2024年01月22日

「四人の漁師の召し出し」

「四人の漁師の召し出し」  顕現後第3主日 マルコによる福音書1:1420    2024.01.21


 今日の聖書日課福音書は、主イエスがガリラヤ地方で宣教の働きを始められ、先ず、ガリラヤ湖畔で二組の漁師の兄弟を最初の弟子になさった物語の箇所が取り上げられています。

 主イエスの宣教の働きは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉で始まりました。

 神の国を実現するお働きの開始を宣言して、主イエスは人々に神の国を宣べ伝え、またご自身を通して神の国の姿を顕わす働きが開始されたのです。神の子主イエスによる新しい時代の幕開けです。

 主イエスがその最初になさったのが、ガリラヤ湖で漁をする二組の兄弟を弟子にすることでした。

 「私に付いてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」

 主イエスはこう言って、シモン(ペトロ)とアンデレを招き、続いてヤコブとヨハネを招きました。

 このように主イエスの最初の弟子が漁師だったことに着目してみましょう。

 旧約聖書の中にも「漁師」にはあるイメージがありました。例えば、エレミヤ書第1616節に次のような言葉があります。

 「今、私は多くの漁師を遣わし、漁師たちは彼らをすなどる-主の仰せ。」

 これは、神が主の民を苦難から解放する時を思い描いて預言者エレミヤが語る言葉です。

 また、エレミヤより100年近く古い時代になりますが、紀元前700年代の預言者アモスも次のように言っている箇所があります。アモス書第4章2節です。

 「あなたがたにその日が来る。あなたがたは鈎で引き上げられ、最後の者も釣り鈎で引き上げられる。」

 このように、旧約時代の預言者たちが抱いた「漁師」のイメージには神の国が来る時の招きと裁きのために働く者の姿がありました。

 このことを念頭に置きながら、今日の福音書の箇所をもう一度思い起こしてみると、主イエスが宣教の初めにガリラヤ湖の漁師を招いたことは、旧約聖書時代の預言者たちも待ち望んでいた「神の国の訪れ」「神の国の幕開け」の時が今ここに主イエスによってもたらされたことを意味していると理解できるのです。

 さて、漁師であったシモン(ペトロ)とその兄弟アンデレが召し出されたのは彼らがガリラヤ湖で網を打っている時でした。また、ヤコブとヨハネの兄弟が召し出されたのも、彼らが舟の中で網の手入れをしている時でした。まさに、生活の真っ只中で彼らは召し出され、直ぐに主イエスに従っていったのでした。

 私たちはこのようにして主イエスに従っていった弟子たちに何を思い、何を感じるでしょうか。主イエスに従っていった彼らは残された道具の始末もせず、家族をかえりみない身勝手な者たちなのでしょうか。あるいは、彼らが直ぐに従っていく事は軽率なことなのでしょうか。

 シモン(ペトロ)やアンデレ、ヤコブやヨハネの側にも主イエスの招きに応えるときの様々な思いや言い分があったことも想像できます。でも、福音記者マルコは、弟子たちのそのような個人的な思いや心情には一切触れず、ただ主イエスが招き漁師たちがその招きに従ったことだけを簡潔に記しています。

 実は、私たちもこの弟子たちのように主に招かれて教会に連なる者とされているのではないでしょうか。

 もし私たちが、あなたはなぜクリスチャンなのかと問われたら、それぞれに語り尽くせない経緯があり、言葉では説明できない思いがあることでしょう。でも、私たちが「あなたはなぜ主イエスに従って生きるのか」という問いに答えられるとすれば、その答はただ一つ、「私は主に呼ばれそれに従った」ということだけであり、それで十分なのではないでしょうか。教会に行こうとするきっかけや主イエスを知って信仰を得るにいたる動機が他にあったとしても、それはあくまできっかけや動機であって、そのきっかけや動機を今から振り返ってみれば、それは神の招きに相応しからぬ意図や下心であったということだってあり得るのです。

 そうであっても、神はそのような私たちの思いや考えに働きかけ、信仰の恵みに導いてくださっています。

 それぞれの弟子たちもそれぞれの思いや期待を持ってイエスに従った事でしょう。でもその中心にあったのは、主イエスが「私についてきなさい」と招き、漁師たちがそれに従ったということであり、福音記者マルコはその「信仰の骨格」を的確かつ簡潔に伝えていることを伝えていることを学びたいのです。

 その意味で、この「四人の漁師を弟子にする」物語は、昔のガリラヤ湖畔の物語であることを超えて、私たち一人ひとりが主の招きを受ける物語であり、主の召し出しにどう応えるのかという問いかけが含まれていることを心に留めたいと思うのです。もっと言えば、この弟子たちの招きの物語によって、私たちは主イエスの招きに従うのか拒むのか、自分に向けられた主イエスの「私に付いてきなさい」という言葉に私たち一人ひとりがどうお答えするのかを問われているのです。

 そして、主イエスがガリラヤ湖畔で漁師を召し出したことが神の国実現の働き人の召し出しであるように、私たちが主イエスの招きに応えることが神の国を実現する主イエスの恵みの中に生かされることを覚えたいと思うのです。

 私たちが「主イエスの招きを受けて今ここに生かされているのだ」と信じて自分の生活の場に立つことは、それを意識しないで漫然とその場にいることに比べて、人生の質が全く違うものになるでしょう。

 主の招きに応えることは、自分が立派な人間になってからとか、イエスの教えを全て正しく理解してから等と言って出来ることではありません。神の招きに応えること無しに学ぶ教義は空しい机上の空論に過ぎません。逆に聖書を学ぶことがただの理屈にしか思えないなら、それは自分が主の招きに応えて歩もうとする思いが足りないからなのではないでしょうか。主は私たちの立派な応答を求めておられるのではありません。ペトロやアンデレがそうであったように、私たちが飾りもせず、鎧もまとわないそのままの自分が主なる神の招きに応えて歩み始めることを求めておられるのです。

 主イエスは宣教の初めにこう宣言なさいました。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 主イエスによって、既に救いの時は満ち、神の国は近づきました。主イエスは、ガリラヤ湖で、漁師の生活の真っ直中に入り込んで最初の弟子たちを召し出したように、私たちの生活の直中で私たち一人ひとりに「私についてきなさい。人間を取る漁師にしよう」と言っておられます。

 私たちが人間をとる漁師になることとは、特別に大それたことをすることではなく、私たちを通して「確かにこの人の中に主イエスが宿り、この人は主イエスの愛の力に導かれ養われて生きている」という事が証されることです。

 主なる神が私たちを選び召し出して下さったのですから、私たちは主の導きに応えて生きる私たちを持ち運んで下さいます。主イエスは、私たちの弱さと罪を担って、愛と赦しのしるしを十字架の上に示して下さいました。私たちが先ず主イエスの招きの御言葉に応える者でなくしてどうして他の人々を主の招きに結びつけることが出来るでしょう。人間を取る漁師として招かれ、育てられ、自分を通して神の国の姿を顕わす栄光にあずからせていただきましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 10:15| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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