「共に生きることの難しさ」を生きる
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。( ローマの信徒への手紙 12 :15 )
今号の準備をしていると、かつてある研修会で講師の先生がお話しくださったことを思い出しました。それは「共に生きる」をテーマにしたある幼稚園の事例報告の話です。
運動会で、三位までに入ると、園の先生が折り紙とリボンで作ったメダルを授与する約束で競技をしました。その競技に入賞できなかったAちゃんが「メダルが欲しい」と泣き出しました。一緒に競技して入賞したB君が「それじゃ、ボクのメダルをAちゃんにあげる」と言い、先生は「ありがとう、B君。みんなもB君のように優しくなれると良いね。」と指導した、という事例でした。
講師の先生は、そのような保育は本当の優しさを育まないし「共に生きる」ことにはならない、と言っておられました。
私は講師の先生に共感しつつ、「それでは、本当の優しさを育むためにはどうすれば良いのだろうか」と幾度も自分に問いかけました。
上記の事例で、Aちゃんは何を学んだのでしょう。Aちゃんは入賞した他の園児とは違って、ルールにはない方法でメダルを手に入れたのです。B君に対する保育者の応答によって、メダルが表わす「入賞」の意味は一変してしまいました。一所懸命に競技してメダルを獲得した他の子どもたちはどんな思いになったでしょう。そもそも入賞メダルは必要なのか、という問題提起もありそうです。
保育者は、B君の「優しさ」を無駄にせず、Aちゃんがこの機会に学ぶべきことを学ぶために、B君やAちゃんにどのように関わることが相応しいのでしょう。この事例の、どうすれば良かったかということについての模範解答は無いのかもしれません。
優しさは、無節操に相手の要求を満たすことではありません。子どもの我が儘から筋の通らないことが起こった時、その子の要求を満たすのが優しさではありません。
私には、「Aちゃん、メダルが取れなくて残念だったね。とっても悔しいんだね。」とその気持ちに寄り添い、Aちゃんが自分の悔しさや残念さを自分自身でしっかりと受け容れられるように見守るほかないのではないか、或いはメダルを逃して泣くAちゃんと共に歩むことが必要ではないかと思い巡らせました。私たち大人は、Aちゃんがその悔しさをやがて生きる力にする時が来ることを信じて、関わり続けていくことが必要なのだと思います。また、B君にはどのような言葉をかけ、どのように見守ったら良いのかという課題も残ります。
共に生きることは、こちらもAちゃんとB君の課題やその重荷を背負うことになります。その重荷を共に担うことを避けては「共に生きる」ことなど語れないでしょう。でも、こうして共に生きることに子育ての基本と神髄があるのではないでしょうか。
私たちは、色々な意味で限界のある者ではありますが、子どもたちに「共に生きる」ことを教え、子どもたちと共に生きていく者です。明快な答などない課題を共に生きつつ、振り返ってみれば子どもたちがその中でいつの間にか成長していた、というのが実際の生活なのかもしれません。
その下支えをしてくださっているのが、神の愛です。主イエスさまが私たちと共に生きてくださることで、私たちは他の人と共に生きることが出来るのです。