2022年09月26日

金持ちと貧しいラザロ  ルカによる福音書第16章19~31 聖霊降臨後第18主日(特定21)

金持ちと貧しいラザロ    ルカによる福音書16:19-31   聖霊降臨後第18主日(特定21)  2022.09.25

 今日の聖書日課福音書は、主イエスがなさった「富める者と貧しいラザロ」の物語の箇所が取り上げられています。主イエスは、この物語によってファリサイ派の人々を厳しく批判しておられます。
 私たちは、この「富める者と貧しいラザロ」の物語を、もう少し前の箇所からの脈絡を踏まえて理解し、導きを受けたいと思います。
 今日の聖書日課福音書は、ルカ第16章19節からですが、ルカによる福音書第16章1節からの箇所には、先主日の聖書日課福音書であった「不正な管理人のたとえ」があります。その箇所は、理解しにくく誤解されやすい内容でしたが、その要点は、「この世の富を他の人のために用いて、自分の魂の救いを得なさい」という教えでした。
 その例え話を聞いていたファリサイ派の人々が、それに続く第16章14節にあるように「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスを嘲笑った」のでした。ファリサイ派が主イエスを嘲笑ったのは、主イエスとファリサイ派の間で、この世の富に関する理解が全く違っていたからです。そこで主イエスは、ファリサイ派に対してこの「富める者と貧しラザロ」話をし、ファリサイ派のこの世の富に対する態度を厳しく批判したのでした。
 主イエスはこうした脈絡の中でこの「金持ちと貧しいラザロ」の話をしておられることを踏まえて読んでみると、私にはルカによる福音書第16章全体で何を伝えようとしているのか、その中で、この「金持ちとラザロ」の話がどのような意味を持つのかが浮かび上がって来るように思えます。
 金持ちは、いつも紫の衣服や柔らかい麻の衣を着て、贅沢に遊び暮らしていました。このような衣服は、当時の貴族や金持ちが身に付ける物でした。金持ちは、この衣服を身にまとい高価な料理を食べ、毎日贅沢に遊び暮らしていたのです。当時の食事は、フォークやスプーンを使わずに右手で食べ、その指をパンを手ふきナフキンの代わりとし、手を拭ったパンはそのまま捨てることが贅沢とされ、金持ちであることを示す行為でもあったと考えられています。そして、彼らは財産にも恵まれてそのような贅沢な生活が出来ることは神の祝福のしるしであると自惚れました。
 一方、ラザロ(神は助けという意味)という貧しい者は、この金持ちの家の前で座り込み、この金持ちが手を拭いて投げ捨てるパンで飢えをしのいでいたのでしょう。ラザロは体中にイヤなできものがあり、その体は弱り果て、自分の体をなめる犬さえ追い払うことが出来ませんでした。犬は当時のユダヤ社会では汚れた動物であり、ラザロの体をなめる犬は、野良犬であったと考えられます。犬もきっと金持ちが指先を拭って投げ捨てるパンを食べにやってきていたのでしょう。金持ちにとってラザロはこのような野良犬同然であり、この野良犬の他にラザロに関心を向ける者はありませんでした。
 やがて二人とも死にます。死んだ後、二人はどうなるのでしょう。
 ラザロは神の国に迎えられ、生前には紫の服を着た金持ちであった者は陰府の苦しみの中でもだえています。ラザロのことについては22節で「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」と記されています。アブラハムは、イスラエル民族の父祖であり、救いの約束を受けた神の民の父祖とされています。貧しかったラザロは何の業績にもよらず、いま、神の国に迎えられています。一方、贅沢に暮らした金持ちは死者の国の中で苦しむのです。
 このラザロの物語の後半部分は、死後の世界が舞台です。主イエスは、その場のファリサイ派に向かって、あなたがたの人生を終わりの時から照らし返して、あなたがたは今の人生をどう生きているのかと厳しく問いかけておられるのではないでしょうか。
 何故この金持ちは死者の国に落とされたのでしょう。この金持ちは何か悪いことをしたのでしょうか。この物語の中で、金持ちはラザロを追い払いもしませんし、意地悪をしたわけでもありません。
 先ほども少し触れましたが、当時ファリサイ派は、金持ちであることは神に祝されたしるしであると考え、贅沢に暮らすことも神から祝福を受けた者の特権だと考えました。また、彼は貧しいラザロの体にイヤなでき物があるのはラザロ本人かラザロの先祖の罪の結果がラザロに表れていると考えました。このようないわば因果応報の考えは、当時のファリサイ派のごく当たり前の考えでした。
 でも、金持ちが貧しいラザロの存在を知りながら、ただ紫の服を着て毎日贅沢に遊び回ることは、本当に神さまの御心なのでしょうか。神は、金持ちとラザロがいつまでもそのままの関係にいることをお望みなのでしょうか。
 「愛」という言葉は、論理学の上では反対概念を持つ言葉ではありませんが、その意味を考えて「愛」の反対語は「恨み」や「憎しみ」であるより、「無関心」「無関係」という言葉の方が適切であるということはよく指摘されています。主イエスがお示しになった神の愛は、ルカ第15章にある「見失った羊」や「放蕩息子」の例えにもよく示されているように、どこまでも相手を思い、関わり続けることに表わされます。ファリサイ派の人々は、自分を高みに置き、貧しい人々を見下して関わろうとせず、律法に従って生きることの出来ない人々を罪人として排除しました。主イエスの目から見ると、貧しくされた人を少しも顧みないファリサイ派の形式主義的な生き方は、彼らがどれほどこの世の富をもとうと、愛とは正反対であったのです。
 この金持ちが生前にラザロを虐げなかったにもかかわらず陰府で苦しむことになったのは、彼が目の前のラザロに関わらなかった事に因ります。神がこの金持ちに求めていたのは、自分が満ち足りてそれで良しとするのではなく、自分の目の前にいる貧しい者に仕え、その人に神の御心が現れ出るように関わることだったのではないでしょうか。主イエスは、愛とはそのような具体的な行為であることを伝えておられるのです。
 先主日の福音書の中で、主イエスは「不正の富を用いて友達を作りなさい」と弟子たちに言っておられますが、ファリサイ派たちはこのイエスの言葉を嘲笑うのではなく、まさに彼らの目の前にいるラザロのような人々に対して、この世の富を用いて、神の愛を実践しなさいという言葉として受け止めねばならず、私たちもそのように受け止めたいのです。
 貧しい人こそ救われなければならないと言うことは、ルカよる福音書の大きなテーマです。例えば、第6章20節で主イエスは「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言っておられ、更にそれに続けて「富んでいるあなたがたは、不幸だ。あなたがたはもう慰めを受けている(24節)」とも言っておられます。
貧しい人が貧しさのためにそのまま滅びることは神の御心ではありません。富む者が貧しい人に関心を持てばその富によって具体的に貧しい人を助け出すことが出来るかも知れません。それなのに、何もしないのは神の御心が行われないことは不幸であると主イエスは宣教のごく始めの頃に言われました。その不幸な姿が、今この貧しいラザロと金持ちの前にあるのです。
 私たちはラザロの貧しさにもっと関心を持つべきです。その関心を持ってこの世界を見回してみると、神さまがお創りになって祝福して下さったはずのこの世界が今どんなに御心から離れてしまっているかに気づき、心が痛むはずです。世界の全ての人が神の祝福を等しく分け合って生きることへと促されるはずです。そして、信仰者であれば、主イエスの厳しい御言葉をどのように受け取めることができるか、自分自身の内なる世界の吟味にもつながるはずです。
 ファリサイ派の人々は、このような教えを説く主イエスを拒否して、殺すことを考えました。その一方で、徴税人頭ザアカイのように、主イエスと出会い悔い改めて旧約聖書の律法以上の施しと償いをするように変えられる人も生まれてきます。主イエスを知った時、主イエスを自分の中にどう受け止めるかによって、その後の歩みの方向はまったく違ってくるのです。私たちは主イエスとすれ違うだけなのでしょうか、それとも本当に出会おうとするのでしょうか。私たちは天の喜びはがどこに生まれると考え、信じるのでしょう。
 今、日本では、政治が金銭や物に対する貪欲によって動かされてきたことの破綻が目に見え始めました。そして、貧しい人々や弱くされている人々に対する関心はうすれ、貧富の差は広がっています。こうした時代の中に生きる私たちは今日の聖書日課から「あなたはラザロを愛するか」と厳しく問いかけられているのです。
 更に先主日の福音書にまで遡って考えれば、「あなたはこの世の富を用いて神に対して負債のある者の友になろうとしているのか」と私たちは主イエスに問いかけられています。
 物の豊かさの中に生きてきた私たちに向けられた主イエスの御言葉を心に深く受け止め、今の世界の有様にもしっかりと目を向け、主イエスに導かれて、神の愛と力を増し加えていただけるよう祈り求めて参りましょう。
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2022年09月19日

負債を引き受ける ルカによる福音書16:1-13  聖霊降臨主日後第15(特定20)

負債を引き受ける  ルカによる福音書16:1-13    2022.09.18   聖霊降臨主日後第15(特定20)

