2024年06月16日

神の国の成長  マルコによる福音書4:26-34 (B年特定6) 2024.06.16

神の国の成長 マルコによる福音書4:2634 B年特定6       


 今日の聖書日課福音書は、主イエスがなさった短い例え話の箇所であり、その内容は「神の国」についてです。

 主イエスは、しばしば例えでお話しをなさいました。今日の福音書の第4章33節には「イエスは人びとの聞く力に応じて、このように多くの例えで御言葉を語られた。」それに続けて「たとえを用いずに語ることはなかった。」と記されているように、主イエスいつも例えを用いて話をしておられたことが強調されています。

 人が深く生きることやその意味を問い返すとき、また目に見えない心の深い領域の事を話そうとする時、その表現は論理や数式にはならず、例えや象徴によってのみ表現できるのではないかと私は思うのです。

 一方、ユダヤ教ファリサイ派の人びとは、律法の文言を細かな点にまで念入りに解釈を施し生活に適用しました。しかし、そうすればするほど、律法の言葉から命が失われ、人は解釈された律法の細則に縛り付けられることになっていきます。

 主イエスが例えでお話しになったことは、単に身近な題材で分かり易くお話しになったということではなく、例えや象徴によってしか説明できないことを伝えようとしておられ、また、その意味を聞こうとしない人々には主イエスの教えが単なる植物の育ちの話としてしか理解できないという一面があることを見落としてはならないでしょう。

 今日の聖書日課福音書の箇所では、主イエスは例え話によって「神の国」が人の思いを遙かに超えて確実に広がり成長していく事を語っておられます。その内容は主イエスの生涯そのものに重なっています。

 主イエスの生涯を振り返ってみましょう。

 砂粒のように小さなからし種が一粒地面に落ちるのと同じように、主イエスは貧しく弱いお姿をとってこの世に生まれました。主イエスは30才になった頃、人々に神の国を伝え神の国を実現するための宣教活動を始めました。この働きは次第に下層民や病者や弱者によって支持され、イエスを新しい王として期待する者まで出てきました。しかし、時の権力者たちはイエスによって体制が揺らぐことを恐れて、イエスを神を冒涜する者として十字架に磔にして殺してしまいます。この世の権力の前では全く無力に思えたイエスの働きは、弱く臆病だった弟子たちを力付け、その働きは弟子たちに受け継がれ、多くの人を回心させていきました。主イエスによって蒔かれた種は主イエスを救い主として信じる人々によって更に多くの人を通してを出し、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を実らせ、そこにも鳥が巣を作るほどになっていきました。

 からし種とはパレスチナの地方のアブラナ科の一年草「黒辛子」の種のことと考えられています。パレスチナでは黒辛子と言われるカラシ菜が栽培され、その種から油を採っていました。その種は砂粒のように小さいものですが、芽を出すとその成長は早く、その植物の背丈は5メートルほどもになり、枝のように別れた茎の陰では実際に鳥が巣を作ることもあると言われています。主イエスはそのようなカラシ菜の成長の姿を天の国に例えたのでしょう。

 私たちが「神の国」について学ぶ上で理解しておきたいことは、「神の国」とはある一定の地域を占領してそこを自分たちの領土にすることで造り上げるものではなく、神の御心が実現する「状態」、その「姿」を意味しているということです。

 主イエス一人の働きから始まった神の国を実現する運動とその交わりの中で、多くの人が安らぎを得、慰めを与えられ、本当の自分を見つけ、また自分を取り戻すことが出来ました。主イエスは、ガリラヤで宣教を始めた頃、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言っておられますが、多くの人が主イエスの働きの中にカラシ菜の畑に例えられるような神の国の訪れと広がりを見出し、またその中から多くの人が神の国実現の働き人になっていきました。

 主イエスの「神の国」をもたらす働きの期間は短く、3年間程度あるいは一年と少しであったと主張する人もいます。そのような短い宣教の働きの末の十字架の死は、まさに十字架の上に蒔かれた一粒の種のようでした。神の国を実現しようとする運動はイエスの死によって終わったのではなく、カラシ菜の一粒種が多くの実を結び更にその種から育ったからし菜が実を結ぶように、広がっていくのです。

 主イエスは、ヨハネによる福音書の中で、「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ。」と言っておられます。からし種であれ麦であれ、そこに宿っている命は殻の中に閉じこもったままで居続けようとするのなら種は一粒のままやがて干からびて命を無くしていくことになります。しかし、種粒が自分の内側から殻を破り、根を張り芽を出して育っていくと多くの実を結ぶことになるのです。

 主イエスは神の国を「成長する種」に例えています。主イエスの神の国を実現する働きは、主イエスの生涯を通して福音の種を蒔いて行われ、やがて弟子たちによってその実が結ばれ、更にその種が蒔かれることで世界に広がりその流れの中で私たちの教会も立てられました。

 主イエスが、貧しいお姿を取って宣教の働きに枕するところもない日々をお過ごしになっていた頃、弟子たちは主イエスのお考えやお働きをまだ正しく理解できていませんでした。

 弟子たちが主イエスの働きの意味を本当に理解するのは、主イエスが十字架にお架かりになった姿を目の当たりにし、その主イエスが甦り、そこに示された愛が他ならぬ自分にも向けられており、自分の罪と汚れが主イエスによって完全に赦され清められていることを知った後であり、その救い主イエスを力強く伝え始めたのは、弟子たちが聖霊の力を受けてからのことでした。

 言い換えれば、弟子たちは、主イエスの愛に自分のすべてを明け渡すことが出来たときに、小さな種粒のような自分であっても、その殻を破って新しい命に生まれ変わっている自分に気付き、その救い主を恐れなく伝えるようになっていった、と言えるでしょう。

 私たちも主イエスによって蒔かれた愛を受け、大きく育くまれているのです。

 弟子たちは、主イエスによって始まった神の国実現の働きを受け継ぎ、ほとんどの弟子が宣教の働きに遣わされ、それぞれ派遣された先で殉教の死を遂げています。そのような弟子たちも、かつては主イエスが捕まるときには皆蜘蛛の子を散らすように逃げ去った者であり、大祭司の館取り調べられてる主イエスのことを「あんな男のことなど知らない」と言ってしまう者でした。

 その弟子たちが、主イエスの十字架と復活を通して強くされ、自分たちもからし種の一粒(或いは一粒の麦の種)となって神の国の姿が現れ出るように働いたのです。

 初代教会の神学者であり歴史学者のテルトゥリアヌス(160年頃から220年頃)は次のような言葉を残しています。

 「殉教者の血は、教会の種である」。

 私たちも、それぞれの生活の中で神の国を証しする者です。私たちが周りの人々との交わりの中にいる時、そこに主イエスが共にいてくだされば、そこに神の国の姿が現れてきます。私たちは、自分の思いと言葉と行いによって主イエスの働きを伝えていく者の集まりであり、主イエスの養いと導きを受けて成長していこうとする者の集まりです。私たち一人ひとりはカラシ菜の種のように小さい者ではありますが、私たちを育ててくださる神に生かされるとき、私たちも多くの実を結ばせてくださるのではないでしょうか。

 十字架の上に蒔かれた一粒の愛の種を受け入れ、神の国の実現のために働き証しすることを通して、私たちも主イエスによって示された天の国の成長の働きへと導かれて参りましょう。

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2024年06月15日

罪を犯した者に対する神の配慮   創世記3:8-21  特定5  

罪を犯した者に対する神の配慮 B年特定5 創世記3:8-21  2024.06.09


 旧約聖書日課の御言葉から信仰の導きを受けたいと思います。
 今日の旧約聖書日課(創世記第3章)には、神がお創りになった最初の人であるアダムと女(後にエバと名付けられる)が罪を犯した物語が載っています。
 神は、天地創造の第6日目に、神の姿に似せて人をお造りになりました。アダムとエバはエデンの園に置かれてそこで暮らします。
 第1章の終わりには、「人と妻は」二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」と記されていますが、その言葉の通りに、初めの人アダムと女は神に創られた姿そのものでいることができました。
 そこに蛇がやってきて、女の意識を、園の中央にある善悪を知る木に向けさせます。
 神は第2章16節で「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べるとかならず死んでしまう。」と言いましたが、女は蛇に答えてこう言っています.「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない。触れてもいけない、死んではいけないから、と神さまはおっしゃいました。」
 この女の言葉には、神の禁止命令に、「触れてもいけない」という人間の認識のゆがみが加わっています。ここに、人は神に似せて造られたとはいえ、神そのものではない人間の一面を見るのです。
 聖書で言う「罪」とは、必ずしも社会的な処罰の対象になるようや犯罪を意味するのではなく、神の御心から離れていることを意味するのです。例えば、扇風機にしても冷蔵庫にしても、そのコンセントとコードがつながっていれば本来の働きをしますが、「罪」とはそのコンセントが脱けた状態のように、神の御心から離れた姿を意味するのです。
 神に創られた人は神の御心としっかりつながって生きることで生きる意味を与えられ、神の御心から離れると、人は自分自身の中にも深い亀裂を起こすようになるのです。
 アダムと女は神から「食べるな」と言われましたが、蛇からは一言も「食べろ」とは勧められていないのに、女はアダムに約束の木の実を食べさせ、自分でも食べてしまいました。二人は自分たちがしてしまったことに気付き、恥ずかしくなり、その自分を意識して取り繕います。二人はイチジクの葉を綴り合わせて、腰を覆ったのでした。彼らは、犯した罪のゆえに、ありのままの自分でいることに恥ずかしさを覚え、その場凌ぎの取り繕いをしました。
 そして、神に創られた存在でありながらも神の御前にありのままでいることができず、神の足音を聞いたアダムと女は、神の顔を避けて、園の木の間に身を隠します。
 神はアダムと女にいくつか問いかけ語りかけてきます。「どこにいるのか」、「お前が裸であることを誰が継げたのか。取って食べたのか」、「何ということをしたのか」。
 これらの神の言葉に対する人間の応答は、どれも皆神の問いかけをはぐらかし、言い逃れをしようとしていることが読み取れます。
 アダムは10節で「あなたの足音が園の中で聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」と答えています。アダムは、そして私たちも、本当なら裸でそのまま神の御前に進み出られたはずですし、また、そうすべきなのです。それなのに、アダムは自分が罪を犯すことになったのがあたかも神のせいだと言わんばかりに「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べてしまいました。」と言っています。アダムが食べたことは自分の意志と決断によったことであり、その結果の責任も自分で負うべきです。ところが、彼は神が与えてくださった女が木の実を渡したので食べました。「私が食べたのは神のせいであり、あなたが私に与えたあの女のせいす」と言わんばかりの言い逃れです。
 人が神の似姿に造られたその性質の一つに、他の被造物にない高い意識(理解力)とその言語表現力を挙げることができます。しかし、この場のアダムはその高い意識(理解力)と言語表現力を責任転嫁と自己防衛のために用いているのです。それは女(エバ)についても言えることです。女は「蛇がだましたので、食べてしまいました」と言っていますが、先ほども見てみたとおり、蛇は少しもだます言葉も誘惑する言葉も用いてはいないし、食べる決断をしたのは他の誰でもない女自身でした。
 人は神の似姿に造られており、自ら考え、判断し、自分の責任に於いて実行することで、神の創造の働きに参与する恵みをいただいています。それなのに、この場のアダムもエバも、その大切な能力を責任転嫁と自己防衛のためにしか用いていません。神はそのようなアダムとエバをエデンの園から追放なさいます。
 創世記第1章から第3章にかけて、人が神の似姿に造られながらも、どうしても負わざるを得ない罪(原罪)について語っています。
 罪を犯したアダムと女が、自分を隠すためにその場しのぎにイチジクの葉で腰回りを覆い、神から尋ねられれば本当のことを言うより肝心なことは隠して言い逃れを図り、責任を他に負わせて自分は助かろうとしていることにその罪の姿が現れ出ています。このように、罪は人が共に生きることや人が神と出会い人間同志が出会って生きることからますます人を遠ざけてしまいます。
このような物語の中に、私たち人間がありのままの一人の人として他者と共に生きていこうとするときに直面せざるを得ない、人としての根本的な問題が描かれていることが分かるのではないでしょうか。
 主なる神は、私たち人間をご自身の姿に似せてお造りになったアダムとエバを、エデンの園から追放なさいます。それは、主なる神ご自身が傷みながらの決断だったのではないでしょうか。その神は、罪を負って生きざるを得ない人間に対して、やがて主イエス・キリストによってその答をお示しくださるのです。
 主なる神は、アダムとエバをエデンの園から追放する時にもこの二人に対して小さな配慮をしておられます
 創世記第3章21節の小さな言葉に着目してみたいと思います。
 「主なる神は、アダムと女に革の衣を作って着せられた」。
 罪を犯して、自分が裸であることを知った二人は、イチジクの葉を綴り合わせて腰を覆いました(3:7)。それは自分自身が露わになっていることを知った者が自己防衛をしてその場凌ぎの振る舞いをする姿です。神はその二人に、革の衣をお作りになって着せておられます。神に対して不従順の罪を犯してしまう人間に対して、神は、イチジクの葉で取り繕う人間を見過ごしにはなさらず、神ご自身が皮の衣をお作りになって人に着せてくださいました。
 人は、エデンの園を追放されて、その外で様々な苦難や困難に直面しながら生きていかなければなりません。神はそのような宿命(単に幼子のように裸で純朴には生きていけない)にある者に対して、神から与えられた意識と知恵と言葉とを用いて、その限界の中にあっても、神の御心を表す器となって生きるように、それに相応しい衣を神ご自身が着せてくださいました。
 私は、主なる神がアダムとエバに皮の衣を着せてくださったことは、生まれながら罪を負って生きざるを得ない人間のことをも神は深く愛し配慮してくださっていることのしるしであると思います。それと同時に、革の衣は、エデンの園の外で自分の身を守りながらも、神の御心を求めて生きていくために、神ご自身が与えてくださる派遣のしるしであると理解できるのではないでしょうか。そして、このことは主イエスが「蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい」と言っておられることとつながっているように思えるのです。
 罪を負って生きる私たちではありますが、神は最初の人であるアダムと女にイチジクの葉に替えて皮の衣を着せてくださり、エデンの園の外で生きる者への特別な配慮を与えてくださっていることを覚えたいと思います。そして、神は、主イエス・キリストによって神の側から全き罪の赦しを与えてくださいました。私たちはたとえ罪ある者であっても、神はいつも特別な配慮をもって私たちを導いていてくださっています。御心に応えて歩む思いを新たにすることができますように。共に、主なる神の前に感謝と謙遜をもって、恵みを受けることへと導かれますように。
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2024年06月02日

安息日の回復-ファリサイ派との議論- マルコによる福音書第2章23-28 (B年特定4)

安息日の回復-ファリサイ派との議論-  マルコによる福音書第2章23-28  (B年 特定4)  2024.06.02

2024年6月2日 聖霊降臨後第2主日 説教 小野寺達司祭 (youtube.com) この説教の動画 クリックしてご覧ください。

 この主日の聖書日課旧約聖書と福音書をつなぐ言葉を挙げてみると、十戒、律法、安息日などを思いつくのではないでしょうか。
 今日の旧約聖書日課は申命記第5章6節以下の箇所で、第6節から十戒の序文で始まり、第7節から21節までに十の戒めが続いています。
 また、今日の聖書日課福音書には、福音記者マルコが、ある安息日にイエスとファリサイ派の人々が安息日に関わる律法について議論をしている箇所が採り上げられています。
 ある安息日に主イエスと弟子たちの一行が、麦畑をぬける道を通っている時のことでした。弟子たちは、歩きながら実った畑の麦の穂を摘み、手の中でその麦の穂を揉んで殻を落とし、その麦を食べ始めたのでしょう。このことについて、イエスと弟子たちを監視するファリサイ派の人たちは、イエスに「ご覧なさい。あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしているではないか」と、批判し始めたのでした。
 ファリサイ派が今問題にしようとしているのは、弟子たちが他人の畑麦で許可の得ずに穂を摘んだということではありません。律法の中に次のような言葉があります。
 「隣人の麦畑に入ったなら、手で穂を摘んでも良い。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない(申命23:23)。」
 日本でも、江戸時代には街道沿いに柿の木が植えられ、旅する人が飢え渇いた時に、その柿の実をもいで食べることが出来るように旅人に対して配慮されていました。
 イスラエルの民も、律法によって、旅人やひもじい思いをしている人への配慮がされていたのです。恐らく主イエスの弟子たちも、枕するところなく過ごしておられる主イエスに従い空腹を覚えていたのではないでしょうか。
 弟子たちが麦の穂を摘むことは律法に反することではなく、今、ファリサイ派が問題としているのは、イエスの弟子たちがその行為を安息日にしていることなのです。
 ファリサイ派は、弟子たちの行為は安息日に行ってはならない「労働」であると指摘します。
 例えば、イスラエルの律法の下に出来てくるその細則によれば、麦の穂を摘むことは「収穫」の労働であり、手で実った麦を揉むことは「脱穀」の労働であり、その麦に息を吹きかけることは実と殻を「選別」する労働であるということであり、律法の細則はそれらの労働を安息日に行うことを禁じていたのです。
 こうしたユダヤ教ファリサイ派の在り方は、旧約聖書に成文化されている律法を日常生活の中で適応させようとすれば、更に細かな規則が必要になります。当時の律法の専門家たちは、安息日に行ってはならない労働を39種類挙げて、更にそれを1500種以上の労働を禁じる規則とした記録が残っています。
 洗礼者ヨハネや主イエスが宣教の活動を始めた頃、イスラエルの民の間には救い主の訪れを待ち望む気運が高まり、洗礼者ヨハネがその救い主ではないか、あるいはヨハネから洗礼を受けて沢山の癒やしや悪霊を追い出しているナザレのイエスが救い主なのではないだろうかと多くの人が期待を込めて洗礼者ヨハネやイエスの動きを見つめていました。
 ユダヤ教の指導者たちは、ガリラヤ地方で「神の国運動」を行い民衆の支持を集め始めた洗礼者ヨハネやイエスのところにファリサイ派の律法学者たちを遣わして調査させています。その調査は、始めのうちはイエスや弟子たちを観察することでしたが、次第に審問する段階に入っている様子が今日の聖書日課福音書から窺うことが出来ます。しかも、彼らの審問、問いかけは、次第に主イエスの言葉や行動の中から批判すべきことを粗探しし、言葉の罠にかけ、イエスが律法を汚したという口実を見つけて最高法院に訴えることへと変わっていくのです。
 麦畑を通る主イエスの一行が実った麦の穂を摘んで口にした時、ファリサイ派律法学者たちは、この時とばかりにイエスに問いかけてきました。
 「ご覧なさい。なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのか(マルコ2:24)」。
 ファリサイ派律法学者たちの批判的な質問に対して、主イエスは、ダビデの例を挙げて反論します。その出所となる物語はサムエル記上第21章にあります。
 紀元前1000年になろうとする頃、イスラエルの初代の王サウルは、ダビデが自分の王座を奪おうとしていると誤解し、その妄想はサウルの中で次第に大きくなっていました。サウルはダビデの殺害を企て、ダビデは僅かなと部下とサウルの追っ手を逃れていましたが、ダビデも部下も空腹になり、ダビデたちはこっそりとノブという地に住む祭司アヒメレクを訪ねるのです。その時、祭司アヒメレクの所には神殿で聖別されたパンしかありませんでした。聖別されたパンは、エルサレム神殿で新しくパンが聖別されて献げられると、古いパンは下げられて祭司たちの日毎の糧になっていたのです。祭司アヒメレクはダビデに「あなたたちの身が汚れていないのなら聖別されたパンを差し上げましょう。」と言って、本来なら祭司しか食べることの出来ないパンをダビデたちに与え、ダビデと家臣はそのパンを食べて飢えを凌いだのでした。ちなみに(この福音書の箇所に名前の出てくる)アビアタルは祭司アヒメレクの息子がす。祭司アヒメレクは、逃亡するダビデを助けて神殿で聖別されたパンを与えて助けたことを知ったサウル王に殺されることになります。ダビデは祭司アヒメレクの息子アビアタルからサウルが祭司アヒメレクを殺した知らせを受けたのでした。
 主イエスはこの物語を引き合いにして、人の命は律法以上に大切であることをファリサイ派律法学者たちに伝えます。今日の聖書日課福音書(マルコ2:27)で主イエスは「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」と言っておられます。
 主イエスは律法の大切さ、そして安息日の大切さをよく知っていたことは言うまでもありません。主イエスは安息日の大切さを伝える文言そのものより、その文言を支える主なる神の思いの大切さを律法学者たちに伝えているのです。
 そのことを考えるためにも、十戒の中の「安息日」について、思い巡らせてみたいと思います。
 十戒の中で、「安息日」についての戒めは第4に位置します。その前の第1の戒めから第3の戒めは神に対する戒めであり、第5から第10までの戒めは対人間に関する戒めで、その両者をつなぐ要の位置に「安息日を守ってこれを聖別し、あなたの神、主があなたに命じられたとおりに行いなさい(申命5:12)」と、第4の戒めがあります。
 神に対する掟とそれに基づく人に対する掟を守って生きていくために、イスラエルの民は安息日にこの十の戒めを確認しました。神との関係と人々との関係を安息日に振り返り、修正して、自分を通して御心を行うことに相応しくあるように養いと導きを受けるのです。これが安息日の意味です。
 イスラエルの民は、そのために安息日を設けてそれを特別な日としました。
 この日に、民は自分と神の関係を深く問い返し、主なる神に導かれて生きることができるように、神の御心に基づいて神と自分を確認するための日としました。
 そのことは、今日の旧約聖書日課の中にも読み取ることが出来ます。
 安息日を守って聖別すべきことについては申命記第5章12節~15節に記されていますが、なぜ安息日を守るのかについては、先ず序文の6節で「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と述べられています。それに加えて、この安息日についての第4の戒めの中でも15節でもう一度「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。」と言っています。
 このことは、イスラエルの民が主なる神によってエジプトでの捕らわれから救い出された民であるという自己理解とその信仰によって生きる民であることの大切さを表しているのです。
 主イエスは、このことを踏まえて、ファリサイ派に答えます。ファリサイ派は主イエスに付き纏うように観察し、調らべ、審問し始めていますが、その根底にある彼らの律法主義を批判して、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」ときっぱりと言っておられます。
 旧約の民であれ、新約の民であれ、人は誰もが罪の奴隷だった時があり、私たち新約の民は主イエスによって自分では逃れられないその罪を赦され、解放され、救われて天の国の約束を受けています。
 古い契約の民であったイスラエルの民は、安息日を聖なる日として、神との交わりを正しいものにしようとしたはずでしたが、旧約の民の指導的立場にあったファリサイ派律法学者たちは、その精神より律法の文字の解釈に拘り神の恵みを受ける通路を失っていきました。
 私たち新しい契約の民は、主イエスによって救い出され、罪を赦されて今を生かされています。私たちも新しい契約の民として、私たちの安息日である「主の日」を主なる神との交わりをいただく聖なる日としていきましょう。
 私たちは主イエスによって死と滅びに向かう奴隷状態から解放され、神の大きな愛の中に生かされていることを覚え、主イエスが私たちの安息日を回復してくださったことを思い起こして感謝したいのです。そして、私たちは、主イエスのみ言葉と御糧によってますます養われ、導かれていく信仰生活を整えていくことが出来ますように。
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2024年05月26日

新しく生まれる  ヨハネによる福音書3:1-16

新しく生まれる     三位一体主日・聖霊降臨後第1主日   ヨハネによる福音書3:1-16   2024.05.26


 今日の聖書日課福音書の中から、ヨハネによる福音書第3章16節をもう一度お読みしてみましょう。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 この聖句は、古くから「福音の要約」と呼ばれてきました。まさにその言葉のとおり、神が独り子イエスをこの世に送られた意味が、違う視点から言えば、主イエスがこの世に生きた意味が何であったのかが、この身言葉の中に端的に示されています。

 今日の福音書は、主イエスの所にファリサイ派の議員ニコデモという人が訪ねてきたことから始まっています。

 ニコデモはユダヤ議会の議員でした。サンヘドリンと呼ばれたユダヤ議会は大祭司を議長とする71人によって構成されており、当時は政治と宗教が分離していませんでしたので、サンヘドリンは国の最高議決機関であり、また裁判機関でもありました。ニコデモはその議会の構成する議員の一人であり、地位、名誉、実権ともに、非常に身分の高い人であったことが伺えます。

 また、ニコデモはファリサイ派の一員でした。ファリサイ派は、ヘブライ語の「ペルシム(分けられた者)」という言葉に由来する名の通り、俗人とは分けられる者という意味のユダヤ教一派であり、神との契約のしるしである律法を厳格に守ることによって神に受け入れられると考えていました。彼らは、神との契約の対象外である異邦人や律法を守らない下級社会民を差別し排除し、自らをファリサイ派と名乗ったのです。そして自分たちこそ天の国が約束された者の集まりであるという強い自負を持っていたのでした。

 そのニコデモがある晩主イエスを訪ねてきました。昼間の人目を避けるように、夜になってそっと主イエスを訪ねるニコデモの思いを推測してみると、ユダヤ議会の議員として何不足のない人生を送っていながら、その一方で、心の奥底には当時評判のイエスを訪問しないわけにはいかない何かがあったのでしょう。福音記者ヨハネは今日の箇所の直前に(2:24)「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と記しています。ニコデモの心に潜んでいたのは、不安かも知れないし、癒しがたい心の傷であったかも知れないし、あるいは自分でも掴みきれない自分の心の深い闇から突き上げてくる得体の知れない何かへの恐れであったのかもしれません。

 しかし、ニコデモはファリサイ派の知識人らしく、また議員に相応しく、あたかもイエスの教えをよく理解している者のようにイエスに話しかけました。

 「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」

 ニコデモの言葉の限りでは、本当にその通りであり、主イエスは神の許からこの世に来た教師であると言えますし、確かに神が共におられます。でも、ニコデモは、主イエスとの対話を重ねていくうちに、ファリサイ派の律法の枠を自己防衛の盾のようにして硬く自分を保ってきただけで、実は神の愛を全く知らない自分を顕わにされてくることになるのです。

 これまで、ニコデモは、いつも自分を、強い者の側、正しい者の側、神の救いを得ている者の側に置いて生きてきました。そのようなニコデモには、初めのうち主イエスの言っておられることが理解できませんでした。主イエスは、第3章3節で「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言っておられますが、ニコデモは「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」と的外れの応答をしています。

 「新たに生まれる」ということを考えてみましょう。

 その手掛かりとして、once born, twice born という言葉を思い起こしてみましょう。

 [once born:一度生まれ]とは、自分の生まれた境遇の中で大きな困難や厳しい状況を経験することなく、その状況の中で生きることの出来る姿を意味しています。一方、[twice born]二度生まれとは、大きな困難や厳しい状況の中で自分が生かされている意味を見失った者がそれを通して新たに自分の生きる意味を見出して生きる者の姿を表現する言葉です。

 イスラエルの民は、モーセの時代にエジプトでの奴隷状態であった時に出エジプトの経験し、そこに神の選びと使命を自覚した[twice born]の民族であったといえます。

 もし、私たちの中に「自分の人生は失敗であった」と思い込んで自分の人生を受け入れられなかったり自分を愛することが出来ない人がいたとしましょう。それにも関わらず、その自分をそっくり抱き留めてくださるお方がいて、その方がどこまでも共にいてくださったら、私たちはそのお方からどれほど勇気づけられ、新しい人生を、つまり二度生まれの歩み始める力を得られることでしょう。私たちは、仮に自分で自分を無価値だと思っても、その自分をそのまま価値ある存在と認められ、愛されるに値しないと思っていた自分をそのまま無条件に尊重され、誰も自分に関心を向けてくれないと思っていたのにその自分のために命を投げ出すほどに関わり続けてくださるお方がいてくださったら、そのお方によって倒れていた自分はまた起きあがり、無価値だと決めていた自分の価値を自分で認め、死んでいた自分が新たに生まれ変わって生きていくことが出来るようになるでしょう。

 ニコデモは、もし、「一度生まれ」「二度生まれ」という視点で見れば、これまでは、自分の人生は神の律法によって、挫折のない「一度生まれ」を生きてきたと考えたことでしょう。ニコデモは、これまで、律法を鎧としまた盾として、その律法の文言によって自分の言動を答え合わせするようにして生きてきました。ニコデモは自分の弱さを感じることなく、自分の中の貧しさを理解せず、心に起こる様々な醜い思いにも目を向けることなく、正統なユダヤ教の信仰を持つ知識人の議員として生きてきたのです。

 しかしニコデモは、夜の闇に紛れてイエスを訪ねました。主イエスの愛がニコデモを照らし出します。主イエスの愛が照らすのは議員の肩書きや業績ではなく、ニコデモという人間そのものです。主イエスが照らし出すのは、ニコデモの心の奥深くにある愛を求める思いであり、ニコデモが生きている喜びや悲しみの実感なのです。ニコデモは、主イエスを知って、こっそりと主イエスを訪ねたくなる思いが湧き起こり始めました。。

 それまでのニコデモにとって、自分を律法の枠に当てはめて律法の文言の通りに生きることが「永遠の命」に至る道のはずでした。しかし、主イエスは、そうではなく、独り子主イエスをとおして与えられている神の愛を信じて受け入れることが永遠の命に至る道であると言われるのです。永遠の命とは、律法の文言のように外側から人を規制するものではなく、私たちの心の奥深い内側に宿って私たちを生かす力です。それは、物理の実験のようにある一定の条件が整った場で行えば誰がやっても同じ結果が起こるような意味での真理ではなく、主なる神が他の誰でもないあなたに与えてくださった愛を受け入れることによって、神と完全に結ばれて与えられる生きる力であると言えるでしょう。

 この時のニコデモにはまだ主イエスの言っていることの意味が分からなかったでしょう。でも、ニコデモの中にイエスが示した神の愛は宿り、少しずつニコデモを育み始めます。そして、神の愛を主イエスの十字架を目の当たりにしたときにニコデモははっきりと受け入れることになります。

 ニコデモは主イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、アリマタヤのヨセフと一緒に、主イエスの遺体を埋葬したのでした。かつてはユダヤ教の議員であり、夜こっそりとイエスを訪問した知識人が、十字架を通して示された神の愛にふれ、公然と自分はイエスの仲間であることを示し、イエスは救い主であり、永遠の命の与え主であり、自分を新しく生まれ変わらせてくださるお方であることを、イエスの遺体を埋葬することによって、身をもって証ししています。このように、イエスを受け容れたことで、おそらくニコデモはユダヤ議会から追放される事になります。それでもニコデモはイエスを通して自分にとっての真理を見つめ、神の愛を受け入れ、生まれ変わって生きること、本当の自分を大切にする事へと導かれていきます。

 私たちもニコデモのような信仰の歩みを促されています。神が主イエスを通して私たちを愛してくださるのは、私たちがその愛によって古い自分を解き放たれて、日々新たにされて生きるためです。そのように生かされることが「人が新たに生まれ変わる」と言うことです。

 神の愛は,人と人を深く出会わせ、また自分自身と出会わせます。

 私たちは、神の独り子をお与えになるほどの神の愛に生かされて、本当の自分を深く神にかかわらせながら、イエスを救い主として恐れなく証しする者へと育まれて参りましょう。

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2024年05月20日

神の息吹に生かされる  ヨハネによる福音書第第20章19~23  聖霊降臨日

神の息吹に生かされる  ヨハネによる福音書第第20章19~23  聖霊降臨日  2024.05.20


 主イエスのご復活から50日経ったこの日、ユダヤはペンテコステの祭の日でした。

 イスラエルの民にとって、この日は過越祭から7週を経た日であり、春の収穫感謝祭の日であり、同時にモーセを通して律法を与えられたことを記念する日でもありました。イスラエルの民にとってこのような意味を持つ大切な日は、キリスト者にとっては神の愛の力がイエスを救い主であると信じる人々に神の大きな力が与えられ、それを世界に宣べ伝え始めた日、つまり教会誕生記念の日とするようになります。

 この日も弟子たちは一つになり集まって祈りを捧げていました。弟子たちはこの日に神の大きな力を受け、出ていってあちこちの国の言葉で主イエス・キリストのことを人々に語り伝え始めたのでした。エルサレムにペンテコステの祭りのために集まっていた多くに人たちは、イエスの弟子たちのこのような姿を見て驚き、あっけにとられて言いました。

 「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(使徒2:11)。」

 聖霊に満たされた弟子たちは、その力に突き動かされて、神のみ心のままにイスラエル周辺の他国の言葉で用いて主イエス・キリストのことを宣べ伝え始めました。聖書は人の思いや考えを遙かに超えて働くこの力を「聖霊」と呼んでいます。

 新約聖書の原語であるギリシャ語では、「霊」はプネウマpνeυµa(pneuma)という言葉で、私たちの体を動かす霊とか精神と言う意味があり、また息とか風という意味も含んでいます。また、旧約聖書の原語であるヘブライ語ではルーアハ(ruah)で、やはり霊という意味と共に風、息という意味があります。

 旧約、新約を通して、神が人にその息を与えた話はいくつか出てきますが、この「ルーアハ(ruah)」や「プネウマpνeυµa(pneuma)」に関する3つの物語を思い起こしてみましょう。

 先ず、創世記の、主なる神が最初の人をお創りになった時のことを思い起こしましょう。

 主なる神は、土の塵でアダムを形作り、その鼻に「命の息」を吹き入れました。人はこうして生きる者となりました。私たち人間は土くれから創られやがてはまた土の塵に戻るものであるにも関わらず、主なる神によって命の息を吹き入れられて生きる者とされています。

 2つ目に、今日の聖書日課福音書にある、主イエスが甦りの姿を弟子たちに顕された時のことを思い起こしてみましょう。甦った主イエスは、弟子たちの中に立ち復活のお姿をお示しになって、弟子たちに「あなた方に平和があるように」と言われ、更に弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい(20:22)」と言われました。この時まで、弟子たちは戸には鍵を掛けて部屋の中に閉じこもっていました。アダムの罪(すなわち人間の罪)が自分の中にもあることを思い知って打ち沈む弟子たちに、主イエスは息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言ってくださいました。

 このように、人の罪を赦し、新たに生かしてくださるために、甦りの主イエスは弟子たちに新たな息を吹き込んでおられます。この出来事は、甦りの主による「人間の再創造」と言えるでしょう。

 そして第3に、甦りの日から50日経ったこの日の風を思い起こしてみましょう。主イエスが天にお帰りになった後、弟子たちが心を一つにして祈っていた時、神は弟子たちに息を送って聖なる力ある霊を弟子たちに与えてくださったのです。目に見える主イエスがもはやおられなくなったこの世界で、弟子たちは聖なる霊の力を与えられて、大いなる神のみ業を宣べ伝え始めるのです。イエスこそ私たちの救い主であり、また救い主である事を世界中に宣言し、この救い主イエスを恐れなく伝えていく力が弟子たちに与えられています。また、弟子たちは、主イエス・キリストを中心にした共同体(教会)をつくり拡げていく歩みをこの時から推し進めていくのです。

 神の息吹について聖書から3箇所を採り上げて思い起こしてみましたが、それは父と、子と、聖霊に関わる箇所でした。

 これら「神の息」は決して昔の弟子たちだけに与えられているのではなく、今も私たちに絶え間なく注がれる息吹であり、私たちはこのように人間の誕生の時から今に至るまで、神の息吹を与えられ続けています。神の霊は、天地創造の時から今に至るまで、この世にあるもの全てと、この世に生きる私たちに力を与え、その存在を良しとし、神の御心を行うように促し続けておられるのです。

 神の霊は、私たちに命を与えてくださいました。神の愛は主イエスを通して、私たちに完全な赦しと愛を与えて、私たちが常に新しく生きていく力としてくださっています。更に神の霊は、私たちが本当にこの世界に生きた証を立てることが出来るように、神の御心を行う力を与えて下さっています。

 このように神の霊について振り返ってみると、私たちは私たちを通して働こうとしている神の霊に応えていく力を与えられていることに気付かられるのではないでしょうか。

 パウロは「神の聖霊を悲しませてはなりません(エフェソ4:30)。」と言っています。聖霊は私たちを通してそれぞれの人を通して神の御心を行うことを願い求めているのです。使徒言行録第2章に記された風と炎のような舌の記述は弟子たちを通して働こうとしている神の熱い思いを表現していると言って良いでしょう。その熱い思いが私たちにも臨んでいるのです。もし、神の御心が自分を通して顕されることを喜びとせず、その働きに与ることを逃避するのであれば、聖霊はどんなにか嘆き悲しむことでしょう。

 私が神学生だった時、当時校長であった竹田眞師父は、ご自身の牧会の経験を交えて、次のような話をしておられたことを今でも印象深く思い起こします。

 「聖霊の働きを邪魔しなければ、教会はもっと発展成長するのではないだろうか。例えば、神があなたにある働きを担って欲しいと思って聖霊を送ろうとしているのに、私たちの方で勝手に『出来ません』などと言ったりして、聖霊を悲しませているのではないだろうか。」

 主イエスが5000人にパンと魚をお与えになった奇跡は、少年の差し出した5つのパンと2匹の魚によって始まりました。その始めに、弟子のアンデレは「けれども、こんなに大勢の人ではそれが何になりましょう(ヨハネ6:9)」と言って、そのことを否定的に捕らえています。主イエスがそのパンと魚を受けて感謝の祈りと献げることがなければ、この奇跡はなかったかもしれません。神は小さな出来事からも、その先に神の大きな世界を用意してくださっているかもしれません。私たちは、そこに働こうとしている聖霊の力を拒んではならないのです。

 また、主イエスの弟子たちを見ても分かるとおり、彼らは学識のある人が多かったわけはありません。むしろ弟子の多くは無学な庶民であったと言って良いでしょう。神はその様な人々を聖霊を宿す宮として用いられたのです。それは、人の能力によって聖霊が働く余地を埋めてしまうことがないように、人が自分の働きを誇って親しい聖霊の交わりを無くしてしまうことがないようにするためでした。

 私たちも弱く小さな器に過ぎません。でも、私たちは弱いからこそ、その弱さに主の霊が注がれ、主の霊は私たちを通して働いてくださいます。弱さの中に聖霊を満たしていただく時に、私たちはその霊によって強くされるのです。そうであれば、私たちは、主イエスが天にお帰りになった後の弟子たちにように、先ず祈りを通して聖霊を呼び求める者でありたいのです。私たちの弱さの中に聖霊を満たしていただき、一人ひとりが聖霊を宿す宮として強められ、神の御心を行い、神の御名が誉め称えられるように生かされたいと思います。

 聖霊降臨日にあたり、私たちは聖霊の力に生かされる信仰生活をその交わりの中に導かれていきましょう。 

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2024年05月13日

大祭司主イエスの祈り  復活節第7主日(昇天後主日) ヨハネによる福音書第17章11-19

大祭司主イエスの祈り 復活節第7主日(昇天後主日) ヨハネによる福音書第171119  2024.05.12

 復活節第7主日は昇天後主日です。主イエスは十字架の上に殺されて三日目に甦り、40日に渡って弟子たちにお姿を現しましたが、甦りの日から40日目に弟子たちの前で天に昇って行かれました。

 教会暦に基づいて言えば、私たちは今、主イエスが天に昇って行かれた後、まだ天から聖霊を与えられていない10日間の中を過ごしています。この主日は昔から「待ち望み」の主日とも呼ばれおり、私たちはこの主日を、弟子たちと共に主イエスの再臨を待ち望みつつひたすら祈ることへと導かれる主日にしたいと思います。

 先ず主イエスの昇天について想像してみたいと思います。

 主イエスは、弟子たちを連れてエルサレム郊外の小高い山に来ました。

 両手を挙げて弟子たちを祝福し、そのまま天に昇って行かれました。主イエスが少しずつ昇に連れて、祝福する範囲も次第に広がっていきます。始めは11人と一緒に主イエスに従って来た女性たち、やがて主イエスの祝福はエルサレムから広がって死海からサマリアへ、更にガリラヤへ、地中海沿岸へ。やがて主イエスが天の父なる神の右の座にお着きになる頃には、主イエスの祝福は全世界を包みました。私たちは今もこの祝福の中に生かされています。

 初代教会より、教会は、復活された主イエスが天に昇っていかれ、また私たちのところに来てくださって、私たちを救いに導く働きを完成してくださると信じ、その信仰を継承してきました。私たちもその事をニケヤ信経の中で、主は「栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません」と信仰告白しています。

 初代教会の人たちばかりでなく、私たちも再び主イエスとお会いすることを待ち望みながら、主イエスの祝福の中で生きています。

 ことに教会暦で、主イエス昇天後の時を過ごす私たちは、天に昇って行かれた主イエスが、この世に生きる私たちのことをどのように思っていてくださり、天の主なる神にその思いをどのように取り次いでいて下さっているのかということについて思い巡らせてみたいと思うのです。

 そのような視点を持ちながら、今日の福音書に注目してみましょう。

 今日の福音書の部分を含めて、ヨハネによる福音書第17章全体は、主イエスが弟子たちと別れる前の晩(十字架にお架かりになる前の晩)に、熱い思いで天の父なる神に向かって祈っておられる箇所であり、「大祭司イエスの祈り」の箇所と呼ばれています。主イエスの地上での生涯が十字架の上で終わった後、弟子たちは目に見える主イエスのいない世界に生きていかなければなりません。その弟子たちのために、主イエスはご自身に迫る十字架の死を前に、血の汗を流すほどの思いで祈っておられます。

 祈りの内容に注目してみましょう。特に今日の聖書日課福音書の中で「○○して下さい」と祈願の文形になっている箇所を拾い上げてみましょう。

 主イエスは第1711節で「聖なる父よ、私に与えてくださったみ名によって彼らを守ってください。」と言って祈り、また17節で「真理の拠って、彼らを聖なる者としてください。」と祈っておられます。

 11節の言葉から、「み名によって守る」と言うことを考えてみましょう。

 私は小学校のある教室で授業をしています。授業の最中に私は、日直の生徒に「職員室に行ってチョークを2本もらってきてください」とお願いしました。生徒は「はい」と言って立ち上がり、教室を出て廊下を歩いて職員室に入ります。そして、その生徒は職員室で「小野寺先生からチョークを2本取ってくるように頼まれてきました。チョークを下さい」と言って、職員室で教頭先生からチョークを受け取り、教室に戻ります。

 この生徒が、授業時間中にもかかわらず教室を出て職員室に行くことや職員室でチョークを求めることは、「小野寺」の名によって行っていることであり、そうであるからこそ生徒は授業時間中に教室の外に出ることも職員室の教頭先生にも認められるのです。

 そして、もしこの生徒が疑われたり叱られそうになったら、この生徒は小野寺の名によって職員室に行くことを説明するでしょう。この生徒は小野寺の名によって守られねばならないし、小野寺にはこの生徒を職員室に行ってチョークを取ってくるように求めた責任があり、この生徒が小野寺に託されたことを忠実に行っているのであれば、小野寺先生は小野寺の名によってこの生徒を守る責任があるのです。

 このような教師と生徒との関係を例にしてみると、主イエスが弟子たちとの別れを前に「救い主イエスの名によって生きる者たちを守ってください」と祈っている思いとその祈りの意味が少し見えてくるのではないでしょうか。

 私たちは、天で祈っていてくださる主イエスの名によってこの世に遣わされて生きています。私たちは、この世の人々に誤解されることもあり辛く厳しくされることもあるかもしれません。でも、天上の主イエスは、私たちが主イエスの祈りに導かれ、力づけられて、本当のこと正しいことに向かって生きることが出来るように祈り続けていてくださるのです。

 主イエスは天に昇って、今も「聖なる父よ、私に与えてくださったみ名によって彼らを守ってください」と私たちのために祈っていてくださいます。

 神ではない色々な名が私たちを支配しようと攻撃してくる世にあって、私たちは「イエス・キリスト」という名によって守られるように、主イエスは私たちのために祈っていてくださっています。神と共に永遠の初めからあった真理が、イエスという具体的な人間の姿をとって人々の目に見える存在となってこの世に宿ってくださいました。私たちも主イエスの御名によって祈り、主なる神と心を通わせます。そのように祈る時、私たちはその名によって守られ、私たちは本当のことへ、正しいことへと生きていく力が与えられます。

 主イエスは、弟子たちとの別れを前にして、「イエス・キリスト」の名によって弟子たちを守ってくださいと祈られました。そして、私たちもこの御名によって祈るときに守られて一つになるようにと、主イエスは今も天にあって祈っていてくださいます。

 私たちがイエス・キリストの名によって一つになるということは、単に私たちの思考や行動の様式や発言の内容が画一的なることではありません。そうではなく、神の言葉を土台にして、いつも神の御心が何であり、真理を求めて生きていくということです。そして、その時、私たちはそれぞれにキリストに結び合わされ、神の大きな働きの中に一人ひとりが生きることへと導かれるのです。

 また、主イエスは、かつてご自身について「私は道であり、真理であり、命である」と言いました。その主イエスが、弟子たちのために「真理によって、彼らを聖なる者としてください(17:17)。」と祈って下さいました。

 主イエスのお姿を観ることができなくなった後も、主イエスに従う者は、時代を超えて天で祈っていて下さる主イエスに支えられ力を受けて、本当のこと、正しいことに向かって歩み続けることが出来るのです。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが弟子たちとの別れの前夜に苦悩の中で祈る場面の箇所です。弟子たちが主イエスを失う経験をすると、弟子たちを怯えさせたり神から弟子たちを引き離そうとする沢山の霊が弟子たちに迫り、また真理を貫くことより妥協させてたり真理から目を遠ざけさせようとする霊、自分ひとりに良い思いをさせようとする霊が働きかけてくることでしょう。

 主イエスは、十字架に架かる前の晩に、大祭司として献げたあの祈りの言葉によって今も天で祈っていて下さいます。

 私たちがイエス・キリストの名によって守られ、私たちも主イエスに導かれて、本当のことのために、正しいことを証しすることが出来るように、主イエスは天から私たちのためにいつも祈っていてくださいます。そして、そのしるしとして、神は私たちに助け主である聖霊をお与えくださると約束して下さいました。

 十字架の死を間近にした主イエスが弟子たちのために祈った祈りが、時を超えて、この世界を生きる私たちのためにも主なる神の右の座から祈られています。

 私たちは、今この時にも主イエスの祈りに支えられて、神とこの世界の間に立ち、主イエスに遣わされ、この世界の祈りを神に届け、神の御心をこの世界に知らせ、御心を実践していくのです。

 教会暦の一年の中で、ことにこの主日を、聖霊の力を待ち望みつつひたすら祈る時としていきましょう。その祈りを通して、主の御心を実践していく力を与えられたいと思います。大祭司主イエスが私たちのためにいつも祈っていてくださることを覚え、その祈りを感謝して生かされて参りましょう。

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2024年05月05日

新しい掟-互いに愛し合う- ヨハネによる福音書15:9-17  復活節第6主日 

新しい掟-互いに愛し合う-   ヨハネによる福音書15:9-17 復活節第6主日 2024.05.05

 今年の復活日は331日でした。主イエスは甦った日から40日にわたって弟子たちにそのお姿を現し、甦りの日から40日経った日に天に昇って行かれました。今週の木曜日に昇天日を迎えます。今日は主イエス昇天の日の直前の主日、復活節第6主日です。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが捕らえられて十字架につけられることを弟子たちに告げ、別れの言葉(告別説教)を自ら弟子たちに語っておられる箇所から採りあげられています。

 主イエスはこの告別説教と長い祈り(17)の後、十字架に挙げられます。弟子たちは間もなく地上での主イエスを失うことになります。そして、主イエスが復活して40日が経つと、弟子たちは復活の主イエスとも親しく顔と顔を合わせた交わりを持つことがなくなろうとしています。

 その後、弟子たちは救い主イエスを信じて、その主イエス・キリストに導かれていくことになります。私たちも主イエスが天にお帰りになった後の時代を生きており、目には見えない主イエスを救い主として信じ、主イエスの御言葉に導かれて生きていく者である点では、使徒たちと同じです。今日の聖書日課福音書は、そのように生きていく者が立ち戻るべき信仰の原点を指し示している箇所と言えます。

 今日の聖書日課福音書で、主イエスは弟子たちに互いに愛し合うことを教えておられます。第1512節で「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」と言い、17節でもまた「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」と言っておられます。

 主イエスは、弟子たちに互いに愛し合うことを掟として与え、また命じておられますが、この「掟」と「命令」という言葉は、どちらも同じ意味の言葉が一つは名詞(eνtολη)でもう一つは動詞(eνteλλοµaι)で用いられていて、二つの言葉の意味に違いがあるわけではありません。

 聖書での「掟」について考えてみましょう。

 先ず、旧約聖書では「掟」、「戒め」という言葉が用いられている箇所を見てみると、旧約の「掟」、「戒め」、「命令」は殆どの場合神から与えられた律法の言葉を意味しています。

 例えば、主なる神はレビ記22:31で、イスラエルの民に向かって「あなたたちは私の戒めを忠実に守りなさ。私は主である。」と言っておられます。この「掟(戒め)」の中心は「十戒」です。イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から救い出されて荒れ野を放浪している時に、神がモーセを通してイスラエルの民に与えたのが「十戒」です。この「十戒」を核にして、その具体的な事柄を細かく定め、その細かな一語一句がイスラエルの民の生活の指針となり、生活の枠組みになっていきました。イスラエルの民はこの律法を守ることで神の御心から離れずに生きるように努めたのでした。

 しかし、こうした律法の言葉はそれが創られた精神を忘れると、その下位にある条文が独り歩きし始め、人間が自分の立場を守るために都合の良いように解釈したり他人を裁くための剣として用いたりするようにもなっていきます。例えば、イスラエルの民の中でも異国の人々と交わりを持たざるを得ない徴税人や律法の規程の枠の中で生活することの出来ないアウトローの人や病人などは、次第に社会から弾き出されて除け者にされるようになります。また、ユダヤのエリートたちはそのようにして意図的に階層社会をつくり自分たちを救われる者の側に置くことになっていきました。

 先週の説教でも触れたことですが、ことにヨハネによる福音書が編集された時代(起源90年頃)のイスラエルの民にとって、神との間に結ばれた契約を掟として守り通すことには特別な意味がありました。それは、ローマ帝国の支配下にあったイスラエルは、60年代の後半になると支配するローマ帝国に対する反乱を試み、ローマ政権はイスラエルの反乱を鎮圧するにあたり、エルサレムを徹底的に破壊して神殿も崩壊し、ユダヤ人は亡国の民になるのです。

 ユダヤ人たちはこれまでエルサレム神殿を民族一致の証として、そこで執り行う礼拝を大切にしてきました。しかし、神との交わりの場であり民の一致の場でもある神殿を失ったイスラエルの民は散らされていった各地で、それまで以上に「律法」による民族の一致を大切にするようになっていくのです。

 このユダヤ教徒の生き方は、イエスを救い主と信仰告白する人々(キリスト者)を二重の意味で苦しめました。

 一つは、キリスト者はユダヤ教の一分派と見なされていたため、ユダヤ人がローマに反抗することはクリスチャンもその立場にある者と見なされ、ローマから弾圧され迫害される対象になったこと。もう一つは伝統的なユダヤ教徒たちにとってキリスト者はユダヤ教の掟に忠実ではない者たちであると誤解され、キリスト者はユダヤ教徒たちからも迫害され、各地のユダヤ教徒の会堂(シナゴーグ)から追放されるのです。

 地上での生身のイエスが十字架に付けられて60年を経ようとする時代を生きるキリスト者にとって、主イエスを救い主であると信仰を公にして生きていくことは容易なことではありませんでした。こうした苦境の中で、初代のキリスト者たちが自分たちの信仰を確認し生きる勇気を奮い立たせたのは、主イエスが私たちを愛し、み言葉を通して私を生かしてくださっているという信仰でした。弟子たちはイエスのみ言葉と御糧によって時を超えて主イエスの愛の力を受け、イエスの御跡を踏んで生きる思いを新しくしていたのです。そのようキリスト者にとって一番中心になった御言葉が「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というみ言葉だったのです。

 ユダヤ教徒たちが異邦人を排除して民族として団結しようとする中で、キリスト者は、主イエスの「愛し合いなさい」という掟(教え)に倣い、人種や民族の枠を超え、迫害する者たちのためにも祈り、イスラエル民族の枠を超えて異邦人も含めて全ての人が神の大きな愛に生かされる者であることを信じ、意エスコを救い主であることを伝えていったのです。

 主イエスは、時を超えて私たちにも神の御心をこの世界に示していくことが出来るように、隣り人に愛をもって関わることを命じておられます。主イエスはその共同体に集う私たちをみ言葉と聖餐の聖なる交わりをとおして養い、導いてくださっています。

 私たちも、主イエスの体である教会の部分としてそれぞれの人が生かされています。主イエスの「互いに愛し合いなさい。」というみ言葉を受け、その内実を創っていくことができるように、毎主日の礼拝で御言葉を受け主イエスの体と血を受けて、養われ、ここから遣わされていく者です。

 たとえ私たち一人ひとりの力は小さくても、私たちは永遠の初めから永遠の終わりまで生きてお働きになる神の大きな歴史の中にあって、神に愛され、生かされています。私たちは、その神の大きな働きの中に受け入れら、その愛によって生かされています。16節にあるとおり、私たちが自分の力によって愛することが出来るのではなく、先ず主イエスが私たちを選び神の愛によって生かし導いて下さる事で初めて可能なことになるのです。

 私たちは、主イエスを通して先ず神に愛されている者であることを知り、その恵みに応え、例え小さな私たちでも神の愛の働きを行うことが出来るように、ここから遣わされていきましょう。

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2024年04月28日

孤児にはしておかない ヨハネによる福音書14:15~21 (復活節第5主日)

孤児にはしておかない  ヨハネによる福音書141521  (復活節第5主日)   2024.04.28


 今日の聖書日課福音書の一節をもう一度思い起こしましょう。(ヨハネ1418

「私はあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」

 教会暦では、復活節も残り少なくなってきました。復活節の主日聖餐式に読まれる聖書日課のテーマも、主イエスの復活を喜び感謝することからこの世における目に見える主イエスとの別れへと移って参ります。

 主イエスを救い主として信じる私たちは、主日礼拝の中でニケヤ信経や使徒信経によって自分の信仰また信仰共同体の信仰告白しています。信仰者の群れに生きる者であれば、誰でも、いつでも、復活の喜びに包まれていたいし復活した主イエスがいつも共にいて下さることを実感していられればどんなに素晴らしいでしょう。

 でも、私たちは時々復活の主イエスが共にいて下さることを実感できなくなって、今まで確かだった自分の信仰が危うくなるような経験をすることがあります。でも、それは私たちの信仰生活において避けて通ることのできないプロセスであり、信仰の成長の中で主なる神が導いていて下さるからこと起こることを理解しておきたいのです。

 マグダラのマリアが甦りの主イエスにお会いした時、主イエスはマリアにこう言いました。「私にすがりつくのはよしなさい。」

 私たちは、主イエスに出会い主イエスを実感したあの時のあの経験は大切なものであり、自分の信仰の原体験であることは確かであっても、それはあくまでも、私たち人間の側での経験であり、主なる神は私たちがいつでもどこにいてもその場に働いてくださり、いつも同じ信仰経験を与えてくださるとは限らないのです。私たちが主イエスと出会う経験や、主イエスを深く受け容れる経験を持てることは大切なことであり、幸せなことです。でも、もしその一つの経験がすべてであるように思ったり真実はそこにしかないと考えるのであれば、その人の信仰はそこで停滞してしまうでしょう。また、その人の置かれた状況が変わるにつれて、その人は主イエスを見失っていくことにもなりかねません。

 復活した主イエスがマグダラのマリアに「私にすがりつくのはよしなさい」と言っておられることには、今申し上げてきたような意味でも大切な一面があるのです。

 時に、神は私たちの過去の信仰を揺さぶられるように思う出来事を起こされることもあり、そのような時、私たちに主イエスを見失ってしまったかのような経験をすることもあるでしょう。

 今日の聖書日課福音書は、そのような私たちに向けられたみ言葉であることを心に留め、このみ言葉に向き合いたいと思うのです。

 「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」

 ヨハネによる福音書がまとめられたのは、イエスが十字架で死んで復活した後60年ほど経ってからのこと、起源90年代に入った頃と考えられています。その頃になると、生前の主イエスに直接出会った人や実際にゴルゴタでのイエスの十字架刑に立ち会った人は次第に少なくなっています。

 起源90年代に入ろうとする時代のクリスチャンにとって、大きな課題になったのは、主イエスやその弟子たちを直接知らない人々が救い主イエスを後世に伝えながら、その信仰集団(教会)を維持し成長させていくことでした。

 彼らは主イエスこそ自分たちを生かす真の救い主であることを確信してそれを宣べ伝える使命を自覚していたはずですが、その一方で、主イエスの復活と昇天から既に半世紀以上の時が経ち、イエスを直に見たことやみ言葉を受けた経験のない人々が増えてくる中で、教会の中には、目に見えない復活の主イエスを伝えていくことに心細さを感じることも多かった事でしょう。

 加えて、主イエスを救い主であると公に告白する人々の群れは、ユダヤ教からも大きな試練を受けるのです。

 イスラエルでは紀元68年に起こったローマ帝国に対する反乱をきっかけにして大きな反ローマの独立戦争(第1次ユダヤ戦争)が起こりますが、この時、ローマ軍はエルサレムの町を神殿も含めて徹底的に破壊します。これによって、ユダヤ教は祭司たちサドカイ派を中心とした神殿主義的な勢力は完全に力を失い、ユダヤ教の信仰の表現は、ユダヤ人たちが散らされていった各地で、どこにいても定時の礼拝を行い、律法を守り預言の書に生かされながら民族としてのアイデンティティを保つことへと変わっていきます。

 エルサレム神殿を失ったユダヤ教の指導者たちの中でも律法の教師(ラビ)たちは、起源90年代に入った頃、エルサレムの西方で地中海近くのヤムニア(ヤブネ)で会議を開き、ユダヤ教の基本姿勢を再建するのです。具体的には、この会議でユダヤ教正典としてヘブライ語で書かれた律法、預言の書、詩編など(私たちキリスト者の言葉で言えば旧約39)を確認します。

 このヤムニア会議で、もう一つキリスト者に大きな影響を与えた事がありました。それまでユダヤ教の一派と見なされていたイエスを救い主と告白する者の集まり(ナザレ派)は異端と見なされ、各地の会堂から追放されることになるのです。その大きな理由が、多くのユダヤ人が先の対ローマ独立戦争のおりに命がけで戦って死んでいったにもかかわらず、ナザレ派はそこに加わらなかったことや、ナザレ派がイスラエル民族の枠を超えて地中海沿岸の各地で異邦人を信者に加えていることが挙げられました。

 そしてユダヤ教徒の日々の祈りの中で18の代祷項目の中で「ナザレ派は滅び去れ、命の書から抹殺されよ。」と祈られるようになるのです。

 また、イスラエルの民は最も大切な祭りである過越祭の折に、酵母の入っていないパンを分け合って先祖が神の救いによってエジプトを奇跡的に脱出したことを記念しますが、ナザレ派は安息日の明けた日に、同じような形式の礼拝をして「これはイエス・キリストの体」と言ってパンを分け合っていました。このようなナザレ派をユダヤ教のラビたちが異端と見なすようになるのも当然のことだったでしょう。

 クリスチャンはユダヤ教から異端とされ、散らされていった各地の会堂から追い払われ、呪いの言葉を浴びせら、弾圧と迫害の対象になっていきます。更には、ローマ帝国からも「容認するユダヤ教の異端」として弾圧や迫害も加えられるようになり、偏見と噂によってクリスチャンたちは社会的にも苦境に立たされるようになっていきます。

 クリスチャンはこのような苦しい状況の中で、生前のイエスに直接お会いすることはできない時代になっていきます。このような厳しく苦しい中で、クリスチャンたちはどのようにして自分たちの信仰を確認し、共有し、その信仰に基づく集団を奇跡的に維持成長させることができました。

 その要因を挙げれば、イエスのみ言葉を聴き、聖なる食卓を囲んで主イエスの体と血を受け、主イエスによって示された神の御心を実践し、そのすべてを通して自分の信仰を確かめ強めていくことによってであるという、ごく当たり前のことが挙げられます。

 「私はあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。」

 主イエスは、目で見て確認することができなくなる主イエスご自身に代わって「真理の霊」である「別の弁護者」をお与え下さることを約束してくださいました。この「弁護者」とは原語では「パラクレートス」という言葉が用いられ、「傍らに呼び出す」という意味があり、法律上の弁護士をも意味します。「パラクレートス」は、この世にあって主イエスの残した使命を生きていこうとする者の傍らにこの「弁護者」が立ち、私たちが語るべき言葉を与え行うべき道を示してくださるのです。

 主イエスを救い主として受け容れ信じ告白する人々は、信仰を持つがゆえの苦難に遭い苦痛を味わうこともありました。しかしまたいつの時代にも信仰者は、主イエスの御言葉に生かされ、主イエスの体と血を受け、そこで自分たちの信仰を確かめ合い、養われ、御心を行う力を与えられています。

 私たちは主のイエスのみ言葉と御糧を受け、弁護者であり助け主である聖霊によって強められ、主イエスに委ねて導かれていくことができますように。

 神の御心を生きていこうとすれば、かえって苦難に遭うこともあります。主イエスを救い主と告白する者は、時代を超えて主イエスのみ言葉と御糧に生かされ、神からの祝福を受けてきました。

 私たちは「ハレルヤ、主と共に行きましょう」と唱え、主イエスの復活の力に生かされて、御心をおこなうためにここからそれぞれの生活の場に遣わされていきましょう。

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2024年04月21日

私たちの名を呼ぶ良い羊飼いイエス  ヨハネによる福音書第10章11-16 復活節第4主日

私たちの名を呼ぶ良い羊飼いイエス  ヨハネによる福音書第101116 復活節第4主日 B年 2024.04.21


 今日の福音書の御言葉より、もう一度、ヨハネによる福音書第1014節のみ言葉を思い起こしてみましょう。

 「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」

 主イエスがご自身を羊飼いに例えたことは、イエスの生活の場であり旧新約聖書の舞台であるパレスチナの風土を背景にしています。

 パレスチナの地方は、雨が少なく、荒れ地も多く、緑も豊かではありません。ことに南部のユダヤ地方は夏は暑さと渇きで草はなくなり、羊飼いはここから北部のガリラヤ地方へと、青草と水を求めて移動します。羊飼いは季節に従ってこの「牧草地転換」と呼ばれる移動の旅を強いられます。年に2度の大きな移動をしながら自分の羊に水や牧草を与えて養うことは、厳しい仕事でした。

 特にこの「牧草地転換」の旅をする時、毎日羊が疲れ果てないうちに次の水と青草のある場所までたどり着かねばなりません。羊たちを安全に守り導くのが羊飼いの役目です。時には、狼などの野獣や盗賊からも命がけで自分の羊を守らなければなりません。

 旧約聖書の中にも、この地方を大きな旱魃が襲った時の出来事や人々が水場を確保するために争った出来事などがいくつも記されています。また、この地方では、一日の寒暖の差も大きく、また一年の内の気候の変化も激しく、羊飼いは点在する僅かな青草と水場を求めて、自分の羊を導くのです。

 羊飼いはこのような厳しい環境の中で羊を守り水と青草を与えるために、文字通り命懸けで働き、また羊は羊飼いに導かれることなしには生きていくことはできません。

 主イエスは、このような羊飼いと羊の例えを用いて弟子や群衆に神のことを語り聞かせました。また、ユダヤの指導者たちと論争をする時にも主イエスはこうした羊飼いと羊という身近な例えを用いたのでした。

 羊飼いは、厳しい環境の中で、昼も夜もその羊と行動を共にし、百頭ほどの羊の一頭一頭の全てに、我が子同様に名前を付け、それぞれの特徴も性格も良く知りぬいていました。荒れ野には所々に石を積み上げて作った囲いがあり、羊飼いは夕暮れになるとその囲いの中に羊を導き入れます。羊飼いはその入り口の門で、一頭一頭の羊の様子をチェックします。幾人かの羊飼いが同じ一つの囲いに羊を入れる事もあり、その時には共に夜を過ごして、野獣や強盗から羊を守ります。朝になると羊飼いはそれぞれに大きな声を出し、羊たちは自分の飼い主の声を聞き分けて羊飼いの後に従います。羊飼いは先頭に立って、それぞれに羊の群れを水と青草のあるところへと連れて行くのです。

 実は、このような羊飼いはとても孤独であったと想像されます。

 その理由の一つは、主イエスのご降誕の物語の中でもしばしば触れられることですが、最初に救い主の誕生の知らせを受けたのは羊飼いたちであり、彼らが野宿しながら羊の群れの番をしている時でした。定住することなく野原で過ごす羊飼いの仕事は、当時卑賤な職業とされていました。羊の世話をして生きる者は神殿詣でをすることもできず、安息日にも野原で羊と共に生活をしていました。羊飼いは律法に従って生活することのできない身分の低い職業と見なされ、神殿の指導者たちから「汚れた者」として扱われていました。

 もう一つ、羊飼いが孤独であった理由は、他にもありました。

 基本的に、羊飼いはいつも単独行動でした。

 仮に幾人かの羊飼いが同じ囲いの中に羊を入れて過ごすことがあっても、それは夜のことでした。羊飼いは日々自分の100匹ほどの羊を僅かな水と緑のある場所に導かねばならず、そのためには大きな集団で移動するのではなく、それぞれの羊飼いが自分の知識と情報と判断が必要としました。時には、他の羊飼いが知らない自分だけの情報や判断が必要になりました。そのような状況で羊飼いが頼りにするのは、自分の判断力と神の導きです。土地を耕して、季節によって他の人と同じように種を蒔いて、他の人が収穫する時期に収穫をする農耕民とは全く違い、羊飼いは一人で他の人とは違う選びをしながら生きていました。

 主イエスは、こうした孤独の中にある人、社会からはじき出されたり除け者にされている人たちに関わり、慰めと励ましを与え、その人々の罪をご自身に担う救い主なのです。そのことは、キリストの誕生の知らせが真っ先に羊飼いたちにもたらされたことにもよく示されているとおりです。

 主イエスは「私は良い羊飼いである」と言っておられます。主イエスは、迷える羊のような私たち一人ひとりの名を呼んで、私たちを羊飼い主イエスの御許に招いてくださっています。

 私たちが「名を呼ばれる」ということについて、思い巡らせてみましょう。

 私たちは、洗礼を受ける時、神に結ばれるしるしとして新たな名を与えられ、そしてその名で呼ばれて、生まれ変わりを表す水と聖霊による洗いを受けました。羊飼い主イエスは私たちの全てを知ってくださり、その上で私たちの名を呼び、一つの群れとするために、私たちを招いておられます。

 また、私たちはこの世に生を受けて、自分の両親をはじめとする周囲の人から、幾度自分の名を呼ばれたことでしょう。未だ乳飲み子で自分で自分が誰であるかを自覚できない時期から、私たちは周りの人から優しく穏やかで柔らかな声で数え切れないほど幾度も幾度も名前を呼ばれてきました。それは例えて言えば、大理石の原石に一つまた一つと鑿(のみ)を打つようなことであり、少しずつ少しずつ自分が名を持った(つまり、かけがえのない固有の一人としての)自分であることを刻み込まれ、今の自分が形作られてきたのです。あるいはまた、身に危険が及びそうになった時や過ちを犯しそうになった時に、親は厳しく子どもの名を呼んで、安全なところへ連れ戻し、本心へと立ち戻るように導きます。その様に子を知り子を思う親が我が子の名を呼ぶように、羊飼い主イエスは羊の一頭一頭を知ってその羊である私たちの名を呼び、私たちを掛け替えのない一人ひとりとして育ててくださっているのです。

 その一方で、良い羊飼いが本当のことへ正しい事へと羊を導こうとすれば、それまで羊を食い物にしていた強盗のような人々は自分の貪欲さや因業さが暴かれることを恐れて、良い羊飼いを嫌い、良い羊飼いを殺そうとさえし始めるのです。その様な時にも良い羊飼い主イエスは先ず第一に、自分の保身のことではなく、羊のことを第一に考え、愛する羊のためには命をも惜しまなかったと、福音記者ヨハネは伝えています。

  主イエスは、羊飼いである自分の声を聞いて従う羊の飼い主であるばかりでなく、罪の故に羊飼いの声を聞こうとせず、羊飼いの声に反抗してしまうような、囲いの外にいる羊たちのことさえ心に掛け、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とまで言っておられます。羊飼い主イエスは、ご自身の命を捨てて迷い出た羊や主の御声を知らない羊たちを救い出し、神の御許で永遠の平安が与えられることを示してくださいました。このような羊飼い主イエスは私たちは一人ひとりを知ってくださり、親しく私たちの名を呼んで導き返してくださいます。

 私たちは、羊飼い主イエスの御声を聞いているでしょうか、また、聞こうとしているでしょうか。私たちは、主イエスの御声を熱心に聞き取る者でありたいのです。私たちは、羊飼いである主イエスの御言葉に導かれ、この群れの外にいる人々を羊飼い主イエスの群れに導くように召されています。

 囲いの外にいる羊たちも、羊飼い主イエスの御声に導かれて、その霊的な豊かさに生きる人々と共に自分もその喜びに与りたいと思うのではないでしょうか。私たちは、先ず自分自身が謙虚に主イエスの御声を聴き、導かれ、生かさることによって、全ての人が大牧者主イエスによって一つの群れとなることへと導かれていきたいのです。

 主イエスの御言葉に聞き従い、御糧を受け、良き羊飼い主イエスによって生きる喜びに生かされて参りましょう。

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2024年04月14日

復活のイエスの臨在  ルカによる福音書第24章36-48

復活のイエスの臨在         ルカによる福音書第243648  復活節第3主日B年 2024.04.14

2024年4月14日 復活節第3主日 説教小野寺司祭 (youtube.com)


 復活節第3主日になりました。この期節、私たちは主イエスの復活を喜び、復活の力によって私たちも生かされるように招かれ導かれています。

 そうは言っても、私たちは心の中で、主イエスの復活を理解しきれず、戸惑いや疑いの思いを禁じ得ないこともあるのではないでしょうか。

 ルカによる福音書では第24章に復活した主イエスについて記されていますが、その中で、弟子たちも、甦った主イエスが目の前にそのお姿を現した時にも、それを受け容れられずに驚き、戸惑っています。その時、主イエスは実に丁寧に救い主(メシア)の受難と復活について旧約聖書を引き合いに出して説き起こしておられます。

 私たちは、今日の聖書日課福音書の箇所を含め、復活した主イエスが弟子たちにどのように関わっておられるのかを振り返り、私たちも主イエスの弟子として養いと導きを受ける者であることを確認したいと思います。

 今から40年前、私は聖公会神学院の学生でしたが、当時、新約聖書の指導をして下さったのは故速水敏彦先生でした。速水先生が神学生であった私たちにしきりに言っておられ、授業の中でも私たち学生に課したことは「脈絡を踏まえて聖書を読む」ということでした。私は、今日の聖書日課福音書の箇所を開いて、この説教の準備をする中で、脈絡を踏まえて聖書を読むことの大切さとそこに与えられる気付きの豊かさを改めて感じております。

 ルカによる福音書では、主イエスの復活物語は第24章にあります。ルカによる福音書の場合、主イエスの復活物語は主に3つの段落に分けられます。

 その一つ目は、主イエスを慕う女性たちが朝早くイエスの納められた墓に行ってみると墓の中が空であったことと、弟子たちはその報告を受けてもそれを信じなかったこと。

 二つ目は、その日の夕方にはエルサレムを去ってエマオに向かって歩く二人の弟子(クレオパともう一人の弟子)のところに主イエスが同行して、一緒に歩きながら教えを説き、宿で共に食事をしようとする時にその同伴者がイエスであったことに気付いて、急いでエルサレムに戻って使徒たちに報告したこと。

 そして、三つ目が、今日の聖書日課福音書の箇所ですが、復活の主イエスが11人の使徒など弟子たちのところにそのお姿を現し、恐れおののく弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われ、焼いた魚を食べ、ご自身の復活は主なる神の大きなご計画の中で行われたことであることを弟子たちにお話になり、更に復活の主イエスが弟子たちに「あなたがたはこれらのことの証人である。」と言われたこと。

 この大きな3つの段落の後、ルカによる福音書は短く主イエスが天に挙げられたことを記しています。

 この3つの復活物語を比較してみると、色々なことが見えてきます。

 例えば、誰が誰にイエスの復活を告げているのかを見てみると、一つ目では、輝く衣を着た二人の人が女性たちに告げており、二つ目では、見知らぬ人がクレオパともう一人の弟子にいつの間にか並んでいて、救い主は権力者たちに殺されて復活することになっているではないかと告げています。

 そして、今日の聖書日課福音書の箇所では、主イエスご自身が弟子たちに復活のお姿を現し、取り乱す弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言って魚を食べて、旧約聖書に語られたことはイエスを通して必ず実現することでありイエスの十字架の死と復活も主なる神のご計画の中にあったことであることを、主イエスご自身が弟子たちに教えておられます。

 また、この各段落の中で伝えられる内容についても読み比べてみると、次第に詳しく、深くなっていることが見えてきます。

 一つ目では、墓のまで女性たちに「人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われていたではないか」。

 二つ目では、エマオへ向かう二人の弟子に、「モーセとすべての預言者たちから始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」のでした。そしてこの二人の弟子は、主イエスがパンを裂く姿を見てその同行者が復活のイエスであることに気付くのです。

 そして、三つ目は、主イエスは44節で「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する」と言い、このことを弟子たちに知らせるために彼らの心を開いて、4647節で「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しの得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる」と言っておられます。

 このように、ルカによる福音書第24章に記された主イエス復活の出来事を、3つの段落を追って確かめてみると、救い主イエスが復活することついての説明が旧約聖書とのつながりを持たせて詳しくなりかつ深まっていることが読み取れます。そして、この3つの場面を通して、この福音書を読む私たちも、その登場人物と共に、主イエスが十字架につけられたことと復活なさったことがどのような意味のあることでそうならねばならない出来事であったのかを、読み進めていくうちに、次第に主イエスの十字架と復活の意味を理解し受け容れることへと導かれていくのです。その過程は主イエスの弟子と重なるのです。

 始めの段落で、墓に立つ二人は女性たちに「まだガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい」と促していますが、エマオでの二人の弟子に対しては道々聖書を説き明かしながらお話になり、パンを裂くお姿によって彼らの目を開かせ、今日の聖書日課福音書の場面では不思議に思う11人の弟子たちに対して主イエスは魚を食べて生身のご自身を示し、「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」ご自身のことを、神のお働きの中でその独り子が十字架で死に復活する必要があったのかを、教えておられます。そして、私たちも弟子たちと同じように、主イエスの復活を理解してその恵みに生かされるように導かれています。

 このように、ルカによる福音書第24章全体の文脈を眺め、その中での今日の聖書日課福音書の箇所に注目すると、この箇所のメッセージが浮かび上がってくるのです。

 今日の聖書日課の箇所は、主イエスご自身が弟子たちに教えておられるとおり、旧約聖書の律法の書、預言の書、詩編の言葉もすべてが救い主イエスの十字架と復活を指し示しており、神のみ業は救い主イエスによって示され、時代は主イエスによって大きく転換し、主イエスの名による罪の赦しと祝福の働きがここから新しい段階に入っていることを示しています。

 そして、復活した主イエスは、弟子たちを遣わして、神は私たちを裁きと滅びに置くことはなく、悔い改めと赦しによって滅びることのない神の国へ招いてくださることを身をもって示してくださっています。復活した主イエスは弟子たちに「あなたがたはその証人である」と告げておられます。

 私たちは、時に主イエスの復活のことを理解できず、主イエスの復活を示されてもなお恐れおののき、取り乱す者なのではないでしょうか。主イエスが弟子たちに「なぜうろたえているのか、どうして心に疑いをいだくのか」と言っておられますが、この主イエスの言葉は私たちに向けられた言葉もあります。そのような私たちに対して、主イエスは、45節にあるとおり「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」くださるのです。

 甦った主イエスは私たちが聖書に向かう思いを開いてくださいます。主イエスの復活は、決して私たちを恐れさせたり困惑させたりする出来事ではなく、悔い改めと赦しの中で、私たちを新たに生まれさせ神の愛のうちに生かしてくださいます。

 私たちが主イエスに導かれて聖書のみ言葉に心を開き、旧約聖書の時代からの大きな流れの中に主イエスの十字架と復活を見る時に、私たちもその恵みに与る者であることを理解できるのです。私たちも主イエスの弟子の一人(「主の復活の証人」)になるように招かれています。

 ことに毎主日の礼拝を通して、御言葉のうちに働く復活の主イエスと出会い、御糧によって養われ、復活の主イエスに生かされることが出来ますように。

posted by 聖ルカ住人 at 16:48| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする