2024年09月22日

最も小さい者と共にいるイエス  マルコによる福音書第9章30-37 

最も小さい者と共にいるイエス マルコによる福音書第9章30-37 (B年特定20)  2024.09.22


 私が神学生だった時、毎週「聖書内容試験」という小さな試験がありました。その試験で「次の言葉はいつ誰がどのような状況で言った言葉であるかを説明しなさい。」という形式での出題がありました。振り返ってみると、先生方は神学生たちに聖書を文脈を踏まえて読む事の大切さを教えようとしておられたのだと思います。

 そのような視点で、つまり脈絡を意識しながら、今日の聖書日課福音書の中で主イエスが弟子たちに語っている言葉に注目してみると、その言葉が大切な位置に置かれていることが分かってきます。

 マルコによる福音書第9章は、この福音書全体の節目(転換点)にあります。

 主イエスはこれまでガリラヤ地方を中心に神の国を宣べ伝え、神の子として多くの癒やしの働き、悪霊を追い出す働きなどの奇跡をなさいましたが、これからエルサレムに上っていこうとしておられます。その転換点に位置付けられるのがこの第9章です。

 転換点となる大切な出来事の一つは、第9章3節からの「主イエスの変容貌」の出来事であり、もう一つは第9章30節以下の「受難と復活を予告」なさったことです。

 更にマルコによる福音書の流れを第8章から見てみると、先主日の聖書日課福音書の箇所で、ペトロがイエスをメシア(救い主)であると信仰を言い表し、その告白を前提にして主イエスはご自分の受難による死と復活を予告なさいました。それに続いて第9章では主イエスの変容貌、そして第9章30節からの個所で主イエスがご自分の死と復活を再び予告しておられます。この一連の出来事の流れの中で、今日の聖書日課福音書の個所で、主イエスは弟子たちに天の国で最も偉い者とは最も小さい者の一人を受け入れる人であると教えておられるのです。

 主イエスがエルサレムに向かおうとする緊張感が高まってくる時に、弟子たちはまだその意味を理解できずに、自分なりの期待をイエスに寄せて胸を躍らせているその姿がはっきりと見えてきます。

 主イエスに付き纏うようにして監視する律法学者たちがいましたが、主イエスはこれまでそのような人々の質問にも完璧に答えてきたし論争にも負ける事はありませんでした。弟子たちはそのようなイエスを誇りに思っていたことでしょう。主イエスが受難と復活の予告をなさっても、弟子たちはその真意を理解できず、私たちの先生はエルサレムに上っていってもユダヤ教指導者たちとの論争に負けることなく、エルサレムで最高の教師になる日も近いと胸を躍らせていたことでしょう。弟子たちは「誰が一番偉いかと言い合っていた(9:34)」ことも、エルサレムに上っていったら誰が主イエスの側近の席が相応しいか、それぞれに「我こそはイエスの側近として上位に着くのに相応しい」と主張し合っていたということなのです。

 マルコによる福音書第9章では、主イエスと弟子たちとの間で、メシア(救い主)理解の大きな隔たりが示されています。

 そのような弟子たちに主イエスは「道で何を議論していたのか(9:30)。」とお尋ねになりますが、弟子たちは黙るしかありませんでした。弟子たちは自分たちの中にあった浮かれた思いを露わにされ、自分たちの思いや考えが主イエスの御心とは大きな隔たりがあることを教えられるのです。

 更に、マルコによる福音書第10章35節まで読み進めていくと、弟子のヤコブとヨハネが主イエスのところに進み出て、「あなたが天下を取ったら私たちをあなたの左右の座に着かせてください」と願い、それを知った他の弟子たちが憤慨したという記事があります。このように、弟子たちは主イエスに対してそれぞれが自分の期待や願いや欲望を寄せて、それが満たされることを求めているに過ぎず、受難と復活を告げる主イエスの事を全く理解できていませんでした。

 このような弟子たちを前にして、主イエスは座って十二弟子を呼び寄せておられます。主イエスがお座りになったのは、当時、ユダヤの教師が正式に教えを述べる時の姿勢です。ここで、主イエスが重要な事を弟子たちに教えようとしておられることが分かります。主イエスは、子どもの手を取り、彼らの真ん中に立たせ、その幼子を抱き寄せて言われました。

 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい(9:36)。」

 そして、その具体的な一例として、主イエスは一人の子どもを真ん中に立たせるのです。

 「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである(9:37)。」

 主イエスは、今、弟子たちの真ん中におられ、幼子を抱いておられます。弟子たちが主イエスに目を向けると、弟子たち主イエスと共にいる子どもが目に入ります。また、弟子たちが幼子に目を向けると、子どもと共におられる主イエスが自ずと弟子たちの目に入ります。主イエスと幼子は一体なのです。

 当時、幼い子は、現代の幼子のような扱いを受けていたわけではありません。現代では、幼子は純真無垢、汚れのない天使のようにも考えら、教育を受ける権利のある者と認められています。しかし、当時の幼子は、先ず第1に「無力」ということであり、まだ労働力として無価値な存在と考えられ、一日も早く大人の仕事を助ける働き手になることを求められる存在でした。

 しかし、主イエスは幼子を弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げて言いました。

 「私の名のためにこのような子どものひとりを受け入れる者は、私を受け入れるのである。」

 弱く小さな者を受け入れることは主イエスを受け入れることであり、主イエスを受け入れることは弱く小さな存在を受け入れることなのです。無力で小さな子どもを見れば同時にそこにおられる主イエスが目に入ります。また、主イエスを見ようとすれば、主イエスに抱かれた幼子も同時に目に入ります。しかも、無価値で働き手としては評価されない存在を受け入れることは、自分の中の弱く小さく醜い部分を受け入れることと深くつながっているのです。もし、自分の中の弱さ、小ささ、醜さを受け入れることが出来ないなら、他の人の中にある同じような弱さ、小ささ、醜さを見た時、やはりその人を受け入れることは難しいでしょう。そうであれば、どうしてそこからキリストの平和が生まれてくるでしょう。自分の中にある弱さ、小ささ、醜さ、貧しさが主イエスによって受け入れられ、たとえそのような私であっても主イエスに愛されていることを受け入れられる時、私たちは自分と同じように主イエスを通して神に愛され大切にされている弱く小さな存在を受け容れ、愛することが出来るようになり、その人と共におられる主イエスを見出すことが出来るようになるのです。自分の醜さや弱さを押し殺したり切り捨てたりしている人は、どうして他の人の弱さや醜さを受け入れそこに働く主イエスを見出すことが出来るでしょうか。

 このことは、今から2000年前の弟子たちに限った課題ではなく、いつの時代であっても人が主イエスに仕え主イエスに導かれようとする時に、主イエスから教えられることなのです。

 主イエスは最も小さい者と共におられ、最も小さく弱い者を通して働いておられます。私たちが弱く小さい人々に仕えることは主イエスに仕えることです。そうであれば、私たちが弱く小さな人々に仕えることは単なる義務や美徳なのではなく、私たちの救いに関わることなのです。

 主イエスは、無力で助けを必要としそれに恩返しすることなど出来ないような小さい存在を受け入れ、そのような存在に仕えることが主イエスにお仕えすることであると教えておられます。見返りなど全く期待できない弱く小さな存在に対しても、愛をもって仕えることが神の国を実現する道であることを主イエスは小さな子どもを抱き上げて示しました。そして主イエスは、その教えが真実である事をエルサレムでの十字架の死と復活を遂げることによって私たちにお示し下さったのです。

 エルサレムに向かう主イエスの歩みは、弟子たちが期待するような権力を手に入れる歩みではなく、弱く小さく貧しい人々に向かう歩みです。主イエスは権力や財力や政治力に拠ってではなく、弱く小さく貧しくなって神の御心を示してくださいました。

 私たちの弱さや小ささも、主イエスによって抱き上げられ受け容れられ、主イエスは「神に国はこのような者の国である」と言っておられます。その主イエスを信じて受け容れるとき、そこに天の国の姿が現れます。そして私たちが他の人の弱さや貧しさに出会う時、そこに働く主イエスにお仕えすることが出来るように育まれ導かれていきます。

 私たちの小ささ、弱さ、貧しさを知り、受け容れてくださり、愛の中に導いて下さる主イエスに従って参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 21:02| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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