「あなたは、メシアです」 マルコによる福音書第8章27-38 (B年特定19) 2024.09.15
今日の聖書日課福音書の初めの部分で、主イエスは弟子たちに二つの質問をしておられます。
一つは、第8章27節の「人々はわたしのことを何者だと言っているか」、もう一つは第8章29節の「それではあなたがたはわたしを何者だというのか」という質問です。
第一の質問に答えることは難しいことではありません。ただ情報として、周りの人々が主イエスのことを何と言っているかを答えれば済むことです。しかし、二つ目の質問に答えることには、少し大袈裟な表現になりますが、自分の存在をかけなければなりません。この二つ目の質問は、正しい知識や情報に基づく答を求められているのではなく、自分自身を開いて答えねばなりません。そして、その答によっては、誰か他の人が批判してきたり馬鹿にしてきたりすることもあるでしょう。自分自身をしっかりと表現することは意外と勇気のいることではないでしょうか。私たちも、自分の意見を述べる必要が生じた時、「みんなが言っていることですが・・・」とか「他の人たちも同じようにお考えのことと思いますが・・・」などとつい付け加えてしまうことがあるように思います。
弟子たちは、主イエスから「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と正面から問いかけられたとき、きっと自分の存在を問われるような思いになり、緊張感が走ったのではないかと想像します。また、ペトロが「あなたは、メシアです」と答えた時も、ペトロの心の中にもその緊張感が一層高まったと想像されます。
私たちも今日の聖書日課福音書を通して、主イエスから「それでは、あなたは私を何者だと言うのか」と問われています。この問いに私たちはどう答えるのでしょうか。
私たちが主イエスのこの問いに答えようとするとき、主イエスが私たちを正面から見据えておられます。私たちは自分の内面を含めた態度や生き方を明らかにされるのだと言えます。
ペトロもそうでした。ペトロは主イエスの問いに「あなたは、メシアです」と答えました。ペトロは、こう答えた時、きっと心の中が揺れたことでしょう。なぜなら、人の心の中には一言では言い表せない幾つもの思いがあるのです。思い切って自分の信仰を告白できた満足感もあれば、告白してしまった以上もう後には引けないという思いもあれば、そのように答えた自分の信仰は完璧なのだろうかという自分への問い返しもあれば、自分の応答をイエスはどのように受け止めておられるのだろうがという不安など、一瞬にしてペトロの心を駆け巡ったのではないでしょうか。
ペトロだけでなく、人の心はそのように時に揺らぎ、また、固まったり致します。そうであれば、私たちは主イエスの前に本当に完全な信仰を告白することなど出来るのでしょうか。完璧な信仰を持てない者が、「信仰を告白して良いのか」とさえ思う人もいるかも知れません。
もし、そうであれば、私たちは主イエスへの信仰を告白しない方が良いのでしょうか。また、ペトロはこの後主イエスがご自身の受難予告をなさったときにそれを受け入れられずに主イエスを諫め、そのことで厳しい言葉を受けています。また、主イエスが捕らえられる時にはイエスのことを見捨てて逃げたり、大祭司の館で問い詰められてイエスのことを「知らない」と言ってしまいます。そのようなペトロはこの時に「あなたはメシアです」と自分の信仰をいあらわさない方が良かったのでしょうか。
決してそうではありません。
ペトロも、私たちも、信仰を言い表すとは、主イエスと心の中で対話を重ねながら自分の本心を主イエスに向かって告白し続けていくことであり、主イエスと一層深く関わるプロセスを歩むことだと言えます。
今日の聖書日課福音書の箇所でも、このようなペトロの信仰告白を受けて、主イエスが弟子たちにお話しになることは更に深いこと、大切なことへと進んでいきます。この時にペトロが「あなたは、メシアです」とハッキリと信仰告白したからこそ、主イエスは更深い大切なことを話すことへと進んでいきます。
つまり、メシア(救い主)の本質は、今のペトロが理解している域を越えて、十字架につけられて死ぬことを通して与えられる復活にあると言うことを、主イエスはペトロに教えることができる状況になるのです。
私たちも同じです。どれほど主イエスについての知識を増し加えて正しく論評しても、またキリスト教の文化や習慣に好感を持っても、私たちは最終的には「あなたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに自分をかけて答え、答え続ける事を求められているのです。
この時ペトロは主イエスの問いに「あなたは、メシアです」と答えていますが、この時点でのペトロに信仰はとても完璧であったとは言えず、また主イエスを正しく理解していたわけではありませんでした。
私たちが「あなたはメシアです」と答えられるとしたら、ここに表現されているペトロのように、完全でもなければ時には逃げ出してしまうようなどうしようもなく情けない私のことさえも見捨てず、愛し抜いてくださる主イエスに対してお答えするのです。主イエスは、神の御心に立ち戻るように私たちを見捨てず、招き続けてくださる救い主であり、私たちはその主イエスに対して「あなたはメシアです」と信仰告白をするのです。
私たちが自分の信仰を言い表すのは、信仰が完璧になってからとか、イエスをもっとよく知ってからということによって可能になるのではなく、むしろ、私たちは、たとえ不完全であっても、日々その信仰を表明し続けることが大切であり、それによって、私たちはより深く信仰を練り上げていくことが出来るのでしょう。私たちはいつでも、その時、その場で、「あなたこそ救い主です」と答えながら主イエスに従っていくことを求められているのです。
ペトロの信仰は、きっと、「時にはイエスを否定し、呪いの言葉まで吐いてしまった私のような者のために、主イエスは救いの道を開いてくださったのだ。私の告白する救い主は、人の弱さの中に共にいてくださり痛み苦しんでくださり、十字架の上に死んで復活してくださったのだ。この私にとってあなた以外に救い主は居られません。」と言う信仰へと練り上げられていったことでしょう。
このように見てくると、漁師のペトロが召し出された時、主イエスに「私を何者だというのか」と問われた時、イエスのことなど知らないと言った時にイエスの眼差しを受けた時、復活のイエスに出会った時、聖霊降臨の時など、その時々にペトロの主イエスに対する信仰の告白があり、そのすべてのプロセスが主イエスがペトロを招き導いて下さる中にあったと言えるのです。
私たちの信仰告白も、主イエスのすべてを理解してからその資格が与えられるとか、かつてまだ聖書の知識が不十分なうちに信仰を言い表したことは無駄だったということではなく、その時々に主イエスに対して「あなたは、メシアです」とお応えしていくことが大切なのです。
ペトロの働きについては、使徒言行録の中にも記されていますが、晩年のペトロについて次のような逸話があります。
晩年のペトロはローマにおける宣教の指導的な働きを担いました。時は紀元60年代半ばで、皇帝ネロによるクリスチャンの迫害が強まっていた頃です。表だった宣教の働きが困難になり、仲間たちはペトロにローマを出て迫害を逃れるように願い、ペトロもそれに応じて、ある朝早くローマを背にしてアッピア街道を歩きます。ペトロは一人の人がローマに向かって歩いて来る姿を見るのですが、その人が近づいてくるとそれは甦りのイエスだと分かりました。ペトロは甦りのイエスに声をかけます。「主よ、どこへ行かれるのですか(「クオバディス、ドミネ」)。」
甦りの主イエスは答えます。「お前が迫害下のローマから逃れて私の民を捨てるなら、私はもう一度ローマへ行って十字架に架かろう。」
ペトロは喜んでローマに戻り、捕らえられ、殺されることになりますが、処刑される前にペトロはこう言ったのです。
「私はかつてイエス・キリストを裏切った者だから、イエス以上の苦しみを受けて当然だ。私は頭を下に足を上にした逆さ十字になって十字架につこう。」
このように処刑されたペトロを記念して、殉教跡にサンピエトロ礼拝堂が建てられました。
今日の聖書日課福音書の場面で、ペトロは一度きりの完璧な信仰告白をしたのではありません。ペトロは、弟子たちの代表的な役割をとり、主イエスの一番近くにおり、時に筋違いなことを言い、時に失敗して主イエスに叱られ、それでも主イエスに対する信仰を言い表しながら従っていった人であったと言えます。
私たちもペトロの信仰告白に合わせて「あなたは、メシアです」と主イエスに応え、その時々に信仰を告白し、主イエスの導きの内に日々の歩みを進めて参りましょう。 日々の生活の中で、主イエスを救い主とする信仰を表明していくことへと導かれますように。

