2023年12月26日

神の愛を受信する ヨハネによる福音書1:1~14 降誕日

神の愛を受信する   降誕日 ヨハネによる福音書第1章1~14節  2023.12.25


 かつて、私が勤務していた教会に宇野徹主教が巡回してくださった日がちょうど教区の児童の日であり、子どもたちも礼拝に出席する中で主教さまに説教をしていただいた事がありました。その時に主教さまはある道具を持参され、それを示しながら説教をして下さったことを印象深く記憶しております。その道具とは、一つが携帯ラジオ、もう一つは玩具のラジコンカーでした。その説教は私にとっても興味深いものでした。

 主教さまは、そのラジオのスイッチを入れて、ダイヤルを動かしながら、「電波は目には見えないけれど、こうして電波の周波数に合わせるとラジオはその電波を受信して放送を聞くことが出来ます。放送局からの番組を受信するにはその電波の波長に正しくダイヤルを合わせることが必要です。それと同じように、私たちも神さまが与え続けている愛の力を正しく受けられるように、日々の生活を霊性を祈りつつ育てていく必要があります」とお話になりました。

 また、ラジコンカーを前後させながら、「目には見えない電波を受ける車とコントローラが発する電波の周波数が合っている時にはじめて車が動きます。わたしたちも神の愛の力を受けてはじめて生かされるのです。だから、私たちは聖書を学ぶことや毎日の生活の中で神の導きを求めて祈ることにより、神の御心にピタリ合う生き方に励み、福音の喜びに満たされるようになりたいですね」という主旨のお話をしてくださったのです。

 今日の聖書日課福音書であるヨハネによる福音書の冒頭は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と伝えていますが、今述べたラジオのたとえで言えば、人間の方ではまだ電波を受信できるほどに信仰が育っていない時でも、神はこの世に生きる私たちに愛の電波を今も絶えることなく発信し続けておられ、これからもずっと発信し続けて下さるのです。その愛の電波のことを、ヨハネによる福音書では「言(ロゴス)」と言っています。

 「言(ロゴス)」という箇所を「神が発信する愛の電波」と置き換えて、今日の福音書の冒頭の部分を読みなおしてみます。

 「神が発信する愛の電波は初めからあった。電波は神と共にあった。愛の電波は神であった。この愛の電波は、初めに神と共にあった。万物は愛の電波によって成った。成ったものでそれによらずに成ったものは何一つなかった。この愛の電波の内に命があった。」

 しかし、「神の愛の電波」は、人々になかなか理解されませんでした。それは人の目には見えず、人はこの電波だけを抜き出して目に見て確かめることが出来ないからです。愛は何か具体的な行いの中に現れ出るのです。そして、私たちがこの愛の電波を確かめるためには、その電波をキャッチするための受信装置が必要になります。電波を受信した時にも、電波そのものを見るのではなく、電波を音なり映像なり動力に変換してはじめて、その電波の内容を確かめることが出来るのです。

 神さまがこの世に送ってくださった「言(ロゴス)つまり神の愛」についてもこれと同じことが言えます。神は天地をお造りになった初めからこの世界と人々を祝福し、愛し、関わり続けてきてくださいました。でも、私たち人間は、神さまの送る愛そのものを自分たちの目でしっかりと見て確認することが出来ませんでした。

 人は神の愛や守りが見えなくなったり感じられなくなったりすると、安易に目に見えるもの、触れて確かめられるものを求めて、そこに安心を得たくなります。神から離れて神を見失ってしまってもそのことに気付かないで、自分で思い描いき造り上げたイメージの神(偶像)を神として奉り、愛ではない物を愛であるかのように仕立て上げて、その幻想の中に生きようとしてしまうのです。私たちのまわりにも、本当は神からの愛によってしか癒されないはずなのに、お金に拠り頼んで他の人の財産までだまし取る者のニュースが後を絶たなかったり、権力にすがって他の人を踏みにじる者がおり、アルコールに溺れる者がおり、他の人の気を引くような事をして注目を集めて一時の快楽や満足を得たりうっぷんを晴らそうとする者もいるのです。しかし、それでは神の愛を受信する感性は鈍くなり、神の愛をキャッチして動き出すことからますます離れてしまうでしょう。

 主イエスの働きを快く思わず、十字架へと追いやった人々もそうでした。文字の上だけで愛を論じる律法学者たちは、神の本当の愛を実感できませんでした。また自分の身を守り形式的に儀式を繰り返し、それを民衆に強要する祭司長たちにとって、神の愛は邪魔であり面倒くさかったのです。

 そのような人々が支配するこの世に、神は、人の目に見える姿をとってご自身の愛を具体的に示して下さいました。それが神の子イエス・キリストの降誕です。神の子イエス・キリストは、人の上に立って支配し君臨するのではなく、貧しく小さなお姿を取って、人々の目に見える存在となってくださいました。ヨハネによる福音書第1章14節に「私たちはその栄光を見た」と記しています。

 私たちは主イエスを通して真の神の愛に触れて、目には見えない神の愛を実際に見て知り信じることが出来ました。文字の上でしか知らなかった「神の愛」の本当の姿を、主イエスを通して具体的に知らされ、その愛を受けた者は愛の電波の中継者となって人々を愛し、神の愛を伝える者へと変えられていくのです。

 律法によって「愛せよ」と幾度厳しく突き付けられても愛を実感できなかった人々は、律法を守れない人々を裁くようになります。律法を守れず裁かれた人々は、自分でも自分を否定してさまよい自分を見失ってしまいます。でも、そのような人々も、イエスによって自分も愛し抜かれていると言うことを心から理解できた時、本当の自分を取り戻して神の愛に生きるように回心するのです。

 神は、主イエスを通して私たちに神の愛を教えてくださいました。主イエスが示した「神の愛」をさらに世界に伝えていく働きは、その弟子たちに受け継がれ、使徒たちを通してやがて世界に拡がり、私たちの所にも届きました。

 神の愛を受信した私たちは、今度はこの「神の愛の電波」の中継基地となって、正しくこの神の愛の電波を中継して、人々に伝えていきたいのです。

 「言が世に来た」ことや「言は肉となって私たちの内に宿った」ということは、神の愛が主イエスをとおして具体的にこの世界に働いたことを意味しています。

 私たちはこの世で、時には弱り、時には悲しみにも出会います。でも、私たちは既に目に見える神の愛を与えられ、神の愛は私たちの中に深く宿っていて下さいます。馬小屋の飼い葉桶の中に、神の愛の姿を宿して下さった恵みを深く受けとめ、私たちも神さまの愛の電波を受信して中継する器として、それぞれの生活と働きを通して用いられるように祈り求めたいと思います。

 神の言が私たちのところに来て下さった喜びを一人ひとりが自分のものとすることが出来ますように。また、神の言をこの世界に中継し、それぞれの生活と働きの中で映し出す道具として働く喜びを与えられますように。

 主イエス・キリストのご降誕を感謝し、神の言を一人ひとりがしっかりと受信することができますように。

posted by 聖ルカ住人 at 09:12| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月17日

証し人洗礼者ヨハネ ヨハネによる福音書第1章6-8,19-28節 降臨節第3主日(B年) 2023.12.17

証し人洗礼者ヨハネ  ヨハネによる福音書第1章6-8,19-28節 降臨節第3主日(B) 2023.12.17


 降臨節第3主日の聖書日課福音書には、洗礼者ヨハネが来たるべき救い主の先駆けとして現れた場面が採り上げられています。洗礼者ヨハネは、救い主イエスを指し示して証しました。私たちは、再び来られる主イエスを迎える備えをしつつ今年の降誕日を迎えようとしていますが、洗礼者ヨハネの証に心を向け、主イエスを救い主として私たちの心に深く迎え入れることができるように、今日のみ言葉による導きを受けたいと思います。

 先主日の聖書日課福音書でも、マルコによる福音書の冒頭の部分をテキストとして、洗礼者ヨハネのことを学びました。私たちは洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、救い主イエスを迎えるための道筋を整え、心を主イエスに向けるべきことを促されてました。

 今日は、洗礼者ヨハネが主イエスを指し示して証して生きた姿から、私たちも光である主イエスを迎え入れて、その光を輝かせ、主イエスを証しする生き方へと導かれたいと思います。

 ヨハネによる福音書第1章の7節、8節に、洗礼者ヨハネは「イエスを証するために来た」という言葉が出てきます。この箇所に限らず、洗礼者ヨハネはイエスを指し示して証しているという言葉は福音書の中に幾度も出てきます。まさに洗礼者ヨハネの生涯は救い主イエスを証するものですいた。

 「証する」という言葉は、例えば裁判で証言をするという意味もありますが、「身をもって示す」、「断言する」という言葉で、それに徹した結果としての「殉教する」という意味を含むこともあります。「証する」とは、本当の事、真実である事に自分の命を懸けて示す事だと言えるでしょう。

 洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆けとして現れ、主イエスを指し示して証する生涯を送りましたが、その時代は不安定な情勢にありました。

 当時、イスラエルはローマの国に占領されてその属領となり、ヘロデ家がローマの支配下で皇帝のご機嫌を取りながらその傀儡としての統治を任されていました。イスラエルの人々の中には、ローマからの政治的独立を願って抵抗運動する者や反乱をおこす者もあり、民は精神的にも不安定になっていました。また、いわゆる「偽キリスト」も現れ、民衆を扇動して社会を混乱させていました。

 洗礼者ヨハネやイエスが現れたのはそのような時代です。洗礼者ヨハネは救い主の訪れは間近に迫っており、救い主の到来に備えて悔い改めの洗礼を受けるように訴えました。その姿を見た民衆の中には、このヨハネこそ来たるべき救い主ではないか、或いはその先駆けとして来ると言い伝えられている再来のエリヤではないかと評価する者も出てきていました。しかし、洗礼者ヨハネは、イエスが救い主であることを証して指し示すことに自分を限定し、その働きに徹した人であったのです。

 エルサレムの権力者たちは、洗礼者ヨハネを調査し審問するために祭司やレビ人を遣わしていますが、派遣された者たちから「あなたはどなたですか」と尋ねられたヨハネは、公にハッキリと「わたしはメシアではない(1:20)」と言い、更にイザヤ書の言葉を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である(1:23)」と答えています。

 洗礼者ヨハネは更に第127節で主イエスのことをしっかりと証して、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履き物のひもを解く資格もない(1:27)」と言っています。ヨハネは自分が何者であるのかをしっかりと理解して、その使命に徹しているのです。

 このような洗礼者ヨハネと主イエスの関係について、今日の福音書は第18節で次のように表現しています。

 「彼(洗礼者ヨハネ)は光ではなく、光について証しをするために来た」。

 福音記者ヨハネは、主イエスを「光」に例え、洗礼者ヨハネは光そのものではなく、光である主イエスを指し示し、またその光を映し出すことに徹した人であることを伝えます。洗礼者ヨハネ自身は光源(発光体)ではなく、あくまでも光である主イエスを指し示し、ヨハネはその光に照らされてこそ、自分が生きる意味があるというのです。

 この事を、主イエスを太陽に、洗礼者ヨハネを明けの明星である金星に例えてみると、その意味がよりハッキリと理解できるのではないでしょうか。

 惑星はそれ自身が光を放っているわけではありません。金星は太陽の光を受けて金星としての姿をはっきりと示されます。金星は太陽の光に照らされてこそ、金星の美しさが現れ出るのです。ことに、今の季節に、金星は明けの明星としてひときわ明るく輝いていますが、金星は太陽の光を受けて夜明けの星となり、やがて太陽が昇るとその姿は見えなくなります。この金星のように、洗礼者ヨハネは救い主イエスを人々に示すことに徹して生きる事で、洗礼者ヨハネがこの世に生まれて生かされた意味が輝きました。

 洗礼者ヨハネに限らず、私たちも救い主イエスによって生かされている者です。洗礼者ヨハネが自分の使命に徹して、光であるイエス・キリストを証して生きたように、私たちもそれぞれに与えられている自分の命を主イエスの愛に照らし出されて、自分が何者であるかの理解を深めながら御心を生きることはとても大切なことでると思います。

 先に例に挙げた太陽と惑星の関係で言えば、私たち一人ひとりは、主イエスを太陽としてその光によって照らし出され、その光を反射する惑星として位置付けられます。私たちは自分自身が光源になることはありません。私たちは光の源ではありませんが、神は私たち人間を神の似姿に創ってくださいました。神は私たちを真の光である主イエスを映し出す惑星のように輝く存在として創ってくださったのです。私たちが神の光である救い主イエスを迎え入れて神の輝きを映し出す時、私たちは人として最も美しく輝くことに導かれるでしょう。私たちが神の光の前に曇りの無い存在となって神の御前に進み出る時、私たちは神のみ栄えのために最も役立つことが出来るでしょう。

 私たちがこの神の恵みを正面から受ける事を避けるなら、私たちは神の光を映し出して輝くことが出来なくなり、命を失う者であることをよく心に留めておきたいと思います。

 旧約聖書創世記第3章に、はじめの人間であるアダムとエバが神との約束を破って知恵の木の実を食べてしまった時の物語があります。アダムもエバも、罪を犯した自分に気付いたとき、神の顔を避けてエデンの園の木の間に隠れました。

 私たちも、もし神の御心に背を向けたりそこから隠れようとするなら、闇の中にある者、つまり御心から離れた者であり、主イエスの光を受ける事が出来なくなり、自分の居場所を確かめることも自分を見つめ直す事も出来なくなり、自分が歩むべき方向を失うことになるでしょう。

 洗礼者ヨハネは、公然と毅然と光である主イエスを指し示して証しました。私たちはこの主日に洗礼者ヨハネに促されて光である救い主イエスに心を向け、救い主イエスを真っ直ぐに迎え入れる準備が出来ているかどうかを確認するのです。

 「彼は証をするために来た。光について証をするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである(1:7)」とあるように、洗礼者ヨハネは私たちを信仰へと導きます。この導きを得て、私たちは光である主イエスによって心の隅々までを照らされて、光である主イエスによって信仰を強められ、主イエス・キリストを私たちの内に迎え入れ、感謝と喜びをもって生きる道を歩んで参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 18:00| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月11日

「主の道を整える」 マルコによる福音書第1章1~8節     降臨節第2主日 2023.12.10

「主の道を整える」  マルコによる福音書第1章1~8節      B年降臨節第2主日  2023.12.10


 降臨節第2主日の聖書日課福音書は、マルコによる福音書の始めの箇所から、救い主イエスの先駆けとして現れた洗礼者ヨハネを紹介し、救い主を迎える私たちにそれに相応しい準備をするように促しています。

 今日の聖書日課福音書から、先ず「福音」という言葉に着目してみましょう。

 私たちが何か特別に嬉しいことを経験した時、その嬉しさを他の人々に伝えて分け合いたくなります。福音記者マルコにとって救い主イエスを伝えることこそ喜びであり、その喜びのメッセージを「福音」と言います。

 マルコによる福音書は、主イエスによってもたらされた「福音」の初めはどのようであったのかということからこの福音書を始めています。

 福音記者マルコは、神の子イエス・キリストの生涯の始めに、その先駆け(道備え)として洗礼者ヨハネが現れたことを、イザヤ書40章3節の言葉を引用して紹介しています。

 「荒れ野で叫ぶ者の声する。

 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 福音記者マルコは、洗礼者ヨハネこそ荒れ野で叫ぶ声であり、その声は、直ぐ後からおいでになる救い主イエスを迎える道筋を真っ直ぐにせよと呼びかけていることを伝えています。

 福音記者マルコはここでイザヤ書の言葉の引用していますが、その意図をイザヤ書の記された時代背景を振り返って考えてみましょう。

 イザヤ書は66章から成る大きな書ですが、元々イザヤ書は時代背景の異なる3つの部分から構成されていると考えられています。その大きな区切りになるのが、イザヤ書第39章までと第40章はじめとの間です。一般的に、聖書学者たちは、イザヤ書第1章~39章までを第1イザヤの書、第40章~55章までを第2イザヤの書、それ以降を第3イザヤの書と分類しています。今日の旧約聖書日課は、第2イザヤの初めの箇所の言葉です。

