富める私たちと貧しいラザロ ルカによる福音書16:19-31 聖霊降臨後第17主日(特定21) 2025.09.28
聖書の言葉は、私たちに慰めや励ましを与え私たちを導きます。しかし、それは必ずしもいつも心地良いとは限らず、時には私たちにとって厳しい問いかけや促しを迫ることもあります。私たちが真実を示される時、それは深い慰めになることもありますが、自分ではそれを認めたくない事実や過ちを突き付けられる場合もあります。そのような時に、人はその相手に攻撃的になったり仕返しをしたくなったりすることも多いのです。主イエスもユダヤ教の指導者たちの反感を買い、十字架に挙げられることになります。主イエスはその十字架に向かってエルサレムへと旅をしておられます。
今日の聖書日課福音書の「金持ちと貧しいラザロ」の物語は、金銭的には豊かな国である日本に生きる私たちにとって挑戦的であり、私はこの個所を読むたびに心を揺さぶられる思いになります。
この「ある金持ちと貧しいラザロ」の箇所は、主イエスの教えに心を向けようとしないファリサイ派の金持ちを想定して、主イエスに従う弟子たちと主イエスに付きまとうようにしてその動向を観察するファリサイ派の律法学者たちに向かってお話になった物語です。
この話で、金持ちはいつも紫の衣服や柔らかい麻の衣を着て、贅沢に遊び暮らしていました。当時、そのような衣服は、身分の高い金持ちが身に付けました。金持ちは、そのような服を身にまとい高価な料理を食べ、毎日贅沢に遊び暮らました。当時の食事では、左肘をついて体を横にして、フォークやスプーンを使わず手で食べました。用意してあるパンを手ふき代わりにも用いて、指先を拭い、そのように用いたパンをそのまま捨てることが贅沢とされました。それは自分が金持ちであることを示す行為でもあったとも考えられています。
一方、ラザロという名の貧乏人は、この金持ちの家の前に座り込み、おそらく、この金持ちたちが手を拭って投げ捨てるパンで飢えをしのぎたいと思っていたのでしょう。ラザロは体中に出来ものがあって、体は弱り果て、自分の体をなめる犬さえ追い払うことが出来ませんでした。犬は当時のユダヤ社会では汚れた動物であり、ラザロの体をなめる犬は、野良犬であったと考えられます。犬もきっと金持ちによって捨てられるパンにありつこうとその辺りをうろついていたのでしょう。金持ちにとって、ラザロはこのような犬同然であり、この野良犬がラザロをなめるほかには誰もラザロを顧みることもありませんでした。
主イエスは、この世における富める者と貧しい者の姿を対照的にお話になり、テーマはやがて二人とも死んだ後のことに移ります。
ラザロは神の国に安らかであり、紫の服を着た金持ちは死の国の苦しみの中でもだえています。ラザロのことについては22節で「この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた」と記されています。アブラハムは、イスラエル民族の父祖であり、救いの約束を受けた神の民の父祖とされた者です。貧しかったラザロは何の業績にもよらず、いま、神の国に迎え入れられています。一方、贅沢な金持ちは、死者の国の中で苦しんでいます。
何故この金持ちは死者の国に落とされたのでしょう。この金持ちは何か悪いことをしたのでしょうか。彼はラザロを追い払いもしませんし、意地悪をしたわけでもありません。
当時、金持ちであることは、神に祝されていることの現れであると考えられていました。そして、反対に、ラザロが貧しく体にイヤな出来ものがあるのはラザロやその先祖の罪の結果だと思っていたかも知れません。このような考えは当時のファリサイ派のごく当たり前の考えでした。
でも、この金持ちが、貧しいラザロを毎日目の前にしながら紫の服を着て贅沢に遊び回ることは本当に神の御心の現れなのでしょうか。神は、金持ちとラザロがいつまでも無関係のまま、金持ちがラザロに無関心でいることをお望みなのでしょうか。
