2025年10月05日

僕(しもべ)の謙遜と喜び ルカによる福音書17:5-10  聖霊降臨後第18主日

(しもべ)の謙遜と喜び    ルカによる福音書17:5-10  聖霊降臨後第18主日(特定22)              2025.10.05


 今日の聖書日課福音書の中で、主イエスは仕える者の謙遜と喜びについて教えておられます。

 僕が主人の家の外で羊を飼いまた畑を耕して仕事を済ませて家に戻ってきます。主人は彼をもてなすこともなく彼に次の仕事を言いつけます。「外の仕事が済んだら、次は食事の用意だ。私が食事をしている間は給仕をしなさい。あなたの食事はその後だよ。」

 このように言う主人のことを、私たちはどう思うでしょう。聖書についての予備知識もないままにこのような話を聞けば、この主人は何と人使いが荒いのだろう、ねぎらいの言葉一つもなく僕をこき使う冷酷な人だなどと、思うかもしれません。

 主イエスがここで伝えようとしているのは、主人のそのような一面についてではなく、むしろ主人がこの僕を用いて生かしていることついてであり、僕は主人の仕事に与れること、主人に用いられることを喜びにしているいう事なのです。

 主イエスも、自分を遣わした父なる神のために、その御心がこの世界に一つひとつ実現していくように働き、父なる神の僕として、父なる神の御旨の実現のために働くのは当然であるとお考えだったのでしょう。主イエスは、主なる神の僕として、御心の実現のためにエルサレムに向かう旅をしておられます。僕として自分が仕えている主なる神のために働くことは喜びであり、その喜びの故に、僕としての働きに謙遜でいられるのです。

 今日の聖書日課福音書の箇所は、使徒たちが主イエスに「私どもの信仰を増してください」と願ったことから始まっています。この箇所の主語が「弟子たち」ではなく「使徒たち」であることに注目してみましょう。なぜなら、直前の段落(ルカ17:1)では、「イエスは弟子たちに言われた」と始まり、この箇所(ルカ17:5)は「使徒たちが私どもの信仰を増し加えてください」と言ったことに主イエスが応えて教えを述べているのです。

 おそらく、この福音書を記したルカは、この箇所の主イエスの教えが、12弟子に限られた教えにとどまらず、主イエスを救い主として受け容れて御跡に従う人々にこの教えを広く伝えようとする意図をもって記したのではないでしょうか。つまり、信仰を増し加えることは、イエスの直接の12弟子にとっての課題であるだけでなく、パウロやテモテ、バルナバなどをはじめ主イエスを救い主と信じて従う使徒たちやこの福音書の読み手である私たちにとっても大切な課題であることを、福音記者ルカは伝えているのではないでしょうか。

 この箇所を理解するために、第7節以下に出てくる「」という言葉について理解しておきましょう。

 ここで僕(しもべ)と訳されている言葉の原語は、「奴隷」という意味でもある「dουλοsドューロス」という言葉ですが、当時の「奴隷」は、モーセ時代のエジプトで重労働を課せられた奴隷とは全く違う存在であることを心に留めておきましょう。

 この箇所で主イエスが教えておられる「僕(奴隷:dουλοs)」は、例えば、創世記後半に出てくるヨセフ(ヤコブの子ども12人の第11番目のヨセフ)を思い起こしてみると分かり易くなるかもしれません。

 ヨセフは父ヤコブに可愛がられて兄たちに妬まれ、旅の隊商に銀貨30枚で売られてしまいます。そのヨセフは、エジプトで王宮の侍従長ポティファルの奴隷として買い取られますが、ヨセフはポティファルの信頼を得て、様々な出来事の後に、エジプトの総裁にまで上り詰めるのです。奴隷の全権はその奴隷の所有者である主人にありますが、主人はその奴隷を家族と同じような待遇を与え、場合によっては、主人の資産管理や運用もこの僕に任せていたと言われています。

 そうであれば、この例え話の僕(奴隷)が、主人に必要とされ、為すべき仕事を主人に与えられることは感謝すべきことであり、自分の主人に貢献できることはこの僕(奴隷)にとって大きな喜びでもあったと想像されます。

 この「僕(奴隷)」について、現代の「人権」という観点によって、このような主従関係が正当か不当かという評価をすべきことではなく、「主人と主人に仕える人」という視点で見てみると、主人に用いられ生かされる僕(奴隷)の感謝と喜びの姿さえ見えてくるのではないでしょうか。

 僕(奴隷)は、主人に選ばれ、買い取られ、必要とされています。僕(奴隷)は主人の指示に従って喜んで働きます。僕(奴隷)が「私は取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言えるのは、倫理や道徳に基づくことではなく、また処世術の習慣であったからでもありません。僕(奴隷)が自分の主人の働きに与り、主人のために働いた喜びが根底にあるからなのです。そして、その主人も僕(奴隷)に喜ばれ感謝される「良い主人」なのです。

 このような関係の中で、使徒の信仰が増し加えられる事を考えてみると、ヨハネによる福音書1516節の主イエスの言葉が思い起こされます。

 「あなたがたが私を選んだのではない。話があなたがたを選んだ。」

 私たちは、主イエスとのこうした関係、つまり主人である主イエスと僕(奴隷)である私たちという関係の中に生かされていることがはっきりしてきます。

 こうした視点を持って、一般的なこの世の人の祈りを考えてみると、主イエスと私たちの人格的な関係がいかに大切なものであるかが分かってきます。

 この世の一般的な祈りは、多くの場合「願掛け」です。自分の願いを主イエスの御名によって祈ることは必ずしも悪いこととは言えませんが、例えば、家内安全、商売繁盛、健康回復、交通安全、学問成就、水子供養に厄除け等々、この世の人々は自分の求めにはどの神社やお寺に祀られている神に願をかけるのが良いかを考え、キリスト教もその選択肢の一つとなり、人は自分に都合の良い神をその時々に選んで願い事をして、お札やお守りを買うのです。そしてその願いが満たされることが「願いを叶えてくれる神さま」、「自分に利益をもたらす損をしない宗教」ということになるのです。実は、それは信仰とは程遠く、自分の様々な願いを満たすことが救いであるかのように取り違える誤りへと人は引きずり込まれることになるのです。そこにあるのは、利用する者とその願いを叶えることができるかのような幻想の関係であり、そこには神と人との出会いはなく信仰の育みもありません。

 主イエスは言われます。

 「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」

 そして、それに続けて、その選びは「選ばれた者が出かけていって宣教の実を結びその実が残るようになるため」と、主イエスは言っておられます。

 主人に選ばれて主人の僕(奴隷)として働く者は、自分の願いを満たすことを優先させるのではなく、主人に仕えて主人の必要を満たすことが当然の任務となるのです。僕(奴隷)の勤めは、主イエスが自分を召し出してくださった事を感謝し、主人であるイエスの命じる務めに喜んで与ることです。僕(奴隷)は、その働きに与ることによって、僕である自分が生かされ、そうすることで、僕は人として生きる意味を与えられるのです。主人が他ならぬ私を僕として選び出し、大切な主人の務めの一端を担わせてくださっています。私たちは、その務めをとおして、主の僕として生かされるのです。

 私たちは自分の力に依り頼むのではなく、私たちを選び召し出してくださった主イエスを自分の主人とし、主イエスの働きに与ります。私たちは謙遜になって、私たちが生活する場の直中に主イエスの御心が現れ出るように遣わされていく者なのです。

 もしこのような信仰の喜びと謙遜が無かったとしたら、教会という組織の中で営まれることも、その活動は世俗の活動と少しも変わらないものになるでしょう。

 主イエスは信仰を増し加えることを求める使徒たちに「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば・・。」と言っておられます。主が私を選び主が私を捕らえ主が私を僕として用いてくださるという信仰があれば、私たちはその喜びと謙遜によって、信仰は育まれるのです。初めは砂粒のように小さな信仰であったとしても、やがてはそのカラシナの枝に鳥が巣を作るほどになるのです。たとえ小さく弱い信仰であっても、私たちが主に召し出された僕(奴隷)としての喜びと謙遜によって主の働きに与るなら、そこから私たちの信仰は育まれ、私たちの教会も一層主の宣教の器として成長することが出来るのでしょう。

 今日の聖書日課福音書を通して、私たちは信仰の原点に立ち返り、一人ひとり主の働きの器とされている喜びを新たに致しましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 20:28| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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