え直してぶどう園に行った)マタ21:28-」の二つで、マタイはイエスの教えの中でもぶどう園の例えで「天の国」を伝える思いが強いのでしょう。

 新約聖書の中には、「ぶどう園」という語が11カ所あると記した文献もありました。ちなみに「ぶどう畑」は旧約新約合わせて14カ所だということです。

 話を「ぶどう園」から「ぶどう」にまで広げてみましょう。ぶどう園がαμπερων(アムペローン)で、ぶどうの木はαμπεροs(アムペロス)です。ぶどう園とぶどうの木は非常に近い言葉であることが分かります。

 聖書が示す「ぶどう」は、しばしば「イエスとイエスに連なる人々」を象徴しています。私は「ぶどう」という言葉から「果実」を思い起こしますが、イエスが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。(ヨハネ15:5)」と言っているように、αμπεροsという言葉はぶどうの幹や枝全体を意味しているようです。

 ぶどうを収穫してその実を搾りそのまま置いておくだけで、その搾り汁は自然に発酵してぶどう酒 οινοsになります。昔の人はぶどう液に「霊」が降りることで酒になり、酔うことはその「霊」が働くことと考えました。イエスが「古い革袋には古いぶどう酒を、新しい革袋には新しいぶどう酒を」と言っておられますが、まだ発酵中のぶどう酒を古い革袋に入れておくと、ぶどう酒が発酵する時に出るガスで革袋が破裂してしまうことがあり、そのことを例えに用いて、イエスの福音(新しいぶどう酒)は古いユダヤ教の慣習(古い革袋)の中に収まるものではないことを語っておられるのです。

 日本のように綺麗で飲用に適した自然水の少ないパレスチナでは、ぶどうの搾り汁が飲料としても健康維持に有効であるという認識があったのかもしれません。

 聖書の中に次のような記述もあります。

「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい(Ⅰテモテ5:23)。」このような言葉があるのも興味深いことです。あくまでも「少し用いなさい。」ですよ!(笑)


posted by 聖ルカ住人 at 20:58| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする