花婿キリストを迎える備え マタイによる福音書25:1~13 (特定27) 2023.11.12
今日の聖書日課福音書は、主イエスが「賢い5人のおとめと愚かな5人のおとめの例え」をなさった箇所です。
この箇所が「そこで、天の国は次のように例えられる。」という言葉で始まっているとおり、ここで主イエスはご自身の十字架が迫る中で、弟子たちに「天の国」について教えておられます。
主イエスは、マタイによる福音書第13章で、弟子たちを教育する中で「天の国」について色々な例えで(からし種やパン種に例えたり、畑に隠された宝や高価な一粒の神授などに例えて)教えておられますが、第25章では主イエスが二日後の過越祭の日になれば十字架につけられることを見通しておられる中で「天の国」について弟子たちに語っておられます。こちらは、主イエスが十字架で死んだ後に甦って天に昇り再び来られる時に成就する最終的な「天の国」について語っておられ、その時に全ての人が神の審判を受ける事になり、弟子たちはその時に訪れる「天の国」に備えるためにどのようにあるべきかを教えておられるのです。
今日の聖書日課福音書の箇所でも主イエスは例えを用いて語っておられ、ここでの例えは「花婿を迎える10人のおとめ」の話です。この箇所から導きと養いを受けるために、当時のイスラエルにおける結婚の習慣について思い起こしておきましょう。
イスラエルでは、通常では1年間以上の長い婚約期間を過ごし、その期間が過ぎて結婚式を行おうとするときには、花婿とその父親などの一行が花嫁を迎えに行き、両家の間の最終的な交渉の後に、花婿が花嫁を連れて行列をつくってその一行が花婿の家に戻ってきます。
花嫁を迎えに行った花婿の一行と花嫁の親族との間の会見(交渉)とは、万が一何らかの理由で結婚が解消される場合には花婿の側から花嫁と親族に対していくら支払われるべきか等についての交渉でした。これは、私たちにとってはあまりに商取引きに過ぎる印象を受けますが、花嫁の親族にしてみれば、この金額を上げるための交渉はこの娘(花嫁)がどれほど大切な人であるのかを花婿の側に示す愛情の表現でもあったのです。
こうした事も花婿が戻ってくるのを待つ人たちにとって、花嫁を連れた花婿の一行の到着がいつになるのか予想がつかない大きな要因であり、この例えのように、一行の到着が夜中や明け方になる事も珍しくありませんでした。そして、その一行が戻ってくると、小さな結婚の儀式の後に盛大な婚宴が催される事になり、それは通常1週間続きました。
主イエスは、花婿が花嫁を連れて戻ってくる一行を迎える「10人のおとめ」の例え話をなさり、灯火の油を用意している賢い5人と油の用意がないために花婿の到着に応じられない愚かな5人を対比して話しておられます。主イエスは、この例え話で、弟子たちに、再びこの世に来られる主イエス(再臨のキリスト)を迎える準備の出来ている人と出来ていない人を示し、復活の後に再びおいでになる主イエスを迎える準備を日々ぬかりなく、確かにするように教えておられます。
主イエスが再びおいでになる時がいつになるか分からないけれど、その時が何時になろうと、再臨のキリストを心を込めて迎える事ができるように、その準備を整えておくべきことを、主イエスは第25章13節で「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と教えておられるのです。
天に昇ったイエスを救い主として信じる人々は、その後次第に教会を建て上げていきますが、救い主イエスが再び来られる時を待ち望むようになり、主イエスを花婿にそして教会を花嫁に例えてその関係を理解するようになってきます。
つまり教会は、「天に昇った主イエスは花婿であり、イエスとの婚約状態の花嫁である教会に迎えに来て下さる。主なる神は独り子イエス自身を契約の保証既に支払っておられ、花婿を信じる人々の群れを、やがて迎えに来た花婿はキリスト者の群れを天の国における花嫁にしてくださり、完全な神の家族(天の国)を完成させてくださる。だから、教会はその時を待ち望みながらこの世で花婿キリストの花嫁になる者として相応しくなり、花婿であるキリストに迎えられるにその備えをしながら、花婿の来臨を待とう」と考えたのです。
主なる神の御心は、主イエスの生涯、十字架の死と復活、昇天によって既にハッキリと示されており、「天の国」の姿は主イエスによってハッキリとこの世界に示されています。主イエスが再びこの世界においでになる時に、この世界全体が神の御心によって支配され、花婿キリストを信じる者たちの群れはその花嫁とされ、それに相応しくない者は永遠の裁きの下に置かれると考えられたのです。
この思想は、私たちの信仰告白の言葉である「使徒信経」や「ニケヤ信経」にも反映しており、例えばニケヤ信経で私たちは「(主は)生きた人と死んだ人を裁くために再び来られます。その国は終わることがありません。」と唱え、再びおいでくださる主イエスにお会いするに相応しくその御心に生きる事を宣言しています。
主イエスが天にお帰りになった当初、弟子たちを始め第1世代の信仰者は「終わりの時(主イエス再臨の時)」は直ぐに来ると考えていましたが、時が経つにつれて、信仰者の中には「終わりの時」は来るのだろうかと思い始める人が出てきたり、なかなか来ない「終わりの時」に備えて生きることなど無意味ではないかと考える人も出てくるようになります。その様な時代の状況を背景にして、福音記者マタイはその時代の人々に主イエスの御言葉を思い起こさせ、「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時(つまり、この世の終わりの時であり神の御心の完成の日)を知らないのだから。」と伝えているのです。
私たち教会に集う者(花嫁となる者)は、迎えに来る花婿キリストがいつ来ても喜びと感謝をもって迎えるための備えをしておきたいのです。
そうであれば、わたしたちにとって「目を覚ましている事」、「油を用意している事」とは具体的に何であり、また何をする事なのでしょう。
マタイによる福音書では、「終わりの時」の備えとして私たちがどうすべきか、またどうあるべきかを、今日の聖書日課福音書の直ぐ次の箇所(その箇所が次週と次次週の聖餐式日課福音書の箇所)で教えておられます。その箇所で主イエスは、タラントンの例えで私たちが神から与えられたそれぞれの賜物を十分に生かして生きるべき事、更にその次の段落では最も小さい者の一人に仕えることは神に仕えることになる事を教えておられるのです。この二つの箇所を見るだけで、私たちにとって信仰的に「目を覚ましている」こととはどうすべき事なのかが自ずと分かってくるでしょう。
私たちは、それぞれの人が神から与えられた自分の人生を、自分に与えられた命の賜物(タラントン)を用いて神の御心に応えて生きることへと導かれ、また他の人もそう生きることが出来るように、小さい者や弱い者、傷ついた者や悲しむ者に仕えて生きるように促されており、そこに神の救いがあるのです。
神は私たち信仰者だけに特別に良い太陽や水や空気を与えて下さったり、信仰者だけを金銭的に豊かにして下さるわけではありません。この世での重荷を共に担い合い、この世の生涯を終える時まで、主なる神の導きの下に自分の使命を精一杯生きることこそ「終わりの時」に備えて「目を覚まして」いる者の生き方になると言えるのです。このような緊張感の中で絶えず御心を行う事へと励まされ、全ての結果を神に委ねて、主なる神の招きに応えてその歩みを踏み出していくことこそ来臨のキリストを迎えるのに相応しい生き方であると言えるのです。
主イエスは私たちが目を覚まし絶えず御心を行う生き方へと導かれるように、私たちを支え、励まし、促していてくださいます。
教会の暦では、あと3週間で一年が過ぎ、主イエスがこの世に来て下さったことを感謝して祝う期節に入ります。私たちは教会の暦と重ねて「終わりの時」を思い起こし、自分の信仰生活を新たにされ、主イエスと再びお会いするための備えを喜びと希望の内に進めて参りましょう。