「不正な管理人」のたとえ ルカによる福音書16:1-13 聖霊降臨後第15主日(特定20) 2025.09.21
今日の聖書日課福音書の、ルカによる福音書第16章1節からの箇所には、「不正な管理人のたとえ」という小見出しがついています。
この箇所は、釈義の難しい箇所、意味を理解しにくい箇所と言われています。この一週間、この箇所の言葉を見直し、思い巡らせて説教の準備をしてきました。その中で、この箇所は、実は現代の世界的な課題に対して大切なメッセージを発しているように思えてきました。
先ず、この例え話の内容を振り返りましょう。
ある金持ちの主人がいて、その主人には財産の管理人(οικονοµοs)がいました。主人の許に、その管理人が財産を無駄遣いして不正を行っていると報告する者がおり、主人はその管理人を呼び出し、主人の財産管理についての会計報告をするように命じたのでした。
不正な管理人はこう考えるのです。
「私はこの仕事を取りあげられようとしている。自分はもうここにいられなくなってしまう。そうだ、自分を迎え入れてくれる仲間をつくればいい。」
そこでこの管理人は、主人に沢山の負債のある人たちをこっそりと呼び出し、証書の負債額を少なく書き直させるのです。主人から油100バトスを借りている人には「ここに借用書があるから、100パトスを50バトスに書きかえなさい」と、また、小麦100コロスの負債のある人には「100コロスを80コロスに書きかえなさい」と言ったのでした。
書き替えられて軽くされる負債の額は、油の場合も小麦の場合も、ほぼ2年間の労働賃金に相当すると考えられます。管理人が、油や小麦の借り主にこのような書きかえをさせることは、主人に対する背信(裏切り)になるでしょうし、不正を重ねることになるでしょう。
しかし、主人は、管理人のこの行為を知って、この管理人のことを「自分の仲間に対して賢くふるまっている」と言って褒めたというのです。
これが、この例え話の粗筋で、9節以下にはこの例え話に基づく主イエスの教えが語られています。
この例え話を理解する上で、この箇所に幾つか出てくる「不正な」という言葉の意味を確認しておきたいと思います。
この「不正な」という言葉は、「犯罪を犯す」という意味ではなく、原語では「adικοsアディコス」という言葉であり、「義ではない、神の御心に適わない」という意味です。
この世の法の下では犯罪とは認められないことでも、神の御心に照らして「義ではない、御心に適わない」ことはいくらでもあり、この「不正な」という言葉の意味は「的外れ」を語源とする「罪:ハマルティア)」に近いと言えます。
さて、主イエスの例え話では、「主人」は「主なる神」のことです。この例え話も例外ではなく、主なる神はその僕たち、つまり私たち(この世界に生きる者に)に、主なる神の財産の管理を任せてくださっているのです。そうであるなら、この「不正な管理人」とは私たちのことであり、この例え話も私たちに対するメッセージに他なりません。
旧約聖書創世記の初めに、主なる神は、私たちの生きる天地をお創りになり、これを「良し」として祝福なさいました。そして、人間を創りこの世界の管理を私たち人間に任せてくださいました。私たち人間は、その管理を請け負い、御心にそってその資産を運営をするようにしてくださったのです。
今、主人は管理人である私たちに問うておられます。
「お前に任せた私の財産について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」
人間は、生きて行くのに十分で豊かな資源である財産の管理を神に任されました。人は、管理を任された財産を用いて、共に分け合い、助け合って生きていくことを許されました。しかし、人間はその財産であるこの世界の資源を用いて武器を造り、他者の土地に侵入して破壊し、その土地の人を支配し、奴隷とし、殺し、地球の資源を大量に無駄遣いしてきました。主なる神は、そのような私たち人類に対して、今、この世界の管理状況についての報告を求めておられると言えるでしょう。
私たちは、主なる神の財産をによってこの世界に生かされています。私たちは、主なる神に対してどのような決算報告ができるのでしょう。私たちは、神の財産であるこの世界の環境、資源、動植物、そして貧しく慎ましく生きる人々に対して、一体どれ程の無駄遣いをしているのか、主なる神に対して負債のある者であることを振り返ることを求められています。
こうした状況にある主人の管理人は考えました。この管理人は、「不正の富」を用いて友だちを作ろうとするのです。もう一度確認しておきますが、ここで「不正の富」と訳されている言葉は「悪事を働いて儲けた富」という意味ではなく「神の御心に則していない、律法に適していない富」という意味です。
この管理人は、主人に対して負債のある者を呼び寄せて、その負債の額を軽くするようにその証文を書き替えさせています。しかも、御心に適うとは思えないやり方で他人の負債を軽くしています。
当時のイスラエルの民にとって、「神との関係において負債がない」とは、神との契約を文字通りに正しく守る事であり、律法に反する行為は神に対する負債、借金であると考えられており、その負債の代価として汚れのない動物を生け贄として献げることでその負債が清算されると考えました。
この例え話の「不正な管理人」は、他の者の負債を軽くすることで、自分が主人に解雇されたときに自分を助けてくれる仲間を作っておこうと考えたのでした。
そうであるのなら、証文を書き換えた油50バトス分また小麦20コロス分の損失は誰が負うのでしょう。証書が書き換えられたのであれば、その損失は最終的には誰が被るのでしょう。
実は、私たちの証文(台帳)も書き替えられているのです。しかも、私たちの負債は、軽減されているのではなく、全額を帳消しにしていただいているのです。
私たちの負債は自分で償うことの出来る額を遙かに超えており、私たちは、命を与えてくださった神に対して、自分で償うことのできない負債があります。私たちは、自分では償うことの出来ない負債を主イエスに返済していただいたのです。
主イエスは、私たちの側に立ち、麦や油の負債額を軽くするどころか、私たちの負債を全てご自身で引き受けて、その証文(台帳)の負債を全て帳消しにし、神の御前に、私たちの負債は無し(罪無し、不義なし)」としてくださったのです。私たちはこの主イエスの贖いの恵みによって生かされており、この深い赦しを感謝して、恐れなく神の御前に進み出ることができるのです。
私たちは、主の祈りの中で「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」と祈ります。私たちの負債は既に主イエスによって帳消しにされており、この赦しに基づいて、私たちは他の人を罪に定めるのではなく、赦し合い友として生きることへと促されていくのです。
今日の聖書日課福音書の「不正な管理人」の箇所を理解するには、主イエスの十字架によって私たちの負債がすべて帳消しにされていることを信じて、受け容れる信仰が求められます。そして、この負債は、私たち個人の問題はなく、今私たちが生きる地球規模の赦しと平和に関わる課題であり、この世の小さな課題に忠実に生きるよう促されていることを心に留めたいと思うのです。
その時、私たちは、世界の人々とつながり合い、友となり、神の御心を生きることを主なる神から求められていることに気付きます。そして、この信仰に基づいて、私たちは周りの人々に「あなたの負債も主イエスを通して完全に帳消しにされています」とこの世の友にも伝えることが出来るのです。
私たちは、主なる神に対して負債超過の状態にある世界に生かされています。
主イエスの愛を受けた私たちは、互いに友となることが出来るように、主イエスによって示された贖いの恵みの中に生かされて参りましょう。

