2023年10月09日

「角の親石」  マタイによる福音書21:33~43 

「角の親石」    マタイによる福音書213343   (A年特定22)   2023.10.08


 今日の聖書日課福音書から導きを受けるために、はじめに少しぶどう園について思い起こしてみましょう。

 イスラエルの人々は、旧約聖書の時代から自分たちをしばしば神に造られた「ぶどう園」や「ぶどう園の働き人」に例えてきました。そのことは今日の聖書日課福音書だけでなく旧約聖書日課イザヤ書第5章などにもにも見られるとおりです。

 収穫したぶどうは、その多くがぶどう酒を造るために用いられ、また干しぶどうにされました。特にぶどう酒の場合は、収穫したぶどうの実を搾ってそのまま置いておけばそのぶどう液はひとりでに発酵してきます。昔の人々はこのようにしてぶどう酒が出来ることをぶどう液の成分の化学反応による発酵の観点から理解したのではなく、搾ったぶどう液に霊が宿ることとして理解していました。英語で酒を(おもに蒸留酒を意味するようですが)スピリットということにもその様な一面が現れているのかもしれません。

 ぶどうは、果物の中でも特に発酵しやすい性質があります。しかも、その絞り汁は神の霊を宿す性質のあると考えられた当時のことを思い巡らせてみると、旧約時代の預言者たちがイスラエルを「ぶどう園」に、またイスラエルの民を「ぶどう園の働き人」に例えて教えを説いたことにも見られるように、ぶどう園やそこで働くことが、神の国や神の民について考える上での格好の教材になったことが想像されます。

 預言者イザヤは、今日の旧約聖書日課イザヤ書第5章の始めの部分で、次のように神の言葉を取り次いでいます。

 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を。

 わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。」

 このようなぶどう園の様子を思いつつ、今日の聖書日課福音書に記された主イエスの例え話を簡単に振り返ってみましょう。

 主人は、ぶどう園を整えてそれを農夫たちに任せて旅に出ていきました。

 そのぶどう園は、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建てています。よく整備されたぶどう園だったはずです。

 ぶどう園を任された農夫たちはそのぶどう園の持ち主ではなく、あくまでも主人のぶどう園に雇われた農夫だったはずです。収穫の時期が近づいた頃、主人はその収穫を受け取るために自分の僕を農夫たちの所に遣わしました。ところがぶどう園の農夫たちは、主人の僕を捕まえて袋叩きにし、また他の僕は石打にして殺してしまいます。そこで主人は、前よりも多くの僕をぶどう園に遣わしますが、ぶどう園の農夫たちはその僕たちのこともまた同じ目に遭わせてしまいます。とうとう、主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと、自分の一人息子をぶどう園に遣わしました。ところが、農夫たちはその息子を見て、「この一人息子を殺してしまえばぶどう園は我々が相続することになる。さあ、こいつを殺してしまおう」と話し合い、その一人息子を捕らえてぶどう園の外に放り出して殺してしまうのです。

 主イエスはこの話をイスラエルの祭司長や長老たちを相手にて、彼らを厳しく批判する話として語られました。その日は、主イエスがエルサレムに来ていわゆる宮きよめをなさった日曜日の直後の火曜日で、その4日の後の金曜日には十字架につけられることになります。

 主イエスが神殿の境内で教えを述べ始めると、ユダヤ教の指導者たちは「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか」と詰め寄ってきます。主イエスはイスラエルの指導者たちを厳しく批判してこの例え話をなさるのです。

 その当時、イスラエルの人々は宗教的にも政治的にもエルサレム神殿を中心にして民族の一致と団結を計ろうとしており、その権力を握っていたのが神殿の祭司長であり、また民の長老や律法の専門家たちでした。しかし、彼らは神殿の権威の上にあぐらをかき、自分たちの利益を求めたり、律法を自分たちの都合の良いように解釈してその地位を守ることに腐心し、弱い立場の人や貧しい人々のことなど顧みようとはしませんでした。

 旧約聖書時代の預言者たちは、そうした権力者に対して神の言葉を取り次ぎました。ある預言者は神殿の指導者たちを糾弾する言葉を放ち、他の預言者はイスラエルの指導者や民衆に向かって神の御心に立ち戻るように勧める言葉を、また他の預言者は彼らに悔い改めを促す言葉を語りました。しかし、神殿で権力をふるう指導者たちや律法の教師たちは、預言者の言葉を聞かずに拒否し、預言者たちを弾圧し迫害を加え、沢山の預言者たちが殺されていったのでした。 そして、ぶどう園の主人の一人息子である主イエスをも拒み、ぶどう園をを我が物であるかのようにして、主イエスをエルサレム神殿の外の十字架の上に殺して捨て去り、彼らはユダヤ教の権威が自分たちの手中にあるかのように振る舞い続けたのでした。

 このように、神のひとり子である主イエスは十字架の上に殺されますが、神の国の実現を目指す働きはそこで終わるわけではありません。

 この論争の火曜日から4日目に、主イエスの働きは雇われ農夫らによって拒否され、十字架の上に捨てられることになりますが、その働きの中に神の救いを見た人々によって受け継がれるのです。十字架に示された主なる神の愛は、ぶどう園のイスラエルの指導者たちが捨てた主イエスを角の親石として信仰者の群れをつくりだし、教会として成長していきます。

 主イエスはそのことを詩編第11822節の言葉を用いて話しておられるのです。

 「家を建てる者の捨てた石、これが角の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える(21:42)」。

 ユダヤ教の指導者たちは、神の御心を自分たちの権力の中に抱え込み、預言者たちの言葉を聞かず、主イエスによって示された神の愛を拒否し、イスラエルの民は神の御心との間に大きな断絶をつくってしまいました。それでも、主なる神は主イエスの十字架の出来事を通して、主なる神の御心をイスラエル民族の枠を越えて世界中に拡げてくださいました。この歴史を教会では「救済史」と言います。

 そして、この「救済史」は、世界を把握する上での大切な視点であると同時に私たち一人ひとりの歴史にも深く関係しているのです。

 今日の福音書の最後の部分で主イエスはこう言っておられます。

 「だから、言っておくが、神の国の福音はあなたたちから取り上げられ、そ れにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

 ここで主イエスが言っておられる「民族」とは、主なる神の御心を行いその実を結ぶ人々の集まりである「神の民」のことです。私たちの教会も、主の御心に相応しい実を結ぶよう求められ、促されています。こうして教会に招かれている私たち一人ひとりも、またこの礼拝堂も、主が用意してくださったぶどう園であることを確認しましょう。そして、私たち一人ひとりも主なる神によって支えられ生かされることへと導かれた歴史があるのです。主イエスは私たち一人ひとりを支える角の親石となって、私たちの人生を支えていてくださいます。

 私たちは、神が用意して下さったぶどう園の働き人として、御心に相応しい実を結び、その実を主のご用のために納めることを私たちの喜びにしたいと思います。

 主イエスがイスラエルの人々に示した働きは、人の欲と罪のためにぶどう園の外に捨てられてしまったかのように見えても、ひとり子主イエスの働きは平和と愛に満ちた世界を作りだすための「角の親石」となりました。そして、私たちのぶどう園での働きを支えていて下さいます。神ご自身が人の罪のために傷み苦しみながらも、なおその先に御心を行う人を起こし、その人たちのための「角の親石」となって下さっています。主なる神は、あらゆる困難や挫折の先に、それに勝る喜びと平和を与えてくださるために、その礎となって今も働き、私たちをその働き人として用いて下さいます。私たちは、神の愛を受け、御心の実を結び、その実を主の御前に喜んでお献げできるよう、主イエスを私たちの内なる「角の親石」としてしっかりと据えることができますように。

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2023年10月01日

「考え直して」 マタイによる福音書21:28~32

「考え直して」  マタイによる福音書212832   (A年特定21) 2023.10.01


(1) 2023年10月1日(A年) 聖霊降臨後第18主日 説教小野寺司祭 - YouTube (この日の説教の動画)


 主イエスは、十字架にお架かりになった金曜日の直前の火曜日に、エルサレム神殿の境内でユダヤ教の指導者たちと激しい論争をなさいました。

 今日の聖書日課福音書の直前の段落の始めには、次のように記されています。第2118節です。 

 「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちが近寄ってきて言った。何の権威によってこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。」

 ユダヤ教の指導者たちは、エルサレム神殿の境内で教えを述べ始めた主イエスに、「お前は誰の許可を得て、何の名によって、何の権威によって教えているのか」と詰め寄ってきました。主イエスがその祭司長や民の長老たちを厳しく批判する脈絡の中に今日の聖書日課福音書の「二人の息子」の例えが置かれています。

 ある人が二人の息子に、それぞれに「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と声をかけました。その一人は「いやです」と答えましたが後で考え直して出かけました。もう一人は「はい、お父さん」と答えましたが出かけませんでした。

 主イエスは、この短い例え話によって、神の招きに応える罪人たちと神殿や律法に仕えながらも神の御心を行うと言うにはほど遠いユダヤ教の指導者たちを対比して、ユダヤ教の指導者たちを厳しく批判しておられるのです。

 今日は、この聖書日課福音書の例え話の中から一つの言葉(単語)を採り上げて、主イエスからの養いと導きを受けたいと思います。

 その一つの言葉とは、「考え直して」と訳されている言葉です。

 第2129節をもう一度拾い上げてみましょう。

 「兄は、『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。」

 この「考え直す」という言葉の原語はメタメロマイという言葉で、「心を入れ替える、取り替える」という意味から出た言葉です。

 父親からぶどう園で働くように言われても、「自分にはその意志がない、自分はそれに相応しくない、自分にはその資格がない」と思い考えて、その息子は父の求めに応じませんでしたが、後で「考え直して」ぶどう園に出かけて行きます。

 もう一人の息子は「はい、お父さん」と答えましたが、出かけませんでした。この息子について、主イエスは32節でこう言って批判しておられます。

 「ヨハネが来て(洗礼者ヨハネが出現して)、義の道(神と正しい関係を結ぶ悔い改めの道)を示したのに、あなたがた(イスラエルの指導者たち)は彼(洗礼者ヨハネ)を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して(先駆けの洗礼者ヨハネ)を信じようとしなかった。」

 当時、徴税人や娼婦などは「罪人」と呼ばれていましたが、それらの人々は主イエスと出会い、その愛に触れて、自分を見つめ直す勇気を与えられました。そして、神の御心に従って、これまでの自分を振り返り、自分がどのように生きることが神と自分に相応しいのかを「考え直す」ことが出来るようになりました。

 罪人と決めつけられていた彼らは、救い主の先駆けとして現れた洗礼者ヨハネの招きや救い主イエスの教えや行いに触れ、悪霊を追い出していただき、病を浄めていただき、「考え直して」本当の自分に立ち帰ることができました。彼らは、そのようにして自分に迫る神の言葉を、一度は尻込みしたり拒否しても、「考え直して」主なる神の招きに応え、ぶどう園の働きに、つまり神のお考えの実りをもたらす働きに、促されていくのです。それは、天の喜びになります。

 この「考え直して(メタメロマイ)」という言葉は、福音書ではこのマタイによる福音書の中だけにあり、ここで採り上げた2箇所の他にあと一箇所だけで用いられています。そのもう一つの箇所は第273節の中にあります。

 そこには「その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして」とありますが、この中の「後悔し」と訳されている言葉が「考え直す(メタメロマイ)」です。

 イスカリオテのユダは、イエスを裏切ってイエスをイスラエルの権力者たちに売り渡しましたが、ユダはイエスに死刑の判決が下ったことを知って後悔し、考え直しています。でも、ユダは考え直してはいるのですが、その時に何に基づいて考え直すべきなのかその基本的な信仰が曖昧なままであり、自分が立ち帰るべき原点を見失ったまま、銀貨30枚を神殿に投げ込んで首をくくることへと追い込まれていってしまいました。

 イスカリオテのユダは、洗礼者ヨハネが義の道を示したことを知っており、徴税人や娼婦たちが悔い改めてイエスの御許に立ち帰る姿を実際に自分の目で見ていたはずです。でも、ユダは主イエスに自分を委ねることができず、自分の犯してしまった過ちを考え直す機会を得ながらも、主イエスが身をもって示す神の愛に立ち帰ることができず、その結果、永遠に神の御心から離れてしまったと言えるでしょう。

 私たちも自分の思いや行いの過ちに気付いて「考え直す」ことがあります。初めから完璧な信仰を持っている人などいません。主の御心に自分を照らし、自分の心の貧しさや弱さに気付き、そこに働いてくださる神の愛を恵みとして受け止めるところに感謝が生まれます。そして、ぶどう園に招かれて働く喜びが生まれます。そのように神の愛の中で「考え直す」ことが信仰の成長へとつながっていくのです。

 主イエスは、当時の権力者たちが律法の枠組みから落ちこぼれた人々を罪人と呼んで蔑み自らは少しも「考え直す」ことのない姿を見て、厳しく彼らを問いただしています。

 私たちは、神殿の指導者たちのようにユダヤの律法やエルサレムの神殿制度を鎧にして頑なに「考え直す」ことを拒む者ではありません。また、イスカリオテのユダのように「考え直す」ことの拠り所(原点)を失ってさ迷う者でもありません。

 私たちは「考え直す」ときに、立ち帰って自分の全てを明け渡して委ねる対象を知って、そのお方を信じて受け入れています。その相手こそ主イエスです。

 私たちは、それぞれの心に主イエスご自身とそのみ言葉を深く迎え入れて自分を照らし出され、その自分が主イエスを通して神に受け入れられていることを信じ、主なる神さまと豊かに心を通わせる信仰生活へと導かれて参りましょう。

 私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを愛し選び出してくださいました。私たちはこの神の選びと導きの中で「考え直し」、恐れなく主なる神の御許に進み出るように招かれています。

 今日は、これから洗礼式を行います。自分を委ねて信じる対象が主イエス・キリストであることを受け入れ、信じて、召し出された者の群れに新しい仲間が加わる喜びを分け合い、共に信仰の道を歩んで参りましょう。

 
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2023年09月24日

「ぶどう園の労働者」のたとえ  マタイによる福音書20:1-16

「ぶどう園の労働者」のたとえ マタイによる福音書20:1-16  聖霊降臨後第19主日(特定20   2023.09.24



  今日の聖書日課福音書には、「ぶどう園の労働者」の例え話が取り上げられています。この例え話の中で、朝早くから雇われた人も夕方5時になってから雇われた人も、皆同じように主人から1デナリオンを受けとっています。

 この例え話は、聞く側の私たちがどのようなところに身を置いてこの話を受け止めるのか、例え話の中の誰に自分を重ね合わせて受け止めるのかによって、この例え話が厳しい問いかけのメッセージにもなれば、神の恵みを豊かに与えられていることへの喜びと感謝のメッセージにもなるでしょう。

 夜が明けようとする頃、沢山の人が広場に集まってきます。今日一日働く事に意欲を示す人、どんなことでも良いから仕事にありつきたい人など、沢山の人がこの広場に集まります。

 ぶどう園の主人は朝早くから広場に集まる人々に声をかけ、ぶどう園に送ります。一斉に実をつけたぶどうを収穫する時期は長くはありません。おまけにパレスチナでは、収穫が終わる頃から雨期に入ります。収穫のために働く時間は短く多くの働き人を必要とします。

 その働きのために先ず雇われるのは、見るからに元気そうな人であり、年老いた人や体の不自由な人などはいつも決まって残されてしまいます。

 朝の9時頃、お昼頃、ぶどう園の主人は広場にやってきました。そして未だそこにいる人の中から幾人かをぶどう園に雇いました。そればかりか午後3時にもまだぶどう園に雇われていく人がいます。この広場で自分を雇ってくれる人を待ちながら、半ばあきらめてそこに立ち尽くすのはいつも決まって体が弱く、その働きに相応しくないと見られる人たちでした。やがて日も傾き、自分が必要とされないことに失望し落胆する人たちがいます。

 その時、ぶどう園の主人がまたこの広場に現れて彼らに言いました。「なぜあなた方は何もしないで立っているのか。」

 彼らが「誰も雇ってくれないのです」と答えると、ぶどう園の主人は思いがけずこう言ったのでした。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」。

 それから1時間もしないうちに夕暮れになりました。主人はこの日の労賃の支払いについて僕にこう命じたのでした。

 「最後の者からはじめて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」

 この言葉の通り、夕方5時に招かれた人から始まり、支払われる賃金は誰もみな1デナリオンずつです。1デナリオンは当時の一日の仕事についての報酬額です。夕方雇われた者は、「自分の労働は午後5時からだったのに、主人は私にも丸一日分の賃金を支払ってくれたのだ。こんな私を一人前に扱ってくれたのだ。」と、感謝と喜びに満たされ、家族や仲間とその喜びを共にすることでしょう。

 その一方、朝から丸一日働いた者は「私たちはもっと多くもらえるだろう」と思いました。でも、彼らが手にしたのもやはり1デナリオンでした。彼らは「私たちを午後5時に来た奴らと同じ扱いにするのか。」と不平を言いました。

 すると主人は彼らに答えました。「友よ、私がはじめにあなたと約束したとおりではないか。私は自分のものを自分のしたいようにするのがいけないのか。それとも私に気前の良さをねたむのか。」

 この例え話で「ぶどう園の主人の気前の良さ」とは、神が自由に惜しみなくご自分の愛を人々にお与えになることです。

 私たちはこの「神の気前よさ」をどのように受け取るべきでしょうか。私たちは、朝早くから神の恵みを自分だけのものにして、その恵みを独り占めするのでしょうか。自分だけが神の恩恵を受けられればそれで満足なのでしょうか。また、他の人より自分の方が恩恵を多く受けなければ、遅く来て同じ恩恵にあずかる他人を妬ましく思うのでしょうか。

 主人は「私の気前の良さを妬むのか」と早朝から働いた人に問いかけますが、この部分を直訳すると「私が善良なので、あなたの目が悪いのか」と訳せます。つまり、神の正しさが現れ出ているのに、その神の御心を否定して神のお働きの本質を見る目が悪くなっている、と主イエスは指摘しておられるのです。

 私たちが自分を、早朝に雇われた人の側に身を置くのか、夕暮れにやっと雇われた人の側に身を置くのかによって、この主人の言葉の受け止め方も違ってくるでしょう。

 もし、私たちが何の仕事も得られずに夕方まで広場に立ちつくす者であったら、私たちはぶどう園の主人の招きをどのように受け入れたでしょうか。自分が必要とされてないと思って、人生に失望し、気力も失せ、ただ虚しくポツンと立っている姿が思い描かれます。そんな人が夕方5時に雇われれば「主人はこんな私のことも召してくださった。本来招かれる資格も値打ちもない私のことさえ、主は救ってくださった」と、感謝の思いで一杯になるに違いありません。もしかしたら午後5時に招かれた人は、「いえ、私はもう雇われる資格も値打ちもありません」と尻込みする思いになるかもしれません。

 でも、ぶどう園の主人はこう言うでしょう。

  「あなたも私のぶどう園に来なさい。あなたは自分で自分を役に立たないとか価値がないなどと言ってはならない。私があなたを選んで招いているのだ。それなのになぜ自分で自分を小さくするのか。あなたは精一杯私の仕事をすればそれでよい。もし腕が動かずぶどうの収穫作業が出来ないのなら、ぶどう園に来てあなたは働く人たちのために祈りなさい。私の労働者たちは、みな、昔の預言者たちも、弟子たちも、そうして働いたのだ。」

 私たちは主イエスがそう呼びかけてくださる御声をこの聖書日課福音書から聞き取りたいのです。

 そして、私たちは、誰でもその様にして主の教会に招かれているのです。私たちも本当は夕方の5時に主イエスによって救い出された者ではないでしょうか。しかしそのことを忘れると「自分は朝早くから夕暮れまで、汗を流して疲れるほど働いた。それなのに私が受ける報酬は、あの役立たずの働きのない者と同じなのか。」と呟き、神の御心を見失い、朝早くからぶどう園で働く恵みを与えられていたことを忘れてしまうのです。朝の6時に招かれて平安の中で働いていたはずなのに、そしてその喜びと感謝があったはずなのに、他の人が夕方にやってきて自分と同じ祝福を与えられることが赦せなくなってしまうのです。自分には、早朝から天の喜びに与り、その一日をぶどう園で質の高い生活を送っている恵みがあったのにその感謝を忘れ、神の御心が何かを見失い、「自分より無価値な者が自分と同じ恵みを受けている」と考えて傲慢になり、妬む過ちに誘われるのです。

 マタイによる福音書は、「神に選ばれた民」と自負するイスラエルの民に向けて記した福音書です。そのような視点から今日の聖書日課福音書に目を向けると、「自分だけが救いに与る資格がある」と考えるユダヤ教の指導者たちの思い上がりに対して、主イエスが厳しい挑戦をなさっておられることが分かります。

 ぶどう園の主人の正しさの前にあって、本来私たちは誰もが罪人であり1デナリオンを受けるのには相応しくない者です。それにもかかわらず、主は私たち一人ひとりをぶどう園に招き入れて下さいました。招かれるのに相応しくなかったはずの私たちがぶどう園に招かれるのは、主イエスを仲立ちとして一方的にその恵みが与えられているからなのです。

 私たちは、その感謝と喜びを新たにして、主の働きに与り励んで参りましょう。

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2023年09月17日

神の赦しの中に生きる  マタイによる福音書18:21-35  聖霊降臨後第16主日(特定19)

神の赦しの中に生きる マタイによる福音書182135  聖霊降臨後第16主日(特定19)  2023.09.20

 主イエスを救い主と信じる人々の群れは、起源90年代に入るとユダヤ教から異端とされて各地の会堂から追放され、それを契機にユダヤ教とは別の教会を形成するようになります。そのような厳しい状況の中で、キリスト者たちは信徒の群れ(教会)を成長させていきますが、その基礎(土台)にはユダヤ教の律法、規則、習慣を超えた主イエスの生き方や教えがありました。

 マタイによる福音書第18章に記された主イエスの教えは、キリスト者共同体である教会の中で罪を犯した人の扱いについて、また、交わりから離れてしまった人への関わりについてなど、教会が直面する具体的な課題に対処していく時の拠り所になる教えでした。

 先週の聖書日課福音書はマタイ18:15で主イエスは、弟子たちに「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら」と教えを述べ始めておられましたが、今日の聖書日課福音書の始めには、それに応じてペトロが主イエスに次のように尋ねています。

 「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

 当時、ユダヤ教では神はその人間の同じ罪を三度まで赦してくださると言い伝えられていました。ペトロはそのユダヤ教の教えを知った上で、それを遙かに越える寛容の思いがあるという自負を込めて「七回までですか」と主イエスに尋ねたのでしょう。でも、主イエスはペトロに「七回どころか七の七〇倍までも赦しなさい」と教えました。これはただ回数の問題ではなく「無制限に赦しなさい」という意味であり、主イエスはキリスト者共同体が互いに限りなく赦し合い愛し合うべきことを教えたのでした。

 それに続けて主イエスは、弟子たちに例え話をなさいました。

 ある王が、家来たちに貸したお金の清算をすることにしました。1万タラントンの借金をしている家来が王の前に連れ出されました。王はこの家来に自分の妻子や持ち物をも皆売り払って借金を返すように命じました。しかしこの家来は、王の前にひれ伏してしきりに「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と願ったのです。そこで王は、この男を憐れに思って、その借金を帳消しにしてやりました。

 この男は赦されて出ていくと、自分が百デナリオン貸している仲間に出会います。この男はその人を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫ります。相手がどれほど「返すから待ってくれ」と頼んでも承知せず、この男はその仲間を引っ張っていき、牢に入れてしまいました。

 この男が王から借りていた借金の額は1万タラントンです。当時、一日の労働に支払われる賃金は1デナリオンであり、1タラントンは6千デナリオンです。この人が王に借金しているのは1万タラントンでありそれは6千万デナリオン。それは労働者の6千万日分の労賃に相当し、それは約20万年分の労賃になります。これは、実際の数字というより、到底返すことのできない額を誇張して表現していると言えます。

 王はこの家来の願いに応えて借金を帳消しにしてやりました。

 ところがこの家来は出て行くと、彼から百デナリオンを借りている仲間に出会います。彼はその人を捕まえて、首を絞めて「借金を返せ」と迫り、その人を牢に入れてしまったのでした。

 王に1万タラントンの借りがあって、その全てを赦してもらった人が、仲間に貸している100デナリオンを赦せないのです。100デナリオンは100日分の労賃であり、決して返済不可能ではありません。「赦された額」対「貸している額」は、「60万」対「1」です。

 事の次第を見て心を痛めた仲間たちは、その一部始終を王に報告しました。すると、王は彼を呼びつけて言いました。

 「不届き者。お前が頼んだから借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がおまえを憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」王は怒って、借金を全部返すまで彼を獄吏(教会共同訳では「拷問係」)に引き渡したのでした。

  この例えの終わりに、主イエスはこう付け加えておられます。

 「あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう(35)」。

 主イエスが弟子たちになさったこのたとえ話のメッセージを受ける上で、この例え話を二つの点から考えて見ましょう。

 その第一点は、この家来が王から借りていた一万タラントンと仲間に貸していた百デナリオンという額についてです。

 主イエスは、一万タラントンと百デナリオンの額を対比することで、主人である王に対して負っている償うことのできない罪と、日常的に仲間が負っている負債の程度を対比しています。この例えの男には自分の主人()に対しては償いきれない負債がありしかもそれを帳消しにしてもらいながら、他人に負わせている返済可能な(つまり償うことの出来る程度の)負債さえ赦そうとしない者であるという姿を浮き彫りにしています。

 この男は、主人に対する限りない負債の総決算を迫られた時、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」とまで言いました。でも、自分の力では到底償うことのできない一万タラントンという負債の大きさを考えれば、「きっと全部お返しします」とまで言うこの男の態度は厚かましくもありその場凌ぎでもあり、この家来は自分の負債の重大さを棚に上げて言い逃れようとする浅はかで愚かな者であることが見えてきます。

 人間とは誰もがこのように厚かましく愚かな者であり、誰もが皆神に対する負債を無条件で帳消しにしていただくほかない存在です。損害を被れば相手を幾度まで赦すべきかなどとイエスに尋ねるペトロも、また、ペトロに自分を重ね合わせる私たち一人ひとりも、無条件に神の赦しを得ねば生きていけない存在です。その私たちは、自分が他人の罪を幾度まで赦すべきかなどという傲慢の中にいないかどうかを謙虚に振り返り、私たちは、神に赦され愛されて生かされている者であることを感謝して受け入れたいのです。

 もう一つの点は、王がこれほどの負債を抱える男を、もっと拡げて言えば私たちを、何故赦すのかと言うことです。

 この例えで、この家来が赦されたのは、王に向かって「どうぞ待ってください。きっと全部お返しします」と誓ったからではありません。この家来の負債がとても返済できる額ではないことは今見たとおりです。それにも関わらず王がこの家来の罪を帳消しにするのは、27節にあるように、王はこの男を「憐れに思って」いるからなのです。

 この「憐れに思う(スプラングニゾマイ)」という言葉は「内蔵(スプラングノン)」に由来する言葉で、聖書の中で特別な用い方がされています。この「憐れに思う」という言葉は、福音書の中では主イエスご自身を主語にする時と主イエスのなさった例え話の中でしか用いられていません。主イエスがこの例えで言っておられるのは、私たち人間には神に対して返済不可能の罪があり、生きるに値しないと見なされるはずであったのに、神は私たちがそのような存在であるが故に、その有様に腑が振るえ裂かれる思いを寄せて、その負債()を全て帳消しにして赦して下さっているのです。

 神の憐れみを受けてその愛と赦しを知った者には、再び生かされる者となった感謝と喜びがあり、その感謝と喜びが生きる源となり人が生きる力になるのです。

 私たちは主イエスによって全ての負債を既に帳消しにしていただいています。そうであれば、その負債を帳消しにした損失は誰が引き受けているのでしょう。この例え話の1万タラントンという大きな損失は誰が引き受けているのでしょう。それは、十字架の上にご自身を捧げて私たちの負債の引き受けてくださった主イエスです。私たちは主イエスの十字架によって自分の負債を全て赦されいます。主イエスの十字菜による贖いの恵みです。神に対して負債だらけの私たちは、主なる神の内蔵の震える程の愛によって生かされています。

 私たちは、このように、私たちの力を超える大きな恵みを神からいただいています。この赦しの恵みを与えられていることを信じ受け入れる者は、神に赦されてることと人を赦すことが一つに結び合わされるはずです。私たちは、神の限りない赦しという恵みが与えられている事実に立ち、私たちは赦し合い愛し合うことへと導かれます。

 クリスチャンの共同体は、主イエスによって示された完全な赦しを基盤にして、互いに赦し合い愛し合うことへと導かれています。主イエスによって表された神の愛が教会の土台であり、基盤です。

 他ならぬ私が、神の深い憐れみによって赦され生かされているのであれば、他の人が神の愛としっかり結びつけられて罪の重荷から解き放たれるために仕え働くのは当然のことであり、こうした神の愛によって神から与えられた命を豊かに生きるために互いに仕え合うことが教会に招かれた者の喜びになるのです。

 主イエスはご自身の十字架を通して神の無条件の赦しを示し、私たちを贖い、私たちを招き続けておられます。幾たび赦すべきかという思いを越えて、神の愛と赦しの基にクリスチャンとして養われ導かれて参りましょう。

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2023年09月10日

教会の基礎 マタイによる福音書18:15-20

教会の基礎  マタイによる福音書181520   聖霊降臨後第16主日(特定18    2023..09.10


 今日の聖書日課福音書から導きを受けるに当たり、この箇所がどのような文脈-前後関係の中-にあるのかを確認しておきたいと思います。私たちが聖書を読むときに、例えば、主イエスがその言葉をどのような状況の中で誰にその言葉を言っておられるのか、その前後関係(文脈)を踏まえることが大切です。ことに今日の聖書日課福音書の箇所を理解する上では、主イエスを救い主と信じる人々がその集団をどのように維持し運営すべきか、ということを念頭に置きながら、その文脈を確認してみたいと思います。

 今日の聖書日課福音書の箇所に「きょうだいの忠告」と言う小見出しがついています。この直前の箇所は「『迷い出た羊』のたとえ」で、更にその前の箇所は「罪への誘惑」という小見出しがあります。また、今日の聖書日課福音書の一つ後の段落には、「『仲間を赦さない家来』のたとえ」です。

 ことに今日の聖書日課福音書には「教会」という言葉が出てきますが、この言葉は「呼び出された人々」を意味すeκκληsιa(エクレーシア) という言葉であり、この言葉は4つの福音書の中ではマタイによる福音書の中での2箇所のみ、この箇所とペトロが主イエスを「生ける神の子キリストです(16:16)」と信仰を表明した時に主イエスが「私がこの岩に私の教会を立てよう(16:18)」と言われた箇所でのみ用いられています。

 マタイによる福音書第18章あたりでは、主イエスが弟子たちに「教会の運営」ということを念頭に置きながら教えを述べておられることを念頭に置いて、もう一度今日の聖書日課福音書の箇所の前後の教えを確認しておきましょう。

・「罪への誘惑(18:6-)」の箇所では、人を罪に陥れたり躓かせたりすることは災いであり、それは神が嫌うことであるということ。

・「迷い出た羊の例え(18:10-)」では、信仰者の群れ(集まり)から迷い出た一人が見つけられることは天の喜びであり、小さな者の一人が失われることは神の御心ではないということ。

・今日の聖書日課福音書の「きょうだいの忠告(18:15-)」では、その共同体の中で罪を犯した者があれば、どのように配慮して関わるべきなのか。その処置について。

・「仲間を赦さない家来の例え(18:20-)」では、私たちは神に愛され赦されていることを土台として生きており、それにも関わらず他者を赦さないことは大きな罪であることの教え。

 今日の聖書日課福音書の箇所を含め、マタイによる福音書第18章は、信仰を告白する人々の集まり(エクレーシア)が次第に組織として成長してくる段階で、信仰者たちは罪の問題に対して、また罪を犯した仲間たちに対して、どのように関わりながら対処すべきかを主イエスが弟子たちに教えておられることが見えてくるのではないでしょうか。

 ことに主イエスが、当時のイスラエルの、ことにユダヤ教の権力者たちを厳しく批判しながら、やがて教会を指導していく弟子たちを教育しておられる姿が見えてくるように思えます。

 当時、イスラエルの指導者たちは、十戒を中心とした律法の体系を日々の生活の細かなところにまで適用し、律法を細かな点に至るまでその時代に合わせて生活の中で行うように教えながら、その一方ではそれによって自分たちの身の安全を保ち、そうできない人々を罪人として裁きながら、体制を維持していました。

 しかし、主イエスはそのような律法の体系の中では生きられない人々や律法の体系から落ちこぼれて飼う者のない羊のようにさ迷う人々に、近づき、寄り添い、彼らの悪霊を追い出し、その人々の罪の赦しと浄めを宣言してくださいました。

 当時のユダヤ教の指導者たちは、そのような律法の体系から外れた者や律法に従って生きられない人々を罪人としていました。しかし主イエスは、律法の枠からはじき出された弱い人や貧しい人々こそ神の愛を必要としていると考えました。そして、そのような貧しく弱い人々を罪人と決めつけて助けの手を添えようとしない指導者たちこそ神の御心に反すると考えたのでした。

 主イエスはそのように生きることに徹したためにユダヤ教の指導者たちによって十字架につけられますが、弟子たちは、主イエスの死こそ神の子として人々を救う働きであったと信じ、「イエスは救い主である」と信仰を公にし、その信仰者の集まりが形成され始めました。その人々の集まりこそ教会(エクレーシア)です。

 イエスを救い主であると信じる人々は、民族の枠を超えて、その信仰によって集められた群れであり、イエス・キリストの体としてその教会(エクレーシア)を立て上げていくという認識を深めていったのでした。

 その教会(エクレーシア)は次第に成長し、次第に信仰に基づいた礼拝をはじめ、制度、文化、習慣が出来てくるようになります。そしてその信仰者として相応しくない行いをした者に対する取り扱いや処置についても、主イエスの教えに従って執り行われるようになってくるのです。

 その時に、教会(エクレーシア)に集う人々は、主イエスが「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいる」と言われた言葉に立ち帰り、主イエスを基礎に据えることを教会の基本としたのです。

 当時のユダヤ教の文献の中には、律法の教師ハナニヤという人の教えを書き残した次のような文書があります。

 「二人が一緒に座り、その間に律法(トーラー)の言葉があるなら、そこには神ご自身の臨在がある。」

 しかし、主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである」と言っておられます。主イエスは、律法の言葉のあるところに神が居られるのではなく、主イエスの御名によって集うところに主イエスご自身が共にいてくださると言っておられるのです。

 また、当時ユダヤ教の場合、共同の祈りを捧げるには成人男性10人以上が集まることが必要とされたした。しかし、主イエスを救い主として信じ受け入れる人々は、二人でも三人でも集まって祈るところには主イエスが共にいてくださることを経験し、この主イエスの言葉を実感し、また確認したことでしょう。

 主イエスは、主イエスを救い主と信じる人々の集まりの中で、小さな者の一人を躓かせる者の罪の大きさを指摘なさいました。

 主イエスは、召し出された人々の中で、例え小さな者であってもその群れから失われることは御心ではなく、その一人が見つけられることは天の喜びであることを教えてくださいました。

 また、今日の聖書日課福音書の箇所で、主イエスは罪を犯した者の扱いについても主イエスがその共同体の中に共にいてくださることを前提にして関わり判断することを教えておられます。

 更に主イエスは、私たちが神に愛され赦されている者として互いに赦し合い愛し合うことの大切さを教えておられます。

 このように理解すると、主イエスは、今日の聖書日課福音書をとおして、私たちの教会のあり方についても根本的かつ具体的なことを問いかけ導きを与えてくださっているように思えます。

 私たちの教会も救い主イエスをしっかり基礎に据えて働く教会であることを確認したいと思います。教会(エクレーシア)とは建物のことではなく、主イエスに召し出された者の集まりです。私たち一人ひとりが主イエスに呼び出されて主イエスが共にいてくださる交わりに生かされていることを確認したいと思います。

 教会は、今日の聖書日課福音書の箇所から、交わりから迷い出た人を再び迎え入れることに真剣であったことが分かります。信仰を持って集い交わりを持つ人々は、そこから迷い出た人々を捜し出すことを自分たちの使命とし、失われた人がその交わりを回復することを天の喜びとしてきました。

 私たちは主イエスへの信仰を土台とした教会の歴史と伝統の中に生かされています。主イエス・キリストがいつも私たちの交わりの中におられ、主イエスの名によって集まる小さな群れ(エクレーシア)にも共にいてくださり、祝福と導きを与えてくださっています。主イエスに感謝し、主イエスに聞き従い、この教会を主イエスの体として創り上げていく務めに与らせていただくことを喜びとすることができますように。

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2023年08月29日

教会の基盤は信仰の告白  マタイによる福音書16:13-20  聖霊降臨後第14主日

教会の基盤は信仰の告白  マタイによる福音書161320  聖霊降臨後第14主日(A年特定16)2023.08.27

(1) 2023 年 8 月 27 日( A 年)聖霊降臨後第 13 主日 説教小野寺司祭 - YouTube


 主イエスの宣教の働きは、生まれ育ったガリラヤから始まりました。主イエスが人々に教えを説き、悪霊を追い出し、癒し、慰めや励ましをお与えになると、イエスの本意とは違う願いや欲求をイエスに向ける人々も出てきました。その中には、イエスを政治的な王にしようとする者があり、また一方では、イエスを殺そうとする者がありました。

 主イエスが当時のイスラエル領を出て、地中海沿いのティルスやシドンに、また、ヨルダン川の源流に近いフィリポ・カイサリアの方にまで行っておられるのはイスラエルの権力者たちの監視を避け、主イエスの本意とは違う思いを持つ人々のの期待や願いから距離を取るためでもあったと考えます。

 そのような旅を続けながら、主イエスが弟子たちに尋ねました。

 「みんなはわたしのことを誰だと言っているか。」

 弟子たちは答えました。「洗礼者のヨハネだという人もいますし、エリヤだという人もいます。また、「エレミヤだ」とか『預言者のひとりだ』と言う人もいます。」

 その答えを受けて、主イエスは更こうお尋ねになりました。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

 主イエスのこの問いに対して、ペトロが自分の信仰を表明して答えています。

 「あなたはメシア。生ける神の子です。(16:16)

私たちは、主イエスの「あなたはわたしを何者だというのか。」という問いに一人ひとり何と答えるのでしょうか。

 主イエスは、先ず第1の質問で「世間では私のことをどう言っているのか」と尋ねましたが、このことに答えることは難しいことではなかったでしょう。この問いに応えるのには、そこに自分を関わらせず、ただ世間で主イエスがどのような評判を得ているのか、知識があれば答えられます。

 私たちも主イエスが何者であるかについて、色々に論じることが出来ます。それは信仰が無くてもできることです。主イエスの教えや奇跡、また癒しの働きについて納得する解釈を加えたり、またイエスを歴史上の人物として論評することも出来るでしょう。でも、主イエスはそれに続けて、「それではあなたは、私を何者だというのか」と問うておられます。他でもない私たちが主イエスの弟子として、「あなたは私を何者がと言うのか」という問いに答えることを、また主イエスとどのような関係にあるのかを表明することを求められておられます。

 少し先回りして触れておきたいのは、主イエスはこのペトロの信仰告白を受けて、これからエルサレムに上って行き、苦しみを受けて十字架に付けられることを弟子たちにお話しするようになるのです。主イエスは弟子たちにメシアであるイエスを信じ従う覚悟があるかどうか、その信仰があるかどうかを弟子たちに問うておられるのです。

 第2次世界大戦の時、ドイツでナチズムに対して抵抗運動をし、逮捕されて39歳で処刑された神学者であり牧師であったデイトリッヒ・ボンフェッファーという人がいます。この人は「信じる者は従い、従う者が信じる者になる。」と言う有名な言葉を残しました。この言葉にもよく表れているとおり、信じることと従うことは表裏一体のことであり、切り離せないことです。ボンヘッファーは世界的にも有能な神学者であり、1939年にはアメリカに招かれて一度はアメリカに渡りますが、ドイツの人々の苦しみを共にするために開戦直前に帰国して地下抵抗運動に加わり、ナチ政権崩壊直前の1945年4月に処刑されています。ボンヘッファーは「信じる者は従い、従う者は信じる者となる。」と言うことを、身をもって生きた人でした。

 キリスト教の歴史を振り返ってみれば、偉大な信仰者と呼ばれる人は数多くいますが、その人たちが実践したことは、どの働きも初めから綿密な事業計画を立てて事を為し遂げたのではありません。むしろ神に呼ばれ、神の御心を行うことを促されてその初めの一歩を踏み出し、振り返ってみれば自分ではなく聖霊が自分を持ち運んでくれたという経験をしているのです。そのような経験を通して、信仰者は「信じる者が従い、従う者が信じる者になる」ということを一層深く味わうことになるのでしょう。

 そして、それは教会の歴史に名を残した偉人に限ったことではなく、私たちの日々の信仰の歩みについても言えることです。私たちのようなごく平凡な者こそ、主イエスが自分にとって何者であるのかはっきりと信仰告白し、主イエスに従って信仰者の共同体を受けついていきたいのです。

 信仰は、私たちを受け入れ愛してくださる主イエスを信じて、「御国がきますように、御心が天に行われるとおり地にも行われますように」と精一杯生きることへと私たちを招きます。

 私たちは、こうした信仰を公にすることを避けて、評論家のようになってイエスを論じることもできるでしょう。聖書を信仰なしで古文書として読む学者や、信仰無しで聖歌を歌いCDにしている歌手もいます。でも、それは主イエスに従うこととは違うのです。

 主イエスは、私たち一人ひとりの前に立ち、私たち一人ひとりに「あなたはわたしを何者だと言うのか。」と問うておられることに、私たちは一人ひとりが何と答えるのかが、今、問われています。

 自分の信仰を表明したペトロのことを思い返してみましょう。

 ペトロはガリラヤ湖で漁師をしていた時、主イエスのみ言葉に従って思いもよらぬ大漁を得ていますが、その時に主イエスに「わたしに従ってきなさい」と招かれ、一切を捨てて主イエスに従っていきました。そのペトロがやがて「あなたはメシア、生ける神の子です」と自分の信仰を言い表す人になっていきます。

 このように信仰告白をしたペトロの信仰はこれで完成したわけではありません。ペトロはこの後も主イエスに叱られたり、それでも強がって見せたり、主イエスが捕縛されるときには裏切って逃げ出し、大祭司の館の庭で「あんな男の子とは知らない」とイエスを否定し、イエスの予告通りに鶏が鳴いて我に帰り激しく泣いたりしながら、主イエスに従っていきます。そしてその中でペトロは信仰を育まれていくのです。

 ペトロも、信仰生活の直中にいる時には、信仰が揺らぎ、失敗もしました。でも、後からペトロの生涯を振り返ってみると、信仰を告白して主イエスに従い、主イエスに従い信仰を更に深めていったことがよく分かるのです。主イエスに召し出され一切を捨てて従った時には、ペトロ自身無我夢中でありまだまだ未熟でした。でも主イエスを信じて従う中で、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰の告白が生まれ、やがてこの信仰告白の上にキリストの体として教会が立てられます。

 ペトロは、ヨハネによる福音書の最後の部分で主イエスから「わたしの羊を飼いなさい」、「わたしに従いなさい」という言葉を受けています。主イエスは信じる者を導き、従う者の信仰を育んでくださいます。そして今日の福音書に記されているように、信仰の告白を公にしたペトロが主イエスから「天の国の鍵」を授けられています。つまり、教会はこの「イエスは救い主である」という信仰告白の上に立てられており、ここに教会(エクレーシア:神に召し出された者の集まり)の存在理由があります。

 私たちが信仰を公にすることは、私たちの日々の生活と信仰を分離させずに神の導きによって生きるように整えられることにつながります。私たちは、そのことを毎主日の礼拝の中で、ニケヤ信経や使徒信経を唱えることで行うのです。

 私たちも、主イエスから「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問われています。この主イエスの招きと問いにどのように答えるのかによって、天国につながれもすれば引き離されもすると主イエスは教えておられます。私たちは信仰の告白と自分の生活を一つにされ、主イエスを信じて従い、従うことによって信仰を深められつつ、主イエスに導かれて参りましょう。

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2023年08月20日

異国の女の信仰  マタイによる福音書15:21-28

異国の女の信仰 マタイによる福音書152128  聖霊降臨後第13主日(A年特定15   2023.08.20


 今日の聖書日課福音書は、異邦人であるカナンの婦人が、主イエスに熱心に願い求めて、娘を癒していただいた物語の箇所です。

 はじめに、今日の福音書の箇所が、次のような言葉で始まっていることに注目してみたいと思います。

 「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」

 この直前の箇所を見てみると、「そこ」とはガリラヤ湖畔のゲネサレトであることが分かります。主イエスはガリラヤ湖畔の町から地中海に沿ったティスルとシドンの方へと歩みを進めておられます。ティルスとシドンとは、ガリラヤ湖から北西へ直線で50㎞ほど離れたところにある地中海沿いの町で、当時のフェニキア(現在のレバノン)領であり、ティルス、サレプタ、シドンなどの町は旧約聖書の時代から貿易によって栄えていました。今日の聖書日課福音書の箇所で、主イエスはイスラエル領から外へと、異邦人の町の方に向かっておられることを心に留めておきましょう。

 この異国の町であるティルスとシドンについて、主イエスが、マタイによる福音書第1120節からの箇所で、取り上げておられます。その箇所(第1121節)では、主イエスは心を頑なにして悔い改めないイスラエルの民に対して、次のように厳しいことを言っておられるのです。

 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ,お前は不幸だ。お前たちのところで(つまり、これらイスラエルの中で)行われた奇跡が,ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたにちがいない。・・・・。」

 「町が悔い改めない」とは、その地の人々ことにその町の指導的立場にある人々が悔い改めないという意味です。イスラエルの指導者たちは、主イエスの教えや癒やしの働きを認めず、その働きを律法に反すること、神の名を汚すこととして、イエスを捕らえる機会を狙うようになっていました。

 主イエスは御国の福音を宣べ伝え、弟子たちと共にイスラエル領を出て、ティルスやシドンの方面に向かっておられます。するとそこにカナンの婦人が進み出て、主イエスに向かって「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけて、イエスに憐れみを求めたのでした。

 「ダビデの子」とは、その当時のイスラエル人が「来たるべき救い主」という思いを込めて用いた言葉(メシアの称号)です。

 紀元前1000年の頃、イスラエル国を王国として統一し繁栄させたダビデのような救い主を待ち望む思いをこめて、イスラエルの人々はその救世主に「ダビデの子」という言葉を用いました。その言葉を異邦人であるカナンの婦人が用いて、主イエス向けて叫ぶように願い求めています。これはいわば主イエスを救い主であると信仰を告白するの言葉です。

 この言葉をカナン人(つまり、生粋のイスラエル民族ではないこの地の住民)が用いるのを聞いて、弟子たちの中には不快な思いになる者がいたことも想像されます。それでもこの婦人は、更に「主よ」と言って主イエスに娘の癒しを求め続けています。すぐに自分の願いが満たされなくても、この婦人は落胆したりあきらめたりすることなく、主イエスに願い求めて止みません。しかもこの人は、「ダビデの子」また「主よ」という言葉まで用いており、この女性が民族の枠を超えて、自分の娘の癒やしを求める一人の人として、主イエスに一心に救いを求める思いが現れています。

 主イエスはこの婦人に、ご自分の使命はイスラエルの民を救いに導くことにあると告げると、この婦人は異邦人である自分を取るに足りない小犬に例え、「主よ、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言って、自分も主イエスの溢れ出る恵みをを受けることができるという信仰を表明するのです。

 マタイによる福音書がまとめられた時代は、主イエスが地上での生涯を終えられてから40数年が過ぎた後であろうと考えられます。主イエスのことを救い主と信じて伝える人々の中にも、その宣教はユダヤの伝統を受け継いで、イスラエル人の中に限定されるべきだと考える人々もいました。彼らは、主イエスの教えや生き方はあくまでもイスラエル民族の一致を保つユダヤ教の枠の中だけに意味があり、イエスを通して示された神の恩恵を受けるのもイスラエル民族の人に限られる、と考えました。このような考えに立つイスラエルの人々の中には、異国人であるカナンの女性がユダヤ人であるイエスに近づくことを快く思わず、カナンの女がイスラエルの信仰に基づいて用いる「ダビデの子」とか「主よ」という言葉で主イエスに近づく事を不快に思い、追い払いたくなる者もいたと思われます。

 でも、主イエスは、今日の聖書日課福音書の最後の部分で、カナンの婦人に「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言って、この婦人の信仰を認めておられます。主イエスはこの婦人がカナン人かイスラエルの民の一人かを問題にはなさいませんでした。イエスを自分の「主」としてひたすら主イエスに願い求めて止まないこの人の信仰を、主イエスは「あなたの信仰は立派だ」と言っておられます。

 主イエスは人種や民族のことを問題にするのではなく、自分の全てを主イエスにぶつけてひたすら救いを求めて寄りすがるこの婦人の信仰を良しとなさり、この婦人を受け入れておられます。

 福音記者マタイは、この物語によって、主イエスは単にイスラエルの歴史におけるその民族の救い主だということではなく、イスラエルを通して示された救いのお働きは異邦人をも含め全ての人にとっての救いのみ業であり、主イエスは民族の枠を超えて救いを与えてくださることを教え、また伝えているのです。

 イスラエルの民の民族意識について少し振り返っておきましょう。

 エジプトで奴隷であったとき、イスラエルの民は取るに足りない小さい民族だったからこそ神はその民の呻きを聞いて救い出してくださいました。そこからイスラエルの民の中に「我々は神の民」という意識と自覚が生まれました。しかし、その意識と自覚はユダヤの民の中で神に選ばれているという特権意識へとすり替わり、他の民族や人種に対する差別が生まれてくるのです。

 それはユダヤの民に限ったことではなく、弱く小さい自分にも働いてくださった主の恵みに対する感謝を忘れる時、私たちの中にも傲り高ぶりが生まれてきます。また、そのように誰かを、何かを攻撃の対象として民族や国民の一致を図り、身の安全を図ろうとすることさえ行われるのです。その典型的な姿を、わたしたちは主イエスの時代のユダヤ教の指導者たちやファリサイ派の人々が異国人を汚れた者とすることの中に見ることが出来るのです。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが異邦人女性の一途な信仰を認めている様子を描き、この福音書からメッセージを受けようとする私たちに、ひたすら主イエスを求める信仰の本質を教えています。

 私たちは、この礼拝の場で、カナンの女と同じように一途な思いをもって、主イエスの愛を受け養われるために主イエスの御前に進み出るのです。そのように主イエスに近づく人を、主イエスはイスラエルの民であろうと異邦人であろうと、その信仰を認め、受け入れ、祝福してくださいます。

 主イエスは、娘の癒しを願い求めて止まないこの異国の婦人に対して、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言っておられます。

 イスラエルの制度の、ことにユダヤ教の枠組みからはじき出されてしまうような者、あのようなものが救いにあずかれるはずがないと決めつけられている者であっても、それだからこそ主に向かって叫ばないわけにはいかない姿がこの婦人に溢れています。そして、主イエスは無条件で、この異国の婦人の信仰を認めてくださいます。この、主イエスとの交わりを求めて止まない一途な思いこそ信仰の土台であり、主イエスはその信仰を受け入れてくださいました。私たちも、教会も、この信仰の土台がしっかりと据えられる時、キリスト者として形成され、教会として立派に立てられていくことになります。今日の福音書から、私たちは主イエスを求めて止まない信仰を強めていただくことへと導かれ、主イエスの養いと導きを受けることができますように。

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2023年08月13日

預言者の務め(ヨナの場合)  ヨナ書2:2-10 

預言者の務め(ヨナの場合)  ヨナ書2:210     2023.08.13  聖霊降臨後第12主日(A年 特定14)


 今日は、旧約聖書日課のヨナ書から学び導きを受けたいと思います。ヨナ書は旧約聖書の中で「預言書」の中に分類されていますが、物語としての面白さもあり、私は、在職中に勤務していた幼稚園で、夏休みが近づく頃、海に行く機会も多いと思われる子どもたちに、礼拝の中で毎年のようにヨナの物語を話してきました。

 今日の聖書日課はヨナ書の第2章が取り上げられていますが、第2章2節に「ヨナは魚の腹の中から自分の神である主に祈って、言った」と記されて、その後にヨナの祈りの言葉があります。今日の旧約聖書日課はその祈りの箇所です。

 ヨナがこのように「魚の腹の中から自分の神である主に祈る」に至る過程を簡単に振り返ってみましょう。

 ヨナは、預言者でした。神はヨナに「大いなる都ニネベへ行ってこれに呼びかけよ」と声をかけました。

 ニネベはチグリス川の中腹にあるアッシリアの主要な都市で、メソポタミア文明終焉期にあたる紀元前705年に当時の王センナケリブが首都に定めています。ニネベは紀元前612年に滅亡するまで繁栄を極めており、時のイスラエルの人にもその繁栄は知れ渡っていました。ヨナ書の「ニネベ」とは、人間が造り上げた文明を誇る姿を象徴していたと言えるでしょう。

 ヨナは、主なる神から、ニネベに行ってこの町の悪を指摘して人々に悔い改めを促すように告げられました。しかし、ヨナはニネベへ行くことを嫌がり、この使命から逃れようとして、ヤッファの港からニネベとは反対方向のタルシシュに向かう船にこっそりと乗り込みました。

 ところが、その船が港を出ると大風が吹き始め、海は大荒れになり、船は沈むばかりに揺れ始めます。人々はみな自分の神に祈り荷物を捨てて船を軽くしようとしますが、ヨナは船底にこっそりと隠れて寝込んでいました。ヨナは船長に起こされ、神に祈るように促されます。そして、この災難の原因が誰にあるのかをはっきりさせるために、船にいる人々はくじを引くことになりました。そして、ヨナがそのくじに当たりました。ヨナは自分がなぜこの船に乗っているのかを彼らに話し、自分を海に投げ込むように告げました。人々はヨナの言葉どおりにするほかなく、ヨナを船から海に放り込みました。すると、それまで荒れ狂っていた海は静まり、船の人々は神を恐れ敬ったのでした。

 ここで神の言葉を語らなかった預言者ヨナの命運は尽きたと言えるでしょう。

 このような第1章を受けて、第2章はヨナが巨大な魚に呑み込まれ、三日三晩その魚の腹の中で祈っていた言葉が取り上げられています。

 今日は、この言葉の一つひとつを吟味する余裕はありませんが、ヨナが大きな魚のお腹の中で、改心し祈っていることに注目してみましょう。

 ヨナは、7節で「しかし、わが神、主よ、あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった」と言い、10節で「わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは主にこそある」と祈っています。ヨナは、自分が神から与えられた使命を知りながらそこから逃れて隠れることは、死に呑み込まれることに等しい事であったと悟りました。

 ヨナは、三日三晩大きな坂の腹の中で祈り通しました。主なる神は魚に命じて、ヨナを陸に吐き出させました。ヨナは預言するように命じられたネネベに向かいます。

 物語はヨナ書第3章に入ります。主なる神はもう一度ヨナに臨みます。

 「さあ、立って、あの大いなる都ニネベに行き、私があなたに語る宣言を告げよ」。

 ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに向かいました。ニネベは大きな都で一回りするのに三日かかりました。

 ヨナは、主から「このニネベの町の悪がわたしの元に届いてる」と知らされており、ニネベの人々に「あと40日すれば、ニネベは滅びる」と告げて回りました。

 するとニネベの人々はヨナの言葉によって王も大臣も心を入れ替え、町には断食が呼びかけられました。町中は王と大臣の名によって出された布告に従い、みな悪を離れ、不法を捨てて、ひたすら神に祈りをささげるようになりました。

 主なる神はニネベの人々が悪の道から離れたことをご覧になって思い直され、宣告した災いを降すことを思い直し、そうはなさらなかったのです。

 ヨナは主なる神の判断に不満でした。自分が神から託された言葉を取り次いで語ったのに、その結果はヨナの語ったようには実現しませんでした。ヨナはそのことが不満で怒り、主なる神に次のように訴えたのでした。

 「あなたはわたしを用いてあなたの裁きを訴えました。それなのにわたしが伝えたあなたのみ言葉は実現しなかったのです。あなたのみ言葉が実現せず、わたしは面目丸つぶれです」。

 ヨナは、都ニネベの町の外に小屋を建て、日差しを避けて小屋の中から都に何が起こるのか眺めていました。すると「とうごま」の蔓が伸びてきて、照りつける日差しを遮る木陰ができ、ヨナはそれを喜んでいました。しかし、神はこのとうごまの木を虫に食い荒らさせて、とうごまは枯れてしまいます。

 ヨナは焼け付く日差しと熱風に耐えきれず、主なる神に向かって「生きているよりも、死ぬ方がましです」と不満を訴えますが、主なる神はヨナにこうお告げになります。

 「お前は自分が育てたわけでもないとうごまさえ惜しんでいるのなら、わたしがこの都ニネベを惜しまずにいられようか。そこには十二万人以上の右も左もわきまえぬ沢山の人と家畜がいるのだから」。

 以上がヨナ書全体の粗筋です。

 私はこのヨナ書から、預言者の使命とは何かを教えられているように思います。そして、主なる神の御心を知り主なる神の御心を語り伝えることを使命として生きる者は、何を大切にして生きねばならないかを問われているように思います。

 人は弱い者であり、神の御心が何かを自分をかけて語らねばならないとき、第1章に記されてたヨナのように、神のみ前から逃げ出して人々の間に紛れ込んで、一人船底に隠れていたくなるような者なのかもしれません。そして、真剣に人々に神の御心を取り次いでいる間にも、第4章に描かれているヨナのように、主の御心が成し遂げられることよりも自分の面子が保たれることや自分の業績が認められることを求めてしまうような一面があるのではないでしょうか。

 ヨナ書の舞台になっているニネベは、古代アッシリアの大都市で、繁栄の象徴として語られる町でした。殊にイスラエルの民にとってニネベは、自分たちの存在を脅かす国の大都市であり、選民意識を強く持つイスラエルの民からみればニネベが救われることなど受け入れ難いことであったに違いありません。主なる神が本当に求めておられるのは、そのような異国の町も、人々が神の御心に立ち返ってその神の御心によって生きるようになることにあります。預言者の働きは、事態が自分が予告したとおりになって自分の「してやったり!」という思いが満たされることではないのです。

 私たちが生きることは、主の祈りの言葉にあるとおり、「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と生きることであり、御心が行われるように生きる自分を姿を人々に見せつけたり、御心に従って生きる自分を誇ることが目的ではありません。

 このように考えてみると、わたしたちは自分の信仰生活がヨナの姿に重なってくるのです。

 ヨナ書は、主なる神がヨナに「あなたはとうごまさえも惜しんでいるが、わたしはニネベの町を惜しまずにいられようか」と語る言葉で終わりますが、この言葉にヨナがどのように応答したのかは記されていません。その判断は、この物語を聞く私たちに委ねられているのでしょう。

 主なる神は、ご自分に対する信仰を持つイスラエル民族だけが救われることを願うのではなく、異教の人も、悪を離れて御心に立ち返って生きることを切に願っておられます。そして、神は、その働き人として私たちを用いてくださって、いろいろな経験や気づきを与えてくださり、「御国が来ますように」と祈りながら生きる者となるように導いてくださっているのではないでしょうか。

 私たちも、信徒であるか教役者であるかを問わず、ヨナと同じように、主なる神から与えられたそれぞれの使命に与る者です。その使命が時に重くなり、神から隠れようとしたり逃げ出したくなったり、また主なる神に向かって不平や不満を口にしたくなったりすることがあるかもしれません。そのような時、主なる神はご自身の御手によってお造りになったこの世界とそこに生きるものすべてを愛し慈しんでおられることを改めて思い起こしてみましょう。私たちは、主なる神のみ言葉を取り次ぎ、この世界に神のみ業を証ししていくために生かされています。私たち一人ひとりが、主なる神に等しく愛され生かされていることを受け入れ、「わが神、主よ、あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった」、「救いは主にこそある」とヨナの祈りに合わせて祈り、神の御心をこの世界に示していく働きへと導かれて参りましょう。

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2023年08月06日

変容のイエスの姿が示すこと   ルカによる福音書第9章28-36    2023.08.06

変容のイエスの姿が示すこと   ルカによる福音書第9章28-36    2023.08.06


 今日、8月6日は教会の固定祝日の一つである主イエス変容の日です。

 この日の聖書日課福音書は、ルカによる福音書から主イエスのお姿が真っ白く目映く輝いた物語が採り上げられています。

 主イエスがペトロ、ヨハネ、ヨハネの3人の弟子を連れて山に登り、祈っておられるうちに、主イエスのお姿が真っ白くまばゆく輝き、そこで主イエスはモーセとエリヤと何かをお話しになっておられます。この姿を見て感激したペトロたちはそこに小屋を建てて主イエスの栄光のお姿をそのままそこに留めておきたいと思うのでした。主イエスは弟子たちにそのことを誰にも言わないようにお話になった、というのがこの主イエス変容物語の粗筋です。

 主イエスのお姿が白く目映く輝いたというこの物語を理解する上で、ある一つの視点からこの物語を考えてみたいと思います。

 皆さんは「隠し絵、だまし絵」をご存知でしょう。トリックアートとも呼ばれていますが、例えば「ルビンの壺()」と呼ばれている絵は、左右対称の花瓶の形が描かれているように見えますが、その壺の部分を画面全体の下地としてとらえると、壺に見えていた部分を背景にして二人の人が向き合った顔の絵に見えてくるのです。もし私たちが、ある一つの視点からしか物事を見ないとしたら、他の視点を持てば見えるはずの真理を見落としたり見抜けなかったりすることになります。

 私は、聖書の物語はこの「隠し絵、だまし絵」に似たところがある、いや、もしかしたら聖書全体が、ことに主イエスの生き方を証しする福音書は「隠し絵、だまし絵」のように記されていると思うことがあります。

 少なくとも、主イエスのなさる例え話にはその「だまし絵」のような狙いがあるのではないでしょうか。

 主イエスの生涯は、人々の目から見て、決して華やかではありませんでした。主イエスは、生きる望みを失った人々を訪ね、捨てられた人々を探し、埃にまみれて各地を巡り歩いて神の御心を伝え、「狐には穴があり鳥には巣があるが、人の子は枕するところもない」というほどにしてお過ごしになりました。主イエスは、多くの奇跡を行い、力強く教えを説き、たくさんの人々を癒し、生きる力をお与えになっておられ、華やかな生き方のように見る一面がありながら、わずかな弟子を残して人々に見放されて、弟子たちでさえイエスを裏切り、主イエスは十字架の上に捨てられるようにして死んでいきました。多くの人は主イエスの十字架のお姿を見て、主イエスをあざ笑い、罵り、「あの男は神の子と呼ばれながら結局何も出来なかった」と言いました。そのような人々には、「隠し絵、だまし絵」の中にあるような主イエスをただ一面的にしか見ることの出来なかった者の姿が現れています。

 一方、十字架の出来事を見ていた人の中には、全く違う見方で主イエスを見た人もいました。イエスの十字架の一番近くにいた百人隊長は言いました。「本当にこの人は正しい人だった」。百人隊長は同じ「隠し絵、だまし絵」を違う視点から見ることによって、イエスという男に現れた「神の子」の姿を見たのです。

 イエスが十字架にかけられ殺されていったという一つの出来事の中に、多くの人は「貧しい人々を救おうとして、神を侮辱した者と見なされて殺された一人のバカな男」という意味しか見て取れませんでした。それは「隠し絵、だまし絵」の誰の目にも見る事の出来る一面のようです。でも、主イエスの、失敗であり挫折であり敗北に見える十字架の上に、ほんの一握りの人は「本当に神の子である」者の姿、「本当に正しい人」の姿を見たのです。

 私たちは、そのような視点をもって、「主イエスの変容」の出来事を見てみたいのです。

 主イエスに連れられて山に登った3人の弟子は、主イエスがモーセとエリヤと一緒に話し合っているのを目にします。ところが、32節にあるとおり、その時「ペトロと仲間は、ひどく眠かった」と記されています。もし弟子たちがここで主イエスのこの出来事の意味を本当に理解できていたら、眠くなどなっていなかったでしょう。人は興奮したり感激している時に眠くなったりはしません。

 例えばこうして説教をしていても、ある人は食い入るように聞き、また他の人は興味を持てずに眠くなるということがあります。この場面で、主イエスが話しておられるのは「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」でした。主イエスはこれからエルサレムに行ってそこで十字架にかけられて死ぬことになりますが、主イエスはモーセとエリヤとその大切なことを話していたのです。モーセとエリヤとは、旧約聖書の律法と預言を代表する人であり、ここで話し合われていることの内容は、神の救いの歴史が主イエスのエルサレムでの十字架の死によって完成するという事です。そのことが話し合われている時にペトロ達はまだその意味が分からず、眠くて仕方がないのです。

 そしてペトロたちは真っ白に栄光に輝くお姿になっておられる主イエスのお姿を見ると、仮小屋を建てて何としても留めたいと考えて主イエスに提案しています。自分が主イエスに期待している栄光の一面が現れれば、そのことに興奮してそれをいつまでも留めておきたいペトロの思いがここに見られます。

 私たちは誰でも人の華やかな面、輝かしい面を見がちです。そしてその華やかさや輝きを自分の所に留めておきたいと思いやすいのです。

 でも、私たちは主イエスのどこに輝きを見るべきなのでしょうか。また、私たちは主イエスの何を誇りとすべきなのでしょうか。人々に仕えてご自分を与え尽くして、最期には十字架にかけられて死ぬ事になる主イエスに、私たちは栄光あるお姿を認め、そこにある救い主の働きを受け入れ、誇ることができているのでしょうか。

 主イエスは、これからエルサレムに向かおうとしておられます。この主イエス変容の出来事は、主イエスがこれまでのガリラヤでのお働きからエルサレムに向かおうとする大きな節目にある出来事です。この出来事の前後で主イエスはご自身の死を予告しておられます。主イエスの勝利とその栄光の輝きがどこにあるのかを、神は前もって3人の弟子に示しておられるのがこの「主イエスの変容」の出来事であると言えます。

 日本の児童福祉の草分け的な人に糸賀一雄(19141968)という人がいます。この人は知的障がいのある子どものための施設「近江学園」や重度心身障害児のための「びわこ学園」を創立しました。それらの働きの始めの頃、この人は「この子らに世の光を」という言葉をスローガンにして、障がい児を社会から隔離するのではなく社会とのつながりの中に生きられるように訴えてその実現に努めました。しかし、この人はハンデを持つ子どもたちによって自分の意識を変えられ、そのスローガンを「この子らに世の光を」から「この子らを世の光に」とするのです。糸賀一雄氏は、当初、恵まれない子どもたちに社会の明るい光を与え、知恵遅れの子どものために社会がもっと関心を持って支援すべきだという考えがありました。でも、糸賀氏はやがて、この子どもたちこそ世の光であると悟るのです。むしろ社会が切り捨てているこの子どもたちこそ本当の光を放っており、この子どもたちを世の光にしなくてはならないと考えるように変えられていきました。同じ一つの出来事に対して、糸賀氏はそれを見る目、それに関わる自分を大きく変えられたのでした。

 主イエスの変容の出来事は、わたしたちに問いかけます。

 「あなたはどこに主イエスの輝きを見て、なぜ主イエスを自分の救い主であると信仰を告白しているのですか。」と。

 私たちは、その問いかけに揺さぶられながら、私たちが生きる大切な意味を「隠し絵、だまし絵」のような十字架の出来事の中に見出すことができるようになるのです。

 たとえば、経済的に高い収入を得ること以外に人生の成功はないと思っている人には、たとえ粗末な食材であっても豊かな会話のある食卓にある幸せを経験することはないでしょう。生徒のテストの結果と偏差値しか眼中にない教師には、生徒を人間的に大きく育む青年期の悩みを受け取って支援していく関わりを生徒との間につくることは難しいでしょう。聞き分けが良くお行儀の良い子しか評価しない保育者は、子どもの表現の豊かさやその深さ寄り添うことは出来ないかもしれません。

 主イエスがこれからエルサレムでの十字架に向かおうとする時に、神は主イエスの姿を、主なる神は白く目映く輝かせて弟子たちにお示しになりました。主イエスが罪ある人々の罪をご自身に引き受ける中に見える神の子の輝きが、ここに先取りされて鮮明にクローズアップされました。主イエスは、エルサレムに上っていって、政治的宗教的指導者に憎まれ恨まれて殺されることになろうとも、貧しく弱い人たちに神の御心が現れるようにその人々を愛しぬき仕えぬくことの中に神の輝きがあることを身をもってお示しになるのです。

 私たちは、「だまし絵、隠し絵」のような主イエスの御生涯の、何に、どこに、救い主としてのお姿を探すのでしょう。主イエスの苦難の生涯に、神の救いのみ業をしっかりと見つめて、主イエスに聞き従って参りましょう。

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2023年07月31日

からし種    マタイによる福音書13:31-33,44-49a

からし種   マタイによる福音書133133,4449a    聖霊降臨後第11主日(特定12)   2023.07.30

  今日の聖書日課福音書で、主イエスは、いくつかの例えによって天の国について教えておられます。その教えの中から、今日は「からし種」の例えから教えを受けたいと思います。

 はじめに、この「からし菜」という植物について触れておきましょう。

 新約聖書の中で「からし種」と訳されているこの「からし菜」は、日本語で言えば、「菜の花」と言うくらいに曖昧な意味で、アブラナ科の植物の総称です。当時のパレスチナでアブラナ科の植物の中で最も代表的なものが、主イエスも例えで用いておられる「からし菜」でした。その「からし菜」の中でも、特にクロガラシは畑に栽培され、肥えた土地であれば3~4メートルほどの見上げるような背丈となり、鳥がやってきて種をついばむようになります。パレスチナの人々はこのように育った「からし菜」を、樹木ではなくとも「からしの木」と呼んでいました。それほどに大きく育つからし菜の種は、何故こんな小さいのかと思わせるほど、砂粒ほどに小さいのです。

 主イエスは、このような植物を例えにして天の国の例えになさいました。

 砂粒のように小さなからし種の中に、不思議な命のプログラムが入っています。種の外からは見えないけれど、種は発芽の条件が整えば芽を出し葉を出し花を咲かせ、種を実らせます。種粒の中には、人には分からない成長のプログラムが組み込まれています。私たちが植物を育てる時に出来ることは、種そのものの持っている成長力が十分に引き出せるように、神が用意されたプログラムが展開するために、畑の土壌を良くして、その環境を整える事です。その中で、種は種の持つ力によって芽を出し、葉を繁らせ、やがて花を咲かせ実を結びます。もし人が早く花を咲かせようとしてからし菜の苗を無理矢理引っ張っても根を浮かせて枯らしてしまい、つぼみを人の手で開こうそすれば、花は咲くどころかかえって実を結ぶことを邪魔して枯らしてしまうことになります。

 主イエスは「天の国はからし種に似ている(マタイ13:31)」と言われました。天の国とは、どこか特定に領土や地域を意味しているのではなく、神さまの御心が現れ出ている姿、神さまの御心によって治められている姿、その状態のことです。からし種が本来のからし菜として育ち、花が咲き、実を結び、そこには鳥たちが安心して巣を作るまでになります。

 私たちも、からし菜の種のように、神さまのお働きの中に生かされています。しかし、自分の目の前にある大きな現実に圧倒されて、自分の小ささや力のなさを感じる時があります。自分が神さまの御心を示していこうとしても、自分の小さな働きが天の国の働きなのかと思えたり、一人の力ではどうにもならないと思えるような時もあるでしょう。そのような私たちに、主イエスは「天の国はからし種のようなもの」であると教えておられます。

 私たちの天の国のための働きは、たとえそれがどんなに小さな働きであっても、それが「からし種」のようであるなら、やがてはそこに鳥が巣を作るほどに成長する可能性を秘めています。今はからし種の一粒のように小さく見えようとも、天の国の実現するプログラムであるなら、神はいつかは大きな実りを与えてくださいます。そして、主イエスのこのみ言葉は、私たちの置かれている困難や苦境に対しても、御心を行っていく希望と力を与え、現実に向かって行動に示していく勇気を与えられるのです。

 このように、からし種の中にある神の御心のプログラムは、最終的には目の前の困難な状況をさえ動かし、やがて大きな実りを与えられることでしょう。

 主イエスは、この「からし種」の例えが本当のことであることをご自身の生き方によってお示しになりました。主イエスは、神の国の教えを説きその実現のために枕するところもなくお働きになりました。その末に、主イエスは十字架に付けられて殺されました。主イエスは当時のユダヤ教指導者たちによって、来たるべき「神の国」に相応しくない者と決めつけられ、律法に反して神の御心を汚す者と見なされて、十字架の上に処刑されたのでした。

 しかし、この主イエスの十字架上のお姿の中に、主イエスこの世界に蒔かれた一粒の命の種であることを見出した人々がいたのです。そして、十字架で死んだ主イエスの中に永遠の命の姿を見出して、それを自分の生きる根拠として信仰者の集まり(エクレーシア)を形成するようになります。この集まり(エクレーシア)の中に私たちも生かされています。

 今日の聖書日課から使徒書の言葉に注目してみましょう。

 パウロは「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです(ローマ8:26)。」と言っています。この言葉をこの「からし種」の例えに引きつけて考えれば、からし菜の種が未だ小さくてそれがどのように成長するか分からないない中で、聖霊はそのからし種の命のために祈り続けていてくださいます。こうした聖霊の支えを受けながら、小さな一粒のからし種は芽を出して育ち、やがては鳥がそこに巣を作るほどに成長していきます。主なる神が、人の力を超えた計画の中で私たちを用いて、神の国の実現を進めておられることに気付き、私たちは自分が神の国を実現させるという傲慢を打ち砕かれ、神の国の成長と発展のために自分を用いてくださった主なる神さまを感謝するようになれるのです。

 からし種でも麦でもそうですが、種が地に落ちて神さまのご計画が進んでいくとき、種はもはや種のままの姿ではなくなります。種は自分の殻を破られて、神さまのご計画によって新しい生き方へと導かれるのです。そして、種はやがて数え切れないほどの新しい種を生み出します。このようにして小さな種は新しい種になりその数を増やし、天の国のこの世に示す営みは進んでいくのです。

 天の国は、聖地を奪い取る領土争いをすることで実現するものではありませんし、思想や言論を統制したり強制することで実現するものでもありません。今、自分が置かれた状況の中で、何が主の御心であるかを祈り求め、たとえからし種の一粒の様に小さく思えることでも、神の御心を行う歩みを踏み出していくことでそこに内在する命は成長し始め、やがては神さまの大きなお働きの中に用いられることによって天の国は姿を顕すでしょう。

 小さな私たちを天の国の実現のために選んでくださった主に感謝し、神さまの大きな働きの中に用いられる喜びに与りましょう。

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