心を動かす
「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録第3章6節)
標題の「心を動かす」という言葉は、保育の現場でしきりに用いられています。でも、私の心にはこの言葉がなかなか馴染みませんでした。なぜなら、私には「人の心を、物を右から左へ移動するように動かすことなどできない」と思えるからです。そして、「まして他人の心を操作してはいけないし、もし、できたとしてもそうすることは相手に失礼なことであり、不遜なことだ」とも考えるからです。それにもかかわらず、保育の中で、「心を動かす」などという言葉が盛んに用いられるのは、私たち人間の経験の原点に、この「心が動く」ということが欠かせないことだからなのではないでしょうか。
古代ギリシャには、ソクラテス、プラトンをはじめとして、後世に大きな影響を与えた哲学者たちがたくさんいますが、彼らには「驚きは、知ることの始まり」だったのです。これを違う言葉で言えば、それは自分から意図的に心を操作するということではなく、ある物事に強く心を動かされたり興味を持ったりすることが、その物事を更に探求したり思索を深めていくことの前提である、ということなのではないでしょうか。
そうであれば、子どもが夢中に遊ぶことや何かに感動して心が沸き立つことは、その後も意欲的に生きていくための大切な要因となると言えるでしょう。
心に感動がなければ、工作も器楽演奏もただの作業になってしまうでしょうし、体を動かす喜びがなければ体操は億劫な労働になってしまうでしょう。また、心の動きを文字や言葉にして表現しようという思いがなければ、文字や豊かな言葉を習得しようとする意欲も高まらないでしょう。
私は、「心を動かす」という言葉は、そのように子どもたちが何かに興味を持って行動へと促されていろいろとチャレンジしてみたくなる前提としての驚きや感動のことを意味しているのだと思えるようになりました。
やがて、小学生になると教科の勉強が始まりますが、勉強の前提となる物事への興味や関心、またそれに取り組んでいく中で新しい発見やその感動、つまり「心を動かす」ことがなかったら、せっかくの勉強もあまり実感のない机上の知識を積み上げることにしかならないでしょう。それではあまりにもったいないと思います。
幼児期は子どもがその後の生きる意欲を培う大切な時でもあり、それは言葉を替えればたくさん「心を動かす」時期でもあります。このように考えてみると、幼少期にたくさん遊び込むことの大切さが分かりますし、心を動かされたこと、つまり感動したことを素直に表現できるようになることの大切さも分かってきます。
子どもたちが熱中して遊び込み、心に深い感動を経験してくれるようにと願っています。そしてそのことを素直に表現できるように支援することにも心がけていきたいと思います。子どもと共に生きるわたしたち大人が、子どもたちの心の動きを共有する大切な存在であることを再認識して、子どもたちの感動をたくさん引き出し、分かち合えるように努めていきたいと思います。