主の道を整える ルカによる福音書第3章1~6節 降臨節第2主日 2024.12.08
今日の主日の主題は「主の道を整える」ことであり、特祷も聖書日課は旧約、使徒書、福音書とも、主の道を備えることに触れられています。
現在、私たちの聖餐式で拝読される聖書日課は3年周期になっており、降臨節から来年の11月の末まで、今年はC年の日課を用いる年です。C年の聖餐式聖書日課では、ルカによる福音書を中心に学び導きを受けることになりますが、降臨節第2主日の福音書の箇所は洗礼者ヨハネが荒れ野で罪の赦しを得させるための洗礼を受けるように人々に宣べ伝えた箇所がとり上げられています。
洗礼者ヨハネは「主の道を備えよ、その道筋を整えよ」と大声で人々に訴えました。その頃、世の中は救い主の到来を待ち望む気運が高まっていました。人々の中には、こうして叫ぶ洗礼者ヨハネのことを、この人が待ち望んでいた救い主ではないか、と考える人もいました。でも、ヨハネは間もなく現れるであろう救い主にお会いするために、人々にそれに相応しく準備するように訴え、救い主を指し示す者として徹しています。
このことについては、マタイ、マルコ、ルカの3福音書とも同じ観点で記されていますが、今日の聖書日課福音書の箇所を他の福音書を比較してみると、ルカによる福音書の特長がはっきりしてきます。
その特長の一つは、ルカによる福音書は、第3章1,2節に見られるように、洗礼者ヨハネの出現を、世界の歴史とその中でのユダヤの歴史の中にしっかりと位置付けているということです。それは、世界の歴史の中で事実として起こった出来事である事を伝えるだけでなく、洗礼者ヨハネが先駆けとなって指し示す救い主が世界史の中でどのような意味を持つのかということに関わるその時代設定をはっきりさせている、定位させているということです。
もう一つ、ルカによる福音書のこの箇所の特長を挙げれば、マタイ、マルコ、ルカの3福音書はどれも旧約聖書イザヤ書第40章3節の言葉を引用して洗礼者ヨハネの働きを説明していますが、ルカによる福音書はイザヤ書第40章3節だけでなく3節から5節までを引用しているということです。
マタイとマルコはイザヤ書の「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」までを引用していますが、福音書ルカはそれ以降の「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人はみな神の救いを仰ぎ見る」までを引用しています。
福音記者ルカが、このようにイザヤ書の引用部分を他の福音書よりも長く用いているのには、その意図があります。
それはマタイもマルコも、この場面設定の中で、洗礼者ヨハネに「主の道を整える」ことを訴える役割を取らせているのに対して、ルカはそれ以上のことを伝えようとしていることが想像できます。つまり、マタイとマルコは「主にお会いするために相応しい道を整えよ」と伝えているのに対して、ルカはそれだけでなく「そうすれば主自らがあなたの道を整えてくださる」ということを読者である私たちに伝えようとしている、ということです。
「道」という言葉は、色々な意味を含んでいます。ヨハネによる福音書では、主イエスが「私は道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)」と言っておられます。「道」は単に人や車が行き交う「道路」を意味するだけではなく、しばしば、目的、生き方、教義、方向性などを意味して用いられます。それは、旧約聖書でも新約聖書でも、人の生き方、或いは人が人として踏み外せない目標への歩みや方向性などを意味して用いられています。そして、今日の主日のテーマである「主の道を整える」ことも、私たちの心の内に主ご自身をお迎えする思いをもって、その思いを真っ直ぐに主なる神に向けるべきことを意味していると言えるでしょう。
この「道」は、私たちが主なる神と出会う道です。洗礼者ヨハネや預言者たちを通して語られてきた言葉が私たちの現実とぶつかり合って、そこから私たちが更に深く主なる神にを迎え入れるための道です。
教会は昔から聖書の言葉を前にして祈り、静想することを大切にしてきました。それは自分の中に「主の道を備え、整え」、主の御言葉によって自分が導かれるようになるための大切な方法でした。
もっと身近な事例を挙げるとすれば、私がかつてある教会に招かれて聖餐式の司式と説教の奉仕をした時のことです。その教会では主日の礼拝が終わると、礼拝に出席した殆どの人が聖堂脇の小さな集会室に移って、ささやかな「お茶の会」になります。その教会の「お茶の会」は、礼拝出席者が教役者を囲み、その日に受けた聖書箇所の内容や説教についての思いを語り合い聞き合う事が自然に行われていました。そこには、御言葉が大切にされ、自分が御言葉によって養われるために「主の道を整える」習慣が身に付いた素敵な会衆があり、聖書を中心にした良い交わりが持てている教会の姿に感服したことがありました。こうした交わりの助けを得て、信仰者はいっそう主の道を整え、この主の道を通って私たちは主に向かい、また、私たちを現状から御国へを導き出していただくことになるのでしょう。
聖書の言葉が私たちを養い導きます。そのみ言葉をしっかりと心に受ける事が「主の道」を整えることにつながります。
ヤコブの手紙第4章4節に次の言葉があります。
「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」
主の道を備えることは、私たちが主なる神に近づくための道を備えることであり、それは取りも直さず神が私たちに近づいて来てくださるのです。
私たちは、御子イエス・キリストを迎える「道」を自分の内に整えたいと思います。
一方、こうした教会の姿の対極にあるような、主の道の備えのない姿を、旧約の預言者アモスが次のように預言していることを思い起こしてみたいのです。
「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。
私は地に飢えを送る。
それは、パンの飢えでも水の乾きでもなく、
主の言葉を聞くことへの飢え渇きなのだ(アモス8:11)。」
この「飢えと渇き」は、パンや水の飢え乾きのように直接身体的に自覚される飢え渇きではなく、それは自覚されないままに暴力や次元の低い快楽などの代用物に魂を奪われ、自分が飢え乾いていても御言葉そのものを慕い求めることのできない「魂の飢餓」(魂の栄養失調)です。
こうしたことを踏まえると、福音記者ルカがイザヤ書第40章の言葉を引用している意図が見えてきます。
私たちが自ら主の道を整えることで、主ご自身が私たちに近づいてくださり、イザヤの言葉のとおり「人は皆神の救いを仰ぎ見る」ことへと導かれるのです。
洗礼者ヨハネが活動を始め、それが荒れ野で「主に道を備えよ」という意味の働きであったことは、私たちに対して、救い主と出会い救い主を迎えることへの促しとなり、人を生きる基本へと立ち返らせる促しになります。
主イエスがお生まれになる頃のイスラエルは、政治的にはローマ帝国に占領され、民の中には神の国イスラエルを政治的に独立させることこそ解放であると考えて、武力による反抗を企て、テロに走る人々もいた時代です。そのような時代に洗礼者ヨハネは告げました。
「救い主は近い。あなたの中に主の道を整えよ、あなたが主と出会う道筋をまっすぐにせよ。そうする者には主ご自身があなたを導く道を整えてくださり、救い主があなたをお導き下さる。」