2023年01月29日

幸いは貧しい人に  マタイにいよる福音書第5章1-12  顕現後第4主日

幸いは貧しい人に マタイにいよる福音書第5章1-12  顕現後第4主日    2023.01.29

 今日の聖書日課福音書には、マタイによる福音書のいわゆる「山上の説教」のはじめの部分が取り上げられています。

 マタイによる福音書全体を見渡してみると、福音記者マタイは、主イエスの「言葉(説教)」の部分と「行い」の部分を交互に繰り返す形で編集しており、今日の聖書日課福音書は、第5章から第7章までが一纏まりの最初の「言葉(説教)」の部分です。そして、その後に第8章と第9章が癒しを中心にしたイエスの「行い()」の部分、そして第10章と第11章が弟子たちを派遣するに当たっての主イエスの「言葉(説教)」の部分と続き、マタイによる福音書全体が大きな「言葉(説教)」の纏まりと「行い」の纏まりを交互に示しつつ展開するように編集されています。

 今日の聖書日課福音書は「山上の説教」の冒頭であり、主イエスが人々に公に教えを述べられた最初の箇所のその最初の部分です。つまり、この箇所は、主イエスが公生涯で最初に教えを宣べたその始めの言葉と位置づけられます。

 主イエスは、弟子たちや多くの群衆が見守る中、口を開き、話し始めました。

 「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

 主イエスに限らず、公の場で人が第一声に何を言うのかは、重要な意味を持っています。その人が最初に何を言ったのかは、その物語全体を暗示したり方向付ける大切な意味を含んでいることがあります。ましてこのマタイによる福音書が、み言葉とみ業の部分をまとめて意図的に編集をしたことが明らかであれば、マタイが伝えようとした主イエスのお姿がその山上の説教の第一声によく示されていると考えられます。その言葉が「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」です。

 日本語訳では主語になっている「心の貧しい人」が冒頭に来ていますが、この訳し方は整い過ぎているように思えます。

 大勢の人々を前に話す主イエスを想像して訳せば、この箇所は「幸いなのだよ、魂の貧しい人たちは!」となるのではないでしょうか。

 主イエスは、ご自分の周りに集まって来た人々に向かって、神のお与えになる幸いを宣言することから教えを説き始めました。主イエスのこの宣言は、この教えを聞いている人々の中に、大きな衝撃を与えたことでしょう。

 「幸い」についての内容があまりに違うからです。

 私たちにとって「幸い」とは何でしょう。また幸いの条件とは何でしょう。

 『広辞苑』で「幸い」を引いてみると、「運が良く、恵まれた状態にあること。幸福、幸運」と記されいます。多くの場合それは自分の欲望が満たされている状態を意味するのではないでしょうか。

 「自分の幸せ」と考えた時、おのおの具体的な中身は違っても、例えば家内安全、商売繁盛、健康維持、学力増進、身内の平穏無事などなど、自分の願いや欲求が満たされかつ平穏であることが幸いだと考えるのが一般的です。

 でも、主イエスは、幸せがそのようなものだとは言いませんでした。

 主イエスは「心の貧しい人々は幸いである」と言っていますが、この言葉をもっと原文の意味を強めて言うならば、「祝福されている。欠乏している人、霊において。」となります。

 他の日本語訳の聖書では、この箇所を「ただ神により頼む人は幸いだ。(共同訳)」とか「心底貧しい人たちには、神からの力がある。(本田哲郎神父訳)」と訳しています。また「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ。(山浦玄嗣訳)」とも訳されています。

 自分の無力を知って、全てのことを主なる神に委ねて寄りすがるほかない人々こそ祝されている、と主イエスは言っておられるのです。

 「貧しい(ptωχοsピオーコス)」という言葉にも注目してみましょう。

 この言葉は「背を曲げる、恐れで縮こまる、萎縮する」という意味から生まれた言葉であり、神の前に救いを求めて屈むことが「貧しい」の意味です。つまり、神に祝される人とは、多くの苦難の中でも神に寄りすがって神との交わりを求めて止まない人々なのだということなのです。

 人は誰でも一生に2度そのような意味での自分の「貧しさ」を曝して、主なる神の前に出る時があるのではないでしょうか。その時とは「誕生」の時と「死」の時です。その時、私たちは命の与え主であるお方の前に全てを任せるほかありません。

 特に「死」はそれまでどれほどの財を築き業績を上げようと、全てを手放して自分を誰かに、何かに、お任せするほかありません。このように人は誰でも、他の何も頼みとすることが出来ず、死の先にまで全てを支配しておられる方に全てをお任せする以外に何も出来ない時があるのです。その時、人は誰もが自分の貧しさを知ってその受け容れるほかありません。

 主イエスは、そのような貧しさを死の間際にだけではなく、生きている真っ直中で味わっている人や味わわざるを得ない人は幸いである、神からの祝福をいただいている、と言っておられるのです。

 今、主イエスを取り囲んでいるのは、神の前に差し出せるものなど何もなく、もしあるとすればそれは貧しい自分だけ、という人たちです。主イエスはそのような人々をじっとご覧になって「幸せなのだよ、あなた方は」と言っておられます。私たちが自分では何も良い評価を与えることも出来ず、低く、悪く、貧しく捉えることしか出来ないようなことや、自分では認めたくない貧しさをも、主イエスは受け容れてくださり、その人を認めてくださり、その人を幸いな者、神に祝福されている者へと一挙に変えてくださいます。

 主イエスは、宣教の始めに先ず貧しい人々の幸いを宣言してくださいました。これが主イエスの「公生涯における宣教の第一声」であり、主イエスはこれからこのテーマを十字架の死に向かって生きていかれます。

 教会とは、このような貧しい自分を受け容れてくださり、愛してくださり、祝福してくださる主イエスによって生かされようとする人々の集まりです。その信仰以外に教会員であることの資格は必要ありません。

 パウロは今日の使徒書の中でそのことを教えています。

 パウロは「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」と言っています。人間的な知恵、能力、家柄などを誇ることは、人の心が神に向かうことを妨げます。人間的な知恵、力、家柄などは、人の「貧しさ」を自覚させず、そこに生まれる不遜や傲慢は人が神と出会う道を閉ざす誘惑にさえつながるのです。私たちが自分の貧しさを認めて神の前にその自分を開くときに、神は貧しさを幸いに変えて祝福してくださいます。パウロはユダヤ人ベニヤミン属の生まれでファリサイ派教育を受け、その自分を誇っていました。パウロは、主イエスが律法の細則を守らずに汚れた人々に関わることに我慢できず、その信仰を持つ人を受け入れられずに迫害しましたが、やがてキリストと出会って回心し、「自分の弱さを誇ろう」と言い「私は弱い時にこそ強い」とまで言うように導かれました。

 主イエスは私たちのことも弱さに生きるように導いてくださいます。本来、私たちが、貧しく価値の無い者でありながらも教会に集い生きることが出来るのは、私たちの貧しさの中に宿って力を与えてくださる主なる神の愛を知っているからです。

 主イエスは、ご自身の説教の第一声で、ただ神により頼むほか無い貧しい人たちの幸いを宣言してくださいました。しかも、主イエスはそれを説教によってお示しになっただけではなく、ご自身の行い(み業)の中で、貧しさに徹して生きぬいてくださり、貧しい人の幸いを身をもって示してくださいました。

 主イエスは言っておられます。「天の国はその人たちのものである。」

 「天の国」とは、神の御心が現れ出ている姿であり、私たちの中に神の御心が行き渡っている状態を意味しています。神の前に自分の弱さ、貧しさを知り、ただひたすら神により頼む人々に神の国の姿が現れ出ることを主イエスはご自身の教え(説教)の第一声とされたのでした。

 私たちも自分の貧しさに気付き、受けいれ、そこに働く主イエスの恵みによって祝され、天の国の喜びに与らせていただきましょう。主イエスが宣言された「貧しさの中にこそ与えられる祝福」に生かされて参りましょう。


posted by 聖ルカ住人 at 21:00| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月22日

ガリラヤ湖の漁師たちを召し出す  マタイによる福音書第4章12~23節  A年(顕現後第3主日) 

ガリラヤ湖の漁師たちを召し出す  マタイによる福音書第4章1223節  A年(顕現後第3主日) 2023.01.25

主イエスの宣教の働き(公生涯)は、ガリラヤ地方で始まりました。

 当時、ユダヤ教の一般的なまた常識的な考えによれば、ガリラヤ地方からメシア(救い主)が出現することはないとされていました。今日の聖書日課福音書を記したマタイは、そのようなユダヤ教の考えを否定し、イザヤ書の言葉を用いて「異邦人のガリラヤ、闇の中に住む者は大いなる光を見た。・・・死の陰に住む人々に光がのぼった。」と、救い主イエスの働きが、神のご計画の中でガリラヤから始まっていることを伝えています。

 そして、主イエスは、宣教の働きの始めに、ガリラヤ湖で漁をする二組の兄弟を最初の弟子を召し出されたのです。

 ガリラヤ湖は、南北約21㎞、東西約12㎞の竪琴のような形をした大きな湖です。その竪琴の頂点つまり北のはずれにカファルナウムの町がありました。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの各兄弟はこのカファルナウムに住み、ガリラヤ湖で魚を取って暮らす漁師でした。

 主イエスが彼らに声をおかけになったとき、彼らは自分の仕事の真っ最中でした。ペトロとアンデレは漁の真っ最中であり湖で網を打っていました。ヤコブとヨハネは、おそらく漁を終えていたのでしょう、父のゼベダイと一緒に舟の中で網の手入れをしていました。この二組の兄弟は、主イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という招きの言葉に応えて、すぐに網を捨て、また舟を置いて、主イエスに従っていきました。