 今日の聖書日課福音書の中でマルコは、第2イザヤの始めの言葉を引用しています。

 第2イザヤの時代背景には、バビロン捕囚の出来事が関わっています。

 バビロン捕囚とは、イスラエルの国が紀元前587年にバビロニア軍によって滅ぼされ、多くのユダヤ人が捕虜となって、遠く1000㎞の道のりをバビロンの地(古代よりメソポタミア文明として栄えていた地)まで連行されていった出来事です。捕囚の民は、連行されていった異国の地で発展した文明に圧倒され、自分たちの弱さと小ささを痛感します。一方、パレスチナに残されたイスラエルの民は、エルサレム神殿を破壊されて自分たちの信仰と生活の拠り所を失った上に、多くの有能な仲間を捕虜として奪われてしまい、立ち上がる気力もなくして約半世紀を過ごします。

 ところが、紀元前562年にバビロニアの王ネブカデネザルが死んだ後、バビロニア帝国は急速に衰退し、捕囚から50年近く経った紀元前539年に、新しく力を付けてきたペルシャとの戦いに敗れて滅んでしまうのです。ペルシャの王キュロスは、占領地の住民に寛容な政策をとり、バビロンで捕囚の身となっていた多くの人々にも寛大であり、捕虜たちは自分の国に戻る事を許されるのです。これによって、多くの民がバビロンから先祖の地に戻ることを許されました。捕虜になっていた多くのイスラエルの民はパレスチナに戻って来ます。それから30年あまりの時を経て紀元前516にエルサレム神殿再建が始まるのです。

 第2イザヤは、このようなバビロン捕囚時代の後期からバビロニア帝国の滅亡と解放、そしてパレスチナへの帰還という時代を生きた預言者で、イスラエルの民に神の言葉を伝え、その民に神の御心に立ち戻るように説いた預言者でした。イザヤ書第40章は、この第2イザヤの書の始まりの部分であり、バビロニア帝国の衰退とイスラエルの民の解放を見通して希望を与えた言葉者であると考えられています。

 先ほども触れたとおり、バビロン捕囚時代にユダヤ周辺に残っていた民は、国が滅び、仲間は捕虜となって遠い異国の地に連行され、神殿は破壊されて荒れ放題のまま時を過ごすうちに、神などいないと思う気持ちが芽生え、すっかり無気力になっていました。

 イザヤは、そのような民に希望を告げるのです。

 今日の旧約聖書日課のはじめの言葉イザヤ書40章1節、2節です。

 「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。

 エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ。

 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。

 罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」

 それに続けて、福音記者マルコはイザヤ書第40章3節の言葉を用いて、救い主が出現する時は間近に迫っており、主に選ばれた民は救い主によって罪の束縛から解放されることを伝えます。

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

 この言葉は元々、戦いに出ていた王が敵を破って戻ってくる前に、その勝利を告げる使者が真っ先に戻って来て、我が王の勝利を告げ知らせ、王を喜び迎える準備をするように伝える言葉であったと言われています。そしてイザヤは、そのようなイメージをイスラエルの民がバビロンでの捕囚から解放されて戻ってくる姿と重ね合わせて、人々に救い主を迎える備えをするように告げ知らせたのです。

 そして、福音記者マルコは、その言葉を用いて、救い主の到来の時は迫っておりその備えをするようにと訴えます。

 古代の人々にとって、凱旋の王を迎える準備とは、道を整えて曲がりくねったところは真っ直ぐにし、狭く通りにくい所は拡げ、凹凸のあるところは平らにして、勝利の王を喜び迎えることでした。王が戦いに出ることは、民の運命を左右します。もし戦いに出ていった王とその軍隊が敗れれば、民もろとも他の国や民族に支配されることになってしまいます。王の敗北は、その民が捕囚となってバビロンに引き立てられていったように、その民が他の民族に隷属することに繋がっていました。

 それはイザヤの時代に限ったことではなく、主イエスのお生まれになる頃の時代も同じでした。その頃、イスラエルはローマ帝国に占領されてその属領となり、イスラエルの民は重税や兵役を課せられていました。神から賜った地を占領されたイスラエルの人々の願いは、民族の政治的な独立を回復し、自分たちをローマの支配から解放する新しい救世主の出現を待ち望んでいました。

 しかし、マルコがこの福音書を通して伝えようとする福音(喜びの知らせ)は、人々に政治的な独立を与える王についてのメッセージではありませんでした。

 福音記者マルコは次の言葉で喜びの知らせを語り始めています。

 「神の子、イエス・キリストの福音の初め。」

 そして、神の子到来の先駆けとして、洗礼者ヨハネが現れた事からこの福音を説き始めます。

 人々は洗礼者ヨハネの勧めに従って、罪の赦しを得るための洗礼を受けることによって、救いへと導かれていくのです。マルコは、人々に救いをもたらす神の子は、政治的な独立を勝ち取るために働く王ではなく、人の中に食い入る罪を最終的に赦して命へと導く王であり、祭司であり、預言者であり、僕(しもべ)であることを伝えます。マルコは、そのお方を迎え入れるために、まず自分の罪を認めその汚れを洗い清めるために洗礼を受けるように勧めることから福音を説き起こします。

 福音記者マルコが私たちに訴えるその準備とは、自分が罪人であることを認めて罪を告白し、心を真っ直ぐに救い主に向けて、罪の赦しに与ることが出来るようにすることです。来たるべき救い主イエスが、罪とその結果である死を滅ぼし、私たちを愛し抜き、支え、導いてくださいます。その福音の初めは、まず私たちが心を正して救い主を迎えるために、その道筋を真っ直ぐにすることであると、福音記者マルコは私たちを促します。

 心からの喜びに満たされて主イエスをお迎えできるよう、自分を整え、心を神に向かって真っ直ぐに開き、その恵みを受けることができますように。

posted by 聖ルカ住人 at 16:54| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月03日

「目を覚ましていなさい」

「目を覚ましていなさい」 マルコによる福音書第133337     臨節第1主日 (2023.12.03)



 教会暦は新しくなり、主イエスをお迎えする準備の期節になりました。この期節に、私たちは主イエスとお会いするための準備ができているかどうかを振り返ってみましょう。そのことは、逆に言えば、私たちが主イエスに迎え入れていただくのに相応しく生きているかということでもあります。

 主イエスは、今日の聖書日課福音書の中で「目を覚ましていなさい」と言っておられます。今日の聖書日課福音書はマルコによる福音書第1333節から37節で、それほど長くはありません。その中で主イエスは「目を覚ましてる」という言葉を4度用いておられますが、実は33節の「目を覚ましていなさい」と34節、35節、36節の「目を覚ましている」は、原語のギリシャ語では違う言葉が用いられいるのです。

 3度のうち2度は命令形で「目を覚ましていなさい」と訳され、もう一つは「門番に目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」と訳される中での「目を覚ます」は原語ギリシャ語では「γρηγορeω(グレーゴレオー)」という言葉で、「油断なく注意する、覚醒している」という意味あいが強い言葉です。

一方、33節の「目を覚ましていなさい」の方は「aγρυpνeω(アグリュプネオー)眠らないでいる」という言葉です。

 主イエスは、33節で、「眠らないでいる、起きている」ということから話をはじめ、その「眠らないでいる」とは油断なく意識を覚醒している意味であることへと話を深めておられるように読み取れます。

 余談になりますが、歴史上の人物でキリスト教の歴史に深く関わる人の中に幾人かグレゴリウスという名の人がいますが、そのグレゴリウスという名前もこの「目を覚ますγρηγορeω(グレーゴレオー)」が語源になっており、その名の意味は「見張り人、監視人」とでもなるでしょう。

 主イエスはこの箇所で「目を覚ましている」ことの大切さを強調し、この箇所を読む私たちにも「目を覚ましている」ように導きを与えておられます。

 それでは、「目を覚ましている」とはどのような事なのでしょうか。

 私たちが人間らしい営みをするのは「目を覚ましている」時です。私たちは「目を覚ましている」とき、自分で自分の周りに起こっている事を認識し、自分が何を感じたり考えたりしているのかを意識する事ができます。そして、私たちはその状況に自分を関わらせていって、その状況をもっと良いものにしようと努めることも出来ます。私たちが眠っている時には、周りで起こっている事に気づく事は難しく、自分がその出来事や状況にどう感じたり考えたりしているのかを把握することも難しくなります。人が眠っている時には、他の哺乳動物との違い限りなく少ない状態にあると言えるのではないでしょうか。

 このように考えてみると、私たちが「目を覚ましている」ことは、神さまが私たちに与えてくださった「自分の命」をより良く生きるための基本であると思えてきます。「目を覚ましている」とは、「神に対して心が開かれていること」「神の御心が何であるのかということに覚醒していること」であると言えるでしょう。

 旧約聖書創世記の天地創造の物語の中で、神は人を「神の姿に似せて」お創りになったことが記されています。

 私たち人間には、他の動物に比べて「物事や状況を理解する力」があり「物事を創り出していく(創造していく)力」が際立っています。このことは、言い替えれば、人間には高い意識と生産力があるということであり、この性質は、人間が目を覚まして活動している時にこそ、はっきりと表れてくる性質です。私たち人間は、神から与えられた神の似姿としての性質を十分に生かして神の御心をこの世界に現し、他の人々と共に神の御心をこの世界に示していくことが「目を覚ましている」者の生き方であると言えるでしょう。

 今日の福音書は、「その日、その時は、誰も知らない」という言葉で始まっています。主イエスが再びはっきりとそのお姿を取って来てくださる時がいつなのかは誰も知りません。そのような状況の中で私たちは「目を覚ましている」ことを求められています。

 でも、突然起こる可能性のある大きな自然の変動やその災害に怯えながら暮らすことではありません。また、いつ起こるか分からない主イエスの再臨のために自分の生活を放棄して礼拝堂の中にこもることでもありません。私たちは神から与えられた人間としての賜物を生かし、今、私たちの世界に働いておられる神の働きに加わらせていただきながらそこに感謝と賛美を生み出していく事、いつ主イエスにお会いしても喜んで今の自分を見ていただけるように生きることこそ、目を覚ましている者の生き方に相応しいのです。

 例えそれが小さな歩みであっても、神の御心が実現するようにと祈りながら、その歩みを続けていくことが「目を覚ましている」「神に対して心を開いている」者の生き方なのです。

  私たちは、「終わりの時」という言葉にある種の恐れを感じることはないでしょうか。「終わりの時」になぜ恐れを感じるのでしょう。

 現代の豊かな社会の中で生きる人間にとって、今自分が所有している財産や立場を失いたくないという思いが、終わりの時に対する恐れにつながっていると考えられます。また、自分の過去の過ちや大切な人に対する失敗などを悔やむ思いを残していたり心の傷となっていたり、未整理、未解決のままになっているとき、突然に自分の終わりが宣言されたら、そのことに対する恐れや後悔がクローズアップされることも考えられます。今の生活を突然取り上げられてしまうことは、主なる神が無慈悲で横暴であると思うにもなるでしょう。神に対して、また、他者に対して懺悔したい思いをそのままに裁きの座に立たされることは、きっと私たち人間にとって、辛く苦しいことなのではないでしょうか。

 そのような私たちが「神に対して心を開く」のは、自分の財産や名誉を守るためではありません。私たちが主なる神の前に、他ならぬ自分としての存在を認められ、かけがえのない自分が神に愛され、受け入れられ、生かされているを感謝し、主なる神に迎えていただけることを喜び、確認するからなのです。

 「裁く」という言葉は「罰を与える」とか「懲らしめる」という意味ではなく、「選り分ける」「判断する」という意味の言葉です。

 主イエスが再び私たちの所に来て私たちを裁く目的は、私たちに怖れを感じさせたり怯えさせたりする出来事ではなく、十字架と復活によって私たちの罪を贖ってくださった主イエスの救いによって、それを信じる私たちを選り分け、受け入れ、永遠の愛の中に置いてくださることにあります。

 そうであれば、私たちは神の似姿に創られている者として、神に創られた人間らしく、神の御心に心を開き、心を向けて生きることが、「目を覚ましている」ことになるでしょう。

 身の回りの小さな事でも、また、この世界におこっている様々な事でも、主なる神の御心とはかけ離れた出来事が起こっています。それでもなお、いや、それだからこそ、私たちは自分の前の課題に一つひとつを主なる神に応えながら生きる事が「終わりの時」に備えて「目を覚まして生きる」ことにつながるのです。そして、そのように生きる時、私たちの思いを越えて働く主イエスの愛が与えられていることに気付けるのかも知れません。

 主イエスが再びおいで下さってお会いする時、主イエスは私たちをどのように決裁なさるのでしょう。私たちはいつも主イエスにお会いするときの自分を思い浮かべて、自分の今の生き方を導かれます。再びおいで下さる主イエスに自分を照らされ、今の自分のあるべき姿を問われ導かれています。

 それが、「目を覚ましていなさい」という主イエスの御言葉に従う喜びとなり、自分と神との関係を整えられながら生きることへとつながるのです。

 主イエス・キリストの御降誕を祝う準備の期節に入りました。2000年前に弟子たちをお導きになった主イエスを私たちがじぶんの心に迎え、今年の降誕日を迎える備えをし、再び来られる主イエスを迎える備えとして、日々、「目を覚まして」この降臨節を歩んで参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 18:36| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月27日

終わりの時に   マタイによる福音書25:31-46  降臨節前主日

終わりの時に   マタイによる福音書253146  降臨節前主日 2023.11.26

(2) 2023 年 11 月 26 日( A 年)降臨節前主日説教 小野寺司祭 - YouTube


 今日は、教会暦で年間最後の主日です。この主日に採りあげられている聖書日課は、旧約、使徒書、福音書ともに「終わりの時」についてであり、特に福音書は神が「全ての民を裁く時」の様子について記しています。

 「終わりの時」という事について、私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。

 今ここでの一瞬一瞬が過去のものになっていって再び戻らないのであれば、今ここに過ぎていくこの瞬間がいつも「終わりの時」であると考えられます。私たちは、目の前の一瞬一瞬を神に導かれ、「御国が来ますように」と祈る思いをもって生きていくとき、私たちはその積み重ねによって最終的に主なる神の御許に迎え入れられるのではないかと、私は思うのです。

 今日の聖書日課福音書は、マタイによる福音書253146節までの箇所が取り上げられていますが、その後の第26章に入ると、主イエスが十字架にお架かりになる記述に入ります。その意味で、今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスが弟子たちと群衆にに教えを述べた言葉が纏められている箇所であり、第23章から25章までの結びの言葉(まとめの言葉)を語っておられる箇所であると言えます。

 その箇所のまとめの言葉として、主イエスは次のように言っておられるのです。

 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

 またそれと対をなす言葉として45節でこう言っておられます。

 「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」

 羊飼いの導きに従う羊とその教えを聞こうとしない野生の山羊に例えられる人々のうち、裁きの座で左側に置かれた山羊に例えられている人々のことに目を向けてみましょう。

 彼らは44節で、「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、乾いたり、よその人であったり(旅をしたり)、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか」と言っています。この言葉の裏を返せば、彼らが「主よ、わたしたちは何時だってあなたにお仕えしてきたではありませんか」と言っているのです。山羊に例えられる人々は、自分はいつも、良いこと、正しいこと、神の御心に適うことをしてきたと思っているのです。しかし、それは律法の文言に照らして-とくに律法の細則である口伝律法に照らして-正しいことを行ってきたと言っているのです。

 彼らは、律法の言葉を正しく実行する自分を救われる者の側に置いて、それを行えない人々を見下し、自分は主なる神に認められようとしてきたのでしょう。それは、目の前にいる飢え乾いた人や宿のない人のことを、自分が正しいことを行いに表して、そのように出来ている自分を勝ち誇るための道具として飢えた人、渇いた人、旅人などを利用するような生き方だと言えます。

 彼らは、もし主なる神から「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」と言われれば、先ず自分の隣り人とは誰かを律法に照らして明らかにし、自分の隣人として愛すべきであると判断されればその人に関わることにして、その人が自分が律法を行う対象にする事が出来る人だから愛する、ということになるのです。しかしその対象外であれば、つまり徴税人や遊女をはじめ汚れた者とされる人たちに対しては、たとえ彼らが飢え渇き、旅に疲れ、裸や病気であったとしても、自分が善行を行う相手として相応しくないと決めつけて関わろうとはしない、ということなのです。彼らは、自分を高みに置くために他者を愛するのであり、愛する対象を限定し、自分の救いに役立つ相手である時にのみ、他人に関わっているのです。

 主イエスは、ご自分の目の前にいる人が、飢え、乾き、旅に疲れ、裸や病気であれば、その人が民族や血筋の飢えて愛するに相応しいかと考えるのではなく、先ず自分が痛むほどの憐れみをその人に寄せて関わってこられました。そして、主イエスが十字架に向かおうとしておられるこの時に、弟子たちに教え求めておられるのも、先ず目の前にいる隣人を自分を愛するように愛する心なのです。

 律法が愛せと言うからその範囲で自分を律法に当てはめて生きることは、神のお喜びになる生き方ではありません。主イエスは当時の律法で汚れた者とされて交わりを絶たれていた人々と交わりをもっておられますが、それば時に当時の律法の規定を犯して相手に関わる事にもなりました。主イエスはその事を口実に、ユダヤ教の指導者たちから律法を守らず神を侮辱する危険人物とされ、十字架の上に処刑されてしまうことになっていったのです。それでも主イエスは、目の前にいる飢えた人、乾いた人、旅に疲れた人、裸の人、病気の人などに関わりぬき、愛しぬき、その結果十字架に付けられ、その上からさえなお人々が神の御心に結ばれるように祈り続けてくださいました。

 主なる神は、この主イエスの愛が私たちにも向けられている事を信じ、主イエスを救い主であることを受け入れて信じる心をもって、自分が愛されているように隣人を愛することを私たちに求めておられるのです。

 自分が神に認められる事を真っ先に求めるのではなく、他の人に寄り添い、他の人を愛し、他の人に仕えるところにその人の救いがある事を、主イエスは「教え」の最後の言葉としておられます。

 私たちは、こうした教えを自分の力で全う出来る者ではありません。しかし神はそのような私たちのことを、赦し、愛していてくださっています。私たちはその愛によって生かされている喜びと感謝を受け入れることが出来る時、私たちは他の人々もまた神の赦しと愛を必要としていることを知り、神の愛がその人たちにももたらされるように祈らないわけにはいかなくなるのです。そして、貧しい人々や弱い人々に対しても、その人々に神の愛が届くようにと関わらざるを得ないのです。

 このような主イエスの生き方と教えは、イスラエル民族が神との契約である律法を守る事ことで救いに導かれると教えたユダヤ教の枠組みを越えて、世界の人々に救いと平和を与える教えとして広がってきたのです。

 もし私たちが自分が救われる事だけを考えて他の人々を善い行いをする道具のように見なすとき、それは主イエスの目から見れば、私たちは羊飼いの前で左に分けられた山羊のような存在でしかないと言えます。私たちが、自分が利益や業績を上げるためにでなはく、自分が優越感を持つためでもなく、目の前の人に関わり仕えようとする歩みを踏み出していく時、私たちは神の御心に相応しく養われ、育てられていくのではないでしょうか。そのように生きる私たちを、主なる神は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言って、祝してくださるでしょう。

 私たちは、神から「さあ、天地創造の時からあなたたちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言っていただく日を望みつつ、主イエスを通して与えられた神の愛に応えて、日々主の働きへと歩んで参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 10:59| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月20日

賜物(タラントン)を活かす  マタイによる福音書25:14-15、19-29 (A年特定27)

賜物(タラントン)を活かす  マタイによる福音書2514-1519-29  (A年特定27)    2023.11.19


 最近は、テレビなどに出演する人がタレントと呼ばれる時代になりました。タレントとは元々特別な能力、才能を意味する言葉であり、その語源をたずねれば今日の福音書に出てくるタラントンというお金の重量に発した単位にさかのぼります。

 神からプレゼントされた自分の内なる財産である色々な才能も、また外なる財産である金銭や証券また不動産も、もともとは神から与えられたものです。そのタラントンや資源を神がお創りになったこの世界をよりよい状態に管理することが神の似姿に創られた人間の働きの根拠であり、タラントンは独りで抱え込むものではなく、神の御業と栄光のために用いるべきものなのです。神がこの世界はどのような姿であることを願っておられるのかを考えて、この世界に神の御心が実現することを願って用いられてこそ初めてそのタレントは本来の意味を持ち役立つことになります。

 今の日本の状況を振り返ってみると、所得の高さや所有する財産の大きさであたかもその人間の価値まで決まるかのような感が強まっているように思います。こうしたことを念頭に置きつつ、今日の聖書日課福音書から導きを受けたいと思います。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが天の国についてお話しになった例えです。この箇所では、主人が長い旅に出かける時に、自分の僕たちにそれぞれの力に応じてタラントンを預けました。1タラントンは6000デナリオンであり、一年365日のうちの安息日52日を除くと、年間の労賃はほぼ300デナリオンということになります。一年間に300デナリオンの賃金を得るとすれば、1タラントンは6千デナリオンですから、おおざっぱに計算して1タラントンは約20年分の労賃の額であると言うことになります。

 ある主人が自分の財産を僕たちに預けて旅に出ました。僕はその力に応じて、ある者は5タラントン、ある者は2タラントン、ある者は1タラントン預けられました。かなりの日数が経って主人が戻ってきました。主人は僕たちを集めて「さあ、私が預けたタラントンをあなた方はどのように用いたのか、見せて貰おう。清算をしよう。」と言いました。

 5タラントンを預かった僕は、その5タラントンを元手に5タラントンを儲けて主人の前に10タラントンを差し出しました。2タラントン預かった僕も、その2タラントンを元手に2タラントンを儲けて4タラントンを差し出しました。主人はこの僕たちに「忠実な良い僕だ。お前は少しのものに忠実であったから多くのものを管理させよう。私と一緒に喜んでくれ。」と言いました。

 先ほどタラントンの価値について考えてみましたが、主人は5タラントンや2タラントンを「少しのもの」と言っています。これほど多額なタラントンを主人が「少しのもの」と言うのには、神がお与えくださる恵みそのものがいかに大きいかと言う福音記者マタイの思いが反映しているように思えます。このタラントンは、僕たちにとって、単に主人がいない間の生活費が与えられたのではなく、主人の良き働き人としてこのタラントンを生かすための資産を与えられた事を意味しているのです。

 1タラントン預かっていた僕は「ご主人様、あなたは厳しい人ですから、私は預かったタラントンをそのまま土の中に埋めて隠しておきました。これがそのお金です。そっくりそのままお返しします。」と言って1タラントンをそのまま主人に差し出しました。すると、主人は、「お前は怠け者の悪い僕だ。それならその1タラントンを取り上げて10タラントン持っている者に与えよう。」と言ったのでした。

 私たちは、神からそれぞれに生まれながら他の人とは取り替えることの出来ない特別なタラントン(才能、能力)を与えられています。そのタラントンは、お金や宝石ようにそのまま保管できるものではなく、「可能性」として与えられています。そのタラントンをどのように育て生かすかによって、タラントンは神の国の働きに役立つことにもなれば、ただ自分勝手な欲望を満たす道具にもなります。主イエスが弟子たちに語ったこの「タラントンの例え」は、生まれながらに与えられた自分の才能を生かして用いることを勧める例え話ではなく、神からそれぞれに与えられた恵みを感謝し、その恵みを神にお捧げすることによって天の国の姿を示すことを教えた例え話であると言えます。

 この恵みは神によって、時には人の目から見て不都合と思われることをとおしてさえ、豊かに働きます。

 二つの例を挙げてみようと思います。

 その一例として私が直ぐに思い出すのが目の見えない人が目の見える人を助けるボランティア活動のことです。

 イギリスの首都ロンドンは「霧の都」とも呼ばれ、町がしばしば濃い霧に包まれることで有名です。時には伸ばした自分の手の先が見えないほどの霧に町全体が包まれることもあります。劇場やホールでの音楽会などに人々が集まり、3時間ほどの会が終わると夜の町は冷えて濃い霧に包まれていることがあります。伸ばした自分の手さえ見えない程の霧に包まれて、人々が会場から出られなくなる時に、目の不自由な方がボランティアで活躍する例があります。普段は見えているはずの人が霧の濃い夜の町では一歩も歩くことが出来ないのですが、目の不自由な人がいわゆる健常者を自分の肩につかまらせて地下鉄の乗り場まで案内するのです。

 もう一つの例は、先日逝去されたSさんのことです。この方は、60歳になる前に脳出血で半身不随になりました。厳しいリハビリを経て職場に復帰され、健康な人であれば20分かからない通勤を片道2時間かけて勤めて社会貢献されました。Sさんのお連れ合いはSさんを「努力の人」と表現しておられ、私はその方の葬送式の説教の中でSさんの努力について次のように話しました。

 「努力すること」とは、聖書の脈絡に落とし込んで言い換えれば、「神から与えられた自分の命の賜物(神からプレゼントされた自分の命の可能性、潜在的な能力)を育み、目に見える姿にして、命の与え主である神にお応えすることである」と言えます。

 このような事例から考えてみると、神のお与えになるタラントンは多様であり、決して経済性や合理性などの一つの判断軸でタラントンを序列化して評価してはいけないことが分かるのです。そして私たちは、全てのタラントンが神の望んでおられる世界を実現するために用いられるように、招かれ、召し出され、遣わされていく者であることが分かります。

 私たちは、主なる神によって命を与えられこの世に生かされている事そのものが、神からの賜物(プレゼント)である事を確認しましょう。もし、神から与えられたその賜物を用いず、生かせず、不平や不満の中でそのタラントンを埋めてしまうとしたら、それは主なる神の目から見て、大きな損失であり、「天の国」からは離れた姿であると言えるのです。

 一人ひとりの命が神の前に輝き、人々にそれぞれに与えられているタラントンが生かされ、神の平和をつくりだす働きへと用いられるように祈り求め、お互いのタラントンが輝き出すように仕え合う教会共同体を創る思いと希望を新たにしたいと思います。

posted by 聖ルカ住人 at 05:35| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月13日

花婿キリストを迎える備え  マタイによる福音書25:1~13 

花婿キリストを迎える備え   マタイによる福音書25:1~13 (特定27) 2023.11.12


 今日の聖書日課福音書は、主イエスが「賢い5人のおとめと愚かな5人のおとめの例え」をなさった箇所です。

 この箇所が「そこで、天の国は次のように例えられる。」という言葉で始まっているとおり、ここで主イエスはご自身の十字架が迫る中で、弟子たちに「天の国」について教えておられます。

 主イエスは、マタイによる福音書第13章で、弟子たちを教育する中で「天の国」について色々な例えで(からし種やパン種に例えたり、畑に隠された宝や高価な一粒の神授などに例えて)教えておられますが、第25章では主イエスが二日後の過越祭の日になれば十字架につけられることを見通しておられる中で「天の国」について弟子たちに語っておられます。こちらは、主イエスが十字架で死んだ後に甦って天に昇り再び来られる時に成就する最終的な「天の国」について語っておられ、その時に全ての人が神の審判を受ける事になり、弟子たちはその時に訪れる「天の国」に備えるためにどのようにあるべきかを教えておられるのです。

 今日の聖書日課福音書の箇所でも主イエスは例えを用いて語っておられ、ここでの例えは「花婿を迎える10人のおとめ」の話です。この箇所から導きと養いを受けるために、当時のイスラエルにおける結婚の習慣について思い起こしておきましょう。

 イスラエルでは、通常では1年間以上の長い婚約期間を過ごし、その期間が過ぎて結婚式を行おうとするときには、花婿とその父親などの一行が花嫁を迎えに行き、両家の間の最終的な交渉の後に、花婿が花嫁を連れて行列をつくってその一行が花婿の家に戻ってきます。

 花嫁を迎えに行った花婿の一行と花嫁の親族との間の会見(交渉)とは、万が一何らかの理由で結婚が解消される場合には花婿の側から花嫁と親族に対していくら支払われるべきか等についての交渉でした。これは、私たちにとってはあまりに商取引きに過ぎる印象を受けますが、花嫁の親族にしてみれば、この金額を上げるための交渉はこの娘(花嫁)がどれほど大切な人であるのかを花婿の側に示す愛情の表現でもあったのです。

 こうした事も花婿が戻ってくるのを待つ人たちにとって、花嫁を連れた花婿の一行の到着がいつになるのか予想がつかない大きな要因であり、この例えのように、一行の到着が夜中や明け方になる事も珍しくありませんでした。そして、その一行が戻ってくると、小さな結婚の儀式の後に盛大な婚宴が催される事になり、それは通常1週間続きました。

 主イエスは、花婿が花嫁を連れて戻ってくる一行を迎える「10人のおとめ」の例え話をなさり、灯火の油を用意している賢い5人と油の用意がないために花婿の到着に応じられない愚かな5人を対比して話しておられます。主イエスは、この例え話で、弟子たちに、再びこの世に来られる主イエス(再臨のキリスト)を迎える準備の出来ている人と出来ていない人を示し、復活の後に再びおいでになる主イエスを迎える準備を日々ぬかりなく、確かにするように教えておられます。

 主イエスが再びおいでになる時がいつになるか分からないけれど、その時が何時になろうと、再臨のキリストを心を込めて迎える事ができるように、その準備を整えておくべきことを、主イエスは第2513節で「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と教えておられるのです。

 天に昇ったイエスを救い主として信じる人々は、その後次第に教会を建て上げていきますが、救い主イエスが再び来られる時を待ち望むようになり、主イエスを花婿にそして教会を花嫁に例えてその関係を理解するようになってきます。

 つまり教会は、「天に昇った主イエスは花婿であり、イエスとの婚約状態の花嫁である教会に迎えに来て下さる。主なる神は独り子イエス自身を契約の保証既に支払っておられ、花婿を信じる人々の群れを、やがて迎えに来た花婿はキリスト者の群れを天の国における花嫁にしてくださり、完全な神の家族(天の国)を完成させてくださる。だから、教会はその時を待ち望みながらこの世で花婿キリストの花嫁になる者として相応しくなり、花婿であるキリストに迎えられるにその備えをしながら、花婿の来臨を待とう」と考えたのです。

 主なる神の御心は、主イエスの生涯、十字架の死と復活、昇天によって既にハッキリと示されており、「天の国」の姿は主イエスによってハッキリとこの世界に示されています。主イエスが再びこの世界においでになる時に、この世界全体が神の御心によって支配され、花婿キリストを信じる者たちの群れはその花嫁とされ、それに相応しくない者は永遠の裁きの下に置かれると考えられたのです。

 この思想は、私たちの信仰告白の言葉である「使徒信経」や「ニケヤ信経」にも反映しており、例えばニケヤ信経で私たちは「(主は)生きた人と死んだ人を裁くために再び来られます。その国は終わることがありません。」と唱え、再びおいでくださる主イエスにお会いするに相応しくその御心に生きる事を宣言しています。

 主イエスが天にお帰りになった当初、弟子たちを始め第1世代の信仰者は「終わりの時(主イエス再臨の時)」は直ぐに来ると考えていましたが、時が経つにつれて、信仰者の中には「終わりの時」は来るのだろうかと思い始める人が出てきたり、なかなか来ない「終わりの時」に備えて生きることなど無意味ではないかと考える人も出てくるようになります。その様な時代の状況を背景にして、福音記者マタイはその時代の人々に主イエスの御言葉を思い起こさせ、「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時(つまり、この世の終わりの時であり神の御心の完成の日)を知らないのだから。」と伝えているのです。

 私たち教会に集う者(花嫁となる者)は、迎えに来る花婿キリストがいつ来ても喜びと感謝をもって迎えるための備えをしておきたいのです。

 そうであれば、わたしたちにとって「目を覚ましている事」、「油を用意している事」とは具体的に何であり、また何をする事なのでしょう。

 マタイによる福音書では、「終わりの時」の備えとして私たちがどうすべきか、またどうあるべきかを、今日の聖書日課福音書の直ぐ次の箇所(その箇所が次週と次次週の聖餐式日課福音書の箇所)で教えておられます。その箇所で主イエスは、タラントンの例えで私たちが神から与えられたそれぞれの賜物を十分に生かして生きるべき事、更にその次の段落では最も小さい者の一人に仕えることは神に仕えることになる事を教えておられるのです。この二つの箇所を見るだけで、私たちにとって信仰的に「目を覚ましている」こととはどうすべき事なのかが自ずと分かってくるでしょう。

 私たちは、それぞれの人が神から与えられた自分の人生を、自分に与えられた命の賜物(タラントン)を用いて神の御心に応えて生きることへと導かれ、また他の人もそう生きることが出来るように、小さい者や弱い者、傷ついた者や悲しむ者に仕えて生きるように促されており、そこに神の救いがあるのです。

 神は私たち信仰者だけに特別に良い太陽や水や空気を与えて下さったり、信仰者だけを金銭的に豊かにして下さるわけではありません。この世での重荷を共に担い合い、この世の生涯を終える時まで、主なる神の導きの下に自分の使命を精一杯生きることこそ「終わりの時」に備えて「目を覚まして」いる者の生き方になると言えるのです。このような緊張感の中で絶えず御心を行う事へと励まされ、全ての結果を神に委ねて、主なる神の招きに応えてその歩みを踏み出していくことこそ来臨のキリストを迎えるのに相応しい生き方であると言えるのです。

 主イエスは私たちが目を覚まし絶えず御心を行う生き方へと導かれるように、私たちを支え、励まし、促していてくださいます。

 教会の暦では、あと3週間で一年が過ぎ、主イエスがこの世に来て下さったことを感謝して祝う期節に入ります。私たちは教会の暦と重ねて「終わりの時」を思い起こし、自分の信仰生活を新たにされ、主イエスと再びお会いするための備えを喜びと希望の内に進めて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 10:10| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月06日

逝去者との交わり 聖霊降臨後第23主日 2023年11月5日

逝去者との交わり 11月5日 聖霊降臨後第23主日  主教 アンデレ大畑喜道

この日の説教原稿の掲載はありません。

posted by 聖ルカ住人 at 15:59| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年10月29日

古い契約を超越する愛 マタイによる福音書22:34~46 A年特定25 2023.10.29

古い契約を超越する愛  マタイによる福音書223446 2023.10.29

(1) 2023年10月29日聖霊降臨後第22主日 - YouTube


 私たちは、主なる神がお造りくださったこの世界の長い歴史の中で、ほんの僅かな時を生きています。この世界は私たちが生まれる遙か昔から存在し、またやがて私たちがこの世界にいなくなっても、その遙か先にまでこの世界は存在していくでしょう。そのことを思う時、自分の存在を遙かに超えて働く神に自分を覚えていただき、祝福された者でありたいという信仰が生まれます。

 ことにイスラエルの民の場合、その思いはとても強く、民族として命が繋がれていくことを大切な事と考えていました。

 イスラエルの民にはエジプトで奴隷になっていた時代があります。「自分たちがなぜ異国人に支配されて苦しまなければならないのか。先祖たちがエジプトから抜け出す事ができたのはなぜなのか」を考えると、人の力では動かせない大きな力が何かの目的をもって初めから終わりまで働いていると考えざるを得ませんでした。

 モーセの時代に、奴隷状態にあったエジプトから奇跡的に脱出したイスラエルの民は、その出来事に働いた不思議な力を「主なる神」の働きであると信じます。彼らは、幾度も神を疑い、神に背きますが、度重なる奇跡の経験を通して、自分たちは「神に選ばれた特別な民族」であると自覚するようになっていきます。

 そして、イスラエルの民は自分たちを守り導く神といつも正しい関係を保つことの必要性、重要性を思い、神から十戒を賜り、その十戒を中心とした律法の体系の中に生きるようになります。神との契約である律法をしっかり守り、神との関係を正しく保って生きることが、永遠から永遠にまでお働きになる神とつながることで、自分も永遠の命に与ることができると考えるようになっていったのでしょう。

 それがイスラエルの民にとって「神に選ばれた民」として生きるということでした。

 しかし、時代と共に、この「選民意識(自分たちは神に選ばれた者であるという自己認識)」は、神に選ばれた者の特権を享受する事に移り変わり、その枠の外にある人々を差別することにつながっていきます。

 今日の聖書日課福音書で、ファリサイ派の律法の専門家は主イエスに次のように尋ねています。

 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 ユダヤ教の先生(ラビ)によれば、律法の掟は613であり、その613のうちの365が「してはならない」という禁止命令、248が「しなければならない」という実行命令でした。禁止命令の項目数「365」が一年間を示す数字ですが、実行命令の項目数「248」は人体の骨の総数であると考えられていました。まさに人の骨格が人の体を支えているように、律の掟がイスラエル民族の骨格を支え、1年の全ての日365日をしっかりと生きることを目論んで、掟の条項がこの数になって律法が構成されていたと想像されます。

 ファリサイ派の人が主イエスに「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と質問をしていますが、その質問には35節に記されているとおり「イエスを試そう」という意図が隠されいました。

 因みに、この「試す」という言葉は、主イエスが宣教の始めに荒れ野で40日40夜断食して過ごしたときに悪魔がやってきてイエスを試そうとした場面で「試す、誘惑する」と用いられている言葉と同じ言葉であり、この場面でもファリサイ派は、イエスが答える言葉からイエスの落ち度や矛盾を探し出そうとする下心をもって主イエスに質問したのでしょう。

 この質問に対して、主イエスは、二つのことをお答えになりました。

 その一つ目は37節の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」という事、二つ目は39節の「隣人を自分のように愛しなさい。」という事であり、更に「律法全体と預言者(旧約聖書の全体)は、この二つの掟に基づいている。」と言っておられます。

 この「基づいている」という言葉は、聖書協会共同訳では「この二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている」と訳されています。この言葉は元々は「吊す、ぶら下がる」という意味であり、613の掟は皆「神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」にぶら下がっているようなイメージで捕らえてみると興味深いかと思います。

 主イエスは、神を愛する事と人を愛する事の二つが「律法全体と預言者」であると言っておられますが、この二つのことが旧約聖書全体の要である、と言っておられるのです。

 旧約の全体は、神の愛に基づいており、人が神の愛から離れてしまえば、仮に表面的には掟を完全に行っているようであっても、613の各律法の言葉は意味を失います。仮に表面では律法の文言を守っているように見えても、その行いが愛に裏打ちされていないのなら、神とあなたがたとの関係は十分ではないと、主イエスは質問してきたファリサイ派の人々を批判しておられるのです。

 主イエスと論争する律法の専門家たちは、律法を守っている自分を見せることに拘り、生き方も形式化し、上辺を装って保身を謀り、権力を保とうとしていたのです。

 主イエスは、そのようなユダヤ教の担い手たちに対して、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つの掟が神の教えであると教え、その内実を失っているユダヤ教の権力者たちを鋭く批判したのでした。

 神の愛は、民族によらず誰にでも同じように代価無く注がれています。神の愛を受け、愛をお与え下さる神を愛し、自分と同じように神に愛されている隣人を愛し、神への愛と隣人への愛を一つのこととして実行することが神の御心にお答えすることなのです。そして掟の各項目の実践は、二つの重要な掟の具体的な表現となるのです。すべてのことは律法の細かな文言に発するのではなく、全てのことが神と人々への愛に裏打ちされるべきであることを主イエスは教えておられます。

 主イエスは、こうしてすべての人が、永遠から永遠へと働く神と一つとされることを願い、人々に関わり続けてくださいました。

 このような理解に基づいて今日の聖書日課福音書の後半(41節以下)を読めば、その意味することも自ずと明らかになってきます。

 当時、イスラエルの人々は、救い主(キリスト)はダビデの末裔として現れると考えていました。でも、主イエスはご自身が単に血筋の上でダビデ家の子孫であるということに留まるお方ではありません。言葉を換えれば、福音書記者マタイは、主イエスは旧約聖書の内容(律法と預言)を身をもって完成するお方であり、血筋の上でのダビデの子孫であることを超える救い主(つまり民族の枠を超える救い主)であり、神の子であることを伝えているのです。

 福音記者マタイは、この出来事の終わりに「これには誰一人、言葉を返すことができず、その日からは、もはや敢えて質問する者はなかった」と記します。ユダヤ教の指導者、権力者たちは、イエスを殺すことへと具体的な相談を始めるのです。

 主イエスはこの火曜日の直後の木曜日の深夜に捕らえられ、十字架につけられることになります。人間の罪の極みがこの十字架に現れ出てきますが、この罪の極みに対して、主イエスは自分を殺害する人たちのことをも赦し抜き、主なる神との関係を少しも崩すことなく、救いの道を示し続けてくださいます。

 主イエスは、ご自分の十字架を通して、神を愛することと人を愛することを、身をもって示して下さいました。この出来事を目の当たりにした人は、このイエスこそ、神がその永遠の歴史の中でただ一度具体的に神の愛をこの世に示してくださったお方であったことを理解し、主イエスを救い主として受け容れ信じるようになりました。

 その信仰者の群れによって、神のみ業は語り継がれ、たとえ小さな私たちでもイエスを救い主として受け入れる者は、神の永遠の愛の働きに生かされる希望と喜びを得ているのです。

 私たちは、主イエスによって示された神と人への愛に生かされています。

 ことに今日は、ことにこの教会に関わりながら主にあって逝去された人々を覚えて、礼拝をしております。信仰に生きたこの教会の諸先輩方を思い起こして感謝すると共に、私たち一人ひとりも、神の愛に生かされ、神の愛にお応えして神と隣人を愛する信仰の共同体を造り上げていくことへと歩んで参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 23:09| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年10月23日

「神のものは神に」  マタイによる福音書22:15~21 (A年特定24)

「神のものは神に」     マタイによる福音書221521 (A年特定24)      2023.10.21

 (1) 2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日説教 小野寺司祭 - YouTube


 今日の聖書日課福音書から、マタイによる福音書第2221節の御言葉をもう一度確認してみましょう。

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 

 今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスがユダヤ教の指導者であるエルサレム神殿の祭司長や律法の専門家と激しい論争をしている中にあります。この論争を通して神殿指導者たちの問題点が明らかにされ、自分たちの罪が浮き彫りにされてきます。彼らは、自分たちにとって都合の悪い主イエスを殺すことへと動き出していきます。

 今日の聖書日課福音書の箇所では、ファリサイ派たちが、主イエスを言葉の罠にかけ、主イエスを否定し、神殿から追放しようと企んでいます。

 ファリサイ派の指導者たちは、自分たちの手下の者を主イエスの所に遣わし、こう尋ねさせたのでした。

 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」

 指導者たちがこのように尋ねさせた背景には、その当時のイスラエルにおける税金についての事情がありました。

 イスラエルの国は、当時、ローマ帝国に占領されており、ローマ皇帝に税を納めるべきかどうかということは、イスラエルの中でも各立場によって意見の異なる重要な問題だったのです。

 その当時、占領者のローマに納める税を取り立てる仕事の多くはヘロデ派の者が請け負っていました。ヘロデ王家に属する者たちは、ローマ政府に加担してその保護の元に、ヘロデ家による政治を再び起こすことを下心にして、ローマに税を納めることを良しとしていました。ヘロデ家とへロデ派は、徴税の仕事を請け負うことの引き換えにローマの保護を受け、その守りの中で入札によってできるだけ高額の税を集められる徴税人を雇い、民衆から不当に税金を取り立て、その上前を自分のものとすることが許されていました。

 一方、ファリサイ派は律法に厳格に生きることを大切にしており、ローマ皇帝を神格化する占領者に仕えることは、十戒の第一、第二に戒めに違反すると考えました。ファリサイ派はローマによるユダヤ教への介入や干渉を嫌い、納税については快く思わず、彼らはローマの手先になっているヘロデ派を憎み、両者は犬猿の仲であったのです。

 その両者が、今、イエスを追放しようと言う一点で互いに力を合わせようとしています。彼らは、手下を遣わして「ローマ皇帝に税を納めるのは律法に適っているでしょうか」と主イエスに問いかけています。

 この質問にはファリサイ派たちの下心があります。

 もし主イエスが「皇帝に税を納めてはならない」と答えたら、ヘロデ派の者はすぐにそのことをローマの役人に伝えて、イエスはローマ皇帝に背く者だと訴えて捕えさせるでしょう。逆に、主イエスが「皇帝に税を納めなさい」と言えば、ファリサイ派は主イエスのことをイスラエルを裏切り神殿を冒涜する者として批判するでしょう。

 この時、主イエスはデナリオン貨幣を持ってこさせ、彼らに「これは誰の肖像と銘か」と問い返しました。このデナリオン貨幣には月桂樹の冠をかぶった皇帝ティベリウス像が刻まれており、その裏側には「神なる皇帝」という銘があり、貨幣の中にもローマ皇帝の政治的、宗教的な権威を示していました。ファリサイ派たちは、その貨幣を用いることは像を拝むことと同じことと考え、このローマの貨幣に日常生活でも触ることを嫌っていたと伝えられています。

 このデナリオン銀貨は、当時ローマが支配する地域一帯に広く流通していましたが、イスラエルではファリサイ派や熱心党などの人々にとって、この貨幣を神殿で用いることは許さず、神殿では献げ物をする時には高額の手数料を取ってイスラエルの貨幣に両替させていたのでした。

 ファリサイ派は、主イエスに「これは誰の肖像と銘か」と問われ、「皇帝のものです」と答えました。すると、主イエスは「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。この言葉を聞くと、主イエスに詰め寄っていたファリサイ派やヘロデ派の者は、驚き、主イエスを残して立ち去っていきました。

 私たちは、この場面を、主イエスが彼らの質問に上手く身をかわした話であるかのように読んではいないでしょうか。でも、この主イエスの言葉はただそれだけの意味に留まる言葉ではないのです。

 この場面で主イエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言っておられることは、それでは「他ならぬあなたは誰のもので、誰に返されるべき者なのか」と問うておられることでもあるのです。この厳しい問いがあるからこそ、ファリサイ派もヘロデ派も、真理を脇に置いて主イエスを言葉の罠に掛けようとしてる自分を顕わにされ、主イエスの前から引き下がっていくのです。「神のものを神に返す」という事は、神の御心に自分を照らされ、謙遜に自分を振り返り、自分中心に生きる自分を砕かれて、自分を通して神の御心が現れ出るように、そのために自分を用いていただこうとすることによって、初めて可能になるのです。

 それでは私たちはどうでしょう。私たちは誰に返されるべきでしょう。

 私たちの祈祷書の、「洗礼式」を思い起こしましょう。私たちは、水と霊による生まれ変わりの洗礼を受け、その後に額に十字のしるしを刻まれます。つまり、私たちはキリストのお姿を身に受けているのです。日本聖公会の礼拝では、洗礼式の時に父と子と聖霊の御名による「水の洗い」の後に、次の言葉によって額に十字のしるしを受ける儀式が続きます。

 「あなたに十字架の形を記します。これはキリストのしるし、あなたが神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、罪とこの世の悪の力に向かって戦うことを表します」。

 私たちは、神のものであり神に捧げられる者です。

 ローマの貨幣に限らず、各国のコインにはその国を象徴的に示す人物の像と銘が刻まれており、例え道ばたに落ちだコインでもその像と銘にによってどこの国のコインであるか分かります。同じように私たちは一人ひとりが父と子と聖霊の御名が刻まれ、十字の像を見に帯でいます。

 そのような存在である私たちは、主イエスの御言葉によって、自分の生き様を照らされて、神の愛の中で神の御心に立ち返るよう導かれています。そのようにして私たちは私たち自身が「聖霊を宿す神の宮」となるように育まれていくのです。

 私たちは、今日の聖書日課福音書から、一人ひとりは、誰もが自分の人生は他ならぬ自分のものであると同時に、神に選ばれ神に献げられて、神に用いられる器であることを教えられています。

 十字架の徴を刻まれた私たちは、神に属する者であり、その自分を神の御心を現す器として用いていただけますように。

posted by 聖ルカ住人 at 10:25| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする