2023年11月20日

賜物(タラントン)を活かす  マタイによる福音書25:14-15、19-29 (A年特定27)

賜物(タラントン)を活かす  マタイによる福音書2514-1519-29  (A年特定27)    2023.11.19


 最近は、テレビなどに出演する人がタレントと呼ばれる時代になりました。タレントとは元々特別な能力、才能を意味する言葉であり、その語源をたずねれば今日の福音書に出てくるタラントンというお金の重量に発した単位にさかのぼります。

 神からプレゼントされた自分の内なる財産である色々な才能も、また外なる財産である金銭や証券また不動産も、もともとは神から与えられたものです。そのタラントンや資源を神がお創りになったこの世界をよりよい状態に管理することが神の似姿に創られた人間の働きの根拠であり、タラントンは独りで抱え込むものではなく、神の御業と栄光のために用いるべきものなのです。神がこの世界はどのような姿であることを願っておられるのかを考えて、この世界に神の御心が実現することを願って用いられてこそ初めてそのタレントは本来の意味を持ち役立つことになります。

 今の日本の状況を振り返ってみると、所得の高さや所有する財産の大きさであたかもその人間の価値まで決まるかのような感が強まっているように思います。こうしたことを念頭に置きつつ、今日の聖書日課福音書から導きを受けたいと思います。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスが天の国についてお話しになった例えです。この箇所では、主人が長い旅に出かける時に、自分の僕たちにそれぞれの力に応じてタラントンを預けました。1タラントンは6000デナリオンであり、一年365日のうちの安息日52日を除くと、年間の労賃はほぼ300デナリオンということになります。一年間に300デナリオンの賃金を得るとすれば、1タラントンは6千デナリオンですから、おおざっぱに計算して1タラントンは約20年分の労賃の額であると言うことになります。

 ある主人が自分の財産を僕たちに預けて旅に出ました。僕はその力に応じて、ある者は5タラントン、ある者は2タラントン、ある者は1タラントン預けられました。かなりの日数が経って主人が戻ってきました。主人は僕たちを集めて「さあ、私が預けたタラントンをあなた方はどのように用いたのか、見せて貰おう。清算をしよう。」と言いました。

 5タラントンを預かった僕は、その5タラントンを元手に5タラントンを儲けて主人の前に10タラントンを差し出しました。2タラントン預かった僕も、その2タラントンを元手に2タラントンを儲けて4タラントンを差し出しました。主人はこの僕たちに「忠実な良い僕だ。お前は少しのものに忠実であったから多くのものを管理させよう。私と一緒に喜んでくれ。」と言いました。

 先ほどタラントンの価値について考えてみましたが、主人は5タラントンや2タラントンを「少しのもの」と言っています。これほど多額なタラントンを主人が「少しのもの」と言うのには、神がお与えくださる恵みそのものがいかに大きいかと言う福音記者マタイの思いが反映しているように思えます。このタラントンは、僕たちにとって、単に主人がいない間の生活費が与えられたのではなく、主人の良き働き人としてこのタラントンを生かすための資産を与えられた事を意味しているのです。

 1タラントン預かっていた僕は「ご主人様、あなたは厳しい人ですから、私は預かったタラントンをそのまま土の中に埋めて隠しておきました。これがそのお金です。そっくりそのままお返しします。」と言って1タラントンをそのまま主人に差し出しました。すると、主人は、「お前は怠け者の悪い僕だ。それならその1タラントンを取り上げて10タラントン持っている者に与えよう。」と言ったのでした。

 私たちは、神からそれぞれに生まれながら他の人とは取り替えることの出来ない特別なタラントン(才能、能力)を与えられています。そのタラントンは、お金や宝石ようにそのまま保管できるものではなく、「可能性」として与えられています。そのタラントンをどのように育て生かすかによって、タラントンは神の国の働きに役立つことにもなれば、ただ自分勝手な欲望を満たす道具にもなります。主イエスが弟子たちに語ったこの「タラントンの例え」は、生まれながらに与えられた自分の才能を生かして用いることを勧める例え話ではなく、神からそれぞれに与えられた恵みを感謝し、その恵みを神にお捧げすることによって天の国の姿を示すことを教えた例え話であると言えます。

 この恵みは神によって、時には人の目から見て不都合と思われることをとおしてさえ、豊かに働きます。

 二つの例を挙げてみようと思います。

 その一例として私が直ぐに思い出すのが目の見えない人が目の見える人を助けるボランティア活動のことです。

 イギリスの首都ロンドンは「霧の都」とも呼ばれ、町がしばしば濃い霧に包まれることで有名です。時には伸ばした自分の手の先が見えないほどの霧に町全体が包まれることもあります。劇場やホールでの音楽会などに人々が集まり、3時間ほどの会が終わると夜の町は冷えて濃い霧に包まれていることがあります。伸ばした自分の手さえ見えない程の霧に包まれて、人々が会場から出られなくなる時に、目の不自由な方がボランティアで活躍する例があります。普段は見えているはずの人が霧の濃い夜の町では一歩も歩くことが出来ないのですが、目の不自由な人がいわゆる健常者を自分の肩につかまらせて地下鉄の乗り場まで案内するのです。

 もう一つの例は、先日逝去されたSさんのことです。この方は、60歳になる前に脳出血で半身不随になりました。厳しいリハビリを経て職場に復帰され、健康な人であれば20分かからない通勤を片道2時間かけて勤めて社会貢献されました。Sさんのお連れ合いはSさんを「努力の人」と表現しておられ、私はその方の葬送式の説教の中でSさんの努力について次のように話しました。

 「努力すること」とは、聖書の脈絡に落とし込んで言い換えれば、「神から与えられた自分の命の賜物(神からプレゼントされた自分の命の可能性、潜在的な能力)を育み、目に見える姿にして、命の与え主である神にお応えすることである」と言えます。

 このような事例から考えてみると、神のお与えになるタラントンは多様であり、決して経済性や合理性などの一つの判断軸でタラントンを序列化して評価してはいけないことが分かるのです。そして私たちは、全てのタラントンが神の望んでおられる世界を実現するために用いられるように、招かれ、召し出され、遣わされていく者であることが分かります。

 私たちは、主なる神によって命を与えられこの世に生かされている事そのものが、神からの賜物(プレゼント)である事を確認しましょう。もし、神から与えられたその賜物を用いず、生かせず、不平や不満の中でそのタラントンを埋めてしまうとしたら、それは主なる神の目から見て、大きな損失であり、「天の国」からは離れた姿であると言えるのです。

 一人ひとりの命が神の前に輝き、人々にそれぞれに与えられているタラントンが生かされ、神の平和をつくりだす働きへと用いられるように祈り求め、お互いのタラントンが輝き出すように仕え合う教会共同体を創る思いと希望を新たにしたいと思います。

posted by 聖ルカ住人 at 05:35| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください