終わりの時に マタイによる福音書25:31-46 降臨節前主日 2023.11.26
(2) 2023 年 11 月 26 日( A 年)降臨節前主日説教 小野寺司祭 - YouTube
今日は、教会暦で年間最後の主日です。この主日に採りあげられている聖書日課は、旧約、使徒書、福音書ともに「終わりの時」についてであり、特に福音書は神が「全ての民を裁く時」の様子について記しています。
「終わりの時」という事について、私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。
今ここでの一瞬一瞬が過去のものになっていって再び戻らないのであれば、今ここに過ぎていくこの瞬間がいつも「終わりの時」であると考えられます。私たちは、目の前の一瞬一瞬を神に導かれ、「御国が来ますように」と祈る思いをもって生きていくとき、私たちはその積み重ねによって最終的に主なる神の御許に迎え入れられるのではないかと、私は思うのです。
今日の聖書日課福音書は、マタイによる福音書25章31-46節までの箇所が取り上げられていますが、その後の第26章に入ると、主イエスが十字架にお架かりになる記述に入ります。その意味で、今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスが弟子たちと群衆にに教えを述べた言葉が纏められている箇所であり、第23章から25章までの結びの言葉(まとめの言葉)を語っておられる箇所であると言えます。
その箇所のまとめの言葉として、主イエスは次のように言っておられるのです。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
またそれと対をなす言葉として45節でこう言っておられます。
「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」
羊飼いの導きに従う羊とその教えを聞こうとしない野生の山羊に例えられる人々のうち、裁きの座で左側に置かれた山羊に例えられている人々のことに目を向けてみましょう。
彼らは44節で、「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、乾いたり、よその人であったり(旅をしたり)、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか」と言っています。この言葉の裏を返せば、彼らが「主よ、わたしたちは何時だってあなたにお仕えしてきたではありませんか」と言っているのです。山羊に例えられる人々は、自分はいつも、良いこと、正しいこと、神の御心に適うことをしてきたと思っているのです。しかし、それは律法の文言に照らして-とくに律法の細則である口伝律法に照らして-正しいことを行ってきたと言っているのです。
彼らは、律法の言葉を正しく実行する自分を救われる者の側に置いて、それを行えない人々を見下し、自分は主なる神に認められようとしてきたのでしょう。それは、目の前にいる飢え乾いた人や宿のない人のことを、自分が正しいことを行いに表して、そのように出来ている自分を勝ち誇るための道具として飢えた人、渇いた人、旅人などを利用するような生き方だと言えます。
彼らは、もし主なる神から「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」と言われれば、先ず自分の隣り人とは誰かを律法に照らして明らかにし、自分の隣人として愛すべきであると判断されればその人に関わることにして、その人が自分が律法を行う対象にする事が出来る人だから愛する、ということになるのです。しかしその対象外であれば、つまり徴税人や遊女をはじめ汚れた者とされる人たちに対しては、たとえ彼らが飢え渇き、旅に疲れ、裸や病気であったとしても、自分が善行を行う相手として相応しくないと決めつけて関わろうとはしない、ということなのです。彼らは、自分を高みに置くために他者を愛するのであり、愛する対象を限定し、自分の救いに役立つ相手である時にのみ、他人に関わっているのです。
主イエスは、ご自分の目の前にいる人が、飢え、乾き、旅に疲れ、裸や病気であれば、その人が民族や血筋の飢えて愛するに相応しいかと考えるのではなく、先ず自分が痛むほどの憐れみをその人に寄せて関わってこられました。そして、主イエスが十字架に向かおうとしておられるこの時に、弟子たちに教え求めておられるのも、先ず目の前にいる隣人を自分を愛するように愛する心なのです。
律法が愛せと言うからその範囲で自分を律法に当てはめて生きることは、神のお喜びになる生き方ではありません。主イエスは当時の律法で汚れた者とされて交わりを絶たれていた人々と交わりをもっておられますが、それば時に当時の律法の規定を犯して相手に関わる事にもなりました。主イエスはその事を口実に、ユダヤ教の指導者たちから律法を守らず神を侮辱する危険人物とされ、十字架の上に処刑されてしまうことになっていったのです。それでも主イエスは、目の前にいる飢えた人、乾いた人、旅に疲れた人、裸の人、病気の人などに関わりぬき、愛しぬき、その結果十字架に付けられ、その上からさえなお人々が神の御心に結ばれるように祈り続けてくださいました。
主なる神は、この主イエスの愛が私たちにも向けられている事を信じ、主イエスを救い主であることを受け入れて信じる心をもって、自分が愛されているように隣人を愛することを私たちに求めておられるのです。
自分が神に認められる事を真っ先に求めるのではなく、他の人に寄り添い、他の人を愛し、他の人に仕えるところにその人の救いがある事を、主イエスは「教え」の最後の言葉としておられます。
私たちは、こうした教えを自分の力で全う出来る者ではありません。しかし神はそのような私たちのことを、赦し、愛していてくださっています。私たちはその愛によって生かされている喜びと感謝を受け入れることが出来る時、私たちは他の人々もまた神の赦しと愛を必要としていることを知り、神の愛がその人たちにももたらされるように祈らないわけにはいかなくなるのです。そして、貧しい人々や弱い人々に対しても、その人々に神の愛が届くようにと関わらざるを得ないのです。
このような主イエスの生き方と教えは、イスラエル民族が神との契約である律法を守る事ことで救いに導かれると教えたユダヤ教の枠組みを越えて、世界の人々に救いと平和を与える教えとして広がってきたのです。
もし私たちが自分が救われる事だけを考えて他の人々を善い行いをする道具のように見なすとき、それは主イエスの目から見れば、私たちは羊飼いの前で左に分けられた山羊のような存在でしかないと言えます。私たちが、自分が利益や業績を上げるためにでなはく、自分が優越感を持つためでもなく、目の前の人に関わり仕えようとする歩みを踏み出していく時、私たちは神の御心に相応しく養われ、育てられていくのではないでしょうか。そのように生きる私たちを、主なる神は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言って、祝してくださるでしょう。
私たちは、神から「さあ、天地創造の時からあなたたちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言っていただく日を望みつつ、主イエスを通して与えられた神の愛に応えて、日々主の働きへと歩んで参りましょう。