 ペトロと呼ばれるシモンとアンデレは、主イエスに声をかけられ、20節にあるように二人は直ぐに網を捨ててイエスに従いました。また、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも主イエスに呼ばれると、22節にあるように、この二人も直ぐに舟と父親とを残してイエスに従いました。

 私たちはこのようにして主イエスに召し出された人の話を聞いて何を思うでしょうか。この福音書を記したマタイが強調しているのは、20節と22節で繰り返しているとおり、この二組の兄弟が「直ぐに従った」ことなのです。

 私たちはこの福音書の物語から、主イエスの招き(召し出し)に対して Yes No かをはっきり応えなければならない時があるということを覚えなければなりません。

 この二組の弟子たちに限らず、私たちも、自分は主イエスの宣教の働きに加わるのに相応しいかどうか、ためらったり尻込みしたくなる時があるかもしれません。しかし、主イエスの招きを熟慮して、弟子になる条件が備わっているかどうかを吟味してからお返事をしますというのであれば、一体誰が主イエスの召しに応えられるでしょう。

 主イエスに召し出されるということは、教会の牧師になることだけに関わる問題ではありません。召命とは、どのような職業に就くにしても、その仕事を通して神の御心を生きることであり、自分の生きる場所に神の御心が一つ現れ出るように働くことです。私たちは何時どこにいても「御国が来ますように」、「御心が天に行われるとおり地にも行われますように」と祈りながら、自分が置かれている「今、この場で」その具体的な働きへと生きていくことが、召命に答えることであると言えるのではないでしょうか。

 大切なことは、自分がどのような場に置かれていても、自分の生き方をとおしてその場に神の御心が現れ出るように努めることであり、天の国はそこから開かれてくるのです。

 主イエスに召し出されると言うことは、例えば回心したパウロのように、何か特別な決定的な出来事を契機とするとは限りません。

 むしろ、神の呼びかけは、この二組の漁師たちのように、まさに生活の真っ只中に主イエスが働きかけてこられることなのではないでしょうか。

 「召し出しされる」と言うことは、二組の漁師がそうであったように、主イエスが他ならぬ自分の生活の中に入ってこられ、声を掛けてくださっている事を自覚して、その御声に真剣に応えることであり、その働きが教会の教役者であるかどうかに関わらず、また給与を得るための働きであるかどうかに限らず、私たちは主イエスの弟子として主イエスの招きに応えていくことを求められているのです。

 もし「主よ、あなたははっきりと私を招いてくださったことは一度もありませんでした」と言う人がいるとすれば、主なる神は「いや、私はあなたを召し出すために、毎日の生活の何気ないことの中で、あなたを招き続けていたのだ」とお答えになるに違いありません。

 教会の「聖書を語る会」などで、今日の聖書日課福音書の箇所を用いて自由に感想を述べ合うと、よく「ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、残された家族のことをどのように考えていたのだろう。そのことへの心配や痛みはなかったのだろうか」という感想が述べられます。主なる神の召し出しに応えることは、熟慮を重ねた上で納得して出来るとは限りません。この物語の中心にあるメッセージは、私を愛しておられる主イエスの呼びかけに気付き、私は主イエスに従うのか、それとも主イエスの招きに答えることをためらって、逃げたり拒んだりするのか、問題はその一点にあるのです。そして、私たちの思いを超えた恵みが神の招きの先にあると信じるのなら、私たちは招いてくださる神の恵みを無駄にすることなく、私たちの目の前のこと一つひとつを神の招きの出来事としてとらえ、それに応えていく歩みを進めていきたいのです。

 洗礼や堅信礼を受けることへの招きであれ、教会の交わりから離れている人の回復の招きであれ、あるいは日々の生活の中での小さな決断であれ、それが神の招きてあり、その招きの恵みに対して応える決断があるかどうかが問題となるのです。

 ヘブライ人への手紙第11章1-2節に次のような言葉があります。 

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」

 この言葉が示しているように、多くの信仰の先人たちは信仰によってそれまでの自分とは異なる一歩を踏み出した時があります。仮にその先がどうなるのか見通せないような中でも、神がそのことを願っておられると信じて、その結果は自分の目で確かに確認できなくても、信仰の先人たちは神が願っておられる事柄を確信し、神から促されて初めの一歩を踏み出していくことによって、この世界に神の望む世界が一つ開かれていく経験を与えられたのです。そして、この経験は、神の召し出しを信じて応えることによってのみ得られる大切な経験だったのです。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスに招かれた弟子たちが「網を捨てて」また「舟と父を残して」主イエスに従ったと記しています。これは主イエスが私たちに自分の財産を放棄することや修道士になることを求めていることではなく、家族を放り出して宣教者になることを勧めているわけでもありません。

 主イエスに従って「人間をとる漁師」として生きていくように召し出された人は、自分の目の前の出来事の一つひとつを主イエスに与えられた課題として捕らえ、召された自分が主なる神の栄光を顕わす器となるように生きていくのです。この点をはき違えると、たとえこれまでの職業を捨てて修道士になったとしても、自分の名誉のためにただ職業を変えたことにしかならず、主なる神や教会をただ自分の思い通りにしたいだけのことになるでしょう。

 私たちがどのような働きをするにしても、自分に与えられた生活を主イエスに従って御心を現していく態度こそ「人間をとる漁師」に相応しいと言えるのです。

 主イエスの招きの言葉に応えて、主イエスに導かれ、他の多くの人々を主イエスの群れに招き入れる「人間をとる漁師」としての歩みを進めていくことが出来ますように。
posted by 聖ルカ住人 at 05:57| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月15日

イエスは「神の小羊」  ヨハネによる福音書第1章29~41節

イエスは「神の小羊」     ヨハネによる福音書第1章2941節  A年(顕現後第2主日) 2023.1.15

 始めに、このふた月ほどの教会暦について振り返ってみましょう。

 教会暦の一年は、クリスマス前の4つの主日から始まりました。主イエスの御降誕を待ち望みつつ始まった暦は、神の御子イエス・キリストがこの世界においでくださったことを喜び祝うクリスマスの時期を経て、主イエスが公に宣教の働きを始められた顕現節に入っています。先主日は、主イエスが宣教のお働きを始めるに当たり、私たち(罪ある人間)の一人となって共に生きてくださるしるしとして洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになったことを記念しました。

 私はこうした教会暦と教会暦に相応しい聖書の言葉に生かされて信仰生活を送っています。

 今日の聖書日課福音書には、先週の聖書日課福音書に引き続き、洗礼者ヨハネが出てきます。洗礼者ヨハネは、救い主の先駆けとして主イエスを指し示す働きをした人として位置づけられるために、降臨節の時に、登場していたことを思い起こされる方も多いことでしょう。

 降臨節では、洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ者の声」また「主の道を整える者」として登場していました。ヨハネは、自分の後から来る救い主イエスを指し示していましたが、今日の聖書日課福音書では、洗礼者ヨハネが宣教の働きを開始された主イエスにお会いした時に、ヨハネが反応したした様子が描かれています。洗礼者ヨハネは救い主イエスの働きを見て、主イエスのことを大きな声で人々に伝えて証言しているのです。

 今日の聖書日課福音書から、ヨハネが主イエスのことを人々にどのように伝えているか、その内容に目を向けてみましょう。

 洗礼者ヨハネは、主イエスのことを「わたしはこの方を知らなかった」と言っています。しかも、31節と33節にあるようにヨハネは2度「わたしはこの方を知らなかった」と言っていますが、ヨハネはそれに「しかし」と続けてかつては主イエスをしらなかった自分が、主イエスの何を見て、何を経験して、このお方をどのように考えているのかを語ります。

 洗礼者ヨハネは、第1章29節で「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い、また第1章36節でも「見よ、神の小羊だ」と言っています。

 洗礼者ヨハネのこの証言を理解するために、「小羊」という言葉について触れておきましょう。

 「羊」はイスラエルの人々の生活に深く関わって、「羊」という言葉は、旧約、新約聖書をとおして沢山出てきます。主イエスもご自身を良い羊飼いに例えて、「私は良い羊飼いである」と言い、主イエスに従う人々を「羊の群れ」に例えています。羊という言葉は一般的には「プロバトン(pροßatον:sheep)」が用いられますが、洗礼者ヨハネがここで用いている「神の小羊」では「アムノス(aµνοs)」という特別な言葉が用いられています。この「アムノス」は、生け贄として捧げられる汚れのない羊を意味する言葉で、英語ではlabm(生まれて一年経たない仔羊)に近いのかもしれません。そして、このアムノス(aµνοs)は、新約聖書の中では、洗礼者ヨハネが主イエスを指し示しているこの箇所で2度出てくる他には、次の2箇所でのみ用いられている特別な言葉なのなのです。

 その一箇所は使徒言行録第8章32節です。そこにはこう記されています。

「彼は、羊(プロバトン:sheep)のように屠り場に引かれていった。毛を刈る者の前に黙している小羊(アムノス:aµνοs)のように、口を開かない。」

 この箇所は、旧約聖書イザヤ書第53章の「主の苦難の僕の歌」と言われている箇所からの引用です。使徒言行録の中では、異邦人エチオピアの宦官がこの箇所を理解できないままに読んでいたのをフィリポがこの箇所を説き起こしてこの「小羊」はイエスであると知らせました。そして、この異邦人が洗礼を受けることへと導かれています。押し黙って人々の苦難を負う主の僕の姿は「神の小羊」のようで主イエスこそ私たちの苦難を負い贖ってくださる「小羊」だと表現する場面でこの「アムノス:aµνοs」が用いられています。

 「小羊(アムノス)」が用いられているもう一つの箇所はペトロの手紙一第1章19節です。そこには以下のように記されています。

 「・・・あなたがたが・・・贖われたのは、・・・きずや汚れのない小羊(アムノス)のようなキリストの尊い血によるのです。」

 この小羊(アムノス)という言葉は、出エジプト記の出来事を思い起こさせます。イスラエルの民がエジプトで奴隷であった時に主なる神によって救い出され、イスラエルの民はエジプトを出発することになります。その場面で、神はモーセを通してイスラエルの民にある命令(指示)を出しました。その命令とは、イスラエルの民がエジプトを脱出しようとする前夜、闇の中で、主なる神はその地に住む人の中から人間であれ動物であれ長子(雄の初子)の命を取り上げることにするから、イスラエルの家の者はその神の行いを避けることが出来るように、それぞれに目印として自分の家の柱と鴨居に小羊の血を塗っておくようにということでした。そして、この徴のないエジプト人の家の長子が、神に討たれて混乱する中、イスラエルの民はエジプトを脱出することが出来たのです。やがてイスラエルの民はこの小羊の血を目印として、神はそれを信じて行う者には罰を与えずに過ぎ越してくださったことを記念するようになります。彼らは、自分たちの先祖が救い出された日を覚え、春分の日に近い満月の日に過越祭を祝うようになります。そして、主イエスの十字架の死が、人々の罪をご自身が引き受けて神の罰を逃れさせて下さった「過ぎ越の小羊(アムノス)」であったことに気付く時が来るのです。

 洗礼者ヨハネは主イエスこそ真の「過ぎ越の小羊」であると証言しています。

 洗礼者ヨハネはこのように特別な意味をもつ「小羊(アムノス)」という言葉を用いて、自分が出会った主イエスを「見よ、神の小羊だ」と人々に告げているのです。

 主イエスは、ヨハネが授けていた罪の赦しと悔い改めの洗礼をお受けになりました。主イエスはきずや汚れのないお方であったにもかかわらず、罪人の一人に数えられる側に立って下さいました。そして、ご自身が本来負う必要のない苦難を自分の身に負い、やがて屠り場に連れて行かれる小羊のように十字架にお架かりになるのです。洗礼者ヨハネは自分がこの主イエスを指し示すために生かされる者であることに徹して生きた人でした。洗礼者ヨハネは、主イエスがご自分の苦しみと犠牲によってすべての人を罪から救い出してくださる神の子であることを大声で伝えています。

 今日は、この説教の冒頭に教会暦のことを申し上げました。私たちも教会暦の中で、洗礼者ヨハネに促されて主イエスにお会いする備えをする降臨節を過ごし、クリスマスにはこの世に来られた主イエス・キリストを受け入れて祝い、そして先主日には主イエスが公生涯の始めに洗礼をお受けになって私たち罪ある者の側に立って共に生きて下さることを覚えて感謝しました。そしてこの主日に、洗礼者ヨハネから主イエスが私たちの罪を贖い清めて下さる「神の小羊」であることを証しされています。

 この世に顕現した主イエスは、他ならぬあなたの苦難を担ってくださる「神の小羊」であり、ご自分の血によって神の怒りと罰を赦し浄める「神の小羊」であると今日の福音書を通して教えているのです。

 教会暦の中で公の宣教の働きを続けて行かれる主イエスに私たちも従いながら、私たちも「神の小羊」主イエスを自分の主、また救い主として証ししていくことが出来ますように。


*YouTube配信(試行)しています

https://www.youtube.com/watch?v=EdsJDFGrogM

posted by 聖ルカ住人 at 16:14| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月08日

イエス、洗礼を受ける  マタイによる福音書第3章13-17  主イエス洗礼の日

イエス、洗礼を受ける   マタイによる福音書第3章1317   顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 2023.1.08

 今日、顕現後第1主日は、「主イエス洗礼の日」です。

 主イエスの公生涯は、主イエスご自身が洗礼者ヨハネから洗礼を受けることで始まっていきます。

 私たちはこの主日に、主イエスが洗礼を受けて、この世に生きる私たちと共にいてくださる徴として洗礼を受けてくださったことを感謝したいと思います。

 人類学、民俗学、宗教学などの分野の用語に、「通過儀礼(イニシエーション)」という言葉があります。人が、個人としてまた集団として生きていく上で、その生き方がある段階から次の段階に深まったり昇ったりする節目に執り行われる儀式のことを言います。

 イスラエルでは、生まれて8日目に割礼を施しますが、それはその幼子がイスラエル民族の一員であることを示すための徴を身に記す大切なイニシエーションです。幼子はそのことを未だ自覚する年齢ではありませんが、イスラエル民族の一員である徴を身に受け、家族や同朋に迎え入れられ、見守られながら育つ上で大切な儀式であることは、今も変わりありません。

 主イエスも生まれて8日目に割礼を受け、イエスという名を付けられましたが、それから30年ほど経って、イエスは公に宣教の働きを始める時が来ます。

 主イエスにとって、ナザレでの大工として生きてきたことから公に宣教の働きへと転換していくとき、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは大切なイニシエーションであったと言えるでしょう。

 その頃、洗礼者ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授ける運動をしていました。ヨハネは、まことの救い主が世に現れる時は満ちており、その救い主にお会いする備えとして、罪を告白して悔い改めるように、その徴として洗礼を受けるように勧め促していました。

 主イエスは、30歳の頃、ヨハネが洗礼を授けているヨルダン川にやって来られました。きっと沢山の人が列をつくり、順にヨハネの前に進み出て自分の罪を告白して祈り、ヨルダン川に身を沈めていたのでしょう。そして、主イエスが身を沈める番になり、川の中にいるヨハネの前に進み出ます。ヨハネは驚き、主イエスに洗礼を施すことを躊躇いました。

 洗礼者ヨハネは、目の前のイエスが誰であるかを知っていました。ヨハネは自分がイエスに悔い改めの洗礼を授けるのに相応しくないことを知っていました。そうではなくて、主イエスが自分を生かしてくださるお方であることをよく理解していたのです。

 ヨハネはこう言いました。

 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

 これに対して、主イエスはお答えになりました。

 「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは我々にふさわしいことです。」

 これまでナザレで大工ヨセフの子として生きて来たイエスが、人々に神の国を宣べ伝えて生きていくへと変わる大切なイニシエーションを、今洗礼者ヨハネの前でヨルダン川に身を沈めてなさろうとしておられます。

 水の中に身を沈めることは古い自分が水の中に葬られてそれまでの罪が洗い流されることを表し、水の中から上がることは罪のない新しい自分として再び生まれる事を表します。

 本来は罪のない主イエスがヨハネから敢えて洗礼をお受けになるこの儀式には、ナザレで生活してきたこれまでの自分から「人の子は枕するところもない」と言われるまでになって神の国の実現のために命を献げる大切な意味が含まれています。同時に、主イエスが洗礼をお受けになることは、やがてこの世の罪人のために死んで復活なさる「死と甦り」のテーマを宣教の公生涯のはじめにお示しになったことと意味づけることもできるでしょう。

 洗礼者ヨハネは主イエスの洗礼を思い止まらせようとしますが、主イエスは「正しいことをすべて行うのは『我々に』ふさわしい」と言っておられます。ここで主イエスが敢えて「我々に」と複数形で言っておられることに注目してみましょう。

 主イエスが洗礼を受けることは主イエスだけにとって大切なことなのではなく、洗礼者ヨハネによっても大切なことであり、それだけではなくこの世界の人々にとって、またこの世界の歴史の転換点であるという意味においても大切なイニシエーションであったと言えます。

 神さまが私たち一人ひとりに与えて下さった使命とそのご計画は、人それぞれの顔立ちが違うのと同じように、それぞれの人に固有であり、仮に表面的には同じ仕事をしてもその意味は一人ひとり違います。私たちはそれぞれに与えられた取り替えることの出来ない人生を、主イエスに同伴していただきながら歩みます。私たちが正しく神の御心を行おうとする時、その傍らにはいつも主イエスがいて下さることを、主イエスはここで「我々」という言葉を用いて示して下さっていると考えてみましょう。神の子がこの世界に来られて罪人の側に回って下さり、罪人と共に生きて下さり、罪が赦されて一人ひとりが大切は人として受け容れられ、生かされる新しい世界がここに始まるのです。

 このように、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになることは、イエス個人的なことなのではなく、主イエスとヨハネの二人にとっても御心が実現していく大切な出来事であり、それはまた主イエスと今を生きる私たちにとっても大切な事なのです。

 この世に、貧しくされ弱くされている人々がいる以上、その人々が認められ癒され解放されるように自分の使命を全うするのは、主イエスにとってもヨハネにとってもまた私たちにとって相応しいことであり、今、そのイニシエーションが行われるのです。

 そして、主イエスが洗礼をお受けになって水から上がると、すぐに天が裂けて神の霊が主イエスに降りました。当時の人は、天はドームのようになっていて、神はその天蓋の上でこの世界を支配しておられると考えました。主イエスが洗礼を受けてこの世に神の国を伝える働きをお始めになることは、天におられる神とこの世の主イエスの間に何の隔てもない姿が実現することであり、神自らが天を開いてその繋がりを示されたということです。そして、主なる神は、この主イエスのことを「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と言って祝福なさいました。主イエスの洗礼によって、罪ある人が裁かれて滅びることなく、主イエスによって再び生まれ、正しく生きる力を得て神さまのご計画の中に命を得ることが示されたことは天の喜びなのです。

