2024年04月07日

キリストの平和  ヨハネによる福音書第20章19-31   復活節第2主日 

キリストの平和   ヨハネによる福音書第201931  B年 復活節第2主日 2024.04.07


  復活節第2主日の聖書日課福音書は、毎年同じ個所が採りあげられていますが、私は毎年この主日の説教準備をする度に、聖餐式の始め唱和と「平和の挨拶」のことを思い起こします。

 今日も、この聖餐式は「主イエス・キリストよ、おいでください」「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と唱和して始まりました。そして、この聖餐式で、私たちは罪の赦しを確認した後に互いに「主の平和」と挨拶を交わしてから主イエスの御体と血に与ることになります。

 私たちは、今日の聖書日課福音書から、復活の主イエスに「あなたがたに平和があるように」と祝福を与えられていること、また、主の平和のために生かされ遣わされていく者であることを確認したいと思います。

 主イエスが十字架にお架かりになった日から三日目の朝、ペトロとヨハネは主イエスのお墓が空であるのを確認しています。また、主イエスを愛する女性たちからイエスは生きておられると言う知らせを受けました。それでも弟子たちは一つ部屋の中に閉じこもり、息を殺してその日を過ごし、その日も暮れようとしていました。弟子たちは、戸には鍵を掛け、誰も言葉を発せずに押し黙り、息苦しいほどの思いで何も出来ずにその日を過ごしました。

 甦った主イエスはそんな弟子たちのところに来て、その真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、弟子たちにご自分の両手と脇腹にある傷跡をお示しになりました。今日の福音書には「弟子たちは主を見て喜んだ」(20:20)と記しています。

 この日の3日前、主イエスは十字架の上に磔にされてしまいました。自分たちには止めることの出来ない大きな力に動かされ、流されて、その中で弟子たちはみなそれぞれに自分の不信仰と罪を顕わにされました。

 例えば、主イエスが捕らえられた時、弟子たちはみな主イエスを置き去りにして逃げ出しました。ご自分の受難の死を予告する主イエスに向かって「あなたのためなら死ぬ覚悟も出来ています」とまで豪語したのに、イエスが捕まえられる時になると、弟子たちは皆、我を忘れてその場にイエスを残して逃げ去ったのでした。ペトロは気を取り直して大祭司の館の中にまで入り込み、捕えられたイエスの様子を伺っていましたが、「お前もあのイエスの仲間だろう」と問われれば、呪いの言葉さえ口にして「違う」と言ってしまったのです。

 主イエスが甦ったという報告を受けても、弟子たちは、自責の念、悔しさ、受け容れ難さを抱えながら、ユダヤ教の指導者たちが自分たちのことも捕らに来ることを恐れて怯えながらその日も暮れようとしていました。

 こんな弟子たちのところに主イエスは復活のお姿を現し、しかも「あなた方に平和があるように」と言ってくださったのです。弟子たちの前にお姿を現された主イエスが最初に口にした言葉は、お叱りの言葉ではなく、恨みや呪いの言葉でもなく、神と弟子たちの間の「平和の宣言」であり、祝福の言葉だったのです。

 ここで主イエスが言っておられる「平和」とは、単に争いやもめ事のない状態の事ではなく、神と人との関係が十分であること、愛が満ち足りていること、少しも損なわれてはいないことであり、言葉を換えれば「神が共にいてくださる喜びがある」ということです。弟子たちには信じられないほどの恵みに満ちた言葉です。弟子たちは主イエスを見捨てもしたし、「彼を知らない」とも言いました。自分たちの方からは、どうして「神との関係は十分である」とか「満ち足りている」などと言えるでしょう。でも、主イエスは弟子たちに向かって言うのです。「あなたがたに平和がある。神とあなた方との関係は少しも損なわれていない。十分である」と。

 「あなた方に平和があるように」とはそのような意味の言葉です。

 この言葉は、イスラエルの言葉では「シャローム」という言葉です。

 今では挨拶で「こんにちは」というような軽い感覚でも使われますが、この言葉の本来の意味は、「あなた方に、神の与える平和がある。あなたがたは神の祝福を受けている」ということなのです。

 主イエスの十字架を目の当たりにした弟子たちは、神と自分たちとの関係が満ち足りていて少しも損なわれていないとは言えません。でも、主イエスは、神と弟子たちの関係について、シャロームつまり十分かつ完全な状態にあると言ってくださっているのです。

 それほどに神は弟子たちを、また私たちを愛して下さっています。神が、私たちを無条件に愛し、十字架の死を乗り越えてなおその先まで愛し続けてくださるのが「神の愛」であり、その愛の現れが主イエスのこの「あなたがたに平和があるように」という「平和の宣言」なのです。

 主イエスの十字架によって人々の罪は露わにされました。弟子たちも自分の罪を突き付けられ、怯え、恐れ、おののいていました。でも、主イエスの平和に宣言は、そのような弟子たちの怯えも恐れもおののきも全て取り除き、拭い去り、神はあなたを赦し、愛し続け、あなたを大切な一人の人として受け入れて生かそうとしておられます。その神の熱い思いが、復活の主イエスをとおして「シャローム」と言ってくださっています。

 この言葉が、私たちと主なる神との関係を補ってなお余りある完全にして充分なものにして下さっています。

 ただ、私たちは今日の福音から導きを受け、この愛をいただいている者として、ひとつ見落としてはならないことがあります。

 それは、甦った主イエスさま手足と脇腹には私たち人間が主イエスさまを十字架につけて負わせた傷があるということです。

 主なる神が十字架と復活を通して私たちを赦しかつ愛するということは、過去の一切を水に流して「無かったこと」にして済ませることではないのです。

 主イエスの脇腹と手足には、人が主イエスに罪を負わせて十字架に追いやった証である傷がはっきりと残っています。主イエスを通して与えられる赦しとは、私たちの罪を見て見ぬ振りをするような無責任な赦しではありません。私たちと正面から向き合って罪を照らし出し、なおかつ罪人である私を赦して愛してくださる赦しなのです。この罪に対する態度が曖昧であれば、十字架の先にある復活の恵みも曖昧になります。

 主イエスを失い、自分を失ってしまった弟子たちは、この愛の力によって罪ある自分を葬り、喜びをもって神の恵みの中に新しい自分として生きることが出来るようになっていきます。その意味で、主イエスが言っておられる「あなた方に平和があるように」という御言葉は、私たちを古い罪ある自分が死んで、神がお創りくださった自分に立ち返り、絶えず新しい自分として生きていくことが出来るように促している言葉であり、私たち自身の死と復活に関わる言葉なのです。

 甦ったイエスは、「あなた方に平和があるように」と宣言し祝福して下さいました。主イエスは、今、私たちにも「あなたがたに平和があるように」というみ言葉を届けてくださっています。

このあなたがたに平和があるようにという言葉は、ヘブライ語で「シャローム アレヘム」という言葉であり、この「シャローム(平和)」という言葉からシャロマタイズという言葉が生まれています。この言葉は、シャローム(主の平和)という言葉を動詞化してシャロマタイズというと言葉にして、神のシャロームをこの世に実現化していくことを意味する言葉です。

 この言葉を用いて言えば、わたしたちは、主イエスの十字架と復活によってこの世に生かされている者であり、この地をシャロマタイズしていくために、つまりこの場所から主イエスによって与えられたシャロームを宣言し、実現していくために、ここからそれぞれの生活の場に遣わされていきます。

 復活した主イエスが「あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(20:21)と言って、神の愛の勝利を宣言し、私たちを神の平和の実現のためにお遣わしになります。主イエスの御言葉に生かされ、共に主の体と血を受け、「主の平和」を実現するために派遣されて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 22:18| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月01日

ガリラヤでイエスにお会いする マルコによる福音書16章1-8  復活日

ガリラヤでイエスにお会いする   マルコによる福音書16章1-8  復活日 2024.03.31


(8) 2024年3月31日(B年) 復活日 説教小野寺司祭 - YouTube

 先主日、私たちはマルコによる福音書から主イエスの十字架の叫びを聞きました。 その叫びについて福音記者マルコは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。これはわが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですかという意味である。」と記しています。

 その叫びは、全く罪のない神の子イエス・キリストがこの世で御心を貫いて生きた結果、十字架の死を引き受けて、息を引き取る前の叫びでした。

 主イエスのこの叫びを聞いた人々の中で、例えば主イエスを十字架につけたユダヤ教の指導者たちは「自分を神の子だと名乗った男が、最後には神に捨てられて絶望の叫びを上げた」こととして受け止め、あんな叫びを上げる男はやはり神の子などではなかったと思ったことでしょう。或いは、主イエスの弟子たちは、イエスが最も助けを必要としている時なのに、神は沈黙を続けていて、イエスは神に対する不信と嘆きを訴える叫びをあげたのだと考えたかも知れません。

 主イエスの十字架の叫びは、その十字架を取り巻く人々の心の奥深くにあるそれぞれの罪を照らし出して、顕わにする叫びでした。でも、主イエスの十字架は、それぞれの人の罪を暴き立てて人々を糾弾するためではなく、人々の罪をご自分の身に引き受けてその人々を神の御心に立ち返らせるためにご自身が罪人の身代わりとなって献げられるための十字架だったのです。

 主イエスの十字架は、全ての人を照らし、浮き彫りにし、えぐり出しその罪を明らかにして、私たち一人ひとりに迫り、私たちを神の前に立たせてそれぞれの罪をその人に突き付けてきます。

 それと同時に、主イエスの十字架は、主イエスが私たち一人ひとりの罪を担い、ご自身に引き受けて身代わりとなって完全な赦しを与えてくださったことの確かな証(しるし)になりました。

  このことを、ユダヤ教の儀式の脈絡から意味づけると、次のようなことが起こっていたのです。

 主イエスが十字架につけられたのは、ユダヤの最も大切な祭りである過越祭の時でした。エルサレム神殿の中では大祭司によって傷のない小羊が屠られます。その小羊はイスラエルの民の罪のための生け贄として献げられ、罪ある人の身代わりとされました。そして、傷のない小羊の血を受けるイスラエルの民は浄められて神の懲らしめを受けずに済むことになるという儀式が行われていました。同じことが、小羊を生け贄とするのではなく全く罪のない神の子を生け贄として、神殿の中でではなくエルサレム城外のゴルゴタの丘の上で行われているのです。

 十字架の主イエスは、神殿の中で毎年繰り返される生け贄の小羊の意味を超えて、罪のないご自身を十字架の上に献げることによって、イスラエル民族の枠を超えて全ての人のために永遠の罪の浄めと贖いを完成する神の小羊となってくださいました。私たちはこの主イエスによって、私たちの罪は全て神の御前に届けられて赦されているのです。

 このようにして、神の子イエス・キリストが十字架の上に生け贄として献げられ、救いのお働きは成し遂げられ、主イエスは墓に葬られました。

 でも、神さまのこの世界に対するお働きは、それで終わりではありませんでした。神さまのこの世界に対する働きの計画は、ここから世界に拡がって続きます。主イエスがこのようにして人々の罪を担って十字架について下さったことで、神さまのご計画は次の新しい段階に移るのです。

 十字架で死んだ主イエスは甦って、救いのご計画はイスラエルの枠を超えて世界に拡がり始めます。神は墓に納められた主イエスを甦らせ、神の愛の働きはイエスの十字架で終わってしまったわけではなく、ここから世界の隅々にまで及ぶことになり、私たち一人ひとりの心の中にまで及ぶことを知らせる働きが始まるのです。

 主イエスの復活が私たち一人ひとりの罪を赦し新しい世界に生きることを導いてくださっていることを確認するために、私たちは、主イエスの十字架の出来事をしっかりと見据えておくことが必要になります。

 主イエスは、三日前の金曜日、午後3時頃に、十字架の上で息を引き取られました。その間際に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」と叫んでおられます。

 神が主イエスをこの世にお遣わしになり、主イエスがその働きを全うすれば、十字架の死を自分の身に引き受けないわけにはいかなくなります。死ぬことは、神との関係が断ち切られてしまうことであり、当時、死は永遠の滅びに向かうことであると捕らえられました。

 主イエスはそのような死の間際に、神に向かって「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と神に向けて叫んでおられますが、この叫びには主イエスが神を愛しぬく姿が表れていることを理解しておきたいのです。

 イエスは神に見捨てられるほどの経験をしながらもなお神を愛しておられます。「愛」という言葉は単なる好きか嫌いかの感情のことではなく、相手に神の御心が現れ出るようにどこまでも関わりぬくことを意味しており、イエスの叫びは例え自分が神に見捨てられることになろうとも、どこまでも神に関わり続ける姿がそこに浮かび上がっているのです。主イエスは十字架の苦しみという極めて制限された状態にありながら、御心を貫き通した自分の思いを主なる神に向けて叫んでおり、この主イエスの叫びこそ究極の祈りであると言えるのです。

 しかし、主イエスを処刑する人々や十字架を取り巻く人々には、この十字架の出来事の背後に進む神の働きとそのご計画には全く気付くことはありませんでした。また、主イエスの弟子たちも、失望のあまり、主イエスの死を通して成し遂げられる主の愛の働きには、この時にはまだ気付けないままだったのです。

 そして、主イエスの十字架から三日が経ちました。

 安息日が明けた朝、マグダラのマリアたち3人の女性がイエスが葬られた墓に向かいます。彼女たちは、イエスの遺体にもう一度香油を塗り、布をまき直し、お別れをしようとしていました。彼女たちが墓の前まで行くと、墓の入り口の重い大きな石は脇に転がっており、入り口は開き、墓の中には白い長い衣を着た若者がいました。墓の中は空でした。その若者は、女性たちにこう告げたのです。「さあ、行って弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』と。」

 主イエスは甦って、弟子たちより先にガリラヤに行っておられ、あなたたちはガリラヤで甦りのイエスに会うことができると天の使いの若者は言うのです。主イエスによって示された神の愛は墓に閉じこめられ封印されて終わってしまったのではありませ。主イエスは甦り、主イエスによって示された神の愛は死を打ち砕き、主イエスは既に弟子たちより先にガリラヤに行っておられます。

 甦った主イエスが弟子たちに会う場所がガリラヤであることには大切な意味があります。

 ガリラヤとは、弟子たちが初めに主イエスと出会った場所であり、弟子たちはガリラヤ地方で人間をとる漁師として主イエスの働きのために召し出されたのでした。その当時、ガリラヤ地方は「辺境のガリラヤ」とも呼ばれていたように、ガリラヤという言葉には、日本語の「田舎者」という言葉のように蔑みの意味も含まれていました。

 主イエスの空の墓で白い衣をまとった若者が告げたガリラヤとは、人が片隅へと追いやられ、蔑まれ、不自由にされ、存在を奪われるような者の場の事であり、私たちの内なるガリラヤに目を向ければ、自分の心の片隅の、分かち合えない悩みや醜さや後悔が潜んでいるところと言えます。

 主イエスは甦って私たちより先にそのガリラヤに行かれ、そこで私たちを待っていて下さるのです。弟子たちが初めに主イエスと出会い、人間をとる漁師として召し出されたのはガリラヤ地方でのことでした。私たちも甦りの主イエスに出会うのは、悩みや困難や自分の醜さを感じてどうしようもないと思ってしまうような心の辺鄙な片隅-心の内なるガリラヤ-なのです。甦りの主イエスは既にそこにおられ、私たちを自分の悩みや困難や醜さに向かうように招きます。なぜなら、神はそのような私たちをも愛し受け入れ、そこにこそ神の愛を与えたいとお考えになっておられるからです。天の使いは弟子たちを、私たちを「ガリラヤに来なさい、そこであなたは復活の主イエスにお会いできる」と促します。

 神の愛は主イエスの甦りによって、イスラエルの枠を超えて世界に拡がり始めました。甦りの主イエスは、私たちを生かして新たに生まれ変わって歩むことへと招き、導きます。

 主イエスの愛の力は、甦って、罪の中に閉じこめられた人や打ちひしがれている人を再び起き上がらせ、罪を赦された新しい人に生まれ変わらせ、それぞれに神から与えられている命を主イエスと共に生きていくように導きます。

 神の愛を受け容れた人は、罪を赦された喜びと感謝によって、新しい歩みが始まります。

 私たちは、十字架を通して知らされた神の愛と赦しを受け入れる時、私たちの心の内のガリラヤのような心の片隅に復活の主イエスが既におられ、そこに働く神の愛と出会えるのです。十字架の上で見捨てられて叫びを上げたお方が、甦って、私たちを生かし導いてくださいます。

 御子イエス・キリストの十字架の死と甦りを感謝して、復活の主イエスが私たちと共に歩んでくださる喜びの人生を歩んでいきましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 11:02| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月24日

十字架上の叫び  マルコによる福音書15章1-39      復活前主日

マルコによる福音書15章1-39     復活前主日  2024.03.24

 復活前主日になりました。

 主イエスはエルサレム城外のゴルゴタの丘で十字架に架けられました。主イエスが十字架に磔にされたのは金曜日のことであり、その前の日曜日に、主イエスは弟子たちとエルサレムに入っていかれました。

 この時イスラエルの民は、ロバに乗って入城する主イエスを出迎えます。イスラエルの民は主イエスをまるで敵国との戦いに勝利して戻ってくる王(凱旋の王)を出迎えるように、手に持ったシュロの枝を振り、自分の上着を道に絨毯を敷くように敷いて、「ホサナ、ホサナ」と叫んで歓迎したのでした。

 それにもかかわらず、主イエスはその4日後、木曜日の夜にはユダヤ教の指導者たちに捕らえられて、翌金曜日には殺されることになります。

 特にマルコによる福音書のこの場面を読んでいると、他の福音書に較べて、主イエスが十字架に架けられる場面がぐんぐんと近づいて行く印象を強くします。主イエスが十字架につけられるに至る経過の中に、なぜイエスが十字架につけられることになったのかの理由は少しも明らかになってきません。

 マルコによる福音書の中でも、例えば第1455節以下に「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。イエスに対する偽証をしたものは多かったが、一致しなかったのである」と記し、イエスを処刑しようとする人たちにもその確かな口実を挙げることはできなかったことが記されています。また、59節にも彼らの幾人かが偽証しますが「しかし、この場合も彼らの証言は一致しなかった」と記しています。

 そして第1464節で、大祭司はイエスの言葉尻を捕らえ強引に「諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」と問い、「一同はイエスは死刑にすべきだと決議した。」と記し、イエスを処刑する確かな理由など何もなかったことを福音記者マルコは伝えています。

 そして、イスラエルの指導者たちがそのイエスを瀆神罪(神を冒涜した罪)で死刑にするのであれば、ローマ帝国が反逆罪や騒乱罪に適用した十字架刑にするのではなく、イスラエル指導者がイスラエルの律法に基づいて「石打の刑」にするはずです。このようなことを合わせ考えてみると、主イエスは、正当な手続きに依らずに、イスラエルの指導者たちの手によって強引に、リンチ同然に殺さていったことが分かるのです。

 ことにマルコによる福音書では、十字架のイエスが大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」と大声で叫んで息を引き取られたことを記していますが、福音記者マルコはイエスの死についての神学的な意味づけを与えたり、十字架で死んだイエスについての解釈や意味づけをしているわけではないのです。

 福音記者マルコは、荒削りな文章でイエスの死に至る様子をそのまま記していると言えます。

 私たちはマルコによる福音書によってイエスが処刑された出来事の物語を読むと、「こんな酷いこと、こんな惨いことがあって良いのか」という憤りや嘆きの思いが湧き上がってくるはずなのです。

 そして、福音記者マルコが記した主イエスの言葉によって、私たちは主イエスと福音記者マルコとの三者で御心を行うものを抹殺使用とする存在に対する憤りや嘆きを一つとされるのです。

 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」

 この主イエスのみ言葉は、憤りや嘆きに留まる言葉ではありませんでした。

 弟子たちが、この言葉が憤りや嘆きを超えた神の御子の言葉であったことに気付き、それを感謝と共に自分のこととして受け入れるまでには、時間が必要でした。それも、弟子たちが自分で考えて導き出した答ではなく、主イエスの復活、復活してから40日経った日に自分たちの見ている前で主イエスが天に挙げられたこと、更にその10日あとに自分たちに聖霊が与えられたことを通して、やっと、少しずつ、主イエスの十字架の死の意味が分かり始め、感謝と喜びに生きられるようになっていったのです。

 主イエスは、貧しく弱い人々や罪人呼ばわりされる人々と関わって生涯をおくり、その果てにあってはならない死を遂げました。福音記者マルコは、この福音書を通して神の御心を生きぬく者がこんな死に方をして良いのか、そんなわけないだろう、とこの福音書を通して私たちに問いかけているように、私には思えるのです。

 福音記者マルコにとっての福音とは主イエスそのものであり、マルコはこの福音書を「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という言葉で始めました。その福音が罪のないイエスの理不尽な死で終わって良いはずなどないのに、神の子イエスが伝える喜びの知らせは、この世の権力者に表される人間の罪によって十字架の上に追いやられて潰されてしまいました。

 他の福音書は主イエスの生涯と十字架にそれぞれ大切な意味と解釈を施しています。

 例えば、マタイによる福音書はイエスの十字架は旧約の律法と預言の完成であるとし、ルカによる福音書では並んで十字架刑に処せられた犯罪人にも楽園を約束して悔い改める者を執り成すイエスを描き、ヨハネによる福音書では主イエスがご自分の働きは「成し遂げられた」と言って息を引き取っておられます。でも、マルコによる福音書では、そのようなことには触れず十字架の上から「なぜわたしを見捨てたのか」と叫ぶイエスを描いています。

 つまり、マルコによる福音書では、神の子イエス・キリストの福音を考えるのに、理屈も意味も解釈も不要であり、神の御心を貫き通して生きたこのイエスの姿こそ神のお考えそのものであり、その神の子が十字架に架けられて殺されたのだ、こんなことがあって良いのか!これがマルコの伝えているイエスの十字架物語なのです。

 そして、もし私たちがこのようなマルコによる福音書の十字架物語から何かメッセージを受けようとすれば、そのメッセージとは、あなたはこのイエスが神の子であると信じ、このイエスがあなたと共に生きていてくださることを信じるのかという問いかけに、「主よ、信じます」と答えることであり、その一点の他はみなそこから派生する枝葉のことに過ぎないのです。

 神の国が実現するとは、主イエスが命を掛けて示してくださった神の御心に従い、世界の人々が皆神から与えられた命を育んで、そのように生きる者同士が出会って、共に生きる中に神の御心が開かれてくる喜びを共にするということです。それがイエスによって示され、神の国はイエスによって開かれているのに、その神の子を十字架に架けて殺すことなど断じてあってはならない、それでもこのようにして神の国の実現に尽くして十字架に死んだイエスを救い主と信じるのか、これが福音記者マルコが伝える十字架のメッセージです。

 このイエスに倣って生きながら、イエスのように迫害され殺されていった人は沢山います。

 例えば、アメリカで黒人差別撤廃のために働いたマルチン・ルーサー・キング牧師を思い浮かべる人もいるでしょう。或いは、そのような偉人を取りあげなくても、差別を受けて苦しむ中で「神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ人がいれば、私たちは「そんなことがあってよいのか、イエスを十字架に付けたことと同じことがあって良いのか」と十字架のイエスと共に叫ばねばならないのではないでしょうか。

 私たちがイエスと共にこの叫び声を上げられるとき、十字架の上のイエスの叫びは絶望の叫びに留まらず、「御心が天に行われるとおり地にも行われますように」と祈りつつ神の御心の実現を求める力強い叫びに変わっていくのです。

 私たちも、もし御心を貫き通す中で神に見捨てられるほどの思いになることがあれば、ためらうことなく「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てるのですか」と叫びたいのです。そのように御心の実現を求める思いを叫び続けることを通して、私たちは主イエスと共に、神の大きな御心の中で、絶望の先に新しく生まれ変わる希望-復活の希望-を与えられるのです。

 主イエスの十字架の叫びに深く思いを向ける聖週を過ごし、主イエスの復活の感謝と喜びに与る日を迎えられますように。


posted by 聖ルカ住人 at 16:14| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月18日

一粒の麦が死ななければ  ヨハネによる福音書12章20-33     大斎節第5主日

一粒の麦が死ななければ   ヨハネによる福音書122033         大斎節第5主日  2024.03.17


 今日の聖書日課福音書から、一節を思い起こしてみましょう。

 ヨハネによる福音書第1224節です。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 主イエスは、当時の日常生活の中から、身近なことを例えにして教えを宣べ伝えられました。例えば、羊飼いと羊のこと、ぶどう園のこと、金銭のこと、そして種蒔きや麦のことも、主イエスがなさった教えの中に沢山でてきます。こうした身近な例えによって、主イエスは、弟子たちや群衆に神の国や救い主のお働きについてお教えになり導きを与えておられます。

 主イエスの例えの題材は、身近でありながら、その内容は多くの場合、当時の常識や一般論とは全くかけ離れた発展があり、弟子たちが理解することも難しいことがありました。

 今日の主イエスの御言葉も、1223節に「人の子が栄光を受ける時が来た」とありますが、この後に続けて語る主イエスの言葉は当時の人々が思い描く「栄光」とは全く違う内容でした。

 「栄光を受ける」という言葉を聞けば、この世での名誉を得ることや人々の賞賛を受けることであるかのように思えたことでしょう。

 私たちは、既に主イエスの十字架の死と復活を知っており、それを信仰の根幹に置く私たちには、主イエスの栄光はご自身の十字架の死と復活なしにはあり得ないことを知っていますが、当時の弟子たちには、実際に主イエスが十字架に架かり甦るまで、この言葉の本当の意味は分からなかったのではないでしょうか。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスの栄光は、ご自身が一粒の麦のように死んで、その死によって多くの実を結ぶことによる栄光であり、その栄光は、イスラエルの枠を超えて、イエスが世界の人々に真の命を与えるメシア(救い主)であり、イエスにその栄光があることを伝えています。

 聖書は、主イエスがユダヤの歴史の中に生まれながら、当時のイスラエルの枠を超えて、世界の普遍的な救いを与えたメシア(救い主)であることを示しています。

 福音記者ヨハネは、聖書日課の箇所で、主イエスの福音がユダヤ教の枠を超えて世界に拡がっていくその動き(ダイナミクス)を弟子のフィリポを登場させることで暗示しているように思えます。

 この場面の、弟子のフィリポに着目してみましょう。

 主イエスの弟子フィリポは、12弟子の中でだだ一人ヘブライ系の名ではなくギリシャ系の名前の使徒でした。

 このフィリポのもとに幾人かのギリシャ人が来て「イエスに会いたい」と言いました。このギリシャ人たちは過越祭のためにエルサレムにやってきた人たちであり、イスラエルの人にとって「ギリシャ人」と言えば、古代ギリシャ哲学を連想し、生きるために真理を求めて互いに論じ合う人たちとして思い浮かべたはずです。ここで主イエスに会おうとするギリシャ人たちも主イエスに人が生きる意味や真理についての答を求めていたのかもしれません。

 フィリポはギリシャ人がやってきてイエスに会いたがっていることを先ず仲間のアンデレに伝え、二人は主イエスにそのことを伝えたのでした。

 主イエスはこのように異邦人がイエスを訪ね求めて来たことを聞くと、「人の子(主イエスご自身)が栄光を受ける時が来た」と言い、ご自身が「一粒の麦」として十字架に死に復活することを話し始めるのです。

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ(12:24)」。

 この言葉は、ヨハネによる福音書特有の表現による「主イエスの受難予告」の言葉です。主イエスは、ご自分が十字架の苦しみを受けて「一粒の麦」のように死ぬことによって、福音はユダヤ人の枠を超えて異邦人にも拡がると言っているのです。

 弟子たちには、主イエスの働きはイスラエルの範囲に限られ、その範囲を超えることはないように思えていました。けれども、今、フィリポによって、ギリシャ人たちにもイエスが取り次がれるのです。

 このことを契機として、主イエスはご自分の時(十字架に架かる時)が迫っていることを弟子たちにはっきりと伝え始めています。

 ヨハネによる福音書の全体の構成の中で、今日の聖書日課福音書の箇所は、異邦人の代表としてのギリシャ人たちが主イエスのもとに集まってくることで、主イエスの救いのみ業は、ユダヤイスラエル民族の枠を超えて、異邦人の間にも-つまり世界全体に-拡がっていくことを暗示する箇所として位置付けられているのです。

 主イエスは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言っておられます。

 「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ということは、ただ命を落とすことやその存在がなくなることではありませんし、ただ自分を否定して神の言葉を鵜呑みにすることでもありません。

 一つの実例を挙げてみたいと思います。

 日本キリスト教海外医療協力会が医師、看護師、保健師などをアジア、アフリカの貧困国の医療支援活動が立ち上げられたのは1960年代の始めでした。

 日本の第二次世界大戦に向かったことの反省から、世界の中でも極めて貧しい状態にある国に医師、看護師、保健師を派遣したり、現地で働き人を養成するためにこの団体が設立され、海外に派遣する人材を探し始めた頃、その活動の趣旨を知った一人の医師がいました。彼は、現地で働く医師が必要とされていることを知り、心を揺さぶられ、思わず「私を遣わしてください。」と名乗り出てしまったというのです。その医師は、まるで何かに突き動かされるように引き受けてしまった後に我に返って、「家に戻ったら妻には何と言おう?!」と思い悩みながら帰宅しましたが、直ぐに思い切って「自分が医師として海外で働くことを決めてきた」と告げたそうです。するとその医師の奥様は「それは本当に良かったですね」と喜んだという話です。そしてこの方は、日本から海外医療支援の先駆的な働きをなさり、お連れ合いも現地に渡って18年に渡ってその医師を支えて過ごしたのでした。

 私にはこの医師の働きは、まさに一粒の麦としての働きであったように思えるのです。

 このように、「一粒の麦が死ぬ」ということは、個人的には、現状に自分を留め置こうとする殻を破り、与えられた自分の使命を生き抜いていくことを意味しています。

 そして、私たちがそのように「一粒の麦」となるとすれば、その前提として、主イエスが十字架の死と復活に生きてくださり、主イエスの十字架と復活がイスラエルの枠を超えて世界に救いを与えてくださったことが私たちを支えてくださっているのです。

 主イエスが「一粒の麦」となってご自身をこの世に与えてくださったことによって私たちは生かされています。

 「一粒の麦が死ねば」という主イエスの言葉は、イスラエルの民の中に閉じ込められていた神の愛が、イエスによって世界中に広がっていくことを示す言葉であると言えます。

 私たちは、主イエスを通して神の命をいただき、その命に与り、日々新しくされて生きる喜びに導かれて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 20:59| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月10日

五つのパンから  ヨハネによる福音書6章4-15 

五つのパンから  ヨハネによる福音書6章4-15       大斎節第4主日  2024.03.10

   

 主イエスが僅かな数のパンと魚で大勢の人を飽き足らせた物語は、4つの福音書のどれにも記されています。それだけ、昔から主イエスを救い主と信じる人たちが集まるとき、この物語が喜んで語り伝えられていたのでしょう。福音書の他の箇所にも、主イエスが人々と食事する場面がありますが、その食事をとおして、多くの人が主イエスと交わり、慰めや励ましを受け、深い喜びを与えられたのです。私たちもこの聖餐式の中で、主イエスのみ言葉とみ糧を受けるためにここに招かれています。

 過越祭が近付いていました。イスラエルの民にとって最も大切な祭であるこの過越祭をエルサレムで迎えるために、沢山の人がエルサレムに向かって旅をする時期のことです。主イエスと弟子たちの許に大勢の人々が集まってきていますが、その人々もエルサレムに向かう途上にあったものと思われます。主イエスはご自分のもとに集まる大勢の群衆をご覧になって、弟子の一人フィリポにお尋ねになりました。

 「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。

 フィリポは答えました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。

 私は、フィリポは機転の利く人だったと想像します。フィリポは、人々を見回しておおよその人数を掴み、その人数からいくらかかりそうかまで計算して主イエスに答えています。

 その当時、一人の人が1日働けばその労賃は1デナリオンでした。今そこには男だけでも五千人ほどが集まっており、女性や子供もいたことを考えれば、この群衆がめいめい少しずつ食べるのに二百デナリオン以上が必要であるというフィリポの計算は妥当なものだったでしょう。二百デナリオンは、一人の人が二百日働いて手にする金額です。あまりに多い群衆の前にフィリポは主イエスにその現状を悲観的に伝えることしか出来ませんでした。

 また、そこにはアンデレもいて、アンデレは主イエスに次のように言っています。「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。

 アンデレも、大勢の人を前にして、主イエスの問いかけに否定的に答えるほかありませんでした。

 しかし、主イエスは人々を草の上に座らせ、少年が持っていたパンを受け取り、感謝してから座っている人々に分け与えられ、また魚をも同じようにしてお分けになります。すると、五千人を超える群衆は十分に食べて飽き足りるまでになりました。そればかりではなく、主イエスの言葉に従ってパンの残りを集めてみると、それは十二籠に一杯になったのでした。

 こうして子どもの持っていた大麦のパン五つと魚二匹は、主イエスの御手を通して限りなく増えて、男の人だけでも五千人という大勢の人を養うことが出来たのです。

 弟子のフィリポとアンデレは、「二百デナリオンあっても足りない」、「こんな大勢では僅か五つのパンでは何の役にも立たない」と言いました。二人とも群衆の多さと自分たちの前にある物の少なさを見比べて、何も出来ないでいます。でも、主イエスは少年の持っていた、取るに足りないと思われたパンを取って感謝し、人々に分け与え始めました。ほんの僅かの一人当たり五千分の五にしか過ぎないパンともっと少ない魚が、主イエスの御手を通して人々に分け与えられると、群衆は十分に食べて飽き足りるまでになりました。

 私たちが自分の力だけに依り頼む時、フィリポやアンデレがそうであったように、五つのパンを五千人で分ければ一人当たりは所詮千分の一に過ぎません。しかし、貧しい大麦のパン五つが主イエスの御手に受けられて祝福されるとき、そのパンを受ける者の恵みは限りなく大きくなり、そこにいる人々を飽き足らせるばかりでなく、余りが十二籠に満ちるのです。

 主イエスの時代、食事を共にすることはそこに集う人々がお互いに仲間であることのしるしになりました。私たちもそうです。同じメニューの食事でも、独りの時と親しい人と一緒の時では、その食卓の豊かさにどれだけ違いがあるか、またそれが粗末な食事であっても家族や親しい仲間と一緒にする食事がどれほど楽しく豊かになるのか、多くの人が体験していることでしょう。昔の人は食事の席を聖なる場と考え、霊の働く場とも考えました。

 主イエスは飼う者のない羊のような大勢の人々が主イエスの方にやってくるのをご覧になり、この人たちと一緒に食事をすることをお考えになったのです。

 食事をすることは神の恵みに与ることです。それは、命をいただき分け合うことでもあります。私たちが日頃口にしているもので、水と塩以外に命と無関係の食べ物は何一つありません。私たちは多くの命を受けて生かされており、その恵みを忘れてはならないでしょう。そのような私たちであれば、全ての命をお創り下さった神の御心から離れて他の生き物の命を奪って生きることしかできなくなれば、それは命の創り主である神に罪を犯すことであり、傲慢であり、命の尊厳を踏みにじることになると言えます。

 人間が命と食物の連鎖の頂点にいるのであれば、人間はただ他の生物を自分のために利用するだけではなく、命を慈しみ、命を感謝し、命の創り主である神に感謝と賛美を捧げることが必要なのではないでしょうか。

 主イエスが五千人を養った奇跡のきっかけは、五つのパンと二匹の魚を持つ子どもを弟子のアンデレが主イエスに引き合わせたことでした。子どもが差し出した僅かなパンと魚が主イエスに受け入れられそのお働きに用いていただけるとき、それは五千分の五にとどまるのではなく、無限とも言える大きな働きにの中に役立てられることになります。

 私たち一人ひとりも、主なる神さまの御心から離れてしまえば、やがては滅び去る小さな被造物の一つに過ぎません。私たちも神の大きな働きの中に用いられ生かされることによって、神と他の被造物とを喜ばせてなお余りある結果へと導かれていきます。私たちも、自分は小さく時には無力に思えることもあります。でも、私たちは主イエスによって受け入れられ、神の大きな働きの中に生かされています。

 神が主イエスを通して私たちを用い生かしてくださろうとするのであれば、私たちはフィリポやアンデレのように、自分の思いの中だけでその可能性を小さくしたり悲観的になったりして良いでしょうか。また、主イエスが私たちを無限の愛の中で用いてくださるのであれば、「たったこれだけでは何になるでしょう」「こんな私では役に立ちません」と手をこまねいていて良いでしょうか。神が私たち一人ひとりに与えてくださった命の賜物を私たちは自分で蔑んだり損ねたりするようなことがあってはならないのです。

 主イエスは、少年の捧げた僅かなパンと魚をお受けになり神に感謝しておられます。子どもが主イエスの働きのために差し出した僅かな食べ物は、主イエスによって祝福されています。私たちもこの少年と同じように、自分の力を、たとえ自分ではそれが取るに足りないと思えても、自分に与えられている恵みを主のお働きのためにお献げ出来ることを喜び、誇りにしたいのです。少年の捧げる僅かな献げ物がやがては主イエスのお働きの中で生かされ、その余りでさえ十二の籠に満ちるのです。

 十二という数はイスラエルの部族の数であり、主イエスの弟子の数です。この物語の「十二」とは、主イエスのために差し出された小さな働きが神の大きな祝福の中で、主イエスのお働きとなって用いられ広がっていくことを意味する数字であると考えられます。

 私たちもそれぞれに主なる神の祝福の中で、生かされ用いられています。主イエスのみ言葉とみ糧に生かされ、主イエスの祝福の中に生かされて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 05:37| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月25日

イエスの受難予告とペトロ  マルコによる福音書8章31-38  大斎節第2主日  2024.02.25

イエスの受難予告とペトロ   マルコによる福音書8章3138  大斎節第2主日  2024.02.25


 今日の聖書日課福音書の中で、主イエスはご自分の受難と死そして復活について予告なさいました。主イエスはその予告を通して、弟子たちがどのように主イエスに従っていくべきかを教えておられます。私たちもこのみ言葉から、どのように主イエスに従っていくべきかを教えられ導きを受けましょう。

 私たちが今日の聖書日課福音書の箇所を理解しようとするとき、マルコによる福音書全体の中でのこの箇所の位置、また前後関係を踏まえておくことが大切でしょう。特に、この箇所の直ぐ前で、ペトロが主イエスへの信仰を表明していますが、そのことを踏まえて今日の箇所を理解すべきであることを心に留めておきたいのです。

 今日の聖書日課福音書の直ぐ前の箇所を確認しておきましょう。

 主イエスは、第829節で、弟子たちに「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになり、ペトロがそれに応えて「あなたはメシア(救い主)です」と言いました。ペトロのこの答は、その時の本当の思いを述べており、嘘や偽りはありません。しかし、この時のペトロは主イエスについての理解はまだ不完全であり不十分でした。この時点でペトロが思い描く救い主と主イエスがこれからたどろうとする神の子メシアとしての歩みの間には、大きな隔たりがありました。

 ペトロがこれまでガリラヤ地方で見てきた主イエスは、目の見えない人や耳の聞こえない人を癒し、飢え乾く多くの群衆に命のパンを与えて飽き足らせ、重い皮膚病(規程の病)の人を清め、ファリサイ派の人々との議論にも負けずに神の国の訪れを示していました。ペトロはその主イエスの弟子として、イエスに自分を委ねることの出来る幸いさえ感じていたことでしょう。ペトロには、これから主イエスがエルサレムに上っていって、そこで十字架刑に処せられると言い出すことなど思いもよらなかったのです。ペトロにとって自分がイエスと一緒にいられることは誇りであり、これからの人生を考えると、ペトロはこの救い主と一緒にいることで自分の前途も開けてくるだろうし、そうであれば舟も網も捨てて主イエスに従って来たことにも十分な意味があったとも思えたことでしょう。

 自分の願いを叶えるような期待をイエスに寄せていたのは、ペトロ一人ではありません。他の弟子たちも皆同様です。そして、主イエスはこのような期待を寄せる弟子たちに向かって、マルコのよる福音書第8章31節にあるように、ご自身の受難を予告なさったのでした。それは、弟子たちにとって思いもよらぬ言葉であり、ペトロは思わず「イエスさま、そんな話はやめて下さい」と言わずにいられませんでした。主イエスは、これからご自分が多くの苦しみを受けユダヤ教の指導者たちに排斥され、殺されることになっていると言われました。ペトロはその主イエスを脇にお連れして、「イエスさま、そんな事を言わないで下さい。あなたはこれからもっと活躍して、あなたが天下を取る時が来るのです。それによってあなたに従ってきた私たちも生かされるのです」と言おうとしたのでしょう。

 ペトロは、主イエスこそ真の救い主であると確信してはいますが、ペトロの理解するイエスと受難のことを予告するイエスとの間には大きな隔たりがありました。ペトロはその隔たりに気付かないまま、イエスが苦しんだり死んだりしてはいけないし、そうなるはずがないと信じて、主イエスを諫め始めたのです。

 主イエスは、ペトロの言葉の背後にある思いを見抜いて、ペトロをお叱りになりました。

 主イエスは、ペトロに「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言ってお叱りになりました。その言葉の前に主イエスは「サタン、引き下がれ(8:33)」とまで言っておられます。主イエスはペトロをとても強く叱っておられますが、この言葉に注目してみましょう。

 33節の「サタン、引き下がれ」という言葉を、聖書の元の言葉であるギリシャ語の言葉を直訳してみると、「行け、私のうしろに、サタンよ。」となります。英語訳では Go behind me,Satan! です。

 この場面で、主イエスはペトロをサタンだと決めつけて追放しようとしているのではなく、ペトロが主イエスの後からついてくることを前提として、主イエスがペトロに「私の後に下がりなさい」と言っておられるのです。ペトロに向けられた主イエスのこの言葉は、ペトロの人格まで否定しているのではありません。主イエスはペトロのことを「私の後ろに回って、私に従いなさい」と招いておられるのです。

 ペトロの中には主イエスに寄せる期待が膨らみ、イエスを誇りに思うペトロにはいつの間にか他の人々に対する優越感が膨らみ、これから主イエスと共に上っていけば人々の上に立って力を振るうことができるかのような思いが大きくなり始めていたのではないでしょうか。そしてペトロは、自分の信仰を表明したメシア(救い主)が苦しんだり殺されてはならないし、自分もまた苦しんだり殺されたりすることなどあり得ないという思いで、主イエスの受難予告を否定したくなったのでしょう。

 このペトロの期待とエルサレムに向かおうとする主イエスとの間には大きな隔たりがあります。ペトロは「あなたは生ける神の子メシアです」と信仰の告白をしましたが、その後すぐに叱られています。それではこのようなペトロの信仰告白は、無意味であり無駄だったのでしょうか。直前のペトロの信仰告白は無に帰してしまったのでしょうか。決してそうではありません。

 この後のペトロが主イエスに一層強く導かれていくためにも、ペトロの信仰告白は大切な節目でした。ペトロがそのように信仰告白をしたからこそ、イエスは弟子たちに受難の予告をしており、このようなプセスを経ながら、ペトロと主イエスの関係は更に深くなっていくのです。そうであるからこそ、イエスは信仰告白の出来るペトロたちにご自身の受難の予告をし、「私の後から自分の十字架を背負って私についてきなさい」と言う招きの言葉をお与えになるのです。

 私たちは、誰も初めから完璧な信仰をもっている者などいません。不完全な信仰の私たちには救い主を理解する仕方にも限界があります。そうであれば、私たちはなおさらペトロのように自分の信仰を主イエスの前にしっかりと表明して、主イエスの後を従っていく必要があるのです。

 私たちも、ペトロのように、主イエスに信仰の誤りを指摘され叱責されることもあります。それは、私たちが絶えず信仰の原点に立ち戻って、その自分を支えていただき受け入れていただきながら導かれる上で、大切な出来事なのです。そうして私たちは今の自分から更に気付きを与えられた自分になり、主なる神との関係を絶えず真実なものにしながら、私たちは信仰の歩みを進めていくのです。信仰告白するのは私たちが信仰を完成した後のことではありません。ペトロを思い起こしてみても、この後にもイエスに叱られ、ペトロは主イエスを裏切りながらも悔い改めて自分の信仰を幾度でも表明しなおし、生涯主イエスについていくのです。

 主イエスは、信仰の歩みを進めていく者を導くために「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言っておられます。このように考えると、「自分を捨てる」とは、決して自暴自棄になることではなく、自分の本心を押し殺して我慢してイエスに従うことでもなく、どこまでも主なる神の御心に自分を照らされて、神の御心を求めて生きることへと導かれ、神に示された自分の使命を忠実に全うすることへと導かれていくことであると言えます。

 私たちを導いて下さる主イエスに向かって、私たちも「あなたこそメシアです。私を生かしてくださる救い主です」と自分の信仰を表明し、絶えず自分を新たにされて、主にある新しい命に生かされるように歩んでいくことができますように。

 私たちの大斎節の信仰生活が御心によって導かれ、育まれ、主イエスの十字架の死と復活を心より感謝する復活日を迎えることができますように。

posted by 聖ルカ住人 at 15:36| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月18日

サタンの誘惑  マルコによる福音書第1章9-13    大斎節第1主日

サタンの誘惑  マルコによる福音書第1章9-13    大斎節第1主日  2024.02.18


 先週の水曜日から大斎節に入り、最初の主日(大斎節第1主日)を迎えました。

 大斎節は、復活日に洗礼を受ける人たちの準備の時として始まり、やがて教会に集う人々にとって復活日を迎えるための修養の時として意味づけられ、主イエスが荒れ野で4040夜断食して悪魔の誘惑を受けた物語にちなみ、主日を除く40日間に定められるようになりました。旧祈祷所(祈祷書文語式文)が用いられていた時代には、大斎節を「克己修養の時」と表現していましたが、その基本的な姿勢は変わりありません。

 私たちは、今年もこの大斎節を祈りと自己教育の時として、私たちの信仰生活をいっそう主の御心に深く結ばれたものとすることが出来るよう、励んで参りたいと思います。

 今日の福音書は、主イエスが洗礼をお受けになった後、荒れ野で40日間お過ごしになり、主イエスはそこでサタンの誘惑を受けられ、その間、野獣と一緒におられそこに天使たちが仕えていたと、簡潔に告げています。

 今日の福音書の箇所を、マタイ、ルカの同じ物語の箇所と比較してみると、マルコによる福音書には、主イエスの「荒れ野での40日間」の内容が極めて短いことが分かります。

 マルコによる福音書では、主イエスは洗礼をお受けになった後、直ぐに、霊に導かれて荒れ野で40日をお過ごしになったことが記されていますが、主イエスが荒れ野でどのようにお過ごしになったかということについては、マルコによる福音書では、主イエスの上に天使の守りがあったことを簡単に伝えているだけです。

 また、マタイ、ルカの両福音書では、主イエスが荒れ野で40日間断食している間にサタンから「神の子なら石ころをパンに変えたらどうだ」と誘惑されたことをはじめ3つの誘惑を受けた受けたことを記していますが、マルコによる福音書はその内容を全く触れていません。

 このように3つの福音書の並行箇所と読み比べてみると、マルコによる福音書では、主イエスが洗礼をお受けになったことと荒れ野でお過ごしになったことを簡潔に記していることがよく分かるのではないでしょうか。

 そして、このような視点からマルコによる福音書を考えてみると、この福音書は、神さまが主権を執られて神のお働きが主イエスを通して着実に進んでいくことが伝えられているように思われます。

 マルコによる福音書は、そのような記し方をする中でも、主イエスが荒れ野でお過ごしになったのが40日間であったことは記しています。福音記者マルコがサタンがイエスをどのように誘惑したのかは全く記さない中で、その期間が40日であったことを記しているのは何か理由がありそうです。

 聖書には、「40」という数字がしばしば出てきますが、その40日や40年は、多くの場合、「徹底した期間」を意味し、その期間が過ぎると新しい次元へと移っていく時に「40」が用いられています。イエスの荒れ野の40日は一つの大切な転換点であり、しかもその舞台は3つの福音書とも「荒れ野」です。

 「荒れ野」は、昔イスラエルの民が奴隷状態であったエジプトから脱出したあと、水も食べ物も乏しい中、シナイ半島をさまよった所です。その年月も40年でした。荒れ野は頼るべき物が無くなる場所です。人はそこで本当に頼るべきものは何か、何によって人の命は支えられるのかを徹底的に問い返されています。

 主イエスは荒れ野にいます。荒れ野は、食べる物もなくなり、話をする相手もなく、ただ自分一人が存在する事を浮き彫りにされる場所です。主イエスも荒れ野で徹底的に神に向き合い、自分に向き合い、誘惑してくるサタンに向き合いまいた。

 そうであれば、自分の本当の姿を顕わにされることを恐れる者や、この世の悪に無頓着で権力欲や物欲のままに生きる者にとって、荒れ野は耐え難い場所となります。それは、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野の生活を強いられると直ぐに「エジプトで奴隷のまま食べ物が与えられる方が良かった」と嘆く姿と重なりました。そして自分を本当に生かす神の力から目をそむけて、神を忘れようとしたり、本当の自分を曝されることを避けて神から逃れ、神に背を向けて生きる誘惑に負けることのなるのです。

 聖書の中の様々な「40」がそうであるように、主イエスが荒れ野で過ごされた40日間は、主イエスがこの後神の国を宣べ伝え、天の国の喜びを伝えるに当たり、自分を振り返り自分と神の関係を練り上げる時であったに違いありません。

 興味深いことに、マルコによる福音書第1章13節によると、主イエスが40日間荒れ野でお過ごしになった時、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」というのです。私たちは、主イエスが「野獣と一緒におられた」という事について、どのようなイメージを持つでしょうか。

 そのヒントになりそうな聖書の言葉を一つ採り上げてみましょう。それは、旧約聖書イザヤ書第11章6節以下の言葉です。ここでは平和の王が支配している姿を次のように謳っています。

 「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み、小さな子どもがそれを導く。雌牛と熊は草を食み、その子らは共に伏す。獅子も牛のように藁を食べる。乳飲み子はコブラの穴に戯れ、乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。」

 この御言葉は、私たち日本人にとってはあまり平和な世界をイメージできる言葉ではないのですが、本来共に生きていくことが出来そうにもないものが、神の支配の下で共に生き、過ごす姿を描いています。マルコは、主イエスが荒れ野でただ独り悪魔の誘惑を受けながら過ごしておられる時、既に主イエスの周りには平和の王の姿が現れ出ており、このイエスによって真の平和が実現していることを伝えているのでしょう。主イエスのおられるところでは、古い罪の世界、つまり分裂や争いをもたらすものは砕け、すべてのものが共に生きる新しい世界が始まっていることを伝えいると考えられます。そして、この御言葉を聞く私たちも、主のみ名によって生きることで、古い罪の世界から、新しい平和の世界へと開かれていくように招かれているのです。

 私たちの生きる世界は、多くの誘惑がついて回ります。人の力を大きく越えて働いてくる誘惑の力を、昔の人は「サタン」と呼びました。「サタン」の力は私たちの目に見えるほどに判りやすく避けることが難しいのです。

 神ではないものが神のように私たちを惑わし、私たちの目を神から背けさせようとしています。そして資源の浪費、環境の破壊、戦争や分裂へと人びとを誘いますが、私たちはこうした悪魔の試みと戦っていかなくてはなりません。

 荒れ野で過ごす主イエスに天使が仕えます。そして現代の荒れ野で生きていこうとする私たちに、荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝ってくださった主イエスが共にいて下さるのです。私たちも主イエスの平和にあずかることが出来るよう、この大斎節を神の言葉に導かれて生かされていきたいと思います。

 そして40日の大斎節の後、大きな転換点である復活日を自分のこととして感謝と喜びをもって迎えることができますように。

 私たちは、40日間の大斎節を神に仕えることを通して、その先にある主の復活の力を受けることが出来るよう、よい祈りと修養の大斎節を過ごして参りましょう。

 
posted by 聖ルカ住人 at 22:04| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月11日

主イエスの変容貌  マルコによる福音書9章2-13      大斎節前主日

主イエスの変容貌  マルコによる福音書9章2-13      大斎節前主日  2024.02.11


   教会の暦では今週の水曜日から大斎節に入ります。顕現節から大斎節に移ろうとするこの主日(大斎節前主日)の聖書日課福音書は、毎年、主イエスの変容貌の箇所が朗読されています。

 この物語はマタイ、マルコ、ルカの3福音書にありますが、主イエスの生涯の中で、この変容貌の出来事は、主イエスがエルサレムに向かって歩み始める直前にあります。この出来事は、主イエスの御生涯の中で、一つの大きな転換点(節目)に位置付けられています。つまり、主イエスの宣教の働きの前半部はガリラヤが舞台になっていましたが、この変容貌の出来事を節目に主イエスはエルサレムに上って行かれるのです。

 主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて、高い山に登られました。すると、主イエスのお姿が弟子たちの見ている前で真っ白く目映く輝きました。そこにエリヤとモーセが共に現れ、3人は語り合っています。ルカによる福音書の同じ物語の箇所には、彼らが語り合っていたのは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期についてであった(9章31)。」と記されています。3人の弟子たちは主イエスのお姿に深く感動しながらも、その出来事をどう受け止めればよいか分からず、何を言えばよいのかも分からず、その場に立ち尽くしていたのでした。

 主イエスの公生涯は、ガリラヤから始まりました。そしてこの変容貌の出来事の前までが、ガリラヤ地方での主イエスを記しており、ここまでが前半部と言えます。主イエスは、悪霊を追い出し、病人を癒し、教えを説き、様々な奇跡を行って沢山の人を導き救いを与えました。主イエスはこの変容貌の出来事の後、エルサレムに向かって歩み始め、エルサレム神殿ではユダヤ教の指導者たちと激しい論争をし、その数日後には十字架の上に処刑されてしまうのです。

