家畜小屋でのお生まれ
彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。 (ルカによる福音書第2章6~7節)
クリスマスを単なる年中行事とし過ごすのではなく、キリスト降誕の感謝と喜びを分かち合う時として過ごせるよう、クリスマスの意味を改めて確認しておきたいと思います。
イエスが生まれようとする頃、イスラエルを占領していたローマ皇帝より住民登録の勅令が発せられ、ヨセフは先祖の町ベツレヘムに行かなければなりません。身重のマリアを連れて旅をすることは楽なことではありませんでした。この二人が百数十㎞はなれたベツレヘムに着く頃には、町は人々で溢れ、どこにも宿を取ることができず、町外れの家畜小屋に体を横たえ、マリアはそこでイエスを生んだのでした。そこは、旅人がロバやラクダをつなぎ止めておく場所であり、今で言えば駐車所に相当するかもしれません。幼子イエスは、産着も産湯もない場所で、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされました。キリスト(救い主)は、貧しく小さなお姿を取って、普段は誰も見向きもしないような場所で、お生まれになりました。
この物語には、どのようなメッセージが含まれているのでしょう。この物語を私たちの心の中のこととして考えてみたいと思います。
誰の心の中にも、この物語の家畜小屋のように、貧しく、汚く、醜いところがあります。自分でも、自分のことなのに、目を向けたくなかったり触れずにやり過ごしたい部分であり、もし、それを他の人に開示することになれば、軽蔑されたり嫌われたりするのではないか、と思えてしまうことでしょう。そのような、わたしたちの心の中の密やかで目を背けたくなるような部分が「内なる家畜小屋」です。救い主イエスが宿ってくださるのは、厚かましく他人を虐げて自分の欲望を満たしていく心にではなく、心の片隅の自分でも受け入れがたい密やかなところに敢えて宿ってくださるのです。
私たちは、心配事や悩み事があるとき、そのことをきっかけにして深く自分の在り方を自分に問い直してみたり、考え直してみたりすることもできます。そのような時に、私たちの「内なる家畜小屋」に救い主が宿って、共にいてくださることを是非思い起こしていただきたいのです。救い主は、その心配事や悩み事の中から「私はあなたと共に生きるために、ここに宿った」と、言ってくださるはずです。いや、既にそう言っておられるのです。
子どもたちにとってもそうなのです。子どもたちはまだ「内なる家畜小屋」とか「心の密やかな部分」と言っても分からないかもしれませんが、救い主イエスは子どもたち一人ひとりの内にも宿ってくださいます。
救い主はいつでも「大丈夫。私が一緒にいます。神さまはそのままのあなたを認め、受け容れておられます。」と、私たちを受け容れ、共にいてくださるメッセージを送ってくださっています。
クリスマスおめでとうございます。家畜小屋でお生まれになった幼子イエスを迎え入れることができますように。