2024年02月25日

イエスの受難予告とペトロ  マルコによる福音書8章31-38  大斎節第2主日  2024.02.25

イエスの受難予告とペトロ   マルコによる福音書8章3138  大斎節第2主日  2024.02.25


 今日の聖書日課福音書の中で、主イエスはご自分の受難と死そして復活について予告なさいました。主イエスはその予告を通して、弟子たちがどのように主イエスに従っていくべきかを教えておられます。私たちもこのみ言葉から、どのように主イエスに従っていくべきかを教えられ導きを受けましょう。

 私たちが今日の聖書日課福音書の箇所を理解しようとするとき、マルコによる福音書全体の中でのこの箇所の位置、また前後関係を踏まえておくことが大切でしょう。特に、この箇所の直ぐ前で、ペトロが主イエスへの信仰を表明していますが、そのことを踏まえて今日の箇所を理解すべきであることを心に留めておきたいのです。

 今日の聖書日課福音書の直ぐ前の箇所を確認しておきましょう。

 主イエスは、第829節で、弟子たちに「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになり、ペトロがそれに応えて「あなたはメシア(救い主)です」と言いました。ペトロのこの答は、その時の本当の思いを述べており、嘘や偽りはありません。しかし、この時のペトロは主イエスについての理解はまだ不完全であり不十分でした。この時点でペトロが思い描く救い主と主イエスがこれからたどろうとする神の子メシアとしての歩みの間には、大きな隔たりがありました。

 ペトロがこれまでガリラヤ地方で見てきた主イエスは、目の見えない人や耳の聞こえない人を癒し、飢え乾く多くの群衆に命のパンを与えて飽き足らせ、重い皮膚病(規程の病)の人を清め、ファリサイ派の人々との議論にも負けずに神の国の訪れを示していました。ペトロはその主イエスの弟子として、イエスに自分を委ねることの出来る幸いさえ感じていたことでしょう。ペトロには、これから主イエスがエルサレムに上っていって、そこで十字架刑に処せられると言い出すことなど思いもよらなかったのです。ペトロにとって自分がイエスと一緒にいられることは誇りであり、これからの人生を考えると、ペトロはこの救い主と一緒にいることで自分の前途も開けてくるだろうし、そうであれば舟も網も捨てて主イエスに従って来たことにも十分な意味があったとも思えたことでしょう。

 自分の願いを叶えるような期待をイエスに寄せていたのは、ペトロ一人ではありません。他の弟子たちも皆同様です。そして、主イエスはこのような期待を寄せる弟子たちに向かって、マルコのよる福音書第8章31節にあるように、ご自身の受難を予告なさったのでした。それは、弟子たちにとって思いもよらぬ言葉であり、ペトロは思わず「イエスさま、そんな話はやめて下さい」と言わずにいられませんでした。主イエスは、これからご自分が多くの苦しみを受けユダヤ教の指導者たちに排斥され、殺されることになっていると言われました。ペトロはその主イエスを脇にお連れして、「イエスさま、そんな事を言わないで下さい。あなたはこれからもっと活躍して、あなたが天下を取る時が来るのです。それによってあなたに従ってきた私たちも生かされるのです」と言おうとしたのでしょう。

 ペトロは、主イエスこそ真の救い主であると確信してはいますが、ペトロの理解するイエスと受難のことを予告するイエスとの間には大きな隔たりがありました。ペトロはその隔たりに気付かないまま、イエスが苦しんだり死んだりしてはいけないし、そうなるはずがないと信じて、主イエスを諫め始めたのです。

 主イエスは、ペトロの言葉の背後にある思いを見抜いて、ペトロをお叱りになりました。

 主イエスは、ペトロに「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言ってお叱りになりました。その言葉の前に主イエスは「サタン、引き下がれ(8:33)」とまで言っておられます。主イエスはペトロをとても強く叱っておられますが、この言葉に注目してみましょう。

 33節の「サタン、引き下がれ」という言葉を、聖書の元の言葉であるギリシャ語の言葉を直訳してみると、「行け、私のうしろに、サタンよ。」となります。英語訳では Go behind me,Satan! です。

 この場面で、主イエスはペトロをサタンだと決めつけて追放しようとしているのではなく、ペトロが主イエスの後からついてくることを前提として、主イエスがペトロに「私の後に下がりなさい」と言っておられるのです。ペトロに向けられた主イエスのこの言葉は、ペトロの人格まで否定しているのではありません。主イエスはペトロのことを「私の後ろに回って、私に従いなさい」と招いておられるのです。

 ペトロの中には主イエスに寄せる期待が膨らみ、イエスを誇りに思うペトロにはいつの間にか他の人々に対する優越感が膨らみ、これから主イエスと共に上っていけば人々の上に立って力を振るうことができるかのような思いが大きくなり始めていたのではないでしょうか。そしてペトロは、自分の信仰を表明したメシア(救い主)が苦しんだり殺されてはならないし、自分もまた苦しんだり殺されたりすることなどあり得ないという思いで、主イエスの受難予告を否定したくなったのでしょう。

 このペトロの期待とエルサレムに向かおうとする主イエスとの間には大きな隔たりがあります。ペトロは「あなたは生ける神の子メシアです」と信仰の告白をしましたが、その後すぐに叱られています。それではこのようなペトロの信仰告白は、無意味であり無駄だったのでしょうか。直前のペトロの信仰告白は無に帰してしまったのでしょうか。決してそうではありません。

 この後のペトロが主イエスに一層強く導かれていくためにも、ペトロの信仰告白は大切な節目でした。ペトロがそのように信仰告白をしたからこそ、イエスは弟子たちに受難の予告をしており、このようなプセスを経ながら、ペトロと主イエスの関係は更に深くなっていくのです。そうであるからこそ、イエスは信仰告白の出来るペトロたちにご自身の受難の予告をし、「私の後から自分の十字架を背負って私についてきなさい」と言う招きの言葉をお与えになるのです。

 私たちは、誰も初めから完璧な信仰をもっている者などいません。不完全な信仰の私たちには救い主を理解する仕方にも限界があります。そうであれば、私たちはなおさらペトロのように自分の信仰を主イエスの前にしっかりと表明して、主イエスの後を従っていく必要があるのです。

 私たちも、ペトロのように、主イエスに信仰の誤りを指摘され叱責されることもあります。それは、私たちが絶えず信仰の原点に立ち戻って、その自分を支えていただき受け入れていただきながら導かれる上で、大切な出来事なのです。そうして私たちは今の自分から更に気付きを与えられた自分になり、主なる神との関係を絶えず真実なものにしながら、私たちは信仰の歩みを進めていくのです。信仰告白するのは私たちが信仰を完成した後のことではありません。ペトロを思い起こしてみても、この後にもイエスに叱られ、ペトロは主イエスを裏切りながらも悔い改めて自分の信仰を幾度でも表明しなおし、生涯主イエスについていくのです。

 主イエスは、信仰の歩みを進めていく者を導くために「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言っておられます。このように考えると、「自分を捨てる」とは、決して自暴自棄になることではなく、自分の本心を押し殺して我慢してイエスに従うことでもなく、どこまでも主なる神の御心に自分を照らされて、神の御心を求めて生きることへと導かれ、神に示された自分の使命を忠実に全うすることへと導かれていくことであると言えます。

 私たちを導いて下さる主イエスに向かって、私たちも「あなたこそメシアです。私を生かしてくださる救い主です」と自分の信仰を表明し、絶えず自分を新たにされて、主にある新しい命に生かされるように歩んでいくことができますように。

 私たちの大斎節の信仰生活が御心によって導かれ、育まれ、主イエスの十字架の死と復活を心より感謝する復活日を迎えることができますように。

posted by 聖ルカ住人 at 15:36| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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