2021年10月18日

今朝、読んでいた本から 説教の「お決まり」を突破したい

 今朝、読んでいた本から 
 「聖書を読み味わうことと読み手の生き方は決して切り離すことはできない。聖書を読むようにしか、私たちは生きることが出来ないし、私たちが現に生きているようにしか、聖書を読むことが出来ない。それ故、聖書を読むときだけ聖霊の導きを求めるのではなく、全生活の全領域、全生涯に渡って聖霊の導きを求めつつ、聖書を読み味わう際、私たちは特別に神の助けにより頼むのである。(「宮村武夫著作集1,p.83)」

 上記の言葉は、私がかつて幾度かお会いし親しくお話しさせていただいた宮村武夫先生(故人)の一文である。
 私は、既に定年退職の身ではあるが、教会の牧師館に住まわせていただき、引き続き教区の教役者の一人として現職同様の勤めに与れることは感謝に耐えない。毎主日の聖餐式で司式・説教に奉仕し平日も朝夕の礼拝をはじめ聖堂で祈ることは「住職」としての勤めであり、これが出来ることは自分の心身の健康を保つ上でも神から戴く恵みであると思っている。
 しかし、この年齢になると、例えば、主日礼拝の説教準備をしていても、思い巡らせる内容は自分の若い頃からの気づきや考え方の域を出ないことも多く、準備した説教の原稿もそれまでと同じであり、その域を出ていないことを痛感している。聖書についてまたその内容についての知識などほんの少しに過ぎないのに。
 名人落語家の噺なら、同じ題目の落語を幾度聴いても飽きないだろう。年間のプログラムを組んで、毎主日ごとに、「御慶」、「二番煎じ」、「長屋の花見」、「舟徳」、「火焔太鼓」、「抜け雀」、「芝浜」等々と52週(年によっては53週)分を3年周期(現在、日本聖公会の主日用聖餐式聖書日課は3年周期A、B、C年となっている)で説教原稿を用意する可能性もないわけではないが、自分の説教がそうするほどに洗練されて語り継がれるべきものだとも思っていない。
 上記の宮村武夫先生の言葉を言い換えれば、自分の生活の脈絡と聖書の脈絡がどのように接触しそこで聖書は自分に何を働きかけているのかを受け止められるように、全生活を通して聖霊の導きを求めまたその働きに鋭敏でありたいと思う。そして、このことの内実を自分でどれ程に掴めているかが説教の質を決めていくのだろう。
 その点が欠けていたら、説教はお決まりの釈義で聖書を説明することに留まることになる。もし、教役者の説教がお決まりの釈義にも至らない勧話程度に過ぎないのであれば、聖霊の導きを求めつつそれぞれの生活を営む方々の現場の声を聴かせていただいた方が、ずっと魂の養いになるのではないだろうか。
 私は、聖書の言葉そのものの力を自分でしっかり受け止めているか、そして、聖書の言葉の力をそのままに会衆に伝えられているかということが説教の基本であると思うが、自分が説教する者として生きる脈絡の中で聖書の言葉をどのように捕らえているかということが欠落してしまえば、お決まりの釈義の域を脱けられないのではないかと思う。
 説教の「お決まり」を突破していくには、私に語られている聖書の言葉を私がどのように受け止めているのか、聖書に分け入りまた自分に分け入っていく覚悟が改めて必要なのだろう。 
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2021年09月18日

祭壇の花 明後日の主日礼拝のために

2021年9月17日(金)
祭壇の花 明後日の主日礼拝のために

 ちょうど松山聖ルカ幼稚園の子どもたちと礼拝・誕生会をしていた時に、明後日の主日礼拝のためのお花をお持ちくださった方がある。
 日本列島に台風が接近しており、明日の天候がどうなるのか分からず、今日のうちにお届けくださった。
 その方は、ご自宅の広い敷地に野菜や草花を育てておられ、それもできるだけ「自然な状態」での管理を心がけて、必要以上に雑草処理することもなく、野菜や草花も伸び伸びと育っているように感じられる。玄関前に書き置きと一緒に置かれた秋の花々も綺麗だ。玄関前は西日が当たる場所なので、バケツを直ぐに室内に移したが、それぞれの花の水揚げがどうなるのか、少し心配だ。
 夏を迎える頃、妻とその方のお宅を訪問して、畑を案内していただいたときは、楽しかった。お持ちくださった花々があの庭のあちこちに咲いている姿を想像する。台風の雨風が強くならないことを願う。

   祭壇の花 用意.JPG  
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2021年07月31日

原爆の図丸木美術館見学

7月27日(火)丸木美術館訪問
 「原爆の図丸木美術館」へ行ってきました。
 東松山市に住むようになって4ヶ月。記憶では26年前に家族で行ったはず。
 内容は当美術館のホームページに委ねることにします。
 あのように「原爆の図」を幾つも描かせた原爆の破壊的エネルギーとその悲惨さ。それは被爆地のことに限らず、ずっと尾を引いています。丸木位里(1901-1995)、丸木俊(1912-2000)のご夫妻があの悲惨なエネルギーを絵画で表現したその情熱エネルギーに圧倒される思いでした。

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埼玉ピースミュージアム(埼玉平和資料館)

7月21日(水)埼玉ピースミュージアム(埼玉平和資料館)
 ぶらり100分、埼玉ピースミュージアムへ行ってきました。
 東松山聖ルカ教会から車で約15分(関越自動車道東松山I.Cからも15分)。
 資料館のパンフレットには、「戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるために、平成5年(1993年)8月1日に開館しました。(西暦年号は引用者による附記)」とあり、戦争に関する資料や生活用具などの調査、収集、保存、展示を行ったり、戦争体験者の証言の記録、講演会などの開催をはじめとする事業を行い、「戦争の悲惨さと平和の尊さを時代に継承」を目的とした資料館です。ある意味、特徴の無い平凡な資料館ですが、やはり内容には重いものがあり、このような資料館が存在することの大切さを思います。
 隣の熊谷市は第二次世界大戦最後(1945年8月14日午後11時30分頃から約1時間)の空襲被爆市です。死者266名は埼玉県下最大の被害であったようです。6発の大型爆弾と8049発(581トン)の焼夷弾が投下されたとのことですが、終戦で要らなくなる爆弾類の処分投下という見方もあるようです。
 タワーから関東平野が360度展望できます。写真はタワーから東松山市内方面。

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2021年07月12日

7月11日(日)突然の豪雨と落雷

7月11日(日)突然の豪雨と落雷
 このところのゲリラ豪雨には、凄まじいものがあります。
 東松山では、昨夕6時30分頃から激しい雷雨がありました。また、雷が原因でしょうか、10分近い停電もありました。これほどの強い雨はめったに経験したことがありません。いわゆる雨台風の暴風雨圏に入っているときのような思いになりました。雨が通り過ぎて、玄関を出てみると、「ああっ!」。ここまで育ってきたバラのシュート(新枝)が強風でもがれるように折れてしまいました。
 強雨に撃たれなければ問題ないと思っていたけれど、甘かったな。まさかそれほどの風も吹くとは。悔しい。
 私の被害はこの程度でしたが、おそらく同じような豪雨をもっと長時間受けて被災された静岡県、島根県、鳥取県をはじめとする方々のため、祈っています。

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2021年07月01日

吉見百穴を訪ねて

先日(6月22日)、自分の「地域学習」と理由付けして、吉見百穴を訪ねました。
 私は、生まれてから30歳を過ぎるまで、ずっと埼玉県浦和市に住んでいました。小学4年生(1960年頃)の「冬休み学習帳(もしかしたら、夏休み学習帳だったかもしれない)」に、「埼玉県のカルタを作ろう」という課題があり、その例として「う」は「浦和は県庁のまち」という言葉が載っていました。私は五十音全部を作らねばならないと半ば義務感を抱きましたが、それはとてもできることではなく、家族総出で取り組んだことがありました。
「あ」の「安行植木の名産地」は父親のアイディア。「い」の「岩槻人形かわいいね」は母親。「う」は例示されていた言葉のリズムが悪いので気に入らず私が「浦和は県の中心地」としました。「え」は何があるだろう、と行き詰まりそれは後回しにして、「お」は「大宮は各方面の分かれ道」。そして、できないものは後回しにしながら幾日かかけて最後の「よ」まで来て、もういい加減嫌気がさしていた私に、母親が「よ」は「吉見百穴古代のお墓」と提案してくれました。今から60年ほど前に初めて耳にした「吉見百穴」という言葉は、不思議にも私の中に残り続けていました。
 この4月から東松山での生活が始まり、車を走らせていると所々で吉見百穴を案内する道路標識が目に入ります。「何だ、こんなに近いのか。」と思い、今回、初めてこの百穴を訪ねてきました。
 吉見百穴は、いわゆる古墳時代後期(7世紀後半)に造られた横穴墓群で、237穴が発掘されており、1923(大正12)年3月7日に国の史跡に指定されています。
 実際に現地に行ってみて、「ああ、やっぱり・・」と思ったことがありました。それは、第2次大戦下に掘削された軍需工場造設の地下壕跡があることです。埼玉県・吉見町発行のパンフレットには、「航空機のエンジン部品を製造するための、大規模な地下軍需工場が造られました。吉見百穴の下にも巨大なトンネルが碁盤の目状に幾つも掘られています。」と記されています。この掘削工事のため十数個の横穴が消滅し、現在確認している横穴墓は217基であるとのこと。
 人間の命を惜しみ或いは魂の平安を願って死者を弔ったであろうこれらの埋葬穴群に、千年以上も後に生きる人間が戦争兵器製造の国策により、ずかずかと、民衆が気持ちを抑えざるを得ないような大義名分を立てて入り込んでくるダイナミズムはここにも働いたのか、というのが、上記の私の「ああ、やっぱり・・」という言葉の中身です。
 終戦後のそしてこれからの吉見百穴は、そのような意味をも含めて、古墳時代の史跡であると共に第2次世界大戦時代の史跡であるという二つの意味において、日本の史跡として捕らえて後世に伝えていくべきであろうと考えます。
 今回吉見百穴を訪ねてここに地下壕が掘られたことを知り、私は35年ほど前に家族で訪ねた長野県松代の大本営移設計画の地下壕を連想しました。そちらの地下壕掘削工事には多くの在日外国人が過酷な労働を強いられました。その地下壕で見学できるのは隧道のほんの一部ですが、ほぼ完成していたという天皇御座所や現在は地震研究所が使用している箇所などは見学できませんでした。私は、可能な限り、正しい史料と共にそれらの場所も広く開示されるべきだと思っています。
 その松代を含めた夏の旅の帰り道、東松山インターを降りて丸木美術館を訪ねましたが、そこにも近いうちにまた「地域学習」に行きたい、と思っています。

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2021年06月26日

天ぷら油の石けん作り

6月26日(土)
 廃油石けん作り
 今年2度目の廃油石けん作りです。油は天ぷら油です。
 一度目は、5月30日に行いましたが、油が悪くて質の良い石けんにならず、再挑戦です。
 今回は、比較的上手くいったようですが、固まり始まるのが早く手際よい作業を要しました。他に香料などを一切加えていない石けんです。
 今年はみんなでバザーを楽しむ日が来るでしょうか。



    2021.06.26石けん作り02.JPG
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2021年06月14日

パワーショベル

2021年6月12日(土)
 蒸し暑い日が増えてきた。雑草がよく伸びる。
 東松山聖ルカ教会と松山聖ルカ幼稚園の広い敷地の中に、私が花木の植栽のために目をつけた箇所が3箇所ある。今は、この箇所にはびこり、どんどん伸びてくる雑草を取り除きながら、やがてこれらの箇所が花木を愛でる花壇になることを夢見て、雑草と戯れている。
 今朝の作業をしていると、ミニカーのパワーショベル一つあるのに気がついた。園児をお迎えに来た弟くんか誰かが少しの間ここで遊んで、そのまま置き忘れて帰ったのではないかと想像しているが、その置かれた場所が見事にピタリと決まっており、私は思わず「おおっ!」と言ってニッコリしていた。まるで、私を応援しているかのよう。或いは、「僕はこれでお手伝いするね。」と言ってくれているかのよう。
 私の心積もりでは、この辺りにはムクゲを2本並べて植えて、その後あまり手をかけなくても、夏の間は毎日花を見ることのできる場所にしたい。そのために、今、挿し木をしてその小枝の発根を心待ちにしているところ。その結果が見えてくるのは3年後だろうか。ヴィジョンがあれば除草作業も楽しい。パワーショベルが見守っていてくれればなお楽しい。

  ショベルカー001DSC_0711.JPG
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2021年06月07日

「MRIからPIMへ」ということ

2021年6月7日

 6月4日の文章の中に「MRIからPIMへの動き」という言葉を使いました。後で、「あの言葉はどんなことなのですか?」と質問を受けました。
 正直に言って、私は、内心、一瞬「しまった!」と思いました。そのことについては、日本聖公会の教役者であれば、即、答えられなければならないことでしょう。
 でも、一般的に「MRI」と言えば、磁気反応によって体の内部を輪切りにして画像化するあの検査をCTと共に思い浮かべることでしょう。私もあの検査を定期的に受けています。耳栓してカプセルのような機械に包まれて、「ポコポコ、ガーガーガー、ドドドドド・・・」。でも、ここで問題にしているMRIはそのことではありません。
 私が「しまった!」と思った主な理由は、先回の文章を一般的には用いられていない言葉を丁寧な説明もなく「まあ、良いか」と思いつつ書いてブログに上げてしまったことと、MRIからPIMということの内容を過不足なく説明するとなると私には結構荷が重かったことの二つでしょうか。
 でも、既にお示しした文章に載せたその言葉の部分を削って「そこは無かったことにしてください。」では、自分でも情けないので、私の記せる範囲でではありますが、「MRIからPIMへの動き」について記そうと思います。説明責任?-汗-。
 まず、MRIとは医療機械のことではなく(汗)、Mutual Responsibility and Independance の頭文字で、当時は、「相互責任と相互依存」と訳されたようです。
 1963年にトロントで世界の聖公会の大会(アングリカンコングレス)が開催され、世界の聖公会の教会がどのような関係をつくっていくべきかが議論されました。世界に拡がる聖公会は英米をはじめ先進国による植民地の拡大と共に大きくなった一面があります。こうしした時代背景のある世界の教会は、20世紀の半ばまで、〈送り出す先進国の教会=母教会〉と〈受ける途上国の教会=子(娘)教会〉という構図にありましたが、これからはこのような関係ではなく、すべての教会が互いにそれぞれの責任をもって支援し合う新しい関係をつくっていくヴィジョンを打ち立てたのでした。
 しかし、世界の教会の中にはまだそのような関係の中で相互に Responsibility と Independence を担う状況にはない教会も多く、成長途上にある教会が新しい宣教を起こしていくためには「このような援助を求めたい」という必要とする援助がリストアップされることと先進国が具体的にどの程度の支援ができるかが分かち合われる域を出なかったようです。実際に、その後の会議では成長の途上にある教会からの支援を求める具体的事項について「お買い物リストのよう」と表現されたようです。
 こうした状況から更に世界の各教会が自主自立した対等の関係に立って宣教をしていくために、全聖公会中央協議会(A・C・C)から Partners in Misshion という標語が提示されました。「PIM」はこのPartners in Misshion の頭文字で、日本語では「宣教における協働」という言葉で用いられるようになっていきます。
 私は、「PIM」とは世界の各教会がそれぞれに置かれた場所や状況の中でこの世界に対する「神の宣教(ミッショ デイ)」の働きに参与する責任を負っており、各教会とその構成員は「神の宣教(ミッショ デイ)」におけるパートナーであるというところにその意味があるように思います。自立した個人としてまた教会として、自分のすべきことは何かを踏まえ、神の御心をこの世に実現していくために協働することが「PIM」の意味であると思います。
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2021年06月04日

『神學の聲』

2021年6月4日
『神學の聲』
 東松山の牧師館に転入してちょうど2ヶ月経ちました。引っ越しの荷物整理など大方終わっていて良いはずなのに、途中で放り出してしまった感もあり、荷物整理は完全に停滞しています。
 停滞の原因は、荷物の処分に決断ができないこと。その一例がこの『神學の聲』。
 個人的には、もういつまでも手元に置いておかなくても良いのではないかと思うのですが、いざ処分しようとすると、「もしかしたらこれを必要とする人がいるかもしれない」とか「廃棄してしまったら、教会として貴重な史料が永久に失われることになってしまうのではないか」と思って「とても捨てられない」という気持ちが強くなってしまいます。
 私が神学生だった1980年代半ば、この『神學の聲』は「必要とする学生はここから持っていって可」という時期があり、私はできるだけ手元に置いておきたいと考えて個人用に戴き、全巻揃っているわけではないけれど、以来30数年にわたって書棚の一角に置かれ続けてきました。
 半分くらいは読んだのではないかと思いますが、開き直してみると鉛筆で線が引いてあったりはするものの、全く覚えていないことばかり。聖公会神学院の常勤、非常勤の先生方の執筆による論文や報告などであり、神学生時代には授業の課題レポートの参考にも利用した記憶があります。この機関誌から、アングリカンコミュニオンの動きやその中での日本聖公会の課題やその取り組みについて、(具体的にはカトリック教会との合意文書についての日本聖公会の見解、MRIからPIMへの動きや日本聖公会の経済面を含めた自律の課題等々)、学ぶことは山ほどあるかと思います。
 先日は、「廃棄する前に読んでみよう」と思い、第三巻第一号1956年(「校長就任説教」森譲、「聖公会神学院史」松平惟太郎)を読んでみました。森譲師は私が現職として最後に勤務した水戸聖ステパノ教会で戦中戦後牧師としてお働きになったあとに聖公会神学院校長に就任した方でありその後京都教区主教になっておられます。また、松平惟太郎師は私が敬愛する教役者であられた方であり、ことに日本聖公会の歴史をしっかりと文章にして残しておられ、この文章にもその一端がうかがえます。
 そうであっても、私はもう『神學の聲』から『神学の声』までを通して読み直すこともないでしょうし、この機関誌そのものを研究や調査の対象とすることもないでしょう。でも、私はこれらの冊子を捨てる気になれず、机の脇に中途半端に置いたままになっています。
 荷物の整理は中断したまま、東松山聖ルカ教会牧師館での生活は3ヶ月目に入ります。


神学の声20210604-02.JPG
posted by 聖ルカ住人 at 22:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする