神と格闘するヤコブ 創世記32:23-30 聖霊降臨後第19主日(特定24) 2025.10.19
今日は、この主日の聖書日課旧約聖書から、主なる神の導きを受けたいと思います。
創世記第32章27節の御言葉を思い起こしましょう。
ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくれるまで離しません。」
主なる神がヤコブに姿を現された場面に注目し、主なる神が私たちの人生に介入して来られる事を学びたいと思います。そして、その時、私たちもしっかりと神と向き合って、このヤコブのように、主なる神と格闘し、「祝福してくれるまで離しません」と言う者となれるように導きを受けたいと思います。
今日の旧約聖書日課は、創世記第32章4節からです。
イスラエルの民が、導き手である自分たち民族の神を言い表すときに、その表現の一つとして「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言い表しました。ヤコブは「イスラエル」という名を授けられ、それが民族の名称になります。そのいみでもヤコブはイスラエルの民にとって大切な人物の一人であり、創世記の中でも多くの部分をさいて取り上げられています。
はじめに、今日の場面にいたるヤコブの半生を眺めてみましょう。
ヤコブには双子の兄エサウがいました。この兄弟が誕生した時、弟ヤコブは兄エサウの踵を掴んで生まれてきました。それは、これからの二人の関係を暗示する出来事でした。
エサウとヤコブが成人した頃、父イサクは年老いて目もかすみ、エサウに長男としての権利(家督)を譲って祝福を与えようと考えました。その時、ヤコブはわずかなスキを狙って目の見えない父イサクをだまして、長男としての祝福を横取りするかのようにして受けてしまいます。ヤコブは当然兄エサウの怒りを買いました。エサウは怒りに燃えて「父の喪の日の後に(つまり父イサクが死んだら)弟を殺すのだ」とまで言いました。そこでヤコブは母リベカの勧めもあり、エサウを逃れて長い間ハランの地にいる伯父ラバンの所に身を寄せることにしました。ヤコブはラバンの許で20年の時を過ごしますが、持ち前の賢さで財を築き妻を得て家族をつくりました。そして寄留の地での20年を経て、ヤコブは今、自分の家族と沢山の家畜を引き連れて故郷に帰ろうとしています。そして、ヤコブの一行はヨルダン川のヤボクの渡しまで戻ってきて、いよいよ明日は対岸の兄エサウの土地に足を踏み入れることになります。
兄のエサウは長子としての権利を横取りされた時、「弟を殺すのだ」とまで言いいました。ヤコブには、20年経った今も負い目があります。それはまた、いつもずる賢いほどに生きてきた自分自身に対する癒しがたい痛みでもあり、自分の中にある深い傷でもありました。故郷を離れている間にも、ヤコブは持ち前の賢さで、伯父ラバンに負けない財産を築き、妻をめとり、沢山の子供にも恵まれました。このヤコブが故郷に戻る上での、大きな気がかりは兄エサウのことでした。明日にはエサウに会わなければなりません。
ヤコブは、その日にも持ち前の賢さから、もしエサウがまだ怒っていたらどうしたらよいか、どうすることでエサウの怒りをやわらげることが出来るかを考えました。そして、先の先まで読んである段取りをしたのでした。
その晩、ヤコブは妻も子どもたちも自分の財産である羊や牛やロバなどの家畜も全て川の向こう岸へ渡らせてしまいます。ただ、自分は独り川を渡らず、ヤボクの渡しのこちら側で一夜を過ごすことにしました。
やがて、夜が更けていくと、ヤコブの前に何者かが現れ、夜明けまでヤコブに戦いを挑み、ヤコブはその相手が誰か分からないまま一晩中組み打ちを続けたのです。実はこの何者か分からない者は神であり、ヤコブは一晩中神と格闘していたのです。
このような物語から、主なる神がヤコブの人生に介入してこられた事について考えてみましょう。
これまで、ヤコブは賢くぬかりなく生きてきました。ヤコブは、誕生の時からそうであったように、兄エサウの足を掴んで生まれ、兄を出し抜き、いつも賢く、ぬかりなく生きてきました。伯父ラバンの所に寄留する間にも、ヤコブは財産を築き、美しい妻と多くの子供を得て、身の危険や難題も上手く切り抜けてきました。その人生は多くの人が「そうありたい」と思うような、苦境を乗り越えてきた人生でもありました。
しかし、神は夜の闇の中でヤコブに問いかけるのです。
「そのようにして生きているお前は何者なのか。家族も財産も向こう岸へ渡し、自分一人、身を守るようにこちら側にいるお前は何者なのか。」
今、暗闇の中でヤコブは神に問われています。「神と格闘する」とはそういうことです。
主なる神のこの問いを前にして、たとえば財を豊かに築いたというような世俗の業績は、それだけでは主なる神に対する確かな答えとしては役に立つのでしょうか。ヤコブはこれまで抜け目なく賢く振る舞ってきましたが、家族も財産も向こう岸へ渡してただ一人の自分になった時、自分の心の中にある未解決で深い亀裂を残したまま、そこにしっかりと目を向けることを避けてきた自分の弱さに対して、神はのしかかるようにヤコブに迫ってきています。ヤコブは神と格闘します。神と格闘すると言うことは、神の厳しい問いかけに答えねばならない自分と格闘することであり、自分の存在が揺さぶられると言うことです。夜の闇の中で神と格闘して、ヤコブは頑なに自分を守り続けますが、最後には神に打ち砕かれて、大腿部の関節を外されてしまいます。その関節は人の体の中心にあって自分を支えて立つ時に力が集まる場所です。その関節を外されたということは、自分の力を頼みにして立つことが出来いということでしょう。ヤコブは今、神の前に自分の知恵と力を頼みとして生きる事の限界と無力さを思い知らされています。
そして、この時にヤコブはこう言うのです。「いいえ、祝福してくださるまでは放しません(32:27)」。
ヤコブは、体一つで神と格闘し、そして、神の祝福を得ようとしています。
神はそのヤコブを祝福して去っていきました。そして夜は明けてきます。
32節にはこう記されています。「ヤコブがペヌエルを立ち去るときには、日は既に彼の上に昇っていたが、彼は腿を痛めて足を引きずっていた。」
ヤコブは明るい太陽の下で、足を引きずりながら、エサウのところに向かいますが、その足を引きずる姿こそ神に祝福された姿です。
私たちはどうでしょうか。私たちも神に介入される時、いくら自分を誇り自分を頼んで神を打ち破ろうとしても、私を生かしてくださる神を支配できる者など一人もおりません。時に、私たちは、神に介入されることを嫌がり、自分をごまかして表面を繕ったり、身勝手な屁理屈で、自分を防衛して、自分が強く正しい者であるかのように装うのではないでしょうか。そのような私たちは、神が関わってこられ、神に揺さぶられる時、「あなたが祝福してくださらないのなら、私はあなたを離しません」と言うべきなのではないでしょうか。
日が昇ると、夜中の格闘で神に打ち砕かれたヤコブは、足を引きずって、エサウに会うために歩きます。私たちは、このヤコブの一見無様な姿の中に、神の祝福を受けた者の輝きを示されているのです。
主なる神は、信仰をもって歩む私たちに、薄っぺらな楽しさや御利益を保証してはおられません。神はむしろ私たちが己の力や財力を頼みに生きようとする時に、その人の人生に介入して、その人の生きる課題を突き付け、時には挑戦的に迫ってこられるのでしょう。神が私たちのところに介入して来られるのは、私たちに神の御心を知らせて、私たちを御心によって生きるように導くためです。ヤコブがそうであったように、本当の自分と向き合う事が出来るように、私たちも神によって腿の関節を外されるような経験を強いられることもあり、それは表面的には惨めさや辛さを負う経験になる場合もあるでしょう。私たちはそのような時にこそ主なる神に「祝福してくださるまでは離しません」と祝福を祈り求めたいのです。
今日の聖書日課福音書ルカによる福音書第18章7節で、主イエスはこう言っておられます。「まして、神は昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておられることがあろうか。」
私たちは主なる神から働きかけられ、時にその働きかけによって自分の思いを打ち砕かれたり揺さぶられたりしながら、信仰生活を歩む者です。私たちは、主なる神に寄りすがり、ヤコブのように「祝福してくださるまであなたを離しません」と、主なる神に祝福を求め続けて、深く確かな信仰を養っていただけるように導かれて参りましょう。

