2024年05月05日

新しい掟-互いに愛し合う- ヨハネによる福音書15:9-17  復活節第6主日 

新しい掟-互いに愛し合う-   ヨハネによる福音書15:9-17 復活節第6主日 2024.05.05

 今年の復活日は331日でした。主イエスは甦った日から40日にわたって弟子たちにそのお姿を現し、甦りの日から40日経った日に天に昇って行かれました。今週の木曜日に昇天日を迎えます。今日は主イエス昇天の日の直前の主日、復活節第6主日です。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが捕らえられて十字架につけられることを弟子たちに告げ、別れの言葉(告別説教)を自ら弟子たちに語っておられる箇所から採りあげられています。

 主イエスはこの告別説教と長い祈り(17)の後、十字架に挙げられます。弟子たちは間もなく地上での主イエスを失うことになります。そして、主イエスが復活して40日が経つと、弟子たちは復活の主イエスとも親しく顔と顔を合わせた交わりを持つことがなくなろうとしています。

 その後、弟子たちは救い主イエスを信じて、その主イエス・キリストに導かれていくことになります。私たちも主イエスが天にお帰りになった後の時代を生きており、目には見えない主イエスを救い主として信じ、主イエスの御言葉に導かれて生きていく者である点では、使徒たちと同じです。今日の聖書日課福音書は、そのように生きていく者が立ち戻るべき信仰の原点を指し示している箇所と言えます。

 今日の聖書日課福音書で、主イエスは弟子たちに互いに愛し合うことを教えておられます。第1512節で「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」と言い、17節でもまた「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」と言っておられます。

 主イエスは、弟子たちに互いに愛し合うことを掟として与え、また命じておられますが、この「掟」と「命令」という言葉は、どちらも同じ意味の言葉が一つは名詞(eνtολη)でもう一つは動詞(eνteλλοµaι)で用いられていて、二つの言葉の意味に違いがあるわけではありません。

 聖書での「掟」について考えてみましょう。

 先ず、旧約聖書では「掟」、「戒め」という言葉が用いられている箇所を見てみると、旧約の「掟」、「戒め」、「命令」は殆どの場合神から与えられた律法の言葉を意味しています。

 例えば、主なる神はレビ記22:31で、イスラエルの民に向かって「あなたたちは私の戒めを忠実に守りなさ。私は主である。」と言っておられます。この「掟(戒め)」の中心は「十戒」です。イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から救い出されて荒れ野を放浪している時に、神がモーセを通してイスラエルの民に与えたのが「十戒」です。この「十戒」を核にして、その具体的な事柄を細かく定め、その細かな一語一句がイスラエルの民の生活の指針となり、生活の枠組みになっていきました。イスラエルの民はこの律法を守ることで神の御心から離れずに生きるように努めたのでした。

 しかし、こうした律法の言葉はそれが創られた精神を忘れると、その下位にある条文が独り歩きし始め、人間が自分の立場を守るために都合の良いように解釈したり他人を裁くための剣として用いたりするようにもなっていきます。例えば、イスラエルの民の中でも異国の人々と交わりを持たざるを得ない徴税人や律法の規程の枠の中で生活することの出来ないアウトローの人や病人などは、次第に社会から弾き出されて除け者にされるようになります。また、ユダヤのエリートたちはそのようにして意図的に階層社会をつくり自分たちを救われる者の側に置くことになっていきました。

 先週の説教でも触れたことですが、ことにヨハネによる福音書が編集された時代(起源90年頃)のイスラエルの民にとって、神との間に結ばれた契約を掟として守り通すことには特別な意味がありました。それは、ローマ帝国の支配下にあったイスラエルは、60年代の後半になると支配するローマ帝国に対する反乱を試み、ローマ政権はイスラエルの反乱を鎮圧するにあたり、エルサレムを徹底的に破壊して神殿も崩壊し、ユダヤ人は亡国の民になるのです。

 ユダヤ人たちはこれまでエルサレム神殿を民族一致の証として、そこで執り行う礼拝を大切にしてきました。しかし、神との交わりの場であり民の一致の場でもある神殿を失ったイスラエルの民は散らされていった各地で、それまで以上に「律法」による民族の一致を大切にするようになっていくのです。

 このユダヤ教徒の生き方は、イエスを救い主と信仰告白する人々(キリスト者)を二重の意味で苦しめました。

 一つは、キリスト者はユダヤ教の一分派と見なされていたため、ユダヤ人がローマに反抗することはクリスチャンもその立場にある者と見なされ、ローマから弾圧され迫害される対象になったこと。もう一つは伝統的なユダヤ教徒たちにとってキリスト者はユダヤ教の掟に忠実ではない者たちであると誤解され、キリスト者はユダヤ教徒たちからも迫害され、各地のユダヤ教徒の会堂(シナゴーグ)から追放されるのです。

 地上での生身のイエスが十字架に付けられて60年を経ようとする時代を生きるキリスト者にとって、主イエスを救い主であると信仰を公にして生きていくことは容易なことではありませんでした。こうした苦境の中で、初代のキリスト者たちが自分たちの信仰を確認し生きる勇気を奮い立たせたのは、主イエスが私たちを愛し、み言葉を通して私を生かしてくださっているという信仰でした。弟子たちはイエスのみ言葉と御糧によって時を超えて主イエスの愛の力を受け、イエスの御跡を踏んで生きる思いを新しくしていたのです。そのようキリスト者にとって一番中心になった御言葉が「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というみ言葉だったのです。

 ユダヤ教徒たちが異邦人を排除して民族として団結しようとする中で、キリスト者は、主イエスの「愛し合いなさい」という掟(教え)に倣い、人種や民族の枠を超え、迫害する者たちのためにも祈り、イスラエル民族の枠を超えて異邦人も含めて全ての人が神の大きな愛に生かされる者であることを信じ、意エスコを救い主であることを伝えていったのです。

 主イエスは、時を超えて私たちにも神の御心をこの世界に示していくことが出来るように、隣り人に愛をもって関わることを命じておられます。主イエスはその共同体に集う私たちをみ言葉と聖餐の聖なる交わりをとおして養い、導いてくださっています。

 私たちも、主イエスの体である教会の部分としてそれぞれの人が生かされています。主イエスの「互いに愛し合いなさい。」というみ言葉を受け、その内実を創っていくことができるように、毎主日の礼拝で御言葉を受け主イエスの体と血を受けて、養われ、ここから遣わされていく者です。

 たとえ私たち一人ひとりの力は小さくても、私たちは永遠の初めから永遠の終わりまで生きてお働きになる神の大きな歴史の中にあって、神に愛され、生かされています。私たちは、その神の大きな働きの中に受け入れら、その愛によって生かされています。16節にあるとおり、私たちが自分の力によって愛することが出来るのではなく、先ず主イエスが私たちを選び神の愛によって生かし導いて下さる事で初めて可能なことになるのです。

 私たちは、主イエスを通して先ず神に愛されている者であることを知り、その恵みに応え、例え小さな私たちでも神の愛の働きを行うことが出来るように、ここから遣わされていきましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 16:52| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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