今朝、読んでいた本から
「聖書を読み味わうことと読み手の生き方は決して切り離すことはできない。聖書を読むようにしか、私たちは生きることが出来ないし、私たちが現に生きているようにしか、聖書を読むことが出来ない。それ故、聖書を読むときだけ聖霊の導きを求めるのではなく、全生活の全領域、全生涯に渡って聖霊の導きを求めつつ、聖書を読み味わう際、私たちは特別に神の助けにより頼むのである。(「宮村武夫著作集1,p.83)」
上記の言葉は、私がかつて幾度かお会いし親しくお話しさせていただいた宮村武夫先生(故人)の一文である。
私は、既に定年退職の身ではあるが、教会の牧師館に住まわせていただき、引き続き教区の教役者の一人として現職同様の勤めに与れることは感謝に耐えない。毎主日の聖餐式で司式・説教に奉仕し平日も朝夕の礼拝をはじめ聖堂で祈ることは「住職」としての勤めであり、これが出来ることは自分の心身の健康を保つ上でも神から戴く恵みであると思っている。
しかし、この年齢になると、例えば、主日礼拝の説教準備をしていても、思い巡らせる内容は自分の若い頃からの気づきや考え方の域を出ないことも多く、準備した説教の原稿もそれまでと同じであり、その域を出ていないことを痛感している。聖書についてまたその内容についての知識などほんの少しに過ぎないのに。
名人落語家の噺なら、同じ題目の落語を幾度聴いても飽きないだろう。年間のプログラムを組んで、毎主日ごとに、「御慶」、「二番煎じ」、「長屋の花見」、「舟徳」、「火焔太鼓」、「抜け雀」、「芝浜」等々と52週(年によっては53週)分を3年周期(現在、日本聖公会の主日用聖餐式聖書日課は3年周期A、B、C年となっている)で説教原稿を用意する可能性もないわけではないが、自分の説教がそうするほどに洗練されて語り継がれるべきものだとも思っていない。
上記の宮村武夫先生の言葉を言い換えれば、自分の生活の脈絡と聖書の脈絡がどのように接触しそこで聖書は自分に何を働きかけているのかを受け止められるように、全生活を通して聖霊の導きを求めまたその働きに鋭敏でありたいと思う。そして、このことの内実を自分でどれ程に掴めているかが説教の質を決めていくのだろう。
その点が欠けていたら、説教はお決まりの釈義で聖書を説明することに留まることになる。もし、教役者の説教がお決まりの釈義にも至らない勧話程度に過ぎないのであれば、聖霊の導きを求めつつそれぞれの生活を営む方々の現場の声を聴かせていただいた方が、ずっと魂の養いになるのではないだろうか。
私は、聖書の言葉そのものの力を自分でしっかり受け止めているか、そして、聖書の言葉の力をそのままに会衆に伝えられているかということが説教の基本であると思うが、自分が説教する者として生きる脈絡の中で聖書の言葉をどのように捕らえているかということが欠落してしまえば、お決まりの釈義の域を脱けられないのではないかと思う。
説教の「お決まり」を突破していくには、私に語られている聖書の言葉を私がどのように受け止めているのか、聖書に分け入りまた自分に分け入っていく覚悟が改めて必要なのだろう。