2023年11月14日

信頼すること、信頼されること (愛恩便り 2016年2月)

信頼すること、信頼されること

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書第20章29節)


 上記の言葉は主イエスが、甦りを信じられない弟子トマスに現れて、告げた言葉です。最初に他の弟子たちが復活した主イエスに出会った時、トマスはその場にいませんでした。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。その後トマスも他の弟子たちと一緒にいる時に、甦りの主イエスに出会うことができました。その時、イエスはトマスに上記の言葉を告げたのです。

 この言葉は、「信じる」ということの大切さを教えています。わたしは、「信じる」といことは子育ての中でもとても大切なことだと思います。

 かつて、わたしは次のような事例に出会いました。

 ある園児が登園しても落ち着かず、自分の家のことや母親のことをしきりに気にして、そわそわして家に帰りたがっています。次第に明らかになってきたのは、両親が子どもの前で激しい口論をして、母親はそのたびに実家に戻ってしまうということでした。子どもは小さな胸を痛め不安になっているようでした。子どもにすれば、母親を自分の眼で確認していないと、「またわたしを置いて、どこかへ行ってしまうのではないか。今度はもう戻ってこないのではないか。」と不安になり、いてもたってもいられなかったのでしょう。

これは、人間関係の中で、ことに幼い子どもと大人の間で、信頼関係がしっかり保たれることの大切さを思わされる事例です。わたしたち大人が、いつも子どもに信頼されるに足る存在になっていることがいかに大切であるかを学ぶことができるでしょう。

 「信じる」とは、現状を見ないでありもしないことを思い込むことではありません。「信じる」とは、目で見て確認しなくても本当のことや正しいことに基づいて、そこにしっかりと立てると言うことです。

 ある心理学者は、人が精神的に発達していく上で最初の課題となるのが「基本的信頼関係」を築くことであると言いました。人の成長には信じ合える関係が必要なのです。落ち着いた暖かい関係の中で、大人が子どもの存在を認め、受け入れ、支えていくところに、自分を信じ身近な他者を信じる力が生まれます。自分が自分であることに自信を持ち、その自分をしっかりと相手に関わらせていくベースには、「信じる」ことが必要不可欠なのです。

 そうであれば、私たちは、「子どもが信じる対象として自分はふさわしいか」と謙虚に自分に問い返し、そうなれるように努めることが求められます。

 わたしたちは、子どもの信頼の対象として全てのことが完璧ではありません。でも、まず神がそのようなわたしたちをも愛し、赦し、信頼してくださっていることを心に留めたいと思います。わたしたちも神に信頼されていることを基盤として子どもたちに関わり、信頼される大人となれるよう努めて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 19:24| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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