苦難を負う者 イザヤ書53:4-12(B年特定24) 2024.10.20
今日の聖餐式日課旧約聖書はイザヤ書第53章4節以下の箇所が採用されています。
「イザヤ書第53章」と聞くと直ぐに「苦難の僕」という言葉を連想なさる人も多いのではないでしょうか。
イザヤ書は66章から成る大きな文書です。このイザヤ書の後半には「主の僕の歌」と呼ばれる箇所が4つありますが、ことにイザヤ書第52章13節から53章にかけては、「苦難の僕の歌」と呼ばれています。この箇所は、主イエスの働きを旧約聖書との関係の中で考える時に最も注目される箇所の一つであると言えます。
今日の旧約聖書日課のはじめの部分(イザヤ書53:4)を読んでみましょう。
「彼が担ったのは、私たちの病、
彼が負ったのは私たちの痛みであった。
しかし、私たしたちは思っていた。
彼は病に冒され、神に打たれて、苦められたのだと。」
私たちは、どこまで他の人の苦難を担うことが出来るでしょうか。多くの場合、私たちが他の人を配慮したり気遣ったり出来るのはせいぜい自分が傷つかない程度までであり、私たちが本当に苦難を負った人に出会うと、その苦難を共に担うどころかその場から遠ざかったり知らない振りをしたりすることさえあるのではないでしょうか。
パウロは「喜ぶ者と共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」と言いました。私たちはそうしようとしても、喜んだり泣いたりしている人の心の深みまで共にすることの難しさに尻込みしたりたじろいだりする者であることを認めないわけにはいきません。
主イエスの弟子たちも、イエスが十字架につけられる前の晩に、イエスからゲッセマネの園で一緒に祈るように求められました。主イエスは血の汗を滴らせて祈ります。でも、弟子たちは、少し離れたところで、眠ってしまいました。また、主イエスが兵士たちに捕らえられる時、弟子たちは皆われ先に逃げ出しました。このような弟子の姿の中に、私たちは自分自身を見出すのです。
私たちが他の人の大きくあるいは深い苦難に出会う時、私たちもイエスの弟子と同じで、自分はその苦難に向き合えずに逃げ出したくなることの方が多いのではないでしょうか。そればかりか、時々私たちは本来自分で負わなければならない苦難を、弱い人、小さい人、力のない人に負わせて、自分の負うべき痛みをその人になすりつけていることさえあるのではないでしょうか。その典型的事例は、一向に減らない「いじめ」の問題であり、弱く、小さく、貧しい人々が、謂われのない苦難を負わされ、軽蔑されたり愚弄されたりしているのです。裏を返せば、多くの人が、他の人にいわれのない痛みを味わわせ、弱さや貧しさを押しつけ、苦難を負わせることによってやっと自分を保っているのであり、その認識や自覚がないがゆえに、こうした問題は一向に解決しないのかも知れません。
こうした心の奥深くから生じている問題は、いくら制度の表面をいじっても、「イジメをやめよう」と声高に叫んでも、なかなか根本的な解決に向かうことが出来ないでいるのです。
こうしたことを念頭に置きつつ、今日の旧約聖書日課を見てみましょう。
イザヤ書は全部で66章ありますが、第39章の終わりと第40章の始まりの部分で大きく二つに分けられ、1章から39章までを「第一イザヤ」、そして40章以降を更に二つに分けて、40章から54章までを「第二イザヤ」、それ以降を「第三イザヤ」と呼ぶのが一般的です。このように分けるのは、それぞれの部分が記された時代に違いがあり、イザヤ書全体を一人の預言者イザヤが記したのではないと考えられるからです。3つに分ける各書が記された時期は、その内容から考えると、二百年以上の隔たりがあると考えられます。第53章を含む「第二イザヤ」の部分は、バビロン補囚からそれ以降の時代(紀元前562~538年の頃)に記されたと考えられています。
イスラエルの国はダビデやその子ソロモンが王であった時代の後、直ぐに南北に分裂し、北イスラエル国は紀元前722年に滅亡してしまい、南のユダ王国も紀元前586年にバビロニアに占領され、多くのイスラエルの民が捕虜となり遠くバビロンの地に引いていかれました。いわゆる「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。
しかし紀元前539年、大国であったバビロニアは新興国ペルシャによって滅び、ペルシャ王キュロスは補囚となっていたイスラエルの民が故郷に戻ることを許したのでした。補囚の民は故郷バレスチナの地に戻ってきて、破壊されたままになっていたエルサレム神殿の跡地に祭壇を築き、神殿再建に取りかかります。人々の心は燃えました。多くの人はこうして自分の国に戻り神殿を再建することで神の守りと民族の救いが与えられるとと考えました。
しかし、第2イザヤは、そのような喜びや期待の中には本当の神の働きを認めることは出来ませんでした。バビロンの地で捕囚の民であった人々は、解放されて祖国に戻り神殿を再建できることを神の祝福と受け止めました。しかし、イザヤにはそうした人々も依然として罪の中にあることには変わらず、たとえ神殿を再建しても、神とイスラエルの民との真の関係はそれだけでは回復していかない姿を嫌というほど見ていたのです。
「主の僕」の働きは、政治的な力を振るったり物の豊かさを与えて人々の欲望を満ちたらせたりする働きではなく、人々が神との関係を失ってしまったが故に負わなければならない苦難を自分で負っているのだ、とイザヤは語ります。人々の苦難を我が事として担い、まるで本人が神から懲らしめを受けているかのような姿をとりながら、黙々と主の働きを行う僕の姿をイザヤは語るのです。多くの人はこのような主の僕をあざ笑い罵りさえするでしょう。しかし、それでもなお人々の負えない苦難や担えない重荷を我が身に引き受けて歩む主の僕をイザヤは人々に伝えます。祖国に戻った多くの人が、イザヤが語る主の僕の姿を理解せず、受け入れず、更にはイザヤ自身も人々からバカにされ罵られることになっていきます。
イザヤは第53章4節で次のように言います。
「彼が担ったのは、私たちの病、
彼が負ったのは私たちの痛みであった。
しかし、私たしたちは思っていた。
彼は病に冒され、神に打たれて、苦められたのだと。」
何も見返りを求めず他の人の痛みや弱さを担ってくれる者、自分が傷つき痛み審かれる身となっても私たちの生まれ変わりを信じてくれる者、その結果裏切られても私たちの苦難を担ってくれる者、そのようなお方に出会いそのお方に生かされることで人は初めて心の底から新しい人となって生きることができるのです。そうでなければ、補囚からの解放の喜びも神殿再建の希望も一時的なものに過ぎず、本当に神との関係を強く深くしていくことにはならないのです。
イザヤがこのように「苦難の僕」を語っても、多くの人はイザヤの言葉に耳を貸すことはありませんでした。そしてその後500年以上この「苦難の僕」のことは殆ど顧みられなかったのです。
「第二イザヤ」の時代から560年ほど経った頃、一人の男がガリラヤのナザレに現れました。当時、イスラエルの国はローマに占領されており、イスラエルの民はローマ帝国の支配を覆す政治的指導者を待ち望み、例えばダビデのような政治的指導者としてのメシア(救い主)の姿を思い描いていました。
ナザレで育ったイエスは、この世に神の国の実現を望んでその働きのために尽くしますが、その働きは、弱く貧しい人々の重荷を負い、汚れた人と交わってその悲しみや苦しみを担うものでした。そのお働きは、当時のユダヤ教の指導者や上層部からは律法を守らず民族の一致や団結を乱す者として嫌われ、下層階級の支持を集める危険人物と見なされ、最後にはエルサレムで十字架につけられて、人々からも神からも見捨てられたかのように死んでいきました。
その後、この男(ナザレのイエス)の働きは、「第二イザヤ」が語った言葉によって意味づけられ、この男が何者であったのかが「苦難の僕」の光を浴びることによって鮮明に浮かび上がるのです。多くの人が、イエスの生涯は第二イザヤがかつて語った「苦難の僕」そのものであったことを理解し、このイエスこそ真の救い主であることの意味に気付き始めるのです。
主イエスがイザヤ書を詳しく理解していたかどうかは定かではありませんし、イエス自身がイザヤ書の言葉を引用して神の国を説いたのかどうかも明らかではありません。しかし、福音書の記者たち-とりわけマタイによる福音書-や使徒パウロは、イエスがどのような意味での神の子であり救い主であったのかを、イザヤ書の多くを引用しながら記しています。
主イエスはその生涯を通して、疲れた者、重荷を負う者を誰でもご自身の御許にお招きになり、その重荷を負って下さり、その人を十字架の死の先にまで招きながら共に生きてくださいました。
イザヤは主の僕を思い描いて第53書12節でこう言っています。
「彼が自分の命を死に至るまで注ぎだし、背く者の一人に数えられたからだ。多くの罪を担い、背く者のために執り成したのはこの人であった。」
主イエスは、私たちのために自らをなげうち、死んで、罪人の一人に数えられました。私たちの罪を背負って、神に背いた私たちのために主なる神に執り成してくださったのは、このイエスです。私たちの罪のすべてが主イエスによって担われ、私たちは主イエスによって神のみ前に執り成しを受けています。イザヤ書はこのように「苦難の僕」の観点から救い主イエスを預言していたのです。
主イエスが私たちの罪を担い、私たちを執り成し、私たちのために自らをなげうってくださった恵みを感謝し、この恵みに応えて神の愛に応えて生かされる者でありたいと願います。