 このような、言わば転換点に当たる主イエス変容の出来事は、イエスがどのような意味で救い主なのか、そしてイエスはどのような意味での輝きを放つお方であるのかを示していると言えます。

 主イエスが、ガリラヤ地方で始めた神の国を伝える働きには目覚ましい一面がありました。しかし、人々の多くは、主イエスの働きを見て、主イエスが本来なさろうとすることの思いとは全く違う期待を寄せ、また、自分の願い事を満足させるために主イエスを用いようとしたりする人まで出て来ました。その人々の中には、主イエスを王に仕立てようとする人や反ローマ運動のリーダーにしようとする人もいたのです。

 しかし、それは主イエスの望むことではありませんでした。

 今日の聖書日課福音書の少し前の箇所に、多くの人たちが主イエスにそれぞれに様々な期待を寄せる中で、主イエスがどのような思いでおられたのか伺える言葉があります。

 例えば、第8章34節で主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言っておられます。この言葉は、人々が主イエスを用いて自分の思いを満足させようとするのに対して、誰もが神から与えられた自分の十字架を負うこと、つまり神の御心を誠実に全うすべき自分の使命を負うことを教えておられます。

 主イエスの変容貌の出来事は、このような第8章の教えの後に続きます。つまり、主イエスの白く目映いお姿は、武力や財力によって他の人を支配したり征服したりする事で現れる栄光ではなく、病気の人や弱く貧しくされた人々を愛し抜き、支え抜いて、仕えることを通して現れ出る天の輝きを示す出来事なのです。そしてこのことは、主イエスがなぜエルサレムに上っていこうとするのかと言うことに深く関係することだったのです。

 少し、違う視点から考えてみたいと思います。

 マザーテレサは「自分のもの」として所有していたのは修女としての衣服(サリー)2枚とサンダルだけであったと言われています。これほどに自分から貧しくなり、カルカッタの路上で生活する極貧の人々の最期を看取る働きを続けました。彼女は1979年にノーベル平和賞を受賞しましたが、その晩餐会開催を辞退してその費用や賞金を極貧者の支援に用いるように申し出て受け入れられました。世界中の人たちがマザーテレサの生き方の中に主の栄光の輝きを見たのです。この輝きは、自分の物欲や名誉欲を満たす生き方からは生まることはなかったでしょう。また、それは能率や経済性、また合理性を優先させる生き方からも遠く隔たっています。

 こうした彼女の働きはこの地上で貧富を産み出す構造の中では焼け石に水であると評価する人たちもいました。しかし、彼女がこのように生きる力は、1982年にはイスラエルとパレスティナの双方の高官にかけあって武力対立を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出する力になりました。

 もし、マザーテレサが、インドの英語学校の校長を続け、その学校に勤務し続けても彼女を高い評価を得る仕事をしていたかもしれません。

 マザーテレサの輝きはそれとは違う姿で現れました。

 彼女は、36歳の時に汽車に乗っていると、「学校から外に出て、貧しい人々と共に住んで、彼らを助けるように」との神の声を聞いたと伝えれらています。この出来事も主イエスが山の上で白く目映く輝いてモーセとエリヤと共に何かを話し合っていたことと同じ意味を持つ出来事であったように、私には思われます。

 私たちが「主イエスに従って生きる」と言う時、その内実は何なのでしょうか。主イエスは、貧しさや困難に打ちひしがれて捨てられ、人間らしく扱われない人々のために生き抜いて、最後には十字架に架けられて死んでいます。そのためにエルサレムに向かう主イエスのお姿が白く目映く輝くのです。

 もし私たちが主イエスに、自分の財産や持ち物が富むこと求めたりこの世の権力を得て輝こうとするのなら、私たちは主イエスの十字架にも復活にも栄光の輝きを見ることはできないでしょう。

 でも、私たちが自分の弱さ、貧しさ、小ささや罪深さを知って、それを悔い嘆き、主イエスの御前に進み出るなら、主イエスはその人を受け容れ、赦し、愛しぬいてくださり、死の先にまで共にいてくださる約束を確かにしてくださるでしょう。その時、私たちは主イエスに対する感謝と喜びを得て、主イエスの十字架に何物にも替えられない輝きを見ることが出来るのです。

 山の上で主イエスが光り輝いている間に雲が表れて、そこにいる人々を覆いました。そして雲の中から「これは私の愛する子。これに聞け」という声がしました。この「これは私の愛する子」という言葉は、主イエスが洗礼をお受けになった時に天から聞こえた言葉であり、私たちにその時のことを連想させます。それは主イエスが公に宣教のお働きを始められるに当たり、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時に天から聞こえた主なる神の言葉です。

 主イエスは、これからエルサレムに向かいます。十字架に向かう旅の始まりです。その時に、従おうとする3人の弟子たちに、「これはわたしの愛する子」という神の声がかかり、更にその声は「これに聞け」と言う言葉が続きます。

 ここでの「聞く」とは、ただ「耳を傾ける」ことを意味するのではなく、「聞き従う」という意味であり、ここで主なる神は、弟子たちに主イエスの言葉を聞いてその通りに行うことを求めていることは明らかです。神は、主イエスが歩んで行かれるのと同じ道を歩むように弟子たちを招いておられるのです。

 私たちも、主イエスの栄光の姿をしっかりと見上げて、歩んでいきたいと思います。自分の十字架、つまり神が私たち一人ひとりにお与えになっているそれぞれの使命をしっかりと担い、主イエスに導かれることによって、少しずつ主イエスの輝きを自分の身に映し出す恵みを与えられるように育まれ導かれて参りましょう。

 期節は大斎節に入ろうとしています。主イエスが十字架の苦しみを越えて、死の先にまで私たちに希望と力を与えてくださっていることを感謝し、私たちも主イエスの栄光の輝きに与ることが出来るように、自分の十字架を担い、主イエスに聞き、導きを受ける大斎節へと向かって参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 23:57| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仕えることと祈ること  マルコによる福音書1章29-39      顕現後第5主日

仕えることと祈ること  マルコによる福音書1章2939      顕現後第5主日  2024.02.04


2024年2月4日 顕現後第5主日 説教小野寺司祭 (youtube.com)

 主イエスの宣教の働きは、ガリラヤ地方で、病気の人々を癒し、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えて始まりました。主イエスは、休む暇もなく働いておられます。その一方、第1章35節には、祈る主イエスの姿が描かれています。

 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。」

 主イエスが、大勢の病人を癒し悪霊を追い出してお働きになるその源には、祈りにありました。

 主イエスの教えも行いも、祈りに裏打ちされていたと言えます。

 私たちは、主イエスがそのお働きをなさる上で、深く祈っておられることに目を向け、私たちも祈ることを通して主イエスに養われ、導かれながら、人々の良い交わりの中に生かされる者であることを確認したいと思います。

 祈ることについて、思い巡らせてみたいと思います。

 祈りは、神と深く心を通わせることであり、私たちは祈ることによって自分の心の深い思いや言葉に表せない深い呻きを含め、私たちの全てを神に触れていただき、受け入れていただきます。私たちは、祈りを通して自分の全てが神に受け入れられ、愛されていることを確認し、自分を神に委ねて生きることが出来るようになります。主イエスの御名によって神に祈ることは、自分自身とも深く関わり、その中で新たに自分自身と出会うこともあります。

 もし私たちがこのようにして自分自身と深く真実に関わることをしなかったら、私たちはどうして他の人々に関わる者として、真実で落ち着きのある関係をつくり上げることが出来るでしょうか。自分と深く向き合うことの出来ない者が他の人と深く真実な関係を持つことなど出来ません。また、祈りのない生活は、私たちの心の内側の世界に対する自分の感性をも錆び付かせます。

 私たちは、主イエスの十字架を、その縦棒を神との関係に、その横棒を人々の関係として例え、この縦の棒と横の棒の調和によって、私たちと神との関係が成り立つと教えられます。

 私たちは、祈りを通して神と向き合い、自分の心の一番奥深くまで神に触れていただき、私たちが自分で自分を理解するよりももっと深く自分を神に理解していただくことによって、初めて自分でも自分をよりしっかりと把握しながら生きていくことへと導かれるでしょう。そして、そのように自分を深く豊かに知る人が、他の人との関わりに於いても、相手の人としっかりと出会い、相手の人に正面から心と心を向き合わせることによって、相手の人に対しても建設的に支援する関わりを持つことが出来るようになるのです。

 例えば、専門職の心理療法士は、他人の心理的な病や悩みを共にすることを仕事にしますが、養成される過程で、またその仕事をしながら、自分自身がクライエントになって「教育分析」を受けるのです。他の人の内面に関わる者が、信頼のおける専門家のもとで自分がクライエントになって自分の内面に深く関わるのです。

 私たちが祈ることは、主イエスから「教育分析」を受けることに例えることができるでしょう。私たちが、信仰者として人々に関わることと祈ることの双方が車の両輪であり、私たちにとっての祈りは生活の中で欠かせないことなのです。

 私たちは今日の聖書日課福音書の中に「休む間もなく人々に関わる主イエス」と「人々から離れて祈る主イエス」という両面を見ることが出来ます。

 私たちは主イエスのお働きの中に、その両面、「祈り」と「交わり」の両面があることをしっかりと理解しておきたいのです。私たちにとっても、祈りによって神と深くつながることと、私たちの周りの人々に仕えて生きることは、信仰者として表裏一体、車の両輪で切り離すことの出来ない大切なことなのです。

 祈ることは、呪文を唱えることやまじないをするようなことではありません。私たちは、祈りを通して先ず自分が深く神と出会い、神に生かされることを確認することよって初めて、周りの人々に対する関わりもそこに神が共にいてくださる交わりになるのでしょう。

 主イエスの悪霊を追い出す働きも、その人を神に出会わせ、その人を神との交わりの中に生きるように導く働きであり、悪霊を追い出すことは、自分のことを棚に上げて他人の霊を操作することなどではないのです。

 教会は、主イエスの名によって祈ることで成長し、祈りによって示されたことを行いに表して世界に広がってきました。そして教会は、この祈りの力によって祈ることと仕えることの両面の働きを発展させ、礼拝することとこの世に仕えることを一つのこととして宣教の勤めに与ってきました。

 主イエスによって召し出された私たち一人ひとりも、人として成長しようとするなら、忙しさの中にあっても、先ず祈りを通してしっかりと神と向き合うことが求められます。そうすることを通して、私たちは他の人のことをもキリストと結び合わせる働きに与ることが出来るのではないでしょうか。

 私たち一人ひとりが祈りを通して主イエスと一つになることが出来ますように。そして主イエスが神と人に仕えたように、私たちもその働きに与る喜びを与えられますように。

 本日の特祷の言葉にあるとおり、私たちは主なる神への祈りを通して、行うべきことを悟る知恵とそれを忠実に成し遂げる恵みを与えられますように。

 この礼拝の後に予定されている堅信受領者総会が、主の導きのもとに進めることが出来ますように。 

posted by 聖ルカ住人 at 05:00| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月29日

汚れた霊を追い出す マルコによる福音書1:14~20 顕現後第4主日(B年)

汚れた霊を追い出す    顕現後第4主日(B年) マルコによる福音書1:1420    2024.01.28


 今日の聖書日課福音書は、主イエスがある安息日にカファルナウムの会堂で、汚れた霊に取りつかれた男の霊を追い出された物語が採り上げられています。

 現代に生きる私たちは、「汚れた霊」とか「汚れた霊を追い出す」などという言葉を聞くとどこか胡散臭い思いがしたり、この話を受け容れ難い思いになったりするのではないでしょうか。

 でも、この言葉を今の私たちの言葉に置き換えてみると、こうした言葉には大切な意味がこめられているように思えてきます。そして、そのような視点で今日の聖書日課福音書を読み返してみると、これはまさしく私たち一人ひとりにとって大切な事が語られていると思えてきます。

 そのために、この「汚れた霊」と言うことについて考えてみましょう。

 物事を「科学的」に「論理的」に考える現代人にとって、またそれしか考える術を知らない人々にとって、「汚れた霊」という言葉は古く臭く、警戒すべき言葉であるように思えることでしょう。また、私たちが日常会話の中で「あの人には悪霊が取りついている」と言ったら、多くの人はそのように言う人の精神状態を心配することにもなるでしょう。

 でも、誤解を恐れずに言えば、私は今の時代はまさに「汚れた霊」に取りつかれた出来事に溢れていると言えるように思うのです。一つの試みとして、「汚れた霊」という言葉を、「本当にそうあるべき姿から引き離し遠ざけようとする力」とか「愛や希望へと向かおうとする人間の思いを奪い人を破壊と絶望に向かわせる力」とでも言い換えてみてはどうでしょう。すると「汚れた霊」とは古くさい神話的な時代に限られた考えではなく、現代の具体的な出来事に「汚れた霊」に取り憑かれたと思えるような事が溢れかえっていると思えてくるのです。例えば、他民族に襲いかかるテロリストたちとその報復に執念を燃やす人たち、アルコールや薬物に依存してその虜になってしまう人たち、その他にも私たちが今生きている社会に「人を真実から引き離す霊」、「他者の存在を否定する霊」、「人を悪に向かわせる霊」、「汚れた霊」が蔓延していると言う表現に、多くの人が共感するのではないでしょうか。

 ある安息日に主イエスがカファルナウムの会堂で教え始めました。すると「汚れた霊」はすぐに言うのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」

 汚れた霊は、神との交わりを断絶しようとする力であり、神のみ言葉を聞いて礼拝しようとする場の中でさえ主イエスの教えを聞くことを拒む力となって働いています。会堂は神と自分の関係を確認する場です。その場の中で、「汚れた霊」は主イエスがその働きをすることを邪魔しようとするのです。

 「汚れた霊」は、会堂の中で人の心に中に入り込んで、神の御心が働くことを拒み、人々が神さまとの関係を確認し回復しようとする働きをさせず、イエスを追い出そうとする力になって働きかけています。

 このように見方を少し変えれば、毎日のように報道される傷ましい出来事は悪霊に取りつかれた人々の心の叫びであったり、悪霊に取りつかれて表現の術を失った人のエネルギーが噴出する出来事であるようにさえ思えてくるのではないでしょうか。

 このように考えてみると、主イエスが汚れた霊を追い出すこととは、様々な捕らわれや偏見から解き放たれて、その人の本当の姿を取り戻すように関わりぬく働きであると言うことができるのです。

 今の世の中にも、アルコールや薬物中毒、偏見や差別、憎み合いや閉じ籠もりなども、「汚れた霊」に取り憑かれていると表現できる事例も多く、そこからどのように自分を取り戻せるのかは、その人が神との関係を回復することができるかということと重なってくるのです。

 「汚れた霊」は、主イエスに向かって「かまわないでくれ」と言っています。人の心の入り込んだ「汚れた霊」は、主イエスによって照らし出された時、その醜い面が浮き彫りにされたり、空っぽの内実が暴露されることになります。「汚れた霊」に取り憑かれた人は、自分に面と向き合いのは怖いし辛いし、自分でもそれをなかなか受け入れられないのです。

 興味深いことに、この汚れた霊に取りつかれた人は、主イエスの本質が「神の聖者」であると言います。この人にとって主イエスの正体とその本質を知れば知るほど、自分の汚れや醜さが露わにされてきて、それに耐えられないことを予感して、主イエスから離れていたくなり、また、主イエスを否定したくなってしまうのでしょう。

 私たちは、今日の聖書日課福音書の物語を、「汚れた霊に取りつかれた人」とは、非科学的な幽霊物語のように受け取るのではなく、私たちの心にも住み着くことを伺う悪の力の大きさを再認識したいと思います。

 そして「汚れた霊に取りつかれた人」という言葉で表現してされていることの内実は、今日の世界にとっても大きな課題であることに気付いていたいと思います。

 マルコによる福音書第1章2526節には、主イエスがこの霊をお叱りになると、霊は「この人にけいれんを起こさせ、大声を上げて出て行った」と記されています。「汚れた霊」は人の中に深く食い入って、人がそこから解放されようとすることには抵抗も大きく、その人が再び本当の自分を取り戻して生きていくには大きなエネルギーを必要とするのです。「汚れた霊」その男から出て行く時に、その霊は男に痙攣を起こさせ、大声を出させています。それほどに汚れた霊がその人から出て行くのは、生易しいことではなくむしろ時には大きな苦痛を伴うことさえあるのです。

 それでも、主イエスは私たちがそのようにして担うべき私たちの十字架を担肩代わりして担ってくださり、私たちと共に歩み、その先に私たちの重荷を全て引き受けて十字架に付いてくださったのです。

 私たちは今日の福音書の物語から、私たちが神から命を受けた掛け替えのない者として自分を回復して生きていくように、そして、そこから主の平和がこの世界に回復していくように尽くすことを促されています。

 福音記者マルコは、この物語を記して、主イエスがこのように汚れた霊を人から追い出し、この人のところに神の国の姿が一つ実現していることを伝え、読み手である私たちも主イエスの御言葉を受けて、主の御心をこの世に表して生きるように促し導いているのです。

 主イエスが汚れた霊を追い出したのを見て、その会堂の人々は言いました。

 「権威ある新しい教えだ。」

  権威とは、武力や財力によって相手を服従させたり誘惑するような力のことではありません。「権威」とは原語のギリシャ語では「eξουsιaエクスウシア」と言い、「本質(ουsιaウシア)」が「外に(eκエク)」現れ出ることを語源にしています。主イエスによって神の御言葉が語られ実践されるところには、それまでとは違った神の国の真の姿が現れ出ていることを福音記者マルコは伝えています。

 私たちは、主イエスに応えて、主イエスの御言葉によって教えられ、導かれて、真実の自分になる歩みをしっかりと進めていきましょう。私たちが多くのとらわれや恐れから解放され、神の御心に相応しい者となるよう育まれ、小さな私たちを通してそこに神さまの願っておられる世界が一つ現れ出るように、歩ませていただきましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 13:25| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする