神の国の成長 マルコによる福音書4:26-34 B年特定6
今日の聖書日課福音書は、主イエスがなさった短い例え話の箇所であり、その内容は「神の国」についてです。
主イエスは、しばしば例えでお話しをなさいました。今日の福音書の第4章33節には「イエスは人びとの聞く力に応じて、このように多くの例えで御言葉を語られた。」それに続けて「たとえを用いずに語ることはなかった。」と記されているように、主イエスいつも例えを用いて話をしておられたことが強調されています。
人が深く生きることやその意味を問い返すとき、また目に見えない心の深い領域の事を話そうとする時、その表現は論理や数式にはならず、例えや象徴によってのみ表現できるのではないかと私は思うのです。
一方、ユダヤ教ファリサイ派の人びとは、律法の文言を細かな点にまで念入りに解釈を施し生活に適用しました。しかし、そうすればするほど、律法の言葉から命が失われ、人は解釈された律法の細則に縛り付けられることになっていきます。
主イエスが例えでお話しになったことは、単に身近な題材で分かり易くお話しになったということではなく、例えや象徴によってしか説明できないことを伝えようとしておられ、また、その意味を聞こうとしない人々には主イエスの教えが単なる植物の育ちの話としてしか理解できないという一面があることを見落としてはならないでしょう。
今日の聖書日課福音書の箇所では、主イエスは例え話によって「神の国」が人の思いを遙かに超えて確実に広がり成長していく事を語っておられます。その内容は主イエスの生涯そのものに重なっています。
主イエスの生涯を振り返ってみましょう。
砂粒のように小さなからし種が一粒地面に落ちるのと同じように、主イエスは貧しく弱いお姿をとってこの世に生まれました。主イエスは30才になった頃、人々に神の国を伝え神の国を実現するための宣教活動を始めました。この働きは次第に下層民や病者や弱者によって支持され、イエスを新しい王として期待する者まで出てきました。しかし、時の権力者たちはイエスによって体制が揺らぐことを恐れて、イエスを神を冒涜する者として十字架に磔にして殺してしまいます。この世の権力の前では全く無力に思えたイエスの働きは、弱く臆病だった弟子たちを力付け、その働きは弟子たちに受け継がれ、多くの人を回心させていきました。主イエスによって蒔かれた種は主イエスを救い主として信じる人々によって更に多くの人を通してを出し、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を実らせ、そこにも鳥が巣を作るほどになっていきました。
からし種とはパレスチナの地方のアブラナ科の一年草「黒辛子」の種のことと考えられています。パレスチナでは黒辛子と言われるカラシ菜が栽培され、その種から油を採っていました。その種は砂粒のように小さいものですが、芽を出すとその成長は早く、その植物の背丈は5メートルほどもになり、枝のように別れた茎の陰では実際に鳥が巣を作ることもあると言われています。主イエスはそのようなカラシ菜の成長の姿を天の国に例えたのでしょう。
私たちが「神の国」について学ぶ上で理解しておきたいことは、「神の国」とはある一定の地域を占領してそこを自分たちの領土にすることで造り上げるものではなく、神の御心が実現する「状態」、その「姿」を意味しているということです。
主イエス一人の働きから始まった神の国を実現する運動とその交わりの中で、多くの人が安らぎを得、慰めを与えられ、本当の自分を見つけ、また自分を取り戻すことが出来ました。主イエスは、ガリラヤで宣教を始めた頃、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言っておられますが、多くの人が主イエスの働きの中にカラシ菜の畑に例えられるような神の国の訪れと広がりを見出し、またその中から多くの人が神の国実現の働き人になっていきました。
主イエスの「神の国」をもたらす働きの期間は短く、3年間程度あるいは一年と少しであったと主張する人もいます。そのような短い宣教の働きの末の十字架の死は、まさに十字架の上に蒔かれた一粒の種のようでした。神の国を実現しようとする運動はイエスの死によって終わったのではなく、カラシ菜の一粒種が多くの実を結び更にその種から育ったからし菜が実を結ぶように、広がっていくのです。
主イエスは、ヨハネによる福音書の中で、「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ。」と言っておられます。からし種であれ麦であれ、そこに宿っている命は殻の中に閉じこもったままで居続けようとするのなら種は一粒のままやがて干からびて命を無くしていくことになります。しかし、種粒が自分の内側から殻を破り、根を張り芽を出して育っていくと多くの実を結ぶことになるのです。
主イエスは神の国を「成長する種」に例えています。主イエスの神の国を実現する働きは、主イエスの生涯を通して福音の種を蒔いて行われ、やがて弟子たちによってその実が結ばれ、更にその種が蒔かれることで世界に広がりその流れの中で私たちの教会も立てられました。
主イエスが、貧しいお姿を取って宣教の働きに枕するところもない日々をお過ごしになっていた頃、弟子たちは主イエスのお考えやお働きをまだ正しく理解できていませんでした。
弟子たちが主イエスの働きの意味を本当に理解するのは、主イエスが十字架にお架かりになった姿を目の当たりにし、その主イエスが甦り、そこに示された愛が他ならぬ自分にも向けられており、自分の罪と汚れが主イエスによって完全に赦され清められていることを知った後であり、その救い主イエスを力強く伝え始めたのは、弟子たちが聖霊の力を受けてからのことでした。
言い換えれば、弟子たちは、主イエスの愛に自分のすべてを明け渡すことが出来たときに、小さな種粒のような自分であっても、その殻を破って新しい命に生まれ変わっている自分に気付き、その救い主を恐れなく伝えるようになっていった、と言えるでしょう。
私たちも主イエスによって蒔かれた愛を受け、大きく育くまれているのです。
弟子たちは、主イエスによって始まった神の国実現の働きを受け継ぎ、ほとんどの弟子が宣教の働きに遣わされ、それぞれ派遣された先で殉教の死を遂げています。そのような弟子たちも、かつては主イエスが捕まるときには皆蜘蛛の子を散らすように逃げ去った者であり、大祭司の館取り調べられてる主イエスのことを「あんな男のことなど知らない」と言ってしまう者でした。
その弟子たちが、主イエスの十字架と復活を通して強くされ、自分たちもからし種の一粒(或いは一粒の麦の種)となって神の国の姿が現れ出るように働いたのです。
初代教会の神学者であり歴史学者のテルトゥリアヌス(160年頃から220年頃)は次のような言葉を残しています。
「殉教者の血は、教会の種である」。
私たちも、それぞれの生活の中で神の国を証しする者です。私たちが周りの人々との交わりの中にいる時、そこに主イエスが共にいてくだされば、そこに神の国の姿が現れてきます。私たちは、自分の思いと言葉と行いによって主イエスの働きを伝えていく者の集まりであり、主イエスの養いと導きを受けて成長していこうとする者の集まりです。私たち一人ひとりはカラシ菜の種のように小さい者ではありますが、私たちを育ててくださる神に生かされるとき、私たちも多くの実を結ばせてくださるのではないでしょうか。
十字架の上に蒔かれた一粒の愛の種を受け入れ、神の国の実現のために働き証しすることを通して、私たちも主イエスによって示された天の国の成長の働きへと導かれて参りましょう。