2025年10月27日

神の前にへりくだる人 ルカによる福音書18:9-14   聖霊降臨後第20主日(特定25)

神の前にへりくだる人    ルカによる福音書18:9-14     聖霊降臨後第20主日(特定25)  2025.10.26


 今日の聖書日課福音書で、主イエスは例え話によって、自分を正しい者の側において自惚れるファリサイ派の人と、罪を自覚してへりくだる徴税人の姿を対照的に描き出しています。そして、主イエスは、神の御前に「義」とされるのは、卑しい職業とされて罪人呼ばわりされている徴税人の方である事を教えておられます。

 私はこの箇所を読むと、いつも昔のある出来事を思い出します。

 その出来事とは、私が神学生だった時のことです。ある神学生は、とても世話好きで、他の仲間によく関わっていました。その当時、学期末には先生方と神学生の個人面談がありましたが、その神学生が面談から戻って、次のようなことを話してくれました。

 面談の中で、彼はある先生からこう尋ねられたと言うのです。「君は世話好きで、仲間の面倒もよく見ているようだけど、自分にはそういう資質があって、君は他人を助ける力があると思っているのだろうか。」

 尋ねられた神学生は、意気揚々と「はい、そうです」と答えると、その先生はこう言って切り返してきたのだそうです。

 「それじゃ、君には神は要らないのだろう。君はなぜ牧師になろうとしているのかな。」そこで、この神学生はまたガックリと落ち込むことになるわけです。周りで彼の話を聞いていた私たち数名は、笑いながら愉快な話として聞いていたのですが、改めて考えてみると、神の御前に本当にへりくだって生きることの大切さと難しさを感じないわけにはいかなかい思いになりました。私は、福音書のこの箇所を読むと、この出来事を昨日のことのように思い出します。

 今日の聖書日課福音書の箇所で、主イエスのなさった例えは簡潔で分かり易いと思います。

 二人の人が祈るために神殿に上って行きました。一人の人はファリサイ派で罪人でない自分を感謝し、律法をしっかり守って、しかも律法の要求以上に断食をし、十分な捧げ物をして生きている自分を誇りにして、それらのことを感謝する祈りを捧げました。このファリサイ派の人は、自分の行いに自信を持って祈っていたのです。もう一人は徴税人でした。徴税人は、ファリサイ派から見れば罪人でした。徴税人は入札によってその仕事の権利を買い取り、税金取りの仕事を請け負い、定められた額以上の税を取ることを許されました。そして、その上前を自分のものにすることができました。取り立てられる側からすれば、徴税人は盗人のようにも見えたことでしょう。ファリサイ派にとってこのような徴税人は、政治的権力者の犬であり、神の国の実現を阻む民族の裏切り者であると考えられていたのです。神殿にやってきた徴税人は、遠く離れて立ち、目を上げようともせずに胸を打ちながら、主なる神に憐れみをこい願うのです。「目を上げずに胸を打ち叩くこと」は、深い悔い改めを表現する仕草でした。

 主イエスは、この例え話の中でファリサイ派と徴税人の祈る姿を対比してお話しになり、「義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派ではない(18:11)」と言われました。

 この箇所の始めの言葉を見てみると、主イエスはこの例え話を「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」なさっていることが分かります。この「うぬぼれて」という言葉は、「自分に依拠する、自分に依り頼む」という意味であり、この箇所では「自分は正しい者であり、その自分に拠り頼む」という意味で用いらています。見た目には、敬虔に神に祈っているようでありながら、実は彼らは自分を神に委ねて祈っているのはなく、自分のために律法を用いているのです。このファリサイ派の人は、祈る自分を誇り、また掟に従って断食をし捧げ物をする自分を誇り、人々の前にそのその自分を披露するために、神殿の中でも自分の祈る姿を見せびらかすように示しているのです。その姿は、罪など無いようでありながら、主イエスの目には少しも神とつながっていないし、神を必要ともしていない罪の姿が現れ出ているのです。

 主イエスは、マタイによる福音書5章から始まるいわゆる「山上の説教」を、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉で始めておられます。この「心の貧しさ」とは、「自惚れて」という言葉と反対に、自分中心の思いを捨てて、全てを神に明け渡して委ねることであり、そのような人こそ幸いであるということです。

 今日の聖書日課福音書の徴税人は、律法の専門家たちに「罪人」と決めつけられ、人として生きることを否定されています。その自分を神の前に開き、自分を神の御前に投げ出し、ひたすら「罪人の自分を憐れんでください」と祈るほかありません。でも、このような人こそ神の前に「義」とされる人なのだと、主イエスは教えておられます。このような自分の弱さと貧しさを知って神に依り頼む人こそ幸いなのです。この徴税人には、神が必要であり、神は神を求めるこの徴税人を「義」とするのです。もし自分の中心に他者を見下して自分を誇るような頑なさがあって、そのような自分を誇るのだとしたら、その人は本当に神を必要としているのでしょうか。主イエスは、ファリサイ派が人の前では敬虔を装いながらも実は自分中心の傲慢と自惚れがあることを見抜いておられました。しかも、その傲慢と自惚れは、他人を罪人と決めつけて社会から排除するようになるのです。そしてファリサイ派の人々は、徴税人たちを社会から遠ざけて彼らを罪人に仕立て上げながら、少しもその痛みを知ろうとしない冷酷さがあることも主イエスは見抜いておられました。

 使徒パウロも、主イエスと出会う前は、このようなファリサイ派の一員でした。パウロも他のファリサイ派の人々のように、律法を厳格に守ることによって、主なる神に受け入れられると信じていました。でも、パウロはその事に徹しようとすればするほど、自分の中に深まる罪の思いを消し去ることが出来なかったのです。そして、パウロ(当時のサウロ)はイエス・キリストを信じる人々を捕縛しようと息巻いてダマスコに向かう途上、キリストと出会い、自分の全てを主に委ねる者へと変えられていくのです。

 パウロには、パウロ自身を悩ませる持病か何かがあったと考えられ、パウロはそのことを「私の体に一つの棘が与えられました(Ⅱコリ12)」と表現しています。パウロはその「肉体のとげ」が無ければどんなに素晴らしいだろうと考え、それが取り去られるように幾度も祈りました。でも、それに対してパウロが神から与えられた答えは「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ(12:9)」ということでした。自分の力を頼みとして傲慢になるのではなく、神の力を利用して生きるのでもなく、パウロは悔い改めの中から、自分は神から既に恵みを受けていることを悟り始めるのです。

 そして、パウロは次のように考えるに至ります。「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう(12:9)」。

 そのパウロは、「私は弱いときにこそ強いからです(12:10)」とまで言っています。ここには、かつてパウロがファリサイ派であった時のような見栄もプライドも傲慢さもありません。全てを主に委ね、弱さの自覚に立ち、主によって生かされている強さがパウロの中に見られます。

 主イエスのなさった例え話の中の徴税人に限らず、人は主イエスを通して、その人の罪や弱ささえ、神の恵みに与る通路に変えていただけるのです。

 今日の福音書を通して、主イエスは私たちにも、自分を頼みとして自分を誇るのではなく、すべてを主に明け渡してありのままの自分に立ち返り、そこに働く主の力によって生きるように促し勧めておられます。自分の全てを主の前に告白して委ねる徴税人は、ただそれだけで神に「義」とされています。

 自分の義を中心に立てて生きるのはなく、私たちの罪に働いて罪を大きな恵みに変えてくださる主イエスの恵みの中で生かされて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 09:22| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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