2025年11月13日

私を贖う者   ヨブ記19:23-27   聖霊降臨後第26主日(特定28/C年)

私を贖う者   ヨブ記192327  聖霊降臨後第26主日(特定28/C年)     2025.11.09


 今日の旧約聖書日課ヨブ記第1925節の言葉を思い起こしましょう。 

 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に塵の上に立たれる。」

 この箇所にある「贖う(贖う者)」という言葉は、聖書の中の重要な言葉であり、旧約聖書の時代だけでなく、後のキリスト教思想のキーワードの一つにもなっています。

 今日は、この言葉を中心にヨブ記について思い巡らせて、導きを受けたいと思います。

 「贖う」という言葉は、今はあまり日常生活では用いられませんが、国語辞典には「償う、埋め合わせをする」と説明されており、相手に与えた損失に対して金品で弁償することやその過ちを埋め合わせることが「贖う」ということです。

 今日の旧約聖書日課の中(ヨブ記第1925)で、ヨブは「私を贖う方は生きておられる」と言っていますが、この箇所でヨブはどのような脈絡の中で、どのような意味でこの言葉を口にしているのか、振り返ってみましょう。

 ヨブは今、苦しみの中にいます。ヨブ記第1,2章は、第3章以降の場面設定の物語になっており、ヨブがなぜ苦しみの中にいるのかが記されています。

 ヨブは、神の前にも人々の目にも敬虔な正しい人であり、財産や子供にも恵まれ、豊かな生活をしていました。その生活は、神に祝されていることのしるしでした。ところが、サタンは神の許しを得て、先ずヨブの財産を奪い、子孫を奪い取ってしまいます。それでもヨブは、「主は与え、主は奪う。主の名ほめたたえられますように」と言って、罪を犯さず、神を非難しませんでした。しかし、ヨブは、更にサタンによって、頭のてっぺんから足までひどい出来物に悩まされ、彼はいたたまれず、灰の中に座り、焼き物のかけらでその腫れ物のできた体をかきむしります。そのようなヨブに向かって、彼の妻までが「あなたは死んだ方がましだ」と言うようになりますが、それでもヨブは罪を犯すことはありませんでした。

 このヨブの様子を知った3人の友だちが、ヨブを見舞い慰めようと訪ねてきます。3人の友人は、そこにいるのがヨブだとは見分けられないほどのその姿を見て、言葉を失います。彼らは7日7晩ヨブの脇に座り込んで話しかけることもできずに過ごしました。ここまでがヨブ記の言わば「序」にあたる場面設定です。

 第3章に入ります。

 ヨブが口を開きます。ヨブの口からは「私の生まれた日は消え失せよ」と自分の生まれを呪う言葉が吐き出されました。

 これをきっかけにして、ヨブと3人の友人との間で問答(論争)が始まります。ヨブと3人の友人による問答(論争)は続き、更にもう一人エリフが加わり第37章の終わりまでヨブを説得する言葉が続きます。

 この長い問答の中での、友人たちの主張の要点は、主に次のようなことだと言えます。

 「ヨブがそのような苦しい目に遭うのは、ヨブの罪の結果であり、ヨブは自分をよく振り返って罪を認めねばならない。そして悔い改めねばならない」と。それは、因果応報の考えであると言えるでしょう。

 でも、ヨブは「自分は正しい者、義なる者であり、神からこうした罰、災難を受ける理由など何一つ無い。なぜ私はこのような目に遭わねばならないのか」と言います。自分の財産ばかりでなく、子孫を失い、全身いやな出来物に覆われ、妻にも友人にも理解されないヨブは、友人との論争が続く中で、その苦難と孤独の言葉を続けていきます。

 その流れの中でヨブは言うのです。

 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に塵の上に立たれる。」

 先に触れた「贖い」という言葉の一つの側面を強調して言えば、「神は必ず私の苦難に報いて、罪のない私にこのような苦難を与える者に復讐するのだ。」と言っていると、読むこともできるでしょう。

 このように、ヨブは苦しみの中で「私を贖う者」の存在を信じて託そうとするのですが、ヨブは誰からこのような損害と苦しみを受けたのでしょう。そして、それを「贖う方」とは誰で、どのように贖ってくれるのでしょう。

 もしヨブにこのような苦しみを与えているのが他の誰でもない神ご自身であるのなら、また神がサタンにヨブを苦しめることを許可したのであれば、神はこのヨブに対してどのような「贖い」をなさるのでしょうか。それとも、神はヨブをそのままにしておかれるのでしょうか。

 もし、ヨブが他の誰かからこの苦しみを受けているのなら、「贖う者」はヨブを苦しめる者にヨブの受けているのと同じ苦しみを与えて復讐するはずです。あるいは、「贖う者」は、ヨブの謂われのない苦しみに対して、それに見合う代価をヨブに支払ってくれるはずです。ヨブは、謂われのない苦しみから解放されて、自分の苦しみの代価を受けるか、もし、ヨブの側に罪があるのならその罪の代価を自分に代わって引き受けて支払いをしてくれるお方がいて、ヨブは終わりの日に必ず贖われることを主張します。

 しかし、もし神ご自身がこのヨブに苦しみを与えることに荷担しておられるのなら、ヨブを「贖う者」はどこか他にいるのでしょうか。それとも、ヨブは、神からも見放され、見捨てられ、ただ絶望するほかなく、「私を贖う者は生きておられる」と叫んでも、ヨブはむなしく滅んでいくしかないのでしょうか。

 友人たちは「ヨブは自分の罪を認めよ」と言い、ヨブは「私に罪はない」と言い、彼らの論争は続き、お互いの主張は平行線をたどります。

 ヨブ記を更に読み進めていくと、こうした論争を繰り返す中に、第38章で、突然神が現れ、神はヨブと3人の友人を叱るように双方の罪を指摘するのです。

 それは、こうした論争が続く中で、ヨブも友人も共に自分の正しさと正当性を神を持ち出して主張することに走り、自分を神の位置に置いて相手を裁こうとすることに潜む傲慢とその愚かさについての指摘でした。

 人間が、神を思い神を論じることは許されるとしても、所詮人間は神によって造られた者に過ぎないのであり、その人間が神を持ち出してその名を用いて自分の正しさを主張し始める時に、自分を中心に据えて他者を裁く傲慢が生まれて来ます。神は、このように、人間の中に生まれ現れ出てくる自分中心の罪を指摘するのです。その言葉は圧倒的であり、それを言われてしまえば、土の塵から創られた人間には、もう神に返す言葉はなくなってしまいます。

 それでは、ヨブは誰からも贖われないのでしょうか。様々な災難を独りで抱え込んで、友人たちや妻にさえ理解されないままヨブは滅びていくほかないのでしょうか。ヨブは「神を呪って死ぬ」他ないのでしょうか。

 これはヨブに限った問題ではなく、被造物である私たち全ての人の問題になります。

 主なる神は、やがてそれまで誰も思い描くことができなかった姿で「贖い主」をこの世にお与えになり、ヨブに答えてくださるのです。そのお方は、苦しみや悲しみの中にある人の幸いを教え、神の義を渇望する人の幸いを説き、やがて、ご自身が苦難を受けて、この世界とそこに生きる人々の罪を贖うために、ご自身を十字架の上に献げてくださることになるのです。

 人が人であるがゆえに負うことになり、拭い去ることのできない人としての罪を、神ご自身が贖ってくださろうとして、神は主イエス・キリストをこの世にお与えくださり、十字架の上に贖いの確かなしるしを示してくださいました。

 そして、私たちはヨブのように旧約の時代に生きているのではなく、既にこの贖いのしるしを示されています。私たちは、イエス・キリストによって贖いの徴が示された時代を生きています。かつてヨブが苦しみの中から叫んだ「私を贖う者は生きておられる」という言葉を、私たちは、苦しみと惑いの中で叫ぶのではなく、贖いの事実の確信と感謝のうちに叫ぶことができるのです。

 贖いのみ業を成し遂げてくださり、復活の喜びと希望を与えてくださった主イエスに感謝し、その贖いのしるしである今日の聖餐に与らせていただきましょう。 

posted by 聖ルカ住人 at 10:29| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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