2025年11月03日

徴税人ザアカイの回心 ルカによる福音書19:1-10  聖霊降臨後第21主日(特定26)

徴税人ザアカイの回心 ルカによる福音書19:1-10  聖霊降臨後第21主日(特定26)    2025.11.02


 教会の暦では、111日は諸聖徒日(主にあって逝去した全ての聖なる人たちを記念する日)112日は諸魂日(全ての逝去者を記念する日)です。

 私が神学生の時に新約聖書のご指導をくださった速水敏彦先生は人の死について次のように表現しておられたことがあります。

 この世の生涯を終わることを「第1の死」と言えるとしたら、その人がこの世に存在したことを知る人がいなくなることを「第2の死」と言えるだろう、と。

 後世に名を残して、後の時代を生きる人々にも影響を与える人もいますが、多くの人は時の流れと共に、その人が生きたことを覚える人はいなくなります。でも、主イエスを救い主と信じる私たちにとって、人には忘れ去られた逝去者のことも、神はひとり残らず覚えていてくださるということあり、私たちはそのような意味でも、永遠の命に生かされていると言えるのです。

 さて、今日の聖書日課福音書である徴税人頭ザアカイの物語から導きを受けるにあたり、次のようなことを思い起こしておきたいと思います。

 当時のイスラエルの民にとって、ことに指導者たちにとって、「罪」とは神との契約である律法に反する思考や言動のことでした。一方、主イエスの価値観と判断に拠れば、「罪」とは神の愛から離れてしまい神の愛から彷徨い出た姿のことでした。イエスにとって、「罪人」は裁かれて捨てられる存在ではなく、再び神の愛の中に招き入れられるべき存在だったのです。

 ザアカイは、エリコの町の徴税人頭でした。主イエス時代、徴税人はイスラエルの民の中の「罪人」と見なされ、嫌われ、人々の交わりからはじき出されていました。

 紀元前63年、イスラエルの中心地であるエルサレムはローマ将によって陥落し、それ以降イスラエルの国は起源70年に滅亡するまで、ローマ帝国の属領となっていました。そして、ローマ帝国が占領地の民から税金を徴収するに当たり、その仕事をユダヤ人に競争入札させ、ローマに代わって税金を徴収する仕事を請け負わせたのが徴税人だったのです。徴税人は、例えば町の入り口で通行税を徴収したりガリラヤ湖の船付き場でそこから陸揚げされる荷物に税金を掛けて取り立てたりしていました。徴税人たちも本来はイスラエルの民の一人でありながら、自分たちの国を占領しているローマ帝国(あるいは領主ヘロデ家)の手先となって税金を取り立て、それを支配者に納めました。しかも定められた税額より多く徴収して上前をはねて、それを自分の収入にすることを許されていました。そのような徴税人は、愛国心の強いイスラエルの民から当然嫌われることになります。それはまた支配するローマの狙いでもあったのです。

 イスラエルの民は、自分たちを「神に選ばれた者」と考え、民族の一致と団結によって神の民であることを示そうとしていました。そのような人々にとって、徴税人は売国奴であり民族の裏切り者になります。徴税人は、福音書の中でもしばしば「徴税人や罪人たち」として一くくりにして記され、人々から蔑まれていました。

 ザアカイは、エリコの町で税金を取り立てる徴税人たちを雇う人であり、いわばエリコの町の徴税人の元締めでした。そうであれば、ザアカイはなおさら人々の不満や怒りの的となり、交わりを絶たれ、誰も彼に寄りつく者がなかったと想像されます。

 同じイスラエル民族の血をひいて生まれた人であれば、誰がこのような徴税人になりたがるでしょう。それでも、徴税人となったザアカイには、そうしなければ生きていけない事情や心の傷があり、それは本人でさえ見つめたくないし思い出したくもないことであったに違いありません。そして徴税人たちは、その思いを税金を徴収することに向けて、「どうせ俺は徴税人よ、徴税人が税金を集めて何が悪いのだ!」と居直って生きていたことも想像されます。

 ザアカイは、エリコにやってきたイエスを見たいと思いました。主イエスは人だかりの真ん中で神の国について群衆に話をしているのでしょう。ザアカイは、そのイエスを見ようと思っても、嫌われ者で背の低いザアカイにはそれが出来ません。彼を気遣う人もいません。そこでザアカイは先回りして、その道を通り過ぎるイエスを一目見ようと考え、いちじく桑の木に登ったのでした。

 ザアカイの予想通り、主イエスと弟子たちはその道をやってきました。そしてザアカイのいる木の下に来ると、主イエスは立ち止まって、ザアカイを見上げて言いました。

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている(19:5)。」

 主イエスにとって、ザアカイは「罪人」や「裏切り者」ではなく、「神の御心から引き離されて、本来の自分を見失った孤独な人」なのです。主イエスにとって、ザアカイは「迷い出た羊の一匹」であり、捜し出されて神の腕の中に抱きかかえられて、飼い主の許に戻る必要があるのです。

 今、ザアカイはイチジク桑の木の上にいます。背の低いザアカイでも、そこからなら誰にも妨げられずに木の下を通り過ぎるイエスを眺めることは出来ます。イエスの顔立ち、着ている物、歩き方、そしてイエスを取り巻く弟子たちの様子もその木の上から眺めることは出来るのです。でも、このような位置関係のままでは、イエスはザアカイの下を通り過ぎて行くだけです。それでは、ザアカイはイエスを眺めたことにはなりますが、主イエスと出会ったことにはならないし、イエスを知ったことにもなりません。

 その時、主イエスは、木の下からザアカイに急いで降りてくるように声をおかけになりました。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている(19:5)。」

 主イエスの「あなたの家に泊まることにしている」とは、「主なる神の御心によって、あなたの家に泊まることになっている」という意味です。

 「ザアカイ、あなたはここにいる私と心を通わせる次元にまで降りて来なさい。それが父なる神の御心なのだ。あなたは私を眺めるだけではなく、私をあなたの心の中に宿らせることが、父なる神の御心なのだ。」と、主イエスは言っておられるのです。

 ザアカイがザアカイとして自分を取り戻して生きるために、私はあなたの正面にいて、更にあなたに宿りたいのだから、さあ、急いで降りて来なさいと、主イエスはザアカイと招いておられるのです。

 主イエスの呼びかけは、ザアカイを主なる神の愛と結びつけます。そして、ザアカイは、主なる神が望んでおられる本当のザアカイへと生まれ変わるのです。

 ザアカイばかりではなく、人は誰もが神からこの世に命を与えられ、二つと無いその人として生きるために命を受けました。神が私たちに望む生き方とは、自分を律法の文字の中に閉じ込めてその枠の中で生きることではなく、一人ひとりが取り替えることのできないその人として、その一生を神の愛と赦しによって生きることであると言えます。そのようにあなたを生かす愛と赦しのしるしとなって、私はあなたの中に宿りたいと、主イエスは言っておられます。

 ザアカイは、この思いがけない主イエスの呼びかけに応えて、木から下り、自分の家に主イエスを招き、もてなします。ザアカイは、主イエスに受け容れられることによって、主イエスを自分の心の中に迎え入れることができました。こうしてザアカイは変えらます。

 これまでのザアカイは、徴税人頭として、同じイスラエルの民からは嫌われ、金銭に依り頼み、徴税人の上に立って町の人々から奪うようにして生きてきました。そのザアカイが、貧しい人々のために財産の半分を施すと言います。当時、ファリサイ派の教師たちは財産の5分の1を施して、その自分を誇っていましたが、ザアカイは自分の財産の半分を施す決心をしました。

 また、不正な取り立てについて、旧約聖書の規定では、不正に得た全額に5分の1を加えて返済する規定がありましたが、ザアカイは4倍にして返済すると言います。ザアカイは奪い取る人から与える人へと変えられています。

 神の御前に失われた存在であったザアカイは、主イエスによって生まれ変わりました。

 主イエスはこう言っておられます。「今日、救いがこの家を訪れた。」「人の子は失われたものを捜して救うために来たのである。」

 主イエスは、この翌日にはエルサレムに上って行かれます。ザアカイに起こった出来事は、ザアカイの個人的なことなのではなく、全ての人の救いにつながる出来事であることを身をもって示すために、主イエスはエルサレムに上っていかれるのです。主イエスの十字架によって全ての人に救いが訪れることを示す時が迫っています。

 私たちは、今日の聖書日課福音書から、神の愛によって本当の自分を回復し他の人々にも神の愛を持ち運ぶことが出来るようになることを示されています。

 私たちの多くの信仰の先達も、ザアカイが主イエスによって生まれ変わり導かれたように、主イエスによって招かれ、主イエスに出会って生まれ変わり、生かされ、主のみ許に召されていきました。私たちは、今日、その人々を記念して礼拝しています。

 この世に生かされている私たちは、心の奥深くにまで主イエスを迎え入れ、ザアカイの家に訪れた救いを自分のこととして受け入れることができますように。

posted by 聖ルカ住人 at 14:13| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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