 主イエスが神と私たちとの間にある罪の隔てを取り除いてくださり、私たちはこのお方を信じる信仰によって、誰でも、分け隔て無く、神の御前に進み出ることが出来るようになりました。それは主イエスがただ独り罪無きお方としてこの世の生涯を送ったということに留まらず、神の子が私たちの側に回り、私たちと共にいて下さることなのです。主イエスは、私たちが古い自分に死んで新しい命に生まれ変わるために、私たちと共に生きて下さいます。私たちは、私たちの罪も、過ちも、主イエスによって赦されています。

 やがて教会は、主イエスを救い主と信じて受け容れる人々にとって、洗礼は単なる悔い改めの徴に留まらず、主イエスの死と甦りにあずかって永遠に神の子として生きる約束を与えられるイニシエーションとして引き継ぐようになりました。

 洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになって公生涯をお始めになった主イエスは、十字架の死と復活の後、生涯の一番最後にこう言っておられます。

 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる(マタイ28:19-20)。」

  今日は、主イエスが洗礼をお受けになって公に宣教の働きを開始した事を覚える主日です。主イエスが、洗礼をお受けになって、私たちと共にいてくださることを公に示して下さったことを感謝いたしましょう。

 主イエスがすべての人を洗礼の恵みへと招いておられます。多くの人々に主イエスが共にいてくださる恵みと感謝を伝えていくことが出来ますように。

posted by 聖ルカ住人 at 16:57| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月01日

主イエス命名の日   ルカによる福音書第2章21節    2023.01.01

主イエス命名の日    ルカによる福音書第2章21節    2023.01.01


 世界は、ひび割れた厳しい状況にありますが、こうして新年を迎えられたことを共に主に感謝し、真の平和を祈り求めて行きたいと思います。

 新しい年を迎えた1月1日は、教会暦では「主イエス命名の日」です。今日の聖書日課福音書のルカによる福音書第2章21節にはこう記されています。

 「八日経って割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」

 主イエスの時代、誕生から8日経った日は、イスラエルの民の男児の場合には、二つの意図を持った大切な日でした。その二つの意図とは、名を付けられることと割礼を施されることです。

 割礼は、男性性器の包皮にナイフをあてて開くことで、その行いそのものはイスラエル民族以外の近隣諸民族の間でも行われていたことはエレミヤ書第924節などに記されており、現代でも割礼を行う習慣のある民族、部族もあるようです。

 イスラエルの民はこの割礼をアブラハムによって神との間に結んだ契約とし、イスラエルの民独自の意味を持たせ、この割礼を受けることによってイスラエル民族の一人として認められ、迎え入れられることになりました。イスラエルの民にとって、割礼は神に選ばれた民の一員であることのしるしであり、彼らが「無割礼の者」と言えば、「汚れた異国人」「神の救いの約束から外れている者」を意味しました。そしてキリスト教が主イエスによって民俗宗教としてのユダヤ教を乗り越えて異邦人の間に広がっていくときに、ユダヤ人以外の信仰者に割礼を施すべきかは大きな問題となり、エルサレムで使徒たちの会議が開かれ、割礼は必要ないということが決められたことは使徒言行録第15章に記されています。このエルサレム会議は主イエスの十字架刑の後、10数年から20年近くが経ったことのことであろうと考えられています。

 イエスがユダヤの習慣に従ってこの割礼を受けたということは、イエスも当時のイスラエル民族の一人として生きていくことを表しており、この福音書を記したルカは、イエスはこうしてそのお生まれから十字架の死に至るまでイスラエル民族の一人として生きた神の子であり、イエスは神とイスラエルの民との契約のしるしである律法の下に生き、律法を全うしたことをこの福音書の中で示していくことになるのです。

 イエスが生まれて8日目に割礼を受けたことは、イエスが律法の支配下にあるユダヤ人として、十字架の向かって具体的な働きが始まったしるしとなったと言えるでしょう。

 そして、主イエスの降誕から8日経ったこの日のもう一つの大切な意味は、この幼な児にイエスという名前がつけられたことを記念することです。

 「名付ける」という言葉に注目してみると、原語のギリシャ語ではκaλeω(カレオー)であり、英語のcallに相当します。このκaλeωという言葉は「名前を付ける」という意味にとどまらず、英語のcallもそうであるように、「召し出す、招く、あずからせる」などの意味が含まれています。そして、「イエス」とは「主(ヤハウェ)は救い」という意味であり、まさにこの幼児は「ヤハウェは救いである」ことを人々に示すご生涯がこの名前によって方向付けられ、神の子としての具体的な歩みが始まったと言えるでしょう。

 これまでにも幾度か触れてきたことですが、「良い概念」とはその名の示す範囲(外延)とその内容(内包)が明確であることです。しかし主なる神はそのような範囲(外延)を設定できるお方ではなく、神の存在と働きの内容(内包)については説明しつくすことなどできないお方なのです。

 出エジプト記の第3章の中で、モーセが主なる神の名を尋ねる場面があります。主なる神は、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民を脱出させるためのリーダーとしてモーセを選びますが、モーセはその選びに尻込みして、主なる神に尋ね、神の名を確かめようとします。モーセは、イスラエルの民は私に「お前を遣わしたその名は何か」と問うてくるに違いないが、その時私は彼らに何と言えば良いのでしょうと尋ねます。

 その時、主なる神はモーセに「私はいるという者である(教会共同訳)」「わたしはあるという者だ(新共同訳)。」とお答えになっています。

 つまり、主なる神は何時、どこにあっても、どのような状況の時にも、それぞれの人生に共におられる神であるであると言ってモーセに答えておられるのです。とても名を付けて呼ぶことなどできない神が、人となって、その生まれから馬小屋に追いやられ十字架に磔にされる生涯をおくることになろうとも、この世界に神の御心を示すために来られ、その神の独り子は、「イエス」と名付けられました。そしてイスラエルの具体的な時代状況の中で貧しい人々と共に生きてくださいました。その生涯が、生まれて8日目に割礼を受け、イエスと命名されて始まることを、私たちはこの日に記念しています。

 かつてユダヤ教の指導者たちは主なる神との契約のしるしであった律法を解釈し直して細かな規則ずくめにし、律法の細則はかえって神の御心から人々を引き離し遠ざけてしまいました。主イエスはその隔てをご自身の十字架と復活によって取り除き、主なる神と私たちの関係を回復してくださいました。

 その恵みを私たちはこの主日に確認し、感謝したいと思います。私たちはこの神の子がイエスと名付けられたことによって、主イエスの名によって祈ることができます。

 私はかつて小学生に「イエスの名によってとはどういうことですか」と質問されたことがありましたが、その時私は次のように説明しました。

 私は質問した生徒に「今、授業中だけど、職員室に行ってチョーク(白墨)をもらって来て下さい」と言うと彼は「はい」と言って教室を出ようとしました。

 そこで私は彼に、あなたが授業中であるにもかかわらず廊下を歩いて職員室に入って行って「チョークを下さい」と言えるのはチャプレン小野寺の名によって遣わされるからで、生徒が生徒の名で教室を出て行って職員室で「チョークを下さい」と言っても職員室の先生はチョークを渡してくれないでしょう。この例えのように、私たちは主イエスの名によって祈り、主イエスの名によって祈られたことは神の御前に届けられるし、私たちは主イエスの名によって罪を赦されており、主イエスの名を信じる者を祝福し導いて下さるのです。と説明しました。

 私たちが主イエスの名によって祈ることは、主イエスが私たちを用いて祈ってくださることと同等の意味があり、私たちが主イエスの名によって生きることは、主イエスご自身が私たちの中に生きていてくださることでもあります。

 私たちは主イエスの名によって祈ります。馬小屋に生まれた幼な児がイエスと名付けられたことにより、私たちは救い主イエスの名によって神としっかりと結ばれる恵みを与えられました。私たちの祈りが主イエスご自身の祈りとなって神の御前に届けられ、主イエスご自身の祈りが私たちを通して発せられるのです。このように、主イエスが人となり、イエスと名付けられたことは、私たちにとっても大きな恵みです。

 私たちは、迎えたこの年を、主イエスの御名によって祈り、主イエスの御名によってそれぞれの生活を導かれ、主イエスの御名によって日々の歩みを進めていくことが出来ますように。

posted by 聖ルカ住人 at 06:14| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月25日

言が世に宿った ヨハネによる福音書第1章1~14      降誕日 

言が世に宿った  ヨハネによる福音書第1章1~14      降誕日    2022.12.25

 今年、日本漢字検定協会が選んだ今年を表す漢字一文字は「戦」でした。心の痛む今年のクリスマスです。私たちは、このような年のクリスマスだからこそ、主イエスが、神と人との絆となり、また人と人との絆となるために、この世に来て下さり、神の愛をしっかり示してくださったことを確認したいと思うのです。

 降誕日の聖書日課福音書は、ヨハネによる福音書の第1章1節からの箇所が用いられています。

 この福音書を記したヨハネは、主イエスのことを「言」という一言によって表現して伝えようとしました。

 今年を表す言葉が「戦」であるとするなら、福音記者ヨハネが神の子主イエスを言い表す言葉は「言ロゴス」だったのです。

 教会で、救い主とは何か、どのような意味での救い主なのかを論じ、説明することを「キリスト論」と言いますが、その「キリスト論」の重要な聖書的根拠の一つに挙げられているのが、降誕日の聖書日課福音書に用いられるヨハネによる福音書冒頭の箇所です。

 ヨハネによる福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と始まります。この「言」は、原語のギリシャ語で「ロゴス(λογοs)」と言います。この福音書で、主イエスの生涯を伝えるにあたり、神の子主イエスの性質、性格を、神がこの世界にお与え下さった言(ロゴス)であると言って、その主イエスを誉め称えています。

 それでは、この「ロゴス」という言葉は、どのような意味なのかを理解する必要があります。

 「ロゴス」は、私たちが日常用いているような「言語」という意味もありますが、もっと深い意味があり、例えば私たちが何かを言葉にして話しをするとき、表面に出てくる言葉の源になっている考えや気持ち(例えば、理念や感情、それを言おうとした動機)があり、それを言語化します。私たちの中に「誰かにこのことを話そう」「このことを伝えよう」「この感動を言葉で表現したい」という突き動かされるような思いがあって、それを適切に表現するとき、言葉はその人の内にあるロゴスを生き生きと伝えることができます。福音記者ヨハネが伝える「ロゴス」とは、単に表面に出てくる言葉を意味しているだけではなく、その源にある「本質」を意味して、神は神のロゴスをイエスによってこの世に与えたとこの福音書の冒頭に示し、その内容へと入っていくのです。

 1837年にドイツ人宣教師カール・ギュツラフによって刊行された日本語訳聖書では、ヨハネによる福音書冒頭の箇所を「ハジマリニ カシコイモノゴザル」と訳されていることは広く伝えられています。

 この「賢い」は、広辞苑(第6版)には「「①おそろしいほど明察の力がある。②才知・思慮・分別などが際立っている。」をはじめ、素晴らしい、抜け目ない、望ましいなどと記されています。

 福音記者ヨハネは、天地創造の初めからこの「カシコキモノ」神の言(ロゴス)が神と共にゴザッタと言います。更に14節を見てみると、「言(ロゴス)はこの世に人の目に見える具体的な姿をとって私たちの間に宿った」と言います。神と共にあった言(ロゴス)かしこむべきお方が私たちのところに来て下さったので、私たちは神のお考えをはっきりと確認できました。そのロゴスの具体的な姿こそ主イエスであり、神と共にある神のロゴスであるイエスがこの世に与えられたことを神に感謝し賛美することからこのヨハネによる福音書は始まるのです。

 ヨハネによる福音書の始まりの箇所を読むと、旧約聖書創世記の初めを連想なさる方も多いことでしょう。創世記の初めの部分を読んでみます。

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」

 創世記の冒頭で、主なる神がこの世に神のお考えを具体的行動に表して、一日一日をロゴスによって形作り秩序付けていきます。そして天地創造の第6日に、神は人間をお造りになりました。神はご自分のお姿に似せて、神にかたどって人をお造りになり、祝福してくださいました。ヨハネによる福音書では、このことを第1章3節の言葉でこう表現しているのです。

 「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」

 それにもかかわらず、人はすぐに罪を犯して神の御心から離れてしまいます。そして人は神の御心(ロゴス)との間に大きな亀裂を作り出してしまいました。この世界は神の御心から離れ、人は神と結び直す術を失ってしまいました。人が自分の力でどれだけ神のようになろうとしても、あるいは人がどれだけ自分の力で救いを創り出そうとしても、そうすればするほど明らかになるのは人の積み深さであり、神の御心から程遠いところで傲慢にならざるを得ない姿でした。聖書はこれを「罪」と呼びます。

 人が科学技術を駆使して立派な道具をつくり出しても、それは相手を支配し滅ぼす武器として用いられ、この世界は平和になるどころか、他人を支配し、服従しない者を亡ぼし、人間は互いに関係を壊し、心の溝を深め、ますます神の御心を傷めることへと向かってしまうのです。

 福音記者ヨハネは、4節でこのことを「暗闇は光を理解しなかった」と言っています。この世界は「初めに神のロゴスがあった」という基本、前提を忘れると、人は自分の権力を強くすること、奪うこと、支配すること、欲望を満たすことへと向かってしまい、暗闇の中で滅びへと向かうことになるのです。

 そのような暗闇が支配する世界に、神はご自分のロゴスを御子主イエスによって、私たちの目に見える小さく貧しいお姿となって、この世に送り込んで下さいました。

 ルカによる福音書が記すクリスマス物語によれば、御子イエスは生まれた時、布にくるまれ飼い葉桶の中に寝かされました。誰もその弱く貧しい者を顧みることなく、身重で旅する人が家畜小屋の飼い葉桶へと追いやられるような世界の直中へ、神は敢えてご自身の御心(ロゴス)を示すために主イエスを遣わして下さったのです。

 主イエスが馬小屋でお生まれになったことに表されているように、真の光が暗闇の中に輝いても、暗闇はこの真の光を理解しませんでした。

 ある神学者は「このように人間の欲望が渦巻き罪の満ちる世界の中で、御子が宿るために用意された場所があるとすれば、それは十字架の上だけであった。」と言っています。この世界の人々は、真の光であるロゴスによって自分の暗い部分を照らし出されますが、闇の人々はそのことを認めず、光を理解せず、拒み、掻き消すかのように馬小屋に宿ったロゴスである主イエスを十字架の上へと追いやっていくことになるのです。

 神は、その独り子が生まれる時には馬小屋へと追いやられ、その最期は犯罪人に仕立てられて十字架の上に追いやられることになるとしても、そのことを通してしか知らせることのできない神の愛をこの世に示し、この世界に生きる私たちを愛して下さいました。その愛を神の側から示して下さった記念の日がクリスマスであり、教会はこのことを神の御言葉(ロゴス)の受肉、「神の御言葉が人となった」と表現してきました。

 主イエスは、この世に神の子がおいでになったことなど誰も気づかないような時に、誰もそれとは分からないようなお姿をとって、来て下さいました。それは、たとえ私たちが自分では生きている意味が分からなくなったり生きていることが空しくなるような事があったとしても、神は神の側からこの世界を愛し、私たちが自分では自覚的には神に支えられているとか生かされているとか思えなくても、神は神の側から一方的に私たちを支え生きる力を与え続けていて下さっていることにつながっていくのです。

 そして、神の子は、弱く貧しく小さな存在となって私たちの弱さ、貧しさ、小ささの中に住み、私たちを無条件で愛してくださるしるしとなって下さいました。

 主イエスの生涯はその誕生から死までを通して、神のロゴスが愛と命であることを示しました。ちょうど写真のネガフィルムと印画紙に焼き付けられた絵がまるで違って見えるように、主イエスに神の愛の光が当てられる時、その信仰の目をもって主イエスを見ようとする者には、主イエスの恵みと真理とに満ちた姿が浮かび上がってきます。

 クリスマスは、神の愛が具体的な姿をとってこの世に宿った日です。それと同時にクリスマスは、私たちの罪が神の御子を馬小屋に追いやった日でもあります。

 主イエスを通して示された神の愛を心に深く迎え入れ、神の愛を人々に分け合い、私たちの世界にキリストが生きてくださるように祈り求めて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 09:39| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月18日

神が共にいてくださる  マタイによる福音書第1章18~25       A年降臨節第4主日

神が共にいてくださる   マタイによる福音書第1章1825       A年降臨節第4主日 2022.12.18


 降臨節第4主日を迎えました。

 主イエス不在のクリスマスは華やかです。しかし聖書が伝えるイエス誕生物語は、今日の聖書日課福音書の箇所に限らず、華やかさの根底にある深い感謝と喜びの源を伝えています。

 今日の聖書日課福音書より、マタイによる福音書第1章23節のみ言葉を心に留めましょう。

 『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である。』

 青年ヨセフは、マリアとの結婚を控え、希望に満ちた幸せな時を過ごしていたことでしょう。ヨセフはマリアとささやかな家庭を築き新しい生活を始める期待に胸をふくらませていたと思われます。当時の婚約は律法の上で結婚に等しい重みがあり、今の婚約より遙かに社会的な拘束力も強いものでした。

 その大切な時期に、ヨセフの知らないうちに、婚約者マリアが身籠もりました。ヨセフは驚き、真っ暗闇の底に突き落とされるような思いに襲われたことでしょう。「自分の知らないうちに婚約者マリアが身籠もるとは。私はどうすればいいのだ。」と言って、戸惑い、憤り、悲しむヨセフを私たちは想像することができます。

 マタイによる福音書第1章19節には、「夫ヨセフは正しい人であったので」と記されています。ヨセフは当時の律法に基づいて正しく生きていた人で、婚約期間中も律法に忠実に生活していたはずです。そのヨセフには婚約者のマリアが「姦淫の罪」を犯したなどとはとても考えられません。しかし、ヨセフの目の前には、確かに身籠もっている自分の婚約者マリアがいます。

 もしマリアが姦淫の罪を犯したのであれば、「正しい人」であるヨセフが選ぶるべき道は2つありました。一つは、法廷に訴え出ることです。旧約聖書の律法によれば婚約者の裏切りは既婚者の裏切りと同じ扱いをすることになりますので、法廷に訴えることになります。でも、ここでヨセフがマリアを法廷に訴えることはヨセフがマリアを信じていないことを公にすることになるのです。それでは、マリアはいっそう苦しむでしょう。でも、いずれにしても、やがてマリアが身籠もっていることは誰の目にも明らかになります。

 申命記第2222節以下には婚約者の不貞、姦淫について記しています。

 「ある人が夫がいる女と寝ているのを見つけられたならば、その女と寝た男もその女も死ななければならない。」それに続けて「ある男と婚約した処女の娘がいて、別の男が町の中で彼女に目をつけ、彼女と寝たならば、二人を町の門の所に引き出し、石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。」

 ヨセフが訴え出ればマリアは、申命記第22章にあるとおり、石打ちによって処刑される可能性もあります。それはヨセフの望みではありませんでした。

 そこでヨセフはもう一つの道を選びました。

 それは、マリアとの結婚を密かに解消して離縁することでした。

 申命記第241節には「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、彼女に離縁状を書いてわたし、家を去らせることができる」とあります。

 ヨセフはマリアのことを公にはせず、律法に従ってわずかな証人を立てて、マリアに離縁状を渡し、ヨセフがマリアの許から離れていくという選択肢があります。ヨセフはマリアが身籠もった責任を自分が引き受けて、人々の批判や中傷も皆自分が受けることにして、マリアと別れてひっそりと生きていく事を選ぶのです。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするするのを望まず、密かに離縁しようと決心」しますが、それはこの律法に従っての決断であったのです。

 ヨセフにとってこれが自分に出来る限界でした。この後、マリアが子どもを抱えてどう生きていくかということや、マリアとその子が未婚の母と子という負い目を背負って生きていく困難があることなど、ヨセフには分かっていても、マリアと密かに離縁するのがその時のヨセフには一番「正しい」ことであり、それ以外にはどうすることも出来ない状況にありました。

 しかし、このような悩みと困難の中で、主の天使がヨセフの夢に現れて告げました。

 「恐れずマリアを妻に迎え入れなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。」

 福音記者マタイは、この出来事について、旧約聖書イザヤ書第7章14節の言葉を引用して、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」ということが実現する事なのだと語ります。そしてインマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味であると説明しています。

 ヨセフは自分の悩みと困難の真っ直中で、「神は我々と共におられる」と呼ばれるお方がマリアを通して生まれることを告げられました。ヨセフは、こんなに深く辛い出来事を通して、自分がインマヌエルと呼ばれる救い主の父親となるために選ばれていたのでした。

 マタイによる福音書は、先ず第1章1節からイエス・キリストの系図があり、その直後に今日の聖書日課の個所があります。イエス・キリストの系図の中には、当時いわば「穢れ」とされた者が幾人か混じっています。また、当時の考えによれば、系図は男性によって繋ぐのが当然とされていましたので、今日の福音書の個所のようにイエスの出生が父親のヨセフを通してではなく乙女マリアを通して記されしかもそれを公にされることは、イエスがアウトローの生まれであることを公にすることに他なりませんでした。普通であればこうした記述は伏せておきたいことであったり、出来ることなら他の人に知らせずに済ませたいことであるはずです。福音記者マタイはこの福音書によって主イエスの生涯を記して、このイエスこそキリスト(救い主)であることを知らせているのですが、その始まりに置いた系図で、敢えてイエスは「汚れ」の混じる「罪の子」としてこの世に生まれたことを伝えている、と言えるでしょう。

 そのようにしてお生まれになった主イエスは、やがてインマヌエル(神は私たちと共にいます)をこの世に実現する働きを始めていきます。その生涯は、殊に病の人々や障害を負った人々など、その当時は悪霊に取り憑かれたと考えられ罪人扱いされていた人々と共に生きて、その痛みや悲しみを共に負う生涯でした。

 私たちは他の人と共にいることの大切さを知ると同時に、その難しさを覚えざるを得ません。私たちは、日々の生活のごく身近なことでさえ自分の本当の思いが理解されていない時に歯がゆさや苛立たしさを感じます。主イエスは、その時代の中で、重い皮膚病の人たちや罪人呼ばわりされ差別されている人々と共に生きる道を歩まれました。罪人呼ばわりされる人々たちは主イエスに関わっていただく前には、理解されずに蔑まれ、認められないことで味わう絶望感は私たちの想像を遙かに超えていたと思われます。主イエスはそのような人々と共に生きる事をお選びになり、その人々の重荷を共に担い味わって過ごされ、身をもってインマヌエル(神は私たちと共にいます)という神の子の姿を示してくださいました。そして、主イエスは、最後には十字架の上から、絶望のうちに死に逝く人とさえ共にいてくださることをお示しになりました。

 私たちは、自分の中にある痛みを深く内省する時、他の人々の痛みに対しても少しは共にいることができるようになれるかもしれません。その大切さを認識する一方で、私たちがどんなに他の人と共に生きようとしても、私たちは他の人との間には「共にいる」ことの限界があることも認識すべきです。そして、主イエスは、そのような他の人との間の埋めることの出来ない断絶した孤独感や他の人々が踏み込むことの出来ない奥底にまでも共にいて下さるために、敢えて貧しく汚れた姿をとってこの世界に来て下さったのです。

 マタイによる福音書の最後、第2820節で主イエスはこう言っておられます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」

 神は、主イエスのお生まれの時に「神は私たちとともにいます」ことをヨセフに知らせました。主イエスはそのご生涯を「自分は神に見捨てられている」と思い悩む人々と共に過ごして「神は私たちと共にいます」ことをお教えになり、最後に主イエスを救い主と信じる人々に宣教をお命じになり、その働きに出て行く者と共に世の終わりまで共にいてくださると約束して下さったのです。

 私たちは、主イエス・キリストのご降誕の日を間近にして、インマヌエルの主イエスをお与えくださった神の恵みを思い起こしたいと思います。その感謝と喜びを心に留め、主イエスがいつも私たちと共にいてくださることを喜び祝うクリスマスを迎えましょう。

            願わくは、父と子と聖霊の御名によって。アーメン

posted by 聖ルカ住人 at 09:45| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月11日

洗礼者ヨハネの命   マタイによる福音書11章2~11節

洗礼者ヨハネの命  マタイによる福音書11章2~11      A年降臨節第3主日 2022.12.11

  先主日、私たちは降臨節第2主日の特祷で、「慈しみ深い神よ、あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました」と祈りました。そして、先週の聖書日課福音書では、その旧約時代の預言者として最後の人として位置づけられる洗礼者ヨハネが人々に大声で悔い改めのしるしとなる洗礼を授けている場面が取り上げられていました。

 今日の聖書日課福音書には、洗礼者ヨハネが捕らえられて獄中にいるとき、自分の弟子を使者として主イエスに遣わした箇所が採り上げられています。

 洗礼者ヨハネは、主イエスの所に自分の弟子をおくり、「来たるべき方は、あなたですか」と尋ねさせています。これに対して、マタイによる福音書第1110節で、主イエスは旧約聖書の言葉を用いて「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」と書いてあるのはこの人のことだ、と言って、主イエスが洗礼者ヨハネのことを意味付けておられます。

 洗礼者ヨハネは今、ヘロデ・アンテパス王に捕らえられて獄中にいます。なぜ投獄されることになったのかについては、マタイによる福音書第14章に記されています。

 当時ユダヤの地方を治めていた領主ヘロデ・アンテパスにはフィリポという兄弟がいました。ヘロデは自分の兄弟フィリポの結婚相手であるヘロディアを奪って自分の妻にしてしまうのです。ユダヤの人々はこのようなヘロデ・アンテパスを批判的に思いながらもこの男を恐れて皆黙っていました。ところが、洗礼者ヨハネはヘロデのところに出向き、公然と「あの女と結婚することは律法で許されていない」と告げて批判しました。ヘロデはヨハネを捕らえて牢に入れてしまいます。そしてヘロデは、ヨハネのことを殺そうと思うのですが、民衆がヨハネのことを支持していることを考え、またヘロデはヨハネを殺す理由も見つからず、そのままヨハネを牢の中に置いておきます。ヨハネは、ある意味で臆病者のヘロデ・アンテパスによっていつ殺されるかも分からないまま牢の中で過ごしています。このようにして牢で過ごす洗礼者ヨハネの思いは、わたしたちの想像を遙かに超えて不安であり、また辛いものであったに違いありません。

 洗礼者ヨハネは、ヘロデに捕らえられる前、人々に神の怒りが差し迫っていることを大声で叫び、悔い改めを迫り、洗礼を授けていました。ヨハネは人々に向かって、来るべき救い主にお会いする時に備え、罪を告白して洗礼を受けるように大声で勧めていました。このヨハネは自分の言葉においても行いにおいても、神の義を示す人でした。ヨハネは、ヘロデ・アンテパスが兄弟の妻を奪って自分のものにしたことについても毅然とした態度でヘロデに迫りますが、その事がきっかけになって、ヨハネは投獄されたのです。

 こうして牢にいるヨハネにも、自分が指し示した救い主イエスのお働きについての噂が伝わってきていました。ヨハネは自分の使者(弟子)を主イエスのところに遣わして、主イエスにこう尋ねるのです。

 「来るべき方はあなたでしょうか。」

 ヨハネはこの時、きっと自分がヘロデに殺されることを予感して心が揺らいでいたのでしょう。自分が全身全霊をかけて「見よ、神の小羊」と指し示し、「わたしはその履き物をお脱がせする値打ちもない」と言って紹介したイエスが本当に「来るべきお方(救い主)」なのかと、ヨハネは自分の弟子を遣わして主イエスに尋ねないわけにはいかないほどにその確証を求めたくなっていたのでしょう。ヨハネは神の義に基づいて領主ヘロデを正面から批判した事によって、死を覚悟しなければならない状況に追い込まれています。もし自分のしたことが、何かによって、また誰かによって、しっかりと消えない意味を与えられなければ、自分の人生は空しいものになってしまうとヨハネは思ったのでしょう。そして、ヨハネにとってその「誰か」とは、また「何か」とは、自分が全身全霊をかけて指し示した主イエス以外にはあり得なかったことも言うまでもありません。

 主イエスは、ヨハネが遣わしてきた弟子にお答えになりました。

 「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

 主イエスが伝えたこの言葉は、今日の旧約聖書日課イザヤ書第35章の預言がイエスを通して実現しているということでした。

 このみ言葉は、預言者イザヤがこの世界が神の望む姿に回復した時の姿を謳ったものです。この世界が神の御心が成就したときの姿とは、すべての人の目が開け、すべての人が自分の足で歩き、すべての人が本当のことを聞き分け、死んだ人も生き返り、貧しい人にも喜びの知らせがもたらされるようになることです。イザヤはメシアが到来した時の様子をそのように思い描いて謳っているのです。そして、主イエスはその時が既に今来ているとヨハネに告げなさいと言っているのです。イザヤが預言した救い主の到来はこのように今実現していると主イエスは言っておられます。

 この言葉を受けた洗礼者ヨハネの弟子は、この主イエスの言葉を伝えるためにヨハネのもとに戻ります。それはただ戻るのではなく、主イエスに遣わさていくのです。

 洗礼者ヨハネは、獄中でこの御言葉を受け、イエスこそ確かに自分が指し示してきた救い主であると確信し、安心して主イエスに自分のすべてを委ねることができたことでしょう。いや、それ以上に、洗礼者ヨハネは主イエスを指し示して人々に悔い改めを説いた自分の働きに大きな満足を与えられたことでしょう。

 洗礼者ヨハネは、この後、ヘロデ・アンテパスの誕生を祝う場で、妻ヘロディアの悪巧みによって首を切られて殺されることになります。それでもヨハネはそのようにして自分の生涯が閉じられることになる不安や恐れも乗り越えて、自分が来たるべき救い主を指し示した生涯は確かなそして消えない意味をが与えられていることを確信できたことと思います。旧約聖書の預言者たちが語り指し示してきた神の救いの完成が主イエスによって示されている事を告げられ、洗礼者ヨハネはその確信をもって神のもとに召されていきました。

 洗礼者ヨハネは、「旧約時代の最後の預言者」と位置づけられます。洗礼者ヨハネのことは旧約聖書には記されてはいませんが、救い主イエスにお会いするために「悔い改めよ」と人々に訴えたという意味で、洗礼者ヨハネは「旧約時代の最後の預言者」と言えます。ヨハネの働きが主イエスによって成し遂げられ、意味づけられ、ヨハネはヘロデに殺されても、洗礼者ヨハネの生涯は主イエスによって決して消えない意味が与えられ、ヨハネは永遠の命に生かされています。

 この視点を持って、洗礼者ヨハネの弟子たちのことに移してみましょう。不安を抱いて獄中のヨハネによって遣わされたヨハネの弟子は、主イエスご自身からイザヤ書の御言葉によって自分の先生のしてきたことをしっかりと意味づけていただき、今度は主イエスからいただいたその確信をヨハネのところに携えていく役目を主イエスから与えられています。ヨハネもその弟子も、主イエスによって再び新しい命の中に生かされ、ヨハネもヨハネの弟子たちもこれまでとは違う主イエスの福音の光を放ち始めるのです。

 このことは、洗礼者ヨハネとその弟子たちに限ったことではなく、旧約時代を生きた預言者たちもそうであり、また新約時代を生きる私たちにも言えることなのです。

 天体にたとえるなら、地球も水星も金星も、火星も木星も、太陽を回る惑星はどれも太陽を中心にして位置づけられて初めてそれぞれの軌道が見えてくるように、私たちも主イエスによって与えられた神の愛の中に受け入れられ意味づけられることによって初めて自分が生きていることの確信を得ることができるのです。また、惑星は、自分で光を放つのではなく、太陽の光を映し出しているように、洗礼者ヨハネも、私たちも、主イエスを映し出す時にこそ人々の前に光りを輝かすことができるのです。

 主イエスの御降誕の日が近づいてきます。私たちは、洗礼者ヨハネがそうであったように、私たちも主イエスに受け入れられ、永遠の命のうちに生きることものとされることを教えられます。私たちは主イエスによって与えられる喜びを得て、神の愛の光を映し出す者とされますように。

posted by 聖ルカ住人 at 06:07| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月04日

悔い改めよ  マタイによる福音書3章1~12節   A年降臨節第2主日 2022.12.04

悔い改めよ  マタイによる福音書3章1~12節

 降臨節の第2主日を迎えました。今日の聖書日課福音書には、洗礼者ヨハネが主イエスの先駆けとして、人々に悔い改めを説き罪の赦しを与える洗礼を授けていた物語が取り上げられています。
 私たちは、降臨節第2主日の特祷で「慈しみ深い神よ、あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました」と祈りました。
 この祈りの言葉の預言者の一番最後に位置づけられるのが、洗礼者ヨハネです。
 洗礼者ヨハネは、大声で人々に訴えました。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
 洗礼者ヨハネは、直ぐに来られる救い主を指し示し、人々に悔い改めを宣べ伝えました。
 始めに、今日の福音書から、洗礼者ヨハネの姿に注目してみましょう。マタイによる福音書3章4節にあるとおり、「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野密を食べ物として」いました。主イエスの時代の人々がこの「らくだの毛衣を身に着け、腰に革の帯をしている」という姿を聞けば、誰でも直ぐに一人の偉大な預言者を思い浮かべることが出来ました。それはエリヤです。福音記者マタイは、洗礼者ヨハネがエリヤと同じ格好をしていることに注目し、またこの洗礼者ヨハネの姿から誰もがエリヤのことを連想させる手法によって、この時代の様子をこの福音書の読者に伝えていると言えます。では、福音記者はなぜヨハネの格好に注目しているのでしょう。その事を理解するために、エリヤについて思い起こしてみましょう。
 エリヤは紀元前800年代の預言者です。エリヤの働きは、旧約聖書列王記の中に記されていますが、列王記の上巻から下巻に移る頃に登場してきます。その時代は、イスラエル王たちが異教の神に心を揺さぶられたり誘惑されることの多い時代であり、エリヤはそのような王たちを相手に厳しく戦う預言者でした。その中でも、特に、紀元前850年の頃、イスラエルはアハズヤという王の時代のことです。ちょうど、列王記下第1章にある物語です。
 アハズヤは不信仰な王でした。ある時、アハズヤは王宮の屋上の欄干から落ちて起き上がることが出来なくなってしまいました。アハズヤは、家臣に命じて自分が治るかどうか異教の神バアル・ゼブブに尋ねさせようとします。王の命令を受けた使者たちは出かけていきますが、その途中で彼らはエリヤに出会うのです。その時、エリヤは次のように言います。「あなたたちは、イスラエルに神がいないとでも思って異教の神の所に行くのか。異教の神バアル・ゼブブなどに頼るアハズヤは今寝ているベッドからもう二度と降りることはない。」
 エリヤはこうに言って、王アハズヤの不信仰を激しく非難しました。王の遣いたちはアハズヤの所に戻って、途中でその人から言われたことを王に伝えます。すると王は「お前たちにそのようなことを告げたのはいったいどんな男だったのか」と尋ね、彼らは王に次のように答えるのです。
 「毛衣を着て、腰には革の帯を締めていました。」
 それを聞いたアハズヤ王は言いました。「それはテシュベ人エリヤだ。」
 この姿からも分かるとおり、エリヤは極めて質素に禁欲の暮らしながら、ただ神の御心がこの世に現れることを祈りながら、神の言葉を取り次ぐ預言者でした。福音書に登場する洗礼者ヨハネも、このエリヤと全く同じ姿をしています。福音記者マタイは、洗礼者ヨハネをエリヤの再現として位置づけて描いているのです。そしてそのヨハネは、人々に悔い改めを迫り、罪の赦しのしるしとなる水による洗いを施す運動を興していたのでした。
 旧約聖書のいちばん最後にマラキ書がありますが、その第3章23、24節にエリヤについてこう記されている箇所があるのです。
 「見よ、わたしは大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。」
 マラキ書は、主なる神はこの世界に対して最後の審判を下される時に、その先駆けとして預言者エリヤを遣すと預言しました。旧約聖書の時代も時が進むと、イスラエルの人々の間に、裁きの時が来て、その時神に選ばれた者は救いに入ることができると考えるようになってきました。そして救い主の誕生が待ち望まれる時代になっていました。
 このような時代に洗礼者ヨハネは現れました。ヨハネは預言者エリヤの姿と重なります。ヨハネは大いなる恐るべき日が来る前に遣わされるべきエリヤであり、救い主の先駆者となり、救い主イエスを具体的に指し示したことを福音記者マタイは私たちに伝えているのです。
 救い主の先駆けである洗礼者ヨハネはこう言います。
 「悔い改めよ、天の国は近づいた。」
 私たちは、今、教会暦では、神の御子イエス・キリストを迎える備えの時を過ごしていますが、私たちは今日の聖書日課福音書から、救い主の到来が間近であることを思い、その備えをするように促されています。洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、神の子を迎える時は近づいた。」と私たちに向かって叫んでいます。もし私たちが罪に支配され、私たちの心が罪に占領されているとしたら、私たちの中に神の御子を宿せる場所は用意されていないことになります。罪を悔い改めようとしない者にとって「終わりの時」とはその罪が顕わにされ、裁かれる時になるでしょう。そうであれば、罪を悔い改めない人にとって、裁き主にお会いすることは、先のマラキ書の言葉のように「大いなる恐るべき日」になるでしょう。私たちは洗礼者ヨハネの「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉をどれだけ真剣に、どれだけ自分のこととして聞いているのでしょうか。
 もし、私たちが、たった今主なる神と顔を合わせてお会いするとしたら、私たちはどんな思いになるのでしょう。或いは、主なる神が、たった今、この世界の営みを全て完成すると宣言なさるとしたら、私たちはどのようにその時を迎えるべきなのでしょう。その時、私たちはやるべきだったのにやり残したり真剣に向き合うべきだったのにそうできなかったことや、相手と和解すべきだったのにそのままにしてしまったことや、与えられ利用したりはしたもののこちらからは与えず尽くせずにやりに残してしまったこと、やり足りなかったこと等々が一瞬のうちに浮かび上がり、裁かれて当然である自分を思い知ることになるでしょう。
 私は「終わりの時」について色々と考えるとき、いつも思い出すことがあります。それは、20年以上も前に、車を走らせていた時にラジオから流れていた番組で紹介されていた川柳の一句です。
 それは、「オペ前夜懺悔をしたきことばかり」という句でした。手術を明日に控えた病院のベッドで、独りで、手術についての不安だけでなくこれまでの自分のあらゆる言葉と行いが思い出されてくる心の内が、よく表現されていると思います。
 このような思いを糸口に考えてみると、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、神の国は近づいた」と説く言葉は、私たちにとっても切実な課題であり、しかも神の子を迎える準備をする私たちに相応しい言葉であることが理解できるのではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネが迫る「悔い改め」は、やがていつか来る時の備えではなく、今ここで、自分の心をしっかりと神に向けることなのです。私たちの心の奥底にある自分の罪深さを認めて向き合い、そこに宿ってくださる御子イエス・キリストを迎える準備をするために「悔い改めよ」と洗礼者ヨハネは訴えています。
 主イエスを救い主と信じて受け容れる人にとって、洗礼者ヨハネの「悔い改め」を促す言葉は、恐ろしい言葉なのではなく、私たちが主なる神とお会いする喜びへの招きです。主イエスを私たちの内に深くお迎えできるように、御心に適う備えを進め、悔い改めにふさわしい実を結べるよう、洗礼者ヨハネの言葉を迎え入れ、導かれて参りましょう。


posted by 聖ルカ住人 at 15:56| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年11月28日

主にお会いする備え   イザヤ書2章1~5節 降臨節第1主日 2022.11.27

主にお会いする備え    イザヤ書2章1~5節  降臨節第1主日 2022.11.27

 教会の暦は新しい年に入りました。
 今日は、聖書日課から旧約聖書の言葉を中心に、私たち一人ひとりが主なる神をしっかりと心の中に迎え入れ、主なる神に私たちの心の奥深くに宿っていただけるように、その備えを進めていきたいと思います。また、私たちが主なる神さまに迎え入れていただくのに相応しい備えが出来るように、導きを受けたいと思います。
 はじめに、今日の旧約聖書日課からイザヤ書2章5節の御言葉を思い起こしてみましょう。
 「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」
 まず、このようにイスラエルの民に呼びかける預言者イザヤがどのような時代を生きた人であり、そのような状況の中でこのように預言しているのか、その背景を理解しておきましょう。
 イザヤ書第1章1節に、イザヤが生きた時代が次のように記されています。
 「これは、ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである」。
 イザヤが預言者として召し出されて働いたのは、紀元前740年頃から紀元前700年の頃の約40年間でした。
 イスラエルが王国となりサウル王が初代の王となったのが紀元前1020年のことで、ダビデが紀元前1000年に王となってイスラエルを一つの纏まった国として首都をエルサレムに定めました。ダビデの40年の統治の後、その子ソロモンもほぼ40年にわたってイスラエルを治めました。ことにソロモンの時代には周辺諸国が弱体化し、イスラエルはそれに乗じて国力を強めますが、ソロモン王の時代が進むと王国を維持するための税金が重くなったり、ソロモンが異国の宗教や文化を取り入れることに多額の資金をつぎ込むことで生じた貧富の拡大や軋轢が表面化してきます。そして、ソロモンが死んでその子レハブアムが即位すると直ぐに、国は紀元前922年に南北に分裂してしまいます。
 そのような南北分裂の時代の中、紀元前780年の頃、南イスラエル(ユダ)の国にウジヤ王が即位します。ウジヤ王の時代に、周辺諸国が対立し合って力を落としていたこともあり、イスラエルの国は南北ともその隙間をぬうように繁栄を回復します。それは、ダビデやソロモンの時代の繁栄の再現と言われるほどになり、ソロモン王末期の時代と同じように、人々の心は変わり始めます。
 国が繁栄して国の力が付くということは、国民全体が平均して豊かになるということより、先ず支配者階級が力をつけて貧富の格差が広がって、権力者たちはその富み上にあぐらをかくようになり、次第に傲慢になり、貧しい人や弱い人を虐げ蔑むようになってくるのです。そして、権力者たちは、ますます贅沢になり、不正に対して無感覚になり、それに対する批判を力で押さえつけ、神に聞き従うことを忘れます。国の中では貧富の差は大きくなり、特権階級にある人々は形の上では派手な捧げ物をして神を敬っているかのように振る舞いながらも、その内実は神の御心に従うことなどすっかり忘れてしまいます。
 イザヤが現れたのは、こうしたウジヤ王の時代の末期であり、イザヤはこのような時代の王と支配者層たちに向かって、特に彼らの驕り高ぶりに対して、神の厳しい裁きの言葉を取り次ぐことになるのです。
 イザヤは、主の御言葉に聞き従うことを忘れまた主に信頼することを忘れたイスラエルの指導者層たちに向かって、開口一番、イザヤ書第1章3節で次のように神の御言葉を取り次ぎます。
 「牛はその飼い主を知り、ロバはその主人のまぐさ桶を知る。しかし、イスラエルの民はそれを知らず、我が民は悟らない。」
 その当時、牛もロバも愚鈍な動物とされていました。そんな動物でさえ自分の飼い主を知り、自分を養う主人の飼い葉桶も見分けられるのに、イスラエルの民は自分の飼い主が誰なのかも分からなくなってしまっていると、イザヤは指摘します。あなたたちは自分を神に選ばれた民、エリートだ、と言って驕り高ぶっているが、自分の主人が本当は誰なのかも忘れ、主なる神に信頼する心をすっかり失っていると言って、イザヤはイスラエルの指導者たちを糾弾し、そのようなイスラエルの民とその中心であるエルサレムについての審判を預言しています。そして、イザヤは今日の旧約聖書日課で、終わりの時の幻について語り、第2章5節でイスラエルの民が何に基づいて生きるべきかを訴えるのです。
 「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と。
 「ヤコブの家」とは、神に選ばれたイスラエルの民を意味します。その民に向かって、主なる神とお会いする日のために「光の中を歩もう」と、イザヤは言います。ウジヤ王の時代のほんの一時的な繁栄に酔いしれているうちに、イスラエルは自分たちが最も信頼すべきものが何かを忘れ、周りの国々の風向きを気にしながら生き延びることを考えるようになってしまいました。イザヤから見れば、また、イザヤを通して語りかける主なる神の目から見れば、ソロモン王の時代も、ウジヤ王の時代も、ほんの一瞬の繁栄であり、その繁栄はかえって人を惑わし人の目を暗くする闇でしかったのです。一時の繁栄によって与えられた贅沢と驕り高ぶりによって、イスラエルの民の目、とりわけ権力者や指導者の目は、すっかり曇り、神の前に本当のことや正しいことを見極める力を失っていたのです。
 イザヤは「主の光の中を歩もう」と言っていますが、天地創造物語で、神は「光あれ」という言葉からこの世界の創造を始めておられます。人は主なる神がお与えくださる光の中を歩むことによって秩序付けられ、生かされることは、天地創造物語が教えているところです。主なる神は、闇が覆い混沌としたこの世界に向かって先ず「光あれ」と言って、光によって創造の働きを始めておられるのです。このことを思い起こせば、イザヤが「光の中を歩もう」と言っている意味も自ずと明らかになって参ります。
 私たちは日々の生活の中で、何が正しいのか、何に導かれるべきなのかをつい見失いやすい時代に生きています。今から2800年近く前にイザヤが生きた時代とちょうど同じように、私たちの生きる社会も僅かひとときの経済的繁栄の後、何に頼り何に基づいて生きるべきかを忘れ、私たちも創世記の初めにあるような闇と混沌が覆う世界に生きているのではないでしょうか。
 イザヤは「ヤコブの家よ」と呼びかけていますが、実は私たちもこのヤコブの家-新しいヤコブの家-の者なのです。私たちは、イスラエル民族という血筋によって選び出された者の家にではなく、主イエスを救い主とする信仰によって一つとされる者の家に生きる者なのです。この信仰の家に住まい生きる人は、主がお出でになってこの世界に神の御心が満ち溢れる時の姿(ヴィジョン)が、イザヤ書の2章4節によって示されています。
 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」
 主なる神は、このような世界へと私たちを招いておられます。争い破壊することではなく、生み出し支え合う事へと私たちは促されています。私たちは何もせずにただじっとして神の御心が完成されるのを待ち望むのではなく、私たちの側から光の中を歩む具体的な一歩として、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す生き方を始める必要があるのです。それは、たとえて言えば、神と私たちとがトンネルを反対方向から掘り進めるような事であり、トンネルがいつ繋がり完成されるのはか分からなくても、私たちの側からは主イエスの働きとして平和の完成のトンネルを掘り進めていくことを求められています。そして、神の側と私たちの側は確かに一つになることを私たちは既に主イエスのこの世のお働きと十字架の死、復活、昇天によって示されているのです。
 教会暦では降臨節に入り、私たちは主イエスにお会いする希望を新たにしてます。神の御言葉を私たちの心の奥深くに宿らせることが出来るように祈りながら、今日の御言葉によって神の光の中を歩むことが出来るように導かれて参りましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 22:50| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする