2024年05月13日

大祭司主イエスの祈り  復活節第7主日(昇天後主日) ヨハネによる福音書第17章11-19

大祭司主イエスの祈り 復活節第7主日(昇天後主日) ヨハネによる福音書第171119  2024.05.12

 復活節第7主日は昇天後主日です。主イエスは十字架の上に殺されて三日目に甦り、40日に渡って弟子たちにお姿を現しましたが、甦りの日から40日目に弟子たちの前で天に昇って行かれました。

 教会暦に基づいて言えば、私たちは今、主イエスが天に昇って行かれた後、まだ天から聖霊を与えられていない10日間の中を過ごしています。この主日は昔から「待ち望み」の主日とも呼ばれおり、私たちはこの主日を、弟子たちと共に主イエスの再臨を待ち望みつつひたすら祈ることへと導かれる主日にしたいと思います。

 先ず主イエスの昇天について想像してみたいと思います。

 主イエスは、弟子たちを連れてエルサレム郊外の小高い山に来ました。

 両手を挙げて弟子たちを祝福し、そのまま天に昇って行かれました。主イエスが少しずつ昇に連れて、祝福する範囲も次第に広がっていきます。始めは11人と一緒に主イエスに従って来た女性たち、やがて主イエスの祝福はエルサレムから広がって死海からサマリアへ、更にガリラヤへ、地中海沿岸へ。やがて主イエスが天の父なる神の右の座にお着きになる頃には、主イエスの祝福は全世界を包みました。私たちは今もこの祝福の中に生かされています。

 初代教会より、教会は、復活された主イエスが天に昇っていかれ、また私たちのところに来てくださって、私たちを救いに導く働きを完成してくださると信じ、その信仰を継承してきました。私たちもその事をニケヤ信経の中で、主は「栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません」と信仰告白しています。

 初代教会の人たちばかりでなく、私たちも再び主イエスとお会いすることを待ち望みながら、主イエスの祝福の中で生きています。

 ことに教会暦で、主イエス昇天後の時を過ごす私たちは、天に昇って行かれた主イエスが、この世に生きる私たちのことをどのように思っていてくださり、天の主なる神にその思いをどのように取り次いでいて下さっているのかということについて思い巡らせてみたいと思うのです。

 そのような視点を持ちながら、今日の福音書に注目してみましょう。

 今日の福音書の部分を含めて、ヨハネによる福音書第17章全体は、主イエスが弟子たちと別れる前の晩(十字架にお架かりになる前の晩)に、熱い思いで天の父なる神に向かって祈っておられる箇所であり、「大祭司イエスの祈り」の箇所と呼ばれています。主イエスの地上での生涯が十字架の上で終わった後、弟子たちは目に見える主イエスのいない世界に生きていかなければなりません。その弟子たちのために、主イエスはご自身に迫る十字架の死を前に、血の汗を流すほどの思いで祈っておられます。

 祈りの内容に注目してみましょう。特に今日の聖書日課福音書の中で「○○して下さい」と祈願の文形になっている箇所を拾い上げてみましょう。

 主イエスは第1711節で「聖なる父よ、私に与えてくださったみ名によって彼らを守ってください。」と言って祈り、また17節で「真理の拠って、彼らを聖なる者としてください。」と祈っておられます。

 11節の言葉から、「み名によって守る」と言うことを考えてみましょう。

 私は小学校のある教室で授業をしています。授業の最中に私は、日直の生徒に「職員室に行ってチョークを2本もらってきてください」とお願いしました。生徒は「はい」と言って立ち上がり、教室を出て廊下を歩いて職員室に入ります。そして、その生徒は職員室で「小野寺先生からチョークを2本取ってくるように頼まれてきました。チョークを下さい」と言って、職員室で教頭先生からチョークを受け取り、教室に戻ります。

 この生徒が、授業時間中にもかかわらず教室を出て職員室に行くことや職員室でチョークを求めることは、「小野寺」の名によって行っていることであり、そうであるからこそ生徒は授業時間中に教室の外に出ることも職員室の教頭先生にも認められるのです。

 そして、もしこの生徒が疑われたり叱られそうになったら、この生徒は小野寺の名によって職員室に行くことを説明するでしょう。この生徒は小野寺の名によって守られねばならないし、小野寺にはこの生徒を職員室に行ってチョークを取ってくるように求めた責任があり、この生徒が小野寺に託されたことを忠実に行っているのであれば、小野寺先生は小野寺の名によってこの生徒を守る責任があるのです。

 このような教師と生徒との関係を例にしてみると、主イエスが弟子たちとの別れを前に「救い主イエスの名によって生きる者たちを守ってください」と祈っている思いとその祈りの意味が少し見えてくるのではないでしょうか。

 私たちは、天で祈っていてくださる主イエスの名によってこの世に遣わされて生きています。私たちは、この世の人々に誤解されることもあり辛く厳しくされることもあるかもしれません。でも、天上の主イエスは、私たちが主イエスの祈りに導かれ、力づけられて、本当のこと正しいことに向かって生きることが出来るように祈り続けていてくださるのです。

 主イエスは天に昇って、今も「聖なる父よ、私に与えてくださったみ名によって彼らを守ってください」と私たちのために祈っていてくださいます。

 神ではない色々な名が私たちを支配しようと攻撃してくる世にあって、私たちは「イエス・キリスト」という名によって守られるように、主イエスは私たちのために祈っていてくださっています。神と共に永遠の初めからあった真理が、イエスという具体的な人間の姿をとって人々の目に見える存在となってこの世に宿ってくださいました。私たちも主イエスの御名によって祈り、主なる神と心を通わせます。そのように祈る時、私たちはその名によって守られ、私たちは本当のことへ、正しいことへと生きていく力が与えられます。

 主イエスは、弟子たちとの別れを前にして、「イエス・キリスト」の名によって弟子たちを守ってくださいと祈られました。そして、私たちもこの御名によって祈るときに守られて一つになるようにと、主イエスは今も天にあって祈っていてくださいます。

 私たちがイエス・キリストの名によって一つになるということは、単に私たちの思考や行動の様式や発言の内容が画一的なることではありません。そうではなく、神の言葉を土台にして、いつも神の御心が何であり、真理を求めて生きていくということです。そして、その時、私たちはそれぞれにキリストに結び合わされ、神の大きな働きの中に一人ひとりが生きることへと導かれるのです。

 また、主イエスは、かつてご自身について「私は道であり、真理であり、命である」と言いました。その主イエスが、弟子たちのために「真理によって、彼らを聖なる者としてください(17:17)。」と祈って下さいました。

 主イエスのお姿を観ることができなくなった後も、主イエスに従う者は、時代を超えて天で祈っていて下さる主イエスに支えられ力を受けて、本当のこと、正しいことに向かって歩み続けることが出来るのです。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが弟子たちとの別れの前夜に苦悩の中で祈る場面の箇所です。弟子たちが主イエスを失う経験をすると、弟子たちを怯えさせたり神から弟子たちを引き離そうとする沢山の霊が弟子たちに迫り、また真理を貫くことより妥協させてたり真理から目を遠ざけさせようとする霊、自分ひとりに良い思いをさせようとする霊が働きかけてくることでしょう。

 主イエスは、十字架に架かる前の晩に、大祭司として献げたあの祈りの言葉によって今も天で祈っていて下さいます。

 私たちがイエス・キリストの名によって守られ、私たちも主イエスに導かれて、本当のことのために、正しいことを証しすることが出来るように、主イエスは天から私たちのためにいつも祈っていてくださいます。そして、そのしるしとして、神は私たちに助け主である聖霊をお与えくださると約束して下さいました。

 十字架の死を間近にした主イエスが弟子たちのために祈った祈りが、時を超えて、この世界を生きる私たちのためにも主なる神の右の座から祈られています。

 私たちは、今この時にも主イエスの祈りに支えられて、神とこの世界の間に立ち、主イエスに遣わされ、この世界の祈りを神に届け、神の御心をこの世界に知らせ、御心を実践していくのです。

 教会暦の一年の中で、ことにこの主日を、聖霊の力を待ち望みつつひたすら祈る時としていきましょう。その祈りを通して、主の御心を実践していく力を与えられたいと思います。大祭司主イエスが私たちのためにいつも祈っていてくださることを覚え、その祈りを感謝して生かされて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 12:06| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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