2023年07月23日

毒麦の例え  マタイによる福音書13:24-30,36-43  聖霊降臨後第9主日(特定11)

麦と毒麦の例え マタイによる福音書132430,3643 聖霊降臨後第9主日(特定11   2023.07.23

 ( 本日の聖餐式における説教動画 (2) 2023 年 7 月 23 日( A 年)聖霊降臨後 第 8 主日 説教小野寺司祭 - YouTube

  今日の聖書日課福音書は、聖書新共同訳には『「毒麦」のたとえ』という小見出しがついている箇所です。

 ある人が畑に麦の種を蒔きました。人々が眠っている間に敵が来て毒麦を蒔いていきました。やがて芽が出て実り始めると、麦と一緒に毒麦も育っていたことが分かりました。僕たちは主人にこの毒麦がどこから入り込んだのか尋ねますが、主人はただ一言「敵の仕業だ」と応えます。僕たちは「それでは行って抜き集めておきましょうか」と尋ねますが、主人は「刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい」と言い、更に「刈り入れの時に麦と毒麦を分けて毒麦は焼くために束ね、麦は倉に収めるように刈り取る者に言いつけよう」と言ったのでした。

  ここで言う「毒麦」とは、麦と同じイネ科のいわゆる雑草のことで、種類を特定仕切れないようです。もしその実った種粒を麦と一緒に粉にしてパンを作ると、そのパンは苦みがあってとても食べられたものではないと説明する人もあります。

 日本でも、田んぼに目をやると、稲の中に雑草が混じって生えているのを見かけます。その雑草にいわゆる毒素が含まれていなくても、育てる稲や麦より背丈が高くなって日当たりの邪魔をし、本来の収穫を減らす雑草を「毒麦」と呼んでいると考えられます。

 パレスチナの麦畑は、日本の麦畑のように整然と列をなす畝をつくるのではく、畑一面に種をばらまいて育てます。発芽してしばらくは麦も雑草もよく似ていて、発芽した麦と雑草の両者を見分けることが難しく、成長してくると麦も雑草も互いに根が絡んで、雑草を引き抜こうとすると育てるべき麦の根を土から浮き上がらせて、育った麦を枯らしてしまうことになります。そこで、収穫の時に刈り取った麦と雑草を選り分け、雑草は燃える炉の中に投げ入れられて焼き払われ、麦は倉に納められることになります。

 主イエスはこうした日常生活の具体的な事柄を取り上げ、それを譬えにしてお話ししておられます。ことに今日の聖書日課の箇所で、主イエスは、人の軽率な善悪の判断によって、大切なことや必要なこと、その可能性を摘み取り切り捨ててしまうことの危険をについて教え、また、最終的な裁きを神御自身が担ってくださることを教えておられます。しかし、その話を聞き流している人には、主イエスが雑草の入り交じった畑での麦の収穫の仕方を教える話としてしか受け取れなかったのです。

 わたしは今日の聖書日課福音書から、使徒言行録第5章34節以下に出てくるガマリエルという人のことを思い起こします。

 この人はユダヤ議会(最高法院)の議員でファリサイ派の律法学者でした。復活した主イエスが天に帰った後、弟子たちは聖霊を受けて力強く宣教の働きを始めた頃のことです。弟子たちが主イエスの働きを引き継いで多くのしるしと不思議な業を力強く行っていました。ユダヤ教の指導者たちは、イエスの弟子たちを捕らえて、殺害する思いをもって議会で弟子たちを尋問します。この時、ガマリエルはユダヤ議会の人々に向かって次のように言うのです。

 「イスラエルの人たち、あの者たち(使徒たち)の取り扱いは慎重にしなさい。・・・・あの者たちのことは放っておくがよい。あの計画や行動が人間からでたものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」

 この言葉によって主イエスの弟子たちは、鞭打たれた後に釈放されました。この時、使徒たちは、自分たちがイエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、議会から出て行って、毎日、神殿の境内や家々でイエス・キリストのことを告げ知らせたのでした。

  律法の教師ガマリエルは、使徒たちによって行われている宣教の働きが神から出たもの(良い麦の芽)を摘み取ってしまうことになれば、それは神のご計画に逆らうことになり、他方、イエスの弟子たちの働きが単に人間の思いから出た計画や行動であればそれはやがては廃れていくだろう。だから、イエスの弟子たちをの働きについてはそのままにしておくべきだと言っています。

 これは、単に結論を先送りしたり自分の立場を曖昧にしたまま決断しないということではありません。限りある人間の判断が、良い実を結ぶはずの麦の芽を引き抜いてしまうことのないように、そして神御自身が最終的に降すべき判断を人間の限られた力で拙速に降してしまうことのないように、ガマリエルはユダヤ議会の人々に訴えているのです。

 更に想像を拡げて言えば、律法の教師であったガマリエルは、その後の使徒たちの働きとその広がりを自分の目で見たことでしょう。そして、自分たちイスラエル民族の枠を超えて主イエスの教えが広がっていく様子を目の当たりにして、その働きを担う使徒たちを迫害する自分たちがまさに「毒麦」であったことを、ガマリエルは悟ったのではないでしょうか。

 今日の聖書福音書で、「麦も毒麦も育つに任せる」とは、当時のユダヤ教ファリサイ派が排他的であり自分の正しさを誇っていたのに対して、イエスを救い主であると告白する人々は最終的な審きを神に委ねて自らは御心を行うことに励んでいた様子がその背景にあることが伺われます。

 今から二千年近く前の主イエスの時代だけではなく、今も、この世界には神の国の実現のために御言葉が麦のように蒔かれます。その一方で、また悪の種も、多くの場合それが悪の種だとは判断できないような状態で同じ世界に蒔き散らされています。それらの中には一時の勢いを得てまるでそれが永遠の真理であるかのような錯覚を起こす場合もあるかもしれません。でも、その結果が、神によって選別され刈り取られ収穫される時は必ず来るのです。

 現代ほど毒麦と麦を見分けるのに難しい時代はないと言えるでしょう。人類の歴史は、発展と成長の歴史であり、人はその発展や成長を良いことと考えてきました。人間は、神さまの似姿に創られて、物事を考え判断していく力と物を造り出していく力を与えられ、その力によって文明を発展させてきました。自分のなす事を良い種の働きとして理解し、苦労を少なくして大量の物品を生産し、経済的に富むことで神の国が来ると考え、そのことに貢献することで神の栄光を現すことができると思い込んできました。しかし、いつの間にかこの世界は富を所有する者が支配し、持たない者は支配されてますます奪われる社会になり、武力や暴力で相手を支配する事が当たり前になってしまいました。

 貧しい者を支配してそこからなお奪い取り、支配する者が浪費しながら生きる一方で、貧しくされ、必要な物さえなく貧困に喘いでいる人が大勢います。太り過ぎて痩せることを願い年間に百万円単位のお金を費やしている人がいる一方で、戦乱の中で貧しくされて死んでいく人が一日平均3万~4万人にのぼるという報告もあります。人類は、発展と豊かさを追い求めて、その目標に達したかと思うと、それまでには気づかなかった新たな問題を生み出し、一体このような歩みは正しかったのかと問い返さないわけにはいかなくなっています。

 今私たちが住んでいるこの世界は、主イエスの蒔いた良い麦と神の御心を邪魔する毒麦とが一緒に生えている畑の姿であると言えます。私たちは、この世界で、最後の刈り取りを神に委ねながらも、一人ひとりが神から与えられた自分の務めをしっかりと担い良い種の実りを得たいのです。毒麦が混ざって育つ中でも、私たちは良い麦を育てていかねばなりません。

 このような私たちが、もし自分を良い種-御国の子ら-の側に置くことが許されるのなら、それは何によってなのでしょう。それは、私たちが、主なる神によってこの世に蒔かれた者であり、どこまでも主イエスが共にいてくださると信じること以外にはありません。沢山の毒麦の根が張りやすいこの世界にあっても、私たちは神に蒔かれた麦として、主なる神の愛によって自分を成長させていきたいと思います。主イエスの愛によってこの世界にしっかりと根を下ろし、神によって実りを刈り取っていただける時を祈りながら、この世界に御心を行っていく歩みを続けて参りましょう。

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2023年07月16日

み言葉の種蒔き マタイによる福音書13:1-9,18-23

み言葉の種蒔き  マタイによる福音書13:-9,1823        聖霊降臨後第6主日(特定102023.07.16

 今日の聖書日課福音書、マタイによる福音書第131節以下には、主イエスが「種を蒔く人」のたとえ話をなさったことが記されています。

 ガリラヤ湖畔におられる主イエスの周りに、大勢の人が集まってきました。主イエスは湖畔から舟を出し、その舟に腰を下ろして、そこから話し始められました。

 主イエスの話は例え話です。マタイによる福音書第133節にあるとおり、「種蒔く人が種を蒔きに出ていった」という言葉で大勢の人々に話し始めておられます。そして今日の聖書日課の後半では19節で、その「種」が「御国の言葉(天の国の言葉)」であることを弟子たちに伝えてこの例えの意味を説明しておられます。

 群衆には単なる種蒔きの話に聞こえたことでしょう。しかし、主イエスは弟子を教え訓練する一環として、み言葉を宣べ伝える事を種蒔きに例えて、蒔かれたみ言葉が人々の色々な状態の心に落ちていることを語っておられます。単なる種蒔きの話しとしてではなく、み言葉を受け取る者が自分の心の姿を思い、信仰のあり方を振り返ることを促し、それとともに、神が御言葉の種を熱心に蒔き続けておられることを主イエスは弟子たちに伝えておられます。

 今日の聖書日課福音書から導きを受けるための一つの視点として、ヘレン・ケラーのことを思い起こしてみたいと思います。

 ヘレン・ケラーは、生後1歳7ヶ月の時に、熱病によって視覚と聴覚を失ってしまいました。5年あまり混乱の時を過ごしていましたが、サリバン師の支援を受けるようになり、7歳の頃に指文字によって言葉を獲得していきました。彼女が「水:WATER」という言葉を実物とその意味を結びつけて理解した時の感動は、その後の彼女の秩序ある物事の理解と精神的な成長に大きな影響を与えています。ヘレン・ケラーはその日のうちに他にも幾つかの言葉を獲得し、混乱の中に過ごした自分への後悔にも似た思いと共に「自分を意識した」と自叙伝で語っています。

 この事例から、私たちは、人が良い言葉によって育まれることの大切さを学びます。そして、私たちが用いる言語の根源には、サリバン師のヘレン・ケラーに対する情熱があったように、言葉には「はじめに言(ロゴス)があった」と聖書が伝える神の私たち人間に対する情熱があることを私たちは教えられています。

 主なる神は、種蒔きが収穫を願って麦の種を蒔くように、主なる神は人々の内に豊かな実りがもたらされることを願ってみ言葉の種を蒔いておられます。蒔かれるみ言葉は単に一つひとつの単語や文章としてではなく、み言葉を蒔く主なる神の熱意を含む「言:λογοs」であることを私たちは、先ず、理解しておきたいと思います。

 サリバン師によって幼き日のヘレン・ケラーに蒔かれたみ言葉の種は、ただ一つひとつの単語を意味するのみならず、そこに込められたサリバン師のヘレン・ケラーに向かう熱情をも含めたその全体がみ言葉(ロゴス)なのです。

 言葉は情報を伝える働きをしますが、それだけでなく、私たちがお互いの思いや考えを理解し合うためにも大切な働きをします。また、言葉は、自分の感情、気持ち、考えを自分で把握して自分を保つためにも大切な働きをしています。人間は他者との適切なコミュニケーションによって互いを理解して成長しますが、言葉は私たちに勇気や慰めを与える一方で、不適切な言葉によって人を傷つけ落胆させる働きもします。特に幼子の場合、言葉を獲得していくことは自分の身の回りのことの理解を深めていくための枠組みを造り上げていく上で大切な働きをします。それと共に、人が精神的に安定して育つには、状況を言葉で正しく把握してそれを適切に表現するための肯定的で受容的な言葉が必要があることは、心理学的にも明らかなことです。

 そうであれば、この「種蒔く人の例え」が、私たちは日頃から周りの人々にどのような言葉をかけているか、自分はどのような言葉を受けて今の自分があるのか、改めて振り返らないわけにはいかない思いになります。

 主イエスは、良い土地に落ちた御言葉は、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶと言っておられます。人は本来、誰もがみなどんな種でも受け入れて宿す「良い土地」の状態で生まれてきます。ことに幼な子の心は、み言葉の種を受け入れて成長させるのに相応しい「良い土地」です。でも、人の心は「良い土地」であるからこそ、そこには麦の成長を邪魔する雑草も生え易く、放っておくといつの間にか茨の地に変わってしまう可能性があることも、私たちはよくよく心に留めておかなくてはならないでしょう。

 「み言葉の種」は、礼拝での「説教」や聖書の内容に限られるものではありません。例えば、子どもが日頃の生活の中で経験していることに、私たちが寄り添いながらその状況や自分の理解が深まるような言葉をかけていくことの大切さを思い起こしたいと思います。私たちは日頃から、もし主イエスがこの状況におられるなら、相手にどのように言葉をかけるのだろうかを思い、他の人に寄り添い、その人の心に届く言葉を掛ける事ができるように努めたいと思うのです。それは私たちがみ言葉の種を蒔くことにつながるでしょう。

 主イエスがみ言葉を「種」に例えたとおり、言葉には命が宿っています。私たちはみ言葉によって生かされる者であり、互いにみ言葉によって自分を整えられ、秩序づけられて、人としての成長の過程を生かされています。

 パウロは、コロサイ書第3章16節でこう言います。

 「キリストの言葉をあなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」

 キリストの言葉が私たちの内に豊かであれば、私たちが何かを判断するときにその言葉が私たちの判断の枠や基準となって、み言葉は私たちを支えてくれるでしょう。

 また、テモテへの手紙Ⅱの第4章2節に次の言葉があります。

 「み言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。」

 み言葉の種は、他の人を支配したり操作するために蒔かれるのではありません。蒔いた結果はすぐには目に見えないかもしれません。蒔かれたみ言葉は、それぞれの色々な状態の土壌に落ちることになるでしょう。

 耕された心には蒔かれたみ言葉が確実に定着していきます。蒔かれたみ言葉の落ちるところは、その人によって発芽の仕方や成長の程度の違いはあっても、私たちは主のみ言葉の種を蒔かれ続けること、そして蒔き続けることを神から求められています。

 キリストの言葉が人々の内に豊かに宿るように、私たちは、時が良くても悪くても、み言葉の種を蒔き続けていきたいと思います。

 主イエスのみ言葉によって養われる私たちは、時が良くても悪くても、悪い時にはなお一層心を込めて、み言葉の種蒔きをすることが私たちのミッション(使命)になります。主なる神の豊かなみ言葉が人々の心に迎え入れられ、そのみ言葉が思いと言葉と行いの原点になり、更に多くの実を結びますように。私たちはみ言葉の豊かな実りの時を祈りながら、み言葉を受け、み言葉の種を蒔き続けて参りましょう。

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2023年07月09日

イエスの軛を負う  マタイによる福音書11:25-30     2023.07.03

イエスの軛を負う マタイによる福音書112530 聖霊降臨後第7主日(特定9)     

 私たちは生きている限り、生きる課題があり、その課題を神が願っておられる姿にしながら乗り越えていくことを求められているのではないでしょうか。また、主イエスは自分が生きていく上での課題をしっかりと自分で担うことを「自分の重荷を負うこと」、「自分の十字架を負うこと」と表現しておられるのではないかと思います。その重荷や十字架は、時に大きな悩みとなり、苦しさや辛さが伴うことや悲しみを覚えることもあります。

 私たちが生きていく上で悩みがあったり苦しくなるほどの課題を抱えることは、決して悪いことや恥ずかしいことではないし、その悩みの故の苦しさや辛さは罪でもありません。むしろ、私たちが生きているが故に負う悩み、苦しみ、辛さや悲しさをしっかり負わずにそのことから目をそむけたりごまかしたりするところに、悪が入り込んできたり罪が生まれたりするのではないでしょうか。

 今日の聖書日課福音書の箇所を読むと、私は恩師が次のように言っておられた言葉を思い出します。

 「今の若い人たちは、悩み方を知らない」と。

 「悩み方を知らない」とは、言い換えれば「自分の重荷をどのように負えば良いのか分からない」とか「自分の十字架の負い方が分からない」と言えるように私には思えるのです。

 私たちは、若い人に限らず、自分に与えられた課題を担うべき適切な仕方で担えず、目の前の困難やその不安に対して自分ですべきことは何か、他の人に助けを求めるべきことは何か、神に委ねるべき事は何か等が渾然一体となって、現実の理解を不確かにしてしまって、その曖昧な不安ばかりを大きくしてしまうようなことが多いのではないでしょうか。そして、そのことについての辛さや苦しさを必要以上に大きくしていることもあるのではないでしょうか。

 私たちは日頃から自分たちが担うべき重荷(自分の課題)ををしっかりと負い、主イエスに導かれ、主イエスに伴われて生きていきたいと思うのです。

 私たちが生きる上で負わねばならない自分の重荷(課題)をしっかりと担う時に、主イエスは私たちの課題を一緒に担ってくださり、私たちが背負うべき自分の十字架を一緒に担って生きてくださることを約束してくださっています。

  「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである(マタイ11:29-30)。」

 軛とは、牛などの家畜が荷車や鋤を引くときに、首にかける横木のことです。2頭を横に並べ一つの軛を架けて、2頭の歩むペースをあわせて作業をさせます。人が生きていくことは、自分の軛を負うことに例えられます。そして、わたしたちが負う軛に、主イエスが一緒に横に並んでくださり、私たちの二つとない人生を大切に歩もうとすれば、そこに生じる課題のことです。

 真剣に、誠実に、神の願う姿が自分を通して顕されるようにと生きる者に、主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくださっています。

 マタイによる福音書の文脈を考えれば、ここで主イエスが「重荷を負う者」と言っておられる内容は、当時の律法-ことに口伝律法-の厳格な規定の中で苦しみ、その枠から弾き出されて罪人扱いされる人々のことであり、それ故に神から与えられた自分の命が損なわれるように生きている人々のことでしょう。

 私たちは、この主イエスのみ言葉を、当時のユダヤ教の脈絡からもっと拡げて、神から与えられた自分の命をしっかりと生きていこうとする人に送られたメッセージとして受け取る恵みを与えられています。

 私は、この説教の準備をしていると、今からもう12年前のある出来事を思い出しました。

 当時、私は宇都宮聖ヨハネ教会に勤務しておりました。2011年の3月11日に大地震が起こり、それから10日ほど過ぎた頃でした。幼稚園も第3学期を終えて春休みに入り、私は春の穏やかな日が射す園庭で、被災した聖堂を見上げ、修復工事の段取りのことなどを思案しておりました。そこに見知らぬ一人のご婦人が「教会で祈らせてください」とフェンス越しに声をかけてこられました。私はその方を聖堂に案内して外におりましたが、しばらくして聖堂から出てきたそのご婦人としばらく話をすることができました。

 そのご婦人は幼い頃を宇都宮で過ごし、その当時この教会の前をよく往き来しており、ここに教会と幼稚園があることは知っていたけれど、今日初めて聖堂の中に入れてもらいました。結婚して福島県のいわき市に住んでご夫妻と二人の子どもの4人で暮らしている中で大地震に遭い、実家のある宇都宮に避難してきたとのこと。散歩で教会の前を通りかかり、「この教会の中に入って祈ってみたくなりました。私はクリスチャンではないけれど、聖堂の中で祈らせていただきたくなりました。」とのことでした。そして「クリスチャンの友だちが、すべての事には意味があると言っていたけれど、この地震で家財をみんな失って、なおこうして生かされて、私には未だその意味は分からないけれど、分かる時が来ることを信じてこの重荷を負って家族で生きていきます。」とお話しくださったのです。その御婦人はお話になりながら緊張が解けたのでしょうか、涙を流され「地震の後初めて涙が出ました」と言って帰って行かれました。私はそのご婦人を見送りながら「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という主イエスの御言葉を思い浮かべておりました。

 地域の中に教会があり聖堂があって、私たちはこうして祈りをささげ、ことに毎週日曜日には主イエスの御言葉と御体を受けて養われています。こうした営みを通して、主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とすべての人々に門を開き、すべての人々を招いておられます。

 私たちも、この御言葉によって主なる神との交わりの中に招かれている者であり、またそれ同時に、主イエスの働きを担い、世界の人々をこの教会に招く側の者でもあるのです。

 そのような立場の私たちだからこそ、主イエスの御言葉を受けて、自分が負うべき軛を本当に負っているのかどうかを振り返ってみたいのです。私たちは、神から与えられた自分の命を育むために、自分に与えられたそれぞれの重荷を負って生きています。各自の重荷の内容は違いますが、もしそれぞれの自分の十字架を負わないのなら、他ならぬ自分がこの世に自分として生きる意味が損なわれることになるのです。

 主イエスはすべての人をご自身のもとにお招きくださっています。

  「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られれる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 主イエスは、この主イエスのみ言葉を私たちが律法を守るような義務として受け取ったり、道徳として実践することを願って語っておられるのではありません。私たちが主イエスの招きに応えて、主イエスの御許に自分の全てを開き、委ね、受け入れて頂くとき、私たちは、その喜びと感謝によって自分の重荷を担い直し、主イエスにお応えすることが出来るようになるでしょう。先ず、初めに私たちがすることは、全てを主イエスの前に自分を開き、ありのままの自分を主イエスに委ね、自分の重荷を主イエスに一緒に担っていただくことです。

 私たちが自分の力では負い切れなかった重荷も、同行して下さる主イエスのみもとで担い直すとき、その軛は負いやすくその荷は軽くなるのです。主イエスに一緒に歩んでいただくことで、本当の自分として再び歩み出すことが主イエスに従うことになるのです。

 主イエスの招きの御言葉を感謝して受け入れましょう。主イエスの大きな愛を受け入れて、重荷を担い直し、私たちとご一緒に歩んでくださる主イエスの軛を負い、日々歩んで参りましょう。

 その時に、私たちは確かに共に歩んでくださる主イエスに気付き、主イエスへの感謝と賛美を一層深くすることへと導かれるでしょう。主イエスのもとで重荷を下ろし、主イエスが共に負ってくださる軛を一人ひとりが負い直し、感謝と賛美の歩みへと導かれていきましょう。 

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2023年07月03日

信仰の家族 2023年7月2日(A年特定8) 

2023年7月2日 聖霊降臨後第5主日(A年特定8)
 主日聖餐式の説教動画
 マタイによる福音書第10章34~42節 大畑喜道主教

 今週は、原稿の掲載はありません。下記をクリックして動画にお入り下さい。

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2023年06月25日

恐れずイエスを証しする   マタイによる福音書10:24-33

恐れずイエスを証しする マタイによる福音書102433  2023.06.25 (A年 特定7)

 今日の聖書日課福音書から導きを受けるために、先ず、この箇所がどのような流れの中に置かれているのかを眺めておきましょう。

 マタイによる福音書第10章5節を見てみると、「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた」と記されています。また同第10章16節には「わたしはあなたがたを遣わす」と言っておられます。今日の福音書の箇書は、主イエスがお選びになった十二弟子に対して、彼らを派遣し訓練するためにお与えになった言葉です。

 このような流れを念頭に置くと、第1017節で「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と言っておられる言葉が、「私が弟子であるあなたがたに個人的に教えたことを、人々の前ではっきりと告げ知らせなさい。私が耳元でそっとあなたがたに教えたことを誰にもはっきりと聞こえるように言い広めなさい」という意味で言っておられることが分かります。主イエスは、弟子たちに、人々の前ではっきりと神の御心を示して語るように教えておられます。

 このような流れの中で、主イエスは幾度も「恐れるな」と言っておられます。主イエスの名によって派遣される弟子たちには、大きな恐れと不安があり、また、実際にその働きを担えば、その本意とは違う受け止め方をされたり、思わぬ仕打ちや嫌がらせを受けたりすることもあったことでしょう。

 それでも、弟子たちには主イエスの教えと行いを人々の前でしっかりと伝え主イエスが神の子であり救い主であることを伝えていく使命を負っているのです。

 マタイによる福音書が編集された時代は、主イエスが十字架につけられてから約半世を過ぎようとする頃であると考えられています。当時、主イエスを救い主であると自分の信仰を表明する人は、ユダヤ教の権力者たちから弾圧され、迫害を受けたる時代になっていました。そのような時代の中で、弟子たちは、目先の弾圧や迫害を恐れずに、この世界の歴史を支配し私たちの魂までを支配しておられる神に従い、神に生かされている者としてしっかり自分の信仰を表明するようにと主イエスの御言葉を心に据えていたのでしょう。

 今日の福音書の最後の部分を読んでみましょう。

 「だから、誰でも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 私は、この箇所を読むと、故八代崇主教が、私がまだ司祭になる前に勤務していた教会を管理してくださり、ある日の説教の中で話してくださったことを思い出します。

 それは、コンウォール・リー女史のことです。英国より51歳で女性宣教師として来日したリー女史は、59歳の頃に群馬県草津に入り20年にわたってハンセン病の人々のために尽くしました。やがてリー女史は老衰が進み、晩年の6年ほどを兵庫県明石で過ごし、19411218日に逝去しておられます。晩年のリー女史を巡る環境は日に日に厳しくなっていったことが想像されます。

 と、言うのは、日本が満州事変に始まり第二次世界大戦へと動いていく頃、日本にとってことにアメリカやイギリスなど連合国は敵国であり、日本では「鬼畜米英」などという言葉も用いられるようになっていきます。キリスト教が敵国の宗教であるとひとくくりにされる中でも、とりわけ聖公会は戦争相手国の教会であると見なされ、周囲の目を気にした信徒の中にはいつの間にか教会から離れていく者も多かったのです。ある時、リー女史が市電に乗っている時に、教会員でありキリスト教の学校教師である人が同じ市電に乗っているのに気付きました。しかし、その人は、彼女の方から挨拶しても、「あなたのことなど知りませんよ」という態度でニコリともせず会釈もしないで去って行ったというのです。

 このような出来事が、リー女史の晩年の日記につづられており、八代崇主教はこの日記を戦時下の日本を理解する上での貴重な資料であるとお考えになっておられ、その一端を、主日礼拝の説教の中でご紹介くださったのです。

 戦争当時、多くの日本人がアメリカやイギリスの人を敵国人とし、両国を敵視する中で、アメリカ人やイギリス人と関係を持つことスパイであると密告されたり、英語を使うことさえ禁じられた時代でもありました。かつてはどれほど世話になったか挙げればきりがないほどであっても、一般人の前ではその人を知らないそぶりをして保身し、真理を捨てて目先の自分の利用できる都合の良い人にすり寄っていく生き方をて真理を口にしなくなるような生き方をする人はいつの時代にも多いのではないでしょうか。

 故八代崇主教は、戦時下の日本人クリスチャンを批判するためにその話をなさったのではなく、恐れず主イエスを証しをしていくことがどれほど厳しく難しいことなのかをお話しになったのだと思います。そして、私たちは誰もがこうした状況に置かれたとき、多くの人の前で主イエスの側に立つことを恐れ、ためらうような弱さがあることを心に留めておきたいと思います。

 人はどこまでも弱い一面を持ちながらも、その自分が主イエスに愛され、赦されていることに気付き、主イエスを自分の主として生きていく決断ができたとき、私たちはその弱さの中に働いてくださる主イエスを証する者へと変えられていくのです。

 主イエスの一番の弟子であるペトロも、主イエスが捕らえられて大祭司の館の庭で取り調べを受けている時に、その館の者に「お前もあのイエスの仲間だろう」と問い詰められて、3度「知らない」と言ってしまいましたす。ペトロは、実際にそのような場に立たされるまで、自分は死ぬ覚悟で主イエスに従ってきたと思い、これからもそうしていく覚悟をしていたはずでした。ペトロは主イエスに向かって「死んでもあなたに従う覚悟は出来ています」とまで言ったのでした。その時のペトロは、決して嘘をついたわけではなく、本心でそう思っていたのでしょう。そのペトロも自分に危険が迫っていると思えば、自分の正体を隠して逃げ出したくなるほどに弱いのです。また、日本が第2次大戦に向かうまではアメリカ人やイギリス人の知り合いがいることを自慢していた人が、その知人が戦争の相手国の人ということになれば、その人のことを知らぬふりをして自分を守らねばならないほどに弱いのです。

 弱いペトロが、人々の前で主イエスの証人として大胆に自分を表明できるようになったのは、主イエスが甦り、50日経って、聖霊が与えられた時でした。主イエスの十字架の死と甦り、昇天、そして聖霊が与えられるという一連の出来事を経験することによって、ペトロはやっと主イエスの派遣の言葉、ことに「恐れるな」という言葉を実感を持って受け入れることが出来るようになったのではないでしょうか。

 今日の福音書の最後の箇所で、誰でも人々の前で主イエスの側に立つことをはっきりと表明する人については、主イエスもまたその人のことを天の父の前で主イエスの仲間だとはっきりと表明して下さると教えてくださり、主イエスは「だから、恐れるな」とも言っておられます。

 私たちは自分の側からはまだまだ力が足りなかったり自分の存在を脅かす大きな力の前には恐れをなすような者ですが、私たちが主なる神の御前に立つとき、主イエスは私たちの側に立って「この人は私の仲間」であると言ってくださいます。主イエスは、裏切ることなく、見捨てることなく、私たちのことを「あなたをよく知っている、何もかも知っている、私の仲間である」と言ってくださいます。

 主イエスは、神の御心から離れてしまう者の側にまわって、十字架の上から祈り、執り成してくださいました。そして今も天の国で父なる神の右におられ、主イエスへの信仰を告白する者のために執り成していてくださいます。その救い主イエスが弟子である私たちを訓練し主イエスに愛され守られて力付けられ、主イエスを恐れずに証しする者になれるよう祈り求め、また養われ、導かれた参りましょう。

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2023年06月18日

 「12弟子の選びと派遣」  マタイによる福音書第9章35節~第10章8節

 「12弟子の選びと派遣」      マタイによる福音書第935節~第10章8節 (A年特定6)  2023.06.18


 今日の聖書日課福音書は、主イエスが12人の弟子を選び派遣する箇所が取り上げられています。

 主イエスが、ご自分の弟子の数を12人に限定したかどうかは定かではありませんが、もし、主イエスが12人という数を意識していたとすれば、そこには特別な意味が込められていたはずです。あるいは、もう少し時代が降って、福音書が文書として編集されるようになる頃に、弟子集団の中にある特別な「自己認識」が生まれ、「イエスの12弟子」という考え方が一層強く育っていったと考えることもできます。

 いずれにしても、イエスの弟子の数が12人であるということには、イスラエル民族を構成する12部族と重ね合わせ、イエスの12弟子には「新しいイスラエル(神に選ばれてこの世に御心を示す者の集まり)」という意味が込められていると言えます。

 「イスラエル」という名は、ユダヤの父祖ヤコブに神が与えた名前です。旧約聖書創世記の中にイサクの双子の息子エサウとヤコブがおり、そのヤコブにイスラエルという名が与えられました。

 そのヤコブ(イスラエル)には、12人の子供が与えられています。その名は、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、セブルン、イサカル、ガド、ダン、アセル、ナフタリ、ベニヤミン、そしてヨセフです。イスラエルの12部族はこの12人の名を元に構成されています。旧約聖書ヨシュア記には、エジプトを脱出したイスラエルの民が神が約束したカナン地方に戻ってきたとき、各部族がこの地方をどのように取り戻して、各部族に割り当てていったかが記されています。

 イスラエルとはこの12部族の連合体を示す名前でした。

 イスラエルの民には、自分たちが「神に選ばれた民」、「神の民」であるという強い自覚と自尊心がありました。その自覚と自尊心は、イスラエルの民がかつてエジプトで奴隷であったときに、主なる神が弱く小さな奴隷の民の呻きをお聞きになって深い憐れみを寄せ、その民をエジプトから救い出してくださったという自己理解から生まれたものでした。しかし、時代と共にその自己理解は次第に選民意識へと変わっていきます。自分たちは神から選ばれてその救いの中にあるという自覚は、次第に自分たちは他の民族とは異なり、神の国を約束された者であるという自尊心と差別意識を生み出すことになっていきます。また、同じイスラエルの民の間でも、十戒をもとに成り立つ律法を守れない者は救いに相応しくない者とされ、同じイスラエル民族の中で差別され弾圧され迫害を受けるようになっていきました。

 主イエスは、そのようにして制度化し硬直化した当時のユダヤ社会から落ちこぼれ除け者にされる人たちを深く憐み、その人たちにこそ神の愛はもたらされなければならないとお考えになったのです。そして、主イエスは、ことに悪霊に取り憑かれた人々の悪霊を追い出し、癒やしや浄めを必要とする人々に関わり、枕するとこともなくお働きになりました。

 このような流れの中で、主イエスは「収穫は多いが、働き手が少ない(9:37)」と言い、12人の弟子を呼び寄せられたのでした。

 主イエスの12弟子とは、旧約聖書に基づいた民族として神に選ばれたイスラエルに替わって、神の御心をこの世に現わすために新しく神の選びを受けた者の集まりという意味を込めての12人なのです。その12弟子を中心として主イエスの御心を行う人々の群れが「新しいイスラエル」と位置づけられるのです。

 この12弟子を中心とした「新しいイスラエル」の民であることの資格や条件があるとしたら、それは何でしょうか。

 それは、今日の使徒書の中にも記されているように、「私たちは神に愛されている者」であるという信仰以外の何ものでもなく、主イエスを救い主として受け入れ、主イエスによって与えられた救いの恵みに応答していこうとする者であるかどうかによるのです。

 主イエスが呼び寄せた12人を眺めてみると、特別な才能を持つ人たちではありません。例えば、12人の中の幾人かはガリラヤ湖の漁師たちです。彼らはガリラヤ湖畔でイエスに召し出され、家族や家財を置いてイエスに従っていった変わり者と思われていたかもしれません。また、熱心党のシモンは神の国の実現のためなら武力をも用いようとするユダヤ国粋主義者でした。マタイは当時のユダヤを支配するローマ帝国の手先となってイスラエルの民から税を取り立てる者でした。こうした人が主イエスに召し出され、天の国の姿がこの世に現れ出るように働く者へと召し出されていったのです。この12人中にはユダヤ教の律法の専門家や神殿祭儀の専門家など一人もいません。また、殆どの弟子たちがガリラヤの出身です。イスラエル民族の聖地であるエルサレムからみれば、ガリラヤの人は田舎者と呼ばれていました。このような人々が「新しいイスラエル」の構成員なのです。

 彼らが主イエスに召し出されたとき、もし熱心党のシモンや徴税人マタイがイエスを利用して自分の主義や主張を広めたり押し通そうとしていたら、弟子集団は「新しいイスラエル」として一致することはなかったでしょう。

 主イエスが弟子たちを召し出して派遣する思いは、今日の福音書マタイ9:36にあるように、人々が飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている様子をご覧になって、深く憐れんでその人たちのために神の御心を示さないわけにはいかない主イエスの思いでした。そして、主イエスの深い憐れみによって救われ、癒やされ、自分を取り戻して生きるようになった人々の集まりが「新しいイスラエル」を造っていくのです。

 私たちも、一人ひとりが召し出された背景があり、その背景は実にさまざまです。でも、その私たちが、打ちひしがれた人々に深い憐れみを寄せその人々の命を回復してくださった主イエスからの深い憐れみを戴いて、召し出されたことにおいては誰もが共通しています。そして、それぞれに違う生活の背景を持ちながらも、「イエスは私の救い主」という信仰を持つことにおいては共通しています。「新しいイスラエル」は主イエスによって示された神の愛によって一致するのであり、イエスによって召し出された者の集まりである教会は、その他のことが中心に立つのではないことを私たちも心に留めておきたいと思います。

 初代教会の指導者であり宣教者であったパウロは、元ユダヤ教ファリサイ派の熱心な人であり、キリスト者を迫害していました。パウロはやがて幻でキリストと出会い、イエスを救い主として受け入れ、その信仰を告白して、主イエスに示された神の愛を熱心に伝える人になっていきました。

 そのパウロが、コリントの信徒への手紙Ⅰ第126節以下で次のように言っています。

 あなた方が召されたときに、神は能力のある者や家柄の良い者を選んだわけではなく、むしろ世の無学な者、無力な者、身分の卑しい者や見下げられている者をお選びになったのであり、それは、誰一人神の前で自分を誇ることがないようにするため、と言ってます。

 私たち一人ひとりもこのエクレーシアの一員です。主イエスによって選び出され生かされていることを感謝し誇りたいと思います。また、神の国の収穫のために、例え小さくても自分の働きをもって主に仕える者でありたいと思います。神の愛による信仰の共同体としての教会をつくられた主の働きに私たちも与り、主イエスに導かれる信仰の生活を歩ませていただきましょう。

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2023年06月11日

徴税人マタイの証し  マタイによる福音書9:9-13   聖霊降臨後第2主日(A年特定5)

徴税人マタイの証し    マタイによる福音書9:9-13   聖霊降臨後第2主日(特定5)   2023.06.11  


 今日の聖書日課福音書は、マタイによる福音書第9章9節からの箇所です。聖書新共同訳ではこの箇所に「マタイを弟子にする」という見出しがついています。歴史的な事実として徴税人マタイ自身がこの福音書を記したのかどうかについては色々な見解がありますが、この福音書を徴税人マタイが著したと想像してみると、この「マタイを弟子にする」物語はマタイが自分を証しているという意味合いが強く感じられます。

 パウロがテモテへの手紙一第113節で次のように言っています。

 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私はその罪人の頭です。

 福音記者マタイは、まさに自分が「その罪人の頭」であり、主イエスによって救われねばならなかった者である、ということをここに証しているのです。

 同じ物語(並行記事)は、マルコ、ルカの両福音書にもありますが、マルコ、ルカの両福音書では、イエスに召し出された徴税人の名前が「マタイ」ではなく「レビ」です。マタイによる福音書がこの物語に登場する徴税人を「マタイ」とし、自分が主イエスによって召し出され、その愛の中に招き入れられて生まれ変わることができたことの証しとして、この出来事をそしてこの福音書を記していると言うことが出来ます。

 マタイは、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムの収税所に座り、この町を出入りする人やガリラヤ湖の対岸から舟で運ばれてきた荷物や舟を降りる人々から税金を徴収していました。

 当時、イスラエルを占領し支配していたローマ帝国は、ユダヤ人たちの一致と団結を壊し、ローマへの否定的感情の鉾先をローマから逸らす政策として、徴税の仕事を敢えてユダヤ人にさせていました。

 徴税人はユダヤ人の中から入札制によって採用されました。ローマ帝国は属領イスラエルから税を取り立てる仕事を競争入札させ、ローマに最も高額の税を納めると提示した者にその仕事を与えました。しかも、徴税人はローマに納入する額に上乗せしてイスラエルの民から徴税し、その差額を自分の収入にすることを認めました。また、ローマの管理者は、ユダヤ人たちが自分たちの神(ヤハウェ)を礼拝する安息日に敢えて荷物を陸揚げさせて、安息日に徴税人を働かせました。そうすることで、イスラエルの民の征服者ローマに対する反感の矛先を徴税人に向けさせたのでした。

 徴税人は同じユダヤ人たちから「裏切り者」、「売国奴」、「救われることのない罪人」と呼ばれ、同じ民として交わりを持つことを拒否されました。

 福音書の中には「徴税人や罪人たち」という言葉が度々出てきます。イスラエルの権力者たち、指導者たちが嫌い、ユダヤ教の枠からも救いの対象外と見なされた人々が、福音書の中で「徴税人や罪人たち」と表現されています。ここでの「罪人」とは、娼婦の婉曲的表現であり、「徴税人や罪人たち」とは当時のユダヤ社会では、汚れた人々として交わりを持たないように避けられていた人々を意味していました。

 その日もマタイは収税所に座っていました。多くの人が、この徴税人マタイの前で表情を硬くして、お前の顔も見たくないという思いを表して、乱暴にお金を置いては通り抜けていきます。

 そこに主イエスがやって来られました。主イエスはゆっくりとマタイに近付いて正面に立ち、しっかりとマタイと視線を合わせ、「わたしに従いなさい」と言われました。マタイは立ち上がって主イエスに従っていきました。

 マタイによる福音書は、主イエスが徴税人マタイを召し出した場面を実に簡潔に描いています。徴税人マタイは「立ち上がってイエスに従った」と記されていますが、「立ち上がって」という言葉に注目してみましょう。

 ここで用いられている「立ち上がるaνaιstηµι」という言葉は、具体的に座席や床から「立ち上がる。起き上がる」という意味がありますが、「現れる」という意味や「死から甦る」という意味も含まれています。福音記者マタイは、この場面で、徴税人マタイがただ座っていた状態から体を起こしたという意味以上の思いを込めて、「立ち上がって」主イエスに従っていったことを語っているのではないでしょうか。つまり、マタイには、かつてローマの手先のようになって徴税人として生きる決断をした時があり、おそらくそう決断させる事情があったのでしょう。そして、マタイは同じイスラエルの民から税金を取り立てて生きてきました。そのようにして生きてきたマタイは、まさに自分の人生から立ち上がれない人、収税所に座り込んだ人だったのでしょう。主イエスはこの徴税人マタイの前に立ち、マタイを一人の尊い人間として認め、主イエスに従って来るようにとお招きになったのです。マタイはこの主イエスによって自分の心の底の閉じられた扉を開き、自分を取り戻して立ち上がりました。

 主イエスに「私に従ってきなさい」と言われたマタイは、本物のマタイとして死から命へと立ち上がり、新たな人間として甦って主イエスに従っていきました。

 先ほども申し上げたとおり、福音記者マタイはこの召命の物語を「レビ」という名を用いず、第9章9節に「マタイという人が」と記しています。おもにイスラエルの民(ユダヤ人)に向けて記されたとされるこの福音書の中で、かつて自分が徴税人であったことをあからさまに記しています。

 もし、こうした自分の過去を大胆に記すとしたら、マタイは、かつては自分がユダヤ教の指導者をはじめ多くの人から「罪人」、「裏切り者」と呼ばれていた者でありながら、主イエスによって見出されて立ち上がった喜びと感謝を伝えないわけにはいかなかったのでしょう。マタイが喜びと共に私たちに伝えているのは、マタイを通して現された主イエスの救い主の姿なのです。そうでなければマタイはどうして人々の前に罪人呼ばわりされた自分の過去をわざわざ公けにする必要があるでしょうか。

 徴税人マタイは、かつて社会から弾き出されていた自分に働いた主イエスに感謝し、救い主イエスが示してくださった神の愛を誇り、その喜びをこの福音書を通して私たちにも伝えているのです。

 マタイは、主イエスを自分の家に招き食事の席を設けました。そこには、徴税人仲間や遊女たちが集まっています。彼ら、彼女らは、当時の社会で除け者にされている人たちです。彼らは、皆、マタイを通して顕された神のみ業に喜び、主イエスによって生まれ変わったマタイの姿を目の当たりにして主イエスを褒め讃えたことでしょう。

 彼らの中にファリサイ派の人々が混じっていることに触れておきましょう。私は、このファリサイ派の人々から、第二次世界大戦下の憲兵が教会の礼拝を監視する姿を連想します。このファリサイ派の人々は、マタイが主イエスによって救われたことを喜ぶ席にいるのではなく、その様子を観察し監視しているのです。彼らは、イエスがユダヤ教の会堂で教えたり癒やしや浄めの働きをすることを監視し、やがて主イエスへの弾圧と迫害を始めるのです。

 ファリサイ派の人が弟子たちに「なぜあなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と質問していますが、これも質問ではなく取り調べの意図を込めた批判です。

 主イエスは、これに対してホセア書第66節の「『わたしが求めるのは、慈しみであって生け贄ではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」という言葉を引いて、ご自身がどのような意味での神の子救い主であるかを明らかにしておられます。

 ファリサイ派の人々は律法の細則をつくり、それを字句通りに守ることによって救いを得ることができると考え、そのようにできない人々を罪人と決めつけ、その差別意識の中で自分を救われる者の側に置いていました。

 しかし、主イエスは、神は律法のうちに居られる神ではなく憐れみの神であり、どんな罪人でもその罪を認めて悔い改める者は天の国が約束されていることを教え、ファリサイ派を批判しました。

 罪あるものが自分の罪を認めて神の御前に立ち帰るなら、神はその者を決して見捨てず、捨て置かず、必ず憐れんで救い出してくださることを、主イエスは身をもってお示しくださいました。

 主イエスが罪人とされてきた人々を食事なさることは、天の国の姿を表すものでした。主イエスが共におられる食事の姿は、教会の中に引き継がれてきました。私たちがこうして主日に集い、聖なる食卓を囲むことも、ここに天の国の姿があり、主イエスの働きを受け継ぐ力を与えられるからです。

 私たちの弱さや醜さを通して働いてくださる主イエスの憐れみに感謝し、主イエスさまのお働きを引き継いで天の国の姿を人々に示していくことが出来ますように。

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2023年06月05日

ガリラヤから世界へ 三位一体主日 マタイによる福音書28:16-20

ガリラヤから世界へ  三位一体主日・聖霊降臨後第1主日  マタイによる福音書281620   2023.06.04

(2) 2023 年 6 月 4日( A 年) 三位一体主日・聖霊降臨後第 1 主日 説教小野寺司祭 - YouTube


 教会暦は、復活節、聖霊降臨日を経て、聖霊降臨後に期節に入りました。聖霊降臨後第1主日は、父と子と聖霊なる三位一体の神を覚える主日です。この主日の聖書日課福音書は、マタイによる福音書の最後の箇所です。

 主イエスは、ガリラヤ湖を見下ろす小高い山で、弟子たちに最後の言葉を与えておられます。その山とは、主イエスが宣教の初めに「山上の説教」をなさった山と同じ場所かもしれない、弟子たちはそこで再び主イエスから御言葉を受けたと想像してみるのも楽しいことだと思います。

 主イエスが最後に弟子たちに与えた言葉をもう一度思い起こしましょう。

 マタイによる福音書第2818節の中頃からです。

 「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 このみ言葉は、主イエスの「大宣教命令」の言葉と呼ばれています。

 復活なさった主イエスは、度々弟子たちにお姿を現されましたが、この世で直(じか)に弟子たちにお姿を現すことはなくなる時がきました。そのような時に、主イエスが弟子たちに告げられたのがこのみ言葉であり、この「大宣教命令」は、復活の主イエスの遺言であり遺訓であるとも言えます。

 この言葉が語られたのは、ガリラヤ地方の山です。それがエルサレムではなく、ガリラヤであったことに注目してみましょう。

 ガリラヤ地方から始まった主イエスのお働きは、エルサレムに行って十字架にお架かりになることで終わったかのように見えました。

 エルサレムはダビデが都に定めソロモンがそこに神殿を築いて、イスラエルの中心となりました。主イエスが十字架で死んで墓に葬られた後、「イエスは甦った」という噂もエルサレムから広まりました。ガリラヤ地方はそこから直線でも100㎞程離れており、当時は辺境のガリラヤとも言われていました。

 主イエスが弟子たちに最後の宣教命令をお与えになったのが、ガリラヤ地方であったことの意味を考えるために、主イエスが甦った場面を思い起こしてみましょう。

 マタイによる福音書第287節にあるように、主イエスが甦った日の朝早く、墓に向かった婦人たちは天使にこう告げられています。

 「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」

 また、第289節では主イエスご自身がその婦人たちにこう言っておられます。

 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしは会うことになる。」

 このように、マタイによる福音書は、弟子たちが甦った主イエスにお会いする場所はガリラヤであると伝えています。

 ガリラヤ地方は、弟子たちにとって主イエスとの最初の出会いの場所であり、召し出された出発点です。

 弟子たちはみなガリラヤの出身です。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネらは、ガリラヤ湖の漁師でした。彼らが「人間を取る漁師」になるように召し出されたはガリラヤ湖のほとりであり、主イエスが山の上から多くの人に教えを説かれた山上の説教はガリラヤ地方の小高い山でのことであり、徴税人マタイが主イエスに召し出されたのもガリラヤ湖の畔の徴税所でのことでした。

 弟子たちが、それぞれにガリラヤで主イエスと出会い、主イエスに見出され、主イエスに従いました。弟子たちは、主イエスの慰めと励ましに満ちた言葉を聴き、癒しの業を目の当たりにし、自分たちも癒やされ力づけられ、主イエスの御言葉と御業のうちに天の国の姿が現れることを体験しました。そして、主イエスと弟子たちは、ガリラヤからエルサレムに上っていって、主イエスは祭司長、長老、学者たちからの非難や迫害とその果てのリンチ同然に十字架に架けられてしまいました。弟子たちは、すべてを失ったと思いました。

 でも、その弟子たちは、「ガリラヤで復活したイエスにお会いできる」とメッセージを受けたのでした。

 弟子たちにとってこれら全てのことの始まりつまり「福音の初め」は、ガリラヤであり、ガリラヤはいわば彼らの信仰の出発点を意味していると言えます。

 そして、復活なさった主イエスはそのガリラヤで、弟子たちにこの最後の言葉をお与えになるのです。

 弟子たちが召し出された原点に戻り、そこから弟子たちの宣教の働きが始まります。主イエスが命じられた働きへと遣わされるために、弟子たちは、また私たちも、自分の信仰の原点を確認し、ここから全世界への宣教の働きが始まっていきます。

 弟子たちは各自の信仰の原点であるガリラヤで甦りの主イエスとお会いし、その主イエスを通して示された神の愛を確認し、自分たちもまた主イエスのように生き、主イエスのことを宣べ伝えて生きていくのです。主イエスはそのように生きる者と共に世の終わりまでいてくださると約束してくださいました。

 弟子たちは、突き動かされるように、主イエスこそ世界の救い主であると宣べ伝え始めます。主イエスに出会って、新しくされ、主イエスに生かされていることを自覚する弟子たちは、救い主イエスを知らせ、すべての人を主イエスの弟子にするために、洗礼を授け、新しい掟を教えて生きるのです。

 私たちが遣わされているこの世界は、主イエスが示してくださった神の国の姿に照らしてみると、神の御心とこの世界の現状との間に大きな断絶があることを認めないわけにはいきません。

 主なる神が、主イエスを遣わされた時も、この世が御心とかけ離れた有様であり、それだからこそ愛の神は、主イエスをこの世界に遣わさざるをえませんでした。そして、主イエスは神と私たちの間に立って、私たちを執り成し、神と私たちとの間に救いの道を開いてくださいました。私たちはこの主イエスを私たちの信仰の原点として、すべての人が主イエスの弟子となるように、主イエスを宣べ伝えるために遣わされていきます。その働きを担う者に聖霊が生きる力となって働いてくださいます。

 私たちも、一人ひとりが主イエスの弟子であり、大宣教命令を受けてこの世界に派遣されていく者です。そうであるからこそ、私たちはそれぞれに自分が主イエスと出会い神の招きを受けた原点を確認するのです。

 教会の一年は、今日から後半に入ります。教会暦は降臨節に始まり、主イエスの降誕、洗礼によって公生涯が始まり、ガリラヤからエルサレムへ、その果ての十字架の死、復活、そして先主日に聖霊降臨日を迎えました。これまでの半年間に、私たちは、主イエスが命を掛けて神の国を示してくださった姿に出会い導かれてきました。その私たちが、今日の主イエスのみ言葉に導かれて、それぞれのガリラヤ(すなわち信仰の原点)に戻って、そこから教会暦の後半「聖霊降臨後の期節」を新しく歩み始めるのです。

 主イエスが、ガリラヤの小高い山の上で弟子たちに告げられた「大宣教命令」の言葉を、私たちに与えられた言葉として、もう一度聴きましょう。

 「だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊に名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 主イエスが世の終わりまで私たちと共にいて下さいます。主イエスに力付けられ、私たちの思いを遙かに超えて私たちを励まし支えて下さる聖霊によって力付けられ、この世界に「御国が来ますように」「御心が天に行われるとおり地にも行われますように」と祈りつつ、宣教の歩みを踏み出して参りましょう。
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2023年05月28日

「聖霊を受けよ」

「聖霊を受けよ」     聖霊降臨日  ヨハネによる福音書20:19~23     2023.05.28

 復活節が過ぎて、今日は聖霊降臨日です。主イエスの復活の日から50日目に当たるこの日は、ギリシャ語で50を意味する「ペンテコステ」と呼ばれています。この日は元々イスラエルの民の3大祝日の一つで、「7週の祭り」とも呼ばれ、小麦の刈り入れを終えた収穫祭(鎌収め)の日でした。イスラエルの民はこの日を単なる農業祭としてではなく、モーセがシナイ山で十戒を受けた日として記念するようになります。この日は、言わば、イスラエルの民にとっての憲法記念日です。

 主イエスが甦ってから50日目に当たるこの50日祭の日、弟子たちはエルサレムにある家に集まって、心を一つにして祈っていました。その時、突然強い風が吹くような音がして、弟子たちの頭の上に炎のような舌のようなものが降りてきて留まりました。力を受けた弟子たちは出ていって、主イエスを通して表された神の御業を力強く語り始めたのでした。

 教会ではこのペンテコステの日を、弟子たちが聖霊によって強められ宣教の働きへと突き動かされていったことを記念する日として、また教会の成立の日として記念するようになりました。

 聖書が聖霊について伝えている箇所を読み比べてみると、今日の聖書日課福音書のヨハネによる福音書では、教会暦の基盤となるルカによる福音書と使徒言行録の記述とは少し違う文脈の中で聖霊が語られることが分かります。

 ヨハネによる福音書では、甦った主イエスはその日の夕方に弟子たちのところにお姿を現して、「あなたがたに平和があるように」と言われましたが、それに続けて弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言っておられます。ヨハネによる福音書における聖霊は、甦った主イエスが弟子たちに息を吹きかけて与えておられます。

 私たちは「息を吹きかけて」という言葉から、創世記第2章に記された人間の誕生の物語を連想するのではないでしょうか。その箇所では、人間は先ず土の塵から形づくられ、神はその土塊(つちくれ)に息を吹きかけて。私たち人間を命あるものとなさいました。

 神がこのように土塊に息を吹き入れて人間をお造りになったことを、仮に「第一の創造」と呼んでみましょう。

 人間はこの「第一の創造」によってこの世界に命を与えられ、生きるものとされました。しかし、人間は直ぐに神の御心から離れ、自分の身を守ろうとして責任を転嫁し、相手を裏切り、神の御前で取り繕います。

 やがて、この世に生きる人間は、神の子イエスを十字架へと追いやることになってしまいます。こうして、主なる神の「第一の創造」は、人間の罪の故に失敗に終わったかのように見えました。

 しかし、神は、独り子主イエスの十字架の死を通して救いを示し、主イエスは甦って神の愛と赦しの確かさを示してくださいました。主イエスは、罪に打ちひしがれている弟子たちにお姿を現し、その罪の赦しを宣言し、弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」

 弟子たちは、息を吹きかけられて聖霊を受けました。これは、「第二の創造」です。

 この「第二の創造」によって、弟子たちは罪を赦されて、神の愛の中に新たに生きるための息吹を与えられました。主イエスは、人が罪を赦されて神の絶対的な愛の中に生かされているしるしとして、弟子たちに息を吹き入れてくださったのです。

 弟子たちは聖霊を受けて新たにされました。弟子たちは色々な国の言葉で話し始めます。使徒言行録第2章11節では、周囲の人々が驚いて語っている様子を記しています。

 「神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 エルサレムの人々は、あのガリラヤからエルサレムに上ってきたイエスの弟子たちがまるで別人のように救い主イエスについて力強く語る姿を目の当たりにしました。聖霊は、弱く力のなかった弟子たちを力づけました。かつては、直ぐに神の御心から離れてしまう弟子たちでしたが、彼らは聖霊によって強められ、神の思いを実現する人へとに変えられていったのです。

 主イエスは弟子たちを遣わすにあたり、「聖霊を受けなさい」と言っておられます。

 聖霊はこの世的な意味での権力や財力のパワーを保証する力ではなく、神の御心を行う者への力であり、慰めであり、励ましです。

 私たちも、もし自分を通して働く神の偉大なみ業を証しようとしないのであれば、神は私たちに聖霊を与える必要はないでしょう。もし、神の御心を行わないのなら、神はその人にどうして聖霊を送る必要があるでしょうか。

 また、もし私たちが聖霊を求めて祈らないのであれば、私たちは先ず自分は本当に御心を行う器とされたいのかどうか、そしてそのために自分の思いを超えて働く神の助けを必要としているのかどうか、改めて自分の信仰の在り方を振り返らなければならないでしょう。

 主なる神は、私たちも聖霊を喜んで与えてくださいます。私たちは、信仰を得たとき、聖霊を受けることを目に見えるサクラメンタルなこととして、主教によって按手されるのです。

 聖霊は私たちが何もしないでいてもラッキーやハッピーをもたらす力として働くのではありません。そうではなく、聖霊とは、私たちが神を愛し人を愛し、しかもそうすることの限界を知って神に赦しと助けを心から願う者に与えられる神の力なのです。

 今日の聖霊降臨日を覚え、私たちが先ず自分の一番身近な人を愛することから第一歩を踏み出していきましょう。私たちが他の人々に対して神の思いを現そうとする時、私たちはそれを実行することの難しさを思い知ると同時に、そこに確かに働いてくださる聖霊の力を知って、神への感謝と賛美が深く豊かにされるのです。
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2023年05月21日

大祭司イエスの祈り      ヨハネによる福音書第17章1-11  復活節第7主日

 大祭司イエスの祈り      ヨハネによる福音書第17章1-11  A年 復活節第7主日  2023.05.21


(1) 2023年5月21日 復活節第7主日昇天後主日 説教小野寺司祭による - YouTube


 教会暦では、復活節の最後の主日になりました。先の木曜日が主イエスの復活から40日経った日であり、その日は昇天日でした。そして、今日は復活節第7主日(昇天後主日)です。

 こうした教会暦の上で、この主日は主イエスが天に昇っていかれた後にまだ聖霊が与えられていないという主日であり、「聖霊を求めて祈る主日」、「待ち望みの主日」と位置づけられてきました。

 この主日の聖書日課福音書には、ヨハネによる福音書第17章1~11節が取り上げられています。ヨハネによる福音書第17章全体は、主イエスが十字架につけられる前の晩に天を仰いで祈られたその祈りが記されており、第17章は主イエスの「大祭司の祈り」の箇所と言われています。

 主イエスは、十字架に架けられる最後の晩に弟子たちの足を洗い、記念の食事を残され、別れの説教をなさいました。その長い説教の後、主イエスは祈り始めました。その祈りの言葉が残されているのが第17章です。

 今日の聖書日課福音書は「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた(17:1)」と記されいます。きっと弟子たちには近寄り難いほどの緊張感の中で、主イエスは祈り始めたのでしょう。

 天を仰いで祈っておられる主イエスは、大祭司としてのお姿が現れているのですが、それはどのような意味なのかを今日の聖書日課福音書の箇所から読み取りたいと思います。

 大祭司の働きを思い巡らせるために、例えを引いてみたいと思います。

 私は、子供たちがまだ小さい頃、立教小学校のチャプレンとして7年間出向していましたが、その頃時々、家族で神宮球場に東京六大学野球の応援観戦に行きました。また、それから10数年経って息子の応援観戦に行きました。試合内容とは別に学生応援団の姿を見ていると、その応援団長がとても祭司性の強い働きをしていると思うようになりました。応援団長は、応援席にいる人々の思いを一つにまとめてグラウンドでプレーする選手たちに声援を送ります。また、直接介入することの出来ないグラウンドの選手たちのプレーを受け止めて応戦席の人々と分かち合い、応援する人たちの思いを一つにしてその思いをまたグラウンドに送ります。応援団のリーダーはグラウンドの選手と応援席の人々の仲介者となり、お互いの意思を通わせていると言うことが出来ます。

 私がこの応援団長の働きに見る祭司的な性質とは、私たちが手出しすることの出来ないグラウンドの世界と応援席の間に立って、グラウンドの出来事を応援席の人々に共有し、また応援席の人々の思いを一つにまとめてグラウンドの中に届ける姿が、神の意思を会衆に伝え、また会衆の思いを一つにして神に捧げて祈る双方向の仲介者の働きをしているところにあるように思えたのです。

 主イエスは、そのご生涯を通して、神とこの世界の間に立って神の御心を教え、また私たちの代表となって私たちの罪をその身に負って、ご自身を十字架の上にお捧げになりました。そのような意味での大祭司主イエスの祈りが、今日の聖書日課福音書の中に凝縮されていると言えます。

 主イエスは4節でこう祈っておられます。

 「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」

 主イエスは、この世で神から託された働きをすべて行い、神の栄光をこの世でお示しになりました。こうして私たちは神のお考えをはっきりと知ることが出来るようになりました。大祭司は、神と人との間に立って、この世に神の御心を示します。人々は大祭司の働きを仲立ちとして、本来は目に見えない神の働きを知ることが出来ました。今、主イエスに残された働きはご自身を十字架の上に献げて、私たちに代わって罪の生け贄となって、神に受け取っていただくことです。大祭司イエスが、ご自身の十字架の死によって、神の私たちに対する赦しと愛が完全なものであることを示す時が来ているのです。主イエスはご自分の大祭司としての業が父なる神の栄光を表すようにと祈ります。

 「父よ、今、御前でわたしの栄光を与えてください(17:5)」。

 大祭司イエスは、人々の思いを一つにして神に届けるためにも祈ります。

 主イエスは第17章9節で次のように言っておられます。

 「彼らのためにお願いします。」

 主イエスは、大祭司として弟子たちのために、そして私たちのために祈り、私たちの思い、願い、考えを神の御許に取り次いでくださいます。私たちは誰もが神の御前では不完全であり、罪のある存在です。そのような私たちのために、主イエスは神とこの世界の間に立ち、私たちに代わって、あるいは私たちの代表となって、祈ってくださっています。そして、その祈りによって、私たちは主イエスと一つとなり、私たちも一つの民とされるのです。

 主イエスは、更に11節でこう祈っていて下さいます。

 「聖なる父よ、わたしに与えてくださったみ名によって彼らを守ってください。わたしたちのように彼らもひとつとなるためです。」

 今日は、教会暦では、主イエスが昇天なさった直後の主日です。この日に主イエスの「大祭司の祈り」の御言葉を受ける意味を考えてみましょう。

 私たちはこの復活節の間、主イエスの復活を祝う時を過ごしてきました。私たちは誰でもまたいつでも復活の主イエスと一つである喜びに包まれていたいと願っています。でも、私たちの信仰生活は、必ずしもいつもその喜びを保ち続けられるとは限りません。私たちは、時には主イエスが見えなくなってしまったり、主イエスの存在が身近に感じられなくなることもあるのではないでしょうか。

 弟子たちも、主イエスが天に昇ってそのお姿が見えなくなった時、ただ天を仰いでいるほかありませんでした。それは、弟子たちにとって目に見える主イエスを喪失する体験であったと言えるでしょう。でも、目に見えるものは一時的であり限りがあります。もし私たちが自分の目でしっかりとイエスを捕らえたと思うような経験をしたとしても、それはやがて過去のことになります。

 でも、主イエスが甦って天に昇っていったということは、これで主イエスの働きが全て終わってしまったということではありません。主イエスは天に昇って、弟子たちの目に見える救い主であるということを越えて、この世界を祝福していてくださる救い主となったのです。そして主イエスの復活を確認した弟子たちの集まりは、イエスが天に昇ったことで終わったのではなく、ここから新たに大祭司である主イエスを世界中に宣べ伝える働きが始まっていくのです。

 主イエスは、私たちがそれぞれに出会ったお姿で居続けてくださるのではなく、私たちが自分の中で思い考えるよりもっと大きく深く私たちに関わって下さいます。大祭司主イエスの祈りは、私たちの祈りを神の御許に届けてくださると同時に、父なる神の意思を私たちにお届けくださるお働きもなさるのです。もし神が、私たちの見える範囲で私たちの理解できる範囲でだけしか働かないのだとしたら、私たちの信仰の成長や発展はなく、信仰はその限られたイメージの中にとどまることでしょう。

 主イエスが天にお帰りになった後、弟子たちは白い衣を着た二人の人に促されて、エルサレムに戻り主イエスの御名によって熱心に祈ります。弟子たちはその祈りを通して、父なる神とイエスが一つであるように、イエスと自分たちも一つであるとの思いを強くし、その思いを基に宣教の働きへと促されていくことになるのです。その時に与えられる神の力は、自分たちの思いや考えを遙かに超える衝撃となり、主イエスの御言葉と御業を伝えないわけにはいかない促しとなっていきます。その促しの力こそ「聖霊」です。私たちは次の主日にこの聖霊が与えられたことを感謝して礼拝することになります。

 主イエスは天に昇って父なる神の右の座に着かれ、私たちのために大祭司として祈っていてくださいます。私たちも、主イエスの名によって祈り、聖霊の力を与えられ、この世にあって神の御心を人々に示し、主イエス・キリストの証人となることが出来ますように。

posted by 聖ルカ住人 at 09:16| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする