命のパンイエス(ヨハネ6:60-69 B年特定16) 2024.08.25
今年の、聖餐式聖書日課はB年であり、ちょうどこの時期(特定13~16)の主日には、ヨハネによる福音書第6章からの箇所が採用されています。
振り返ってみれば、特定12の主日では、マルコによる福音書から主イエスが僅か5つのパンと2匹の魚で五千人を養った物語を与えられ、その後の特定13から特定18の主日まで4週にわたり、ヨハネによる福音書から主イエスのパンの奇跡にはどのような意味が込められていたのか、またこの奇跡をきっかけにどのような出来事が展開したのかをヨハネによる福音書第6章から詳しく学ぶという構成になっていると言えます。
主イエスが僅かなパンで大勢の人を養ったこの奇跡を目の当たりにした人々は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である]と言いました。また人々の中にはこのようなイエスを王にしようとする人も現れてきました。
しかし、主イエスはこの奇跡の後に、ご自身が命のパンであり「このパンを食べるものは永遠に生きる」ということをお話しになり始めると、この奇跡に感激した人々の多くが、主イエスの話を理解せず、ただ自分たちの期待を主イエスに寄せていた姿が明らかになってくるのです。そして、群衆のその無理解は、主イエスさまとの間に大きな分裂をもたらすようになったのです。
その様子について、ヨハネによる福音書第6章52節では、ユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めるようになり、更には、今日の聖書日課福音書の冒頭にあるとおり、今まで主イエスを信じてその信仰を表明していたはずの弟子たちまで、「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか(6:60)」と言う程になってきています。
このような流れの中で、主イエスは、イエスに従う者たちに「あなたがたはこのことにつまずくのか(6:61)」、また十二弟子に「あなたがたも離れていきたいか:新共同訳(あなたがたも去ろうとするのか:教会共同訳)(6;67)」と言っておられます。
この福音記者ヨハネは、紀元30年頃のイエスとそれから半世紀ほど経ってこの福音書を編集した時代の状況を重ね合わせてこの福音書を記したと考えれています。
それは、主イエスに期待をかけた人々がイエスから離れていく様子とクリスチャンたちがイスラエルやローマ社会から次第に拒否されるようになり使徒たちが迫害されるようになった様子が重ね合わせになっており、その状況の中で主イエスの言葉に心を向けることを福音記者ヨハネはこのみ言葉を受ける者に求めていると言えます。
初代のキリスト者たちが迫害されるようになった理由は幾つか考えられていますが、ここでは今日の聖書日課福音書に関連する一つの理由に絞って考えてみたいと思います。
それは、主イエスがご自身を「命のパンである」と言っておられることとの関連のことです。当時のイスラエルの民(特に権力者たち)にとって、イエスが命のパンであるということは受け容れ難いことだったと思われます。
イスラエルの民がパンを裂いて分け合うのは毎年の過越祭の時です。イスラエルの民は主イエスの時代より1300年ほど前の頃、エジプトの国で奴隷となっていました。そのイスラエルの民は奇跡的に、主なる神の助けと導きによって、エジプトから脱け出し紅海を渡りきることができました。イスラエルの民は出エジプトの出来事を覚えて、過越祭を祝い、この時にパン種(酵母)の入っていないパンを食べて先祖の出エジプトを思い、民族として神に選ばれ生かされていることを確認していました。過越祭はこのようにイスラエル民族が自分のアイデンティティを確認する祭であり、イスラエルの民にとって最も大切な祭であり、この祭の日にそれぞれの家族や仲間で酵母を入れない粗末なパンを焼き、分け合って祝うことは民族の大切な行事だったのです。
しかし、主イエスを救い主と信じる人々は、主イエスが最後の晩餐として残した聖餐を行い受け継いでいます。聖餐式は、過越しのパン裂きの式と同じ形をとりながら、その内実は主イエスの体を分け合い、主イエスの血にあずかる礼拝です。キリスト者は主イエスの残したこの礼拝式を大切にしています。ユダヤ教徒たちは初めの内はクリスチャンのことをユダヤ教の一派と認識していましたが、キリスト者は次第にユダヤ教から異端と見なされ、各地のユダヤ教の会堂からも追放されるようになっていくのです。キリスト者が過越祭の儀式のようにパンを裂いて分け合いながら、その内実は過越の食事そのものではなく主イエスを記念してその交わりにあずかる礼拝を行っているというのであれば、イスラエルの指導者たちはキリスト者が異邦人も含めて行っている聖餐式をユダヤ教の礼拝として認めることはできず、ユダヤ教徒がキリスト者をユダヤ教の会堂から追放することになった一つの理由もそこにあったものと考えられます。
この点一つをとってみても、神の愛と赦しは民族の枠を超えてすべての人々に及んでいることを説いたイエスを救い主と信じる人々の群れが、当時の状況の中で、ユダヤ民族の選びと救いを説くユダヤ教から異端視されていった経緯に思いを馳せることができるでしょう。
初代のクリスチャンが「主イエスは命のパンである、また、このパンを食べるものは永遠に生きる」と言ってイエスの体であるパンを裂いて分け合うことの真意が周囲の人々に理解されなかったたことは、今日の聖書日課福音書からも読み取れます。
主イエスの話を聞いて、多くの弟子たちが言いました。
「これはひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられよう(6:60)。」
ここで「ひどい」と訳されている言葉に注目してみましょう。この言葉の原語は sκληροsスクレーロス という言葉で、英語の hard や offensive に相当する意味があります。この箇所を訳し変えてみれば「これは厳しい言葉だ。誰が聞き入れられるだろう」となります。
主イエスがマタイによる福音書の中でなさった例え話にもこの言葉が出てきます。主人から5タラントン、2タラントン、1タラントン預かった僕の話があります。その中で、1タラントン預かった僕はこう言うのです。
「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、(中略)あなたのタラントンを地の中に隠しておきました(マタイ25:24,25)。」
この僕は主人のことを「私はあなたが厳しい方だと知っていた」と言い分けしていますが、この「厳しい」と訳されている言葉も、主人が威圧的だとか強制的だということではなく、その契約に厳格であるということです。
弟子たちにとって、主イエスの言葉の厳しさとは、激しく、直ぐにはその真意を噛み砕いて理解することができないhardな言葉であるという意味なのです。イエスのみ言葉の厳しさは、自分の物的欲望を満たそうと思って主イエスに近づく者にとって、簡単に理解できるものではなかった、ということをこの「sκληροsスクレーロス」という言葉は意味しているのです。
主イエスのパンと魚の奇跡は、沢山の人を驚かせ、沢山の群衆が主イエスを慕い求めて集まってきました。しかし、主イエスがこの徴の意味を説き、教え始めると、多くの人はその意味の深さを理解できずに離れ去っていきました。
自分の要求がイエスによって満たされることを求めて集まる人にとって、主イエスの教えは厳しく、激しく響きます。そして、主イエスの御言葉は、人々を揺さぶり、その人の拠って立つものを問い返すことを促し、その人の心の内を露わします。
振り返ってみれば、主イエスのみ言葉は、必ずしもいつも慰めと励ましに満ちているわけではなく、時には激しく厳しく働くのではないでしょうか。その厳しさや激しさに向き合わず、心を頑なにするとき、私たちは主イエスのみ言葉について「実にひどい話だ。聞いていられない」と言って、イエスに対して批判的になり、攻撃的になって、その厳しい言葉にさえ含まれている愛を見失うことになりかねないのです。
今日の聖書日課福音書の中で、十二弟子は主イエスから「あなたがたも離れていきたいか」と問われています。その時、ペトロはこう答えています。
「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。永遠の命の言葉を持っておられるのはあなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています(6:68,69)。」
このように応えて主イエスに従っていった弟子たちも、必ずしもいつも完璧な信仰を保っていたわけではありません。ペトロのこの言葉は、主イエスが十字架に挙げられ、天に昇った後に、主イエスの残された聖餐にあずかる時に弟子たち、使徒たち、そしてその後のキリスト者が、自分と主イエスの関係を確認する言葉として引き継がれてきた信仰告白の言葉であると言えます。
「主よ、わたしたちはだれの所へ行きましょうか」と答えたペトロや弟子たちも、はじめから主イエスの御言葉に従い通すことが完全に出来たわけではありません。主イエスが捕らえられた時、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げ、「あんな男の子のことは知らない」とまで言って、イエスを否定したこともありました。
それでも、弟子たちは、主イエスによって示された愛と赦しの許で、真の命のパンを受け、主イエスの養いを受け、導かれ、主イエスこそ永遠の命に至るみちであることを確認し、立ち返り、その信仰を生きて、継承してきたのです。
私たちも、真の命のパンである主イエスによって養われ、導かれ、永遠の命に至る道を歩んでいきましょう。