これまでにも度々触れてきましたが、主イエスがお教えになった「愛」の反対語は、「恨み」や「憎しみ」ではなく「無関心、無関係」の方が適当です。主イエスによって示された神の愛は、この貧しいラザロの話の前にある、第15章の「見失った羊」、「無くした銀貨」や「いなくなった息子(放蕩息子)」の例えに示されているように、どこまでも相手を思い、見捨てることなく関わり続けることであり、「愛」とはその意思を意味しています。ファリサイ派の人々は、自分を高みに置き、貧しい人々を見下して関わろうとせず、律法の枠に従って生きることの出来ない人々を罪人として排除してきました。主イエスの目から見ると、貧しくされた人を少しも顧みないファリサイ派の形式主義的な生き方こそ愛とは正反対なのです。
このような意味で、金持ちがやがて陰府で苦しむことになるのは、目の前にいるラザロを少しも愛さなかった事に因るのです。神がこの金持ちに求るのは、自分だけが満ち足りることではなく、自分の目の前にいる貧しい者に仕えて、愛することで、主イエスは、愛とはそのような具体的なことなのだと言っておられるのです。
貧しい人にこそ神の恵みがもたらされねばならないということは、この「貧しいラザロ」を含めて、ルカよる福音書の大きなテーマです。
その一例を挙げれば、ルカによる福音書第1章52節53節でマリアは「権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で見たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と神を誉め称え、第6章20節で主イエスは「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言っておられ、更にその先の24節で「富んでいるあなたがたは、不幸だ。あなたがたはもう慰めを受けている」とも言っておられます。
貧しい人が貧しさのためにそのまま滅んでいくことは神の御心ではありません。そして富んでいる者が貧しい人に関心を持てば、その富によって具体的に貧しい人を助け出すことが出来るでしょう。それにも関わらず、金持ちが何もしないのであれば、それは神の御心が行われない不幸なことなのだ、と主イエスは言われます。
主イエスは、貧しい人々や権力者たちに罪人呼ばわりされる人々と交わり、食事を共になさいましたが、そこには天の喜びをこの世に先取りした姿がありました。当時の上級階級の人々が、主イエスが共にいてくださる喜びを求めず、贅沢に酔いしれて、他の人の痛みを知ろうともせず、神の御心を求めようとしない姿に対して、主イエスは今日の聖書日課福音書を通して厳しいメッセージを発しておられます。
私たちの周りでは、今日まで、「豊か」といえば「物が豊富である」ことを意味してきたように思えます。人は目に見える物に対しては貪欲になりますが、その一方で貧しさや弱さは、怠惰の表れとして、また学ばない結果であると考え、貧しさや弱さから目を背けてきたのではないでしょうか。主イエスは、そのような私たちに対しても「あなたはラザロを愛するか」と問いかけておられるのではないでしょうか。
この聖餐式の中でも、私たちは「懺悔の祈」りをします。カトリック教会のミサ式文中の「懺悔」は、日本聖公会現行祈祷書とほぼ同じ言葉なのですが、一つこれに加えて「思いと言葉と行いと怠りによって罪を犯していることを懺悔します」と祈ります。私たちは「怠り」によって大きな罪を犯すことがあることも心に留めましょう。ラザロに関わらない金持ちの罪は、このような「怠り」の罪でもあります。
ファリサイ派の人たちは、律法を盾にして自分を救われる側に置き、保身し、貧しく小さな人々を差別しました。主イエスはそのようなファリサイ派を厳しく批判なさったのです。
主イエスの御言葉は、神の御心がこの世界に行われるように私たちを導き促す救いのメッセージです。愛に基づく本当の豊かさに生かされるために、私たちに向けられた主イエスの御言葉を心に深く受け止め、日々の生活の中に主イエスのお働きを愛を実践して示していくことができるように、祈り求めて参りましょう。

