お言葉どおりこの身になりますように
司祭 ヨハネ 小野寺 達
天使ガブリエルがガリラヤのナザレに遣わされ、おとめマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げました。マリアはこの言葉に戸惑い、これは一体何の挨拶かと考え込みました。マリアが天使ガブリエルから告げられたのは、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」という事でした。マリアは天使の話に「どうして、そんなことがありえましょうか。」と言いますが、やりとりの後にマリアは「私は主の仕え女です。お言葉どおりこの身に成りますように。」と応えました。
このマリアの応答は、言葉を換えれば「私の思いではなく、主なる神の思いが私を通して実現しますように。」ということです。
幼稚園などで子どもたちは聖誕劇(ページェント)で救い主イエスのご降誕を祝いますが、聖誕劇は多くの場合、この「受胎告知」の場面から始まります。私は、イエスの母マリアを思うと、この場面に胸が詰まる思いになります。
マリアはこの御告げのとおりイエスの母親になります。
でも、その出産の場所は強いられた旅での貧しい家畜小屋で、産湯も無く産まれた嬰児を飼い葉桶に寝かせました。成人した我が子は家族を離れて「神の国運動」に没頭し、エルサレムに上って行き、殺されてしまいます。マリアは、我が子が十字架の上で苦しみながら、悔い改める罪人にパラダイスの約束を与え、大声で自分の霊を主なる神の御手に委ねて死んでいくのを目の当たりにしました。
天使ガブリエルはその33年ほど前に、マリアにその子の受胎を告げて「おめでとう、恵まれた方」と言い、マリアは「お言葉どおりこの身に成りますように。」と言ったのでした。これが神の御心だったのです。
多くの場合、母親が恵まれることと言えば、家族が仲睦まじく暮らせることや家計を含めた日毎の生活にゆとりがあること等を連想することでしょう。そして、その恵みに応えて感謝と賛美の祈りを献げながら生きることが信仰的な幸いであると思う人も多いことでしょう。でも、天使ガブリエルは、イエスの母親になるマリアにそのような意味での「恵み」を約束したわけではなく、キリストの母としてあがめ讃えられる生涯を保証したわけでもありませんでした。
マリアは産まれてくる子どもがどのようは生涯を送ることになるのかを予知していたわけではありません。マリアは天使ガブリエルの告知に応えて「お言葉どおりこの身に成りますように。」と言って自分を主なる神に委ねています。マリアは息子イエスの生涯に胸を痛めたことでしょう。マリアがイエスの母親であったからこそ負わねばならなかった重荷に、私は胸が詰まる思いになるのです。
そして、マリアの「お言葉どおりこの身に成りますように」という意味は、「主なる神よ、あなたが共にいてくださって、楽しく豊かで幸いな時ばかりでなく厳しく辛く悲しい時にもあなたに従い続けさせてください。そして、私をあなたの御心のままに用いてください。」という祈りを込めたマリアの信仰的応答の言葉であると、私には思えてきます。
救い主イエスのご降誕のプロローグに、天使の御告げに対するマリアの信仰的応答があることを思い巡らせつつ降臨節を過ごし、神の御子イエスのお生まれを心から感謝するご降誕の日を迎えることが出来ますように。
『我が牧者』(東松山聖ルカ教会教会報 2024年冬季号 復刊第394号)