復活日を「大笑いの日」と定める教会(地方?)があると聞いた記憶があります。その出典などはすっかり忘れましたが、今年の大斎節は、自分なりに主イエスの復活と笑いがどう結びつくのか考えながら過ごしました。そして、主イエスの復活は本当に「大笑い」の出来事であると自分なりの意味付けをして、一人で悦に入っております。
落語や漫才で、また私たちの生活の中で誰かがふと口にしたジョークで、笑いが起きる様子などから、人はどのような状況で笑うのかと考えてみました。
私たちは、嬉しい時、楽しい時、愉快な時などに笑うと思い込んでいますが、違う視点から言えば、自分の予想や期待を越えた出来事を経験した時に笑っているのではないでしょうか。笑いとは、自分の形成している概念(考えの内容と範囲)を越える経験(例えば意外なことが起きた経験)をして、これまでの自分の概念を崩され、新たな認識の枠をつくる過程で起こる反応と説明する人がいます。
19世紀の哲学者ショーペンハウエル(ドイツ)は笑いについて次のように述べています。
笑いが生じるのはいつでも、ある概念と、なんらかの点でこの概念を通じて考えられていた実在の客観との間に、とつぜんに不一致が知覚されるためにほかならず、笑いそのものがまさにこの不一致の表現なのである。
(意志と表象としての世界 第十三節)
格調の高い難解な表現ですが、身近な例を挙げて考えてみましょう。
ある落語の中の夫婦の会話です。
「あたしが右だって言ってるのに、どうしてお前さんは左に行くんだい?」
「おめえが左って言ったじゃないか!」
「言いやしないよ。あんたの耳が右と左とあべこべに付いてんじゃないのかい?」-笑-
私たちの考え(概念)の中に、左右を間違える原因に想定されていない新たな情報(左右の耳が逆に付いている)が突然に入ってきて、自分の考えとその情報の間に不一致が生じ、その可笑しさが笑いとなる、ということなのでしょう。
ただし、このような仕組みで起こる出来事がすべて質の良い笑いをもたらすのかというとそうではないように思えます。なぜなら、自分の概念に不一致をもたらすことすべてが可笑しいことではなく、不愉快で怒りや悲しみをもたらす場合もあるのです。
さて、主イエスの復活についてはどうでしょう。人間の罪が罪のない神の子イエスを十字架につけてしまいました。人間が罪の極みを自分で形に表してしまいました。人間は神の裁きを受ける以外に選択肢はありません。生前のイエスはそのことを幾度も教えて預言し警告しました。でも、誰もその言葉に聞き従わずイエスは十字架につけられました。
その十字架の姿に、ほんの少しの人が「この人はまことに神の子だった」と気づきました。でも、弟子たちをはじめ多くの人は、イエスの十字架に神の救いの姿が現れていることに気付きませんでした。
主イエスの復活は、弟子たちやガリラヤから付いてきた女性たちも、これまでの自分の考えの範囲を越える出来事でした。
しかもその復活が示しているのは、「神はあなたがたを少しも恨んでも責めてもいない。あなたがたは神としっかりと繋がっており、あなたがたの罪は赦され、あなたがたは神に愛されている。」というメッセージです。
これはもう、腹の底から笑ってしまう出来事です。抑えようとしても抑えきれず、笑いがマグマのように突き上げて来るメッセージです。イエスの復活は、人の通常の考えを超えた「突然に不一致が知覚される」出来事であり、笑わずにはいられません。
私は、「知覚のズレ」が他者と共有されることで笑いが更に大きくなるように思います。
例えば、漫才の場合、ボケる人が「知覚のズレ」を起こしツッコミを入れる人が「そんなアホな」と反応することでその「知覚のズレ」の可笑しさをその場の人々が分け合う時、笑いは一層大きくなるのです。
さあ、私たちは復活の喜びをみんなで分かち合いましょう。
この笑いの要素はイエスご自身も予告されていたのに、誰も予想できませんでした。そして、イエスの十字架の悲劇が起こりました。しかし、神はそれを復活の喜びに変えてしまったのです。この奇跡は人に「そんなアホな!」と言わせ、腹の底からの笑いを起こさせ、「いいえ、ホントのことなのですよ」と続いていきます。
一方、人を蔑み、嘲り、否定するところにも笑いは生まれます。イエスを十字架につけた時、権力者たちはニンマリとしたことでしょう。それは、常識を越えない、常識以下の低次元の笑いです。それは悪魔の笑いと言えるかもしれません。
イエス復活の笑いは、神が人の常識(概念)を打ち破って働いて下さったことによる大笑いを引き起こし、その感謝と賛美は絶えないのです。