2025年11月18日

「終わりの時」のために   ルカによる福音書21:5-19   2025.11.16

「終わりの時」のために      ルカによる福音書21:5-19     聖霊降臨後第24主日(特定28)    

                              

 教会の暦では一年のが終わりが近付いています。今読まれた聖書日課も、旧約聖書、使徒書、福音書のどれもが、「終わりの時」について(神の子の来臨について)触れている箇所です。

 旧約聖書のマラキ書では、主なる神さまが正しい者と神に逆らう者を選り分けるために預言者エリヤを遣わすと言い、その時に備えて心を神に向けるように促しています。使徒書のテサロニケの信徒の手紙Ⅱでは、「終わりの時」が直ぐにでも来ると考えた人々が自分の日々の生活を放り出して救い主の再来を待つ人が増える中で、「落ち着いて仕事をし、たゆまず善いことをしなさい」と、しっかり地に足を着けた生活をするように勧めています。

 また、今日の福音書では、主イエスは「この世の栄華に心を奪われるのではなく、その反面色々な社会現象や自然現象その他の動きに惑わされることなく、忍耐して御心にかなう歩みをして、滅びではなく命を勝ち取るように」と教えておられます。

 このようなことを踏まえて、私たちは聖書に語られている「世の終わり」とか「終わりの時」についての理解を深め、また、「世の終わり」「終わりの時」に向かって、しっかりと歩んでいく思いを新たにしたいと思います。

 現代に生きる人々でも、キリスト教から派生した異端の宗教に捕らわれた人の中には、「世の終わり」をまるで地球が破滅することであるかのように誤解して不安になっている人がいます。その人たちは、日々の生活に浮き足立って、高価な陶器や印鑑を購入させられたり、理性を失ってその教えにのめり込んでいくように見受けられます。また他の人は、どうせいつかは滅びるのだから好きに生きたら良いではないかと、目の前の快楽を追い求めてただ軽薄に生きています。「世の終わり」を生きることは、そのどちらでもないことは言うまでもないことでしょう。

 主イエスがこの世の生涯を過ごされた時代のことを振り返ってみましょう。主イエスの地上での生涯はおそらく33年ほどでした。主イエスがこの世の生涯を終えて、甦って、天に上げられたとき、当時の信仰者たちはこう考えました。「主イエスは地上での生涯を通して救いの道を示して下さった。その主イエスは天にお帰りになったが、また直ぐに来て下さる。主イエスが再びこの世界に来て下さる時、この世界は神の御心によって完全に支配され、神のお働きも完成されるのだ。」

 そして、少しずつ時が流れ、それから50年ほどの時がたつ頃、主イエスの再臨を待ち望む人々の中には、次第に幾つかの待望論が生まれてくるのです。

 「主イエスが天にお帰りになってかなりの時が経った。主イエスの再臨にこれ以上時が過ぎることはない。この世の終わりはもう直ぐにでも来る。」

 またその一方で、「もう50年経ってしまった。世の終わりは直ぐには来ないだろう」と考える人も増えていたのです。

 主イエスを救い主と信じる人々は、このような時代の中で、自分たちは「世の終わり」「終わりの時」をどう待ち望むことを神は求めておられるのだろうか、と考えます。

 そうであれば、「終わりの時」をどのように考え、どのように備え、どう生きるべきということは、今の時代を生きる私たちにとっての課題でもあるのです。

 もし、私たちにいつ訪ねてくるか分からない大切な客人がいるとして、その人を家に迎える準備をするとしたら、私たちはどのような準備をするでしょう。もし、大切な客人がいつ来るのか予め分かっていれば、私たちはその日その時に備えて、迎える部屋をいつも以上に入念に掃除をしたり特別な料理をつくったり、準備万端整えてその客人を歓迎することでしょう。

 でも、大切な客人が来るのが今すぐかもしれないし、ずっと後になるかもしれないとしたらどうでしょう。あるいは、自分がその方を迎えるのではなく、逆に自分が一生の終わりにそのお方に迎えられるかもしれないとしたら、私たちは何をどのようにすべきなのでしょう。私たちは、いつかその客人にお会いすることを楽しみにしつつ、自分の人生を大切に生きて、お会いした時にその自分を示して会えた喜びを交わし合うのではないでしょうか。

 今日の使徒書Ⅱテサロニケ3:12-13では、「落ち着いて働き、自分で得たパンを食べなさい。きょうだいたち、あなたがたは、たゆまず善を行いなさい」と勧めています。この時代のテサロニケの人々の中には「世の終わりは近い」という主張に浮き足だって、再臨のキリストに会う準備をするために自分の仕事を投げ出してしまう者も多かったようです。この手紙では、そのような人々に対して「落ち着いて自分の日々の生活を通して善い業に励みなさい」と教えています。

 また、今日の聖書日課福音書で、主イエスは、偽預言者の言葉やその情報に振り回されることなく「忍耐によって、あなたがたは命を得なさい」と教えておられます。

 ここに「忍耐する」という言葉が用いられていますが、「忍耐」とは元のギリシャ語では「υpοµονη(ヒュポモネー)」という言葉で、この言葉は「υpο(もとに)」と「µονη(留まる)」から成り立っており、辛抱強く神の許に留まることや自分の重荷を担い続けることを意味しています。この言葉の意味からも分かるように、私たちが生きる世界の状況が良くても悪くても、神が最終的に御心を完成させてくださる希望をもって、各自が神から与えられた自分の命を、取り替えることのできない自分として、精一杯に生きることを神は私たちに求めておられるのです。

 このように考えると、「終わりの時」に備えることは、特定の年月日を定めた未来の一点の時の時のために準備をする意味ではない事が分かってきます。

 私たち人間には「終わりの時」が何時なのかを前もって知ることなど出来ないし、それでも「終わりの時はこれこれの日に来る」などと言うとすれば、それは私たち人間が神の働きを規定し支配しようとする傲慢なことになるでしょう。

 私たちは、主なる神ご自身がこの世界に御心を完成させて下さる時を思い、「御国が来ますように」と祈りつつ日々を生きるのです。そして私たちは、神から与えられた自分の人生を感謝し、主イエスに私たちの重荷を担っていただき、私たちは自分に与えられたこの世の使命を投げ出すことなく、逃げ出すことなく、一人ひとりがこの世に神から遣わされている事を再認識してそれに応えて生きて行く者なのです。

 神に遣わされてこの世を生きることは、決して自分を押し殺してただ神の考えに自分を当てはめて生きることではなく、それぞれの人が神から与えられた自分の命を無理なく無駄なくその人として十分に生きることを意味しているのです。

 私たちは「終わりの時」に向かって導かれて生きています。そして私たちが今生きている時代は、救い主イエスを知らない旧約の時代ではなく、主イエスが十字架の上で完成して下さった救いを土台にして、主イエスが示してくださった神の愛に生かされ、それによってこの完全な救いが世界中に行き渡る「終わりの時」に向かって生かされているのです。

 教会は、主イエスが示してくださった神の恵みを信じ、受け入れ、それを公に告白した者の集まりであり、私たちはこの世界に神の御心が実現することを願って、神と人々のためにこの世界に派遣されています。そして、私たちはその「終わりの時」の姿を先取りして、この聖餐式によって養われ導かれています。

 教会暦は、今週と来週の2週間で終わり新しい年を迎えようとしています。この主日に、私たちは「世の終わり」「終わりの時」について思い巡らす恵みが与えられました。「終わりの時」について思い巡らせることは、私たちがいつ主なる神にお会いしても良いように整えられて生きることにつながっています。

 主なる神がお与え下さる「終わりの時」の希望に導かれて、私たちは日々自分を通して神の御心が顕されるよう、それぞれの重荷を担って参りましょう.


posted by 聖ルカ住人 at 11:54| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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