キリストの平和 ヨハネによる福音書第20章19-31 B年 復活節第2主日 2024.04.07
復活節第2主日の聖書日課福音書は、毎年同じ個所が採りあげられていますが、私は毎年この主日の説教準備をする度に、聖餐式の始め唱和と「平和の挨拶」のことを思い起こします。
今日も、この聖餐式は「主イエス・キリストよ、おいでください」「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と唱和して始まりました。そして、この聖餐式で、私たちは罪の赦しを確認した後に互いに「主の平和」と挨拶を交わしてから主イエスの御体と血に与ることになります。
私たちは、今日の聖書日課福音書から、復活の主イエスに「あなたがたに平和があるように」と祝福を与えられていること、また、主の平和のために生かされ遣わされていく者であることを確認したいと思います。
主イエスが十字架にお架かりになった日から三日目の朝、ペトロとヨハネは主イエスのお墓が空であるのを確認しています。また、主イエスを愛する女性たちからイエスは生きておられると言う知らせを受けました。それでも弟子たちは一つ部屋の中に閉じこもり、息を殺してその日を過ごし、その日も暮れようとしていました。弟子たちは、戸には鍵を掛け、誰も言葉を発せずに押し黙り、息苦しいほどの思いで何も出来ずにその日を過ごしました。
甦った主イエスはそんな弟子たちのところに来て、その真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、弟子たちにご自分の両手と脇腹にある傷跡をお示しになりました。今日の福音書には「弟子たちは主を見て喜んだ」(20:20)と記しています。
この日の3日前、主イエスは十字架の上に磔にされてしまいました。自分たちには止めることの出来ない大きな力に動かされ、流されて、その中で弟子たちはみなそれぞれに自分の不信仰と罪を顕わにされました。
例えば、主イエスが捕らえられた時、弟子たちはみな主イエスを置き去りにして逃げ出しました。ご自分の受難の死を予告する主イエスに向かって「あなたのためなら死ぬ覚悟も出来ています」とまで豪語したのに、イエスが捕まえられる時になると、弟子たちは皆、我を忘れてその場にイエスを残して逃げ去ったのでした。ペトロは気を取り直して大祭司の館の中にまで入り込み、捕えられたイエスの様子を伺っていましたが、「お前もあのイエスの仲間だろう」と問われれば、呪いの言葉さえ口にして「違う」と言ってしまったのです。
主イエスが甦ったという報告を受けても、弟子たちは、自責の念、悔しさ、受け容れ難さを抱えながら、ユダヤ教の指導者たちが自分たちのことも捕らに来ることを恐れて怯えながらその日も暮れようとしていました。
こんな弟子たちのところに主イエスは復活のお姿を現し、しかも「あなた方に平和があるように」と言ってくださったのです。弟子たちの前にお姿を現された主イエスが最初に口にした言葉は、お叱りの言葉ではなく、恨みや呪いの言葉でもなく、神と弟子たちの間の「平和の宣言」であり、祝福の言葉だったのです。
ここで主イエスが言っておられる「平和」とは、単に争いやもめ事のない状態の事ではなく、神と人との関係が十分であること、愛が満ち足りていること、少しも損なわれてはいないことであり、言葉を換えれば「神が共にいてくださる喜びがある」ということです。弟子たちには信じられないほどの恵みに満ちた言葉です。弟子たちは主イエスを見捨てもしたし、「彼を知らない」とも言いました。自分たちの方からは、どうして「神との関係は十分である」とか「満ち足りている」などと言えるでしょう。でも、主イエスは弟子たちに向かって言うのです。「あなたがたに平和がある。神とあなた方との関係は少しも損なわれていない。十分である」と。
「あなた方に平和があるように」とはそのような意味の言葉です。
この言葉は、イスラエルの言葉では「シャローム」という言葉です。
今では挨拶で「こんにちは」というような軽い感覚でも使われますが、この言葉の本来の意味は、「あなた方に、神の与える平和がある。あなたがたは神の祝福を受けている」ということなのです。
主イエスの十字架を目の当たりにした弟子たちは、神と自分たちとの関係が満ち足りていて少しも損なわれていないとは言えません。でも、主イエスは、神と弟子たちの関係について、シャロームつまり十分かつ完全な状態にあると言ってくださっているのです。
それほどに神は弟子たちを、また私たちを愛して下さっています。神が、私たちを無条件に愛し、十字架の死を乗り越えてなおその先まで愛し続けてくださるのが「神の愛」であり、その愛の現れが主イエスのこの「あなたがたに平和があるように」という「平和の宣言」なのです。
主イエスの十字架によって人々の罪は露わにされました。弟子たちも自分の罪を突き付けられ、怯え、恐れ、おののいていました。でも、主イエスの平和に宣言は、そのような弟子たちの怯えも恐れもおののきも全て取り除き、拭い去り、神はあなたを赦し、愛し続け、あなたを大切な一人の人として受け入れて生かそうとしておられます。その神の熱い思いが、復活の主イエスをとおして「シャローム」と言ってくださっています。
この言葉が、私たちと主なる神との関係を補ってなお余りある完全にして充分なものにして下さっています。
ただ、私たちは今日の福音から導きを受け、この愛をいただいている者として、ひとつ見落としてはならないことがあります。
それは、甦った主イエスさま手足と脇腹には私たち人間が主イエスさまを十字架につけて負わせた傷があるということです。
主なる神が十字架と復活を通して私たちを赦しかつ愛するということは、過去の一切を水に流して「無かったこと」にして済ませることではないのです。
主イエスの脇腹と手足には、人が主イエスに罪を負わせて十字架に追いやった証である傷がはっきりと残っています。主イエスを通して与えられる赦しとは、私たちの罪を見て見ぬ振りをするような無責任な赦しではありません。私たちと正面から向き合って罪を照らし出し、なおかつ罪人である私を赦して愛してくださる赦しなのです。この罪に対する態度が曖昧であれば、十字架の先にある復活の恵みも曖昧になります。
主イエスを失い、自分を失ってしまった弟子たちは、この愛の力によって罪ある自分を葬り、喜びをもって神の恵みの中に新しい自分として生きることが出来るようになっていきます。その意味で、主イエスが言っておられる「あなた方に平和があるように」という御言葉は、私たちを古い罪ある自分が死んで、神がお創りくださった自分に立ち返り、絶えず新しい自分として生きていくことが出来るように促している言葉であり、私たち自身の死と復活に関わる言葉なのです。
甦ったイエスは、「あなた方に平和があるように」と宣言し祝福して下さいました。主イエスは、今、私たちにも「あなたがたに平和があるように」というみ言葉を届けてくださっています。
このあなたがたに平和があるようにという言葉は、ヘブライ語で「シャローム アレヘム」という言葉であり、この「シャローム(平和)」という言葉からシャロマタイズという言葉が生まれています。この言葉は、シャローム(主の平和)という言葉を動詞化してシャロマタイズというと言葉にして、神のシャロームをこの世に実現化していくことを意味する言葉です。
この言葉を用いて言えば、わたしたちは、主イエスの十字架と復活によってこの世に生かされている者であり、この地をシャロマタイズしていくために、つまりこの場所から主イエスによって与えられたシャロームを宣言し、実現していくために、ここからそれぞれの生活の場に遣わされていきます。
復活した主イエスが「あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(20:21)と言って、神の愛の勝利を宣言し、私たちを神の平和の実現のためにお遣わしになります。主イエスの御言葉に生かされ、共に主の体と血を受け、「主の平和」を実現するために派遣されて参りましょう。