 今日の聖書日課福音書は、ルカによる福音書第16章1節~の「不正な管理人のたとえ」と呼ばれている箇所です。
 先ずこの例え話の内容を簡単に振り返ってみましょう。
 ある金持ちの主人がいて、その主人には財産の管理人がいました。主人は、管理人が財産を無駄遣いしているという噂を聞いて、管理人を呼び出し、会計の報告をさせてその職を辞めさせようとします。その時、困った管理人はこう考えるのです。「自分はもうここを追い出されるかも知れない。その時に自分を迎え入れてくれるような仲間をつくればいい。」
 そこで管理人は、主人に沢山の負債のある人を呼び出して、証書の負債額を少なく書き直させるのです。油100バトス借りのある人には「50バトスに書きかえなさい」と、また、小麦100コロスの負債のある人には「ここに主人の証書があるから、80コロスに書きかえなさい」と言いました。この管理人のことを知った主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり口をほめた、というのがこの例え話の粗筋です。
 書き替えられて軽くされる負債の額は、油の場合も小麦の場合も、ほぼ2年間の労働賃金に匹敵すると考えられます。もしこの話が例えではなく実際に他人の負債を勝手に処理する話であれば、この管理人の行為は主人に対する背信(裏切り)です。でも、主イエスがこの例えで教えておられるのは、実際の金銭の品物の貸借のことではなく、私たちが神に対して負っている支払いきれない負債-つまり罪-のことであることを、先ず確認しておきましょう。
 そしてもう一つ、「不正にまみれた富」という言葉を理解しておきましょう。
 9節と11節に「不正にまみれた富」という言葉がありますが、この訳は「聖書-新共同訳(1987年)」の訳です。「聖書協会訳(1954年)」も「聖書協会共同訳(2018年)」も、この言葉を直訳的に「不正の富み」と訳しています。私はこの箇所の「不正な」という言葉を「悪事を働く」という意味ではなく「神の御心に結びついていない」という意味で理解することが大切であると考えます。なぜかと言えば、この「不正の」の原語である「αδικοsアディコス」という言葉は「義ではない、不義な」という意味であり、犯罪にならない行為も神の御前に「義ではない、不義とされる」ことはいくらでもあることなのです。「富、財産μαμωναsマモーナス」は本来は善でも悪でもない便利で大切なものですが、それが人によって慈善ためにも悪事のためにも用いられるのです。神の御心から離れた行いは、それがこの世の犯罪であるかどうかの問題ではなく、「δικαιοsディカイオス 義なる 正しい」の反対の「αδικοsアディコス 不正の、不忠実な、不敬虔な」という視点からの問題になるのです。
 この箇所で「不正にまみれた富」と訳されている言葉は、「悪事を働いて儲けたお金」というような意味ではなく、「神の御心に則していない、この世の思いや価値感覚にまみれた富」というような意味に重点があることを理解しておきましょう。
 さて、私たちは、この世の法律に触れるような犯罪人ではないにしても、神の御心から離れれば、不義の者であり罪人であるとも言えます。私たちは神から取り替えることの出来ない大切な存在としてこの世に命を受けています。それにもかかわらず、私たちが自分の本来の姿から離れていることは神に対して負債があると例えられ、しかも私たちは神に対して返済することの出来ない多額な借金をしていることに例えられるのです。
 当時のイスラエルの民にとって、「神との関係に負債がない」とは、神との契約を文字通りに正しく守る事であると考えらました。そして、律法に反する行為は神に対する負債があることに例えられ、人はその罪の身代わりの動物を生け贄として献げることでその罪の汚れが清算されると考えました。しかし、イスラエルの中でこのような神殿での礼拝が儀式化してくると、特に裕福な人々は貧しく小さくされた人や罪に汚れた人を顧みることを忘れはじめます。生け贄を捧げる彼らの礼拝は次第に形ばかりのものとなり、祭司たちや律法学者たちはその制度の上にあぐらをかいて、律法を全うできない人々をそのままにして差別体質を残し、指導者たちは自分を救われた側に置いて神殿の利益を貪るようになっていったと言えます。
 今日の旧約聖書日課のアモス書の言葉にも見られるとおり、アモスはそのような神殿の指導者たちを厳しく糾弾しています。
 主イエスは、人の罪や不義は神殿での礼拝をすることの出来ない貧しくされた人々にあるのではなく、ユダヤ教の指導者をはじめとする上層階級の人々が社会の貧しい人を蔑み、その差別体質を残して利益を貪っているところにあるとお考えになり、また、貧しく弱いがゆえに罪人扱いされている人々がその重荷から解放されることこそ神の御心だとお考えになったのです。
 私たちは、それぞれの人生とこの世界という財産の管理を神から託されている管理人です。私たちは、この世界の中に生きて、主人である神に対してどのような報告書を出すことになるのでしょう。そして主人である神に対する不正とその負債をどのように処理しようとしているのでしょう。
 今日の聖書日課福音書の中の管理人は、自分の主人に背いていたことが発覚した時に、他の人の負債を軽くすることを思いつきました。
 主人に財産の管理を託されながら無駄遣いしてしまった管理人は、その決算報告を求められた時に、主人に対して負債のある他の人々の重荷を少しでも軽くするために働き始めます。この管理人は主人の財産を無駄遣いした上に、他人の負債の証文を書きかえさせて、主人に対して二重の裏切りをしたように見えます。でも、この管理人がしたのは、他人が主人に対して負う借金を軽くしてやることであり、この世の富を用いて他の人が負っている負債を軽くしているのです。そして、主人は、この管理人がこの世の富を用いて、主人に対して負債のある者の負債を軽くしてその人の友となったことをほめているのです。
 さて、そうであるのなら、証文を書き換えた油50バトス分また小麦20コロス分の損失は誰が負うのでしょう。証書が書きかえられたのであれば、実際に失われた油や小麦分の負担は誰のところに行くのでしょう。その損失は最終的には誰が被り、あるいは誰が引き受けるのでしょう。
 実は、私たちが神に対して負っている罪も、最終的には自分で精算できるようなものではありません。私たちの負債は自分で償うことの出来る額を遙かに超えており、私たちに命を与えてくださった神に対して、私たちは自分で追えない重荷を負わせている事にさえ気付いていないのです。そのような私たちは、主人である神の御前に会計報告を迫られている者であり、その返済の出来ない私たちはどうすべきか神から問われている者なのです。
 私たちは、自分では償うことの出来ない負債を私たちに代わって主イエスに返済していただいていることに気付かねばなりません。そうでなければ、私たちは自分の不正を取り調べられ、罪をえぐり出されるばかりでどこに救いがあるでしょう。私たちは自分ではその不正を埋め合わせることが出来ず、滅びに向かうしかなかった者です。主イエスは、そのような私たちの側に立って、麦や油の負債を軽くするどころか、私たちの負債を全てご自身で引き受けて下さいました。私たちの負債が記されている証文(台帳)は、その負債が主イエスの十字架の死によって全て帳消しにされています。主イエスは、私たちが支払うべき負債をすべてご自身で引き受けて下さり、十字架の上に、ご自身の命によって私たちの支払いの全てを完了してくださいました。既に主イエスが私たちの人生の会計報告を「神の前に借金無し=罪無し」としてくださったのです。このことを通して、私たちは神の前に負債の無い者となって、深い赦しを感謝して神の御前に進み出ることができるのです。
 このような主イエスの愛は、時に律法の枠を超えて働き、ユダヤ教の指導者たちの目には不正を働くこととしてさえ受け取られることにもなりました。
 私たちは主の祈りの中で「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します。」と祈ります。わたしたちの負債は既に主イエスによって取り除かれており、この赦しに基づいて、私たちは他の人を罪に定めるのではなく、赦し合って友となることへと促されていくのです。
 今日の聖書日課福音書の「不正な管理人」の箇所を理解するには、主イエスの十字架によって私たちの負債がすべて帳消しにされていることを受け容れる信仰が必要です。また、この例え話から、その信仰の養いと導きを与えられますように。
 私たちの負債をすべて引き受けて私たちの本当の友となってくださったことによって、私たちは喜んで主人である神の御前に進み出てる事ができます。そしてこの信仰に基づいて、私たちは周りの人々に「あなたの負債も主イエスを通して完全に帳消しにされています」と伝えることが出来るのです。
 主イエスの愛を受けた私たちは、他の人々の負い目や重荷を共に担い、互いに友となることが出来るように導かれて参りましょう。 
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2022年09月11日

失った羊一匹のために  ルカによる福音書15:1-10    2022.09.11

失った羊一匹のために  ルカによる福音書15:1-10   聖霊降臨後第15主日(特定19)  2022.09.11
 
 主よ、どうか私たちのところに来て下って私たちの心を治め、共いて下さり、あなたの御言葉によって私たちを養い、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
 今日の福音書、ルカによる福音書第15章は、多くの人に知られまた好まれている箇所です。この箇所は「福音の中の福音」とも言われ、主イエスの教えと行いを理解する上で分かり易い箇所であり、また主イエスのなさった例え話の中でも、主なる神の御心を伝える上での一番中心にあることが記されている箇所であるとも言えます。
 今日の福音書から、ルカ第15章10節の御言葉をもう一度思い起こしてみましょう。
 「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
 仮に、私に10人の子どもがいるとして、彼らに平等に接するとすれば、物については10分の1ずつ分け与えることになるでしょう。でも、私が子供を愛する時には愛は10分の1ずつになるわけではありません。私は親として一人ひとりの存在を喜び、10人それぞれの性格を知り、10人の子供それぞれに十分な関わりを持ち、そこに10通りの関係があり、どの子どものことも可愛がるでしょう。私は、10人の誰もが大切であり、もし出来が悪かったりして手を焼く子供がいれば、その子供が気がかりで、心を痛め、一層関わらないわけにはいかない事になるでしょう。それは、10人いる自分の子供の誰一人として失われてはならず、むなしく滅び去ったりしてはならないと思う親としての愛があるからです。
 神の愛は全ての人に与えられていますが、それは均質的でも画一的でもありません。
 今日の聖書日課福音書の「見失った羊」やそれに続く「無くなった銀貨」の例えには、当時のユダヤ社会の中で、権力を握る指導者たちが考えていた救いの約束の枠からはじき出されて神の御心から遠く離れ去ったように見える人に対する神の愛が描かれています。
 主イエスが、つとめて交わりを持ち、愛を注がれたのは、100匹いるはずの中の失われた一匹の羊のような人々であり、10枚揃っているはずのうち無くなってしまった一枚の銀貨のような人たちでした。彼らは、正統なユダヤ教の信仰を持つ人々からは、邪魔者扱いされ、罪人扱いされ、交わりを絶たれていました。その一方で、ユダヤ教の中心にある人々は、自分たちを救われた者の側に置いていました。その代表的な存在がファリサイ派です。ファリサイとは「分離した」「分けられた」という意味があり、自分たちを神に選び分けられた者と位置づけて、この「ファリサイ」という名称も、この人々自身によって名付けられたとも考えられています。彼らは、自分たちを神に選ばれ分けられた者と位置づけ、その枠に入れない人々、落ちこぼれた人々を「地の民」と呼んで蔑んでいたのでした。
 ファリサイ派には次のような規約があったと伝えられています。
 「地の民には金を預けてはならず、何の証言も取ってはならない。秘密を明かしてはならない。孤児の保護を頼んではならない。旅の道連れになってはならない。金を管理させてはならない。」
 ファリサイ派をはじめとする律法の教師や神殿の指導者たちは、民族としての団結をはかり、神との関係を清く保ち、律法に背く事を極度に嫌いました。そして神との間の契約である律法を全うできない人について「罪人が一人でも神の前で抹殺されるなら天に喜びがある」とまで言っていたのです。
 地の民と呼ばれる人々は、こうしたファリサイ派の人々から全く信用されず、取引や売買もたたれ、接触する事を嫌がられました。
 でも、主イエスは罪人呼ばわりされる人や神殿や会堂を追放された人々と交わり、食事を共にしておられました。このような主イエスのお姿を見るとユダヤ教徒たちは心の底から驚き腹を立てました。ファリサイ派の人々にとって、主イエスのように地の民と交わる事は自分を汚す事であり、自分も汚れた者つまり罪人になる事に他なりませんでした。
 こうした状況で、主イエスがファリサイ派の人々や律法の専門家に向かってお話しになったのが今日の福音書です。
 その始めに、主イエスは失った1匹の羊の例え話をなさいました。
 羊飼いは危険の多い仕事です。荒れた大地の僅かな緑を求めて羊を連れ歩きます。砂漠があり崖がある難しい場所を時に先頭に立ちまた時には後ろに周り、一匹も失う事がないようにと働く羊飼いには、会堂での祈りも決まった時刻の礼拝にも無縁でした。羊一匹一匹に名前を付けその性格も知り抜き、昼も夜も群れを守り導くのが羊飼いの仕事でした。こうした過酷な状況でも自分の羊を一匹も失うまいと懸命に働く羊飼いを思うと、主イエスがこの例えをなさった思いが私たちにも少し見えてくるように思われます。
 例えイスラエルの指導者たちが、貧しい立場の人を裁いてその社会から切り捨てるようなことがあろうとも、主なる神は捨てられた人をどこまでも追い求め、その群れの中に呼び戻そうとして止まないのです。ファリサイ派の人々は「罪人が抹殺されるのが神の喜び」と言うのに対して、主イエスは「失われた罪人が見つけ出され、神の許に迎え入れられる事が天の喜び」だと言うのです。自分を正しい者の側に置く人にとって、罪ある人は救いの外にありますが、主イエスにとってはそうではありません。いつも御声に従って羊飼いのそばにいる羊ばかりではなく、どんな羊であれ最後の一匹までを掛け替えにないものとして愛しぬいてくださいます。その羊飼いにとって羊たちはどれもすべて大切な存在なのだから、もしその中の一匹が迷い出てしまったら、羊飼いはその一匹を探し回る時間も労も厭わないのです。
 罪の中にさまよう者を主なる神自らが尋ね求め探し出し、見つけた羊を抱き寄せ肩に担いでお喜びになるのです。100匹いるのが本来の姿であるのなら、残りの一匹は他の99匹と同じように大切であり、人が神の御許に立ち帰る事は天の喜びなのです。
 もう一つの例えである「無くなった銀貨」の例えも同じ事を意味しています。
銀貨は10枚そろえて輪飾りのようにして、婚礼などの特別な喜びのしるしとして用いました。一枚欠けても、貨幣として9枚分の価値はあるものの、すべてが存在していることに込められる特別な喜びは失われるのです。私たちも一人ひとりが神の喜びを示す銀貨のような存在である事を心に留めたいと思うのです。
 今日の使徒書テモテの手紙Ⅰ第1章15節で、パウロは「わたしはその罪人の中で最たる者です」と言っています。これはパウロが自分の信仰を「私は神の愛と赦しを一番必要とする者なのだ」と言って表明している言葉です。「自分は、羊飼いである主イエスに真っ先に探し出されなければならない、そしてその羊飼いに付いていかねばならない」と言う自覚があり、その自覚に基づいてパウロは「私は罪人の中の最たる者です」と言っています。
 私たちが自分を愛する以上に、神は私たち一人ひとりを受け入れて愛し、導いてくださっています。この神によって私は導かれたいし導かれねばならないとパウロは言います。この祈りはパウロの祈りであると同時に私たちの祈りです。主イエスは、まことの羊飼いとして、ご自身が傷つき十字架の上に身を投げ出してまで、私たちを見つけ出し、招き寄せてくださいました。この羊飼いの導きによって私たちが神の愛に立ち返る時、神の許に大きな喜びがあるのです。
 そうであれば、私たちが自分で「私のような不信仰な者が・・・」と言って神に近づく事をためらうのは、かえって神の愛を損ない、神の招きを拒むことになり、それは失礼なことになり、私を探し当ててくださった神の愛を無駄にする事になるでしょう。
 私たち一人ひとりがそれぞれに他ならぬその人として神に愛され、招かれています。私たち一人ひとりが主イエスに名を呼ばれ、連れ戻され、神の愛の中で生きる恵みを与えられている事を覚え、多くの人を神の群れに招き入れる働きが出来るように力づけられる者でありたいと思います。
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2022年09月04日

御心を優先する(自分の十字架を負う)  ルカによる福音書14:25-33  2022.09.04

御心を優先する(自分の十字架を負う) ルカによる福音書14:25-33 聖霊降臨後第13主日(特定18)  2022.09.04

 今日の聖書日課福音書から、ルカによる福音書再14章26節の御言葉をもう一度読んでみましょう。
 「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。」
 このみ言葉は、多くの人がどのように受け止めたら良いのか戸惑い、或いは心を揺さぶられるような思いになるみ言葉なのではないでしょうか。
 この箇所を理解するために、先ず、ここで「憎む」と訳されている言葉について理解しておきましょう。
 日本語の「憎む」は「いやな相手として嫌う」、「腹立たしく思う」という意味で、感情的な意味合いが強いと言えますが、この箇所で「憎む」と訳される元の言葉はギリシャ語でμισεω(ミセオー)という言葉で、日本語の「憎む」という言葉の意味内容とは随分その範囲に違いがあります。μισεω(ミセオー)というギリシャ語やこのギリシャ語に対応するヘブライ語でのsana(サーナー)という語の意味には、感情的に嫌う」という意味より「なおざりにする(気にかけずそのままにする)」、「軽視する」という意味に重心があります。
 例えば、好きな食べ物(うどんと蕎麦)があって、うどんより蕎麦の方が好きだという時に、その両者の比較において「私は蕎麦が好きでうどんは嫌いです」と言う表現になるのです。今日の福音書の「μισεω(ミセオー)憎む」という言葉についても、主イエスは両親をはじめとする家族を否定的な感情を込めて「憎め」と言っておられるのではなく、主イエスに従おうとする者に、その大前提として、主イエスに従うことを最優先する覚悟があるかを問うておられるということを理解しておきましょう。
 主イエスは、今日の聖書日課福音書の中で、いつどのような場合にも神の御心を求めることを第1とすることを教えておられ、弟子として主イエスに従おうとするのなら、そのことを最優先して、その他のことはそれによって位置づけられ正しい意味を与えられるようにすることを教えておられるのです。
 十戒の第5は「あなたの父と母を敬いなさい」です。主イエスはこの戒めを否定しているわけではなく、自分の肉親家族を絶対化することを避け、先ず神の御心を求めることを最優先する中に自分の家族を愛することも位置づけられるのです。
 今、主イエスの後を追う多くの人々には、それぞれにイエスに付いていこうとする動機や下心がありました。それらは決してすべてが不純な思いからであったり自分中心的なものであったわけではなかったでしょう。
でも、主イエスの後から付いてくる人々の多くの思いは、自分の個人的な願いが満たされることが第一であり、自分を通して主なる神の御心が行われることを最も大切にしているわけではないことが主イエスにはお見通しであったのではないでしょうか。
 主イエスは、「もし誰でも主なる神の御心を一番大切なものとしないのなら、誰も本当に私の弟子ではあり得ない」という意味で冒頭に取り上げた言葉を用いておられるのです。
 ここで主イエスさまが言っておられることを言い替えてみると次のようになるでしょう。
 「私のもとに来ても、神の愛を根底に置く者でないのであれば、私の本当の弟子ではあり得ない。」
 このように理解すると、私たちはそれに続く27節で「自分の十字架を負って、私に付いてくる者でなければ、私の弟子ではあり得ない。」という主イエスの言葉をより身近に理解できるのではないでしょうか。
 なぜなら、神の御心を生きることは、自分が神から与えられた自分の使命を生きることは、分けることの出来ない一つのことであり、私たちは誰もが自分の十字架の重さを感じないわけにはいきません。でも、十字架が重いからと言ってそれを担うことを止めてしまっては主イエスの弟子ではあり得ないのです。
 私たちが主イエスに従って生きるとき、主イエスに無理解なこの世との間にある矛盾や理想と現実の違いを見ざるを得なくなります。でも、その痛みを投げ出さずに、「御国が来ますように、御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈りつつ、主なる神の御心の実現のために生きることが「自分の十字架を背負う」と言うことであり、私たちはどこまでも主イエスの導きに従って生きていくことを求められているのです。
 私たちは、家族や親族の中に於いても、そこでの人間関係の故に御心を脇に置いて済ませるのではなく、その場に神の御心が行われるように主イエスの弟子として遣わされているのです。
 主イエスは、当時のユダヤ社会の中で、その矛盾と葛藤の中に生きて、そこに神の御心が現れ出るように生き抜き、最後にはゴルゴタの丘で十字架につけられました。
 私たちはこの主イエスを救い主として愛し、ここから家族のことも、家のことも考えて、具体的な課題を担うのです。
 これは、観念的なことや抽象的なことではなく、私たちの生活の中で極めて具体的なことなのではないでしょうか。例えば、独裁的な権力者の治める国を見てみれば分かるように、主イエスが示してくださった働きを自分も弟子の一人となってこの世界に示していくことは、必ずしもいつもこの世に受け入れらて、その計画がうまく進むとは限らないのです。ことに弱い人や貧しい人々を締め付けてその上にあぐらをかく権力者にとって、かつて預言者たちが語ったことや主イエスの示した愛や自由や平等は邪魔であり、それゆえにキリスト教会は2000年の歴史の中で迫害を受けることも度々でした。
 私たちの日常生活に於いても、それと同じことが、その規模は違うにしても、数限りなく起こっています。そして、こうした課題は、社会の小さな単位である家族の中にも親しい仲間との人間関係の中にも存在し、私たちはそのような場面で、主イエスの弟子として、先ず主イエスに従うことを基盤に据えて働くことを求められています。
 主イエスは、「先ず神の国と神の義を求めなさい」と教えてくださいました。私たちがそのように生きる時、親、兄弟、親族のことから自分の命のことまでが主イエスによって位置づけられ、大きな救いの中に意味づけられてくるでしょう。
 今日の聖書日課福音書で注目しておきたいのは、主イエスは先頭に立ってエルサレムの十字架に向かって歩んでおられること、そしてその主イエスの後から付いてくる人たちのことを振り返って、主イエスはこの教えを述べておられるということです。ルカによる福音書では先頭を行く主イエスが振り返ってお話しになるのは、いつも大切なことを告げる時のことでした。
 振り返った主イエスの眼差しを受けた人たちは、自分が赦され愛され導かれている事を確認し、自分の十字架を負う人へと導かれていきました。私たちもまた自分の十字架を負って歩もうとしており、私たちに先立って歩んでくださる主イエスが私たちを振り返り導いてくださることを覚えたいのです。
 主イエスを自分の中心に据えて生きる人は、この世界のそこここに、御心から離れた実態が見えてきます。そのような中で生きる私たちは、ただ一人孤独のうちに自分の十字架を担うのではなく、主イエスが共にその十字架を背負っ歩んでくださることに気付きます。
 私たちは主イエスが十字架の死の先にまで生きてくださり、そこに開いてくださった永遠の命へと私たちを導いてくださる確かさ与えられています。私たちは、いつも自分の中心に主イエスがいてくださることを信じて、導かれる信仰を確かにしていくことが出来ますように。

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2022年08月28日

末座に着く ルカによる福音書14:7-14 聖霊降臨後第12主日(特定17)    

末座に着く     ルカによる福音書14:7-14        聖霊降臨後第12主日(特定17)    2022.08.27


 主イエスは沢山の譬え話をなさっていますが、その多くは神の国に関するものです。今日の福音書日課の中でも、主イエスは譬えによって神さまの支配する国はどのよう姿であるのかを説いておれるます。
 今日の福音書日課の個所で、主イエスが話をしているのは、「ある安息日」のことであり、場所は「あるファリサイ派の議員の家」です。
 主イエスは既に公にファリサイ派や律法の専門家を厳しい言葉で非難しておられますし、ファリサイ派はこの町に来られた主イエスに「ここを立ち去ってください」と言っています。この場面で、主イエスはこの「ファリサイ派の議員の家」に親しい交わりに招かれたのではなく、ユダヤ議会の議員であるこの人が、主イエスを取り調べて批判し、主イエスと弟子たちの一行がエルサレムに上っていくことを止めさせる意図があったと思われます。
 主イエスは、そのような人びとに向かって、婚礼の祝宴に招待された時に自分は上座に着くのに相応しいと自惚れる者は恥をかいて末座に着くことになり、末座に座る人は上席に座るようにすすめられて面目をほどこすことになる、と言っておられます。
 ここで主イエスが教えておられるのは、この世の処世術や社交上のエチケットではありませんし、謙遜の勧めでもありません。そうではなく、私たちはこの御言葉によって主イエスから「あなたは自分をどこに座る者だと思っているのか」と厳しく問いかけられているのであり、また主イエスご自身がそうなさったように私たちも主イエスに伴われて末座に生きるよう、つまり神と人々に仕えて生きるように勧められているのです。
 先ほども触れたように、ルカ14章1節を見てみると、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」と記されています。主イエスの周りには、幾人かの律法の専門家やファリサイ派の人々がイエスを取り囲むようにしていたことでしょう。
 今日の聖書日課福音書の例え話で主イエスが例えておられるとおり、ファリサイ派の人々は自分たちこそ神の喜びの宴に招かれるのに相応しい者、宴席では自分たちが上座に着くのに相応しいと考えていました。
 その一方で、この世の中には、ファイリサイ派のように律法をしっかりと守りながら生活することが出来ない人たちも大勢います。例えば、当時の病人は、「悪霊に取り憑かれた者」とみなされたり「罪の結果が身に表れている者」と考えらていました。ユダヤ教の指導者たちは、イスラエル民族の救いを説き、病の者や律法に反する者を批判し、異国人、そしてその異国人を相手にして外国の貨幣を扱う徴税人たちも救いの外にいる者として扱いました。
 このような人々は、ファリサイ派の人から汚れた者として軽蔑され、時には罵られ、抑圧されています。ファイリサイ派の人々は自分たちが彼らを傷付けている事についての自覚や痛みを覚えることもなく、「我々は彼らとは違って神の約束した救いに与るように選ばれている」と考えていました。そして神殿の中で「神よ、あのような者でないことを感謝します」と祈りました。
 主イエスはこうした人々のことを「上座に着く者」と表現なさったのです。
 主イエスには、ユダヤ教の指導者たちが教える神の国は主なる神の御心とは全く違うものに思われたのでしょう。また、神による救いとは本当に当時の指導者たちが考えたようなものとは思えず、神の国はファリサイ派や律法学者が教えるようなことによって実現するのではないと思えたことでしょう。
 今日の主イエスの譬え話は、律法の専門家やファリサイ派にとってはとても厳しい問いかけになり、彼らを揺さぶります。主イエスの教えに拠れば、神の国で上席に着くのは律法の文言を字句通りに守る事で与えられるのではありませんし、救いは貧しく弱くされた人々を切り捨てて得られるのでもありません。そうではなく、自分も低く貧しくなりそこから見えてくる神の御心に導かれるように主イエスは教えておられるのです。
 このことは、旧約聖書の律法に対する態度のことだけに留まらず、私たちの信仰生活の在り方についても同じ事が言えるのではないでしょうか。
 もし私たちも、自分を信仰深い者として、その自分を自身を誇り、そうではない人を顧みずに切り捨てるのであれば、ファリサイ派と同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。私たちも救いの宴の上席にいつの間にかあぐらをかく事のないように、今日の福音書日課の御言葉によって主イエスに導かれたいと思うのです。
 主イエスに生かされるということは、主イエスによって自分の心の底まで照らし出され、そのような隠し立ての無い本当の自分が全て主イエスによって赦され受け入れられ肯定されていると信じて生きることです。私たちにとって大切なことは、聖書の言葉を形だけ取り入れることではありません。私たちが主イエスに導かれて、身を低くして神と人々に仕える者となって、そこから見えてくる貧しさや小ささの中にある苦しみや痛みをも背負うことが必要になってきます。そして、完璧にはそのようにできない私たちのことをも主イエスはなお赦し、愛し抜いてくださり共に生きてくださいます。私たちがその主イエスを受け入れることができる時、私たちは主の食卓に招かれていることを喜びとし、その宴の末座におかれている事を感謝できるのです。
 主イエスは他の個所でこう言っておられます。
 「人の子が来たのも仕えられるためではなく仕えるためであり、また、多くの人の贖いとして自分の命を与えるためである。」
 主イエスは、ご自身を十字架の上に曝してまでこの世界と私たちを愛して仕えることに徹して下さいました。そこに示された完全な愛に照らされることを通して、私たちは信仰者としての自分をもう一度立たせられ、仕える働きをする者の末席に加えられるのです。
 パウロは、フィリピ書2章6-7節で、主イエスの謙遜について、次のように記しています。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
 更にパウロは、キリストはへりくだって死に至るまで神の御心に従順であり、神はこのキリスト・イエスを高く挙げられた、と続けています。
 このパウロの視点から、今日の聖書日課福音書をあらためて見直してみると、宴席の一番末座に着いて一番の上席にまで引き上げられたのが主イエスご自身である事がはっきりしてきます。私たちは本来なら、主イエスによって催されるこの感謝の祝宴の末座にも与ることさえ出来なかった者です。そのような私たちのことも、主イエスは招いてくださいました。たとえ私たちには特別な業績がなくても、胸の内には多くの失敗やその後悔を抱えていたとしても、主イエスの十字架を「我が罪のため」と認める人を神は誰でも喜びの宴にお招きくださり、その主宰者である主イエスが私たちに仕えてくださいます。この宴には社会からはじき出された徴税人や罪人も、重い病気の人たちも招かれています。しかも、本来招かれるはずなどなかった者でもお招き下さった方の愛を信じて受け入れる人は上座へと招かれるのです。
 主イエスは、十字架の死によって黄泉に降った力をもって私たちの所へ降りてきて下さり、甦りの力をもって私たちを御国の宴へと引き上げて下さいます。
 主イエスが主宰してくださるこの聖餐式は、天の国の宴を先取りして表すものであり、私たちはその愛の宴への招きをいただきました。他ならぬ自分にも及んでいる神の愛の深さによって私たちはその宴の席に受け容れられていることを喜び合い、神と人々の交わりの中に生かされています。私たちは、主イエスを通して招かれ、この宴の一員となる喜びを確かに致しましょう。
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2022年08月22日

狭い戸口   ルカによる福音書13:22-30   聖霊降臨後第11主日(特定16)

狭い戸口より ルカによる福音書13:22-30   聖霊降臨後第11主日(特定16)  2022.08.21                    

 はじめに、今日の聖書日課の福音書から、ルカによる福音書13章24節の御言葉をもう一度読んでみましょう。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
 ここで主イエスさまが言っておられる「狭い戸口」ということについて考えてみましょう。聖書新共同訳で「狭い戸口」と訳されている言葉は、他の訳によれば「狭い門」という言葉も用いられています。この言葉は、今の日本では、主イエスさまが用いた意味で用いられることは殆ど無く、例えば入試シーズンに「某大学は、志願者が募集定員の10倍を超える狭き門となっています。」などと言う用い方がされています。この用い方での「狭い門」という言葉の意味は、希望者は沢山いるけれどもその念願が叶う人は少ないということです。でも主イエスさまが「狭い門(狭い戸口)」と言っておられるのはそのような意味ではありません。
 聖書の中にある他の個所にも「門(戸口)」という言葉が出てきますが、主イエスさまがご自身を「わたしは門である」と言っておられる個所を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。ヨハネによる福音書10章9節で主イエスさまはこう言っておられます。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
 今日の福音書の中で「戸口」と訳されている言葉やヨハネによる福音書の中で主イエスが「わたしは門である」と言っておられる「門」という言葉は、どちらも同じ”θμρα”という言葉が用いられています。主イエスが「狭い戸口より入るように努めなさい」と言っておられたり「わたしは門である(羊の門である)」と言っておられることを考え合わせてみると、この言葉は、多くの日本人が用いている「狭き門」とは、全く違う意味であることことが分かってくるのです。
 主イエスがこの箇所で言っておられる「門」は、多くの人にとっては見つけにくくまたそこに救いがあるとは分かり難い門のようです。もしその門の先に誰にでも分かるように実際的な利益が約束されているなら、人々は先を争ってその門から入ろうとして、その結果、その実際的な利益を得られる確率は低くなるでしょう。でも、主イエスの言っておられる「狭い戸口」とはそのような意味のことではありません。
 今日の福音書の個所の前後関係をみてみると、主イエスのこの言葉は、ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたことに答えている中での御言葉です。このように「救われる人は少ないのか」と問う人は、この言葉がどのような背景から出てくるのでしょう。きっと主イエスが十字架の上に御自分の命を投げ出すほどにして示してくださった救いを自分に与えられた恵みとして受け入れる人が如何に少ないのかを感じている人であろうと想像できます。
 でも、主イエスの御言葉と御業を受け入れる人が沢山いるからそれが真理なのではないし、また逆に主イエスが世の人々に受け入れられなかったとしたらそこに真理はないのかと言えばそれも違います。私たちも、自分の信仰を持つようになったのは、主イエスの御言葉と行いが他ならぬ自分にとってそれが救いであり導きであると信じたからではないでしょうか。他の大勢の人が信じているからそこに真理があるのではなく、多くの人が見過ごたり見向きもしないことさえある主イエスの中にこそ救いに至る道があると、今日の福音書は伝えているのです。
 キリスト教が歴史を越えて真理を示し続けてきたのは、主イエスの教えや行いがはじめから多くの人に受け入れらて支持されて来たからではありませんでした。主イエスご自身がユダヤ教の指導者たちに迫害されて十字架刑に処せられたとおり、キリスト教の歴史はその母体であったユダヤ教によって迫害され弾圧されることから始まりました。そこに救いに至る門があると気づき、信じた人はごく僅かでした。
 その当時、人びとはローマ皇帝を神として礼拝の対象としていました。その中で、主イエスを救い主とする人びとは、ギリシャ・ローマ世界を中心に約三百年にわたってイエスを救い主であると告白する人を迫害し、「体制に順応することを拒む者」という烙印を押されたのでした。それでも少しずつ受け入れられ、キリスト者はその数を増し、支持されるようになっていったのです。その当時の信仰者が主イエスの「狭い戸口から入るように努めなさい」という御言葉をどのような思いで受け止めていたのか思い巡らせてみましょう。
 やがてキリスト教は、紀元313年にローマ皇帝によって容認され、紀元393年にはローマの国教となりました。それは、ローマ皇帝の支配下にある者は自分の信仰をしっかりと吟味すること無しにキリスト者であるようにされていったのです。それは当時のキリスト教がある意味での勝利を得たことではありましたが、私たちは当時の信仰者がどのような思いで「狭い戸口から入るように努めなさい」という御言葉を受け止めていたのかについても思い巡らせてみる必要があるでしょう。私たちは迫害下のキリスト教と国教となったキリスト教の対比によって、厳しく辛い状況の中で人びとに救いを与える門である主イエスのお姿をはっきりと理解することが出来るようになるのではないでしょうか。
 今日の福音書は、主イエスがエルサレムに向かって進んでおられる文脈に位置付けられています。エルサレムはイスラエルの民の一番の中心地です。このエルサレムの神殿には当時の政治的・宗教的な権力者、指導者がいました。また彼らの傘下には大勢の学者も祭司たちもいました。彼らは「自分こそ救われている」「自分たちこそ神に選ばれた者」として自分を誇っていました。そして、「あなたは清められている」「あなたは罪を償うための供え物を献げなさい」と、あたかも神の代理者のように人々を支配していました。このような人々は、神の名を持ち出しては自分を救われる者の側に置いて、弱い立場の人や貧しい人々を裁き、弱く貧しい人々の悲しみや痛みなどには、指一本貸そうとしませんでした。ユダヤ教指導者たちのこのような態度にも明らかなように、人は、先ず自分が助かる事や自分が誰よりも幸福になることや自分が真っ先に癒されることを考えます。そして自分のことしか考えられない結果、他の人を出し抜いたり、だましたり、操作したりすることが始まるのです。そのような世界は、たとえどれほど聖書の言葉が使われ神の掟が守られているようであったとしても、神に愛され生かされている喜びがありません。そして主イエスによって示されている狭い戸口を閉ざしてしまうのです。
 主イエスはご自身を神の国への戸口としてお示しになり、この狭い戸口から入るように「努めなさい」と言われます。ここで用いられている「努める」という言葉は、スポーツ選手が勝利を得るために自分自身を鍛える努力を意味する言葉です。そうであれば、狭い戸口から入るための努力は、主イエスを深く知り主イエスに従っていくために自分自身を主イエスに方向付ける努力だと言うことになります。そして他の人を押し退けたり蹴落としたりした結果の勝者がこの狭い戸口を通れるのではなく、信仰による祈りと賛美のうちにこの戸口を通る事へと導かれることが分かるのです。
 聖書を通して主イエスの御心を学び、主イエスの心に触れ、祈りと賛美を通して私たちも御国へと導かれる恵みを戴くことへと歩んでまいりましょう。
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2022年08月15日

イエスの投じる火  ルカによる福音書12:49-56

イエスの投じる火  ルカによる福音書12:49-56  聖霊降臨後第10主日(特定15)  2022.8.14
 
 今、私たちは今日の聖書日課福音書から次のような御言葉を聴きました。
 ルカによる福音書第12章49節の言葉です。
 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」
 また12章51節には次のような言葉がありました。
 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たの思うのか。そうではない。言っておくがむしろ分裂だ。」
 私たちは、聖書の中にこのようなことばがあるのを知ると、心が揺さぶられる思いになります。とりわけ日本人は、相手を配慮して自分の意見をはっきり言わないことが美徳とされ、そのことを前提にして平穏無事を保ってきた一面があります。そのような私たちが、今思い起こした御言葉に出会うと、ある種の抵抗を覚える人も多いのではないでしょうか。
 でも、もし私たちが維持しようとする平穏無事の奥に不平や不満があったり、苦しんでいる人がいるとすれば、その表面的な平穏無事は決して健康な状況であるとは言えないでしょう。
 主イエスの御言葉は表面的な平穏無事を保つ働きをするのではなく、むしろそこにある矛盾や問題をえぐり出すように働きかけてくるのではないでしょうか。その意味で、主イエスの御言葉は私たちに火を投げ込み、見せかけの平穏無事の奥にある分裂をえぐり出してその問題点をはっきりさせる働きをすることを、私たちは今日の福音書の御言葉から学びたいと思うのです。
 いつの時代にも正義と平和や人権について語ることやその実現に努める人のことを歓迎するのかと言えば、必ずしもそうではありません。この世界の歴史を振り返ってみれば分かるとおり、人種差別の撤廃や不平等の解消に努めた多くの人が権力者から命を奪われてきました。旧約聖書の多くの預言者たちや福音書に描かれた洗礼者ヨハネもそのような弾圧を受けた人であり、主イエスもその例外ではありませんでした。
 主イエスは当時のイスラエルの状況の中で、愛を説き、身をもって愛を示してお働きになりましたが、それを嫌ったユダヤ教指導者たちの弾圧を受け、エルサレムでリンチ同然に十字架刑によって殺されたのでした。ユダヤ教の指導者たちは、神殿での宗教的な権力を握っていただけではなく、政治的にも経済的にも自分たちの利益を守り保身を計っていました。その権力に逆らう者や反対する者は迫害され抑圧され、またその枠からはじき出された人びとは少しも顧みられずに、当時の世界から捨てられていったのです。聖書の中では、特に徴税人や罪人たち、重い皮膚病を患った人びと、遊女や羊飼いなどはユダヤ教指導者たちから嫌われ、指導者たちはそのような人びとをユダヤ教社会の一致と団結を乱す落ちこぼれ者として扱っていたのでした。
 主イエスはこのようなユダヤ社会の中で、神の愛を説き、またご自身も罪人の一人に数えられるほどになりながら、貧しくされた人々の人間性の回復に努めました。その教えと行いは、まさに当時の社会に「火を投げ込む」働きであり、当時の人々の間に「分裂をもたらす」ことになったのです。
 主イエスは、神の救いは貧しく弱い人にこそ用意されており、今飢え乾き泣いている人びとこそ神の救いを受けるべき幸いな人であると教えました。そのように説き、貧しく弱くされた人びとに関わる主イエスの愛は、愛無き人びとにとっては火を投じられることになり、本物の愛と贋物の愛を選り分ける鋭い剣になります。主イエスのお働きが小さな人びとに受け入れられ彼らが本当の自分を取り戻して生きるようになればなるほど、主イエスの言葉と行いは権力者たちにとって厳しく挑戦的になります。そして主イエスはその動きを押さえ込もうとする権力者によって迫害されることになっていきました。不正がはびこる世界では、神の正しさを示そうとすればするほど、不正な者は自分に迫ってくる正義を潰そうとするのです。
 ですから、私たちは表面上の平穏無事がどんな力によってもたらされているのか、そしてその場にいる人びとがどんな感情やムードに支配されているのかについて、賢く見極めていかなくてはなりません。そして主イエスの火を投じていただき、見かけ倒しの平和や繁栄を見直し、私たちは本当の神の御心と結びついた世界に生きることが出来るように生まれ変わっていかなくてはなりません。
 私たちは、主イエスによって導かれて生きています。私たちは日々の生活の中で、主イエスの御言葉を聴き、主イエスの御体と血による養いを受けるのです。そのような私たちは、今日の御言葉をどのように迎えるのでしょうか。その場その場を波風立てないように、あるいは聞かなかったことにして、やり過ごして生きるのでしょうか。他の人との意見やその表現の違いを明確にすることを避けて、信仰に基づいて生きる自分を押さえ込んで、いつの間にか信仰さえ風化させてしまうことが無いようにしなければなりません。
 主イエスの御言葉は愛に基づくものであり、その御言葉は時には私たちを慰め励まし力付けてくださいます。しかし同じ御言葉が私たちに火となって投げ込まれ、分裂をもたらす働きもすることも、私たちはよく知っておかなくてはなりません。
 主イエスが「火を投げ込む」「分裂をもたらす」と言っておられるのは、ただ破壊的なことをすることではありません。主イエスによってこの世界に火が投げ込まれたり分裂がもたらされるとすれば、この世界に本当の愛と平和に抵抗して自分にだけ利益をもたらし自分だけがよい思いをすれば良いという罪が未だに根強く存在するからなのではないでしょうか。
 私たちも、主イエスの御言葉に導かれ養われて、愛と平和の働きを担おうとすれば、私たちの働きが時には火を投じたり対立や分裂を明らかにするきっかけになったりすることもあるかもしれません。しかし、それを恐れてその場を凌ごうとするだけであれば、神の御国は遠のいてしまいます。神の愛は、この世界に御心を行おうとする私たちにも火となって働き、神の御心の実現のために私たちを力付け、私たちをこの世界に派遣してくださいます。
 私たちが、互いに理解し合い、意見の違いや対立の先にある解決方法を求めるなら、神は私たちの思いを越えた道を用意して下さるでしょう。
 主イエスが投げ込む火は、決して単なる破壊のための火ではありません。それは十字架の愛に根ざした火であり、不義や罪を照らし出してそれを燃やし尽くして働きます。その火がこの世の付和雷同の一体感を焼いて、主の愛にもとづく深い一致と調和へと導かれるのです。
 私たちが主イエスのお働きを担おうとすれば、それに伴う苦難を負うことも増え、場合によっては迫害を受けることさえあるかもしれません。主なる神の御心を行う器となって真剣に生きることは、かえって辛く苦しい思いを自分に呼び込むことにもなるでしょう。
 しかし、今日の使徒書ヘブライ人への手紙によれば、そのような働きは主のなさる鍛錬なのです。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆鞭打たれる」と記しています。もし私たちが神の本当の子であれば、本当の父である神は私たちを鍛錬し、この世に御心を示す働き手として育ててくださいます。
 ヘブライ人への手紙代12章10節にはこう記されています。「霊の父は、わたしたちの益となるように、御自分の神性にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです。」
 主イエスは「火を投げ込む」と言われました。それも私たちにとっては「鍛錬」かもしれません。私たちは、その火によって罪や悪があぶりだされて、その先に本当の平和と愛へと導かれます。私たちはその中で主なる神に鍛えられる過程を主に導かれながら歩んでいます。
 特に8月の今の時期は、第二次世界大戦の終戦を覚え、平和への思いを新たにする時です。私たちは、主イエスから真理と愛の火を投げ込まれることについて、特別に大切な意味があることを覚えたいと思います。主イエスの投げ込んでくださる火によって私たちの罪が焼き尽くされ、一人ひとりの信仰がなお鍛錬され生かされることへと導かれて参りましょう。
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2022年08月07日

目を覚ましている僕  ルカによる福音書12:32-40   聖霊降臨後第10主日(特定14)  2022.08.07

目を覚ましている僕 ルカによる福音書12:32-40   聖霊降臨後第10主日(特定14)  2022.08.07
 
 今日の聖書日課福音書の、特に後半では、目を覚ましていて用意をしている僕のことがテーマになっています。
 ルカによる福音書第12章37,38節には「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」という言葉があります。ここで用いられている「目を覚ましている」という言葉の原語(グレーゴレオー)は、「覚醒している」「油断せず注意を払う」という意味であり、主なる神の御心を、或いは主イエスのことをいつも意識していることを意味していると言えるでしょう。主イエスが、いつも私たちと共にいてくださり、御心に沿った生き方へと導いていてくださっていることを忘れず、自分に与えられている目の前の課題に、主なる神の願っておられる姿が現れ出るように、お応えしながら生きることを心がけていることが「目を覚ましている」ことです。
 わたしたち日本人は、しばしば「真理より場の倫理」に支配されていると指摘されています。それは、本当に正しいことに照らして絶えず真理に導かれて神の願う姿を表そうとするより、自分の置かれたその場その場に自分を合わせて、目先の場が波風が立たないように、丸く収める態度であり、この態度は時に善悪の判断を失い、その場その場のご都合主義を生み出し、人を無責任にします。そのような態度は、何が本当に大切なのかを曖昧にして真理に目を背け、いつの間にか大きな悪の力に縛られていることにも繋がることさえ自覚できなくなってしまう可能性もあるのです。
 例えば近代の日本に於いても、一億玉砕とか一億総懺悔などという言葉が用いられて、何が本質的な問題なのかを振り返らずに、「みんながそうなのだから形を揃えておけば安心」というような態度で事態をやり過ごそうとした歴史的経験があります。そして、気が付けばまた同じ轍を踏むような道を歩いているのに、その危機感も持たないようになり、それは裏を返せば、一億総無責任的な体質を造り上げてきているように思います。
 主イエスは、ヨハネによる福音書第8章32節で「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。私たちは、今日の福音書を通して、主の御言葉に向かっていつも目を覚まし、本当の自由であることの大切さを学ぶことが求められています。ことに私たちの生きている時代は、主イエスが真理とは何かを十字架の死と復活によって示して下さった後の時代、つまり新約の時代です。主イエスは、天に昇って行かれる時に、もう一度この世に来ることを約束してくださいました。主イエスがもう一度この世に来て下さる時に、私たちは主イエスと共に天に用意されている食卓を囲むことが約束されているのです。
 私たちが主イエスをお迎えするときに、本来であれば私たちは主イエスに自分の主人として迎えてお仕えしなければならないはずです。しかし、37節にあるとおり、私たちの主人である主イエスは自ら帯を締めて給仕役となり、僕である私たちを席に着かせてもてなしてくださるというのです。
 主イエスは、私たち小さな群れに、恐れることなく、油断せず生きるように教えておられます。私たちは、目を覚まして、神の御心を求め、神の御心を自分の中心に据えて生きることを絶えず思い起こしていたいと思います。
 主イエスがこの世の生涯をお過ごしになった頃、イスラエルは救い主(メシア)の訪れを待ち望んでいました。
 指導者たちは、律法の言葉通りに生きることでメシアに受け容れられると考えていました。あたかも救いは自分の手の内にあるかのように振る舞い、律法を守ることの出来ない人々を蔑み、その人々は救いに与ることの出来ない「地の民」であるとレッテルを貼りました。そして、指導者層の人々は目を覚まして熱心に祈り求めることを怠り、やがて形式的に律法の文言を守ることに拘るようになりました。その人々の意識は権力を求めたり金銭を増やすことばかりを求めることへと移りはじめ、次第にそのために他人を利用し、支配して、そのやり方はやがて横暴を極めるほどになっていきます。やがてそのような世界に主イエスはそっと来られて、貧しく弱く小さな人びとと共に生きて、癒し、慰め、生きる力をお与えになる働きを始めたのでした。主イエスは、貧しい人や弱く小さくされた人びとの中におられ、権力者や裕福な人びとに小さな人々に仕えるように促します。しかし、権力者たちはそのイエスを嫌い、煩わしく思い、しかもそれが救い主(メシア)だとは気付かないまま、主イエスを神に逆らう者であるとして、処刑してしまうのです。
 四福音書には、人が神に対して目を覚ましていられなくなった時に、救い主イエスを十字架に追いやる罪の有様が表現されています。
 この話は決して他人事ではなく、私たち皆が真理に目を覚まし、我が事として受け止めなければならない問題です。私たちは、今日の聖書日課福音書から、毎日の生活が信仰に根ざして目を覚まし、神の御心に応えようとしているかどうかを問い返すための促しを受けているのです。
 特に今日の福音書の個所で私たちが注目したいのは、37節の内容です。
 37節で主イエスは、「主人か帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めてこの僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」と言っておられます。
 先ほども触れましたが、目を覚ましている人たちに迎え入れられた主人はどうするのかに着目してみましょう。主人であれば、自分が戻ってくれば、僕たちに足を洗わせたり食事の支度をさせたり、また給仕をさせて当然なのです。ところが、この主人は自ら帯を締めて、つまり働くために裾をたくし上げて帯で結び、僕であるはずも者たちを食事の席に着かせて、主人が僕となって給仕をして下さるという逆転が起こることが語られています。
 戻ってきた主イエスは、主イエスをいつでも迎え入れる思いを持っている者たちを、ご自身の方から喜びの宴に座らせて天の恵みに与らせてくださるのです。そしてその時は、思いがけずやって来ます。
 教会はその時を待ち望みながら、「御国が来ますように、御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈り求めています。
 私たちは「主よ、おいでください」といつでも主イエスを迎え入れる生き方に努めるとき、主イエスご自身が私たちを生かし養う僕となってくださり、教会は、私たちの僕となってくださった主イエスの養いによって御心を生きるように成長していきます。私たちは、主イエスをいつでも私たちの主人を迎え入れることが出来るように目を覚まして用意をしてくのです。
 私たちは、このように主イエスを迎え入れて、天にある喜びの食事を共にする約束を与えられています。その喜びの食事を先取りして、私たちの目に見える形の礼拝式にして現されたのが聖餐式です。
 私たちの聖餐式は「主イエス・キリストよ、おいでください」と主を迎え入れる用意をして目を覚ましている者が、主を呼び求める祈りの言葉から始まり、聖書の御言葉をいただき、主の御体をいただいて、主による養いを受けるのです。
 私たちは信仰の目を覚まし、祈りをとおして主なる神と心を一つにされて、主イエスが私たちのところにおいでになることを希望として、御心に適う信仰の生活を進めて参りましょう。
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2022年07月31日

貪欲への警告 ルカによる福音書12:13-21  聖霊降臨後第10主日(特定13) 2022.07.31

貪欲への警告        ルカによる福音書12:13-21      聖霊降臨後第10主日(特定13)  2022.07.31
  
 今日の聖書日課福音書で、主イエスは、神の前に富む者になるように、特に富に執着することの愚かさについて教えておられます。
 主イエスは例え話を用いておられますが、この譬えをお話しになるきっかけになったのは、ある人が主イエスのところに願い事をしに来たことでした。その願い事とは、ある人が自分も財産を相続できるように兄弟との間を調停して欲しいと言うことでした。この時に主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」と教えておられます。
 もし、実際に律法の専門家がこの相談を受けたとしたら、その人は当時の律法に基づいて得意になって財産相続の調停をしたことでしょう。実際に当時その遺産争いの調停は、ラビ(律法の教師)が、旧約の律法やそれに基づく口伝律法(トーラー)を元にして行っていました。
 例えば、旧約聖書の民数記第27章8節以下に、土地の相続の仕方が指示されています。そこには、ある人が死に相続する息子がいない場合は娘に、娘がいない場合は、父の兄弟に、父の兄弟がいない場合はその氏族の中で一番近い親族に相続するようにと記されています。また、申命記第21章17節によると、長子はその他の兄弟の2倍を受けて残りを均等にして相続するようにしていました。律法の専門家はその様な規定に基づいて、自分があたかも神の御心を実現する者であるかのように、調停していたのです。
 今日の福音書の中で、ある人が主イエスに「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と言っていますが、この人は、おそらく兄から自分が正統に受けることになっているはずの遺産の相続分を分けてもらえず、主イエスのところにやって来てその調停を頼んだのでしょう。この人は、律法学者を凌ぐ評判を得ているイエスに頼めば、きっと期待する以上の調停をしてもらえると考えたのでしょう。
 でも、主イエスは律法の教師のようにはお答えにならず、先ず、富そのものに対してどうあるべきかを教えておられます。
 主イエスはご自分が裁判官や調停人(つまり律法の教師ラビ)ではないことを前置きして、貪欲に対してよく注意するように教えておられます。
 先ず、「貪欲」という言葉に注目してみましょう。この言葉は、原語のギリシャ語ではプレオネクシア(πλεονεξια)という言葉であり、「より多くを持つ」「増し加える」という意味を語源としています。そして、この言葉は、福音書でもパウロの手紙などの中でも典型的な「罪」の一つに挙げられています。つまり、貪欲とは「持てば持つほどなお多くを持ちたくなる欲望」であり、不正をしてまで自分の欲望を満たす事へとつながり易いのです。主イエスは、金銭や不動産への貪欲がいつの間にか人の心を神から引き離し、金銭や物欲に囚われた人は横暴になり傲慢になり、その人は神の心から離れてしまうことを見抜いておられました。そこで、主イエスは、自分も遺産を分けてもらいたいと言う人に向かって、ただ律法に基づく手続きを教えるのではなく、所有する財産がどんなに増えても、それだけでは命の豊かさを生み出すことはないし、かえって貪欲は心を頑なにして罪を増し加える危険があることを指摘なさったのです。
 主イエスはそのような脈絡の中で次の例え話をなさいました。
 ある金持ちの畑には麦が豊かに実りました。大豊作です。金持ちは「どうしようか、こんなに多くの作物をしまっておく場所がない」と考え、今までの倉庫を壊してもっと大きな倉庫を建てることにしました。その倉が完成したら、穀物もその他の財産も皆しまい込むことにしたのです。そして彼はこう言います。
 「さあ、もうこれから先何年も生きていく十分な蓄えが出来た。食べたり飲んだりして楽しむのだ。」
 でも、神はこう言います。「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられるのだ。お前が用意したものは、いったい誰のものなのか。」
 主イエスはこの例え話に付け加えて言いました。
 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」
 「神の前の豊かさ」という点から振り返ってみると、日本に生活する私たちにも、この主イエスの例え話は厳しく、私たちを揺さぶる例え話です。
 主イエスは、私たちが個人的に財産を持つことを禁止しているわけではありませんし、自分で働いて収入を得る喜びを否定しているわけでもありません。この例え話でも、収穫の上がった穀物を目の前にして喜ぶのはごく当たり前のことでしょうし、その収穫物をどうすべきか考えることもごく当然の大切なことでしょう。
 でも、この例え話で、金持ちは神から「愚かな者よ」と言われています。この金持ちの愚かさとは何でしょう。この「愚かな」は、アフローン(αφρων) と言い、「理性を欠いた」つまり「神を忘れた」者を意味しています。主イエスは、この例え話の金持ちが、全てのことに於いて、自分のことしか考えられない人としてこの例えているのです。
 この金持ちは、自分の収穫を喜び、自分の倉を建てて財産を蓄え、自分がゆっくり休んで、自分が食べて飲んで楽しむことを考えます。これらのこと一つひとつは、その事柄そのものが悪いこととは限りません。でも、その富を自分のために保つことしか考えないのなら、人はいつの間にか「貪欲」に、「御心を離れた者」となってしまうでしょう。
 このことは、主なる神がモーセを通して与えた「十戒」の中にも示されています。
 十戒全体を見渡してみると、第4の戒めである「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」の前は、「主なる神以外の何ものをも神とするな」、「偶像を造るな」、「主の名をみだりに唱えるな」という神と私たち人間の関係における戒めです。そして第4の戒めが校舎へとつなぐ役目を果たして、第5の戒め「あなたの父と母を敬え」以降は、隣人との関係に於いて、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」と続き、第10の戒めが、今日の主日の主題でもある「貪るな」です。この第10戒「あなたは貪ってはならない」は、隣人との関係に於いて他人の物を欲深く自分のものにしようとする行為を禁止する以上に、貪ることで欲望がもっと大きな欲望を生み出し、いつの間にか神の御心を忘れ、悪魔の術中にはまっていくことがないように教え導く戒めであると言えます。そして、それとリンクするように第1の戒めへと戻るのです。
 今日の聖書日課福音書の例え話をに出てくる人は、富むことによって自分の富以外のことに心を向けることができなくなり、富のことで魂が埋め尽くされ、神の御心をすっかり忘れてしまいます。
 主イエスは、当時のユダヤ教の指導者たちが律法の言葉に拘りながらも、神と豊かに心を通わせることを忘れて律法に魂を窒息させてしまっている姿を厳しく批判しました。私たちの存在は神の御手の内にありますが、神に生かされていることを忘れて自分だけの富を追い求めることに心を奪われて魂を痩せ細らせていないかどうか、自分の生き方を振り返ることを求められています。
 私たちの一生涯は、神の永遠の働きの中のほんの一瞬であり、神の大きな働きの中に位置づけられ意味づけられることがなければ、私たちがどれほどの冨を蓄えようとも、それは虚しいと教えられています。
 私たちも主なる神の導きに生かされることを忘れるならば、財産の有無や権力を測りにして自分と他人を判断するようになり下がっていくでしょう。そして、小さく取るに足りない私をさえ愛して救い出してくださった神の愛を感謝する感性も失ってしまうでしょう。
 今日の福音書のすぐ後の個所で、主イエスはルカによる福音書第12章31節以下に「ただ神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。」と言い、「尽きることのない富を天に積みなさい。」と言っておられます。私たちの富のある所に命があるのだとしたら、私たちの命はどこにあるのでしょうか。
 今日の聖書日課を通して神の御前に豊かにされることついて改めて深く思い巡らし、神の愛の中に生かされる豊かさをいつも確信する者でありたいと思います。
posted by 聖ルカ住人 at 16:20| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年07月25日

祈り求める  聖霊降臨後第9主日(特定12)   ルカによる福音書11:1-13  2022.7.24

祈り求める  聖霊降臨後第9主日(特定12)    ルカによる福音書11:1-13 

 今日の聖書日課福音書、ルカによる福音書11章9節の言葉をもう一度思い起こしてみましょう。
 「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」
今日の聖書日課福音書では、主イエスが弟子たちに祈ることをお教えになり、しかも、天の父なる神に向かってしつこいほどに祈り求めるように教えておられます。私たちもこの教えに導かれて、天の主なる神に向かって熱心に祈り求めるようになりたいと思います。
 その糸口として、先ず、今日の旧約聖書日課(創世記18:20~33)を見てみましょう。
 アブラハムの甥であるロトの住むソドムは退廃した街でした。創世記第13章10節を見てみると、ソドムとゴモラの町が滅びる前には、ヨルダン川流域の低地に当たるその一帯は、「主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」と記されています。この一帯は農作物の収穫に恵まれ、その豊かさによってその地域は繁栄していたことでしょう。しかし、現代の世界にも多く見られるように、ソドムとゴモラはその豊かさの中で次第に罪深い町に成り下がっていきました。おそらく農産物の豊かさに恵まれて経済的にも豊かになったソドムとゴモラの町では、人々は次第に贅沢になり、その贅沢に酔いしれているうちにその土地の人々は節制や倹約を忘れてゆきます。やがて人々は神を忘れて酒に溺れ、風紀が乱れ、怠惰になり、町には暴力が横行し、ソドムとゴモラは堕落していったものと思われます。
 ソドムとゴモラがそのような状態になっていた頃、3人の主の遣いがアブラハムの家を通りかかりました。アブラハムは主の使いであるその人たちを自分の家に迎え入れてもてなしました。そして彼らを見送ってアブラハムと主の使いたちがソドムを見下ろす場所まで来たとき、アブラハムは主の使いから、恐ろしい御告げを受けたのでした。
 その言葉によると、「私たちは、ソドムとゴモラの罪は非常に重いという叫びを聞くが、本当にその通りかどうか確かめに行く。もし本当にその評判通りならそれらの町々を滅ぼそうと考えている」と言うのです。
 ソドムには、甥のロトの家族など、アブラハムの親類の者も暮らしています。アブラハムは、その町が滅ぼされないように、一所懸命に執り成しをします。「もしその町に50人の正しい人がいるとしてもその町を滅ぼすのですか。」「いや、もしかしたら正しい人は50人には足りないかもしれないが、45人の正しい人がいるのに滅ぼすのですか。」「もしかしたら30人しかいないかもしれません。それでも僅か30人の正しい人の故に、その町を滅ぼさないでください。」アブラハムは「正しい人は10人しかいないかも知れませんが、滅ぼさないでください」と懸命に執り成します。このように必死になって執り成すアブラハムに、主の使いは「正しい人が10人いれば、その10人のためにその町を滅ぼさない。」とまで約束してくれました。
 しかし、その町には正しい人は10人に満たなかったのでしょう。ソドムとゴモラは、主の御手によって、滅びてしまいます。
 私たちはこの物語から、神がアブラハムの熱心な執り成しの願いを受け容れ、その願いを叶えてくださろうとする姿を見ることが出来ます。
 今日の主日の聖書日課は、旧約聖書ではアブラハムがソドムとゴモラのために執り成しをする箇所によって熱心に執り成すことを取り上げ、福音書では主イエスが弟子たちに熱心に祈る者となるように教えています。
 主イエスは「あなたがたが願い求めることを、主なる神はお聞き下さるのだから、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と、しかもしつこいほどにそのように祈り求めなさいと、弟子たちに教えておられます。私たちが主なる神に願い祈り求めることに熱心であるなら、しかもしつこいほどであるなら、その熱心さの故に主は聞いてくださると言っておられます。
 私たちは、このような御言葉を受けて自分自身を振り返ってみるとき、本当に熱心に神に祈り求めているだろうかと、問い返さないわけにはいきません。また、熱心に、しつこいほどに祈りなさいと言われても、私たちは何をどう祈ったらよいのか分からないほどに、祈りを身に付いていない自分を認めなければならないのではないでしょうか。
 アブラハムの熱心な執り成しの祈りは、主の遣いが、初めは50人の正しい者がいれば町は滅ぼさないと言っていたのに、たとえ10人でも正しい者がいれば町を滅ぼさないと言うまでに御使いの心を動かしました。正しい人の熱心な祈りは、神に聞かれることを私たちはしっかりと心に留めておきましょう。
 私たちが天の父に向かって心から願い祈り求めるなら、私たちはその祈りの中で、自分が本当に正しいことを祈り求めているのかを神に問われ、そこに神との対話が始まるでしょう。神に向かってしつこいほどに祈り求めるなら、その祈り求めるものを得るために、私たちは自分では何をなすべきかを神から問われ、私たちの祈りは御心にかなう祈りへと近づいていきます。私たちが願い求めて祈る時、祈る自分の願いが深められ、一層神の御心に沿った祈りに近づいていくのです。その意味でも、私たちは祈ることに於いて怠惰であってはなりません。今日の福音書に促されて、求め、探し、門を叩き続ける者でありたいし、祈り続けて、私たちは御心に適う者とされるように導かれていきたいと思うのです。
 今日の福音書の中で、私たちはもう一つ覚えておきたいことがあります。それは、「祈り」とは自分の願い事を叶える呪文ではなく、神は私たちの願い求めるものを無節操に何でも与えて下さるわけではないと言うことです。
 例えば、もし自分の子どもから明らかに体に悪い食べ物を食べたいとせがまれたり、社会の秩序に反する事をやってみたいからお金を出して欲しいと求められても、子どもの言いなりになる親はいないでしょう。私たちの求めに応えてくださる神も同じなのです。
 私たちは、天の神に向かって何を求め願い探すべきなのか自分でもなかなか分からない者です。主イエスは、そのような私たちに「祈り」を教えてくださいました。それが「主の祈り」です。その祈りは「父よ」と、祈る対象である神を親しく「父」と呼びかけて始まり、その後「み名があがめられますように」という最初の祈願が続きます。その祈願の第一は、自分の願い事が叶うことではなく、主なる神のみ名が聖なるものとして誉め讃えられるように、と祈ります。そして、その後にいくつかの具体的な事柄が続きます。私たちの具体的な願いや思いも、主なる神の大きな御手の中でしっかりと神と繋がっていられますようにと祈ります。私たちが思い、考え、行うことが神を誉め讃えるための具体的な出来事になるように、私たち一人ひとりは生かされたいのです。
 私たちの祈りは、神の目から見れば、まだまだ未熟であったり的外れであったり、主イエスの名によって祈り求めるととして相応しくない祈りであったりするかも知れません。でも、たとえそうであっても、神に向かって願い祈ることの熱意に於いては、怠りのない者でありたいと思うのです。なぜなら、私たちが主なる神のみ名が聖とされる事を中心に据えて祈り始めると、神は私たちの祈りを全て主なる神のお働きの中に位置づけ、意味づけて、小さな私たちを主のお働きのために用いてくださるからです。
 ちょうど甥のロトが自分では知らないところで伯父アブラハムの懸命な執り成してを受けていたように、主イエスは天の父の右で私たちの祈りを受けてくださり、執り成してくださり、聖霊を与えてくださっています。聖霊は私たちの祈りを更に深く主なる神の御前に執り成してくださっています。私たちの祈りは、聖霊に支えられ導かれて、一層清められ、深められて、天の神の御許に届くのです。
 主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」と教えてくださいました。
 この命令形は、文法的には「・・・していなさい」とか「・・・し続けていなさい」という継続的な意味であります。「求め続けていなさい。そうすれば与えられる。探し続けていなさい。そうすれば見つかる。叩き続けていなさい。そうすれば開かれる」ということです。
 私たちは、自分たちの祈りがたとえ拙い祈りであったとしても、神の御前に真剣に、熱心に、しつこいほどに祈ること、それも祈り続ける事へと導かれましょう。
 主イエスご自身も、大切な場面や場面が大きく変わろうとするときにいつも祈っておられます。
 私たちが主イエスに導かれて熱心に祈り続けると、やがてその自分を振り返ってみれば、祈りを通して確かに神に導かれていたことに気付き、主なる神への感謝と賛美を一層深くすることが出来るでしょう。
 今日の聖書日課から、熱心に祈る者へと導かれましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 02:06| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする