2024年12月08日

主の道を整える   ルカによる福音書第3章1~6節

主の道を整える   ルカによる福音書第3章1~6節      降臨節第2主日   2024.12.08

(39) 2024年12月8日 - YouTube この日の説教動画 


 主イエスの御降誕を待ち望む期節(降臨節)の二つ目の主日になりました。

 今日の主日の主題は「主の道を整える」ことであり、特祷も聖書日課は旧約、使徒書、福音書とも、主の道を備えることに触れられています。

 現在、私たちの聖餐式で拝読される聖書日課は3年周期になっており、降臨節から来年の11月の末まで、今年はC年の日課を用いる年です。C年の聖餐式聖書日課では、ルカによる福音書を中心に学び導きを受けることになりますが、降臨節第2主日の福音書の箇所は洗礼者ヨハネが荒れ野で罪の赦しを得させるための洗礼を受けるように人々に宣べ伝えた箇所がとり上げられています。

 洗礼者ヨハネは「主の道を備えよ、その道筋を整えよ」と大声で人々に訴えました。その頃、世の中は救い主の到来を待ち望む気運が高まっていました。人々の中には、こうして叫ぶ洗礼者ヨハネのことを、この人が待ち望んでいた救い主ではないか、と考える人もいました。でも、ヨハネは間もなく現れるであろう救い主にお会いするために、人々にそれに相応しく準備するように訴え、救い主を指し示す者として徹しています。

 このことについては、マタイ、マルコ、ルカの3福音書とも同じ観点で記されていますが、今日の聖書日課福音書の箇所を他の福音書を比較してみると、ルカによる福音書の特長がはっきりしてきます。

 その特長の一つは、ルカによる福音書は、第31,2節に見られるように、洗礼者ヨハネの出現を、世界の歴史とその中でのユダヤの歴史の中にしっかりと位置付けているということです。それは、世界の歴史の中で事実として起こった出来事である事を伝えるだけでなく、洗礼者ヨハネが先駆けとなって指し示す救い主が世界史の中でどのような意味を持つのかということに関わるその時代設定をはっきりさせている、定位させているということです。

 もう一つ、ルカによる福音書のこの箇所の特長を挙げれば、マタイ、マルコ、ルカの3福音書はどれも旧約聖書イザヤ書第40章3節の言葉を引用して洗礼者ヨハネの働きを説明していますが、ルカによる福音書はイザヤ書第40章3節だけでなく3節から5節までを引用しているということです。

 マタイとマルコはイザヤ書の「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」までを引用していますが、福音書ルカはそれ以降の「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人はみな神の救いを仰ぎ見る」までを引用しています。

 福音記者ルカが、このようにイザヤ書の引用部分を他の福音書よりも長く用いているのには、その意図があります。

 それはマタイもマルコも、この場面設定の中で、洗礼者ヨハネに「主の道を整える」ことを訴える役割を取らせているのに対して、ルカはそれ以上のことを伝えようとしていることが想像できます。つまり、マタイとマルコは「主にお会いするために相応しい道を整えよ」と伝えているのに対して、ルカはそれだけでなく「そうすれば主自らがあなたの道を整えてくださる」ということを読者である私たちに伝えようとしている、ということです。

 「道」という言葉は、色々な意味を含んでいます。ヨハネによる福音書では、主イエスが「私は道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)」と言っておられます。「道」は単に人や車が行き交う「道路」を意味するだけではなく、しばしば、目的、生き方、教義、方向性などを意味して用いられます。それは、旧約聖書でも新約聖書でも、人の生き方、或いは人が人として踏み外せない目標への歩みや方向性などを意味して用いられています。そして、今日の主日のテーマである「主の道を整える」ことも、私たちの心の内に主ご自身をお迎えする思いをもって、その思いを真っ直ぐに主なる神に向けるべきことを意味していると言えるでしょう。

 この「道」は、私たちが主なる神と出会う道です。洗礼者ヨハネや預言者たちを通して語られてきた言葉が私たちの現実とぶつかり合って、そこから私たちが更に深く主なる神にを迎え入れるための道です。

 教会は昔から聖書の言葉を前にして祈り、静想することを大切にしてきました。それは自分の中に「主の道を備え、整え」、主の御言葉によって自分が導かれるようになるための大切な方法でした。

 もっと身近な事例を挙げるとすれば、私がかつてある教会に招かれて聖餐式の司式と説教の奉仕をした時のことです。その教会では主日の礼拝が終わると、礼拝に出席した殆どの人が聖堂脇の小さな集会室に移って、ささやかな「お茶の会」になります。その教会の「お茶の会」は、礼拝出席者が教役者を囲み、その日に受けた聖書箇所の内容や説教についての思いを語り合い聞き合う事が自然に行われていました。そこには、御言葉が大切にされ、自分が御言葉によって養われるために「主の道を整える」習慣が身に付いた素敵な会衆があり、聖書を中心にした良い交わりが持てている教会の姿に感服したことがありました。こうした交わりの助けを得て、信仰者はいっそう主の道を整え、この主の道を通って私たちは主に向かい、また、私たちを現状から御国へを導き出していただくことになるのでしょう。

 聖書の言葉が私たちを養い導きます。そのみ言葉をしっかりと心に受ける事が「主の道」を整えることにつながります。

 ヤコブの手紙第4章4節に次の言葉があります。

 「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」

 主の道を備えることは、私たちが主なる神に近づくための道を備えることであり、それは取りも直さず神が私たちに近づいて来てくださるのです。

 私たちは、御子イエス・キリストを迎える「道」を自分の内に整えたいと思います。

 一方、こうした教会の姿の対極にあるような、主の道の備えのない姿を、旧約の預言者アモスが次のように預言していることを思い起こしてみたいのです。

 「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。

 私は地に飢えを送る。

 それは、パンの飢えでも水の乾きでもなく、

 主の言葉を聞くことへの飢え渇きなのだ(アモス8:11)。」

 この「飢えと渇き」は、パンや水の飢え乾きのように直接身体的に自覚される飢え渇きではなく、それは自覚されないままに暴力や次元の低い快楽などの代用物に魂を奪われ、自分が飢え乾いていても御言葉そのものを慕い求めることのできない「魂の飢餓」(魂の栄養失調)です。

 こうしたことを踏まえると、福音記者ルカがイザヤ書第40章の言葉を引用している意図が見えてきます。

 私たちが自ら主の道を整えることで、主ご自身が私たちに近づいてくださり、イザヤの言葉のとおり「人は皆神の救いを仰ぎ見る」ことへと導かれるのです。

 洗礼者ヨハネが活動を始め、それが荒れ野で「主に道を備えよ」という意味の働きであったことは、私たちに対して、救い主と出会い救い主を迎えることへの促しとなり、人を生きる基本へと立ち返らせる促しになります。

 主イエスがお生まれになる頃のイスラエルは、政治的にはローマ帝国に占領され、民の中には神の国イスラエルを政治的に独立させることこそ解放であると考えて、武力による反抗を企て、テロに走る人々もいた時代です。そのような時代に洗礼者ヨハネは告げました。

 「救い主は近い。あなたの中に主の道を整えよ、あなたが主と出会う道筋をまっすぐにせよ。そうする者には主ご自身があなたを導く道を整えてくださり、救い主があなたをお導き下さる。」

 教会暦の降臨節は、私たちが一人ひとりが、洗礼者ヨハネの促しに応えつつ、御子イエス・キリストを迎え入れる準備をする期節です。小さなお姿で貧しくこの世界にお出で下さった主イエスを迎えるために、私たちは自分の心の内に「主に道」をしっかりと整え、救い主にお会いする喜びへと導かれますように。この降臨節に、主なる神のみ言葉に整えられ、導かれ、救い主を迎える備えを進めることが出来ますように。
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2024年12月05日

「人の子」とお会いする  ルカによる福音書第21章25~31節  降臨節第1主日

「人の子」とお会いする     ルカによる福音書第21章25~31節  降臨節第1主日   2024.12.01


 教会暦は年が改まりました。降臨節第1主日に与えられている聖書日課は、旧約聖書、使徒書、福音書ともに「終わりの時」について記しています。
 私たちは、日々、ニケヤ信経や使徒信経によって信仰の告白をしていますが、その中で天に昇った主イエスが再び「生きている人と死んだ人とをさばくために来られます」と唱えます。また、今日の福音書の中にも、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを人々は見る」と記しています。
 始めに「人の子」という言葉に触れておきたいと思います。
 「人の子」とは、「アダムの子」つまり「神に創られた人間の子」を意味して用いられる場合と、特別に「神の国における権能を授けられた者」のという別の意味で用いらる言葉であり、今日の聖書日課福音書の箇所では、主イエスが「人の子」という言葉を用いてご自身が「神の子、救い主、裁き主」であることを含みつつ用いられています。
 新約聖書は、どの書も主イエスの死と復活と昇天の後に救い主イエスを証して記されており、天に昇った救い主イエスは最終的に神の御心が完成する時に再びおいでになるという考えがあます。この考えを教会は古くから「キリストの再臨」と言い、キリスト教の教理や思想が体系化する上での一つの大切な要素になりました。救い主イエスが再び雲に乗ってこの世に来るという考えは、科学的に証明されることが正しいことと考える時代の世界観による理解とは異なり、現代にはなかなか受け入れられなくなり誤解される事も多くなっています。また、キリスト教から派生した宗教団体や色々な宗教の思想を寄せ集めて教義とする宗教団体の中には、聖書の教える「終わりの時」を本来の考えとは違う意味で教え、人々の不安を煽ったり、「終わりの時」の日時までをほのめかしてその異端の教理に従うように誘う人たちがいます。
 そうした状況の中で、私たちは聖書が告げている「終わりの時」についてどう考え、どのような態度でいるべきなのでしょうか。また私たちはどのように「終わりの時」に備えるべきなのでしょうか。
 今から2千年近く前の中東やヨーロッパの人々の世界観を簡単に思い起こしてみましょう。
 現代のように実験で証明する科学の世界観と違い、当時の人々は天地の動きも含めて世界の全てが神の支配下にあると考えました。天地の変動も神の御手の業であり、自然の動きも神の意思の表れと考えられ、その大きな変動は神が何か特別なことを起こすことに連動すること考えられました。ことに当時のユダヤ人にとって大きな地震や火山の噴火などの現象は人の子(つまり裁き主)来臨の前兆とも理解されていました。そのため、ことに占星術などを行う学者たちの中には、最終的な審判の開始が告げられる前触れと理解する者もいたのです。
 今日の聖書日課福音書の中でも、第21章25節から27節にかけて、主イエスは当時のそのような世界観を前提にしてお話しになっている様子が伺えます。
 そのような世界観の中にあれば、日頃神の御心から離れている人々にとっての天変地異は、神からの裁きとして我が身を振り返らざるを得ない出来事になったのではないでしょうか。当時の人々が本当に恐れていたのは天変地異そのものといより、その現象と共に起こる「人の子の来臨」であり「神の審判」であったことが想像されます。そうであれば、「諸国の民」(21:25)や「人々」(21:26)にとって、人の子の到来は恐ろしい出来事と思われたことでしょう。もしその時が来たら、多くの人々は怯えて人の子から顔をそらし、為す術もなく地にひれ伏すほか無かったのかもしれません。
 しかし、主イエスはこう言っておられます。
 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ(21:18)。」
 イエスを救い主と信じない人々にとって、最終的な裁きは不安であり恐怖でさえあるでしょう。でも、イエスを救い主として受け入れ信じて生きる人々にとって、最終的に神の御前に立つことは不安や恐怖ではなく、自分の大切な人に迎え入れてもらえることにも似て、いやそれ以上に、神に受け入れられる喜びであり、救いに導かれることなのです。
 今日の聖書日課福音書の箇所を更に先まで読んでいくと、主イエスは第21章34節で次のように言っておられます。
 「放縦や深酒の生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなた方を襲うことになる。」
 今から2千年前にも、罪の中にあって心に不安や恐れを抱えたまま生活を乱し、酒に溺れ、生きる意欲を失う人がいたようです。でも、主イエスを救い主として受け入れて信じる人々には、人の子の来臨は全てを赦されて解放される時になるのだから、その時のために安心して自分の成すべき勤めを行う希望になるのです。人の子の来臨がいつであれ、その時にそのままの自分が人の子の前に進み出れば、私たちはしっかりと神の御許に受け入れていただけるのです。そうであれば、私たちはいつ「人の子」にお会いしても良いのであり、日々神の御心に応えて誠実に生きているのであれば、私たちはやがて神の御許に迎えられる希望と喜びの中で生きていくことができるのです。
 パウロはテサロニケの信徒への手紙Ⅰ第5章1節以下の箇所で次のように言っています。
 「兄弟たち、その時と時期についてはあなたがたに書き記す必要はありません。盗人が夜やってくるように、主の日は来ると言うことを、あなたがた自身よく知っているからです。」
 主イエス・キリストが再び来られる日を私たち人間の側で、何時、どのように、などと決めてはならないし、決める事など出来ません。なぜなら、神のなさることを人が出来るかのように思い上がったり、神に生かされている私たちが勝手に主の再臨の時が何時か等と決めつけることは、私たち人間の考えの中に神の働きを閉じこめて神の働きを人間の考えの中に留めようとする傲慢に他ならないことだからです。
 もし私たちに、救い主イエスがの来臨の時がいつなのかが分かったとして、私たちがその時だけのために自分の体裁を整えるのであれば、それはあまりに不誠実であり、そのようにして繕わなければならない自分であることを神と周囲の人々に示していることに他なりません。
 主イエスが再びおいで下さることを待ち望む人は、何時その時を迎えるのか分からない中で、目の前のこと一つひとつを大切にして、何時主イエスにお会いしても良いように悔いのないように生きているはずです。仮に人生の半ばで自分の命が絶えるような時が来たとしても、本当に主の来臨を待ち望んでいる人であれば、与えられた自分の人生の限界の中で、常に自分らしく精一杯生きる事を通して神の御心を現して生きていこうとすることでしょう。
 その意味で、「神の国が近づいている」こととは、神の御心によって私たち一人一人の生き方を問い返されつつ、神に応えて生きることに深くつながっているのです。
 神の光に照らされる私たちは、その時に私たちは神の愛と赦しがなければ、罪と過ちだらけの自分がクッキリと照らし出されて耐えることが出来なくなることでしょう。でも、そのような自分であっても、私たちは既に主イエスによって罪の赦しを与えられ、私たちは神の完全な愛によって受け入れられています。
主イエスを救い主として受け入れ信じる私たちには、裁き主なる神とお会いすることは恐れではなく既に喜びに変えられています。
 神の永遠のお働きの中で、私たちは誰もが取るに足りない小さな存在ではありますが、一人ひとりが神に愛され、赦されて、終わりの時に救い主イエスとお会いすることに向かって生きています。そのように生きるとき、私たちを再び来られる主イエスとお会いすることは恐れではなく、希望であり、喜びであり、その希望と喜びはこの世に生きることに避けられない多くの苦しみや悲しみの時を短くしてくれると主イエスは教えてくださいました。
 主イエスは私たちをを滅ぼすためではなく生かすために、貧しいお姿で生まれ、十字架にお架かりになり、死んで葬られ、復活し、天に昇られました。そして私たちを神の御心が完成した世界へと招くために再び来られることを私たちは信じています。
 降臨節に入りました。私たちは、今から二千年前に私たちのためにお生まれになった主イエスに思いを向けると同時に、再びおいでになる主イエスを迎える備えしつつ、今年も御子のご降誕を記念する日を共に感謝して迎えることができますように。
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2024年11月26日

「王であるキリスト」  ヨハネによる福音書18:31-37 (B年特定29)

「王であるキリスト」  ヨハネによる福音書183137 降臨節前主日 B年特定29   2024.11.24


(当日の動画)2024年11月24日 降臨節前主日 説教 小野寺達司祭


 今日は、教会暦では降臨節前主日であり、年間最後の主日です。この主日は「王であるキリストの主日」とされています。

 今日の特祷にもこの主日の意図がよく表現されています。私たちは、この主日の特祷で、この世に生きる全ての人が「王であるキリスト」によってあらゆる捕らわれ解放されまた一つとされることを願って祈りました。

 この主日のテーマ「主イエスが王である」ということから、自分を振り返ってみると、私たちは今の時代の中で本当に王とすべきお方を王とし、人がこの世に生かされている意味を深く求めて生きているのだろうかと考えないわけにはいかなくなります。私たちは何を一番大切にしているのか、何を、誰を最後の(究極の)判断基準にしているのか、つまり王としているのかを振り返り、真理の王である主イエスによって生かされる恵みを覚えたいと思います。

 こうしたことを念頭に置きつつ、今日の聖書日課福音書から導きを受けたいと思います。

 今日の聖書日課福音書の箇所は、私にとってなかなか理解しにくい内容でした。個人訳を含めた6種類の日本語訳聖書でこの箇所を読み比べ、この場面の主イエスとピラトのやりとりを読み解くことを試みてみました。

 この場面は、主イエスがローマ総督ピラトから尋問されており、このピラトとイエスのやりとりが、主イエスを十字架に向かわせるのか回避させるのかの極めて緊張した場面です。

 この箇所の少し前の場面から、今日の福音書の脈絡を振り返ってみます。

 お手元の聖書を開いて、ヨハネによる福音書第1829節からの箇所をご覧になってください。

 ユダヤ教指導者たちは、イスカリオテのユダの裏切りによって、夜の闇の中でイエスを捕縛し、先ずイエスを大祭司カイアファのしゅうとであるアンナスの所へ連行し取り調べました。彼らはその後直ちに主イエスを大祭司カイアファのもとに送ります。主イエスは大祭司カイアイファのもとでも縛られたまま尋問されますが、イエスを処刑することしか念頭にないユダヤ教指導者たちは時を置かずにイエスを神殿に隣接する総督ピラトの官邸に連れて行きました。夜が明けようとしています。

 ユダヤ教の指導者たちは、官邸の入り口までピラトを呼びつけました。彼らは異邦人との交わりは汚れを受ける事であり、とりわけ過越祭が始まろうとする時に、異邦人の館に入って汚れることを避け、総督官邸の前にピラトを呼び出し、イエスを引き渡して、死刑にするための取り調べを求めたのでした。

 ピラトは彼らの強引で無礼なやり方に腹を立てながら官邸の門まで出てきて、ユダヤ教の指導者たちに問いかけます。

 「この男のことで、あなたたちはどんな訴えを起こすのか(18:29)。」

 この時、ピラトは既に文書で訴状を受け、それを読んでいたはずです。ピラトは、「これはあなたたちユダヤ人の問題だから、あなたたちの律法と言い伝えの決め事で裁けば良いだろう。」と思っていたことでしょう。

 ユダヤの指導者たちは、ピラトに言い返して「この男(イエス)が悪事を働いたからあなたの所に彼を引き渡しに来たのだ。そうでなければ、引き渡したりはしない。」とイエスを押し付けるよう応じます。

 今日の聖書日課福音書の箇所は、ここから始まっています。

 ピラトは、第1831節で、ユダヤ指導者に「あなたがたがイエスを引き取って、あなたがたの律法に従って裁くがよい。」と言いますが、彼らは自分たちには政治犯を裁く権限はないと言って、ローマ総督ピラトによるイエス死刑の判決を下すことを求めるのです。

 ピラトは、過越祭が始まろうとする日に官邸前で騒動を起こされることを望まず、イエスを官邸の中に入れて、形ばかりの取り調べをした上で、この男(イエス)を釈放しようと想像されます。

 ピラトの尋問とイエスの応答が始まります。

 ピラトはイエスに「お前はユダヤ人の王なのか(33)。」と尋ねました。

 もし、イエスが自分はユダヤ人の王であると認めれば、ピラトはイエスをローマに対する政治犯として十字架刑にことができます。そうでなければ、ピラトには取り調べるまでも無いユダヤ教分派の教師の一人に過ぎませんでした。

 イエスは「あなたは自分の考えでそう言うのか。それとも他の者が私にそう言うので尋ねているのか(34)。」と応じます。主イエスのこの答えは「あなたは何を根拠にその質問をするのか。」ということであり、ピラトの態度、立ち位置、生き方を問う質問でした。

 ピラトは35節で、「私はそのようなことを問題にして議論するあなたたちのようなユダヤ人ではない。お前と同じ民族の人たちとその祭司長たちがお前を私に引き渡したから、こうして取り調べをしているのだ。このようにお前と同じユダヤ人から訴えられるからには、お前は何をやったのか。」と問うのです。

 イエスはその質問に直接答えるのではなく、33節の「お前はユダヤ人の王なのか」というピラトの問いに答えます。

 「例え私が王であったとしても、私の国はこの世のものではない。私がこの世の王なら、私の部下が私をユダヤ人に引き渡さないように、私のために戦ったであろう。実際、私の国はこの世の国ではない。」

 ピラトは、37節で言います。「それではあなたは王であることには違いないのだな。」

 イエスは答えます。「私が王だとあなたが言っている(あなたが言うとおり私は王だ。確かに私は王だ。)」

 イエスは、自分が王であることを認めます。しかし、自分は一定の領地(国土)をもって君臨しその民を支配するこの世の王ではなく、真理に属し、真理を伝えるための王であることを、次のように訴えます。

 「私は真理について証しをするために生まれ、真理を証するめに世に来た。真理から出た者(真理に属する者)は皆、羊が飼い主の声を聞き分けるように、私の声を聞き分けるのだ。私の民は、私の語ることを聞いて理解するのだ。」

 今日の聖書日課福音書はここまでですが、38節は、ピラトがイエスに「真理とは何か」と問う言葉が続きます。

 主イエスとピラトのやりとりは、イエスが真理に基づく王であることを告げて終わり、ピラトは官邸門前のユダヤ人のところに出て行って「私はあの男に何の罪も見出せない(18:38)。」と告げています。

 この世の王が、政治的、社会的に民を支配し、君臨することにのみ関心を持つのであれば、真理を証されても理解できないのです。そして、ローマ総督ピラトはユダヤ教指導者たちの所に行って「私はあの男に何の罪も見出さない。」としか言えませんでした。

 夜が明けています。

 イスラエルの人々はユダヤ教指導者たちに煽動されて勢いに乗り、イエスを十字架に付けろと叫び始めることになります。こうして、ローマの総督ピラトもイスラエルの指導者たちも民衆も、真理に基ずかないで、イエスを十字架に押し上げることになります。

 私たちは、この主日の主題である「王であるキリスト」に感謝して生きる者であるのなら、私たちは、何を、誰を、自分の王として生きているのかをもう一度新たに思い起こしたいと思います。

 主イエスは「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と言っておられます。

 「真理(aληθeιaアレーセイア)」という言葉で「曲げない、飾らない、不純なものを混ぜない」という意味から発生しています。私たちは、私物を数多く所有し経済的に豊かであることや他者を支配する原理を真理と取り違えて、かえって真理を見る目を眩まされてしまったり曇らされてしまっているのかもしれません。

 私たちは科学的に証明できることや自分にとって都合よく心地よくすることが真理を生きることであるかのように錯覚し、かえって真理を見る目が曇ってしまうことはないでしょうか。総督ピラトもユダヤ教の大祭司たちや律法学者対も、真理に生きるよりイエスを厄介払いすることに腐心して、真理に目を向けていません。

 目利きの宝石商人は「ダイヤモンドの本物と贋物を区別して、本物の質の高いダイヤモンドを見抜くためにはどうしたらいいですか」と尋ねられると、決まって「自分の目で本物を宝石を沢山見て、自分の眼力を養うことです」と答えます。それと同じように、私たちは救い主イエスご自身がお示しになる「真理」を受け容れることによって、真理と真理でない物事とを見分け区別することが出来るようになり、神から与えられたそれぞれの命の大切さを真理の現れと受け止め、お互いに豊かに育み合えるように生かされています。

 主イエスは、「私は道であり真理であり命である(14:6)」と言っておられます。主イエスは、本物の最高級の宝石にも喩えられる真理を示し、救いをこの世界にお与えくださいました。その生涯は、ご自身を十字架の上に渡すことにつながっていきまが、悲惨で、酷く、不当な十字架刑を受けながらも、そのイエスに真理があることを身をもって示してくださいました。

 そして、私たちがこの真理を受け容れこの真理によって一人一人が罪から解放され、自由にされるように導いてくださいました。ここに主イエスが人々のために献げてくださった天の国の王の姿があるのです。

 私たちは、主イエスがご自身をかけて身をもって証してくださったった真理を大切にしながら、教会としても成長していきたいのです。教会は真理である主イエスを土台として建て上げられています。もし、この真理を疎かにすれば、私たちの教会も目先の損得や様々な感情に振り回されて、キリストの香りなど全く感じられない集団に成り下がってしまうでしょう。

 教会の暦ではこの1週間で一年を終わろうとしています。命と真理の源である主イエスの守りと導きによって生かされていることを覚え、イエス・キリストを私たちの中に深くお迎えする備えを進めて参りましょう。

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2024年11月25日

「終わりの時を生きる」 マルコ13:14-23(B年特定28)  

「終末の時を生きる」 マルコ131423(B年特定28)     2024.11.17

 今日の聖書日課福音書はマルコによる福音書第13章14節以下の箇所であり、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、-読者は悟れ-その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」という言葉から始まっています。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」という謎めいた言い方は、旧約聖書ダニエル書の1211節の「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている」という言葉に関連しており、これは当時のある出来事が反映してると考えられています。

 イスラエルの民は、神殿で献げ物をすることをとても大切な信仰表現にしていましたが、その聖なる務めが「憎むべき荒廃をもたらすもの」によって侮辱される出来事がありました。それは、紀元前167年のことです。その当時ユダヤを支配していたのはシリア王アンティオコス4世エピファネスは、ユダヤ教の根絶を狙い、エルサレム神殿の祭壇にギリシャの神ゼウス像を据えたのでした。そのような行為が、イスラエルの民にとって、どれほどの怒りや憤懣をもたらすことになるか、それは私たちの想像を越えることでした。そのような行為は、主なる神への最大の冒瀆であり、神の民を自負するイスラエルに与える侮辱の極みでした。この時にシリアの王の政策に従わなかった多くのイスラエルの民は酷い拷問の末に殺されていますが、当時の文書は「この殉教者たちは律法に従い続けて雄々しく死んでいった」と伝えています。

 イスラエルの民はこの出来事をきっかけに反乱を起こします。マカベヤのユダを指導者として団結したイスラエルの民は、シリアを打ち破って400年ぶりに自分たちの国の独立を獲得し、いわゆるマカベヤ王朝が成立したのです。それは、紀元前164年のことでした。

 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」とは、このシリアの王アンティオコス4世による神殿冒瀆の出来事のことを背景にしていると考えられています。そして、今日の聖書日課福音書では、イスラエルの民のこの記憶と重ね合わせながら、「終わりの時」という考えの中で、来たるべきその終末にどのように備えるべきかについて、またその時に民を襲うであろう多くの苦難の中でどう生きるべきかにつて、主イエスが教えておられるのです。

 主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤからエルサレムにやって来ました。辺鄙なガリラヤ出身の弟子たちは、神殿の豪華さに圧倒されたことでしょう。

 主イエスは、あの神殿でユダヤ教の指導者たちと激しい論争をしましたが、弟子たちと共に神殿を後にして、オリーブ山のあたりにまで来ています。そこからエルサレムの丘に映える神殿を見て、弟子たちは再び感嘆の声をあげたことでしょう。

 主イエスの時代の神殿は、かつてマカベア朝ユダの時代に一度は独立を回復し、「憎むべき破壊者」を追い出した神殿です。しかし、イスラエルはその後紀元前63年にローマに侵略されて、また独立を失ってしまいます。そしてその時に壊された神殿はヘロデ王の時に修復が始まりました。その神殿が谷をはさんで夕日に映えています。主イエスは、あの神殿も崩壊する時が来るけれど、神の言葉は永遠に残ることをお教えになるのです。

 イスラエルの民は、出エジプトの出来事やバビロン捕囚からの解放を経験しました。また、マカベヤのユダによる独立回復などを通して、イスラエルの中には、自分たちの思いや力を超えた主なる神が歴史を動かし、自分たちを守り、その偉大な力によって生かされていることを感じ、そのように信じるようになります。

 主イエスの時代、イスラエルはローマの国に占領されて、その属領になっていました。民衆や指導的立場にいる人の中には、「あのエジプトからの解放のように、あのバビロンニアからの解放のように、あるいはマカベアのユダの時のように、主なる神が私たちの歴史に介入して来られ、私たちを救って下さる時が来る」と考え、教える者も少なくなかったのです。

 大国に占領された弱小国イスラエルの民がどんなに自分の力を頼りにしようとしても、武力や財力ではローマのような大国にはとてもかないません。イスラエルの民の中に次第に大きくなる考えは「主なる神は、このように抑圧されている私たちを解放し、御心から離れた古い世界をご自身の手で滅ぼす時が来る。その破壊に伴う大きな苦難の後で、神はご自身の計画を完成しさせて終わりの時がくる」という「終末思想」だったのです。

 そのような時代には、「偽預言者」や「偽キリスト」が現われて、混乱や不安な状況がうまれ、正しい人も迫害や弾圧を受けるが、その後に主なる神が御心によってこの世界を完成させるときが来ると考えられたのです。

 このような時代状況を念頭に置いて、マルコによる福音書第13章を見渡してみると、この箇所で主イエスが何を伝えようとしているのかが少し見えてくるのではないでしょうか。

 今日の聖書日課福音書の箇所に続けて、主イエスは、信仰者が受ける大きな苦難の中にも救い主は働いて下さること、その時のしるしを見逃す事のないようにいつも目を覚ましているように教えておられます。

 イスラエルの民は、その歴史を通して「自分たちは神に選ばれた尊い民である」という自覚を深めています。その自己認識そのものは、信仰を維持し更に強くする上でとても大切です。しかしその一方で、その自己認識はファイリサイ派の律法学者にも見られるように、その自尊心が異国人や律法の枠に入れない人々を差別し、神の具体的な働きを見る目を曇らせることになります。

 一方、主イエスを救い主と信じる人々の間では、天変地異を伴う「終末」がなかなか来ないことから、この「終末」を信仰者一人ひとりが裁きの座の前に立って信仰の有り様を問われる時として考える人々が出てくるのです。

 「終末(終わりの時)」とは、未来のいつかの時点に想定して考える一方で、どこか遠い未来の一点のことではなく、主イエスによって「今もたらされている」とも考えられるようになるのです。

 つまり、私たちは今も「終わりの時」が既に主イエスによってもたらされている緊張感と、更に、主イエスが再びこの世においでになることで神のお働きを最終的に完成させてくださるという希望との中に生かされていると考えるのです。私たちは神ご自身が御心のうちに備えてくださる一瞬一瞬の時を神にお応えすることを繰り返しつつ生きています。私たちは、その一瞬一瞬の時を「終わりの時」と捕らえて、絶えず神の御心にお応えして導かれながら生きる者なのです。

 私たちが用いている『祈祷書』の聖餐式聖別祷〔Ⅱ〕では、「あなたはこの終わりの時に、み子を救い主、贖い主、またみ旨の使者としてこの世にお遣わしになりました。」(p.177)と祈ります。この「終わりの時」とは例えば地球が破滅する時というような意味ではなく、主イエスによって神のお働きが成し遂げられた時という意味であり、私たちはその完成者である主イエスにこの聖餐を通してお会いする時を意味しています。

 私たちは、二度と帰らないこの時の一瞬一瞬を主イエスが共にいて下さる中で生かされています。私たちの目の前の出来事が神に与えられた出来事であり、私たちは神への応答として今を生きていく者です。それが「終末(終わりの時)を生きる」と言うことにつながるのです。

 そうであれば、終わりの時に出現する「憎むべき破壊者」とは、「聖霊の宮」であるはずの私たちの心の中心に「異教の神」を据えてしまうことを意味していると考えられるのです。私たちは、いつの間にか自分から「憎むべき破壊者」を据えてしまうことのないように、絶えず自分の信仰を吟味して祈ることが求められるのです。

 私たちが、日頃から自分も相手も神から与えられた人生の2度と戻らない時を神に応えて生きることへと招かれています。「終わりの時」についての意識をしっかり保って生きることと、そのような問題意識もなく生きることを比べてみれば、そこに働く神の御言葉の受け止め方の違いがやがて天と地ほどの違いになるのです。

 私たちは日々、「終わりの時」を生かされています。永遠の中の2度と戻らない終わりの時を生かされていることを感謝し、天の国の栄光に与らせていただけるように主イエスに導かれて歩んで参りましょう。

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2024年11月10日

主に全てを献げる  マルコ12:38-44

主に全てを献げる  マルコ12:3844(B年特定27) 2024.11.10

2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日 説教小野寺達司祭 (はじめの2、3分過ぎより)

 今日の聖書日課福音書は、律法学者たちが敬虔を装いながらも実際は神のことを思わず人目を気にしたり貧しい人を食いものにしているのに対して、貧しいやもめが心からの献げ物をする姿を対照的き、主イエスがその貧しいやもめに目を留められた物語の箇所が取り上げられています。

 今日の聖書日課福音書の後半の「やもめの献金」の箇所は、簡潔な記述でそのメッセージも明確ですが、この箇所を旧約聖書との関わりを意識しながら学びたいと思います。

 旧約聖書の中には、イスラエルの民に対して、貧しい人々や弱い立場の人々を配慮すべきことを教えている箇所が沢山あります。

 例えば、申命記第15章には「負債の免除」や「奴隷の解放」のことが記されており、第1511節では「この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい。」と教えています。イスラエルの民の間では、親を失った子や夫に先立たれた女性など身寄りのない人を世話していくことが当然のことと考えられました。その実践例として、人々は3年ごとにその年の収穫から十分の一を取り分けて蓄えていたことなどが挙げられます。そのようにして、耕す土地のない異国からの寄留者や身寄りのない子どもや老女たちも食物を得ることが出来るように配慮したのでした。

 申命記にはその他にも、金を貸す時に不当に高い利息を取ってはならないことや、7年に1度畑を休耕にして、その年にその休耕畑が生んだ作物は貧しい人々が自由に収穫することを認める掟なども記されています。

 また、レビ記の中には、麦を収穫する時に、やもめや身寄りのない子どもたち、寄留の異国人のために畑の隅を刈り取らずに残すこと、束ねる時に落とした穂は拾い上げずにそのまま畑に残しておくように(19:9-10,23:22)と記されています。ミレーの名画『落ち穂拾い』もこうした思想を背景に、聖書の物語を題材にして描かれたものであり、畑の持ち主が一本残らず無駄のないように落ち穂を集めている様子を描いた作品ではありません。

 こうした旧約聖書の律法の言葉の土台になっている精神は、イスラエルの民の中で互いに助け合うことや弱い立場の貧しい人々を配慮することであり、それは神に選ばれた民として当然のことと考えられました。そのような信仰が、次第に体系化されて制度となり、律法の文言は更に詳細に口伝として伝えられるようになったと言えるでしょ。

 しかし、主イエスの時代のイスラエルの社会状況は、必ずしも旧約の律法の精神が人々の間に浸透していたわけではありませんでした。また、律法学者たちの言動も、必ずしも神の御心をこの世界に具体化するのに相応しいものではありませんでした。

 今日の聖書日課福音書の前半で主イエスが指摘して厳しく批判しているように、当時の律法学者は自分の身分の高さを人前で誇り、神殿の境内で人々から尊敬の目を向けられることを喜び、神殿や会堂でも、また宴の席でも上席に座る者であることを自慢していたのでした。

 主イエスは、ユダヤ教の指導者たちが敬虔ぶった姿を人々に示して見せかけの長い祈りをする一方で、弱く貧しい立場の人々を少しもかえりみようとしない姿を見抜いておられました。そして、主イエスはそのような律法学者を含めた神殿の指導者たちを厳しく批判なさったのでした。

 主イエスは律法学者のことを「やもめの家を食い物にする」と言って批判しておられます。この批判は、多くの人々が孤児ややもめなどのために捧げる献金や献げ物を律法学者たちが自分たちの都合のよいようにあれこれと理由をつけて横取りし、私腹を肥やしてたことによると考えられます。

 今日の聖書日課福音書の出来事は主イエスが十字架にお架かりになる直ぐ前の火曜日の出来事であり、この日は「論争の火曜日」と言われています。主イエスが十字架へと向かわせたのは、主イエスがこの日の論争で祭司長や律法学者などユダヤ教の指導者たちをハッキリとしかも厳しく批判したことが大きな原因、口実になりました。主イエスは、自分の言葉や行いが十字架に向かうことになっても、神殿の指導者たちが弱く貧しい人々を少しも顧みず特権意識の上にあぐらをかいている姿を見過ごしにすることが出来なかったのです。

 今、主イエスはエルサレム神殿の外庭にいます。律法学者たちが何とかしてイエスを言葉の罠にかけてイエスの言葉尻を捕らえようと無理難題を持ちかけましたが、主イエスは彼らの挑戦を悉く打ち砕きました。恐らく指導者たちは主イエスの批判を逃れるために、イエスの前から引き下がっていったのでしょう。

 そのような時、主イエスは一人の貧しい女性が神殿の中庭(女性の庭)に入って来たことに目を留められました。この貧しいやもめは、その身なりも見るからに貧しくみすぼらしかったことでしょう。幾つか置かれている献金箱は金属のラッパの口のような受け皿があり、お金を入れると音がしました。多くの人が意図的に大きな音を立てて献金をする仲、貧しいやもめは静かに祈りレプトン銅貨2枚をそっと献金箱に入れました。レプトンは当時の一番小さな単位の貨幣で、1レプトンは当時の労働者一日の賃金1デナリオンの128分の1です。(一日の労賃が12,800円とすれば1レプトンは128円です。)レプトン2枚が今このやもめの持っている全てであり、この人はそれを2枚ともお献げしたのでした。神殿の指導者や大金持ちたちはこのやもめには目もくれず、もしかしたら主イエスの弟子たちでさえこの女性を気に留めなかったと思われます。

 でも、主イエスは、このやもめが神に心を向けて心からの献げ物をしていることに目を留められたのです。

 主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物すべて、生活費を全部入れたからである(12:43,44)。」

 主イエスがこう言われた時、神殿には普段とは違う空気が流れました。権力や財力とは別の観点から、神のお喜びになる出来事が起きていることが、主イエスによって指摘されたのです。

 エルサレム神殿について少し別の視点から考えてみたいと思います。

 主イエスの時代よりも千年前、イスラエルの王になったダビデはエルサレムに神殿を建てたいと考えました。しかし、主なる神は軍人であるダビデに主の宮を建てることをお許しになりませんでした。そこでダビデは息子ソロモンに神殿建設の夢を託してダビデはそのための資金を用意するのです。自分の金銀財宝を神殿建設のために差し出し、家来たちにも主の宮を建てるための寄進を呼びかけます。すると、ダビデの周りの高官や側近たちも自分の財産を差し出して神殿建設の資金が奉献されたのでした。

 その時、ダビデはイスラエルの全会衆の前で主を讃えてこう言いました。

 「取るに足りない私と、私の民が、このように自ら進んで献げたとしても、すべてはあなたからいただいたもの。私たちは御手から受け取って、差し出したに過ぎません(歴代誌上29:14)。」

 レプトン2枚を献げたこの貧しいやもめも、自分の全ては主の御手から受けたものであり、主から受けたものを主にお捧げする思いで、例えレプトン2枚であっても、自分の全てを主に献げたのでしょう。人の目に映る華やかさの点ではダビデのようではなかったとしても、その信仰の点では、一千年前に同じ場所でダビデが祈ったのと同じ姿がこの貧しいやもめによって再現されていると言えます。しかもその出来事は、ユダヤ教の指導者たちによってではなく他の人からは見向きもされない貧しいやもめによって現わされているのです。主イエスは、神の宮である神殿が権力や財力が支配する場所になることを喜ばず、自分の全てが捧げられる礼拝の場となることを望んでおられたのでしょう。

 主イエスは私たちのことをこうして主に宮に招いてくださいました。私たちはこの礼拝で、貧しいやもめと同じように主イエスの眼差しを受けています。私たちは全身全霊の礼拝を献げ、ここから各自が遣わされていく生活の場で、各自の思いと言葉と行いの全てが礼拝の行為となるように遣わされていきます。私たちは、神と人に仕えることを通して私たちの全てが神を誉め讃え神を証しする者となるように促されています。

 私たちは自分を神に喜ばれる生きた聖なる供え物とし「すべてのものは主の賜物、私たちは主から受けて主にささげたのです」と主なる神の恵みに応えて、主イエスに導かれて、祝福のうちに生かされて参りましょう。
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2024年11月05日

戒めを行いに   マルコ12:28-34 (B年特定26)

戒めを行いに       2024.11.03 (B年特定26

(3) 2024年11月3日 聖霊降臨後第24主日 説教 小野寺達司祭 - YouTube


 今日の聖書日課福音書は、ある律法学者が主イエスに次のように尋ねたことから始まっています。

 「あらゆる戒めのうちで、どれが第1でしょうか。」

 主イエスはこの質問にこう答えておられます。

 「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない(12:29-31)。」

 主イエスがお答えになった言葉の前半は申命記第6章4節の言葉であり、後半の「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記第1918節の言葉です。

 主イエスは、この二つのこと、つまり神を愛することと隣人を愛することは、分けることの出来ない一つのことであり、これにまさる掟は他に無いと教えておられます。

 このことについての記述は、マルコによる福音書だけではなく、マタイによる福音書もルカによる福音書も、それぞれの脈絡の中で取り上げています。しかし、マタイとルカの両福音書の中では、律法学者が主イエスに挑戦的かつ攻撃的に論争を仕掛ける場面の中での出来事であるのに対して、マルコによる福音書では、イエスとユダヤ教指導者たちの激しい論争の中にいた一人の律法学者が進み出て、自分の救いに関わる大切な問題を主イエスに尋ねる場面として置かれており、この律法学者は謙遜な人として描かれているようにも思われます。

 この律法学者は、主イエスの教えに応えて次のように言っています。

 「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています(12:32,33)。」

 この人は、主イエスの答えに同意して、神と人を愛することは一つのことであり、それはどんな献げ物をするより大切なことであると言っています。

 その当時、ユダヤ教に限らず、多くの宗教では、神の前に進み出る時には献げ物(生け贄)を携えましたが、時にその生け贄は動物や穀物や果物ばかりではなく、人間がいわゆる人身供養として捧げられていました。

 しかし、今日の聖書日課使徒書にも関係することですが、主イエスがご自身を生け贄として十字架の上に献げてくださったことによって、私たちは羊のような動物を生け贄として繰り返して捧げる必要はなくなったのです。これによって、私たちは主イエスを通して神の愛に生かされており、掛け替えのない自分として生きることを許されているのです。私たちは何も持たずに、そのままの自分として、主イエスの名によって神の御前に進み出ることができるようにされました。その意味でも、私たちは主イエスによって旧約聖書の律法を成就した新しい時代に生かされており、その恵みに答えて感謝と賛美の中に生きる者であると言えます。

 その意味で、今日の聖書日課福音書に登場するこの律法学者は、主イエスに「神と人を愛することは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」と言っているのでしょう。

 このように言うこの律法学者に、主イエスは「あなたは、神の国から遠くない」と言っておられます。この言葉に注目してみたいと思います。

 ここで私たちが心に留めておきたいことは、主イエスはこの律法学者に対してあくまでも「神の国から遠くない」と言っておられるのであって、「あなたは既に神の国にいる」とか「あなたの信仰があなたを救った」と言っておられるのではないということです。

 この律法学者は主イエスとの対話を通して正しい答へと導かれ、主イエスの神と人を愛する教えに同意しています。でも、この人が一番大切な戒めが何であるかを知っていることと実際にその戒めを生きる事との間には、大きな隔たりがあることに気付いている必要があります。

 ルカによる福音書にある並行記事(ルカ10:28)の中では、主イエスはこの人に向かってこう言っています。

 「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 愛とは自分の目の前の相手の人を大切にして、その人に神の栄光が現されるように、相手にどこまでも関わり続けることです。人は他の人を愛することによって人として生きている意味と価値があるのです。その意味で、愛は論じたり評価することではなく行為なのです。

 例えば、子どもの心の中に愛を育むことについても、「愛のある人に育ちなさい」と幾度諭してもそれだけでは子どもの心の中に他の人を愛する思いは育まれません。周りの人たちが温かな眼差しと言葉と触れ合いの中に愛を溶け込ませて幼子に関わることで、その子どもはその愛を受け、他の人を愛する心が育まれます。

 主イエスの時代の律法学者たちは、613あるとされる戒めの248の「~しなさい(積極的戒律)」と365の「~してはならない(禁止的戒律)」の内容を生活に適用させるために事細かに解釈し、その細かな規定を生活の拠り所として、その口伝律法を忠実に守ることを通して神に受け入れられると考えました。

 例えば、彼らが「隣人を愛すること」を取り上げるとき、先ず自分の隣人とは誰であるかを論じ、その中でも特に律法を守ることのできる仲間を自分の隣人であると定め、その相手に関わることが戒めに忠実に生きることであると考えたのでした。

 これに対して、主イエスは、唯一の神を愛することと自分の隣人を愛することは一つであり、この二つのことで成り立つ「愛の実践」こそ最も大切な戒めであると教えたのでした。たとえ相手が自分たちとは交わりのない異邦人のことも、また「汚れた者」として扱われて交わりを絶たれて「罪人」と見なされる人でも、もし自分の目の前の人が傷み倒れているのなら、その人の命が神と結ばれて再び生かされるように関わり抜いて、神に創られた人間として互いに愛し合うことこそ最も大切な戒めであるとお考えになりました。

 あなたの目の前の人は、誰もが神によって命を与えられ神に愛されている尊い人であり、あなたの愛すべき存在だと主イエスは教えておられます。例えその人が律法に背いても、切り捨てるのではなく、その人の罪が赦され、罪が浄められ、その人が新たにされることこそ神の求めておられることであり、戒めはそのために必要なのです。

 神を愛することと人を愛することは分けることの出来ない一つのことであり、隣人を愛することは律法に強いられて行うことではなく、人として神にお応えする自発的な行為として具体化します。そして神と人を愛することは、神の国に入るための条件なのではなく、自分が神の愛を身に余るほどに受けている事への感謝に基づく行為になるのです。

 この律法学者が主イエスから「あなたは神の国から遠くない」と言われた後、主イエスに質問する者は人はいなくなりました。なぜなら、エルサレム神殿の指導者たちが主イエスに論争を吹きかけることで明らかになってくるのは、指導者たちが人々の重荷を負おうとせずに律法を盾にして我が身を守って生きている姿であり、彼らはその姿をイエスとの議論の中でこれ以上暴かれたくないと考え、イエスに質問する者がいなくなったのでしょう。彼らはこの後イエスを殺す具体的な策を考え始めるのです。

 自分は傷まず汚れず、重荷を負うことを避けてどの戒めが一番大切かを論じることは、神と人への愛が無くても出来ます。その一方で、主イエスが他の人の傷みや汚れをご自分の身に引き受けてその人の重荷や痛みを負うことこそ、主なる神の御心をこの世に実現する行いであり、どの戒めが一番大切であるかを知るあなたは「神の国から遠くない」「あなたはその戒めを実行しなさい」と主イエスはこの律法学者に、そして私たちに語りかけておられます。

 今日の聖書日課福音書には、どの戒めが一番大切であるのかを知りながら重荷を主イエスに負わせて主イエスを十字架の上へと追いやる律法学者の姿と、人々の罪や汚れを全て一身に背負って十字架に向かう主イエスの姿が対照的に描かれています。私たちは、主イエスがご自分の身を捨てて律法を全うしてくださったことによって、神と隣り人を愛して生きることへと招かれています。主イエスは、自己保身や自分中心を捨てて隣り人を愛するように私たちを促しておられます。主イエスはこの戒めを掟を貫いて十字架にあげられました。

 主イエスの招きと促しに応えて、私たちも神と隣り人を愛する恵みと感謝へと導かれていくことができますように。

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2024年10月28日

バルティマイの叫び   マルコ10:46-52(B年特定25)

バルティマイの叫び    マルコ10:46-52(B年特定25)  2024.10.27


 バルティマイは、エリコの町の門のそばで物乞いをする盲人でした。

 時は、過越祭が近づき、聖地エルサレムでその祭りを祝おうとする多くの人がエルサレムに向かって旅をしています。ヨルダン川近くにあるエリコから南西に28㎞ほど、標高差1000mほどを南西に上っていくとエルサレムです。エルサレムに向かう人の多くがこのエリコで一泊し、翌朝にエルサレムに向かって行きました。

 今日の聖書日課福音書は、次のような言葉で始まります。

 「一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると・・・(マルコ10:46)」。

 エリコの町を出てエルサレムに向かう道端で、バルティマイは物乞いをしていました。座り込んだバルティマイのすぐ脇を大勢の人が通り過ぎていきます。

 バルティマイはその人通りの様子が明らかに変わってくるのを感じました。主イエスと弟子たちの一行が、自分が座っている前を通って、エルサレムに向かおうとしているのです。バルティマイは、今主イエスが歩いていると思う方向に大声で叫びました。

 バルティマイは、これまでにもイエスというお方の噂や評判を耳にして、このイエスこそ真の救い主であるという思いを強くしていたと思われます。聞くところによれば、ナザレのイエスは見えない人の目を開き、聞こえない人の耳を開き、歩けない人を立ち上がらせ、悪霊を追い出し、そのお方の居られるところには神の国の姿が現れ出ているということであり、目の見えないバルティマイには、このイエスこそ私の罪を赦してくださるメシアであるという思いを強くしていたのでしょう。

 主イエスの時代に、「目の見えない人」がどのように見なされていたのかについて、その一例をヨハネによる福音書第9章1節からの箇所に見ることができます。

 その箇所では、弟子たちは主イエスに次のように尋ねています。

 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

 当時、目が見えないことは、その本人か先祖の誰かが罪を犯し、その結果、神から受けた罰が身体に徴となって表れることと考えられいたことが分かります。

 バルティマイは、盲目であるが故に、これまで周りの人々から罪人と呼ばれ、差別され、幾度も不快な言葉を浴びせられてきたことでしょう。そのようなバルティマイは、心を閉ざして自分の本当の気持ちと向き合うことやその思いを他の人に話すこともなく、ただただ日々道ばたに座って物乞いをしていたのではないでしょうか。

 でも、バルティマイは、ナザレのイエスが、今、自分の前を通り過ぎようとしておられると思うと、心の中に凍り付いていた自分の思いが一気に湧き上がり、大声で叫ばずにはいられませんでした。

 「ダビデの子イエスよ。私を憐れんでください。」

 人々は、このバルティマイを叱り付けて黙らせようとします。それでも、バルティマイはますます激しく主イエスに向かって「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫ばずにはいられませんでした。

 「ダビデの子」とは、イスラエルの民が待ち望んでいるメシア(救い主)の称号です。バルティマイは今通り過ぎようとしておられる主イエスに向かって、「あなたは来たるべきメシアです」、「あなたの憐れみをお与えください」と信仰の告白をして、メシアの憐れみを懇願しているのです。

 イスラエルの指導者たちにとって、目の見えない物乞いがこのように大声で、しかも社会を惑わしているイエスに向かって、「ダビデの子イエスよ」と叫ぶことなど考えられず、また許し難いことであったでしょう。

 そのような中、バルティマイの声が主イエスに届きました。主イエスは、立ち止まってこう言われました。「あの人を呼んできなさい」(10:49)

 そして、主イエスは御前に連れて来られたバルティマイに、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってバルティマイを祝福なさると、バルトロマイの目は開かれたのです。

 バルティマイに限らず、誰でも信仰の始まりは、自分の心の奥深くにある叫びを主イエスに届けることです。もし他の誰かに邪魔されたとか中傷されたと言って、主イエスに叫び求めることを止めるなら、主イエスとのつながりはそれ以上に進まないでしょう。それは何と愚かなことでしょう。また、もし私たちが自分の深い心の叫びを主イエスに届けることを躊躇ったり怠っていたりするのなら、私たちにどうして主イエスと真実な関係を深めていくことが出来るでしょう。主イエスに向かって自分の思いを叫び届けることにより、私たちは主イエスの前に呼び出され、主イエスとの真実な対話が始まるのです。

 主イエスはバルティマイの叫びに応えてお尋ねになります。

 「何をして欲しいのか(10:51)。」

 バルティマイは答えます。「先生、目が見えるようになりたいのです。」

 バルティマイの答は簡潔で単純です。この短い言葉の中に、バルティマイのこれまでの一生の思いが凝縮しています。罪人と決めつけられ、自分として生きることの出来ない無念さ、悔しさ。罪人であることが当たり前とされ、物乞いとしてしか生きられなくなっていた自分。そのバルティマイが主イエスの御前で「先生、見えるようになりたいのです」と心を開いて願います。

 先ほどお話ししたように、目が見えていないことが本人や先祖の罪の徴がその人に表れ出ていることだとしたら、見えなかった人の目が開かれて見えるようになることや寝たきりだった人が起き上がって歩くことは、その人の罪が赦されて神の御心としっかり結び合わされていることの徴になるはずです。

 主イエスはバルティマイの信仰を認めて彼を祝福しました。その時にバルティマイの目が開かれています。今日、私たちは、バルティマイの信仰が深まっていくプロセスをしっかりと確認しておきたいのです。

 私たちもバルティマイと同じように、主イエスに向かって叫び、立ち上がってイエスに向かって歩き出し、イエスに問われ、イエスに自分の本心を伝え、救われ、更にイエスに従って自分の生涯を生きて行く者であり、救われた者の喜びと感謝のうちに生きていく者なのです。

 私たちは、聖餐式の始めにいつも「主よ、憐れみをお与えください(「キリエ・エレイソン」と唱えます。その意味は「キリエ(κυριοs「主」の呼格)」、「エレイソン(eλeeω「憐れむ」の命令形)」ということです。私たちは、今日も、バルティマイが主イエスを求めて必死で叫んだのと同じ言葉でこの聖餐式を始めました。

 私たちは、主イエスの御前に進み出る時、それぞれに主イエスに叫び訴えたい心の叫びを携えています。或いはそのような自分が主イエスに召し出された感謝と喜びがあるはずです。私たちはバルティマイと同じようにそれの心の思いを携えて「主よ、憐れんでください」と叫びながら信仰のプロセスを歩むのです。

 主イエスに向かって自分の本当の叫びを届け、「私に何をして欲しいのか」と言って下さる主イエスにお応えする信仰の生活を生きていきたいと思います。「あなたの信仰があなたを救った」と言っていただける恵みを思い、心の奥底の叫びを主イエスにお届けし、導きの中に生かされて参りましょう。

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2024年10月20日

苦難を負う者   イザヤ書53:4-12(B年特定24)

苦難を負う者   イザヤ書53:4-12(B年特定24)        2024.10.20


 今日の聖餐式日課旧約聖書はイザヤ書第534節以下の箇所が採用されています。

 「イザヤ書第53章」と聞くと直ぐに「苦難の僕」という言葉を連想なさる人も多いのではないでしょうか。

 イザヤ書は66章から成る大きな文書です。このイザヤ書の後半には「主の僕の歌」と呼ばれる箇所が4つありますが、ことにイザヤ書第5213節から53章にかけては、「苦難の僕の歌」と呼ばれています。この箇所は、主イエスの働きを旧約聖書との関係の中で考える時に最も注目される箇所の一つであると言えます。

 今日の旧約聖書日課のはじめの部分(イザヤ書53:4)を読んでみましょう。

 「彼が担ったのは、私たちの病、

  彼が負ったのは私たちの痛みであった。

  しかし、私たしたちは思っていた。

  彼は病に冒され、神に打たれて、苦められたのだと。」

 私たちは、どこまで他の人の苦難を担うことが出来るでしょうか。多くの場合、私たちが他の人を配慮したり気遣ったり出来るのはせいぜい自分が傷つかない程度までであり、私たちが本当に苦難を負った人に出会うと、その苦難を共に担うどころかその場から遠ざかったり知らない振りをしたりすることさえあるのではないでしょうか。

 パウロは「喜ぶ者と共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」と言いました。私たちはそうしようとしても、喜んだり泣いたりしている人の心の深みまで共にすることの難しさに尻込みしたりたじろいだりする者であることを認めないわけにはいきません。

 主イエスの弟子たちも、イエスが十字架につけられる前の晩に、イエスからゲッセマネの園で一緒に祈るように求められました。主イエスは血の汗を滴らせて祈ります。でも、弟子たちは、少し離れたところで、眠ってしまいました。また、主イエスが兵士たちに捕らえられる時、弟子たちは皆われ先に逃げ出しました。このような弟子の姿の中に、私たちは自分自身を見出すのです。

 私たちが他の人の大きくあるいは深い苦難に出会う時、私たちもイエスの弟子と同じで、自分はその苦難に向き合えずに逃げ出したくなることの方が多いのではないでしょうか。そればかりか、時々私たちは本来自分で負わなければならない苦難を、弱い人、小さい人、力のない人に負わせて、自分の負うべき痛みをその人になすりつけていることさえあるのではないでしょうか。その典型的事例は、一向に減らない「いじめ」の問題であり、弱く、小さく、貧しい人々が、謂われのない苦難を負わされ、軽蔑されたり愚弄されたりしているのです。裏を返せば、多くの人が、他の人にいわれのない痛みを味わわせ、弱さや貧しさを押しつけ、苦難を負わせることによってやっと自分を保っているのであり、その認識や自覚がないがゆえに、こうした問題は一向に解決しないのかも知れません。

 こうした心の奥深くから生じている問題は、いくら制度の表面をいじっても、「イジメをやめよう」と声高に叫んでも、なかなか根本的な解決に向かうことが出来ないでいるのです。

 こうしたことを念頭に置きつつ、今日の旧約聖書日課を見てみましょう。

 イザヤ書は全部で66章ありますが、第39章の終わりと第40章の始まりの部分で大きく二つに分けられ、1章から39章までを「第一イザヤ」、そして40章以降を更に二つに分けて、40章から54章までを「第二イザヤ」、それ以降を「第三イザヤ」と呼ぶのが一般的です。このように分けるのは、それぞれの部分が記された時代に違いがあり、イザヤ書全体を一人の預言者イザヤが記したのではないと考えられるからです。3つに分ける各書が記された時期は、その内容から考えると、二百年以上の隔たりがあると考えられます。第53章を含む「第二イザヤ」の部分は、バビロン補囚からそれ以降の時代(紀元前562538年の頃)に記されたと考えられています。

 イスラエルの国はダビデやその子ソロモンが王であった時代の後、直ぐに南北に分裂し、北イスラエル国は紀元前722年に滅亡してしまい、南のユダ王国も紀元前586年にバビロニアに占領され、多くのイスラエルの民が捕虜となり遠くバビロンの地に引いていかれました。いわゆる「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。

 しかし紀元前539年、大国であったバビロニアは新興国ペルシャによって滅び、ペルシャ王キュロスは補囚となっていたイスラエルの民が故郷に戻ることを許したのでした。補囚の民は故郷バレスチナの地に戻ってきて、破壊されたままになっていたエルサレム神殿の跡地に祭壇を築き、神殿再建に取りかかります。人々の心は燃えました。多くの人はこうして自分の国に戻り神殿を再建することで神の守りと民族の救いが与えられるとと考えました。

 しかし、第2イザヤは、そのような喜びや期待の中には本当の神の働きを認めることは出来ませんでした。バビロンの地で捕囚の民であった人々は、解放されて祖国に戻り神殿を再建できることを神の祝福と受け止めました。しかし、イザヤにはそうした人々も依然として罪の中にあることには変わらず、たとえ神殿を再建しても、神とイスラエルの民との真の関係はそれだけでは回復していかない姿を嫌というほど見ていたのです。

 「主の僕」の働きは、政治的な力を振るったり物の豊かさを与えて人々の欲望を満ちたらせたりする働きではなく、人々が神との関係を失ってしまったが故に負わなければならない苦難を自分で負っているのだ、とイザヤは語ります。人々の苦難を我が事として担い、まるで本人が神から懲らしめを受けているかのような姿をとりながら、黙々と主の働きを行う僕の姿をイザヤは語るのです。多くの人はこのような主の僕をあざ笑い罵りさえするでしょう。しかし、それでもなお人々の負えない苦難や担えない重荷を我が身に引き受けて歩む主の僕をイザヤは人々に伝えます。祖国に戻った多くの人が、イザヤが語る主の僕の姿を理解せず、受け入れず、更にはイザヤ自身も人々からバカにされ罵られることになっていきます。

 イザヤは第53章4節で次のように言います。

 「彼が担ったのは、私たちの病、

  彼が負ったのは私たちの痛みであった。

  しかし、私たしたちは思っていた。

  彼は病に冒され、神に打たれて、苦められたのだと。」

 何も見返りを求めず他の人の痛みや弱さを担ってくれる者、自分が傷つき痛み審かれる身となっても私たちの生まれ変わりを信じてくれる者、その結果裏切られても私たちの苦難を担ってくれる者、そのようなお方に出会いそのお方に生かされることで人は初めて心の底から新しい人となって生きることができるのです。そうでなければ、補囚からの解放の喜びも神殿再建の希望も一時的なものに過ぎず、本当に神との関係を強く深くしていくことにはならないのです。

 イザヤがこのように「苦難の僕」を語っても、多くの人はイザヤの言葉に耳を貸すことはありませんでした。そしてその後500年以上この「苦難の僕」のことは殆ど顧みられなかったのです。

 「第二イザヤ」の時代から560年ほど経った頃、一人の男がガリラヤのナザレに現れました。当時、イスラエルの国はローマに占領されており、イスラエルの民はローマ帝国の支配を覆す政治的指導者を待ち望み、例えばダビデのような政治的指導者としてのメシア(救い主)の姿を思い描いていました。

 ナザレで育ったイエスは、この世に神の国の実現を望んでその働きのために尽くしますが、その働きは、弱く貧しい人々の重荷を負い、汚れた人と交わってその悲しみや苦しみを担うものでした。そのお働きは、当時のユダヤ教の指導者や上層部からは律法を守らず民族の一致や団結を乱す者として嫌われ、下層階級の支持を集める危険人物と見なされ、最後にはエルサレムで十字架につけられて、人々からも神からも見捨てられたかのように死んでいきました。

 その後、この男(ナザレのイエス)の働きは、「第二イザヤ」が語った言葉によって意味づけられ、この男が何者であったのかが「苦難の僕」の光を浴びることによって鮮明に浮かび上がるのです。多くの人が、イエスの生涯は第二イザヤがかつて語った「苦難の僕」そのものであったことを理解し、このイエスこそ真の救い主であることの意味に気付き始めるのです。

 主イエスがイザヤ書を詳しく理解していたかどうかは定かではありませんし、イエス自身がイザヤ書の言葉を引用して神の国を説いたのかどうかも明らかではありません。しかし、福音書の記者たち-とりわけマタイによる福音書-や使徒パウロは、イエスがどのような意味での神の子であり救い主であったのかを、イザヤ書の多くを引用しながら記しています。

 主イエスはその生涯を通して、疲れた者、重荷を負う者を誰でもご自身の御許にお招きになり、その重荷を負って下さり、その人を十字架の死の先にまで招きながら共に生きてくださいました。

 イザヤは主の僕を思い描いて第5312節でこう言っています。

「彼が自分の命を死に至るまで注ぎだし、背く者の一人に数えられたからだ。多くの罪を担い、背く者のために執り成したのはこの人であった。」

 主イエスは、私たちのために自らをなげうち、死んで、罪人の一人に数えられました。私たちの罪を背負って、神に背いた私たちのために主なる神に執り成してくださったのは、このイエスです。私たちの罪のすべてが主イエスによって担われ、私たちは主イエスによって神のみ前に執り成しを受けています。イザヤ書はこのように「苦難の僕」の観点から救い主イエスを預言していたのです。

 主イエスが私たちの罪を担い、私たちを執り成し、私たちのために自らをなげうってくださった恵みを感謝し、この恵みに応えて神の愛に応えて生かされる者でありたいと願います。

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2024年10月13日

永遠の命を受けつぐ  マルコ10:17-27

永遠の命を受けつぐ       (B年特定23.マルコ10:17-27)    2024.10.12

    

 今日の聖書日課福音書の冒頭の言葉は新共同訳では「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って」と訳されていますが、聖書協会共同訳の聖書では「イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄り」と訳しています。私には、後者の訳の方が、主イエスがエルサレムに向かって歩み始められた様子がより一層伝わってくるように思われます。

 ご自身の十字架に向かう歩みを踏み出された主イエスに走り寄って来た人がいました。その人は、主イエスの前に跪いて尋ねました。

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか(マルコ10:17)。」

 今日の聖書日課福音書を理解し導きを受けるために、先ず「永遠の命」という言葉に着目してみたいと思います。

 この「永遠」という言葉は、時間的に果てしなく続くと言うよりも、むしろ時間や空間によって影響されたり変化することのない「絶対性」「究極性」を意味していると考えると理解しやすいのではないでしょうか。「永遠の命」という言葉も、不老不死の生命のことや肉体的な死のない生命を意味するのではなく、生物としての命が終わるとしても、この世に生を受けて生かされたことには消えることのない意味や価値があるということを意味していると言えます。

 主イエスがエルサレムに向かって歩み始めた時、一人の青年が主イエスの前に跪き、「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」と尋ねました。 今日の聖書日課福音書の物語は、マタイとルカの両福音書にも載っています。この「ある人」は、マタイによる福音書では青年であり、ルカによる福音書では金持ちの議員です。この人は、きっと若くして財を築き、地位も名誉も手に入れている人であり、この世の成功者であったと言えるでしょう。でも、この人には、こうして主イエスの前に跪いて「永遠の命」を求めないわけにはいかない思いがありました。この人はユダヤ教の中心にいる人でありながらも、心の中に、自分の救いについての不安があり、自分の過去と将来に、自分は本当に神の民の一人として救いを約束されているのだろうか、自分はそれに相応しいのだろうか、自分は神との契約のしるしである律法をしっかり守っているけれどこれで十分なのだろうかという、不安や心配が付きまとっていたのでしょう。

 この人に限らず、人は誰でも自分の一生が終わる時、築いた財産も得た地位や名誉もみな自分の手から離さなければなりません。イエスの前に跪いたこの人も「こうして生きてきた自分は何者なのだ。全てを手放した私には何が残るのか。自分がこの世に生きていることに本当に意味があるのだろうか。自分は財産も名誉も得たけれど、それらを手放して裸の身になった時の自分の価値を認めてくれる者はいるのだろうか。」と自分に問い返してみれば、イエスの前に跪かないわけにはいかなかったのでしょう。

 「永遠の命」についての確信を得たいと思って、どれほど律法を守ることに努めてみても、この人はその確信を得られなかったのではないでしょうか。

 パウロも、ローマの信徒への手紙第7章で、回心する前の自分を振り返り、律法について完全であろうとすればする程、罪の意識が強くならざるを得なかったと言っています。

 主イエスの前に跪いたこの人も、主イエスに出会う前には、永遠の命を得るためには律法に基づいて善行を更に積み重ねることが必要だと考えていたのでしょう。

 主イエスは、この人の質問に答えて、十戒を思い起こさせ、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言われました。

 彼はすかさず「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と模範的に答えています。彼は実際そうしてきたことでしょう。でも、彼の心は満たされず、不安なのです。なぜならこの人は、回心前にパウロのように、自分の力で永遠の命を獲得しようとしているのです。所詮、限りある存在が、お金や物を掻き集めるように「永遠」を生きる術を求めても、それは永遠にはなりません。仮に「永遠なるもの」があってこの人がそれを手に入れたとしても、限りある私たちは何時かはそれを手放さなければなりません。私たちは、自分の力によって「永遠なるもの」を獲得するのではなく、私たちが永遠なる神の働きの中に捉えられて、この永遠なる神に受け容れられてこそ、自分の限界を超えて永遠なる神の御手の中に生かされるのです。

 今この人の前に居られる「永遠なるお方」である主イエスは、エルサレムに上って行こうとしておられます。それは、十字架の上で全ての人が神に愛されていることをお示しくださり、赦し抜き愛し抜き、ご自身は虚しく滅ぶかのようでありながらも、甦ってこの主イエスにこそ永遠の命があることを示そうとしておられるのです。

 主イエスは自分の力で永遠の命を受け継ごうともがいているこの人を見つめ慈しんでおられます。この「慈しむ」という言葉は、神の絶対的な愛を表すアガペー(αγαπη)という言葉の動詞形が用いられています。つまり、主イエスがこの人に「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい(10:21)」と言っておられるのは、そのように出来ないこの人を裁いて切り捨てるために言っておられるのではなく、主イエスがこの人を愛し、慈しんで、この人の望む永遠の命へとお招きになっておられる言葉なのです。

 言葉を換えれば、主イエスはこの人に「それを自分の力で得ようとするのではなく、私に委ねて従って来なさい」という意味で言っておられるのです。

 「貧しい人々に施しなさい」と言うことは、「自分の力で自分の救いを得ることを目指すのではなく、主イエスを通して神の愛を受け、その愛で人々を愛し、貧しく弱く小さい人々に仕えなさい」と言うことです。

 永遠の命を受け継ぐことは、これまでの生き方の上に主イエスの教えを付け加えることではなく、これまでの自分中心の生き方を捨てて主イエスに全てを委ねる事によって初めて可能になるのです。また、この人にとってこれまでのように十戒を中心とした律法を厳格に守ることは、自分の克己、修養にこそなれ、それは「自分を愛するように隣人を愛する」ことにはつながっていかないのです。 私たちも、今日の聖書日課福音書を通して、エルサレムに向かう主イエスに従う覚悟があるのかを問われています。

 私たちがこのように集い、礼拝を通して神の前に進み出ることが出来るのは、神ご自身が人の貧しさや弱さを知っておられ、神ご自身の方から私たちに近付いてくださり、救いをお与え下さるからであり、私たちが永遠の命を受けつぐことも、神の慈しみを受け容れることではじめて出来る事なのです。

 自分を中心に生きるこの人は、更に「救いの保証」を積み上げようとする態度を変えることができず、結局自分の財産を失うことを嫌がり、悲しい顔をして主イエスの許から立ち去っていったのでした。

 主イエスはご自身が貧しいお姿をとって私たちのところに来て下さり、命を投げ出して下さいました。ご自身を与え尽くしてくださった主イエスに対して、私たちはどのようにお応えするのでしょうか。自分のためになお主イエスを用いようとするのでしょうか。それとも、貧しく小さな人々の中におられる主イエスに従い仕えるのでしょうか。小さく貧しい存在に過ぎない私たちも、既に主イエスを通して主なる神に受け入れられ、時も所も超えて掛け替えのない大切な存在とされています。このことこそ、「永遠の命を受けつぐ」と言うことに他なりません。

 私たちは、主イエスを通して示された「永遠の命」を受け容れるのでしょうか、それともこの青年のように拒むのでしょうか。

 今日の福音書の個所では、主イエスは十字架に向かってエルサレムへ向かう旅が始まっています。私たちが自分の負うべき十字架を既に主イエスが負ってくださっています。私たちは「永遠の命」を継ぐ者にとして招かれています。私たちは主イエスに従い、主イエスに仕え、神の国の働きの中に私たちが用いられ意味づけられ、いつも主イエス・キリストとの導きと養いを受け、永遠の命へと招かれていくことができますように。

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2024年10月06日

永遠のパートナー 創世記2:18-22 (B年特定22)     

永遠のパートナー       創世記2:1822(B年特定22) 2024.10.06    


 この主日のみ言葉(聖餐式聖書日課)は、旧約聖書、使徒書、福音書ともに、私たちが生きる上での「相手、他者」について教えています。これらの聖書の箇所は結婚式の時にもよく読まれる箇所ですが、今日は旧約聖書日課を中心に人が生きる上での「相手、他者」ということについて教えられ、導かれたいと思います。

 初めの人アダムが創られ、エデンの園に住むことを許されました。でも、アダムは孤独でした。創世記の第1章には神がお創りになった世界はとても良かったと記されています。その素晴らしい世界にいてもアダムは孤独なのです。神は「人が独りでいるのは良くない」と言われます。アダムだけではなく、人は誰でも、他の人との交わりがなかったら、思い考えることは次第に現実から離れて、独り善がりになり、更に自分勝手になってしまうことも多いのです。もし人が、生まれた後あらゆる事をたった独りでやっていかなければならないのなら、おそらく3日と生きていられないでしょう。あるいはまた、生まれたばかりの赤ちゃんが、たとえどれほど豊富な栄養を摂取できたとしても、もし、人から言葉もかけられずあやされることもなく視線を交わす相手もなく、ただ寝かされているだけだとしたら、その赤ちゃんは情緒の安定した豊かな人に育つことは困難になってしまいます。

 私たちは、もしたった独りで居るしかないとしたら、たとえそれがエデンの園の中であったとしても、何と寂しく不幸なことでしょう。人は何不自由のない暮らしをしていても、もし本当に心を通わせる相手が一人も居なかったら、不安定になり精神的に病理的な言動を起こすことにもつながっていくことでしょう。また、せっかく他者との豊かな交わりに生きる可能性を与えられているにもかかわらず、人と共に生きることのできない寂しさややるせなさを感じている人は意外と多いのではないでしょうか。

 創世記の第1章で、主なる神は野の全ての獣や空の鳥を創り、人にその管理をお任せになりました。でも、野の獣や空の鳥は、人の究極的な相手にはなり得ませんでした。このような人の姿をご覧になって、神は人を深い眠りに落とし、その人が深く眠り込んだとき、その人の体からあばら骨の一部を抜き取りその骨で相手となる女の人をお創りになったのでした。

 なぜ、主なる神はこんな事をなさったのでしょう。

 主が人の体からあばら骨を取り出したことに着目してみましょう。昔、ユダヤの人々は人間の感情は胸から発する(感情の座は胸にある)と考えました。日本語でも「腹が立つ」「胸が痛む」「頭にくる」と言うように、私たちはしばしば感情の動きを体のある部分を用いて表現します。主なる神は、人の胸の中をガードするあばら骨の一部を抜き取って、その骨で相手となる女の人をお創りになったのです。つまり、神は、人の心、人の感情、情動の固い守りを少しはずし、その守りを薄くして、人の相手になる存在をお創りになったのです。こうして人は自分の感じていることや思っていることを他の人に伝えるように、そして相手の言動に自分の心が共感し、その思いをまた目の前の相手に伝えて共に生きるための「相手」を創って下さったのです。人はお互いに深く心が通い合う存在であり、お互いに相手の心の内を理解し合ってこそ、自分が生きていることを実感し喜び合える存在として創られたのです。私たちは、もし自分の本当の気持ちをいつも押し隠すだけで他の人と分かち合おうとしないのなら、その人がたとえどれほど多弁であっても、どこか空々しく虚しい思いになるのではないでしょうか。

 主なる神さまが人のあばら骨の一部を抜き取って創られた相手を聖書では「助ける者」と訳しています。この言葉は「ヘルパー」とか「援助する人」という意味ではなく、「パートナー」とか「コンパニオン」という意味を持つ言葉です。今日の旧約聖書日課の箇所で、人(アダム)は自分の身辺の世話をしてくれる人を与えられたのではなく、お互いに心を開き、分かち合い、理解し合う存在、共に生きる相手を与えられたのです。

 このパートナーが与えられたとき、アダムは言いました。

 「これこそ、私の骨の骨、私の肉に肉(2:23)。」

 相手はまさに自分の分身なのです。お互いに相手と自分を分け合い、心を開いて語り合って理解し合える時、その相手は互いに自分の分身なのです。アダムは更に続けて言います。「これを女(イシャー)と名付けよう。これは男(イシュ)から取られたからである(2:23)。」神が男のあばら骨を分けて創られた女は、神がお互いのために創って与えた良きパートナーであり共に生きる相手なのです。新共同訳では、旧約聖書の元の言葉であるヘブライ語をカッコの中に入れて、男イシュ、女イシャーと記して、発音上でも男と女は共に呼び掛け合い響き合う存在であることを示しています。つまり、男と女はこのように呼応し共感し、互いを理解し合う存在であることをヘブル語の発音の上でも響き合うことを紹介して示していました。

 ユダヤ人の哲学者で19世紀後半から20世紀半ばを生きたマルチン・ブーバーという人がいます。この人が人間関係を「我-汝」という言葉で説明していますが、その一文を引用してましょう。

 『世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。その二つとは「我-汝」と「我-それ」の世界である。私たちがある人と向かい合う時、その人の外見、特徴を見抜こうとする。これは「我-それ」の世界である。実際、人間はこのような「我-それ」の関係だけで生きるのは真の人間ではない。その人の全人格を認める「我-汝」の関係が根底になければならない。』

 ブーバーのこの言葉は、神が人()のあばら骨から相手となる人()を創り出した物語の意味を哲学の言葉にして的確に表現しているように思われます。そしてブーバーは、この「我-汝」の関係に生きる態度が重要であると指摘しています。私たち人間は自分中心に独りで生きることによってではなく、他者との交わりに中で自分と相手の命を育み、そこに人間としての価値を示すのです。アダムは、そのような意味で相手となる人を見た時、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、肉の肉。」と言っているのです。

 しかし、創世記を今日の日課の先まで読み進めていくと、神が人をせっかくこのように生きる可能性を開いて下さったのに、罪を犯す人が描かれるようになります。人はエデンの園にいたとき、神が良しとした中に生かされていましたが、その時でさえ、人は神とのつながりを忘れて罪を犯すのです。そして、お互いに罪の責任を他者になすり付け合い傷付け合う姿、少しも本当の自分を開かず、分かち合わず、心に壁をつくり、自分を固く防衛して傷つけ合う者へと成り下がる姿を描きます。人は良きパートナーが与えられても、神の御心に開かれていなければ、それだけでは罪の中をさまよい歩く者に過ぎないことを、聖書は物語るのです。

 創世記は、人間の誕生の物語、アダムとエバに罪が入り込んでエデンの園から追放される物語の後、第4章のカインとアベルの物語へと続きます。エデンの園を追放された人間は更に神の御心から離れ、その他者の存在を否定し、カインは弟アベルを殺して知らぬ顔をするという身勝手で傲慢な者へと成り下がって行きます。そして人々の中に不信感が生まれ、心を開いて分かち合うことを止め、お互いは相手を自分の欲望と野心を満たすために利用する道具としか考えなくなるのです。

 それでは、お互いを信頼して怖れなく心を開いて愛によって共鳴し合う世界は完全に永遠に失われてしまったのでしょうか。それはもう回復出来ないのでしょうか。

 そうではありません。

 神は、人が自分の力では回復できなくなってしまったこの信頼の関係を、神ご自身が主イエスを遣わすことによって取り戻して下さいました。

  主なる神は、主イエスに貧しいお姿を取らせ、神が人を愛し信頼してくださるしるしを飼い葉桶の中に与えてくださいました。たとえ私たちが孤独になり罪に悩むこをを逃れられないと思えても、神は私たちの生きるこの世界に人の姿を取って入り込み、私たちの「助け手」となって下さったのです。

 主イエスは、徴税人、病を負った人、汚れたもの扱いされる人と共にいて、その人々と「我-汝」の関係をとってどこまでも共にいて下さり、誰もが神から与えられた自分の命を全うして生きることが出来るように仕えて下さいました。そして、最期には誰一人主イエスのパートナーになる者などいない中で、十字架の上で他者の罪の苦しみを担い、罪人の姿をとって死んで行かれました。こうして主イエスは、ただ一人孤独のうちに見捨てられて死に行く人とも共にいて下さり、死の先にまで共にいて下さる事を身をもって示して下さったのです。このような「究極のパートナー」である主イエスに生かされて、限りある私たちでも、お互いに「助け手」となり合い、互いのパートナーになれる道を開いてくださいました。

 私たちはこの主イエスを自分の良き同伴者として、主イエスを通して神の前に自分の全てを開き、生きる幸いを与えられています。主によって生かされ、お互いに「良き助け手」として仕え合う交わりを、教会の中に育て上げていきましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 16:22| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする