「家族語」という言葉は社会的に認められているわけではありませんが、私はこの「家族語」がとても大切なことを示唆しているのではないかと思っています。
「家族語」とは、その家族の中で特有な意味を持つ言葉のことで、単語の場合もセンテンスの場合もあります。
例えば、我が家では「ああ、重い、重い」という言葉がその一つです。
我が子が1歳半の頃のことだったでしょうか。言葉が出始めて少しお話しが出来るようになってきた我が子をおぶって玄関を出ようとした時、私の背中の我が子が「ああ、重い、重い」と言いました。私は、その言葉をそれまで何気なく使っていたこに気付きました。
振り返ってみれば、私は「大きくなって来たね。体重も増えたね。元気に育ってくれて、お父さんの私も嬉しいよ」という思いで、この言葉を使っていたのでしょう。我が子が、思いがけず私の背中のその言葉を発しました。それは、嬉しく、楽しい言葉であり、やがてこの言葉は我が家の「家族語」の一つになりました。
その後、子どもたちが私におんぶしてくる時、どちらからともなくこの言葉が出るようになり、スキンシップをする親子の楽しく大切な言葉になりました。
それだけでなく、家族の誰かが少し重い荷物を持つ時にもこの言葉が共有されるようになりました。子どもたちが少年野球の練習から帰る時など、自分のグローブやバットやシューズなどの用具だけではなくチームの用具も抱えて「ああ、重い、重い」。この言葉が出ると、私には我が子が初めてこの言葉を発した場面の嬉しく楽しい思いが甦り、子どもたちもこの言葉を口にすることで重い荷物を持つしんどさを和らげられ、かえってその楽しささえ味わっていたのではないかと思えるほどでした。
それぞれの家庭に、それぞれの「家族語」があることでしょう。家族の誰かが口にした一言や口癖が家族語になっていった例もあるでしょう。それは単語の場合もあれば短い文章の場合もあるでしょう。
さて、私たちにはこうした「家族の言葉」と共に「信仰家族の言葉」を共有しています。
かつて私の恩師は、イエスの言葉は旅先で買った風鈴のような一面があると話してくださいました。夫婦旅行から戻って、軒下に吊した風鈴が風に揺られてチリンとなると、楽しかった旅の記憶が甦り互いに「いいね」と言います。その「いいね」は風鈴の音が良いということではなく、その音と共に広がる過去と今とこれからの世界があるから「いいね」と言うのであり、イエスのみ言葉はまさにこの風鈴のように私たちに働いてくださるのだと恩師は説明してくださいました。
この風鈴の音の例は、私の中で「家族語」のイメージと重なります。そして、もう一つ勝手な造語を用いて言えば、私たちはクリスチャンとして「信仰家族語」を共有しているのです。「信仰家族語」こそイエスのみ言葉であり、またイエスのみ言葉こそ私たちの「信仰家族語」なのです。
私たちが豊かな「信仰家族語」-イエスの言葉-を共有できることは、嬉しいことであり大切なことです。
かつて日本に不法滞在する外国籍人の子どもたちの教育支援をする人の報告を聞いたことがあります。義務教育の対象にならない子どもたちが、いわゆる貧民街で過ごしています。彼らが受ける言葉は「○○野郎」「○生」「○ね」「○してやる!」など汚い言葉ばかりであり、子どもたちが覚えて口にするのは当然その種の言葉ばかり。そのような子どもたちと共に生きて、教育する必要を痛感したことがその活動の始まりだったとのこと。
パウロは「キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい(コロサイ3:16)」と言っていますが、私たちが豊かな言葉を他者と共有することは、私たちが生きていく上でとても大切なことであり、必要なことなのです。主日礼拝出席を励み、聖書のみ言葉を「信仰家族語」として受け、養われていきましょう。
子どもが言葉を発することが出来るようになるまでに、両親を始め周囲の人々はその子どもにどれ程多くの豊かな言葉をかけているのでしょう。種としての良い言葉が豊かに蒔かれることがなければ、子どもたちの中に「信仰家族語」は発根することも発芽することも、また、枝を伸ばすこともないでしょう。
私たちがみ言葉を共有して生きる基本は、まず私たちが聖書の言葉に養われ導かれることにあります。教会は「み言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても。それを続けなさい(Ⅱテモテ4:2)」という言葉に従って、み言葉を受け、養われ、伝える共同体なのです。