2025年11月13日

『閑日随想』のこと 

『閑日随想』のこと

 ほぼ隔月で本教区の教役者が小山祈りの家に集い、逝去者記念聖餐式(レクイエム)と教役者連絡会を行っています。9月26日にその集いがあり、私にその礼拝の説教当番が回ってきました。

 8,9,10月の逝去教役者名簿を開いてみると、38名の逝去教役者の中に、松村泰明司祭(逝去日9/14)、松平惟太郎司祭(9/15)、速水敏彦司祭(10/12)、北村禮二司祭(10/31)をはじめ、私がお世話になった方や関わりの深い方々のお名前が沢山ありました。

ことに、私がこうして勤務する東松山で長く司牧された松村泰明司祭のお名前があるからには、松村泰明司祭のことに触れずに説教するわけにはいかないように思えました。

しかし、放蕩息子だった私が教会に戻る決心をしたのは1976年の時で、1901年生まれの松村泰明司祭はその頃には既に定年退職しておられたのです。教区の礼拝などで同じ場所にいた可能性はありますが、私は泰明先生にお目にかかった記憶はありません。

私は、この逝去者記念礼拝の日まで、日数に限りがあっても、この機会に泰明先生に近づいてみよう、そして、泰明先生のことを十分に語れなくとも、少しでも泰明先生に関わる説教をしたいと思いました。そこで、泰明先生の随想をまとめた『閑日随想』を読み直してみることにしました。

この本は、聖公会新聞に連載されていた松村泰明司祭のエッセーをまとめ、泰明先生と喜代子夫人の金婚の祝いに、1982(昭和57)年9月10日付けで聖公会出版から非売品で刊行さました。私は昔、聖公会新聞でその文章の幾つかを読んだ微かな記憶があります。

 松村泰明司祭は、その本の末尾に「著者略歴にかえて」と題して、見開きの2頁を用いてご自身の生い立ちや少年時代のことなどを記しておられます。

松村泰明司祭は、1901(明治34)年に埼玉県比企郡出丸町(現在の川島町)に、谷島家の9人兄弟の真ん中の3男としてお育ちになりました。16歳の時に慕っていたお母さまが逝去され、その2年後に虚脱状態から脱し、神田キリスト教会で受洗し、川越基督教会の奥村亮司祭の指導により聖職志願をしておられます。神学院を卒業した泰明先生は、伝道師として前橋聖マッテア教会に派遣されますが、僅か三ヶ月で松山聖ルカ教会勤務を命じられ、1932年7月から定年退職までのほぼ40年間を東松山で聖務に尽くされたのでした。

 毛呂山に長く勤められた森清一司祭が次のような話をしてくださったことがあります。

 「昔、私たちは月曜日を安息日にして、この日には、私と川越の松平司祭と東松山の松村司祭はどこかの牧師館に集まって、囲碁を打ちながら、教会のこと、牧会のことなど話し合ったものでした。この集いを三者会と呼んで、それが埼玉伝道区の教役者会に発展しても三者会と呼んでいます。大斎節の講壇交換もここから始まったのですよ」。

 埼玉県西部の東松山、川越、毛呂山の3教会は、こうした仲の良い3聖職によって、宣教の働きが各教会の点としてではなく面として展開されており、今でもこの3教会の働きと信徒の交流の深さと広さは随所に見られ、在籍する信徒や各幼稚園で勤務する先生方の履歴にも表れています。

 『閑日随想』は、前半は「牧会昔ばなし」と題して泰明先生の牧師また幼稚園のチャプレン及び園長としての働きを記しておられ、後半は「閑日随想」と題して長年のお働きの中で想うことや考えることを記しておられます。

 私の印象に残るのは、日本が第2次世界大戦に向かう時代に、米国への帰国を迫られた園長ミス・ポイドから突然に園長職を引き継いだ時の様子。キリスト教の幼稚園として園児、保護者、教職員への宣教として実践すべき事柄。当時の日本聖公会が教役者の定年制を定める流れの中で当事者であった泰明先生の思いに関する記述などです。

東松山聖ルカ教会に戦中戦後の40年に渡りお働きになった泰明先生の随想に、今の教会に問いかけている課題も沢山あることを再認識しました。そのことはまたいつか機会を改めて記したいと思います。(小野寺)

  (『マラナ・タ』東松山聖ルカ教会教会通信第52号 2025年10月号)

posted by 聖ルカ住人 at 10:55| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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